幸せな結婚を望んだのに…。侯爵家の一人娘ヴィオレットは、伯爵家の一人息子セドリックに一目惚れ。結婚した二人の間に愛娘のリリアーナが生まれる。だが、セドリックには本命の愛人ミアがいた。 セドリックは当初からヴィオレットに冷淡。妾のミアとの間に男子が産まれると、ヴィオレットに無断で彼女たちを邸に連れ込む。夫の冷たい態度に疲弊した妻のヴィオレットは娘のリリアーナを連れて時折実家に里帰りする。兄のアルフォンスはとても優しくて、ヴィオレットは禁断の恋に落ちていく…。
View More◆◆◆◆◆セドリックは胸の中で密かに安堵する。もし情に流されて、ミアを主の食卓に誘っていたら、妾と正妻が鉢合わせになるところだった。ダイニングルームでは、ヴィオレットとリリアーナが親しげに会話を交わしている。「母上、このスープ、とっても美味しいです! ハーブの香りがいっぱい!」「本当に香り高いわね。リリアーナ、ハーブの種類を執事に尋ねてみたら?」セドリックはヴィオレットが自室で泣きながら娘と過ごすのだと思っていた。妻の意外な行動にセドリックは戸惑い思考を巡らす。――怪我を負わされたその日に、夫と顔を合わせて食事などしたくないだろうに……何か企んでいるのか?「ジェフリー、このスープに使われているハーブは何?」リリアーナが執事に問いかけると、ジェフリーは丁寧に答えた。「お嬢様、こちらのスープには、新鮮なタイム、ローズマリー、そして少量のタラゴンが使われております。料理長が今朝、温室から摘み取ったものです。」「いっぱいハーブが使われてるんだね。とっても美味しいよ。」「ありがとうございます。料理人にも伝えておきます、お嬢様。デザートにはタイムを使った洋梨のポーチをご用意しておりますので、そちらもお楽しみくださいませ。」「楽しみ~!」リリアーナの明るい声が響く。その声を聞きながら、セドリックはふと考えた。――そういえば、リリアーナが手作りしたクッキーもハーブ入りだったな。まさか……ヴィオレットがこの場で娘に質問させたのは、俺への嫌味か?その考えを振り払うように、セドリックは首を振った。――考えすぎだな。彼は早く食事を終えたいと願った。だが、まだ最初のスープが出ただけで、終わりは遠い。セドリックは気まずい思いを抱えつつスープを口にする。「……確かに、美味いスープだな。」思わず口に出た言葉に、セドリックはハッとした。だが、何を遠慮する必要があるだろう。この邸の主は自分だ。テーブルクロスは真っ白なリネン、銀製のカトラリー、彩り豊かな磁器のプレートが並ぶ伯爵家にふさわしい食卓。その場にミアを呼んでいたら、邸の品位が下がるところだった。そのとき、ヴィオレットが柔らかな笑みを浮かべながら口を開いた。「ところで……ミアさんはどちらでお食事をなさっているのですか?」燭台の光に照らされた彼女の美しい顔立ちに、一瞬セドリックの心が揺れる。その笑みを
◆◆◆◆◆ヴィオレットがカーテン越しにこちらを見ていた。ミアはすぐに身を隠したが、彼女に見られたかもしれない自分の笑顔が気になる。「ふふ、だから何?気にすることないわ。あの女とセドリックの仲なんて、もう終わっているじゃない」遠くから二人を見ていても、その不仲は誰の目にも明らかだった。――もう、私の勝ちみたいなものじゃない?そんな考えに気を良くしていると、赤子の泣き声が聞こえてきた。「ふにゃ、ふにゃ、あぁ~にゃ」「また泣いてる……」ミアは猫の様な我が子の泣き声に顔をしかめる。そして、ベビーベッドに目を向けた。「どうして泣いているのかしら?お乳が欲しいの?それともおしめ?」赤子を覗き込みながら、心の中で毒づく。――もっと可愛く泣けばいいのに。しかし、泣き顔さえも愛おしいと思える理由が彼女にはあった。「ルイ、私の大事な……大事な……」――金づる。ベビーベッドに横たわるルイの姿は、生まれながらの貴族そのものだった。上質な素材で作られたベッドで眠る赤子を見ながら、ミアは心の中でつぶやく。――ルイさえいれば、私の人生は安泰だわ。生まれてきてくれてありがとう、ルイ。「私の可愛い赤ちゃん!」ミアはそう言いながらルイを抱き上げた。その瞬間、部屋の扉が開き、セドリックが姿を現した。「セドリック様!」彼の訪問にミアの胸は高鳴る。「ミア、ルイが泣いていたようだが、何かあったのか?」セドリックはミアが抱くルイに目を向けながら尋ねた。その視線に、ミアは彼が自分を心配していると確信する。――この調子なら、ヴィオレットを追い出してアシュフォード家の女主人になるのもすぐね。「ルイなら、もう泣き止みましたわ。母親の私に抱かれて安心したみたいです。やっぱり母子は一緒でないと駄目ですね」満面の笑みで答えるミアだったが、セドリックの表情は曇るばかりだった。「ミア、これからはルイのことを『ルイ様』と呼べ。お前はルイの実母だが、身分は乳母だ。立場をわきまえろ」「そ、そんな……」ミアは困惑しながらも、セドリックにルイを手渡した。彼は赤子を受け取ると、その小さな顔を愛おしそうに見つめる。「やはり、ルイは俺によく似ている。髪の色も、目の色もそっくりだ。邸に連れてきて正解だった……顔を見るだけで癒される」セドリックがそう呟くのを聞きながら、ミアは胸の内で安堵
◆◆◆◆◆セドリックの背後には、秋風に揺れる木々の影が長く伸びていた。影は静かに揺らめき、地面に複雑な模様を落としている。彼は一度も振り返ることなく、足早に邸内へと消えていった。その姿を見つめるヴィオレットの胸には、苦々しい感情が渦巻いていた。影とともに消えゆくその背中が、彼女には手の届かない何かの象徴のように思えた。「……どうして?」ーーどうして自分は、この男を好きになったのだろうか。ヴィオレットはセドリックと出逢った王城の舞踏会を思い出していた。見目麗しい貴族たちが次々と彼女をダンスに誘いに来た。だが、それは彼女を揶揄するためのものだった。王族と兄以外とは踊らない"行き遅れ"の娘として、興味本位で近づいてきただけなのだ。――そんな下品な考えを持つ人たちの手を取って踊るなんて、ありえない。ヴィオレットはそう思っていた。けれど、セドリックに誘われたとき、彼女は自然とその手を取っていた。彼の手の温もりに引かれるように舞い、見事なステップで彼に負けじと踊った。鮮やかで優雅なその姿は、舞踏会の花となっていた。踊り終えたセドリックが、汗ばむ額の髪をかき上げながら「じゃじゃ馬な姫様だな」と微笑んだ。その瞬間、ヴィオレットは確かな運命を感じたはずだった。だが、今となっては――。「母上!母上!」「……リリアーナ?」娘の声でヴィオレットは現実に引き戻された。セドリックが踏み潰したクッキーを、痛めた手で黙々と拾い集めていた自分に気が付く。なんて情けないことだろう。「リリアーナ、ごめんなさい。悲しい思いをさせてしまったわね」彼女は娘の泣き顔に胸を締め付けられる思いだった。「母上……」リリアーナの姿を見て、ヴィオレットは自分を叱りたくなる。母親である自分が、娘に気遣わせるなんて最悪だ。ゆっくりと立ち上がり、リリアーナの髪を優しく撫でる。そして少し離れた場所で様子を伺う使用人たちに目を向けた。その視線を受け、彼らはすぐに動き出す。「奥様、治療を致します」侍女が駆け寄ってくるのに、ヴィオレットは頷いて答えた。「リリアーナと一緒に自室に戻るわ。治療は自室でお願いする。それと、このクッキーはもう食べられないから処分してちょうだい。リリアーナ、それでいい?」「伯父様とまた作るから大丈夫。母上、早く部屋に行こ」リリアーナは涙を拭きながら母の手を取
◆◆◆◆◆『下女の生んだ男子』名門ルーベンス侯爵家の一人娘であり、王族の血を引く ヴィオレット・アシュフォードが、冷たい眼差しと鋭い口調で言い放った。「リリアーナは、ソレイユ王家の血を継ぐ正統な貴族の娘。たとえあなたの妾の子が男子であろうとも、比べるなど許しません」――笑わせる。ヴィオレットにとって、アシュフォード伯爵家など下女より少しマシな程度の存在なのだろう。「リリアーナは、侯爵家と伯爵家の縁を結ぶ大切な子です」セドリックは目の前の妻を見据えた。琥珀色の瞳は怜悧な光を湛え、彼女の意思の強さを物語っている。――ルーベンス家の女としての誇りか。王族の血を引く彼女にとって、新興貴族のアシュフォード伯爵家は対等な存在ではないのだろう。ヴィオレットの高慢さは、幼い頃から変わらない。「下女の生んだ男子と比べるなど……私が許しません!」その冷たい声音には、容赦のかけらもなかった。セドリックは静かに息を吐いた。――気位の高さなら、誰よりもヴィオレットが上だ。貴族としての誇り、王族の血を引く者としての矜持。そうしたものが、彼女を支えているのは理解している。リリアーナを女当主にしようとするのも、叶わなかった自身の夢を娘に託しているだけだと、セドリックには思えた。――それほどまでに、ルーベンス家の女当主になりたかったのか?◇◇◇王家から嫁いだヴィオレットの母 イザベラ・ヴァリエール王女 は、娘をルーベンス家の女当主にすることを強く望んでいた。彼女は王族の誇りを持ちつつも、愛した夫の家を継ぐことに誇りを感じていた。しかし、貴族社会の慣習は冷酷だった。「貴族の当主は男子が継ぐ」それが貴族社会の常識であり、教会が支配する価値観だった。「神が定めた秩序は、男が家を守り、女はそれを支えるもの」「男系継承こそが正統な血統であり、女性当主など異端に等しい」しかし、イザベラはその常識を覆そうとした。彼女は先代王 ルネ・ド・ソレイユ に働きかけ、女性も当主になれるよう法律を改正させた。だが――貴族たちは猛反発した。「王族の血を引く家が当主になれば、王家と貴族の境界が曖昧になる」「女性が当主となれば、貴族社会の秩序が乱れる」「神の定めた掟に背く法を王が制定するなど、教会は容認しない」結局、イザベラの夫――ルーベンス侯爵は、貴族社会の圧力に屈
◆◆◆◆◆馬車の車窓から見える女の姿に、ヴィオレットは思わず指先に力を込めた。ミア・グリーン――夫の妾だ。赤子を抱いたその女がアシュフォード邸の中に入っていく。ヴィオレットは拳を握りしめた。ミアを恭しく邸内に案内する伯爵家の使用人たち。その光景が胸を締めつける。――ミア・グリーンは夫セドリックだけではなく、アシュフォード家の使用人たちの心まで掴んでしまったの?「っ……」「母上、どうしたの?」隣に座る娘、リリアーナが不安げに母親を見上げた。その表情に気づき、ヴィオレットは慌てて笑顔を作る。「なんでもないわ、リリアーナ。それより、馬車を降りる準備はできている?」優しく肩に手を添えて問いかけると、リリアーナは満面の笑みを浮かべ、胸に抱えたクッキーの箱をぎゅっと抱きしめた。「準備できてるよ!父上へのお土産も持ってる。ねぇ、父上は喜んでくれるよね?」その言葉に、ヴィオレットは一瞬胸を締めつけられた。同じ質問をリリアーナはさっきもしていた。不安なのだろう。「もちろん、喜んでくれるわ」「本当に?」リリアーナが急に不安そうな顔をしたので、ヴィオレットは心の中でどきりとする。子どもは大人が考える以上に周囲の空気に敏感だ。リリアーナも、両親の不仲に気付いているのかもしれない。――小さな子にこんな思いをさせるなんて、母親失格だわ。「大丈夫よ。たっぷり愛情を込めて作ったのでしょう?」「うん!父上は甘すぎるのが苦手でしょ?だから砂糖控えめで塩とハーブをちょっと加えたの。父上向けのクッキーだよ!」「すごいね、リリアーナ!今度、私にもそのレシピを教えて」「いいよ!」リリアーナの頭を優しく撫でていると、馬車が邸の車寄せに停まり、使用人が扉を開けた。「奥様、お嬢様、お帰りなさいませ。お荷物はございますか?」「荷台の荷物を部屋に運んでおいてちょうだい」「承知しました、奥様」使用人に指示を出しながら、ヴィオレットはリリアーナとともに馬車のステップを降り、邸の前で待っている夫のもとへ歩み寄った。セドリックの冷たい眼差しに心が揺れ、思わず視線を逸らしそうになる。それでも、情けない自分を叱咤し、彼に話しかけた。「あなた、お迎えできずにごめんなさい。リリアーナと一緒にルーベンス家へ出掛けておりました。」「また実家に帰っていたのか、ヴィオレット。まあ、居心地が
◆◆◆◆◆『お前のことは俺が守る』セドリックの言葉に、ミアは思わず笑みを浮かべそうになったが、慌てて俯き顔を隠した。胸の奥で込み上げる感情を抑えようとする。自分の息子が伯爵位を継ぐ日が来るなんて――信じられない。庭師の娘に過ぎなかった自分が、アシュフォード家後継者の実母になるなんて。喜びと興奮が混じり合い、体が震えた。その時、庭園を吹き抜けた風が木々を揺らし、赤や黄色の葉がひとつ、彼女たちの足元に舞い落ちた。それは、秋の訪れを静かに告げるようだった。「心配はない、ミア」セドリックの声が優しく響く。彼は、ミアが恐怖に震えていると思ったのかもしれない。相変わらず女に夢を見ている男だ、と彼女は内心で嘲笑った。「セドリック様、私はどうなっても構いません。でも、奥様がもしルイに危害を加えたなら……私は……」その言葉に、セドリックの表情が険しくなった。「ヴィオレットはそんなことをする女ではない。侯爵家の娘だぞ。下品な邪推はするな、ミア」ミアは肩を落としながら静かに頭を下げた。「ごめんなさい、セドリック様」「いや、言い過ぎた……すまない」セドリックの謝罪の言葉を聞いても、ミアの胸の中で冷たい感情が広がるだけだった。――貴方のそういうところが大嫌いなのよ。情を交わして子を得たというのに、彼の言葉の端々には自分を庭師の娘と見下す感覚が滲んでいる。他の貴族とは違うと愛を囁きながら、結局は同じではないか。だが、それでいい。彼女もまた、彼を蔑んでいるからだ。セドリックとの最初の子を宿した時、彼女は慎重に動くよう忠告した。しかし、彼は何の対策もせずに自分たちの関係を両親に話してしまった。その結果、彼女はその日のうちに堕胎させられ、庭師長だった両親と共に邸を追い出された。その後の日々は辛苦の連続だった。職を失った両親から責められ、折檻を受けることもあった。だが、ミアは耐えた。セドリックが必ず自分の元に戻ってくると信じて。やがて彼が訪れたとき、ミアは抱きついて泣いた。その後、両親との関係は逆転し、今では彼女が二人を罵っても反論すらできない。――当然よ。私は金のなる木だもの。「ミア」「はい、セドリック様」セドリックは冷静な表情で命じた。「庭園を三人で散策するのは次の機会にしよう。俺は今からヴィオレットとルイの将来について話す。君はルイを連れて先に
◆◆◆◆◆「ミア、一人で降りられるか?」セドリックが穏やかに声をかけると、ミアは赤子をしっかりと抱きながら応えた。「大丈夫です、セドリック様」彼女は馬車から慎重に降り、目の前のアシュフォード邸を見上げた。「懐かしい……昔のままだわ」その呟きに、セドリックは優しく微笑みながら言葉を添えた。「庭園も昔と変わらないぞ。ルイもきっと喜ぶだろう。後で三人で散歩しよう」庭園の木々は赤や黄色に染まり始め、風に乗った落ち葉がひとつ、彼女たちの足元に舞い降りた。それは、季節の移ろいを静かに告げるようだった。セドリックの言葉に、ミアは嬉しそうに微笑み、腕の中の赤子――ルイに目を向けて優しく語りかける。「散歩しようね、ルイ」セドリックはミアの姿を見つめながら、ルイに視線を移した。赤子の顔は穏やかに眠りについているようだった。彼はそっとルイの額に手を触れる。「冷えていないか、ルイ?」赤子の肌が冷たくないことを確認すると、安堵の表情を浮かべながら、セドリックは彼女に問いかけた。「寒くはないか、ミア?ルイのためにももう少し厚手のブランケットを用意させよう」「ありがとうございます、セドリック様。でも今のところ大丈夫そうです」ミアが控えめに微笑むと、セドリックは小さく頷き、再び彼女を静かに見つめた。ミア・グリーン――彼が初めて彼女に出会ったのは、まだ彼女が幼い頃のことだった。庭師長夫婦の娘として、アシュフォード邸の庭園を遊び場にしていた少女。その頃は、ただの下女の一人としか見ていなかった。だが、時が経つにつれ、ミアは美しい少女へと成長し、やがて大人の女性へと開花した。いつの間にか、彼女はセドリックの心を奪っていた。身分違いの恋に苦しむだけだと理解していた。それでも想いを抑えることはできず、ついに彼女に想いを告げてしまった。『好きだ』彼の告白に、ミアは『私も好きです』と応えてくれた。その瞬間から、二人は男女の仲へと進んでいった。だが、それは茨の道の始まりでもあった。セドリックの両親は二人の仲を引き裂き、彼を侯爵家の行き遅れの娘と無理やり婚姻させる。その結婚生活の中で、セドリックは失意に沈む日々を過ごしてきた。ふと、ミアの声がセドリックを現実へと引き戻した。「セドリック様」「どうした、ミア?」「馬車がこちらに向かって来ます」その言葉に、セドリック
◆◆◆◆◆アシュフォード家へ戻る馬車の中で、ヴィオレットは小さくため息をついていた。その音に気づいた娘のリリアーナが、心配そうに顔を上げる。「母上、馬車に酔ったの?」「少しだけね。ごめんね、心配させて。」ヴィオレットは娘の肩をそっと抱き寄せながら微笑む。その仕草に安心したのか、リリアーナはぎゅっと母親に抱きついた。車窓の外には、色づき始めた木々が風に揺れ、わずかな紅葉が秋の訪れを静かに告げている。「伯父様が泊まっていくように誘ってくれたのに…私が早く帰りたいって騒いだから。ごめんなさい、母上。」リリアーナが小さな声で俯きながら謝るのを聞き、ヴィオレットは慌てて娘の頬を優しく撫でた。「リリアーナが謝ることなんてないわ。もともと泊まるつもりはなかったのだから。」そう伝えると、リリアーナは安心したように顔を上げ、にこりと笑顔を見せた。その笑顔に心が癒されるヴィオレットは、もう一度娘を抱き寄せる。リリアーナはくすぐったそうに笑いながら口を開いた。「母上、ぎゅうぎゅうすると、父上へのお土産が潰れちゃうよ。」「あら、そうだったわね。」「父上、喜んでくれるかな。」「きっと喜んでくれるわ。」リリアーナが持っているのは、ヴィオレットの実家で彼女が作った手作りのクッキーだ。可愛らしい箱に詰められたそれを、リリアーナは父親へのお土産にしたいと大事そうに抱えている。「父上と一緒にクッキー食べたいな。今日は帰ってくるかな…」娘の期待に満ちた声を聞き、ヴィオレットは胸が痛んだ。夫のセドリックは、ここ最近、愛人の家に入り浸っている。クッキーが日持ちしないことを考えれば、3日以内に帰宅しなければ渡せないだろう。セドリックは娘を無碍に扱うことはないが、それはリリアーナがアシュフォード家の跡継ぎとして期待されているからだ。しかし、妾との間に男子が生まれた今、娘への扱いが変わるのではないかとヴィオレットは不安を抱いていた。自分にリリアーナを守る力があるのだろうか…。「母上?」「どうしたの、リリアーナ?」娘の声に思考を中断され、ヴィオレットは穏やかな表情を作って応じた。「母上は伯父様のお家に泊まりたかった?父上より伯父様が好きなの?」七歳の少女らしからぬ大人びた質問に、ヴィオレットは一瞬驚きつつも、冷静を装いながら答えた。「リリアーナ、愛情にはいく
◆◆◆◆◆リリアーナを厨房に連れて行くと、ちょうどケーキが焼き上がるところだった。部屋いっぱいに甘い香りが広がり、リリアーナはアルフォンスの腕から飛び降りるようにして、さっそく料理人たちに駆け寄った。「こんにちは!」明るく挨拶する彼女に、料理人たちは驚いたように手を止めたが、すぐに微笑みを浮かべた。「リリアーナ様、いらっしゃいませ」「いらっしゃいませ!」「リリアーナ様、いらっしゃい」皆に声を掛けられると、リリアーナは彼らを興味津々で見回す。アルフォンスは少し離れた場所からその光景を見つめていた。リリアーナの明るい声が響くたびに微笑みが浮かぶが、心の中には複雑な感情が渦巻く。彼女は可愛らしく愛おしいが、半分はセドリック――妹ヴィオレットを苦しめた男の血が流れている。それを思うと、心の奥にわずかな苛立ちが生まれた。それでも、アルフォンスは表情を崩さず、いつもの優しい笑顔を貼り付けてリリアーナに声をかける。「リリアーナ、クッキー作りに挑戦してみるか?」「やりたい!」リリアーナは元気よく応じると、小さな手を伸ばして料理人から型抜きの道具を受け取った。彼女が夢中になってクッキーを作り始めたのを見届けると、アルフォンスは料理人たちにリリアーナの面倒を頼んだ。そして、ヴィオレットの部屋にお茶を運ぶよう指示を出し、自分は静かに階段を上がっていった。---アルフォンスが二階のヴィオレットの部屋をノックすると、すぐに扉が開いた。ヴィオレットが小さな微笑みを浮かべ、彼を部屋に招き入れる。「部屋に秋の花が飾ってありました。お気遣いに感謝します、兄上」彼女は柔らかい声で言った。「ヴィオレットが気に入ったのなら良かった。リリアーナは厨房でクッキーを作っている。後で三人で一緒に食べよう」その言葉にヴィオレットは微笑んで頷く。「はい、兄上」アルフォンスは部屋の中央にあるソファを指差して尋ねた。「座ってもいいか?」「どうぞ」ヴィオレットが小さく頷く。アルフォンスがソファに腰を下ろすと、ヴィオレットも向かいのソファに座った。しばらくの沈黙の後、彼は彼女をじっと見つめて言った。「少し痩せたんじゃないか?」ヴィオレットは一瞬言葉を詰まらせたが、微笑みを浮かべて答える。「そうですか…最近、少し食欲が落ちてしまって」「何か悩みがあるのなら、話してご
◆◆◆◆◆ルーベンス家の玄関前に、一台の馬車が滑らかに停まった。御者が手綱を引くと、木製の扉が開き、中から一人の少女が飛び降りる。秋の始まりを告げる涼やかな風が彼女の金色の髪をそっと揺らし、木漏れ日が庭の石畳に淡い模様を描いていた。ヴィオレットの娘、リリアーナである。彼女は小さな靴で石畳を軽快に駆け抜け、玄関に立つ伯父アルフォンスの元へとまっすぐに走っていく。庭の端では、色づき始めた葉がちらほらと舞い、風に揺れるコスモスが秋の訪れを静かに告げていた。「伯父様~!」リリアーナの澄んだ声が庭に響く。アルフォンスはその声に振り向き、柔らかな笑みを浮かべた。「リリアーナ、よく来たね」その言葉に応えるように、リリアーナは両手を大きく広げて叫んだ。「抱っこ! 抱っこ!」アルフォンスは声を上げて笑い、軽やかに彼女を抱き上げる。その足元で、小さな枯葉が一枚、風に乗ってひらりと舞い上がった。「もちろんだよ、リリアーナ姫」「ふふっ、姫じゃないもん」リリアーナは照れくさそうに笑いながら、伯父の首に小さな手を回した。その仕草はあまりにも自然で、子どもの純粋さと愛らしさに満ちていた。「随分と大きくなったな。もっと頻繁に来てもらわないと、成長を見逃してしまいそうだ」後ろから馬車を降りてきたヴィオレットは、二人のやり取りを見守りながら苦笑した。「兄上、二週間前にも来たばかりですよ?」アルフォンスは肩をすくめ、茶目っ気たっぷりに返す。「それでも足りないさ。遠くないのだから、一週間ごとでも、いや、三日ごとにでも来てほしいくらいだ」その冗談にヴィオレットは小さく笑ったが、リリアーナは真剣な顔で声を張り上げた。「伯父様! 母上とばっかり話さないで。リリアーナの話を聞いて!」「もちろん、ちゃんと聞いているよ。どうしたのかな?」「リリアーナね、字をいっぱい書けるようになったよ!」その無邪気な報告に、アルフォンスの目が優しく細められた。「それは素晴らしいね。今度、私に手紙を書いてくれないかい?」リリアーナは嬉しそうに頷く。「いいよ! いっぱい書くね!」それを見ていたヴィオレットが、娘の顔を覗き込みながら微笑む。「私には手紙を書いてくれないの、リリアーナ?」リリアーナは一瞬きょとんとしたが、すぐににっこり笑って答えた。「母上にも書いてあげる!」「そ...
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