「彩華、どうしたのよ? 帰ってきてから元気がないじゃない?」父と一緒にお風呂に入ると言って浴室に向かった瑠香を見送りながら、母にそう言われ、私は小さくため息をついた。「そんなことないよ」笑顔を作ってみせたが、母はじっと私の顔を見つめてくる。「彩華が瑠香の顔を見て、すぐに調子が悪いってわかるように、私はわかるのよ」その説得力のある言葉に、私はキュッと唇を噛んだ。確かに、母になってから瑠香の顔ひとつで体調や気分がなんとなくわかるようになった。母にとっては、私も同じということか。「うん……。会社でちょっとね」「失敗でもしたの? やっぱり瑠香を見ながらだと大変じゃない? 体調も戻ったばかりだし」心から心配する母に、私は曖昧な笑みを浮かべた。出産後、体調が戻らず、母に家事をほとんど任せ、私は子育てだけに専念してきた。それに対して感謝しかない。けれど――。小さい頃から何でも話してきた母に、日向のことだけは話せなかった。母は何度も「彩華の初恋は日向君ね」と冗談めかして言っていたが、私はそれを認めたことがない。恥ずかしかったのか、それとも知られたくなかったのか。妊娠したときも同じだった。父親の名前を聞かれても、私は何も答えなかった。頑なに口を閉ざした私を見て、両親がどう思ったのかは、今でもわからない。「そうだね、もしかしたら甘えるかも。ごめんね」そう言って誤魔化すと、母は心配そうに眉をひそめたが、それ以上は追及してこなかった。仕事を続けたい気持ちはある。でも、このまま日向と同じ会社にいることができるのかはわからない。仕事だけでなく、彼が結婚し、家族を作る姿を見ることに耐えられるのか。それに――。瑠香の存在が重くのしかかる。彼が結婚して子供が生まれれば、その子と瑠香は血のつながりがあるのだ。その事実を隠し続けることは、果たして許されるのだろうか?「本当に大丈夫?」母の声にハッとして振り向くと、廊下からバタバタという音が聞こえた。「瑠香、出たみたいだね」「うん」母に「大丈夫」と伝えるように微笑むと、私は立ち上がった。「ルカー、楽しかった?」「あーい」バスタオルに包まれた瑠香を抱きしめる。その小さな体から伝わる温かさが、迷いをかき消してくれる気がした。この子を守らなければいけない――。そんな思いを胸に、私は明るく振舞った。その夜。瑠香の寝
それからの日々は、日向とは完全に上司と部下という関係が築かれていたと思う。神代さんが真ん中に入ってくれることもあり、私と日向が直接話すこともなかったのは幸いだった。プロジェクトの時期は忙しかったが、この案件が終わったら仕事を辞めるつもりなので、少しだけ両親に甘えさせてもらおうと思う。その後はまた仕事を探しつつ、すぐに見つからなければバイトでもして家にお金を入れればいい。そんなことを考えていた。上司である部長にも、プロジェクトが終わったら辞めるという話はしてある。今は大切な時期だから、みんなには内緒にしてほしいと伝えた。『産休明け戻ってみたが、やはり子供が保育園になじめなかった』――もっともらしい理由に、部長は残念がってくれたが、「仕方がない」と受け入れてくれた。もともと、私は仕事も好きだが、料理をしたり、子供と一緒に温かい家庭を作るのが夢だった。しかし、一人で瑠香を産んだとき、その夢は諦めた。まさか日向が原因で仕事を辞めることになるとは思っていなかったけれど。すべては、あの夜の自分の行動が原因だ。後悔していないかと問われれば、嘘になるかもしれない。でも、瑠香を授けてくれたことには本当に感謝している。あのまま、誰とも一線を越えることなく、仕事だけに生きていたかもしれないのだから。瑠香を授かれたこと、それが私の一番の宝物だ。「東雲、今日で決めるぞ」その緊張感のある神代さんの言葉に、私は仕事だけに集中しようと決意して頷いた。今日は、アメリカとのウェブでの条件交渉がある。それで合意を得られれば、我が社にとって非常に大きな取引先ができ、莫大な利益をもたらす。副社長である日向も参加するほどの大きなプロジェクトに最後関われたことは、本当に貴重な経験だったと思う。開始の三十分前、大会議室に後輩と一緒に入り、プロジェクターの準備やネット回線の最終チェックを行った。そして、資料を何度も確認する。「東雲、準備は大丈夫か?」「はい」予定より早く会議室に入ってきた日向に、私は冷静を装って答える。「こちらを」一応、スライドの内容を印刷し、詳しい資料を添付したものを日向に渡す。日向は黙ってそれを受け取った。「お待たせしています」日向が先に来ていたことに少し驚いた様子で、神代さんや加奈先輩も入ってきた。そして、開始五分前、ネット回線がつながり、アメリカの担当者
「今日はビュッフェ形式になっております。お好きなお料理をどうぞ」 にこりと完璧な笑みのスタッフに案内され、テーブルのひとつに通された。日向はまだ来ていないようで、プロジェクトに参加していたいつものメンバーで食事会は始まった。どの料理もおいしくて、生ハムやチーズ、ワンスプーンの美しいサーモンの前菜など、目を引く料理を皿に乗せていく。「美味しそうだね」 加奈先輩も目を輝かせている。私も久しぶりのこの雰囲気に調子に乗って料理を取りすぎた。そう思っていた時だった、秘書の男性を伴って日向が入ってくるのが分かった。「副社長、お先にいただいています」 日向に気づいた神代さんがそう言うと、日向は「もちろん」とだけ答え、秘書と一緒に用意されていた上座の席に腰を下ろした。すぐにスタッフが、みんなのところにシャンパンを配り始める。「僭越だが、お礼を伝えたい。一度席についてくれるか?」 日向のそのセリフに、みんなが席に座ると、自然と彼の方に注目した。「本社に戻ったばかりの私を受け入れ、一緒に成果を出してくれたことに感謝を。今日は無礼講だ。楽しんで行ってくれ」「かんぱーい!」 その楽しく嬉しい雰囲気に、私は持っていたシャンパンを一気に流し込んだ。妊娠してからもう何年もお酒を飲んでいなかった。いや、正確にはあの夜、日向とワインを飲んだのが最後だ。一気にアルコールが身体をめぐり、身体が熱くなる。「やだ、彩華ちゃん顔真っ赤」 加奈先輩がクスクスと笑いながら、私の顔を覗き込む。「え? 東雲、酒弱かったっけ?」 瑠香を生む前は、男の人顔負けに飲んでいたこともあるが、やはり久しぶりのアルコールとこの雰囲気に酔いそうだ。「そんなことないんですけどね」 グラスを置くと、これ以上酔わないようにと、美しいテリーヌを口に運ぶ。サーモンとチーズの濃厚な味に、またグラスに手を伸ばしそうになるのを慌てて止めた。「飲めばいいんじゃないか?」 個別に仕事以外で話しかけられたのは、あの初めの日以来かもしれない。日向の言葉に、神代さんが苦笑しつつ口を開く。「瑠香ちゃん待ってるから、気にしてるんだろ?」 「そうですね」日向の前で瑠香の名前を出してほしくなかったが、ここで話題を変えても不自然だろう。「瑠香ちゃんっていうの? 東雲さんの娘さん」 「めちゃくちゃかわいいんですよ! おめめぱ
会場を出ると、夜風がひやりと肌を撫でた。会社から少し歩き、大通りまで出ると神代さんが足を止めた。「ここでタクシーを拾おう」手を挙げ、タクシーを止める神代さん。その横顔は相変わらず穏やかだが、どこか考え込んでいるようにも見える。タクシーが停まり、乗り込もうとしたとき、彼がふと口を開いた。「なあ、東雲」「はい?」車内に入ろうとした足が止まる。振り向くと、彼は私をじっと見つめていた。「副社長と……いや、何でもない」その途切れた言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。「どういう意味ですか?」無理に笑みを作りながら問い返す。けれど、内心では恐ろしい想像が駆け巡っていた。神代さんに何か気づかれているのだろうか?彼は少し視線を逸らし、タクシーのドアに手をかけた。けれど、乗り込む前に再び私のほうを見た。「東雲って、副社長と……何かあったのか?」鋭い言葉に息を呑む。すぐに否定しなければと思ったのに、喉が詰まって声が出ない。「いや、違うな。俺が言いたいのは……」神代さんの表情が、少しだけ寂しそうに緩む。「俺じゃ、ダメか?」その問いに、私は思わず彼の顔を見つめた。彼が何を言おうとしているのか、その言葉の意味を理解した瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。※ ーーー神代タクシーが見えなくなるまでその場に立ち尽くし、深く息を吐き出した。つい、彼女に言ってしまった。「俺じゃ、ダメか?」心に湧き上がる後悔と自己嫌悪。けれど、抑えきれずに零れた言葉だった。ーーー初めて彼女を見たのは、新人の頃だった。配属されたばかりの頃、明るくて一生懸命で、いつも周囲に気を遣って笑顔を絶やさない彼女。気がつけば、目で追っていた。でも、彼女には誰も近づかなかった。社内で「男嫌い」という噂が立つほど、男性に対して一線を引いているように見えたからだ。だから俺も、ただのいい先輩でいようと思った。それなのにーーー突然、産休を取ると聞かされたときは衝撃を受けた。「結婚するなんて聞いていなかったのに……」頭の中で何度もその言葉がこだまする。彼女の周囲の誰も事情を知らないし、結婚式を挙げたという話も聞いたことがない。ただ、無事に子どもが生まれたという報告を加奈から聞いた。それでも俺は、気持ちを整理して前を向こうと思った。過去は過去、もう手の届かない存在なのだと。しかし、彼女
瑠香という名前。そして年齢。その断片的な情報が頭の中で繋がりを持ち始めた瞬間、心臓が早鐘のように鳴り響いた。いや、まさかそんなことは――。けれど、否定しようとするたびに胸の奥に湧き上がる感情が抑えられない。あの夜の記憶。月明かりに照らされた彼女の横顔と、腕の中で静かに眠っていた彩華。「違うはずだ」独り言のように呟きながらも、足は止まらなかった。彼女の名前を心の中で何度も呼びながら、俺は衝動的に会社を出ていた。街灯の光が不規則に並ぶ夜道を抜け、遠ざかるタクシーを追いかけるように視線を巡らせた。けれど、彼女の姿はどこにも見えない。その時――。視界の端に、タクシーを見送るように立ち尽くす背中が映った。神代だった。俺は自然とその方向へ足を向けた。夜風が肌を撫でるたびに、胸の奥で渦巻く感情がさらなる疑念を呼び起こす。「神代君」静かに名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。その表情はとくに驚いた様子はない。「どうしてここに?」冷静な口調だったが、その瞳には挑戦的なものが見えた。「送ってくれてありがとう」感情を押し隠しながら告げると、神代の眉がわずかに動いた。「どうして副社長が俺にお礼を言うんですか?」その言葉には、ささやかな刺があった。俺は彼の内心を探るようにじっと見据えながら、答える。「彼女を気にかけてくれているのが分かるからだ」短い言葉に込めた想いは、自分でも整理しきれていなかった。感謝だけではない。その裏には、彩華のことを巡るわだかまりと、彼への牽制が混じっているのかもしれない。「俺は、ただ彼女のためにしただけです。それ以上の意味はありません」神代の声には確固たる決意が感じられた。だが、その言葉の裏にあるものが何か、俺には見抜けなかった。「それなら、それでいい」静かにそう告げると、俺は彼に背を向けた。振り返ることなく歩き出した。もしも、もしも、瑠香が俺の子だったとしたら、どれだけ彼女に辛い思いをさせたのだろう。許されないことをしてしまったのじゃないか。そうは思うが、簡単に神代に渡すわけにはいかない。しかし、俺にはまだ乗り越えないといけないこともある。会いたいなーー。追う思いつつ、夜空を見上げた。 ※※ あの打ち上げの日から数日、私はなんとなく落ち着かない気持ちのまま仕事をしていた。 神代さんは、あの日のことは
いつも通りに仕事を終え、食事を済ませて瑠香を寝かしつけた。夜、静まり返った部屋で、私はベッドに腰を下ろしていた。ベッドサイドの小さなライトだけが、ぼんやりと空間を照らしている。いろいろなことが一気に起こって、何がなんだかわからない。そんなとき、スマホが振動した。「こんな時間に……?」ディスプレイに表示された名前に、一瞬手が止まる。日向からのメッセージだ。仕事の話だろうかと思ったが、副社長が直接私に連絡してくることなどほとんどない。恐る恐る画面を開くと、思いも寄らない内容が目に飛び込んできた。「彩華、週末の予定はあるか? ないなら、瑠香を連れて動物園に行かないか? S駅に10時に待ってる」「え……動物園?」思わず読み返す。何かの間違いではないかと疑ったが、何度見ても内容は同じだ。聞いているのに「待ってる」という書き方に、思わず息を吐き出した。普通なら断るだろう。こんな誘い、まともに受け入れる必要なんてない。だけど、どうしてだろう。瑠香の笑顔が頭をよぎった。「瑠香、喜ぶかな……」上野動物園のパンダや、賑やかな園内を楽しむ瑠香の姿が浮かぶ。胸がきゅっと締めつけられる。彼と一緒に過ごすことなどないと思っていた。けれど、父親である日向と瑠香が一緒にいる時間……そんな一瞬があってもいいのではないかと思ってしまう。瑠香が大きくなったとき、きっと覚えていないだろう。でも、父親と動物園に行ったという記憶を、少しでも形に残せたら。「写真……」顔が写らなくてもいい。後姿だけでもいい。瑠香がいつか「お父さん」と呼べる人と過ごした証を、何か形にして残したい。「……私、何を考えてるの?」頭を振り、目をぎゅっと閉じる。だけど、心の中の葛藤は消えなかった。行くべきではない。でも、行きたい気持ちがあるのも事実だった。結局、悩みすぎて返事を送れなかった。それなのに、当日が来てしまった。「どうするの、私……」時計をチラリとみると、八時半を過ぎている。行くならば用意をしなければならない。「彩華、今日は瑠香、どこか連れてく?」母の言葉に、私は少し口ごもる。「えっと、久しぶりに友達と一緒に、瑠香を連れて動物園でも行こうかなって」友達……咄嗟に出た言葉だが、小さいころからの友人であることには変わりない。ただ、瑠香の父親という事実を除けば。「そうなの! いいじゃ
結局、10分ほど遅刻してしまい、日向はもういないかもしれない。そんなことを思いながら、指定された場所に向かう。どうやって来ているのかもわからないし、「駅で」とだけ言われた。ただでさえ休日で人が多い。人混みの中で日向を見つけられるのだろうか……そんな不安が胸をよぎる。けれど、ふと気づいた。周囲の人々が何となく同じ方向に視線を向けていることに。その先を見れば――そこにいたのは日向だった。スマホに視線を落とし、何か思案しているようにも見えた。そんな表情が余計に映画のワンシーンのようにも見える。そんな彼を、周囲の女の子たちがちらちらと見ているが、本人は全く気にしていないように見えた。こんななかの彼に私が声をかけるなんて……。そう思っていると、不意に日向が顔を上げ、こちらを見た。「あっ……」思わず声が漏れてしまう。彼の視線が私を捉えた瞬間、ほんのわずかに表情が和らいだ気がする。私の胸がきゅっと締まるような感覚に包まれる。いつも完璧なスーツ姿で会社にいる日向。その印象があまりにも強かったせいか、彼のラフな格好に思わず目を奪われた。白いシンプルなシャツの袖を軽くまくり上げ、濃いネイビーのカーディガンを羽織っている。下はダークグレーのスリムなパンツ。「きてくれてありがとう」遅れたにも関わらず、お礼を言われて私は小さく首を振る。「ごめんなさい……瑠香が準備に手間取っちゃって……」申し訳なさそうに瑠香に視線を落とすと、日向はその視線を追いしゃがみこんだ。「瑠香ちゃん、きょうはお兄さんも一緒に遊んでいい?」あまり男性に慣れていない瑠香がどんな態度をとるか心配だったが、意外にも人見知りをする瑠香だったが、にっこりと笑った。「お兄さんって」前回、気まずいママだったことも忘れて、いつも通り口にしてしまいハッとする。「まだおじさんって呼ばれるのは早いだろ?」日向がそう言いながら笑ってくれて、なんとなく空気が和んだ気がした。「すぐそばに車を止めてるから」日向が立ち上がり、駅の出口へと視線を向けながらそう言った。「でも……チャイルドシートいるよ?」自然と出た言葉に、自分でも驚いた。日向が子ども用の設備を整えているわけがない。けれど、瑠香を乗せるなら絶対に必要だ。「大丈夫、用意したから」さらりと告げる彼に、私は一瞬言葉を失った。「そこまでしたの?
週末の動物園の周辺はやはり車も多く、駐車場も満車だったため、少し離れた場所に車を止めることになった。車を降りると、私はふと気づいた。うっかりしていた――いや、緊張していたせいか、ベビーカーを持ってこなかったことに気づく。瑠香は歩きたい盛りだが、人が多い場所では危ないし、そもそも歩く速度も遅い。これは抱っこした方が良さそうだ。「瑠香、抱っこしようか?」私が手を差し出すと、瑠香も素直に両手を広げた。私も屈んで抱き上げようとしたその時――。「俺でも大丈夫かな?」不意に聞こえた日向の声に、私は動きを止めた。「え?」驚いて横を見ると、彼は私を見下ろしながら軽く手を差し出していた。「大変だろ? 動物園に着いたらベビーカーを借りられるだろうけど、それまで俺が抱っこするよ。瑠香ちゃん、おいで」彼は静かにそう言うと、瑠香に向けて手を広げた。その様子に、私は一瞬言葉を失う。「大丈夫。私が――」慌てて断ろうとするが、瑠香はすでに日向の方を見て笑い、彼の腕に手を伸ばしていた。「おいで」日向が柔らかい笑顔で声をかけると、瑠香はためらいなく彼に身を預けた。日向は軽々と瑠香を抱き上げ、そのまま抱っこして歩き出した。「軽いな」瑠香を抱きながら、彼はどこか嬉しそうに微笑む。「ちょっと……そんな慣れてないでしょう? それにもう軽くないよ」私がそう言うと、日向は肩越しに振り返り、穏やかな表情で答えた。「これくらい軽いよ。大丈夫」その言葉に、私は昔の彼の姿を思い出してしまう。優しくて、周りを気遣う少年のような日向。少しの間、その姿に見惚れてしまう自分がいた。「さ、行こうか。瑠香ちゃん、動物園楽しみ?」「あい」瑠香の小さな声に、日向も嬉しそうに笑った。「よし、パンダに会いに行こうな」その光景を見ながら、私の胸は複雑な感情でいっぱいだった。こんな風に自然に瑠香と接してくれる彼を見て、心が温かくなるのと同時に、少しだけ胸が苦しくなる。何度も逃げたくなる気持ちを押さえながら、私は二人の後ろを追いかけた。今日は、会社とちがい、敬語をつかうことも忘れていた。それはきっと日向がそう言う雰囲気だったからだろう。二人だと気まずいままだったかもしれないが、瑠香がいることで穏やかな空気になっている。そして、やっぱり瑠香と日向は似ている気がする。笑った顔や、ふとした瞬間が
夕飯の時間、私はいつもどおり瑠香にごはんを食べさせていた。今日もよく食べるな、なんて微笑みながらスプーンを口に運ぶ。「もっとー」「はいはい。ちゃんともぐもぐしてね」お風呂に入れて、髪を乾かして、絵本を一冊読んで――瑠香がすやすやと寝息を立てるころには、夜の10時を回っていた。ベッドのそばに静かに腰を下ろし、小さくため息をついた瞬間、ふと日向の顔が頭をよぎった。ちゃんと食事はとれているのか、夜はちゃんと眠れているのか。そんなことばかりが次々と浮かんできて、どれだけ「信じてる」なんて言葉を口にしても、不安はなかなか消えてくれなかった。気がつけば、私はいつのまにかキッチンに立っていて、日向が食べられそうなもの、体力が落ちていても胃にやさしいものを思い浮かべながら、煮物を小さな仕切りに入れ、お弁当箱にそっと詰めていた。なんとなく色どりも欲しくなって、卵焼きを焼き、冷ましてから隣に添える。気がつけば、お弁当が出来上がっていて、私はそれをそっと保冷バッグに入れた。そのまま母の部屋へ向かい、扉の前で小さく声をかける。「ちょっとだけ、出てきてもいいかな」「……日向くんのところ?」母はすべてを見透かすようなまなざしで私を見つめたが、反対の言葉はひとつもなく、静かに頷いてくれた。「瑠香のことは心配しないで」「ありがとう、お母さん」私は小さく頭を下げると、バッグを手にして家を出た。夜の都心に足を踏み入れると、空気は静かで張りつめており、高級住宅街の一角にひっそりと建つ、あのスタイリッシュな低層マンションが視界に入った。そこを訪れるのは、あの夜以来のことだった。建物の入り口にたどり着いた瞬間、ふと以前のことを思い出した。このマンションは、コンシェルジュやセキュリティが非常に厳しく、たとえ宅配業者であっても、住人の許可がなければ中へ入ることはできない。誰にも会わずに玄関先に置いて帰るといったことは、この場所では通用しなかった。何をやってるんだろう、私。家に押しかけるわけにはいかず、勝手に料理を作り、勝手に来て、さらには勝手に置いて帰ろうとしている自分の行動が、思っていた以上に身勝手なものに思えてきた。「はぁ……」深いため息をつき、仕方なく踵を返そうとした、そのときだった。「……彩華?」不意に背後から聞こえてきた声に驚いて振り返ると、マン
最近の日向――副社長の姿を見ることが、めっきり減った。本来であれば、週に何度も顔を合わせていたはずのプロジェクトの定例会議にも姿を見せなくなり、確認事項や指示もすべて、別の担当者や管理職経由で降りてくるようになった。私はそれに従って淡々と仕事をこなしていたが、心のどこかでずっと引っかかっていた。――忙しいだけ。そう言い聞かせていた。何かあったとしても、私には聞けない。日向はあの夜「すべてが片付いたら」と言った。だから、私は待つと決めたのだ。どんな形であっても、彼を信じると。だけど――。「東雲さん、これ確認お願いします」「はい、ありがとうございます」営業資料を受け取りながらも、集中しきれない自分がいた。PC画面に目を向けても、文字が頭に入ってこない。ぼんやりと、あの夜のことを思い出す。 日向の腕の中で、あたたかさに包まれて眠った夜。 夢みたいな時間だった。だからこそ、今は怖くもある。まるで、あれが現実じゃなかったような気がしてしまう。ふと耳にした同僚たちの小声が、聞こえてきてドクンと大きく心臓がはねた。「副社長、会議全部外されてるらしいよ」 「高木家との縁談、断ったって噂も……」 「なんか揉めてるみたいよ。なんか誰かわからないけど、不倫してるとかもきいたな」名前は出されていなかったけれど、その言い方に背筋がぞわりとした。まさか、私のことだろうか……。後ろめたいことなどなにもないが、噂はいろいろ尾ひれがついていく。日向が会社で何を抱えているのか、何と戦っているのかわからない。隣にいると伝えたが、何もできていない。それ以上に、やはり自分が魔をしているのではないか――。 あの時、高木さんに言われた言葉が、今も頭の中で繰り返される。「あなたのせいで、彼の未来が壊れる」資料のページをめくる手が、いつの間にか止まっていた。「東雲」名前を呼ばれて、はっと顔を上げると、神代さんがすぐそばに立っていた。「顔色、悪いぞ。大丈夫か?」「……あっ、はい。すみません、ちょっと考え事をしていて……」無理に笑ってごまかしたが、神代さんは目を細めて、じっと私を見てくる。「最近、なんか元気ないよな。何かあった?」「……いえ。なんでもないです」本当は、いろいろある。でも、それを話せるわけがない。「今日、飯でもどうだ?」その誘いに、私
父との対峙から数日。俺は社内で孤立しつつあった。副社長の肩書きこそ残っているが、経営会議には参加できず、決定権もない。会議室の扉が閉ざされるたびに、自分が組織の中で徐々に排除されていくのを感じる。だが、このまま指をくわえているつもりはない。俺はスマホを取り出し、ある人物の連絡先を開いた。専務である藤堂英彦。かつては父の右腕として経営を支えてきたが、最近では意見の対立が増えていると聞く。もし彼がまだこの会社の未来を案じているのなら……俺の話を聞くはずだ。躊躇なく、発信ボタンを押した。数コールの後、低く落ち着いた声が応じる。「……珍しいな。お前から連絡をもらうとは」「専務、少しお時間をいただけませんか? 直接お話ししたいことがあります」「話? お前と?」専務の声色には警戒が滲んでいた。当然だ。俺は社長の息子であり、彼にとっては父と同じ側の人間だと思われているはず。「ええ。専務にしか相談できないことです」俺の真剣な口調に、専務はしばし沈黙する。そして数秒後、静かに言った。「……今夜20時、ホテル・グランヴィアのラウンジに来い。そこなら話せる」「ありがとうございます」通話が切れた後、俺はスマホを握りしめた。これが最初の一歩だ。指定された時間にラウンジへ向かうと、すでに専務は席についていた。落ち着いた雰囲気の中、彼はウイスキーグラスを手にしながら、俺をじっと見つめている。「座れ」言われるままに対面に腰を下ろすと、専務は静かに切り出した。「さて、話とは何だ?」俺は息を整え、まっすぐに専務を見据えた。「専務。俺は父を退陣させるつもりです」一瞬、専務の表情が動いた。「……随分と大胆なことを言うな」「父は独裁的になりすぎている。高木家との婚約話も、俺の意志を無視した独断でした。ですが、それだけじゃない。最近の会社の動き……投資の方向性、人事の決定、どれを見ても危うい。社内でも不満の声は出ているはずです」「……まあな」専務はグラスを置き、腕を組んだ。「お前がそのことに気づいているとは驚きだ。確かに、社長のやり方に疑問を抱いている者はいる。だが、だからといって、お前に何ができる?」「俺は社長ではありません。でも、会社を守るために動くことはできます」俺は拳を握りしめ、強く言った。「専務、力を貸してください。父に不満を持つ人
高木が部屋を出て行ったあとも、父はしばらく無言のままだった。机に肘をつき、指先で軽くこめかみを押さえている。その仕草からは苛立ちとも疲労ともつかない感情が滲んでいた。重苦しい沈黙が社長室に漂う。重厚な木製のデスクと革張りのソファ、壁に飾られた額縁――どこを見ても、この部屋の空気は冷たく、威圧感があった。俺は椅子に深く腰を下ろし、静かに父の言葉を待った。「……お前、何か勘違いをしているようだな」やがて、父が低く呟く。その声音は先ほどよりも抑えられていたが、言葉の奥には確かな圧力が潜んでいた。「勘違い?」「お前が一人で勝手に動いたところで、この話が終わるとでも思っているのか?」父の冷ややかな視線が俺を射抜く。まるで、手に乗った駒を見下ろすような目だ。その眼差しにわずかな苛立ちが混じったのを、俺は見逃さなかった。「この結婚は、すでに高木家と正式に進めると決まっている。お前の意思ごときで覆る話ではない」「俺は高木家にはっきりと断りを入れました。それでもあなたは、まだこの話を続けるつもりですか?」「当然だ」父はあっさりと言い切った。その表情に迷いは微塵もない。俺の反発など初めから織り込み済みだとでも言うように、淡々とした口調だった。「お前の勝手な判断が、どれほどの影響を及ぼすのか理解しているのか? 高木家の後ろ盾を失えば、我が社は経営基盤を大きく揺るがすことになる。その責任を取る覚悟があるのか?」「その責任を取るのが副社長の仕事なら、俺は正々堂々とやるまでです」言い放つと、父の表情がわずかに変わった。「ほう……?」鼻で笑いながら椅子にもたれかかる。その仕草には余裕が漂っていたが、僅かに目を細めたのを俺は見逃さなかった。俺の言葉が、多少なりとも彼の意識に引っかかったことは確かだ。父は鼻で笑い、椅子にもたれかかる。「ならば、お前の力だけでやってみろ」その言葉に、嫌な予感がした「どういう意味ですか?」「お前を、今日付けですべての経営会議から外す」「……は?」父は淡々と続ける。「副社長という立場は残してやるが、意思決定には一切関与させない。今後、経営に関わる重要案件は、すべて私と取締役会で決める」「そんな……」息を呑む。これは単なる権限の剥奪ではない。「これは私の命令だ」父の言葉は絶対だった。副社長という肩書きを持っていても、
Side 日向彩華の「隣にいる」と言ってくれた言葉が、頭の中で何度も反響していた。すべてを片付けるまで――そう言ってくれた。俺にとって、それはどんな言葉よりも救いだった。彼女の温もりを腕の中に感じながら、俺はようやく一歩踏み出す覚悟を決めた。もう、迷うつもりはない。このまま、曖昧な状態を続けるわけにはいかない。父親の言いなりになり、会社の未来のために「必要な選択」をしろと言われ続ける人生は、もう終わらせる。高木家との政略結婚も、親の都合で決められた跡継ぎのレールも、すべて――。俺はあの日、すぐに行動に移した。高木家にはっきりと断りの連絡を入れたのだ。だが、その決意がどれほど大きな障害を生むのかは、すぐに思い知らされることになった。翌朝、いつも通りオフィスに出社すると、すぐに秘書が俺の元へ駆け寄ってきた。「副社長、社長がお呼びです」何も言わなくても、すでに動きを察知されていることぐらい想像はつく。「わかった」俺は無言で立ち上がり、社長室へ向かった。扉を開けると、すでに父がソファに座って待っていた。その隣には、高木絵梨奈の姿もある。想像通りすぎていらだちが募るが顔には出せない。「日向、お前、何を考えている?」父の声は低く冷たい。まさか俺が父や彼女を通り越して、正式に断るとは思っていなかったのだろう。それが、この会社に与える影響も父はもちろん、俺だってわかっている。この結婚によって父はこの業界の確固たる地位を築きたいのだ。だが、それは彩華や瑠香を犠牲にしてやることではない。兄もきっとそれはわかってくれるはずだ。それに俺だってただずっとぼんやりと会社にいたわけではない。絶対にいつか、この父を今の地位から引きずり降ろしてみせる。「日向さん、こんにちは」高木が父の隣で微かに笑みを浮かべながら、俺に頭を下げた。「絵梨奈さん、お久しぶりですね」俺もにっこりと笑いつつ、そう答える。とんだ茶番でしかない。そんな俺たちを見て、父が苛立ったように声を荒げる。「とぼけるな。お前が最近、妙な動きをしていることは知っている。会社の将来のためにお前を副社長に据えたというのに、余計なことを考えるな!!」「余計なこと、とは?」「彼女との婚約の件だ」だろうな。それ以外この状況でありえない。しかし、俺も今回は引くつもりはない。「……その話なら
「彩華といるときだけが、俺にとって自分でいられる場所だった。でも、俺が彩華の隣を望むことは許されないよな……」そう言って、日向はふっと悲しげに笑った。その笑顔はあまりにも寂しそうで、どこか諦めが滲んでいて。――どうして、そんな顔をするの?まるで、最初から叶わないことが決まっているみたいに。まるで、最初から私の気持ちなんて、どうせ受け入れられないって決めつけているみたいに。胸の奥がちくりと痛む。なのに、それと同時に、どうしようもなく苛立ちが募っていった。「ねえ、本当に日向はずるい。謝るなら最初からそんなこと言わないでしょ!」気づけば、感情のままに声を上げていた。「『お前なんて嫌いだ、二度と顔も見たくない』そう言えばいいじゃない!」自分でも驚くくらい、強い口調になっていた。「昔から思わせぶりなことばかり言うじゃない! そんなふうに言うから、私は……!」言葉が詰まる。頭の中は混乱しているのに、どうしても止められなかった。「本当は私にそばにいてほしいんでしょ!!」その瞬間、息が詰まった。なんてことを言ってしまったの。まるで、ただのうぬぼれみたいじゃないか。「私のこと好きなんでしょう?」そう聞いているのと同じ。そんなこと、口に出すなんて――。背中に冷たい汗が流れる。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。けれど、日向は――。「そうだよ」迷いなく、即答した。「俺はずっとずっと彩華にそばにいてほしい。狂おしいほどに」静かな言葉だった。だけど、その一言は、私の心に鋭く突き刺さった。言葉が出ない。息をするのさえ、苦しくなる。どうしよう。どうしたらいいの?「それができないのは、お父様のことがあるから?」やっと絞り出した声は、震えていた。日向はすぐには答えなかった。けれど、その表情を見れば、答えが「YES」であることは明白だった。「日向は、お父様のこと、どうにかするつもりはあるの? ないなら、もう私と瑠香とは関わら……」そこまで話した私の言葉を遮るように、日向は「ある!」と強く言った。「すべてを片付けて、俺は……」言いかけた言葉をのみ込むように、日向は私をまっすぐに見つめた。その目に映るのは迷いがある様には見えなかった。「でも高木さんの方が、日向の隣にいるのにふさわしいんじゃないの?」それは、私がずっと思っていたこと
日向の問いに、何か言葉を返そうとしても、喉がつかえて声にならなかった。 彼の手が触れたままの手首がじんと熱を持ち、鼓動の音だけがやけに響いている。 言葉を発することも、逃げることもできず、ただじっと彼を見つめるしかなかった。それでも日向は諦めず、もう一度問いかける。「昔のことを気にすることないって……どういう意味だ?」さっきよりも少しだけ強い声。「それは……」何かを言わなきゃいけないと思うのに、どんな言葉を紡いでも、うまく伝えられる自信がなかった。あの日、酔って私と一夜をともにしたことを、きっとやさしい日向はずっと気にしている。 再会してからの彼の態度は、後悔からくるものだと、ずっと思っていた。 だから、もう気にしなくていい。 私たちのことは忘れて、自分のために生きてくれたらいい――そう伝えたかった。でも、それが嘘だということも、私は自分でわかっていた。罪悪感だったとしても、日向がそばにいてくれることが嬉しい。 そんなずるい気持ちが、私の心の奥底に確かにあった。だけど、日向は会社を背負う人間。 高木さんが言った通り、私は足手まといだ。そんな迷いを抱えたまま、私は何も言えずにただ黙り込んだ。すると、不意に日向が視線を逸らす。「悪い、体調が悪いときに……」まるで、自分を落ち着かせるようにそう言いながら、彼はそっと私の手を放した。自由になったはずなのに、つかまれていた部分がじんじんと熱を持ち、胸がドキドキと早鐘を打つ。 どうしていいかわからなくて、私は自分の腕をそっと抱えながら、ただ俯くしかなかった。「でも、これだけは知っておいて」沈黙の中、日向の低く落ち着いた声が響く。「……え?」顔を上げると、日向は少しだけ言葉を選ぶように考え込み、そして、ゆっくりとした口調で言った。「今の言葉が、あの日――彩華を抱いたことを言っているなら」その一言に、心臓が跳ねる。あの日――。意識しないようにしていた記憶が、鮮明によみがえってくる。「後悔したこともないし、忘れるつもりもない」静かに、でも確かに日向の声が響く。 私は、息をのんだ。「……っ」驚いて顔を上げると、日向の目がまっすぐに私を見ていた。 迷いのない、揺るがない瞳。「ただ、俺が悔いているのは、彩華のそばを離れたことだ」その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけら
Side 彩華朝の光がカーテンの隙間から差し込み、ぼんやりとしたまぶたを照らしていた。まるで柔らかな手で揺さぶられるような感覚がして、意識が浅い眠りから徐々に浮かび上がる。――あれ……?ゆっくりとまぶたを持ち上げると、視界の端に伏せられた頭が見えた。日向――?まだ夢を見ているのかと錯覚しそうになった。けれど、覚醒していく意識の中で、目の前の光景が夢ではないことを理解する。ベッドのそばに置かれた椅子に座り、日向が腕を枕代わりにしてつっぷして眠っていた。最初は、何が起こっているのかわからなかった。でも、彼の肩がゆっくりと上下しているのを見て、現実なのだと気づく。――ずっと、そばにいてくれたの?驚きとともに、心がじんと温かくなるのを感じる。何時間ここにいたのかわからないけれど、少なくとも私は、日向がそばにいることに気づかずに眠ってしまっていた。申し訳なさと同時に、胸の奥に静かに嬉しさが広がっていく。どうして、こんなことをしてくれるの?昔の罪滅ぼし?あの夜のことを、まだ気にしているの?でも、それなら、もういいんだよ。勝手にいなくなる理由があったことは、もうわかった。彼が苦しんでいたことも、どうしようもなかったことも、すべて理解している。だから、そんなふうに気にしないでほしい。それとも――違う?私としては、もう一度、瑠香のパパとママとして、新しい生活を夢見ることもある。現実的ではないとわかっていても、そんな未来を想像してしまう日がある。再会してからの彼は、昔と違っていた。あの頃は、ただ憧れていた。子どもが夢見るように、無邪気に「好き」だと思っていた。でも今は違う。大人になった日向を知り、彼の生き方を知り、私はもう、ただの幼い恋心ではない感情を抱いてしまっている。だけど――。私は、彼の隣に並べるような人間じゃない。それを、一番理解しているのは私自身だった。日向は、会社の後継者であり、大企業の副社長。一方の私は、ただの社員で、子どもを育てるのに精一杯なシングルマザー。彼にとって、私との関係は、きっと重荷になる。それを望んでしまうのは、ただの私のわがままでしかない。――こんな想いを抱いてしまうのは、迷惑なだけ。心にそう言い聞かせるように、眠る日向を見つめた。こうして目を閉じていると、昔の彼に戻ったように見
すぐそばにある食品ストアに、どれくらいぶりかわからないほど久しぶりに足を踏み入れた。入口近くに並ぶ買い物かごを手に取ると、少しだけ場違いな気がした。自分も食べる――そう言ったものの、食欲はそれほどない。それよりも、体調の悪い彩華に、何を買うべきかそれだけを考えながら店内を歩く。広い売り場には、肉や魚をはじめ、惣菜や飲み物など、あらゆる商品が並んでいる。だが、普段こういった店に来ることがないせいで、どこに何があるのかすらわからない。生活能力は低いよな……。そんな自分に呆れながら、俺は小さく息を吐いた。商品棚を見渡しながら歩き、ようやくヨーグルトコーナーにたどり着く。しかし、そこに並ぶ商品の多さに驚かされた。ヨーグルトだけで、こんなに種類があるのか――。迷いながら視線を巡らせていると、ふと見覚えのあるパッケージが目に入った。昔、彩華がよく食べていたものだ。手に取ると、なぜか懐かしさが込み上げてくる。あの頃、俺たちはまだ子どもで、何も考えずにただ笑い合っていた。ヨーグルトをかごに入れたあと、おにぎりやおかゆのレトルト、スポーツ飲料など、体調を崩しているときに食べやすいものを適当に見繕う。それらを買い揃え、足早に店を後にした。車に乗り込み、運転しながら考える。あの日、三人で出かけたとき――。あのときは、確かに彩華との距離が少し縮まったと思った。瑠香ちゃんも俺になついてくれたし、彩華も、昔のように笑ってくれた気がする。なのに、どうして――。最近は、はっきりと避けられているのはわかっている。やっぱり、俺の過去の行いを思い出して、許せないのだろうか。それでも仕方がない。どんなに時間がかかっても、俺は彩華に許しを請うつもりだ。しかし、俺と同じように、彼女を想っている神代の存在が俺を焦らせているのも事実だった。「ダサいな……俺」車内に、苦笑混じりの独り言が落ちる。地位や名誉や金、そんなものでは買えないものがあることなんて、小さいころから理解していた。だからこそ、努力して、それらを手に入れることで埋めようとしてきた。でも――。彩華のことになると、昔からうまくできない。今日だって、てっきり入院すると思っていたから、彩華の母親に「俺が面倒を見る」と伝えた。しかし、俺のことを知っている瀬尾は、気を利かせて退院させたのだろう。駐車場