門を通り過ぎ、久しぶりの通勤路を歩きながら、私はふと足を止めた。胸の奥にこびりついている思い出が、春の日差しに照らされるように鮮明になる。
「日向……」
その名前を小さくつぶやくと、まるで昨日のことのように彼の笑顔が頭に浮かぶ。幼い頃はただの兄のような存在だった。でも、中学生になって、彼が大人の世界に足を踏み入れているのを知ったあの日、私の中で何かが変わった。そしてその後、私は過ちを犯した。
――どうして私は、あの時『妹』と呼ばれたことにあんなにも傷ついたのだろう。そして、どうして私はあの日、一夜をともにしたのだろう。
――― 追憶
幼馴染という関係ではなく、私がはっきりと日向に恋をしていると感じた十三歳の時だった。
中学生になり、中高一貫の学校に通っていた私の目に飛び込んできたのは、日向とたくさんの友人たちだった。
その中には、大人っぽくてメイクがとても似合う女の先輩も数多くいた。
初めて見る、自分とは違う日向に、なぜか居心地が悪くなる。くるりと踵を返そうとした私を引き留める呼び声。
「彩華」
自分でも初めて感じる嫉妬心。ずっと私のそばにいると思っていたのに、日向の周りにはたくさんの人がいる。その現実を突きつけられた気がした。
「日向、この子? お隣の妹ちゃん」
今でも忘れることができないほど、綺麗な女の先輩の口から発せられた”妹”というセリフ。
「ああ。かわいいだろ」
日向のそのかわいいという言葉が、子供に伝える時のように聞こえてみじめで仕方がなかった。
あの日から、私は日向を避け続けてしまった。淡い恋心と、幼すぎた初恋。
それでもずっと日向は隣にいる。だから、きっといつでも仲直りできる。そう思っていた。
しかし、いつの間にか学校でも、近所でも日向を見ることがなくなった。
慌てて隣のおばあちゃんに聞きに行った時には、日向はもうそこには戻らないことを知った。
「理由は話せないの」ごめんね。
そう言いながら、春子さんは一通の手紙を私にくれた。
「彩華、いい子でいろよ」
それだけが書かれた手紙。幼い私の恋心はその時あっけなく終わりを告げた。いや、恋と呼んでよかったのかもわからない。
そばにいすぎただけで、単なる思い込みだったかもしれない。
それから数年たち、ようやく私は日向のことを忘れ、大学生活を送り、大手の会社に就職も決めたと思っていた。
友人もでき、それこそ男友達も数人いた。好意を持ってくれた人もいて、お付き合いをしたこともある。
手をつなぎ、キスをして、そして体を繋げる。ほとんどの人があたりまえにやっていることだ。そう思っていたのに、どうしても私は最後の一線を誰と超えることができなかった。
まるで日向の「いい子でいろよ」という文字が、私に呪いでもかけた様に、悪いことをしている気がしてしまうのだ。
父も母も恋愛結婚で、「彼氏の一人もいないの?」そう聞く人たちだったため、決して家が厳しいからとか、そんなことはない。
ただ、そういう場面になると、固まってしまうのだ。付き合った人は初めは我慢強く、ゆっくりと進めてくれようとしていたが、最後は「無理だ」そう言って去っていった。
私だって、どうしてこんな風になってしまうかわからないが、キスをされても、触れられても身体が緊張してしまうのは、どうしようもない。
就職して一年がたったころ、真剣にネットで心療内科を探したこともあった。その記事の中に”心理的なトラウマ”そう書かれていたが、特に何も思い当たらない私には役に立たなかったし、どうすることもできなくなった。
そのうち、私はもう恋愛はできない。一生このまま誰とも結ばれることなく過ぎていくのだと、諦めて仕事に専念をし始めたころ、夜遅く家に帰る途中、隣の家の遠くに光を見た気がした。
日向がいなくなって、数年後、春子さんは引っ越してしまった。それ以来、誰もこの家には住んでいないし、ずっと空き家のままだ。
誰かが購入するにしても、かなり大きな邸宅で値も張るからだろう。そう両親が話していたのを思い出す。
買い手がついたのだろうか?
「ねえ、お隣って買い手決まったの?」
「帰るなり何? もう遅いんだから早く夕飯食べちゃってよ」
ただいまの挨拶もせずに尋ねた私に、母は呆れたように声を上げた。
気のせいだったのだろうか。もしかしたら空き巣とか……。
母が用意してくれた食事を食べながら、ずっとそのことが頭を過った。
「彩華、もう遅いから先寝るから、食器ぐらい洗っておいてよ。お父さんもとっくに寝てるからお風呂は静かにね」
母の言葉に適当に返事をしつつ、私は食事を食べ終えるとそっと家を抜け出した。
「ねえ、お隣って買い手決まったの?」 「帰るなり何? もう遅いんだから早く夕飯食べちゃってよ」ただいまの挨拶もせずに尋ねた私に、母は呆れたように声を上げた。気のせいだったのだろうか。もしかしたら空き巣とか……。 母が用意してくれた食事を食べながら、ずっとそのことが頭をよぎった。「彩華、もう遅いから先に寝るから、食器ぐらい洗っておいてよ。お父さんもとっくに寝てるからお風呂は静かにね」母の言葉に適当に返事をしつつ、私は食事を食べ終えるとそっと家を抜け出した。昔からどうしても気になると確認しなくては気が済まない自分の性格を呪う。 隣の家といっても、かなり遠い正門にはいかず、私はポケットからキーケースを取り出し、視線をそこに落とした。小さな一つの鍵。この数年一度も使ったことのないものだ。隣の屋敷の秘密の小さな扉。昔はお手伝いさんたちの入口だと聞いていたが、今は通いの人しかいなくなり、使わなくなったと聞いていた。 まだ小学生の頃、日向との秘密の通路。その小さな扉に鍵を差し込めば、カチャリと音がした。木の軋む音とともに、そこを開ければ広い庭に出るのだ。花が好きだった春子さんが大切にしていた薔薇園。しかしそこには薔薇はなかった。 枯れて花が咲いていない棘だけが確認できる花壇に近づき、人気のないその家にやっぱり勘違いだったと寂しくなる。「彩華?」もうずっと聞くことはないと思っていた声が私を呼んだ。それがすぐに誰のものかとわかった自分に驚いた。「日向……」ほとんど無意識に漏れたその言葉に、ドクンと胸が音を立てる。誰かがいるかも、そう思ってここにきた。 空き巣かもしれない、と訳の分からない正義感をかざしつつ、心の中でもしかしたら日向がと思ったことは否定しない。しかし、ほとんど百パーセントといっていいほど、日向がいるなんて奇跡……。 奇跡? そこまで思って私は自分が日向と会いたかったことに気づいた。 自ら距離を取り、何も言わずに引っ越していったことを恨んだのに、私は心の中で彼を求めていたとでもいうのだろうか。自分の思考に唖然として、雲がかかり、仄かな月明かりの下立ちすくむ。日向の表情は見えないが、何も言わないことからいきなり家に入ってきた私に驚いているのだろう。「大きくなったな」その言葉の後すぐ、雲が晴れ、一気に満月の月明かりが私たちを照らす。
「そうだな。じゃあ、少し付き合えよ」「え?」私の返事を聞くことなく、日向はそのままテラスから家へと入っていく。「ちょっと待って日向!」その姿を追いかけて、サロンに入ればきちんと手入れされたその場所に驚いてしまう。「あれ、綺麗」「毎月きちんと清掃管理がされてるから」「そうなんだ」想像と違うその場所に、何も考えず言葉が零れる。「ねえ、日向は今日はどうして?」「んー? なんとなく。彩華、もう飲める年なんだろ?」備え付けられたバーカウンターから、ワインを取り出しグラスを出す。「まだ、ばーさんが住んでた頃のワインだけど、大丈夫そうだな」慣れた手つきでワインを開け、グラスに注いでいく。ボルドーの液体が小気味いい音を立てて注がれる。それで、この場がなぜか特別な気がしてしまった。今どうしてここに日向がいて、また明日からどこへいってしまうのかもわからない。それでも、今日向に会えたことが嬉しかった。月明かりがサロンの窓ガラスから入ってきて、胸元から見える日向の鎖骨にドキッとしてしまう。妖艶なその瞳に、私は吸い寄せられるように、距離を詰めていた。「彩華?」そんな私に彼は驚いたように、目を見開いた。「ねえ、日向。また明日にはここにいないんでしょう?」答えは聞かなくてもわかる気がしたが、あえてその問いを口にする。「ああ」「どうしているの? とかそんなことは聞かない」「彩華どうした?」私が何を言いたいか理解できないようで、日向がかなり怪訝な表情を浮かべる。「あのね、この十年、私誰ともできないの」「できない?」今度は完全に意味がわからないといった様子の日向。アルコールというのは本当に怖い。こんな恥ずかしいことを臆面もなく話している自分が信じられない。でも、また会えなくなるのなら、一度だけ日向と試してみたかった。誰に触れられても固くなってしまう、この呪われた身体。それは日向も同じだったら、私は寺でもどこでも入って一生独身でもいい。「そう、何人もの人と付き合ったんだよ。でも、誰ともできなかった。触れられると身体がカチカチになっちゃって」「そうか……」日向はこの赤裸々な告白に、少し困ったような表情を浮かべた。「うん」しばらく無言の時間が流れた。「きっと、いつか心から彩華が好きだと思った相手ならそんなことないよ」そう言うと、日向
都内の閑静な住宅街の一角。豪邸が立ち並ぶ中に、一軒のこじんまりとした家があった。小さな庭と赤い屋根が印象的なこの家は、四月の初旬、桜が咲き乱れる中で慌ただしかった。「瑠香、待って! 今日から保育園だから!」私のその声に、一歳三か月の娘はさらに廊下を走るスピードを上げた。追いかける私と遊んでいるつもりなのだろうが、こっちは必死だ。「ねえ、お母さん! 瑠香を止めて!」ようやく転ぶことなく小さな段差を超えられるようになった瑠香は、毎日元気いっぱいだ。「ほーら、捕まえた」私の母、静江にすっぽりと抱っこされた瑠香は、楽しそうにキャキャと声を上げる。「彩華、今日十二時にお迎えでいいのよね?」専業主婦の母が心配そうに私に声をかける姿に、少し苦笑する。「うん、ごめんね。お願い。今日は慣らし保育だから早いの」「本当に私はいいのよ。瑠香を保育園に入れなくても。ねー、瑠香」その母の優しさはとても嬉しい。しかし、母にだって予定が入ることもあるだろうし、持病もある。あまり無理をさせたくないのが実情だ。「早めに迎えに行ってくれるだけで助かるから」そう言いながら、私と瑠香の部屋へ行き、クローゼットから久しぶりの洋服を取り出す。子育てに忙しかったこの一年は、Tシャツにジーパンという出で立ちだったが、今日はセンタープレスのブラックのパンツに、薄いブルーのインナー。それにジャケットを手にして階段を下りる。リビングに入れば、瑠香を子供用の椅子に座らせながら、一緒に朝食をとる両親の姿があった。東雲彩華、二十六歳。ブラウンの肩までの髪に、目はぱっちりとした二重だ。美人というタイプではなく、どちらかといえば幼く見えるかもしれない。身長は159㎝で、至って普通の体型だと思う。高校を卒業後、大学へと進学して、大手のKOWA総合システムに入社した。しかし、一年半前から出産のために産休を取っており、今日から久しぶりの出社だ。休みに入る前、シングルマザーとして出産をすることを一部の人に伝えてあり、その当時は多少噂にもなったし、父親が誰かという憶測もあった。今もその話が残っているかわからないが、戻ることに不安がないと言えば嘘になる。しかし、私は、一生懸命働いて瑠香を育てていかなければいけない。この一年、実家の両親に甘えてばかりだったのだ。今は父も働いているし、私たち二人を快く迎え
「そうだな。じゃあ、少し付き合えよ」「え?」私の返事を聞くことなく、日向はそのままテラスから家へと入っていく。「ちょっと待って日向!」その姿を追いかけて、サロンに入ればきちんと手入れされたその場所に驚いてしまう。「あれ、綺麗」「毎月きちんと清掃管理がされてるから」「そうなんだ」想像と違うその場所に、何も考えず言葉が零れる。「ねえ、日向は今日はどうして?」「んー? なんとなく。彩華、もう飲める年なんだろ?」備え付けられたバーカウンターから、ワインを取り出しグラスを出す。「まだ、ばーさんが住んでた頃のワインだけど、大丈夫そうだな」慣れた手つきでワインを開け、グラスに注いでいく。ボルドーの液体が小気味いい音を立てて注がれる。それで、この場がなぜか特別な気がしてしまった。今どうしてここに日向がいて、また明日からどこへいってしまうのかもわからない。それでも、今日向に会えたことが嬉しかった。月明かりがサロンの窓ガラスから入ってきて、胸元から見える日向の鎖骨にドキッとしてしまう。妖艶なその瞳に、私は吸い寄せられるように、距離を詰めていた。「彩華?」そんな私に彼は驚いたように、目を見開いた。「ねえ、日向。また明日にはここにいないんでしょう?」答えは聞かなくてもわかる気がしたが、あえてその問いを口にする。「ああ」「どうしているの? とかそんなことは聞かない」「彩華どうした?」私が何を言いたいか理解できないようで、日向がかなり怪訝な表情を浮かべる。「あのね、この十年、私誰ともできないの」「できない?」今度は完全に意味がわからないといった様子の日向。アルコールというのは本当に怖い。こんな恥ずかしいことを臆面もなく話している自分が信じられない。でも、また会えなくなるのなら、一度だけ日向と試してみたかった。誰に触れられても固くなってしまう、この呪われた身体。それは日向も同じだったら、私は寺でもどこでも入って一生独身でもいい。「そう、何人もの人と付き合ったんだよ。でも、誰ともできなかった。触れられると身体がカチカチになっちゃって」「そうか……」日向はこの赤裸々な告白に、少し困ったような表情を浮かべた。「うん」しばらく無言の時間が流れた。「きっと、いつか心から彩華が好きだと思った相手ならそんなことないよ」そう言うと、日向
「ねえ、お隣って買い手決まったの?」 「帰るなり何? もう遅いんだから早く夕飯食べちゃってよ」ただいまの挨拶もせずに尋ねた私に、母は呆れたように声を上げた。気のせいだったのだろうか。もしかしたら空き巣とか……。 母が用意してくれた食事を食べながら、ずっとそのことが頭をよぎった。「彩華、もう遅いから先に寝るから、食器ぐらい洗っておいてよ。お父さんもとっくに寝てるからお風呂は静かにね」母の言葉に適当に返事をしつつ、私は食事を食べ終えるとそっと家を抜け出した。昔からどうしても気になると確認しなくては気が済まない自分の性格を呪う。 隣の家といっても、かなり遠い正門にはいかず、私はポケットからキーケースを取り出し、視線をそこに落とした。小さな一つの鍵。この数年一度も使ったことのないものだ。隣の屋敷の秘密の小さな扉。昔はお手伝いさんたちの入口だと聞いていたが、今は通いの人しかいなくなり、使わなくなったと聞いていた。 まだ小学生の頃、日向との秘密の通路。その小さな扉に鍵を差し込めば、カチャリと音がした。木の軋む音とともに、そこを開ければ広い庭に出るのだ。花が好きだった春子さんが大切にしていた薔薇園。しかしそこには薔薇はなかった。 枯れて花が咲いていない棘だけが確認できる花壇に近づき、人気のないその家にやっぱり勘違いだったと寂しくなる。「彩華?」もうずっと聞くことはないと思っていた声が私を呼んだ。それがすぐに誰のものかとわかった自分に驚いた。「日向……」ほとんど無意識に漏れたその言葉に、ドクンと胸が音を立てる。誰かがいるかも、そう思ってここにきた。 空き巣かもしれない、と訳の分からない正義感をかざしつつ、心の中でもしかしたら日向がと思ったことは否定しない。しかし、ほとんど百パーセントといっていいほど、日向がいるなんて奇跡……。 奇跡? そこまで思って私は自分が日向と会いたかったことに気づいた。 自ら距離を取り、何も言わずに引っ越していったことを恨んだのに、私は心の中で彼を求めていたとでもいうのだろうか。自分の思考に唖然として、雲がかかり、仄かな月明かりの下立ちすくむ。日向の表情は見えないが、何も言わないことからいきなり家に入ってきた私に驚いているのだろう。「大きくなったな」その言葉の後すぐ、雲が晴れ、一気に満月の月明かりが私たちを照らす。
門を通り過ぎ、久しぶりの通勤路を歩きながら、私はふと足を止めた。胸の奥にこびりついている思い出が、春の日差しに照らされるように鮮明になる。「日向……」その名前を小さくつぶやくと、まるで昨日のことのように彼の笑顔が頭に浮かぶ。幼い頃はただの兄のような存在だった。でも、中学生になって、彼が大人の世界に足を踏み入れているのを知ったあの日、私の中で何かが変わった。そしてその後、私は過ちを犯した。――どうして私は、あの時『妹』と呼ばれたことにあんなにも傷ついたのだろう。そして、どうして私はあの日、一夜をともにしたのだろう。――― 追憶幼馴染という関係ではなく、私がはっきりと日向に恋をしていると感じた十三歳の時だった。中学生になり、中高一貫の学校に通っていた私の目に飛び込んできたのは、日向とたくさんの友人たちだった。その中には、大人っぽくてメイクがとても似合う女の先輩も数多くいた。初めて見る、自分とは違う日向に、なぜか居心地が悪くなる。くるりと踵を返そうとした私を引き留める呼び声。「彩華」自分でも初めて感じる嫉妬心。ずっと私のそばにいると思っていたのに、日向の周りにはたくさんの人がいる。その現実を突きつけられた気がした。「日向、この子? お隣の妹ちゃん」今でも忘れることができないほど、綺麗な女の先輩の口から発せられた”妹”というセリフ。「ああ。かわいいだろ」日向のそのかわいいという言葉が、子供に伝える時のように聞こえてみじめで仕方がなかった。あの日から、私は日向を避け続けてしまった。淡い恋心と、幼すぎた初恋。それでもずっと日向は隣にいる。だから、きっといつでも仲直りできる。そう思っていた。しかし、いつの間にか学校でも、近所でも日向を見ることがなくなった。慌てて隣のおばあちゃんに聞きに行った時には、日向はもうそこには戻らないことを知った。「理由は話せないの」ごめんね。そう言いながら、春子さんは一通の手紙を私にくれた。「彩華、いい子でいろよ」それだけが書かれた手紙。幼い私の恋心はその時あっけなく終わりを告げた。いや、恋と呼んでよかったのかもわからない。そばにいすぎただけで、単なる思い込みだったかもしれない。それから数年たち、ようやく私は日向のことを忘れ、大学生活を送り、大手の会社に就職も決めたと思っていた。友人もでき、それこそ男友
都内の閑静な住宅街の一角。豪邸が立ち並ぶ中に、一軒のこじんまりとした家があった。小さな庭と赤い屋根が印象的なこの家は、四月の初旬、桜が咲き乱れる中で慌ただしかった。「瑠香、待って! 今日から保育園だから!」私のその声に、一歳三か月の娘はさらに廊下を走るスピードを上げた。追いかける私と遊んでいるつもりなのだろうが、こっちは必死だ。「ねえ、お母さん! 瑠香を止めて!」ようやく転ぶことなく小さな段差を超えられるようになった瑠香は、毎日元気いっぱいだ。「ほーら、捕まえた」私の母、静江にすっぽりと抱っこされた瑠香は、楽しそうにキャキャと声を上げる。「彩華、今日十二時にお迎えでいいのよね?」専業主婦の母が心配そうに私に声をかける姿に、少し苦笑する。「うん、ごめんね。お願い。今日は慣らし保育だから早いの」「本当に私はいいのよ。瑠香を保育園に入れなくても。ねー、瑠香」その母の優しさはとても嬉しい。しかし、母にだって予定が入ることもあるだろうし、持病もある。あまり無理をさせたくないのが実情だ。「早めに迎えに行ってくれるだけで助かるから」そう言いながら、私と瑠香の部屋へ行き、クローゼットから久しぶりの洋服を取り出す。子育てに忙しかったこの一年は、Tシャツにジーパンという出で立ちだったが、今日はセンタープレスのブラックのパンツに、薄いブルーのインナー。それにジャケットを手にして階段を下りる。リビングに入れば、瑠香を子供用の椅子に座らせながら、一緒に朝食をとる両親の姿があった。東雲彩華、二十六歳。ブラウンの肩までの髪に、目はぱっちりとした二重だ。美人というタイプではなく、どちらかといえば幼く見えるかもしれない。身長は159㎝で、至って普通の体型だと思う。高校を卒業後、大学へと進学して、大手のKOWA総合システムに入社した。しかし、一年半前から出産のために産休を取っており、今日から久しぶりの出社だ。休みに入る前、シングルマザーとして出産をすることを一部の人に伝えてあり、その当時は多少噂にもなったし、父親が誰かという憶測もあった。今もその話が残っているかわからないが、戻ることに不安がないと言えば嘘になる。しかし、私は、一生懸命働いて瑠香を育てていかなければいけない。この一年、実家の両親に甘えてばかりだったのだ。今は父も働いているし、私たち二人を快く迎え