訳アリの幼馴染を忘れられない。だから一夜をともにした……。 最低なあなたを諦められない私が、一番愚かなのかもしれない。 この子は大切に一人で産み育てるから……。 すれ違いの恋模様は?
View Moreキリンを見た後、瑠香はテンションが上がりっぱなしで、次々と目に映る動物たちに声をあげていた。ゾウの大きさに驚き、シマウマの模様に見入る姿が可愛らしい。私もそんな瑠香の姿に自然と笑顔がこぼれる。いつもなら追いかけるだけで疲れてしまうけど、今日は違う。「お腹空いたかな?」日向が時計をちらりと見ながら私に声をかける。「そうだね、そろそろお昼にしようか」ベビーカーに座っていた瑠香も、どうやらお腹がすいたように見える。私達は園内のフードコートへ向かった。子供連れの家族が多く賑わっていて、子どもたちの楽しそうな声があちらこちらから聞こえてくる。「混んでるかな……」私が呟くと、日向は入口でキョロキョロと店内を見渡しながら言った。「あっ、あそこ」そう言うと、日向は窓際の席をすぐにとってくれた。メニューを開きながら、私はふと心配になった。園内のレストランだから、基本的にはファミリー向けのメニューばかり。大人用ももちろんあるが、子ども連れでの外食に豪華な料理を頼むわけにもいかない。「……日向、こういうところ、大丈夫?」気がつくとそう問いかけていた。彼は普段、高級レストランでの会食やビジネスディナーばかりの印象が強い。こんなカジュアルな場所で食事なんて……失礼じゃないだろうか。「どうして?」彼が不思議そうに眉を上げる。「えっと……あまりこういうところ、慣れてないんじゃないかなと思って」申し訳なくて、視線をそらしてしまう。けれど、彼はクスッと笑った。「全然問題ない。むしろ、こういう場所の方が落ち着くよ」そう言って、メニューを手にしたまま、少し目を細めて笑う。「それに、瑠香ちゃんが楽しそうなら、それが一番だろ?」その一言に、私の胸がじんと熱くなる。昔から日向は優しい。だから、私はずっと何があっても忘れられなかったのだ。こんなことを知りなくないのに。そう思うが、今は瑠香のためにはありがたい。「ありがとう」瑠香は楽しそうにお子様ランチのメニューを指差し、アピールしていた。パンダの顔が描かれたうどんやハンバーグがワンプレートになったセット。カラフルな見た目にテンションが上がった様子だった。「瑠香、それがいいの?」「あい」満面の笑みでうなずく娘を見て、私も笑ってしまう。「じゃあ、それにしようね」料理が運ばれてくると、瑠香は目を輝かせて喜
週末の動物園の周辺はやはり車も多く、駐車場も満車だったため、少し離れた場所に車を止めることになった。車を降りると、私はふと気づいた。うっかりしていた――いや、緊張していたせいか、ベビーカーを持ってこなかったことに気づく。瑠香は歩きたい盛りだが、人が多い場所では危ないし、そもそも歩く速度も遅い。これは抱っこした方が良さそうだ。「瑠香、抱っこしようか?」私が手を差し出すと、瑠香も素直に両手を広げた。私も屈んで抱き上げようとしたその時――。「俺でも大丈夫かな?」不意に聞こえた日向の声に、私は動きを止めた。「え?」驚いて横を見ると、彼は私を見下ろしながら軽く手を差し出していた。「大変だろ? 動物園に着いたらベビーカーを借りられるだろうけど、それまで俺が抱っこするよ。瑠香ちゃん、おいで」彼は静かにそう言うと、瑠香に向けて手を広げた。その様子に、私は一瞬言葉を失う。「大丈夫。私が――」慌てて断ろうとするが、瑠香はすでに日向の方を見て笑い、彼の腕に手を伸ばしていた。「おいで」日向が柔らかい笑顔で声をかけると、瑠香はためらいなく彼に身を預けた。日向は軽々と瑠香を抱き上げ、そのまま抱っこして歩き出した。「軽いな」瑠香を抱きながら、彼はどこか嬉しそうに微笑む。「ちょっと……そんな慣れてないでしょう? それにもう軽くないよ」私がそう言うと、日向は肩越しに振り返り、穏やかな表情で答えた。「これくらい軽いよ。大丈夫」その言葉に、私は昔の彼の姿を思い出してしまう。優しくて、周りを気遣う少年のような日向。少しの間、その姿に見惚れてしまう自分がいた。「さ、行こうか。瑠香ちゃん、動物園楽しみ?」「あい」瑠香の小さな声に、日向も嬉しそうに笑った。「よし、パンダに会いに行こうな」その光景を見ながら、私の胸は複雑な感情でいっぱいだった。こんな風に自然に瑠香と接してくれる彼を見て、心が温かくなるのと同時に、少しだけ胸が苦しくなる。何度も逃げたくなる気持ちを押さえながら、私は二人の後ろを追いかけた。今日は、会社とちがい、敬語をつかうことも忘れていた。それはきっと日向がそう言う雰囲気だったからだろう。二人だと気まずいままだったかもしれないが、瑠香がいることで穏やかな空気になっている。そして、やっぱり瑠香と日向は似ている気がする。笑った顔や、ふとした瞬間が
結局、10分ほど遅刻してしまい、日向はもういないかもしれない。そんなことを思いながら、指定された場所に向かう。どうやって来ているのかもわからないし、「駅で」とだけ言われた。ただでさえ休日で人が多い。人混みの中で日向を見つけられるのだろうか……そんな不安が胸をよぎる。けれど、ふと気づいた。周囲の人々が何となく同じ方向に視線を向けていることに。その先を見れば――そこにいたのは日向だった。スマホに視線を落とし、何か思案しているようにも見えた。そんな表情が余計に映画のワンシーンのようにも見える。そんな彼を、周囲の女の子たちがちらちらと見ているが、本人は全く気にしていないように見えた。こんななかの彼に私が声をかけるなんて……。そう思っていると、不意に日向が顔を上げ、こちらを見た。「あっ……」思わず声が漏れてしまう。彼の視線が私を捉えた瞬間、ほんのわずかに表情が和らいだ気がする。私の胸がきゅっと締まるような感覚に包まれる。いつも完璧なスーツ姿で会社にいる日向。その印象があまりにも強かったせいか、彼のラフな格好に思わず目を奪われた。白いシンプルなシャツの袖を軽くまくり上げ、濃いネイビーのカーディガンを羽織っている。下はダークグレーのスリムなパンツ。「きてくれてありがとう」遅れたにも関わらず、お礼を言われて私は小さく首を振る。「ごめんなさい……瑠香が準備に手間取っちゃって……」申し訳なさそうに瑠香に視線を落とすと、日向はその視線を追いしゃがみこんだ。「瑠香ちゃん、きょうはお兄さんも一緒に遊んでいい?」あまり男性に慣れていない瑠香がどんな態度をとるか心配だったが、意外にも人見知りをする瑠香だったが、にっこりと笑った。「お兄さんって」前回、気まずいママだったことも忘れて、いつも通り口にしてしまいハッとする。「まだおじさんって呼ばれるのは早いだろ?」日向がそう言いながら笑ってくれて、なんとなく空気が和んだ気がした。「すぐそばに車を止めてるから」日向が立ち上がり、駅の出口へと視線を向けながらそう言った。「でも……チャイルドシートいるよ?」自然と出た言葉に、自分でも驚いた。日向が子ども用の設備を整えているわけがない。けれど、瑠香を乗せるなら絶対に必要だ。「大丈夫、用意したから」さらりと告げる彼に、私は一瞬言葉を失った。「そこまでしたの?
いつも通りに仕事を終え、食事を済ませて瑠香を寝かしつけた。夜、静まり返った部屋で、私はベッドに腰を下ろしていた。ベッドサイドの小さなライトだけが、ぼんやりと空間を照らしている。いろいろなことが一気に起こって、何がなんだかわからない。そんなとき、スマホが振動した。「こんな時間に……?」ディスプレイに表示された名前に、一瞬手が止まる。日向からのメッセージだ。仕事の話だろうかと思ったが、副社長が直接私に連絡してくることなどほとんどない。恐る恐る画面を開くと、思いも寄らない内容が目に飛び込んできた。「彩華、週末の予定はあるか? ないなら、瑠香を連れて動物園に行かないか? S駅に10時に待ってる」「え……動物園?」思わず読み返す。何かの間違いではないかと疑ったが、何度見ても内容は同じだ。聞いているのに「待ってる」という書き方に、思わず息を吐き出した。普通なら断るだろう。こんな誘い、まともに受け入れる必要なんてない。だけど、どうしてだろう。瑠香の笑顔が頭をよぎった。「瑠香、喜ぶかな……」上野動物園のパンダや、賑やかな園内を楽しむ瑠香の姿が浮かぶ。胸がきゅっと締めつけられる。彼と一緒に過ごすことなどないと思っていた。けれど、父親である日向と瑠香が一緒にいる時間……そんな一瞬があってもいいのではないかと思ってしまう。瑠香が大きくなったとき、きっと覚えていないだろう。でも、父親と動物園に行ったという記憶を、少しでも形に残せたら。「写真……」顔が写らなくてもいい。後姿だけでもいい。瑠香がいつか「お父さん」と呼べる人と過ごした証を、何か形にして残したい。「……私、何を考えてるの?」頭を振り、目をぎゅっと閉じる。だけど、心の中の葛藤は消えなかった。行くべきではない。でも、行きたい気持ちがあるのも事実だった。結局、悩みすぎて返事を送れなかった。それなのに、当日が来てしまった。「どうするの、私……」時計をチラリとみると、八時半を過ぎている。行くならば用意をしなければならない。「彩華、今日は瑠香、どこか連れてく?」母の言葉に、私は少し口ごもる。「えっと、久しぶりに友達と一緒に、瑠香を連れて動物園でも行こうかなって」友達……咄嗟に出た言葉だが、小さいころからの友人であることには変わりない。ただ、瑠香の父親という事実を除けば。「そうなの! いいじゃ
瑠香という名前。そして年齢。その断片的な情報が頭の中で繋がりを持ち始めた瞬間、心臓が早鐘のように鳴り響いた。いや、まさかそんなことは――。けれど、否定しようとするたびに胸の奥に湧き上がる感情が抑えられない。あの夜の記憶。月明かりに照らされた彼女の横顔と、腕の中で静かに眠っていた彩華。「違うはずだ」独り言のように呟きながらも、足は止まらなかった。彼女の名前を心の中で何度も呼びながら、俺は衝動的に会社を出ていた。街灯の光が不規則に並ぶ夜道を抜け、遠ざかるタクシーを追いかけるように視線を巡らせた。けれど、彼女の姿はどこにも見えない。その時――。視界の端に、タクシーを見送るように立ち尽くす背中が映った。神代だった。俺は自然とその方向へ足を向けた。夜風が肌を撫でるたびに、胸の奥で渦巻く感情がさらなる疑念を呼び起こす。「神代君」静かに名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。その表情はとくに驚いた様子はない。「どうしてここに?」冷静な口調だったが、その瞳には挑戦的なものが見えた。「送ってくれてありがとう」感情を押し隠しながら告げると、神代の眉がわずかに動いた。「どうして副社長が俺にお礼を言うんですか?」その言葉には、ささやかな刺があった。俺は彼の内心を探るようにじっと見据えながら、答える。「彼女を気にかけてくれているのが分かるからだ」短い言葉に込めた想いは、自分でも整理しきれていなかった。感謝だけではない。その裏には、彩華のことを巡るわだかまりと、彼への牽制が混じっているのかもしれない。「俺は、ただ彼女のためにしただけです。それ以上の意味はありません」神代の声には確固たる決意が感じられた。だが、その言葉の裏にあるものが何か、俺には見抜けなかった。「それなら、それでいい」静かにそう告げると、俺は彼に背を向けた。振り返ることなく歩き出した。もしも、もしも、瑠香が俺の子だったとしたら、どれだけ彼女に辛い思いをさせたのだろう。許されないことをしてしまったのじゃないか。そうは思うが、簡単に神代に渡すわけにはいかない。しかし、俺にはまだ乗り越えないといけないこともある。会いたいなーー。追う思いつつ、夜空を見上げた。 ※※ あの打ち上げの日から数日、私はなんとなく落ち着かない気持ちのまま仕事をしていた。 神代さんは、あの日のことは
会場を出ると、夜風がひやりと肌を撫でた。会社から少し歩き、大通りまで出ると神代さんが足を止めた。「ここでタクシーを拾おう」手を挙げ、タクシーを止める神代さん。その横顔は相変わらず穏やかだが、どこか考え込んでいるようにも見える。タクシーが停まり、乗り込もうとしたとき、彼がふと口を開いた。「なあ、東雲」「はい?」車内に入ろうとした足が止まる。振り向くと、彼は私をじっと見つめていた。「副社長と……いや、何でもない」その途切れた言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。「どういう意味ですか?」無理に笑みを作りながら問い返す。けれど、内心では恐ろしい想像が駆け巡っていた。神代さんに何か気づかれているのだろうか?彼は少し視線を逸らし、タクシーのドアに手をかけた。けれど、乗り込む前に再び私のほうを見た。「東雲って、副社長と……何かあったのか?」鋭い言葉に息を呑む。すぐに否定しなければと思ったのに、喉が詰まって声が出ない。「いや、違うな。俺が言いたいのは……」神代さんの表情が、少しだけ寂しそうに緩む。「俺じゃ、ダメか?」その問いに、私は思わず彼の顔を見つめた。彼が何を言おうとしているのか、その言葉の意味を理解した瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。※ ーーー神代タクシーが見えなくなるまでその場に立ち尽くし、深く息を吐き出した。つい、彼女に言ってしまった。「俺じゃ、ダメか?」心に湧き上がる後悔と自己嫌悪。けれど、抑えきれずに零れた言葉だった。ーーー初めて彼女を見たのは、新人の頃だった。配属されたばかりの頃、明るくて一生懸命で、いつも周囲に気を遣って笑顔を絶やさない彼女。気がつけば、目で追っていた。でも、彼女には誰も近づかなかった。社内で「男嫌い」という噂が立つほど、男性に対して一線を引いているように見えたからだ。だから俺も、ただのいい先輩でいようと思った。それなのにーーー突然、産休を取ると聞かされたときは衝撃を受けた。「結婚するなんて聞いていなかったのに……」頭の中で何度もその言葉がこだまする。彼女の周囲の誰も事情を知らないし、結婚式を挙げたという話も聞いたことがない。ただ、無事に子どもが生まれたという報告を加奈から聞いた。それでも俺は、気持ちを整理して前を向こうと思った。過去は過去、もう手の届かない存在なのだと。しかし、彼女
「今日はビュッフェ形式になっております。お好きなお料理をどうぞ」 にこりと完璧な笑みのスタッフに案内され、テーブルのひとつに通された。日向はまだ来ていないようで、プロジェクトに参加していたいつものメンバーで食事会は始まった。どの料理もおいしくて、生ハムやチーズ、ワンスプーンの美しいサーモンの前菜など、目を引く料理を皿に乗せていく。「美味しそうだね」 加奈先輩も目を輝かせている。私も久しぶりのこの雰囲気に調子に乗って料理を取りすぎた。そう思っていた時だった、秘書の男性を伴って日向が入ってくるのが分かった。「副社長、お先にいただいています」 日向に気づいた神代さんがそう言うと、日向は「もちろん」とだけ答え、秘書と一緒に用意されていた上座の席に腰を下ろした。すぐにスタッフが、みんなのところにシャンパンを配り始める。「僭越だが、お礼を伝えたい。一度席についてくれるか?」 日向のそのセリフに、みんなが席に座ると、自然と彼の方に注目した。「本社に戻ったばかりの私を受け入れ、一緒に成果を出してくれたことに感謝を。今日は無礼講だ。楽しんで行ってくれ」「かんぱーい!」 その楽しく嬉しい雰囲気に、私は持っていたシャンパンを一気に流し込んだ。妊娠してからもう何年もお酒を飲んでいなかった。いや、正確にはあの夜、日向とワインを飲んだのが最後だ。一気にアルコールが身体をめぐり、身体が熱くなる。「やだ、彩華ちゃん顔真っ赤」 加奈先輩がクスクスと笑いながら、私の顔を覗き込む。「え? 東雲、酒弱かったっけ?」 瑠香を生む前は、男の人顔負けに飲んでいたこともあるが、やはり久しぶりのアルコールとこの雰囲気に酔いそうだ。「そんなことないんですけどね」 グラスを置くと、これ以上酔わないようにと、美しいテリーヌを口に運ぶ。サーモンとチーズの濃厚な味に、またグラスに手を伸ばしそうになるのを慌てて止めた。「飲めばいいんじゃないか?」 個別に仕事以外で話しかけられたのは、あの初めの日以来かもしれない。日向の言葉に、神代さんが苦笑しつつ口を開く。「瑠香ちゃん待ってるから、気にしてるんだろ?」 「そうですね」日向の前で瑠香の名前を出してほしくなかったが、ここで話題を変えても不自然だろう。「瑠香ちゃんっていうの? 東雲さんの娘さん」 「めちゃくちゃかわいいんですよ! おめめ
それからの日々は、日向とは完全に上司と部下という関係が築かれていたと思う。神代さんが真ん中に入ってくれることもあり、私と日向が直接話すこともなかったのは幸いだった。プロジェクトの時期は忙しかったが、この案件が終わったら仕事を辞めるつもりなので、少しだけ両親に甘えさせてもらおうと思う。その後はまた仕事を探しつつ、すぐに見つからなければバイトでもして家にお金を入れればいい。そんなことを考えていた。上司である部長にも、プロジェクトが終わったら辞めるという話はしてある。今は大切な時期だから、みんなには内緒にしてほしいと伝えた。『産休明け戻ってみたが、やはり子供が保育園になじめなかった』――もっともらしい理由に、部長は残念がってくれたが、「仕方がない」と受け入れてくれた。もともと、私は仕事も好きだが、料理をしたり、子供と一緒に温かい家庭を作るのが夢だった。しかし、一人で瑠香を産んだとき、その夢は諦めた。まさか日向が原因で仕事を辞めることになるとは思っていなかったけれど。すべては、あの夜の自分の行動が原因だ。後悔していないかと問われれば、嘘になるかもしれない。でも、瑠香を授けてくれたことには本当に感謝している。あのまま、誰とも一線を越えることなく、仕事だけに生きていたかもしれないのだから。瑠香を授かれたこと、それが私の一番の宝物だ。「東雲、今日で決めるぞ」その緊張感のある神代さんの言葉に、私は仕事だけに集中しようと決意して頷いた。今日は、アメリカとのウェブでの条件交渉がある。それで合意を得られれば、我が社にとって非常に大きな取引先ができ、莫大な利益をもたらす。副社長である日向も参加するほどの大きなプロジェクトに最後関われたことは、本当に貴重な経験だったと思う。開始の三十分前、大会議室に後輩と一緒に入り、プロジェクターの準備やネット回線の最終チェックを行った。そして、資料を何度も確認する。「東雲、準備は大丈夫か?」「はい」予定より早く会議室に入ってきた日向に、私は冷静を装って答える。「こちらを」一応、スライドの内容を印刷し、詳しい資料を添付したものを日向に渡す。日向は黙ってそれを受け取った。「お待たせしています」日向が先に来ていたことに少し驚いた様子で、神代さんや加奈先輩も入ってきた。そして、開始五分前、ネット回線がつながり、アメリカの担当者
「彩華、どうしたのよ? 帰ってきてから元気がないじゃない?」父と一緒にお風呂に入ると言って浴室に向かった瑠香を見送りながら、母にそう言われ、私は小さくため息をついた。「そんなことないよ」笑顔を作ってみせたが、母はじっと私の顔を見つめてくる。「彩華が瑠香の顔を見て、すぐに調子が悪いってわかるように、私はわかるのよ」その説得力のある言葉に、私はキュッと唇を噛んだ。確かに、母になってから瑠香の顔ひとつで体調や気分がなんとなくわかるようになった。母にとっては、私も同じということか。「うん……。会社でちょっとね」「失敗でもしたの? やっぱり瑠香を見ながらだと大変じゃない? 体調も戻ったばかりだし」心から心配する母に、私は曖昧な笑みを浮かべた。出産後、体調が戻らず、母に家事をほとんど任せ、私は子育てだけに専念してきた。それに対して感謝しかない。けれど――。小さい頃から何でも話してきた母に、日向のことだけは話せなかった。母は何度も「彩華の初恋は日向君ね」と冗談めかして言っていたが、私はそれを認めたことがない。恥ずかしかったのか、それとも知られたくなかったのか。妊娠したときも同じだった。父親の名前を聞かれても、私は何も答えなかった。頑なに口を閉ざした私を見て、両親がどう思ったのかは、今でもわからない。「そうだね、もしかしたら甘えるかも。ごめんね」そう言って誤魔化すと、母は心配そうに眉をひそめたが、それ以上は追及してこなかった。仕事を続けたい気持ちはある。でも、このまま日向と同じ会社にいることができるのかはわからない。仕事だけでなく、彼が結婚し、家族を作る姿を見ることに耐えられるのか。それに――。瑠香の存在が重くのしかかる。彼が結婚して子供が生まれれば、その子と瑠香は血のつながりがあるのだ。その事実を隠し続けることは、果たして許されるのだろうか?「本当に大丈夫?」母の声にハッとして振り向くと、廊下からバタバタという音が聞こえた。「瑠香、出たみたいだね」「うん」母に「大丈夫」と伝えるように微笑むと、私は立ち上がった。「ルカー、楽しかった?」「あーい」バスタオルに包まれた瑠香を抱きしめる。その小さな体から伝わる温かさが、迷いをかき消してくれる気がした。この子を守らなければいけない――。そんな思いを胸に、私は明るく振舞った。その夜。瑠香の寝
都内の閑静な住宅街の一角。豪邸が立ち並ぶ中に、一軒のこじんまりとした家があった。小さな庭と赤い屋根が印象的なこの家は、四月の初旬、桜が咲き乱れる中で慌ただしかった。「瑠香、待って! 今日から保育園だから!」私のその声に、一歳三か月の娘はさらに廊下を走るスピードを上げた。追いかける私と遊んでいるつもりなのだろうが、こっちは必死だ。「ねえ、お母さん! 瑠香を止めて!」ようやく転ぶことなく小さな段差を超えられるようになった瑠香は、毎日元気いっぱいだ。「ほーら、捕まえた」私の母、静江にすっぽりと抱っこされた瑠香は、楽しそうにキャキャと声を上げる。「彩華、今日十二時にお迎えでいいのよね?」専業主婦の母が心配そうに私に声をかける姿に、少し苦笑する。「うん、ごめんね。お願い。今日は慣らし保育だから早いの」「本当に私はいいのよ。瑠香を保育園に入れなくても。ねー、瑠香」その母の優しさはとても嬉しい。しかし、母にだって予定が入ることもあるだろうし、持病もある。あまり無理をさせたくないのが実情だ。「早めに迎えに行ってくれるだけで助かるから」そう言いながら、私と瑠香の部屋へ行き、クローゼットから久しぶりの洋服を取り出す。子育てに忙しかったこの一年は、Tシャツにジーパンという出で立ちだったが、今日はセンタープレスのブラックのパンツに、薄いブルーのインナー。それにジャケットを手にして階段を下りる。リビングに入れば、瑠香を子供用の椅子に座らせながら、一緒に朝食をとる両親の姿があった。東雲彩華、二十六歳。ブラウンの肩までの髪に、目はぱっちりとした二重だ。美人というタイプではなく、どちらかといえば幼く見えるかもしれない。身長は159㎝で、至って普通の体型だと思う。高校を卒業後、大学へと進学して、大手のKOWA総合システムに入社した。しかし、一年半前から出産のために産休を取っており、今日から久しぶりの出社だ。休みに入る前、シングルマザーとして出産をすることを一部の人に伝えてあり、その当時は多少噂にもなったし、父親が誰かという憶測もあった。今もその話が残っているかわからないが、戻ることに不安がないと言えば嘘になる。しかし、私は、一生懸命働いて瑠香を育てていかなければいけない。この一年、実家の両親に甘えてばかりだったのだ。今は父も働いているし、私たち二人を快く迎え...
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