Chapter: 第二十六話「どうしてだろうな。日葵の期待を裏切りたくなかったのかもな」「期待?」日葵は自分でその言葉を発してみて、昔の壮一は日葵にとってヒーローだったことを思い出した。いつもなんでも完璧で、余裕があって。その陰に努力や苦労があったことなど想像もしていなかった。いつも後ろをくっついて、「すごいすごい」と頼りっぱなしだった。「ごめんなさい」そんな自分に、日葵は言葉が零れ落ちた。「どうして日葵が謝るんだよ」壮一があまりにも穏やかに言葉を発したことで、日葵もホッとして言葉を続けた。「だって、昔の私って迷惑かけてばっかりだったでしょ。なんでも頼ってばかりで。それが無理をさせてた……」壮一の思っていることなど一ミリも考えることなく、自分の気持ちを押し付けてばかりだったように思った。「それは違う」壮一は少し考えるような表情を見せ、日葵は言葉の続きを待った。「日葵の前では、完璧でありたかったから。だから――言い訳にもならないけど、あの時、何も言わずにアメリカへ行ったのかもしれない。すまなかった」日葵は何をどう答えて、どう反応すればいいのかわからなかった。(このあいだはどうして謝ったのかあれほど気になっていたのに……)聞いてしまったことを、なぜか後悔する自分を感じた。今までの苛立ちも、苦しみも、恨み言も、言葉にすることが出来なかった。完璧でいるために私から離れた?その意味を日葵は考えていた。しばらく無言の時間が過ぎたが、すぐに仕事の話になり、気づけば会場へと着いていた。「すぐに合流して準備をしよう」壮一の言葉に、日葵もトランクから荷物を抱えると会場へと入った。最大級のイベントはもう始まっており、会場はすごい熱気にあふれていた。プレスリリースまではまだ日があるが、今回いろいろなところからの問い合わせもあり、急遽ブースを出すことになったらしい。「清水チーフ!」名古屋支社からもたくさんのスタッフが慌ただしく対応しており、壮一を見てそのスタッフたちがホッとしたのが日葵にも分かった。「お疲れ様」壮一はいつもの余裕の笑みを浮かべ、スタッフに指示を出している。そんな様子を少しの間足を止めて見ていた日葵は、「長谷川!」その声で我に返ると、持ってきたグッズの見本やノベルティの搬入を始めた。「うわ、それかわいい」すでにブースにいたカップルが日葵の手元
Terakhir Diperbarui: 2025-04-07
Chapter: 第二十五話昨夜の崎本のことも、今日からの壮一との出張も、すべてが気が重く日葵は足取り重く駅へと向かっていた。ぼんやりと歩いていると、車のクラクションが後ろから聞こえた。その音に振り向くと、横に静かに壮一の車が止まる。「長谷川」ハンドルに片手を掛け、窓から呼ぶ壮一に日葵は何とも言えず複雑な心境が覆う。「おはようございます。チーフ」なんとか仕事用の笑顔を張り付けると、壮一の顔をみることなく頭を下げた。そんな日葵の様子に、小さく壮一が息を吐いたことなど日葵は知らない。「おはよう。今日は悪いな。乗ってくれ」「大丈夫です」無意識に零れ落ちた自分の冷たく低い言葉に、日葵は後悔しても遅い。チラリと壮一を伺えば、表情を変えることなく日葵をみていた。「そんな訳にいかないだろ? 急に柚希の代わりに無理を言って行ってもらうんだから」その言葉に日葵の心の中はザワザワと音を立てる。本当は柚希と行きたかったのではないか? 自分とは行きたくないのではないか。そんな子供のようなことを思ってしまった自分が情けなくなる。グッと唇を噛んだ日葵に、壮一は静かに声を発した。「じゃあ乗ってくれ。頼む」私情を入れているのは自分だとは日葵もわかっていた。でも駅までなら電車でも変わらない。その気持ちも譲れなかった。このざわつく気持ちで壮一と同じ空間にいたくなかった。「でも、電車でもさほど変わりませんし」その言葉に、壮一は視線を外すと大きなため息を吐いて呟いた。「やっぱりな……」その言葉に、日葵は運転席の壮一を見た。「急遽、簡易的だがブースを出すことになって、昨日も遅くまでノベルティとかの確認があって、俺と柚希は車で行く予定だったんだよ」その言葉に日葵は啞然とした。「そうだったんですか……申し訳ありません。お手伝いもせず帰って」崎本と食事をしていたころ、柚希はずっと仕事をしていた。そして体調を崩したと知り、日葵は罪悪感が広がった。そんな思いで俯いた日葵に、壮一が運転席から降りるのがわかった。「お前の仕事じゃないだろ。気にするな」そう言いながら、壮一は日葵のもとへと来ると、日葵から荷物を取り上げ、さっと後部座席に乗せた。そこまでされてはもう何も言うことなどできなかった。日葵は諦めたように、壮一の車に乗り込んだ。しばらく無言の車内に、最近聞きなれた音楽が響く。
Terakhir Diperbarui: 2025-04-06
Chapter: 第二十四話なんとなく落ち着かない気持ちで食事を終え、送るといってくれた崎本の車の中。信号が黄色に変わり、ゆっくりと停車すると静かな車内で崎本の声が響いた。「また今度……」しかし崎本の言葉は、日葵のカバンの中から鳴った着信音に遮られた。ディスプレイの表示は〝清水チーフ"。そっと崎本を見ると、小さく息を吐いて「出て」と言葉を発した。仕事以外の要件で電話があるはずがないと、日葵はゆっくりと通話ボタンを押す。『お疲れ様。遅い時間に悪い』少し疲れた壮一の言葉に、日葵も「お疲れ様です」と返した。『今いい?』いいかと聞かれれば、かなり微妙な空間だったが、そんなことも言えず日葵は「はい」と返事をした。『明日からの名古屋なんだが』「はい、柚希ちゃんが行く予定の?」冷静に言葉を発することが出来ただろうか?そんなことを思いながら日葵は壮一の言葉の続きを待った。『行ってくれないか?』「え?私が名古屋の出張に泊りで?」その言葉に「え?」と崎本が言葉を発して、日葵はチラリと崎本を見た。『……誰かと一緒?』静かに響いた壮一の声に、日葵は答えることが出来ず、話を逸らした。「柚希ちゃんはどうしたんですか?」『ああ、さっき熱を出したと連絡があった。柚希の代わりになるのは……申し訳ないが長谷川しか無理だから』その言葉に日葵はギュッと唇をかみしめた。仕事なのはもちろんわかる。断る権利も、権限ももちろんない。体調を崩したのは柚希で、残念な思いをしているのも柚希だ。「わかりました」静かに答えると、「じゃあ詳細はメールする」それだけをいうと少しの無言のあと、無機質なトーン音が聞こえた。日葵はその場に崎本がいることも忘れ、憂鬱な気持ちでスマホを見つめていた。いつのまにか、いつも送ってもらう場所へと車は停車していた。「すみません」かなり自分の世界に入り込んでいた日葵は、ハッとして崎本を見た。ハンドルをギュッと握りしめて、俯いていて崎本の表情は解り知れない。「ありがとうございました」なぜか重たい空気に、日葵は慌ててシートベルトを外すとドアノブに手をかける。それと同時に後ろから腕を引き寄せられた。ハッとして振り返ると、日葵は崎本の腕の中だった。「え? 部長?」その状況が理解できず日葵は戸惑いの声を上げた。「行くな……って付き合ってても言えないけど、行って
Terakhir Diperbarui: 2025-04-03
Chapter: 第二十三話それからも、日葵の気持ちなどお構いなしに仕事は降りかかる。あの謝罪の意味すらわからないまま、時だけは過ぎていった。時間を見ればもう15時を回っていて、日葵は昼食をとっていないことを思い出して、小さく息をつくと席を立った。「長谷川さん」そんな時、日葵のデスクにやってきた柚希に笑顔を向けた。「どうかした?」「少し教えていただきたいんですけど、今いいですか?」柚希は自分のノートPCを日葵のデスクに置くと、画面を見つめる。「もちろんよ。どれ?」「この出張のホテル申請なんですけど……」その言葉に日葵も驚いてその画面を見た。「出張?いつ?」「それが、チーフの急な指示で明日名古屋なんです」少し不安げな柚希の言葉に、日葵は内容を確認する。「え?あの名古屋であるゲームフェスティバルよね?」「はい」明日、明後日と大きなゲームのイベントが名古屋であり、それの視察と、挨拶周りのための出張だ。役員一人と、チーフの壮一、営業部で大手メーカーとも付き合いが長い、課長である澤部、そしてアシスタントで澤部と同じ部署の女性社員――のはずだ。どうして柚希?という疑問が日葵の中に沸き上がる。「確か、営業部の人が行くはずじゃなかった?」今の現状から、壮一は責任者として行かなければいけなかったが、この部署からは壮一以外行かない予定になっていた。「はい、急に専務がその女性社員では、もしも詳しい話を振られたときにチーフだけでは大変だろうということになったみたいです」「そう……」「他の皆さんは忙しいですし、私なんですかね?」その言葉に日葵はハッとして笑顔を向ける。壮一と柚希が泊まりで出張に行くことが、どうしてこんなに気になるのか……。このあいだ、頼りにしてると言ったにもかかわらず、この重要な仕事を柚希に頼んだことがショックなのだろうか?自問自答しても答えは出ず、日葵は柚希に申請方法を説明した。「柚希ちゃん、がんばってね」笑顔で言ったつもりだったが、自分がどういう顔をしているかわからなかった。しかし、そんな日葵の思いなど、まったく気づいていないようで、柚希は少しだけ言葉を選ぶような表情をした。「仕事なので、こんなことを言ってはいけないと思うんですけど……」少し話すのを躊躇した柚希に、日葵は首を傾げた。「ここのところ、チーフすごく疲れてますよね。そばでお世話できてう
Terakhir Diperbarui: 2025-03-31
Chapter: 第二十二話おはようございます」明るく元気な声が聞こえて、日葵はハッとして振り返った。「柚希ちゃん、おはよう」いつもの出社時間が近づいていたことに気づき、まだ落ち着かない気持ちをなんとか整えると、目の前の仕事に取りかかった。そんなとき、周りの雰囲気がピリッと引き締まったような気がして、日葵は顔を上げた。「手が空き次第、ミーティングルームに集まってくれ」その声に視線を向けると、部屋から出てきた壮一が颯爽と歩いてきた。さっきとは別人のように、いつも通り完璧な壮一がそこにいた。シャワーも浴びたのだろう。スーツも違うものに着替えられていて、常に泊まる準備ができていることに日葵は気づく。途中入社で、社長や会社の期待を一身に背負い、失敗が許されないこの状況でも、弱音ひとつ吐かず、常に冷静に対処してきた壮一。その言葉に、一斉に返事が返り、スタッフたちはミーティングルームへと向かっていく。日葵も、目の前の作業に区切りをつけてそのあとに続いた。ミーティングルームに入ると、大きなモニターには広大な緑が広がる世界。高台からその景色を見下ろす、ひとりの男の子と女の子。そして、真っ白な鳥が空へと羽ばたいていた。「The beginning new world」――新しい始まりの世界。企画段階で知ってはいたが、こうして映像として目の前に現れたのは初めてで、日葵はその世界観に釘付けになる。「まだ未完成だが、ここまでで意見を聞きたい」壮一の言葉に、技術スタッフをはじめ、何十人ものメンバーが目を輝かせて頷いた。一人の少年が、襲いかかる敵に立ち向かい、仲間を増やしながら戦っていく。構造自体は、どこか既視感のあるRPGだが、今回は会社の威信をかけ、美しい映像・音楽・クオリティに徹底的にこだわっている。今までに見たことのない臨場感、命を宿したようなキャラクター。その完成度は、ゲームの範疇を超え、まるで一本の映画を観ているようだった。短い映像だったが、気づけば、思わずため息が漏れていた。すっかりその世界に引き込まれていた日葵は、周囲から意見が出始めたタイミングでようやく我に返る。慌てて記録をとろうと、パソコンのキーに指を走らせた。数時間にわたるディスカッションもようやく終わり、各自が自席へと戻っていくのを見送りながら、日葵は上層部に提出する資料の構成を頭の中でまとめ
Terakhir Diperbarui: 2025-03-28
Chapter: 第二十一話週明けの、いつもより早い月曜日。久々に穏やかな気持ちでいられるのは、昨日の時間があったからかもしれない。日葵はそう思いながら、電車の外を見ていた。まだ誰もいないフロアに入ると、備品のチェックや清掃の確認をする。少しでもみんなの仕事を減らすべく、日葵は自分のパソコンを立ち上げた。プレスリリースまで2カ月を切り、大手ゲーム機メーカーからも発売されるため、接待や会議の予定も多く組み込まれるようになってきた。そうなると、やはり壮一が出席することも増える。(こんなに会議や接待が入って……いつ眠れるのよ。……関係ないけど)壮一のことを考えたくない気持ちと、どうしても気になってしまう自分に、日葵はため息をこぼす。昨日、崎本との楽しい時間を過ごし、壮一のことを考えないようにしようと心に決めても、嫌でも考えなければいけないこの状況はどうしようもない。制作現場でも必要な人間である壮一のスケジュールは、重要を示す赤色の文字で溢れていた。(いつ、自分の仕事をしているんだろう……)そう思い、無意識に壮一の部屋の方向へ視線を向けると、明かりが漏れているのがわかった。消し忘れたのかと思い、そこへ足を向けた日葵は、ドアを開けて息を飲んだ。ブラインドから差し込む光にも気付かず、机に突っ伏して眠る壮一の姿が目に入る。いつものキッチリとしたスーツ姿ではなく、上着はデスクの前にあるソファに無造作にかけられていて、ネクタイも投げ出されていた。いつでも完璧で、乱れた姿など見たことのなかった日葵は、その光景に、なぜか胸がギュッと締め付けられる。当たり前だが、壮一だって人間だ。この数カ月、壮一が来てからのチームの一体感は格段に上がり、壮一のすごさを日葵自身も実感していた。上との連携もスムーズになり、スタッフも増え、日葵の負担も確実に減った。そう。当たり前だけど、壮一の負担は確実に増えている。そんなことすら気づいていなかった。それほど自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、過去のことで頭がいっぱいだった自分は、なんて子供なのだろう。壮一は、自分と違って努力なしに、才能だけで簡単に何でもできる。どうせ自分だけがなにもできない、普通の人間。――そんなふうに思っていた自分が恥ずかしかった。音を立てないようにそっと近づいて、散らかったデスクと疲れた顔の壮一の寝顔をじっと見つめ
Terakhir Diperbarui: 2025-03-26
Chapter: 第三十八話夕飯の時間、私はいつもどおり瑠香にごはんを食べさせていた。今日もよく食べるな、なんて微笑みながらスプーンを口に運ぶ。「もっとー」「はいはい。ちゃんともぐもぐしてね」お風呂に入れて、髪を乾かして、絵本を一冊読んで――瑠香がすやすやと寝息を立てるころには、夜の10時を回っていた。ベッドのそばに静かに腰を下ろし、小さくため息をついた瞬間、ふと日向の顔が頭をよぎった。ちゃんと食事はとれているのか、夜はちゃんと眠れているのか。そんなことばかりが次々と浮かんできて、どれだけ「信じてる」なんて言葉を口にしても、不安はなかなか消えてくれなかった。気がつけば、私はいつのまにかキッチンに立っていて、日向が食べられそうなもの、体力が落ちていても胃にやさしいものを思い浮かべながら、煮物を小さな仕切りに入れ、お弁当箱にそっと詰めていた。なんとなく色どりも欲しくなって、卵焼きを焼き、冷ましてから隣に添える。気がつけば、お弁当が出来上がっていて、私はそれをそっと保冷バッグに入れた。そのまま母の部屋へ向かい、扉の前で小さく声をかける。「ちょっとだけ、出てきてもいいかな」「……日向くんのところ?」母はすべてを見透かすようなまなざしで私を見つめたが、反対の言葉はひとつもなく、静かに頷いてくれた。「瑠香のことは心配しないで」「ありがとう、お母さん」私は小さく頭を下げると、バッグを手にして家を出た。夜の都心に足を踏み入れると、空気は静かで張りつめており、高級住宅街の一角にひっそりと建つ、あのスタイリッシュな低層マンションが視界に入った。そこを訪れるのは、あの夜以来のことだった。建物の入り口にたどり着いた瞬間、ふと以前のことを思い出した。このマンションは、コンシェルジュやセキュリティが非常に厳しく、たとえ宅配業者であっても、住人の許可がなければ中へ入ることはできない。誰にも会わずに玄関先に置いて帰るといったことは、この場所では通用しなかった。何をやってるんだろう、私。家に押しかけるわけにはいかず、勝手に料理を作り、勝手に来て、さらには勝手に置いて帰ろうとしている自分の行動が、思っていた以上に身勝手なものに思えてきた。「はぁ……」深いため息をつき、仕方なく踵を返そうとした、そのときだった。「……彩華?」不意に背後から聞こえてきた声に驚いて振り返ると、マン
Terakhir Diperbarui: 2025-04-07
Chapter: 第三十七話最近の日向――副社長の姿を見ることが、めっきり減った。本来であれば、週に何度も顔を合わせていたはずのプロジェクトの定例会議にも姿を見せなくなり、確認事項や指示もすべて、別の担当者や管理職経由で降りてくるようになった。私はそれに従って淡々と仕事をこなしていたが、心のどこかでずっと引っかかっていた。――忙しいだけ。そう言い聞かせていた。何かあったとしても、私には聞けない。日向はあの夜「すべてが片付いたら」と言った。だから、私は待つと決めたのだ。どんな形であっても、彼を信じると。だけど――。「東雲さん、これ確認お願いします」「はい、ありがとうございます」営業資料を受け取りながらも、集中しきれない自分がいた。PC画面に目を向けても、文字が頭に入ってこない。ぼんやりと、あの夜のことを思い出す。 日向の腕の中で、あたたかさに包まれて眠った夜。 夢みたいな時間だった。だからこそ、今は怖くもある。まるで、あれが現実じゃなかったような気がしてしまう。ふと耳にした同僚たちの小声が、聞こえてきてドクンと大きく心臓がはねた。「副社長、会議全部外されてるらしいよ」 「高木家との縁談、断ったって噂も……」 「なんか揉めてるみたいよ。なんか誰かわからないけど、不倫してるとかもきいたな」名前は出されていなかったけれど、その言い方に背筋がぞわりとした。まさか、私のことだろうか……。後ろめたいことなどなにもないが、噂はいろいろ尾ひれがついていく。日向が会社で何を抱えているのか、何と戦っているのかわからない。隣にいると伝えたが、何もできていない。それ以上に、やはり自分が魔をしているのではないか――。 あの時、高木さんに言われた言葉が、今も頭の中で繰り返される。「あなたのせいで、彼の未来が壊れる」資料のページをめくる手が、いつの間にか止まっていた。「東雲」名前を呼ばれて、はっと顔を上げると、神代さんがすぐそばに立っていた。「顔色、悪いぞ。大丈夫か?」「……あっ、はい。すみません、ちょっと考え事をしていて……」無理に笑ってごまかしたが、神代さんは目を細めて、じっと私を見てくる。「最近、なんか元気ないよな。何かあった?」「……いえ。なんでもないです」本当は、いろいろある。でも、それを話せるわけがない。「今日、飯でもどうだ?」その誘いに、私
Terakhir Diperbarui: 2025-03-24
Chapter: 第三十六話父との対峙から数日。俺は社内で孤立しつつあった。副社長の肩書きこそ残っているが、経営会議には参加できず、決定権もない。会議室の扉が閉ざされるたびに、自分が組織の中で徐々に排除されていくのを感じる。だが、このまま指をくわえているつもりはない。俺はスマホを取り出し、ある人物の連絡先を開いた。専務である藤堂英彦。かつては父の右腕として経営を支えてきたが、最近では意見の対立が増えていると聞く。もし彼がまだこの会社の未来を案じているのなら……俺の話を聞くはずだ。躊躇なく、発信ボタンを押した。数コールの後、低く落ち着いた声が応じる。「……珍しいな。お前から連絡をもらうとは」「専務、少しお時間をいただけませんか? 直接お話ししたいことがあります」「話? お前と?」専務の声色には警戒が滲んでいた。当然だ。俺は社長の息子であり、彼にとっては父と同じ側の人間だと思われているはず。「ええ。専務にしか相談できないことです」俺の真剣な口調に、専務はしばし沈黙する。そして数秒後、静かに言った。「……今夜20時、ホテル・グランヴィアのラウンジに来い。そこなら話せる」「ありがとうございます」通話が切れた後、俺はスマホを握りしめた。これが最初の一歩だ。指定された時間にラウンジへ向かうと、すでに専務は席についていた。落ち着いた雰囲気の中、彼はウイスキーグラスを手にしながら、俺をじっと見つめている。「座れ」言われるままに対面に腰を下ろすと、専務は静かに切り出した。「さて、話とは何だ?」俺は息を整え、まっすぐに専務を見据えた。「専務。俺は父を退陣させるつもりです」一瞬、専務の表情が動いた。「……随分と大胆なことを言うな」「父は独裁的になりすぎている。高木家との婚約話も、俺の意志を無視した独断でした。ですが、それだけじゃない。最近の会社の動き……投資の方向性、人事の決定、どれを見ても危うい。社内でも不満の声は出ているはずです」「……まあな」専務はグラスを置き、腕を組んだ。「お前がそのことに気づいているとは驚きだ。確かに、社長のやり方に疑問を抱いている者はいる。だが、だからといって、お前に何ができる?」「俺は社長ではありません。でも、会社を守るために動くことはできます」俺は拳を握りしめ、強く言った。「専務、力を貸してください。父に不満を持つ人
Terakhir Diperbarui: 2025-03-18
Chapter: 第三十五話高木が部屋を出て行ったあとも、父はしばらく無言のままだった。机に肘をつき、指先で軽くこめかみを押さえている。その仕草からは苛立ちとも疲労ともつかない感情が滲んでいた。重苦しい沈黙が社長室に漂う。重厚な木製のデスクと革張りのソファ、壁に飾られた額縁――どこを見ても、この部屋の空気は冷たく、威圧感があった。俺は椅子に深く腰を下ろし、静かに父の言葉を待った。「……お前、何か勘違いをしているようだな」やがて、父が低く呟く。その声音は先ほどよりも抑えられていたが、言葉の奥には確かな圧力が潜んでいた。「勘違い?」「お前が一人で勝手に動いたところで、この話が終わるとでも思っているのか?」父の冷ややかな視線が俺を射抜く。まるで、手に乗った駒を見下ろすような目だ。その眼差しにわずかな苛立ちが混じったのを、俺は見逃さなかった。「この結婚は、すでに高木家と正式に進めると決まっている。お前の意思ごときで覆る話ではない」「俺は高木家にはっきりと断りを入れました。それでもあなたは、まだこの話を続けるつもりですか?」「当然だ」父はあっさりと言い切った。その表情に迷いは微塵もない。俺の反発など初めから織り込み済みだとでも言うように、淡々とした口調だった。「お前の勝手な判断が、どれほどの影響を及ぼすのか理解しているのか? 高木家の後ろ盾を失えば、我が社は経営基盤を大きく揺るがすことになる。その責任を取る覚悟があるのか?」「その責任を取るのが副社長の仕事なら、俺は正々堂々とやるまでです」言い放つと、父の表情がわずかに変わった。「ほう……?」鼻で笑いながら椅子にもたれかかる。その仕草には余裕が漂っていたが、僅かに目を細めたのを俺は見逃さなかった。俺の言葉が、多少なりとも彼の意識に引っかかったことは確かだ。父は鼻で笑い、椅子にもたれかかる。「ならば、お前の力だけでやってみろ」その言葉に、嫌な予感がした「どういう意味ですか?」「お前を、今日付けですべての経営会議から外す」「……は?」父は淡々と続ける。「副社長という立場は残してやるが、意思決定には一切関与させない。今後、経営に関わる重要案件は、すべて私と取締役会で決める」「そんな……」息を呑む。これは単なる権限の剥奪ではない。「これは私の命令だ」父の言葉は絶対だった。副社長という肩書きを持っていても、
Terakhir Diperbarui: 2025-03-12
Chapter: 第三十四話Side 日向彩華の「隣にいる」と言ってくれた言葉が、頭の中で何度も反響していた。すべてを片付けるまで――そう言ってくれた。俺にとって、それはどんな言葉よりも救いだった。彼女の温もりを腕の中に感じながら、俺はようやく一歩踏み出す覚悟を決めた。もう、迷うつもりはない。このまま、曖昧な状態を続けるわけにはいかない。父親の言いなりになり、会社の未来のために「必要な選択」をしろと言われ続ける人生は、もう終わらせる。高木家との政略結婚も、親の都合で決められた跡継ぎのレールも、すべて――。俺はあの日、すぐに行動に移した。高木家にはっきりと断りの連絡を入れたのだ。だが、その決意がどれほど大きな障害を生むのかは、すぐに思い知らされることになった。翌朝、いつも通りオフィスに出社すると、すぐに秘書が俺の元へ駆け寄ってきた。「副社長、社長がお呼びです」何も言わなくても、すでに動きを察知されていることぐらい想像はつく。「わかった」俺は無言で立ち上がり、社長室へ向かった。扉を開けると、すでに父がソファに座って待っていた。その隣には、高木絵梨奈の姿もある。想像通りすぎていらだちが募るが顔には出せない。「日向、お前、何を考えている?」父の声は低く冷たい。まさか俺が父や彼女を通り越して、正式に断るとは思っていなかったのだろう。それが、この会社に与える影響も父はもちろん、俺だってわかっている。この結婚によって父はこの業界の確固たる地位を築きたいのだ。だが、それは彩華や瑠香を犠牲にしてやることではない。兄もきっとそれはわかってくれるはずだ。それに俺だってただずっとぼんやりと会社にいたわけではない。絶対にいつか、この父を今の地位から引きずり降ろしてみせる。「日向さん、こんにちは」高木が父の隣で微かに笑みを浮かべながら、俺に頭を下げた。「絵梨奈さん、お久しぶりですね」俺もにっこりと笑いつつ、そう答える。とんだ茶番でしかない。そんな俺たちを見て、父が苛立ったように声を荒げる。「とぼけるな。お前が最近、妙な動きをしていることは知っている。会社の将来のためにお前を副社長に据えたというのに、余計なことを考えるな!!」「余計なこと、とは?」「彼女との婚約の件だ」だろうな。それ以外この状況でありえない。しかし、俺も今回は引くつもりはない。「……その話なら
Terakhir Diperbarui: 2025-03-10
Chapter: 第三十三話「彩華といるときだけが、俺にとって自分でいられる場所だった。でも、俺が彩華の隣を望むことは許されないよな……」そう言って、日向はふっと悲しげに笑った。その笑顔はあまりにも寂しそうで、どこか諦めが滲んでいて。――どうして、そんな顔をするの?まるで、最初から叶わないことが決まっているみたいに。まるで、最初から私の気持ちなんて、どうせ受け入れられないって決めつけているみたいに。胸の奥がちくりと痛む。なのに、それと同時に、どうしようもなく苛立ちが募っていった。「ねえ、本当に日向はずるい。謝るなら最初からそんなこと言わないでしょ!」気づけば、感情のままに声を上げていた。「『お前なんて嫌いだ、二度と顔も見たくない』そう言えばいいじゃない!」自分でも驚くくらい、強い口調になっていた。「昔から思わせぶりなことばかり言うじゃない! そんなふうに言うから、私は……!」言葉が詰まる。頭の中は混乱しているのに、どうしても止められなかった。「本当は私にそばにいてほしいんでしょ!!」その瞬間、息が詰まった。なんてことを言ってしまったの。まるで、ただのうぬぼれみたいじゃないか。「私のこと好きなんでしょう?」そう聞いているのと同じ。そんなこと、口に出すなんて――。背中に冷たい汗が流れる。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。けれど、日向は――。「そうだよ」迷いなく、即答した。「俺はずっとずっと彩華にそばにいてほしい。狂おしいほどに」静かな言葉だった。だけど、その一言は、私の心に鋭く突き刺さった。言葉が出ない。息をするのさえ、苦しくなる。どうしよう。どうしたらいいの?「それができないのは、お父様のことがあるから?」やっと絞り出した声は、震えていた。日向はすぐには答えなかった。けれど、その表情を見れば、答えが「YES」であることは明白だった。「日向は、お父様のこと、どうにかするつもりはあるの? ないなら、もう私と瑠香とは関わら……」そこまで話した私の言葉を遮るように、日向は「ある!」と強く言った。「すべてを片付けて、俺は……」言いかけた言葉をのみ込むように、日向は私をまっすぐに見つめた。その目に映るのは迷いがある様には見えなかった。「でも高木さんの方が、日向の隣にいるのにふさわしいんじゃないの?」それは、私がずっと思っていたこと
Terakhir Diperbarui: 2025-03-06