第10話 写真の中の女

　もしかして彼女こそが森川晋太郎がずっと探している憧れの人だろうか？

いや、違う。

入江紀美子は晋太郎が、その女の子が彼を助けた後、急に消えていなくなったと言っていたのを覚えている。

大人になった彼女の顔は、晋太郎でも分からない。

明らかにこの写真の中の女性はその女の子ではない。

ならば彼女は一体だれだ？

紀美子は晋太郎の下で3年働いた。

女性について一回も聞いたことはない。

しかしこの写真を見る限り、その女性は彼の心の中ではかなりの地位を持っている。

紀美子は虚ろな目で写真を拾い、嫉妬の気持ちが沸いてきた。

彼女は自分がもう十分晋太郎のことを知っていると思っていた。

しかし今、彼女は自分が晋太郎のことを何も知らないことに気付いた。

彼女が知っていることは、すべて彼が自分に知ってもらいたいことだけだ。

彼の心の中にはいくら場所があっても、彼女に残すものは一つもない。

そうよね。

たかが愛人なのに、何を妄想しているのだろう。

使用人の松沢初江が箒を持ってきた頃、紀美子は既に気持ちの整理ができていた。

彼女は携帯電話を取り出し、絵のフレームを直すよう額縁屋に電話をかけた。

二時間後。

業者はフレームを修理し、絵を壁に掛けなおした。

そして業者は紀美子に、「お客様、フレームはこれで大丈夫でしょうか？」

紀美子は絵のフレームを暫くしっかりと見て、直してもらったものは前と殆ど同じなので、安心した。

「うん、これでいいです。いくらですか？」

「2万円になります」

紀美子は携帯を出して、「今スキャンして払います」

業者は請求用のQRコードを出して、紀美子に渡した。

しかし紀美子が暗証番号を入力したら、画面には残高不足のメッセージが表示された。

紀美子は一瞬思考が止まり、顔が真っ赤になった。

彼女は自分が今月の給料を母の世話係の業者の料金と、父の借金を払ったのを思い出した。

今この銀行口座にはもう1万円弱しか残っていなかった。

業者はこの時彼女を見上げた。

その目はまるで、「こんな豪邸に住んでいるのに、たった2万円の金も持ってないのか」と言っているようだ。

紀美子は恥ずかしく携帯を戻し、「少し待ってください。今現金を持ってきますから」

彼女は寝室に戻り、この金をどうすればいいかを悩んでいる時、ベッドの横のナイトテーブルに目線を落とした。

紀美子はテーブルの引き出しから、200万円の現金が入った封筒を取り出した。

この200万円は彼女が初めてジャルダン・デ・ヴァグに引っ越してきた夜、晋太郎がくれた生活費だった。

あの時の自分は潔く断ったが、まさか今はそれを使わざるを得なくなったとは。

紀美子は2万円を取り出し、書斎に戻り業者に渡した。

業者が帰った後、紀美子はもう一度書斎をしっかりとチェックした。

掃除し漏れたガラスの破片がないかもう一度確認した。

もう異様はないと確認できて、書斎を出ようとした時、不意に目線を晋太郎のあのカギがかかった引き出しに落とした。

その引き出しは晋太郎の禁忌だった。

紀美子が初めて引っ越した日から、彼に近づくなと警告されていた。

彼女はいつも彼の言う通りに、触るべきでないものは絶対に触らなかった。

しかし今日だけ好奇心に駆られ、無意識にその引き出しに近づこうとした。

紀美子は細い指先でかかっている銀でできたカギを持ち上げ、その小さくて精巧にできているボディを眺めた。

カギのボディには細かいラインで髪を長く伸ばした女性の横顔が描かれていた。

その女性の横顔を見ると、紀美子はふと壁にかけている絵を見上げた。

引き出しの中は全部あの写真の中の女性に関係するものだろうか？

紀美子が考えているうちに、書斎のドアが開けられた。

引き出しの前に立っている紀美子を見て、晋太郎の顔は非常に冷たかった。

「何をしている！」

晋太郎は冷気を帯びて紀美子の前にきた。黒ずくめのスーツを纏っている彼は、まるで修羅のようだった。

彼の冷たい目線は紀美子のまだカギに触れている手に落ちていて、一瞬で怒りの炎が黒く熱烈に燃え上がった。

晋太郎は紀美子の腕をきつく握りしめ、力強くで彼女の体を自分の前に引きずった。

「その引き出しを触るなとお前に警告しただろう！」

晋太郎の声がますます冷たくなった。「今度また同じことをしたら、その腕を切り落としてやるからな！」

「わざと触ったのではないです。ただ気になって……」紀美子は赤く染まった顔で説明した。

「お前にはそれが気になる資格があるのか？」

晋太郎はすぐに彼女の話を断ち切った。「入江、俺と何度かやったからって、やりたい放題できると思うなよ」

「俺にとって、お前はいつまで経ってもただの性欲発散の道具だ！出ていけ！」

晋太郎の怒りで歪んだ顔をみて、紀美子の体は震えが止まらなかった。

彼女は下の唇を噛みしめ、晋太郎を押しのけて書斎を飛び出した。

部屋に戻った。

壁に寄りかかると、涙が溢れてきた。

彼女は自分には泣く資格がないと分かっていた。

三年前、彼女が晋太郎の秘書となった日から、自分にはいつかこういう日が訪れると分かっていた。

翌日。

紀美子は疲れ切った体で目が覚めた。

昨夜は眠るまでずっと泣いていて、ジャルダン・デ・ヴァグに泊まっていた。

紀美子はシャワー室で体を洗い、きれいな服に着替えてから1階に降りた。

1階。

初江は既に朝飯を用意していた。

紀美子が降りてくるのをみて、初江は「入江さん、お目覚めですか？」と挨拶してきた。「どうそ、朝食はできています」

紀美子は頷いてテーブルの隣に座った。

テーブルの相手側の空いている席を見て、彼女は「社長はまだ降りてきていないの？」と聞いた。

初江は少し眉を寄せ答えた。「ご主人様は何かお急ぎの用事があるようで、朝一お出かけになりましたよ。朝ごはんも召し上がらずに」

紀美子は目を下げ、彼はまだ自分に怒っているから、一人で先に会社に行ったのだろうかと考えた。

朝ごはんを食べ終え、紀美子は相当歩いてやっとバス停に着き、バスで会社に向った。

30分後、彼女は会社のビルの下に着いた。

この時、携帯電話に一通のメールがきた。

紀美子は携帯電話を取り出して名前をみると、配達業者からのメッセージだった。

彼女は仕事が終わればすぐ病院に行き母の見舞いをするつもりだから、通販で栄養食品を注文して配達業者に会社まで送ってもらうと頼んでいた。

会社の配達物置場は裏出口の近くだった。

仕事が始まるまでまだ40分もあるので、紀美子はそのまま裏出口の方へ向かった。

10分後、紀美子は結構な数の配達物を抱えて会社に戻ろうとした。

振り返ると、数十メートル離れたと頃に、見慣れたメルセデス・マイバッハが止まっていた。

紀美子は軽く眉を寄せた。

あれは晋太郎の車だ。

しかし何故その車を会社の裏出口に停めたのだろう。

彼はいつも会社の正門から出入りしていたのに。

紀美子は戸惑って暫く眺めた。

近づいて様子を見ようとした時、アシスタントの森川肇が違う方向から車の傍に走ってきて、礼儀正しく車の後ろのドアを開いた。

そしてすぐ、冷たい顔をした晋太郎が白いドレスを着ている女性を抱えて現れ、大きな歩幅で車に乗り込んだ。

車のドアはポンと閉まった。

肇は運転席に座り、すぐに車を出した。

紀美子はボーっとその場に立ち尽くし、少し固まった。

先ほどあの女の顔は見えなかったが、紀美子は一目でその後ろ姿が誰か分かった。

それは昨夜の写真の中で、晋太郎と一緒に海辺にいた女性だった。