訳アリの幼馴染を忘れられない。だから一夜をともにした……。 最低なあなたを諦められない私が、一番愚かなのかもしれない。 この子は大切に一人で産み育てるから……。 すれ違いの恋模様は?
もっと見る「私が悪いの。自己管理ができてなかっただけ」仕事と家庭が忙しいという理由じゃないなら、いったいどうして、そう尋ねられるのはわかっていたが、日向にそんなことを思っていてほしくなかった。そう言いながら、ふと周囲を見渡した。白を基調とした落ち着いた内装。カーテンではなく扉のついた仕切り、備え付けのソファとテーブルにテレ部に冷蔵庫。普通の病室にしては、妙に設備が整っている。わざわざ日向が特別室を手配してくれたのだろう。申し訳なさでいっぱいになっていると、日向は何かを思案するように、押し黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。「それは、俺を避けてたことに……。いや、こんな体調の時にやめ……」日向がそう言いかけたところに、病室のノックの音が聞こえて、白衣を着た医師が入ってきた。「点滴が終わったら帰れるぞ」落ち着いた低い声が静かな部屋に響き、私は思わずそちらへ視線を向ける。「ああ、ありがとう」日向もまた、ごく自然にそう返す。この短いやり取りだけで、私はこの医師が日向の知り合いなのだとすぐに理解した。「医師の瀬尾です。日向とは大学の友人です」丁寧にあいさつをしてくれる瀬尾先生に、私もお礼を伝える。ふと枕元の時計に目をやると、長針と短針はすでに23時を回っている。とっくに瑠香も両親も眠っているはずで、こんな時間に突然帰宅すれば、母を起こしてしまうのは明らかだった。タクシーを手配し、できるだけ静かに帰ろう――そう考えたものの、日向の性格を考えれば、そんな勝手な行動を許すはずがないと思い直し、私は結局何も言わずに点滴の残量を見つめた。「あと十五分ってところだな」瀬尾先生が慣れた手つきで点滴の残りを確認しながら淡々と告げる。「日向、じゃあな」「おう、悪かったな」瀬尾先生は軽く片手を挙げると、そのまま部屋を出ていった。なんとなく意味ありげな言い方に聞こえたのは気のせいだろうか――そう思いながらも、「ありがとうございました」と頭を下げる。扉が閉まると同時に、病室には再び静かになる。その沈黙を破るように、日向がゆっくりと口を開いた。「点滴が終わったら……俺の家でもいいか?」「え?」思わぬ提案に、私は意味を理解できず、反射的に問い返してしまう。「おばさんには入院だと思っていたし、俺が見ると伝えた。こんな時間に帰るのも迷惑だろう。瑠香ちゃんもすでに眠
会議が終わると、社員たちは次々に席を立ち、会議室を出ていった。「東雲さん、片づけはお任せして大丈夫ですか?」「はい、大丈夫です」同僚の問いに私は淡々と答え、会議で使った資料やパソコンのケーブルを片づける。早く終わらせて、ここから出よう。そう思った瞬間、視界がふっと揺らいだ。――あれ?指先から力が抜け、持っていたファイルがテーブルの上に落ちる。「……っ」体がふらつく。立っていられない。「東雲!」その言葉と一緒に神代さんが私に手を伸ばすのが見えたと思ったが、最後まで届く前にふいに別の影が視界に入った。そして、落ち着く香りに包まれた。日向?目を開くことができなくて、動かない体だが、そのぬくもりに安堵して力が抜ける。「副社長!」神代さんが何か言いかけたけれど、日向の手は迷いなく私の体を支え、次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。抱き上げられたことに気づき、思わず弱々しく抵抗しようとする。さすがにこれはまずい。遠くなる意識の中でそう思ったが、もちろん男の人の力にかなうわけもない。「だ、大丈夫……です、自分で……」なんとか目を開けてそう口にするが、すぐにそれを制される。「黙ってろ」短く、けれど強い声音に、私はそれ以上何も言えなくなる。腕の中の温もりがやけに心地よくて、もう考える余裕もなく、遠ざかっていく会議室のざわめきだけが、耳の奥に残った。次に目を開けると、白い天井があった。消毒液の匂いが鼻をかすめる。ぼんやりとした意識の中で、ここが病室だということを理解するのに時間はかからなかった。でも――そんな場合じゃない。「瑠香!」反射的に叫ぶと同時に、私は勢いよく体を起こそうとした。しかし、その瞬間、誰かの手が肩を押さえ、静かに制される。「まだ起き上がるな」落ち着いた低い声が、すぐそばから聞こえた。「日向……」つい、その単語だけが零れ落ちた。ずっとわざと避けていたのに。それなのに、結局、気にして悩んで眠れなくなって、倒れて、こうして迷惑をかけている。自分が情けなくて、涙がこぼれそうになる。「迷惑をかけてすみません。でも、私、お迎えに行かないと」こんなところで眠っているわけにいかないと、もう一度体を起こしてベッドを降りようとしたが、腕につながれた点滴が目に入った。「貧血と疲労だそうだ。それと、瑠香ちゃんは大丈
それから私は、極力、日向を避けるようになった。会議では視線を合わせないようにし、必要最低限の言葉だけを交わす。社内ですれ違いそうになれば、さりげなくルートを変え、誰かと一緒に行動することで、できるだけ二人きりにならないようにした。仕事の話なら、すべてメールかチャットで済ませる。どうしても直接話さなければいけないときも、他のメンバーを巻き込んだりと徹底した。「最近、東雲さん仕事すごく集中してるよね」周囲の同僚たちも、私の変化に気づいていた。日向を避けるためのことが、自分の評価を上げることにつながるという事実に、複雑な気持ちになる。でも、これでいい。そう自分に言い聞かせる。私は、日向のために離れなければならない。本当は話したいし、もっと彼のそばにいたい。だけど――。「……東雲」ある日、オフィスの廊下で日向に名前を呼ばれ、立ち止まりそうになる足をぐっとこらえる。「はい」努めて冷静な表情で彼に返事をすると、日向は少し表情を険しくした。「話…できないか?」伺うように聞く日向に、ギュッと心臓が押しつぶされるような気持ちになる。あれほど再会してから私と瑠香に優しくしてくれた日向。急にこんな態度をとった私に、怒るのは当然だ。「すみません、これからミーティングなので失礼します」しかし、ここでまた日向と前みたいに戻ってしまえば、私は欲張りにも日向とずっと一緒にいたくなってしまう。私の自分勝手な思いで、日向の努力を無駄にできないし、彼の邪魔にはなりたくない。振り返らず、足早に立ち去る。胸の奥が締めつけられるのを感じながらも、私はただ前だけを見ていた。「瑠香、おやすみ」お風呂の後、寝かしつけた瑠香の寝顔を見ながら、私はふっとため息をつく。――眠れない。目を閉じると、日向の顔が浮かぶ。「どうして避ける?」そう日向の瞳が言っていたのは、すぐにわかった。でも、理由を話せるわけもない。いつか瑠香のことまで調べられてしまえば、必ず迷惑をかける。「慣れ合う必要はないでしょう?」そんなことを言ったら、優しい日向はどんな気持ちになるのだろう。布団の中で身を縮め、何度も寝返りを打った。眠れないまま、朝が来る。朝、瑠香が小さな手でパンを持ち上げ、嬉しそうに笑う。「ちゃんともぐもぐしてね」私はできるだけ優しく微笑みながら、瑠香の頬
その時、スマホが震えた。神代さんからの着信だと気づき、ハッと我に返る。とっくに戻らなければいけない時間だと気づき、慌てて電話に出た。「お前、今どこだ?」神代さんの少し低めの声が耳に飛び込んでくる。「あ……えっと、あの、少し知り合いに頼まれごとをされて……」情けないと思いながらも、なんとか言い訳をひねり出す。だけど、正直に今いる場所を伝えなければならない。私は小声で今いる会議室の場所を告げた。「そこにいろ」突然の指示に、思わず「え?」と声が漏れる。数分後、会議室のドアが軽くノックされる音がした。神代さんだとすぐにわかった。「東雲、入るぞ」ドアを開けて現れた神代さんの姿を見た瞬間、妙な安心感が胸を満たす。それと同時に、どこか申し訳なさが湧き上がってくる。「お前、こんなところでどうしたんだ?」神代さんはドアを閉めながら問いかける。「お前、大丈夫か?」神代さんの声は穏やかで、優しい響きだった。その言葉に救われたくなる気持ちと、答えるのが怖い気持ちが胸の中で交錯する。「あ、はい……大丈夫です」嘘だ。本当は何も大丈夫なんかじゃないのに。けれど、その言葉しか出てこなかった。神代さんは、私の正面にある椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。その動きには、こちらを追い詰めるような圧はまるでなく、ただ私が話しやすいようにと気を遣っているのが伝わってきた。「何かあったなら、俺に話してほしい」そう言いながら、彼は視線を私に合わせる。その目はまっすぐで、私の心を覗き込むような優しさに満ちていた。「いえ、本当に大したことじゃないんです。ただ……少し考え事をしていただけで」曖昧な言葉で誤魔化そうとする私に、神代さんは微かに眉をひそめた。「無理をするなよ。お前が何を抱えてるのか、全部わかるとは言えないけど……俺はいつでもお前の味方だ。だからさ、ちゃんと頼ってほしい」その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。神代さんの優しさは、いつも変わらない。彼が私を気遣ってくれていることは痛いほど伝わってくる。「ありがとうございます……でも、本当に大丈夫ですから」そう答えると、彼は少しだけ残念そうな表情を浮かべた。けれど、それ以上追及することなく、小さく頷いてくれる。「わかった。でも、無理をするなよ。何かあったら、すぐ言え」神代さんのその言葉が、今の私には救いのようだ
会議室に案内され、ドアが閉まると、そこはまるで別世界のように静まり返っていた。自分の心臓の音がうるさくて仕方がない。席に座るよう促され、彼女もその対面に優雅に腰を下ろす。テーブルを挟んで向き合うと、彼女の美しさに圧倒される。こんな人が日向と結婚したがっている。それほどの人だということを思い知らされるだけだった。「東雲さん、最近副社長とよく一緒にいらっしゃいますよね?」穏やかな声。しかし、その言葉にはどこか棘がある。「え……? いえ、私はただ、プロジェクトの一員として業務を――」言い訳じみた声が自分でもわかる。それを遮るように、彼女は微笑みながら首を横に振った。「お気になさらないで。もちろん、あなたが仕事をしているだけだってわかっています。ただ……少しだけ気になったの」「気になった、とは……?」恐る恐る尋ねる私に、彼女は肩をすくめるようにして、淡々と続けた。「副社長は河和グループの後継者です。彼の立場の重要さは、あなたも理解しているはずよね?」「それは……もちろんです」「だったら、わかるでしょう? 私が何も知らないと思っているの?」微笑みながらも、そのセリフに、嫌な汗が流れる。「わかる、とは……」絞り出すように尋ねると、彼女は少しだけため息をつき、椅子に背を預けた。「東雲さん、あなたにはきっとわからないでしょうけど、日向さんがどれだけ大きな責任を背負っているか。彼には会社を支える未来があって、そのために私の家族もずっと助けてきたの」「それは……」何かを言おうとしたけれど、いったい私に何が言えるというのだ。日向が自分を犠牲にして守ってきたのはこの会社であるのは明らかだ。だからこそ、隣のあの家を出て、必死に今の地位に上り詰めたのだろう。そんな彼に私は何ができる?自問自答してしまえば、何もないことを痛感するだけだ。「最近、彼の近くにいるあなたを見て、少し気になったの。幼いころからの知り合いを妹のように面倒をみているのはわかっているけど、世間はそうはみないわ」一番痛いところを付かれた気がした。日向にとって私はいまだ小さいころと一緒で庇護するべき存在なのだろう。それに加えて、あの夜の負い目……。一番悪いのは自分のような気がしてきてしまう。「私は、会社の一員として……」何とか言葉を絞り出すと、彼女はまたも柔らかな微笑みを浮かべ
近くのテーブルから漏れ聞こえてきた噂話。 「副社長が本社に戻ったのは、高木さんと結婚するため」――その言葉が、私の心を乱していた。フォークを握る手が止まったまま動かない。頭の中では、「そんなことあるわけがない」と否定する声と、「もし本当だったら?」という不安がせめぎ合っていた。"日向が、この会社に戻った理由が……高木さんとの結婚のため?" 噂の真偽なんてわからない。それでも、さっきの会議で見た日向の堂々とした姿と、その隣に立つ高木さんの姿が頭に浮かんでしまう。美しくて品があって、自信に満ち溢れた高木さん。彼女こそ、日向の隣にふさわしい存在に見える。 それに比べて私は――ただの平凡な営業アシスタントで、シングルマザー……。そんな時だった。急に聞こえた声に顔を上げると、食堂の入り口付近がざわついているのが見えた。スーツ姿の役員たちが数人、視察のために入ってきたのだ。その中には、日向の姿もあった。濃紺のスリーピースに身を包んだ彼は、先ほど会議で見たときと同じく、誰にも負けない存在感を放っている。まっすぐ前を見つめ、落ち着いた足取りで食堂内を歩いている。周囲の社員たちも、彼の姿に気づいてさざめいている。その注目を一身に集めながら、彼は役員たちとともに奥のテーブルへと進んでいった。しかし――その隣には、高木さんの姿もあった。彼女は日向の隣を歩きながら、時折親しげに彼に話しかけている。日向の仕事用の表情からは、彼女をどう思っているかはわからない。でも、もし「会社の未来」のために、彼女との結婚が決定事項だったら、高木さんを無下に扱うことなどできないのは当然だ。日向は、自分の感情だけで動けるような立場ではないのだから。"じゃあ……私が今、彼とこうして一緒に過ごしていることは、正しいのだろうか?"昨日の動物園のことが頭をよぎる。日向と瑠香が笑い合っている姿。それは、まるで本当の家族のように見えた。だけど――。"もし、瑠香のことが知られたら?"私は息を呑んだ。もしあの時のことが公になり、瑠香の存在が日向のものだと知られたら――。それは、日向にとって大きなスキャンダルになるはずだ。彼の立場や、彼が背負うものを考えれば、その影響は計り知れない。彼のそばにいていいのだろうか?「どうした?」神代さんの声に、私はハッとして顔を上げた。気づけば、私の表
朝のオフィス。出社してすぐ、私は呼ばれて大会議室に向かった。そこには三十人ほどの社員が集まっていた。営業、開発、マーケティング、法務――会社の中核を担うであろう多方面の部署から選ばれた面々。その中で、一番前に座る彼の姿が目に入った。日向――。動物園で見た、ラフで穏やかな雰囲気の日向とはまるで別人だった。高級感漂う濃紺のスリーピースを身にまとい、胸元にはシンプルながらも品のあるシルバーのポケットチーフが添えられている。その姿は、どんな場に出ても恥じることのない完璧さだった。髪もいつも以上に整えられ、背筋をピンと伸ばした彼からは、揺るぎないオーラが放たれている。彼の隣に座る役員たちでさえ、どこか緊張感を漂わせているように見える。先日、動物園で瑠香を抱き上げ、優しい微笑みを浮かべていた同じ人間だとは思えない。「では、始めましょう」日向の低く通る声が静かに響き、会議室内のざわめきがピタリと止んだ。次にモニターに映し出されたのは、スーツ姿の男性だった。「本日、我々河和グループが手掛ける次期プロジェクトを発表します。このプロジェクトは、グローバル市場における競争力をさらに高めるための重要な試みです」画面越しに映るのは、河和グループのトップ――河和社長。その存在感には、相変わらず圧倒される。彼が会社を率いる姿を見るのは、社員である私にとって珍しくはないことだ。けれど、「彼が日向の父親なんだ」という事実を改めて意識すると、不思議と居心地の悪さを感じる。日向とはあまりにも雰囲気が違う。冷徹で威厳に満ちた眼差し――その姿が、この会社を支える柱であることを如実に物語っていた。社長は続ける。「新たなプロジェクト『グローバルコネクト』は、海外パートナー企業と連携し、最先端のAIプラットフォームを構築するものだ。これは、我々の企業の技術力を世界に示すだけでなく、新たな成長の柱となるはずだ」モニターに映し出される資料には、海外の有名企業名がいくつも並んでいた。すべて、このプロジェクトのパートナー企業らしい。「このプロジェクトには、河和日向副社長をトップに据え、我々が誇る精鋭たちがチームを組む。全員の協力を期待している」そう言って社長が一度目を細めた。その視線は画面越しでも冷たく感じられた。一瞬モニターが消え、会議室内がざわつく。私も、こんな大きなプロジェクトに
昨日のことを思い出すと、自然と口元が緩むのがわかった。瑠香と彩華――あの二人と過ごした時間は、久しぶりに穏やかで、心から楽しいと思えるものだった。だが、それも長く続く夢ではない。俺がいる現実を目の当たりにするたび、その甘い余韻は容赦なく引き剥がされる。「明日の朝、話があるから実家に来い」彩華たちを送った後、それだけの一言が父からの連絡だった。用件を伝えないのはいつものことだ。俺に選択権などない。父の指示には従うしかなかった。そして今、重苦しい朝を迎えている。広いダイニングルームには、見慣れた光景が広がっていた。大理石のテーブル、豪華な装飾、完璧に整えられた朝食。まるでホテルの一室のように整然としているが、そこに「家族」などあるはずもない。父はいつもの定位置に座り、新聞を広げていた。「話は高木のご令嬢とのことだ」父の低い声が静寂を切り裂いた。新聞から視線を上げることもなく、淡々とした口調で言葉を投げかける。「私と彼女はそういう関係にはなれません」「なんだと?」この日まではなんとなく曖昧に父に返事をしていた。初めて自分の意思を伝えたことで、父が新聞を投げつけるのが分かった。「高木家とは縁を深める必要がある。それが河和のためだ。お前は自分の役割を放棄するのか!」河和のため、役割、放棄――父にとって俺は、ただの道具に過ぎない。家のために利用される駒。それ以上でもそれ以下でもない。「断る選択肢はない。高木絵梨奈さんは、お前には過ぎた相手だ」追い打ちをかけるように言う父に、さらに反抗の言葉が口につくのをぐっと耐える。俺がここまで我慢する理由。それは、亡くなった異母兄――晃一のことがあるからだ。幼い頃、兄と過ごした日々を思い出す。彼は俺にとって「優しい兄」だった。週末には公園に連れて行ってくれたり、一緒にゲームをしたり、宿題を見てくれたり――兄といる時間は、いつも楽しかった。けれど、それがどれほど特別なものだったのかを、俺はあの頃にはわかっていなかった。たまにしか会えないことから、何かしら複雑な事情があることは子供ながらに理解をしていた。しかし、兄は俺が想像をすることすらできないほど、父から「後継者」としての重圧を背負っていたのだろう。それでも兄は、俺にはその苦しさを一切見せなかった。いつも明るくて優しくて、頼りになる兄だった。だけど、
「ふわ……」ベビーカーで静かに寝息を立てていた瑠香が、伸びをしながら目を覚ました。ぱちりと大きな瞳を開けると、周りを見回し、すぐに私のほうを見上げる。「おはよう、瑠香。たくさん寝たね」瑠香は「んー」と小さく返事をしながら、まだぼんやりしている様子だった。「少し遊んで帰ろうか」隣にいた日向がベビーカーのハンドルを押しながら、瑠香にそう声をかける。「疲れてない?」毎日遅くまで仕事をしているのも知っている以上、あまり遅くなるのも申し訳なくなる。「大丈夫だよ」柔らかく笑う日向に、私も小さく頷くと、瑠香の指さすほうへと歩き始めた。結局閉園になるまで一緒に過ごした。帰り送ってもらい、車が家の近くに止まり、瑠香を降ろそうとしたときだった。「彩華」日向が私を呼び止める。その声に、思わず背筋が伸びる。「久しぶりに、ご両親にも挨拶したいんだけど……いいかな?」その言葉に、私の胸は一気にざわめいた。「それは……」咄嗟に言葉が出てこない。どう断るべきかわからなかったけれど、家の中に日向を招き入れるわけにはいかない。「今日はちょっと……瑠香も疲れてるし、また今度にしよう?」必死で微笑みながらそう言うと、日向の眉がわずかに動いた。日向と一緒だということも話していないし、瑠香と日向が一緒にいる姿を見たら、母は何かを感じるかもしれない。それだけは避けたかった。日向はそんな私の態度に何かを感じ取ったようだったが、それ以上は何も言わなかった。「また誘ってもいいか?」「……どうして?」つい、そう尋ねてしまった自分に驚く。日向は少し考えるように視線を外し、次に瑠香を見つめた。そして、静かに言った。「瑠香ちゃんと遊びたいから」その答えに、胸がざわめく。でも、同時にどこかで安心した自分もいる。今日一日、日向と瑠香と過ごして気づいたことがある。私は、日向の隣にいると安心する。そして自分らしくいられる。けれど――。その「けれど」の先を考えると、どうしても心が乱れる。「あ、ありがとう。また……」言葉を濁しながら小さく頭を下げ、私は瑠香を抱きかかえると家の中へと向かった。家に帰り着くと、瑠香は案の定ぐっすりと眠りに落ちてしまった。動物園でたくさん遊んだから、さすがに疲れたのだろう。私はそっと彼女をベッドに寝かせ、柔らかい毛布をかけてあげた。薄暗い部屋の
都内の閑静な住宅街の一角。豪邸が立ち並ぶ中に、一軒のこじんまりとした家があった。小さな庭と赤い屋根が印象的なこの家は、四月の初旬、桜が咲き乱れる中で慌ただしかった。「瑠香、待って! 今日から保育園だから!」私のその声に、一歳三か月の娘はさらに廊下を走るスピードを上げた。追いかける私と遊んでいるつもりなのだろうが、こっちは必死だ。「ねえ、お母さん! 瑠香を止めて!」ようやく転ぶことなく小さな段差を超えられるようになった瑠香は、毎日元気いっぱいだ。「ほーら、捕まえた」私の母、静江にすっぽりと抱っこされた瑠香は、楽しそうにキャキャと声を上げる。「彩華、今日十二時にお迎えでいいのよね?」専業主婦の母が心配そうに私に声をかける姿に、少し苦笑する。「うん、ごめんね。お願い。今日は慣らし保育だから早いの」「本当に私はいいのよ。瑠香を保育園に入れなくても。ねー、瑠香」その母の優しさはとても嬉しい。しかし、母にだって予定が入ることもあるだろうし、持病もある。あまり無理をさせたくないのが実情だ。「早めに迎えに行ってくれるだけで助かるから」そう言いながら、私と瑠香の部屋へ行き、クローゼットから久しぶりの洋服を取り出す。子育てに忙しかったこの一年は、Tシャツにジーパンという出で立ちだったが、今日はセンタープレスのブラックのパンツに、薄いブルーのインナー。それにジャケットを手にして階段を下りる。リビングに入れば、瑠香を子供用の椅子に座らせながら、一緒に朝食をとる両親の姿があった。東雲彩華、二十六歳。ブラウンの肩までの髪に、目はぱっちりとした二重だ。美人というタイプではなく、どちらかといえば幼く見えるかもしれない。身長は159㎝で、至って普通の体型だと思う。高校を卒業後、大学へと進学して、大手のKOWA総合システムに入社した。しかし、一年半前から出産のために産休を取っており、今日から久しぶりの出社だ。休みに入る前、シングルマザーとして出産をすることを一部の人に伝えてあり、その当時は多少噂にもなったし、父親が誰かという憶測もあった。今もその話が残っているかわからないが、戻ることに不安がないと言えば嘘になる。しかし、私は、一生懸命働いて瑠香を育てていかなければいけない。この一年、実家の両親に甘えてばかりだったのだ。今は父も働いているし、私たち二人を快く迎え...
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