入江紀美子は森川晋太郎の傍に最も長くいた女だ。 全帝都の人間は、彼女が森川家の三番目の晋樣のお気に入りだと知って、少しでも冒涜してはいけないと思っていた。 しかし、紀美子は自分が晋太郎の憧れの女性の代わりだと分かっていた。 彼がやっとその憧れを見つけた日には、彼女をゴミ同然に捨てた。 紀美子は全ての希望を失い腹の中の子と共に家出するを出ていくことを選んだ。 しかし男は選択を間違えた。まさか自分が十何年もかけて探していた憧れの女性が、すぐそばにいたなんて…
View More晋太郎は晴の父親の近くに歩み寄り、真剣な眼差しで花瓶を見つめた。「以前あなたが収集した骨董品より質は少し劣りますが、全体的には悪くないですね」「そうだね……」晴の父親はため息をついた。「どれだけ質が良くても、目に入らなければ人を喜ばせることはないものだ」晋太郎は晴の父親を見つめ、「田中さん、それは何か含みのある言い方ですが?」と尋ねた。晴の父親は手に持っていたブラシを置き、晋太郎にソファに座るように促した。そして壺を手に取って、晋太郎にお茶を注ぎながら言った。「晋太郎、今日わざわざ訪ねてきたのは、あの女の子のことだろう?」「そうです」晋太郎は率直に答えた。「晴は彼女のことが本当に好きなんです」「好きだという感情だけで、一生を共にできると思うのか?今はただの一時的な熱に過ぎない」晴の父親は冷静に言った。「田中さんは相手の家柄が気に入らないのか、それとも佳世子という人間自体が気に入らないのか、どちらでしょうか?」晋太郎は直球で聞いた。「晋太郎、君も知っている通り、俺は息子が一人しかいない。いずれ会社を継ぐのは彼だ。今、帝都のどの家族も俺たち三大家族を狙っている。この立場を少しでも失えば、元の地位に戻るのは容易ではない。だからこそ、晴には釣り合いの取れた相手を望んでいるんだ。すべては家族のためだ」「田中さんは晴の力を信じていないのですか?それに、二人が一緒にいられるかどうか信じていないのなら、むしろ自由にさせて、どれだけ続くのか見守ってみたらどうでしょう?もしかすると、あなたの言う通り、新鮮味が薄れれば自然と別れるかもしれません。おそらく、今反対すればするほど、彼らは反抗するでしょう。この世に反発心のない人なんていませんからね……」階下。晴と母親が少し離れたところに座っていた。彼女はずっと晴をにらんでいた。「何か私に言いたいことはないの?」晴は無視して、答える気はなかった。だが晴の母親はしつこく言い続けた。「どうしたの?昨日、あの女狐を叩いたことで、私を責めるつもり?」その言葉に晴は反応し、突然振り向いて母親を見て言った。「佳世子は女狐じゃない。最後にもう一度言っておく!」「じゃあどんな女だって言うの?!」彼女は声を高くした。「見てご
電源を入れた瞬間、多くのメッセージが届いた。すべて、翔太からのメッセージだった。静恵は一つ一つ確認した。「お前を救うのは問題ない。しかし、三つのことを約束しろ」「一、貞則が俺を陥れようとしている証拠(録音など)を必ず手に入れろ」「二、君は必ず執事を自分の味方につけろ。執事を抑えたら、貞則を倒す最大のチャンスが得られる」「三、貞則の計画と俺を狙うタイミングや方法を、先に必ず俺に教えてくれ。対応策を準備するためだ」メッセージを読み終わった静恵は急いで返信をした。「助けが必要だ!この携帯は絶対にバレてはいけないの。もし可能なら、貞則の書斎に録音機を隠すように手配して」一方、瑠美に無理やりジュースを飲まされていた翔太は、メッセージを見るや否やすぐに返信した。「任せてくれ。成功したら、メッセージを送る」翔太の返信を見て、静恵はほっと息をついた。これから、彼女は一人ずつ、地獄に突き落としてやるつもりだった!!……朝早く。晴はMKに呼ばれて、ぼんやりとした顔で社長室に入った。晋太郎がスーツを着ているのを見て、彼は困惑しながら尋ねた。「晋太郎、こんなに早く呼び出して一体何をするつもりなんだ?」「俺を連れてお前の親を説得したくないなら、帰れ」晋太郎は彼をちらりと見て言った。その言葉を聞いた晴は、目を大きく見開いた。「本当?本気で俺の両親を説得しに行くつもりか?」「同じことは二度言いたくない」「行こう!!」晴は興奮して言った。「今すぐ行こう!」車で、晴と晋太郎は後部座席に座っていた。「晋太郎、どうやって言うつもりだ?うちの母さんは話しにくいんだ」晴は落ち着かない様子で尋ねた。「なぜ君の母に言う必要がある?」晋太郎は冷たく言った。「君の父に頼むほうが容易いだろう」「君の言う通りだな……でも、父の方は希望がもっと少ない気がする」晴は少し考えてから答えた。「もしもう一言でも口答えするなら、今すぐ肇にUターンさせるぞ」晋太郎は袖口を直しながら言った。「わかった、わかった」晴はすぐに言った。「今は君がボスだ、君の言う通りにするよ!」「佳世子は今、何ヶ月目の妊娠だ?」晋太郎は尋ねた。「もうすぐ四ヶ月だ!」晴はこの話になると、顔に幸せ
「何で?バーとかで遊んでたから素行が悪いと決めつけるの?」「妊婦を殴るなんて、人間がやることか?」「自分の息子に聞かず、嫁に聞くのはどういうことだ?」「帝都の三大名門?笑わせんな!恥知らずにもほどがあるよ!」「Tycの女性社長っていい人だよね。きっと彼女の友達もあんな人間じゃないはず。私は彼女達を応援する!」「……」ネットユーザー達のコメントを読んで、入江紀美子はほっとした。そしてすぐ、田中晴が到着した。彼の他に、森川晋太郎と鈴木隆一も一緒に来た。紀美子達は現れた3人の男達を不思議な目で見た。5人はお互いを見つめるだけで、どこから話したらいいか分からなかった。晴は杉浦佳世子の前に来て、心配した様子で佳世子の顔を持ち上げ、泣きそうな声で尋ねた。「佳世子……まだ痛いのか?」佳世子は首を振って返事した。「ううん、もう大丈夫よ」「すまない」晴は悔しかった。「俺がちゃんと君を守れなかったから、母がちょっかいを出してきたんだ」佳世子は晴の手を握り、優しく微笑んだ。「分かってるよ、心配しないで、あんただって頑張ってるの分かってるから」2人の会話を聞き、不安を抱えていた紀美子はやっと安心できた。晋太郎は紀美子の傍に座り、口を開いた。「君は大丈夫だったか?」紀美子は首を振って答えた。「いいえ、ただ佳世子があんなことをされるのを見て、辛かった。しかし今の状況で、私はどうしようもないの」そう言って、紀美子は晋太郎達にお茶を注いだ。「君から見て、佳世子が田中家に嫁入りしたら、将来はどうなると思う?」晋太郎は紀美子を見て、いきなり聞いてきた。「将来がどうなろうと、佳世子がその子を産むと決めたなら私は親友として、無条件に彼女を支えるわ」紀美子の回答を聞いて、晋太郎は暫く躊躇った。そして、彼は頷いた。「分かった」その昼食の間、隆一はずっと複雑な気持ちだった。大親友の2人には自分の女がいるのに、自分だけ未だに一人だった。このままではいかん!自分の恋を探さなきゃ!金曜日。狛村静恵は退院して森川家旧宅に戻った。玄関に入ると、すぐボディーガード達に森川貞則の所に連れていかれた。書斎にて。貞則はお茶を飲んでいた。静恵が戻ってきたのを見て
「晴のせいじゃないわ!」杉浦佳世子は否定した。「もともと彼の母がそう言う人間なの。彼もきっと頑張ってくれてたはず!」そう言って、佳世子は入江紀美子の懐に飛び込み、力いっぱいに彼女を抱きしめた。彼女は紀美子の腹を擦って、悔しそうに言った。「紀美子、顔がめっちゃいたいんだけど、ちょっと腫れてないか見てくれる?」紀美子は笑いながら佳世子の顔を触った。「もうこんな時なのに、まだ顔のことを気にしてるの?本当に能天気だね」「だってきれいでいたいんだもん……それと、さっき私の肩を持ってくれてありがとう……」「何言ってるの?当たり前でしょ?親友だもの」家から出てきた田中晴は、憂鬱な気分で森川晋太郎の所を訪ねてきた。MK社・事務所にて。放心状態の晴がソファに横たわって、無力に天井を見つめていた。「またどうしたんだ?MKはお前のリハビリ施設か?」「母と喧嘩したんだ」晴は疲れた声で答えた。「佳世子のことでか、無理もない」晋太郎は淡々と言った。「無理もないだと?」晴は体を起こした。「そんな涼しい顔をしてないで、どうにかしてくれよ」「お前のプライドの問題を、何故俺が口を出さなきゃならないんだ?」晋太郎は手元の資料を読みながら、落ち着いた顔で言った。この時、事務所のドアが急に押し開かれ、鈴木隆一が焦った顔で入ってきた。「晋太郎!大変だ!佳世子が晴の母にぶん殴られたんだって!」「何だと?!」晴はすぐに立ち上がり、緊張して大きな声で聞いた。隆一は隣から聞こえてきた声に驚いた。「ちょっ、何でお前がここにいるんだ?」「俺がここにいちゃまずいのかよ?」晴は飛びついた。「一体どっからそんなことを聞いたんだ?」隆一は自分の携帯を晴に見せた。「ほら、ネットで話題になってるぞ!」晴は隆一から携帯を受け取り、動画を開き、自分の母が思い切り佳世子の顔にビンタを入れ、そして彼女を罵るのを見て、顔色が段々と悪くなってきた。彼は隆一の携帯を捨て、突風のように晋太郎の事務所を飛び出していった。晋太郎は絶句した。「お前ら、ここをどんな場所だとおもってやがる?井戸端か?!」しかし隆一は話を逸らした。「ところで、晴のやつはいつからいたんだ?あいつ、自分の母と喧嘩でもしにい
入江紀美子と杉浦佳世子はエレベーターに乗って1階に降りた。病院のビルから出る途端、急に現れた人影が彼女達の道を塞がった。2人が反応できていないうちに、その人が思い切り佳世子の顔を打った。驚いた紀美子は慌てて佳世子を自分の後ろに引き寄せた。そして、いきなり現れて佳世子を殴った晴の母を見て問い詰めた。「何をすんのよ?」「何してるのか、だと?」晴の母はあざ笑った。「君の友達がうちの息子に黙ってどんな破廉恥なことをやらかしたかを聞きたい?」晴の母は大きく尖り切った声で言った。彼女の声に惹きつけられ、周りの人達が皆面白そうに見学している。佳世子は妊娠しているため、ただでさえ情緒の制御が容易でなかった。そんな彼女が顔を打たれた挙句に酷い言葉で罵られたことにより、怒りが一瞬で爆発した。佳世子は紀美子を押しのけ、晴の母に向かって叫んだ。「あんたに私を殴る資格などあるの?」「あなたのような破廉恥な女、殴られて当然よ!他の人との子供を作って、その責任をうちの息子に擦り付けた!晴は、決してそんなことを甘んじて受けるようなことはしない!」「私が他の人と子供を作ったですって?」佳世子は彼女が何を言っているかさっぱり分からなかった。「何の証拠もなしに人を侮辱するんじゃないよ!」「よくバーとか行ってたじゃない?」晴の母が佳世子に問い詰めた。「そこで他の人としたんじゃないの?」佳世子が反論しようとすると、紀美子に再度横から打ち切られた。「佳世子、こんな判断力のない人と喧嘩しても無駄だよ、行こう!」紀美子は佳世子を引っ張って離れようとしたが、晴の母もついてきて、絶えず佳世子を罵り続けた。佳世子は晴の母を殴り返したくて仕方なかったが、紀美子にきつく腕を掴まれていた。駐車場に着くと、紀美子は佳世子を車に押し込み、振り向いて晴の母に向かって言った。「その話は誰から聞いたのか知らないけど、佳世子はそんな人間ではないとはっきり言っておくわ!」「フン、あなたはあのビッチの友達だから、彼女の肩を持つに決まってるじゃない!」「あんた『ビッチ』何て口にしてるけど、それでも名門のつもりなの?教養のかけらもないわ!」紀美子はそう言いながら、晴の母に一歩近づいた。「さっきの喧嘩は恐らく沢山
連絡先を登録して、加藤藍子はコーヒーも飲まずに帰った。狛村静恵は彼女の後ろ姿を見て、考えをめぐらせた。杉浦佳世子のような人の窮状に付け込むようなヤツは、痛めつけないと怒りは鎮まらない。しかも彼女は入江紀美子の一番の親友である。佳世子が報復を受けると、紀美子もそれなりのダメージを受けるだろう!紀美子が自分から全てを奪った以上、彼女に遠慮する必要はない!静恵は急に一つの佳世子への報復の策略を思い浮かべた。健康診断を終え、藍子は田中家に向かった。彼女が玄関に入ると、顔に怒りを帯びて飛び出そうとする田中晴に遭った。二人はぶつかりそうになり、藍子は慌てて口を開いた。「晴兄ちゃん?どうしたの、顔色がすごく悪いけど?」晴は彼女を見て、「何でもない、先に行くね!」と答えた。そう言って、晴は大きな歩幅で家を出て、車に乗り込むと猛スピードで去っていった。藍子は戸惑ったが、そのまま別荘に入った。リビングでは、晴の母が大きくため息をついていた。藍子は彼女の傍に座り、心配そうに尋ねた。「叔母様、また晴兄ちゃんと喧嘩したの?」晴の母は急に目元が赤く染め、藍子の手を掴んだ。「藍ちゃん、晴がもう完全にあの人たらしに取り憑かれてしまったわ!」「どういうこと?」「晴はどうしてもあのビッチと結婚したいと!止めようとしても無駄だと言っているわ!」藍子はため息をついた。「叔母様、佳世子が晴兄ちゃんとの子供を授かったこと、知ってる?」「何だと?!」藍子はもう一度言った。「私、さっき東恒病院で彼女と会ったけど、胎児検査を受けていたらしいわ。彼女は妊娠したみたい」晴の母は一瞬で顔が真っ青になった。「彼女はもう妊娠までしたのか?!」「そうなの」藍子は困った表情で答えた。「ただ、その子が一体晴兄ちゃんの子かどうか、分からないの」「どういう意味?」晴の母は焦って尋ねた。「私は裏でその人を調べたことがあるけど、彼女は以前よくバーとかで遊んでいたから、もしかすると他の人との子供ができた可能性があるわ。そして晴兄ちゃんと付き合い始めて……」「汚らわしい!」晴の母は思い切りソファの手すりを叩いて怒りを発散した。「息子にそんなとんでもない恥をかかせるなんて、絶対に許さないわ!」
入江紀美子は杉浦佳世子の手を握り、これ以上言わないでと示唆した。狛村静恵はこれほどまで苦しめられ、心理的にも傷ついているはずだ。紀美子は佳世子がこんな疫病神と関わってほしくなかった。「ちょっと紀美子、何手を握ってるの?こんな女を罵って何が悪い?あんたがこれまでどれくらい彼女に虐められてきたか、忘れたの?」困った紀美子は彼女を引っ張ってその場を離れようとした。「佳世子、彼女がどんな人か分かっているでしょ?何でこんな時に彼女を刺激するのよ」「何か問題でも?」佳世子はますます腹が立ってきた。「あんなヤツ、見てて気に入らないのよ。彼女があんな姿になったのは天罰に違いないわ!彼女がやってきたことは、地獄に落とされても当然のことよ!」「彼女に報復されるのが怖くないの?」紀美子はさらに佳世子を説得しようとした。「せめて、腹の中のあかちゃんのことを考えてよ」「私に指一本でも触れてみなさい?」佳世子はいきなり声のトーンを上げた。「もういいでしょ!」紀美子は真顔で彼女の話を横切った。「そろそろ検査を受けに行かない?」「私はあんたの為に声を上げてるのに!」「私の為に声を上げてくれるのは嬉しいけど、今一番心配してるのはあなたの健康よ!」紀美子はそう言い放つと、彼女を引っ張ってエレベーターに乗った。少し離れた所にいる静恵は、佳世子の話が全てはっきりと聞こえていた。彼女の眼底には一抹の残酷さが漂っており、砕けるほど歯を食いしばっていた。恨んではいるが、今の彼女にはそれ以上佳世子に構う気力が無かった。今の彼女は、生き伸びることで精一杯だった。毎日監視されている!静恵は振り向いて外の空気を吸いに行こうとすると、急に目の前に一人の女性が現れた。その人はハイヒールを履いていて、静恵を上から見下ろした。「杉浦佳世子を知ってる?」女性は口を開いた。「あんたは誰?」静恵は眉を寄せながら尋ねた。「差し支えなければ、二人で喫茶店でも行かない?」女性は笑みを見せながら提案してきた。「彼女について、ちょっと話したいことがあるの」静恵は暫くその女性を見つめてから頷いた。「分かったわ」入院病棟の地下1階の喫茶店にて。「何故私に彼女の話を?」コーヒーを頼み、静
「肇は見てはいけないものを見た」森川晋太郎は答えた。「小林さんは、ゆみのその道は険しいものになると言っていた」「私にはその道がどれほど険しいものになるか知らないけど、小林さんの話から、ゆみは将来、大変な道を歩むことになると感じた」入江紀美子はため息をついて言った。晋太郎はその話を続けようとしなかったが、小林さんが言った、ゆみがよく熱が出ることや、霊眼を開いたことを紀美子に教えた。それを聞いた紀美子は複雑な心境になった。暫く沈黙してから、紀美子は長く息を吐いた。「今私ができるのは、ゆみを支えることだけだわ」「そうだな」晋太郎は話題を変えた。「戻ってきた?」「うん、朔也が迎えに来てくれて、これから夜食にいくところ」「腹壊すなよ」晋太郎は注意した。それを聞いて、紀美子は吉田龍介のことを思い出した。「串焼きは別に汚くなんてないわ。ただ調味料をたくさん使うだけ。あなたも試してみたら?」「君はそんなものを滅多に食べないはずじゃないか?いつから変わったんだ?」晋太郎が眉を寄せながら聞いた。「……人の好みは変わるものなの」2人は暫く雑談をしてから、紀美子は電話を切った。携帯をしまおうして、彼女はとあることを思い出した。「あなたはもう運転しないと言ってなかった?」紀美子は朔也に聞いた。「君の為じゃなかったら、俺は運転したくなかった」朔也は無力に答えた。「ほら、今めっちゃゆっくり走ってんだろ?」紀美子は言われてメーターを確認すると、時速は40キロだった。「こんなスピードで走ったら日が暮れるわ、やっぱり私が運転しようか」翌日の朝。紀美子が会社に行こうとした時、杉浦佳世子から電話がかかってきた。「紀美子、今日午前中ちょっと付き合ってもらえるかな……」「何だか落ち込んでるに聞こえるけど、どうかしたの?」佳世子の声が変だと気づいて、紀美子は焦って尋ねた。「会ってから説明する」佳世子は答えた。「分かった、今からそちらに向かうわ」20分後。紀美子は佳世子が住んでいるマンションの下に来た。佳世子は車に乗り込んですぐ、紀美子の腕を掴んだ。「紀美子、私は今すごく落ち込んでいるの」「子供の状況が良くないの?」紀美子は心配して尋ねた。「違
小林さんが渡してきたものを見て、森川晋太郎は眉を寄せた。「何だ、これは?」「牛の涙じゃ」小林さんは答えた。「お主はゆみの話が信じられないんじゃろ?ならばこれを目に塗って、自分で確かめるといい。百聞は一見に如かず。」晋太郎は静かに聞くだけで、何の反応もしなかった。このようないい加減なものを、彼は断じて気軽に自分の目に塗ることはない。隣の杉本肇が、代わりに小林さんが渡してきた牛の涙を受け取った。「これを目に塗ればいいんだろ?」小林さんは頷いた。「あまりたくさん塗らなくてよい。なかなか手に入らない貴重なもんじゃから。」「分かった」肇はビンの栓を抜き、恐る恐る少量掌に出し、自分の目に塗った。「外に出ないといかん」小林さんは注意した。肇は言われた通りに部屋をでようとしたが、一歩踏み出した途端、急に玄関の辺りに青白い顔が見えてきた。それは60代くらいの女性の顔だった。彼女の額には目立つ大きな凹みがあり、その凹みからは絶えず血が出ていた。普段は怖いもの知らずの肇でさえ、急に現れてきたこの「人」に驚かされた。彼は無意識に数歩下がり、晋太郎にぶつかった。「おい、何のマネだ?」晋太郎が不満そうに聞いた。肇は慌てて視線を逸らしたが、体中の血液が逆流でもしそうに感じた。「し、晋様、玄関に……」「何が見えたかはっきり言え!」晋太郎はイラついてきた。「お婆さんがいる。額に傷口があるお婆さんが」入江ゆみが肇の代わりに答えた。晋太郎たちは目線をゆみに向けた。「ゆみよ、怖くないのか?」小林さんは微笑んで尋ねた。ゆみは首を振り、「怖くないよ……」と答えた。肇は慌ててゆみに続いて言った。「そう、身長が150センチくらいのお婆さんがいる!」「うん!」ゆみは続けて言った。「そのお婆さんは、小林さんの部屋にお守りがあるから、怖くて入れないんだって」肇の顔色は段々と悪くなった。「こ、小林さん、もうこんなの見たくない。どうすりゃいいんだ?」肇はこれ以上見ていたら、その場で気絶してしまいそうな気がした。あまりにも怖すぎる!「案ずるな、数分後に効果が切れるから」晋太郎はそれ以上何も言わなかった。もし、ゆみ一人だけがソレが見えていたのなら、彼は疑
帝都、サキュバスクラブ。その日は入江紀美子が名門大学を卒業する日だった。しかし家に帰って祝ってもらう余裕もなかった。実の父親に、200万円の値段で薬を飲まされクラブの汚いオヤジたちに売られた。うす暗い部屋からなんとか逃げ出したが、薬の効果が彼女の理性を悉く飲み込んでいった。廊下で、彼女の小さな頬が薄紅色になり、怯えながら迫ってきた男達を見つめた。「来ないで、私…警察を呼ぶから…」先頭に立つ男が口を開き黄ばんだ歯を見せながら、手に持っている鞭を揺らしながら彼女に近づいてきた。「いいだろう、好きなだけ呼ぶがいい。サツが来るのが先か、それともお前が俺達に弄られて昇天するのが先か」「べっぴんさんよ、心配するな、お兄さんたちがお前を気持ちよくさせてやるから…」紀美子は耳鳴りがしてきた。彼女は父が救いようのないろくでなしだと知っていた。大学に通っていたこの数年、彼女はずっとアルバイトで稼いだお金で生活していて、父からは一銭も貰わなかった。それなのに、まさか父が今、賭けの借金を返す為に娘を人に売ろうとしているとは!紀美子は逃げ出そうとするが、足が覚束なくなり、力が抜けていた。彼女は躓き床に倒れ、自分の身体を獲物同然に分けようとする人たちを目の前にして、どうしようもなかった。ちょうどその時、彼女の左前の部屋のドアが開かれた。黒色の手製の皮靴が彼女の目に映った。見上げると、男の真っ黒な瞳は冴え切った湖の如く、まるで魂を吸い取る冷たさをしていた。男を見て、彼女は少し安心した。彼女は男のズボンの裾を引っ張り、「お願い、助けて!この人たちに薬を飲まされたの!」と泣きながら助けを乞うた。男は眉を寄せ、視線は冷たく彼女を掠め、一瞬の不快を見せた。彼は身体を屈め、手を伸ばした。「助けてくださりありがとうございます…」紀美子は安心して手を伸ばそうとした。てっきり彼が自分を支えてくれると思ったその時。男は彼女の手を振り払い、自分のズボンを握っているもう一本の手を冷たく払った。この世界のトップ100の企業を牛耳るMKの社長として、森川晋太郎は決して上で動くような人ではなかった。「晋様!」彼の後ろに立つアシスタントの杉本肇は一枚のハンカチを渡してきた。晋太郎は冷たくそれを受け取り、強く紀美子に触ら...
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