Chapter: 第三十九話どれくらいの時間、抱きしめられていたのかはわからない。かなり長かったかもしれないし、一瞬だったかもしれない。日向は小さく息を吐いたあと、そっと私から距離を取ると、少し困ったような表情を浮かべていた。「悪い。いきなり」そう言って、日向は私を見下ろした。「ありがとう。食事、作ってきてくれたんだろ?」いつも通りにふるまっているように見えたけれど、明らかに疲れがにじんでいて、私はただその顔を見つめていた。「これ? もらっていい?」私が持っていたバッグに手を伸ばし、それを受け取ろうとする。「あと、どうやって来た? 送っていこうか?」私が何も言わないままなのに、日向は一方的に話し続けていた。「日向」静かに名前を呼ぶと、私の言いたかったことがわかったのか、日向はゆっくりと首を振った。「ごめん」「どうしたの?」いつもの余裕のある日向なら、スマートに「ありがとう」って言って、私を家に招き入れて、「食べたら送っていくよ」なんて、さらっと言い出す気がしていた。なのに今日は、なんとなく避けるような言い方をしながら、突然抱きしめてきたりして、やってることと言ってることがバラバラだった。でも、本気で私がここに来たことを迷惑に思っていないことは、もう私にもわかっていた。きっと日向は、小さいころからずっと、自分の気持ちを隠して、飄々としたふりをして生きてきたんだと思う。でも今は、そんな彼の心の内を、少しは理解できる気がしていた。「正直、少し疲れてる。このまま家に入れたら、俺はきっとまたさっきみたいに、抱きしめたり、甘えてしまう」まっすぐに伝えられたその言葉に、私は思わず笑ってしまった。「いまさらじゃん。いきなり抱きしめておいて、よく言うよ」そう返すと、日向は少し驚いたように目を見開いた。「……それもそうだな」小さく何度か頷いたあと、日向はようやくいつも通りの表情を浮かべた。「瑠香ちゃんは? 大丈夫なのか?」「お母さんが見てくれてる」そう答えると、日向はひとつ大きく息を吐いた。「少し上がっていってもらっていい? 俺、これ温められるかわからない」本当か嘘かなんて、今の私にはわからなかった。でもたぶん、今の私たちには、お互いにとって何かしらの“理由”が必要だった。「わかった」そう言って、私は日向と一緒に部屋へ向かった。日向がバスルームへ
Last Updated: 2025-04-08
Chapter: 第三十八話夕飯の時間、私はいつもどおり瑠香にごはんを食べさせていた。今日もよく食べるな、なんて微笑みながらスプーンを口に運ぶ。「もっとー」「はいはい。ちゃんともぐもぐしてね」お風呂に入れて、髪を乾かして、絵本を一冊読んで――瑠香がすやすやと寝息を立てるころには、夜の10時を回っていた。ベッドのそばに静かに腰を下ろし、小さくため息をついた瞬間、ふと日向の顔が頭をよぎった。ちゃんと食事はとれているのか、夜はちゃんと眠れているのか。そんなことばかりが次々と浮かんできて、どれだけ「信じてる」なんて言葉を口にしても、不安はなかなか消えてくれなかった。気がつけば、私はいつのまにかキッチンに立っていて、日向が食べられそうなもの、体力が落ちていても胃にやさしいものを思い浮かべながら、煮物を小さな仕切りに入れ、お弁当箱にそっと詰めていた。なんとなく色どりも欲しくなって、卵焼きを焼き、冷ましてから隣に添える。気がつけば、お弁当が出来上がっていて、私はそれをそっと保冷バッグに入れた。そのまま母の部屋へ向かい、扉の前で小さく声をかける。「ちょっとだけ、出てきてもいいかな」「……日向くんのところ?」母はすべてを見透かすようなまなざしで私を見つめたが、反対の言葉はひとつもなく、静かに頷いてくれた。「瑠香のことは心配しないで」「ありがとう、お母さん」私は小さく頭を下げると、バッグを手にして家を出た。夜の都心に足を踏み入れると、空気は静かで張りつめており、高級住宅街の一角にひっそりと建つ、あのスタイリッシュな低層マンションが視界に入った。そこを訪れるのは、あの夜以来のことだった。建物の入り口にたどり着いた瞬間、ふと以前のことを思い出した。このマンションは、コンシェルジュやセキュリティが非常に厳しく、たとえ宅配業者であっても、住人の許可がなければ中へ入ることはできない。誰にも会わずに玄関先に置いて帰るといったことは、この場所では通用しなかった。何をやってるんだろう、私。家に押しかけるわけにはいかず、勝手に料理を作り、勝手に来て、さらには勝手に置いて帰ろうとしている自分の行動が、思っていた以上に身勝手なものに思えてきた。「はぁ……」深いため息をつき、仕方なく踵を返そうとした、そのときだった。「……彩華?」不意に背後から聞こえてきた声に驚いて振り返ると、マン
Last Updated: 2025-04-07
Chapter: 第三十七話最近の日向――副社長の姿を見ることが、めっきり減った。本来であれば、週に何度も顔を合わせていたはずのプロジェクトの定例会議にも姿を見せなくなり、確認事項や指示もすべて、別の担当者や管理職経由で降りてくるようになった。私はそれに従って淡々と仕事をこなしていたが、心のどこかでずっと引っかかっていた。――忙しいだけ。そう言い聞かせていた。何かあったとしても、私には聞けない。日向はあの夜「すべてが片付いたら」と言った。だから、私は待つと決めたのだ。どんな形であっても、彼を信じると。だけど――。「東雲さん、これ確認お願いします」「はい、ありがとうございます」営業資料を受け取りながらも、集中しきれない自分がいた。PC画面に目を向けても、文字が頭に入ってこない。ぼんやりと、あの夜のことを思い出す。 日向の腕の中で、あたたかさに包まれて眠った夜。 夢みたいな時間だった。だからこそ、今は怖くもある。まるで、あれが現実じゃなかったような気がしてしまう。ふと耳にした同僚たちの小声が、聞こえてきてドクンと大きく心臓がはねた。「副社長、会議全部外されてるらしいよ」 「高木家との縁談、断ったって噂も……」 「なんか揉めてるみたいよ。なんか誰かわからないけど、不倫してるとかもきいたな」名前は出されていなかったけれど、その言い方に背筋がぞわりとした。まさか、私のことだろうか……。後ろめたいことなどなにもないが、噂はいろいろ尾ひれがついていく。日向が会社で何を抱えているのか、何と戦っているのかわからない。隣にいると伝えたが、何もできていない。それ以上に、やはり自分が魔をしているのではないか――。 あの時、高木さんに言われた言葉が、今も頭の中で繰り返される。「あなたのせいで、彼の未来が壊れる」資料のページをめくる手が、いつの間にか止まっていた。「東雲」名前を呼ばれて、はっと顔を上げると、神代さんがすぐそばに立っていた。「顔色、悪いぞ。大丈夫か?」「……あっ、はい。すみません、ちょっと考え事をしていて……」無理に笑ってごまかしたが、神代さんは目を細めて、じっと私を見てくる。「最近、なんか元気ないよな。何かあった?」「……いえ。なんでもないです」本当は、いろいろある。でも、それを話せるわけがない。「今日、飯でもどうだ?」その誘いに、私
Last Updated: 2025-03-24
Chapter: 第三十六話父との対峙から数日。俺は社内で孤立しつつあった。副社長の肩書きこそ残っているが、経営会議には参加できず、決定権もない。会議室の扉が閉ざされるたびに、自分が組織の中で徐々に排除されていくのを感じる。だが、このまま指をくわえているつもりはない。俺はスマホを取り出し、ある人物の連絡先を開いた。専務である藤堂英彦。かつては父の右腕として経営を支えてきたが、最近では意見の対立が増えていると聞く。もし彼がまだこの会社の未来を案じているのなら……俺の話を聞くはずだ。躊躇なく、発信ボタンを押した。数コールの後、低く落ち着いた声が応じる。「……珍しいな。お前から連絡をもらうとは」「専務、少しお時間をいただけませんか? 直接お話ししたいことがあります」「話? お前と?」専務の声色には警戒が滲んでいた。当然だ。俺は社長の息子であり、彼にとっては父と同じ側の人間だと思われているはず。「ええ。専務にしか相談できないことです」俺の真剣な口調に、専務はしばし沈黙する。そして数秒後、静かに言った。「……今夜20時、ホテル・グランヴィアのラウンジに来い。そこなら話せる」「ありがとうございます」通話が切れた後、俺はスマホを握りしめた。これが最初の一歩だ。指定された時間にラウンジへ向かうと、すでに専務は席についていた。落ち着いた雰囲気の中、彼はウイスキーグラスを手にしながら、俺をじっと見つめている。「座れ」言われるままに対面に腰を下ろすと、専務は静かに切り出した。「さて、話とは何だ?」俺は息を整え、まっすぐに専務を見据えた。「専務。俺は父を退陣させるつもりです」一瞬、専務の表情が動いた。「……随分と大胆なことを言うな」「父は独裁的になりすぎている。高木家との婚約話も、俺の意志を無視した独断でした。ですが、それだけじゃない。最近の会社の動き……投資の方向性、人事の決定、どれを見ても危うい。社内でも不満の声は出ているはずです」「……まあな」専務はグラスを置き、腕を組んだ。「お前がそのことに気づいているとは驚きだ。確かに、社長のやり方に疑問を抱いている者はいる。だが、だからといって、お前に何ができる?」「俺は社長ではありません。でも、会社を守るために動くことはできます」俺は拳を握りしめ、強く言った。「専務、力を貸してください。父に不満を持つ人
Last Updated: 2025-03-18
Chapter: 第三十五話高木が部屋を出て行ったあとも、父はしばらく無言のままだった。机に肘をつき、指先で軽くこめかみを押さえている。その仕草からは苛立ちとも疲労ともつかない感情が滲んでいた。重苦しい沈黙が社長室に漂う。重厚な木製のデスクと革張りのソファ、壁に飾られた額縁――どこを見ても、この部屋の空気は冷たく、威圧感があった。俺は椅子に深く腰を下ろし、静かに父の言葉を待った。「……お前、何か勘違いをしているようだな」やがて、父が低く呟く。その声音は先ほどよりも抑えられていたが、言葉の奥には確かな圧力が潜んでいた。「勘違い?」「お前が一人で勝手に動いたところで、この話が終わるとでも思っているのか?」父の冷ややかな視線が俺を射抜く。まるで、手に乗った駒を見下ろすような目だ。その眼差しにわずかな苛立ちが混じったのを、俺は見逃さなかった。「この結婚は、すでに高木家と正式に進めると決まっている。お前の意思ごときで覆る話ではない」「俺は高木家にはっきりと断りを入れました。それでもあなたは、まだこの話を続けるつもりですか?」「当然だ」父はあっさりと言い切った。その表情に迷いは微塵もない。俺の反発など初めから織り込み済みだとでも言うように、淡々とした口調だった。「お前の勝手な判断が、どれほどの影響を及ぼすのか理解しているのか? 高木家の後ろ盾を失えば、我が社は経営基盤を大きく揺るがすことになる。その責任を取る覚悟があるのか?」「その責任を取るのが副社長の仕事なら、俺は正々堂々とやるまでです」言い放つと、父の表情がわずかに変わった。「ほう……?」鼻で笑いながら椅子にもたれかかる。その仕草には余裕が漂っていたが、僅かに目を細めたのを俺は見逃さなかった。俺の言葉が、多少なりとも彼の意識に引っかかったことは確かだ。父は鼻で笑い、椅子にもたれかかる。「ならば、お前の力だけでやってみろ」その言葉に、嫌な予感がした「どういう意味ですか?」「お前を、今日付けですべての経営会議から外す」「……は?」父は淡々と続ける。「副社長という立場は残してやるが、意思決定には一切関与させない。今後、経営に関わる重要案件は、すべて私と取締役会で決める」「そんな……」息を呑む。これは単なる権限の剥奪ではない。「これは私の命令だ」父の言葉は絶対だった。副社長という肩書きを持っていても、
Last Updated: 2025-03-12
Chapter: 第三十四話Side 日向彩華の「隣にいる」と言ってくれた言葉が、頭の中で何度も反響していた。すべてを片付けるまで――そう言ってくれた。俺にとって、それはどんな言葉よりも救いだった。彼女の温もりを腕の中に感じながら、俺はようやく一歩踏み出す覚悟を決めた。もう、迷うつもりはない。このまま、曖昧な状態を続けるわけにはいかない。父親の言いなりになり、会社の未来のために「必要な選択」をしろと言われ続ける人生は、もう終わらせる。高木家との政略結婚も、親の都合で決められた跡継ぎのレールも、すべて――。俺はあの日、すぐに行動に移した。高木家にはっきりと断りの連絡を入れたのだ。だが、その決意がどれほど大きな障害を生むのかは、すぐに思い知らされることになった。翌朝、いつも通りオフィスに出社すると、すぐに秘書が俺の元へ駆け寄ってきた。「副社長、社長がお呼びです」何も言わなくても、すでに動きを察知されていることぐらい想像はつく。「わかった」俺は無言で立ち上がり、社長室へ向かった。扉を開けると、すでに父がソファに座って待っていた。その隣には、高木絵梨奈の姿もある。想像通りすぎていらだちが募るが顔には出せない。「日向、お前、何を考えている?」父の声は低く冷たい。まさか俺が父や彼女を通り越して、正式に断るとは思っていなかったのだろう。それが、この会社に与える影響も父はもちろん、俺だってわかっている。この結婚によって父はこの業界の確固たる地位を築きたいのだ。だが、それは彩華や瑠香を犠牲にしてやることではない。兄もきっとそれはわかってくれるはずだ。それに俺だってただずっとぼんやりと会社にいたわけではない。絶対にいつか、この父を今の地位から引きずり降ろしてみせる。「日向さん、こんにちは」高木が父の隣で微かに笑みを浮かべながら、俺に頭を下げた。「絵梨奈さん、お久しぶりですね」俺もにっこりと笑いつつ、そう答える。とんだ茶番でしかない。そんな俺たちを見て、父が苛立ったように声を荒げる。「とぼけるな。お前が最近、妙な動きをしていることは知っている。会社の将来のためにお前を副社長に据えたというのに、余計なことを考えるな!!」「余計なこと、とは?」「彼女との婚約の件だ」だろうな。それ以外この状況でありえない。しかし、俺も今回は引くつもりはない。「……その話なら
Last Updated: 2025-03-10
Chapter: 第三十一話あの日以来、少しずつ壮一との関係は変わって行った。日葵が望んだとおり、兄として家族としての関わりになってきたかもしれない。あの名古屋からの帰り、二人でクタクタになり家へと戻りお互いの家の前で、日葵は壮一に呼び止められた。『日葵、もう一度昔の関係に戻りたい。仲が良かったころに。それは無理?』その壮一の言葉に、日葵は無意識に言葉を発していた。『私も戻りたい』きちんと謝ってくれたのだから、これ以上意地を張る必要もなければ、ここからは壮一の負担になるようなことは避けたかった。自分の幼さから壮一を苦しめてしまったことも、日葵の中で後悔の念があったのかもしれない。週末の金曜日、名古屋から帰ってきてからもハードワークで疲れ切った顔をしていた壮一に、みかねて日葵は食事を食べに来るようにメッセージを送った。もしかしたら断られるかもと思ったが、すぐに壮一からは終わったら行くと返事がきた。安堵しつつ日葵は、壮一より早く会社を出ると、スーパーでメニューを思案する。長い年月、壮一の食の好みがどうかわったかわからない。悩んだ末に日葵は、子供の頃壮一が好きだった煮込みハンバーグを作ることにした。時間の都合もあり、それにサラダという簡単なメニューだが、デミグラスソースに玉ねぎやニンジン、ブロッコリーなど、野菜がたくさんとれるようにしようと考えた。家へ帰ると、さっとハンバーグを作りきれいに焼き色を付けた後、たくさんの野菜とデミグラスソースで煮込む。その間に、レタスとトマトを中心にサラダを作り冷蔵庫で冷やしておいた。時計を見れば、もうすぐ21時になろうとしている。まだかかるかな。そう思ってソファに座りテレビをつけたところで、メッセージが来たことを知らせる音が聞こえた。【もうすぐ行く】意外と早かったな。そう思いながら冷蔵庫からサラダを出したところで、家のインターフォンが鳴った。え?もうすぐって、本当にすぐじゃない。そう思いながら、パタパタと玄関に走って行くと、ドアを開けた。そこにはすでにシャワーも浴びたのだろう。スウェット姿で髪がまだ少し濡れた壮一がいた。「お疲れ様」「誰か確認しろよ」そう言いながらも、ポンと壮一は日葵の髪に触れると自分の家のように先に中へと入って行く。そんな壮一に、小さく息を吐くと日葵は後を追った。「おっ、うまそう。俺の好きな物
Last Updated: 2025-04-25
Chapter: 第三十話その後、運転を変わるという壮一の言葉に、日葵は素直に従うと助手席へと移動した。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと外の風景に目を向けた。そして、初めのころの壮一の態度を思い出した。「ねえ? どうして謝る気になったの?」すっかりさっきのままため口になっていたが、日葵はそれに気づかず、胸の中の棘が抜けたような気持ちだった。そして少し意地の悪い質問だと思ったが、日葵は初めのころの態度とは違う壮一に問いかけた。「ああ……」壮一は少し考えるような表情をしたあと言葉を発した。「戻ったばかりのときは、日葵をこんなに傷つけてるなんて思ってなかったんだよ。大人になった日葵は、もしかしたらあの時のことなんてこれっぽっちも気にしてない。その可能性だってゼロではないだろ?」確かに、この離れていた時間のお互いのことはわからない。その可能性だってなかったわけではない。日葵はそう思うと小さく頷いた。「じゃあどうして?」「もちろん、日葵の態度でも気づいた。極めつけは誠真だな」意外な言葉に日葵は驚いて目を見開いた。「誠真? どうして誠真?」いきなり出てきた弟の名前に、日葵は声を上げた。「こないだ久しぶりに飲んだんだよ。あいつ日本に帰ってきただろ?」弟の誠真は大学を卒業後、壮一の父親である会社に入社し一年間アメリカへと行っていた。「そういえば帰ってきたわね。あの子」「あの子ってお前。誠真だって大人だろ」壮一が少し笑って言ったのを聞いて、日葵も少し笑みを漏らした。「それで?」「親父の会社に入ったけど良かったかって。俺だって誠さんの会社に入ったわけだし、全く問題ないって答えたよ。本来、やりたいことが逆だったらよかったなって話をした」確かに壮一も誠真も、自分の父親の仕事を継ぐのがよかったのかもしれない。でも、今はまだお互いのやりたいことが逆だ。「そうだね」そう答えた日葵は、チラリと壮一に視線を向けると、瞳がぶつかる。どちらからともなく視線を逸らすと、壮一が静かに言葉を発した。「その時聞いた。どれだけ日葵が傷ついて、目も当てられないほどだったかって……」(誠真……)確かにあのことは、誠真の優しさもすべて無視して、一人の世界にこもっていて心配をかけたのだろう。「めちゃめちゃ怒られた。あの誠真に。大人になったな」「そうだね」怒ってくれた誠真の気持ちが
Last Updated: 2025-04-21
Chapter: 第二十九話荷物を乗せると、日葵は運転席へと向かう。「長谷川! 本気か?」慌てたような声に、日葵はジッと壮一を見た。「すごいクマです、チーフ。きれいな顔が台無しです」なぜかスラスラと言葉が出て、日葵はホッとした。「危ないと思ったらすぐに言えよ」ハラハラした言い方の壮一を助手席に乗せると、日葵は車を発進させた。日葵は車の運転が好きだった。都内ではあまり乗る機会はなかったが、仕事に必要だろうと免許も取得していた。「本当だ。うまいもんだな」隣でホッと安堵したような壮一の声に、日葵も少し微笑んだ。「眠っていってください」そう言葉にしたところで、日葵は視線を感じチラリと壮一を見た。「チーフ?」「いや、本当にいろいろ悪かったと思って」もう日葵を見てはおらず、壮一は窓の外を見ていた。「あの……」「なに?」静かにゲームのインストルメントが流れる車内で、日葵は口を開いた。「“いろいろ”って何ですか? 行きの車で言われたことを考えていたんです。完璧でいたかったからアメリカにって……それがどうして、どうして何も言ってくれない、につながったのか」これを聞かなければ、自分自身が前に進めないような気がした。静かに少しずつ尋ねる日葵に、壮一が自嘲気味な笑みを浮かべたのが分かった。「逃げたんだよ。全部から」「え?」その意外な言葉に、日葵は反射的に壮一を見た。「日葵から、すべてから。日葵に行くのを止められたら、きっと行けなかった。でもあの時の俺は、苦しくて、どうしても逃げ出したかった」そんな葛藤があるとはまったく思っていなかった日葵は、ギュッとハンドルを握りしめた。「それも完全なおれの自己満足だったってことに、ようやく気付いた」「私から逃げたかったの? 私のせいだった?」つい零れ落ちた自分の言葉を止めようと思った時にはもう遅く、壮一がシートから起き上がるのが分かった。「違う。日葵、それは違う。すべて俺が悪いんだよ。お前は何も悪くない」静かに、真剣な表情の壮一に、日葵は涙をこぼさないように何とか運転に集中しようとした。「日葵、次のサービスエリアで止まって」その壮一の言葉に、日葵もこれ以上運転をして危険があってはいけないと、サービスエリアに車を止めた。「コーヒーでも飲もうか」壮一の言葉にも、日葵はそのままジッと止まったまま動けなかった。「だっ
Last Updated: 2025-04-17
Chapter: 第二十八話(謝罪されたことで、きっと心が緩んだだけよ。今更こんな不毛な恋はするわけにはいかない)そう心に思っていたところで、ドリップコーヒーにお湯を注いでいた壮一が言葉を発した。「いくら仕事とはいえ、崎本部長に悪いな」「え?ち……」壮一の言葉に、やはり自分と崎本が付き合っていると思っているのかもしれない。日葵はそう思い、否定の言葉を言いかけたが、さっき自分が決めた気持ちを思い出す。壮一にまた傷つけられるのも、壮一が自分を思うことなど絶対にない。私みたいな普通の女。今ならまだ戻れる。そう思うと、日葵は否定するのをやめた。「私こそ、柚希ちゃんに申し訳ないです」「え?柚希?」その言葉に壮一が今度は聞き返した。しかし、やはり否定の言葉はなく、沈黙が二人を包んだ。無言で差し出されたコーヒーに、なぜか泣きたくなる気持ちを抑えながら、日葵は手を伸ばした。(どうして、どうしてこんなに私の心を揺さぶるのよ……)コーヒーの苦みと熱さが、さらに追い打ちをかけるように日葵の心に影を落としていった。ふわふわとした気持ちの中、日葵は昔の夢を見ていた。手を伸ばすと、いつも笑顔の壮一が優しく手を差し出してくれる。それを何の迷いもなく、ギュッと握りしめる。そんな毎日が永遠に続く夢を。夢と現実の境目がわからないまま、日葵はその心地よい揺れと温もりを離したくなくて、手を伸ばした。しかしそれはあっけなく空を切り、小さな衝撃とともに体がその温もりから離れていく。日葵はそれをなんとか阻止しようと、もう一度手を伸ばした。しかし、あの暑い夏の日、何も言わずに冷たい視線を向けて背を向けた壮一へと、夢は変わっていく。そのことが悲しくて、意味がわからなくて、日葵は伸ばしていた手をギュッと握りしめた。「どうして……?」言葉になったかわからないつぶやきを漏らしながら、自嘲気味な笑みがこぼれる。夢の中でさえ、結末は同じ。あの夏は何も変わらない。そんなことが頭の中をぐるぐると巡り、この夢から早く解放されたくて、頬を涙が伝う。「日葵……」小さく呟かれたその声が聞こえたような気がした。そして、そっとさっきまでの温もりが日葵の頬に触れ、静かに涙を拭うのが分かった。どうして?少しぎこちなく、昔のように触れてくれないその手がもどかしい。夢と現実のはざまがわからないまま、日葵は
Last Updated: 2025-04-16
Chapter: 第二十七話「長谷川さんすごいな。何か国語話せるの?」 営業部の課長の澤部が驚いたように声を掛けた。「ああ、日常会話程度です」「さすがだね、長谷川さん」 今回同行している、日葵の父の代から会社を支えてきた専務・近藤が、にこやかに現れた。日葵の素性も、もちろん知っている。「清水君もご苦労様。急なことだったが、前宣伝としては上々かな?」 その言葉に、壮一も力強く頷いた。 「手ごたえは十分だと思います」「そうか、あとはもう仕上げるだけだな。社長にもそう伝えるよ」そして、日葵と壮一の横を通り過ぎるとき、近藤は小声で言った。 「二人とも、頑張っていたって伝えておく」 そう言い残してその場を後にした。一日目がバタバタと過ぎ、後片付けも何とか終わり、日葵はホテル近くの居酒屋で名古屋のスタッフや澤部たちと食事をしていた。「あそこの会社の……」 イベントの話題で盛り上がる中、日葵は座敷の隅で笑顔を浮かべながら耳を傾けていた。 そんなとき、上座にいた壮一が席を立つのが目に入った。「チーフ、お手洗いですか?」 酒が入っているせいか、スタッフの声が少し大きめに響いた。 「ああ」 柔らかな笑みを浮かべて席を外す壮一に、日葵は違和感を覚え、そっと席を立った。(やっぱり……)案の定、壮一はレジで会計をしていた。「チーフ」 その声に振り向いた壮一は、日葵にだけわかるように、少し表情を歪めた。「仕事するつもりですよね?」 じっと視線を向けると、壮一は諦めたように息を吐いた。「どうしてバレるんだよ」 呟くように言ったあと、今度は壮一が日葵を見た。「長谷川はもう少し楽しんでいけ。明日もあるから、あまり遅くなるなよ」 それだけ言うと、踵を返して店を出ていった。 日葵は無言でその背中を追いかける。「ついてこなくていい」 冷たく突き放すような言葉にも、日葵は答えなかった。「どこまでついてくるつもりだ?」 ホテルの部屋の前で、さすがに日葵も足を止めた。「仕事するんですよね?」 「お前、俺の部屋に入るのか?」ドアノブに手をかけたまま静かに問いかけられ、日葵は唇を強く噛んだ。「だって、仕事でしょ? 昨日も寝てないだろうし、顔色だって……」 そこまで言って、日葵は自分の言葉に気づいて止まった。(私、なに言ってるんだろう……)廊下を行き交う人々が、チラチラと視線を向けてくる。 こんなホテ
Last Updated: 2025-04-11
Chapter: 第二十六話「どうしてだろうな。日葵の期待を裏切りたくなかったのかもな」「期待?」日葵は自分でその言葉を発してみて、昔の壮一は日葵にとってヒーローだったことを思い出した。いつもなんでも完璧で、余裕があって。その陰に努力や苦労があったことなど想像もしていなかった。いつも後ろをくっついて、「すごいすごい」と頼りっぱなしだった。「ごめんなさい」そんな自分に、日葵は言葉が零れ落ちた。「どうして日葵が謝るんだよ」壮一があまりにも穏やかに言葉を発したことで、日葵もホッとして言葉を続けた。「だって、昔の私って迷惑かけてばっかりだったでしょ。なんでも頼ってばかりで。それが無理をさせてた……」壮一の思っていることなど一ミリも考えることなく、自分の気持ちを押し付けてばかりだったように思った。「それは違う」壮一は少し考えるような表情を見せ、日葵は言葉の続きを待った。「日葵の前では、完璧でありたかったから。だから――言い訳にもならないけど、あの時、何も言わずにアメリカへ行ったのかもしれない。すまなかった」日葵は何をどう答えて、どう反応すればいいのかわからなかった。(このあいだはどうして謝ったのかあれほど気になっていたのに……)聞いてしまったことを、なぜか後悔する自分を感じた。今までの苛立ちも、苦しみも、恨み言も、言葉にすることが出来なかった。完璧でいるために私から離れた?その意味を日葵は考えていた。しばらく無言の時間が過ぎたが、すぐに仕事の話になり、気づけば会場へと着いていた。「すぐに合流して準備をしよう」壮一の言葉に、日葵もトランクから荷物を抱えると会場へと入った。最大級のイベントはもう始まっており、会場はすごい熱気にあふれていた。プレスリリースまではまだ日があるが、今回いろいろなところからの問い合わせもあり、急遽ブースを出すことになったらしい。「清水チーフ!」名古屋支社からもたくさんのスタッフが慌ただしく対応しており、壮一を見てそのスタッフたちがホッとしたのが日葵にも分かった。「お疲れ様」壮一はいつもの余裕の笑みを浮かべ、スタッフに指示を出している。そんな様子を少しの間足を止めて見ていた日葵は、「長谷川!」その声で我に返ると、持ってきたグッズの見本やノベルティの搬入を始めた。「うわ、それかわいい」すでにブースにいたカップルが日葵の手元
Last Updated: 2025-04-07