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第9話 ヨロイグサの花言葉

「私は何も間違っていません……」入江紀美子は瞳を揺らしながら、森川晋太郎を見つめた。

「謝れと言っているんだ!」晋太郎の怒りは冷たく顔に出ている。「入江、同じことを何回も言わせるな!」

紀美子は怒り狂った彼の前では、すべての不満を飲み込むしかなかった。

そうだ、今は狛村静恵こそが彼の憧れなのだ。

紀美子はただの代替品、いつでも捨てられる玩具だ。

自分のどうでもいい言い訳はその憧れの悔しさと比べれば、実に取るに足らない。

「ごめんなさい」胸の痛みを堪えながら、紀美子は頭を下げて、泣きながら謝った。

静恵は晋太郎の懐に埋めていた顔を上げ、「晋太郎さん、もう入江さんを責めるのはやめて、全部私が悪いの……」

晋太郎は愛しんで静恵を抱きしめ、「まだ彼女の為に言い訳を言ってるのか。もう帰ろう」

二人は抱きしめ合いながらその場を離れたが、紀美子の目の中の涙は堪えきれなかった。

涙が、彼女の目から勢いよくこぼれ落ちた。

……

夕方。

紀美子は仕事を終え、病院に向かった。

ちょうど塚本悟が病室の前で看護婦に何かを指示しているのを見た。

紀美子は近づき、悟に軽く頷いて病室に入ろうとすると、彼に止められた。

「紀美子、お母さんは化学療法を終えて今寝たばかりだ、入らない方がいい」

「塚本さん、母の化学療法はもう第五期ですが、今の状況はどうですか?」紀美子は立ち止まり、声を低くして悟に母の病状を確認した。

「大丈夫だ、早期発見してすぐに手術を施したから、予想より早く回復している」悟は紀美子を慰めた。

話を聞いた紀美子は少し安心してすぐにお金の心配に移った。「治療費口座の残高はまだ足りています?」

「昨日2000万円を入れたばかりじゃないか」悟は少し驚いて聞き返した。

紀美子は戸惑った。

自分は決して一気に2000万円を出せない。

あの人だったら、或いは…

紀美子は慌てて携帯電話を手に取り、杉本肇に電話をかけた。

「入江さん」

「森川社長に言われて母の治療費を払ってくれたの?」紀美子は杉本に確認を取った。

「はい。晋様に『黙っておけ』と言われましたが、実は昨日病院についてすぐにお母さんの口座に2000万円を入れました」肇は答えた。

その話を聞くと、紀美子は無意識に携帯電話を握りしめた。

暫く躊躇ったあと、彼女は晋太郎に電話をかけた。「社長、今どこですか?」

「要件を言え」晋太郎は冷たく返事した。

「あの2000万円は、必ず返しますから!」紀美子は揺るがずに言った。

それを聞いた晋太郎は、まるで何かおかしな話を聞いたかのように鼻を鳴らした。

「ジャルダン・デ・ヴァグに来い」

それだけ伝えて、晋太郎は電話を切った。

紀美子は携帯電話を握って暫く考え込んでから、病院を出た。

ジャルダン・デ・ヴァグ。

紀美子が別荘に入ると、晋太郎が雇った使用人の松沢初江が迎えてきた。

「入江さんですよね?ご主人様は書斎です」

「分かったわ。会いに行く」紀美子は新しく来た使用人を見て少し驚いた。

階段を上がり、紀美子は書斎の扉を開いて中に入った。

書斎の中は真っ暗だった。

紀美子は無意識に明かりをつけようとしたが、指がスイッチに触れようとした時、なじみのある気配が包んできた。

彼女は相手の両腕に腰を強く抱きしめられ、体が丸ごと暖かい懐に引きずり込まれた。

鼻先からずっしりとした雪松の香りが漂ってきて、紀美子はそれが晋太郎の匂いだと分かった。

そして体が抱き上げられ、晋太郎が彼女を抱えてソファに近づいていることを感じた。

「社長!」紀美子は慌てて晋太郎から抜け出そうとした。「今日はお金を返すことの相談に来たんです!」

晋太郎は返事をしなかった。

紀美子をソファまで運び、体で彼女を押さえてから、晋太郎は低い声で「黙れ!」と命令した。

晋太郎の声が聞こえてきてすぐ、彼女はブラジャーのホックを外された。

晋太郎は大きな掌で彼女の顎を掴み、問答無用で激しくキスをしてきた。

「社長…」

「黙れと言っているんだ!」晋太郎は苛立った。

彼は紀美子の腰を腕で挟み、自分の太ももの上に乗せた。

ざらざらした指で彼女の唇を擦り、「話したいことがあるなら、まずは俺を満足させろ」

紀美子は軽く唇を噛んで、我慢して答えた。「分かりました」

行為が終わった後。

紀美子は体の痛みを我慢しながら、服で露出している部分を隠そうとした。

彼女はゆっくりと座り直し、落ち込んだ声で、「社長の憧れがやきもちを焼いてもいいのですか」

「お前が心配をすることではない」晋太郎は口に咥えたタバコに火をつけた。

「2000万円は、必ず返します」紀美子は服を着ながら言った。

「どうやって?」晋太郎は煙の輪を吐き出し、黒い霧に包まれた目つきで紀美子を睨んだ。「体で?」

羞恥を感じた紀美子は服をきつく握りしめ、「あなたには関係ありません」と言い返した。

「この金は後でお前への補償金から引く。お前は金がもらえればいいんだろ?」晋太郎は唇を寄せながら、挑発的な口調でからかった。「お前には疑う資格はない。従うだけだ!」

そう言われた紀美子は、まるで無形の手に平手打ちされたかのようだった。

彼女は顔が暑苦しくて痛かった。

そうだ、彼女は彼から見ればただの金好きの女だ、清いことを言う資格はない。

暫くして、晋太郎は服を着て書斎を出た。

紀美子は床に散らかったティッシュを拾おうとしたとき、使用人の初江が入ってきた。

初江は紀美子の首にある沢山のキスマークを見て、気まずそうに部屋をでようとした。

「入ってきていいよ」紀美子は低い声で初江を呼び戻した。

彼女の尊厳はすでになくなっており、晋太郎の使用人に見られても平気だった。

初江は何も言わずに、ただ心配そうに紀美子を見てから、掃除にとりかかった。

初江と一緒に書斎を片付けてから、初江は壁に飾ってある絵を拭こうとした。

彼女は椅子を持ってきて、その上に登ろうとする途端、口から「いーーッ」と痛みを感じた声を発した。

紀美子は彼女の膏薬を貼っている膝を見て、彼女に「あなた足が不便そうだし、私が拭くから」と言った。

「大丈夫です、あなたにこんな仕事をやらせるわけにはいきません」初江は慌てて断った。

「大丈夫よ、はい」紀美子は彼女から掃除用の布を奪った。

そう言いながら、紀美子は椅子の上に立った。

「本当に申し訳ありません、入江さん」初江は感激した。

「大丈夫よ」紀美子は無表情に淡々と返事した。

初江は壁の絵を見ながら、「入江さん、この絵はリアルに描かれていますね」と感嘆した。

「ただ、絵に描かれている花はどれも見たことがありませんわ……」

紀美子は絵に描いている白い傘のような花を見て、「これはヨロイグサの花ね。花言葉は揺るがない、粘り強い、そして永遠の思念」と初江に説明した。

紀美子は初めて晋太郎の書斎の中に飾っているこの絵を見たときの反応は、初江と同じだった。

あの時は晋太郎も同じくこう説明をしてくれた。

紀美子は話ながら、絵のフレームが傾きかけているのに気づいた。

彼女はそれを安定させようとしたが、絵が重すぎて彼女の手から滑り落ち、床に落下した。

大きな音と共に、絵を覆っていたガラスが粉砕されて床中に飛び散った。

初江は驚いて「きゃあ!」と声をあげた。「入江さん、お気をつけて、割れたガラスが危ないですから。今掃除道具を持ってきます!」

「分かったわ」

紀美子は眉を寄せ、初江が掃除道具を取りにいってから、恐る恐る立ち上がった。

彼女は絵を持ち上げると、フレームが千切れそうになった。

一枚の写真がフレームの裏から落ちてきた。

紀美子の視線はその写真に惹き寄せられた。

写真の中には、一人の男性が女性の肩を抱え、二人は静かに海辺に立っていた。

女性は白いドレスを着ていて、長い髪は腰まで伸びていた。

後ろ姿から見ると、二人は非常につり合いがとれていた。

その男性は晋太郎だ。紀美子は一目で分かった。

しかし隣の女性は誰だろう。

何故この写真が絵のフレームの中にあったんだろうか?

紀美子は少し考え込んだが、先ほど初江に説明した花言葉のことを思い出した。

ヨロイグサの花言葉は永遠の思念だ。

つまり、写真の中の女性が、晋太郎がずっと会いたがっている人?

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