Share

第十四話

last update Last Updated: 2024-12-22 13:06:33

いつも通りに仕事を終え、食事を済ませて瑠香を寝かしつけた。

夜、静まり返った部屋で、私はベッドに腰を下ろしていた。ベッドサイドの小さなライトだけが、ぼんやりと空間を照らしている。

いろいろなことが一気に起こって、何がなんだかわからない。

そんなとき、スマホが振動した。

「こんな時間に……?」

ディスプレイに表示された名前に、一瞬手が止まる。日向からのメッセージだ。仕事の話だろうかと思ったが、副社長が直接私に連絡してくることなどほとんどない。恐る恐る画面を開くと、思いも寄らない内容が目に飛び込んできた。

「彩華、週末の予定はあるか?

ないなら、瑠香を連れて動物園に行かないか? S駅に10時に待ってる」

「え……動物園?」

思わず読み返す。何かの間違いではないかと疑ったが、何度見ても内容は同じだ。

聞いているのに「待ってる」という書き方に、思わず息を吐き出した。普通なら断るだろう。こんな誘い、まともに受け入れる必要なんてない。だけど、どうしてだろう。瑠香の笑顔が頭をよぎった。

「瑠香、喜ぶかな……」

上野動物園のパンダや、賑やかな園内を楽しむ瑠香の姿が浮かぶ。胸がきゅっと締めつけられる。彼と一緒に過ごすことなどないと思っていた。けれど、父親である日向と瑠香が一緒にいる時間……そんな一瞬があってもいいのではないかと思ってしまう。

瑠香が大きくなったとき、きっと覚えていないだろう。でも、父親と動物園に行ったという記憶を、少しでも形に残せたら。

「写真……」

顔が写らなくてもいい。後姿だけでもいい。瑠香がいつか「お父さん」と呼べる人と過ごした証を、何か形にして残したい。

「……私、何を考えてるの?」

頭を振り、目をぎゅっと閉じる。だけど、心の中の葛藤は消えなかった。行くべきではない。でも、行きたい気持ちがあるのも事実だった。

結局、悩みすぎて返事を送れなかった。それなのに、当日が来てしまった。

「どうするの、私……」

時計をチラリとみると、八時半を過ぎている。行くならば用意をしなければならない。

「彩華、今日は瑠香、どこか連れてく?」

母の言葉に、私は少し口ごもる。

「えっと、久しぶりに友達と一緒に、瑠香を連れて動物園でも行こうかなって」

友達……咄嗟に出た言葉だが、小さいころからの友人であることには変わりない。ただ、瑠香の父親という事実を除けば。

「そうなの! いいじゃ
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • Once more with you もう一度あなたと   第十五話

    結局、10分ほど遅刻してしまい、日向はもういないかもしれない。そんなことを思いながら、指定された場所に向かう。どうやって来ているのかもわからないし、「駅で」とだけ言われた。ただでさえ休日で人が多い。人混みの中で日向を見つけられるのだろうか……そんな不安が胸をよぎる。けれど、ふと気づいた。周囲の人々が何となく同じ方向に視線を向けていることに。その先を見れば――そこにいたのは日向だった。スマホに視線を落とし、何か思案しているようにも見えた。そんな表情が余計に映画のワンシーンのようにも見える。そんな彼を、周囲の女の子たちがちらちらと見ているが、本人は全く気にしていないように見えた。こんななかの彼に私が声をかけるなんて……。そう思っていると、不意に日向が顔を上げ、こちらを見た。「あっ……」思わず声が漏れてしまう。彼の視線が私を捉えた瞬間、ほんのわずかに表情が和らいだ気がする。私の胸がきゅっと締まるような感覚に包まれる。いつも完璧なスーツ姿で会社にいる日向。その印象があまりにも強かったせいか、彼のラフな格好に思わず目を奪われた。白いシンプルなシャツの袖を軽くまくり上げ、濃いネイビーのカーディガンを羽織っている。下はダークグレーのスリムなパンツ。「きてくれてありがとう」遅れたにも関わらず、お礼を言われて私は小さく首を振る。「ごめんなさい……瑠香が準備に手間取っちゃって……」申し訳なさそうに瑠香に視線を落とすと、日向はその視線を追いしゃがみこんだ。「瑠香ちゃん、きょうはお兄さんも一緒に遊んでいい?」あまり男性に慣れていない瑠香がどんな態度をとるか心配だったが、意外にも人見知りをする瑠香だったが、にっこりと笑った。「お兄さんって」前回、気まずいママだったことも忘れて、いつも通り口にしてしまいハッとする。「まだおじさんって呼ばれるのは早いだろ?」日向がそう言いながら笑ってくれて、なんとなく空気が和んだ気がした。「すぐそばに車を止めてるから」日向が立ち上がり、駅の出口へと視線を向けながらそう言った。「でも……チャイルドシートいるよ?」自然と出た言葉に、自分でも驚いた。日向が子ども用の設備を整えているわけがない。けれど、瑠香を乗せるなら絶対に必要だ。「大丈夫、用意したから」さらりと告げる彼に、私は一瞬言葉を失った。「そこまでしたの?

    Last Updated : 2024-12-23
  • Once more with you もう一度あなたと   第十六話

    週末の動物園の周辺はやはり車も多く、駐車場も満車だったため、少し離れた場所に車を止めることになった。車を降りると、私はふと気づいた。うっかりしていた――いや、緊張していたせいか、ベビーカーを持ってこなかったことに気づく。瑠香は歩きたい盛りだが、人が多い場所では危ないし、そもそも歩く速度も遅い。これは抱っこした方が良さそうだ。「瑠香、抱っこしようか?」私が手を差し出すと、瑠香も素直に両手を広げた。私も屈んで抱き上げようとしたその時――。「俺でも大丈夫かな?」不意に聞こえた日向の声に、私は動きを止めた。「え?」驚いて横を見ると、彼は私を見下ろしながら軽く手を差し出していた。「大変だろ? 動物園に着いたらベビーカーを借りられるだろうけど、それまで俺が抱っこするよ。瑠香ちゃん、おいで」彼は静かにそう言うと、瑠香に向けて手を広げた。その様子に、私は一瞬言葉を失う。「大丈夫。私が――」慌てて断ろうとするが、瑠香はすでに日向の方を見て笑い、彼の腕に手を伸ばしていた。「おいで」日向が柔らかい笑顔で声をかけると、瑠香はためらいなく彼に身を預けた。日向は軽々と瑠香を抱き上げ、そのまま抱っこして歩き出した。「軽いな」瑠香を抱きながら、彼はどこか嬉しそうに微笑む。「ちょっと……そんな慣れてないでしょう? それにもう軽くないよ」私がそう言うと、日向は肩越しに振り返り、穏やかな表情で答えた。「これくらい軽いよ。大丈夫」その言葉に、私は昔の彼の姿を思い出してしまう。優しくて、周りを気遣う少年のような日向。少しの間、その姿に見惚れてしまう自分がいた。「さ、行こうか。瑠香ちゃん、動物園楽しみ?」「あい」瑠香の小さな声に、日向も嬉しそうに笑った。「よし、パンダに会いに行こうな」その光景を見ながら、私の胸は複雑な感情でいっぱいだった。こんな風に自然に瑠香と接してくれる彼を見て、心が温かくなるのと同時に、少しだけ胸が苦しくなる。何度も逃げたくなる気持ちを押さえながら、私は二人の後ろを追いかけた。今日は、会社とちがい、敬語をつかうことも忘れていた。それはきっと日向がそう言う雰囲気だったからだろう。二人だと気まずいままだったかもしれないが、瑠香がいることで穏やかな空気になっている。そして、やっぱり瑠香と日向は似ている気がする。笑った顔や、ふとした瞬間が

    Last Updated : 2024-12-23
  • Once more with you もう一度あなたと   第十七話

    キリンを見た後、瑠香はテンションが上がりっぱなしで、次々と目に映る動物たちに声をあげていた。ゾウの大きさに驚き、シマウマの模様に見入る姿が可愛らしい。私もそんな瑠香の姿に自然と笑顔がこぼれる。いつもなら追いかけるだけで疲れてしまうけど、今日は違う。「お腹空いたかな?」日向が時計をちらりと見ながら私に声をかける。「そうだね、そろそろお昼にしようか」ベビーカーに座っていた瑠香も、どうやらお腹がすいたように見える。私達は園内のフードコートへ向かった。子供連れの家族が多く賑わっていて、子どもたちの楽しそうな声があちらこちらから聞こえてくる。「混んでるかな……」私が呟くと、日向は入口でキョロキョロと店内を見渡しながら言った。「あっ、あそこ」そう言うと、日向は窓際の席をすぐにとってくれた。メニューを開きながら、私はふと心配になった。園内のレストランだから、基本的にはファミリー向けのメニューばかり。大人用ももちろんあるが、子ども連れでの外食に豪華な料理を頼むわけにもいかない。「……日向、こういうところ、大丈夫?」気がつくとそう問いかけていた。彼は普段、高級レストランでの会食やビジネスディナーばかりの印象が強い。こんなカジュアルな場所で食事なんて……失礼じゃないだろうか。「どうして?」彼が不思議そうに眉を上げる。「えっと……あまりこういうところ、慣れてないんじゃないかなと思って」申し訳なくて、視線をそらしてしまう。けれど、彼はクスッと笑った。「全然問題ない。むしろ、こういう場所の方が落ち着くよ」そう言って、メニューを手にしたまま、少し目を細めて笑う。「それに、瑠香ちゃんが楽しそうなら、それが一番だろ?」その一言に、私の胸がじんと熱くなる。昔から日向は優しい。だから、私はずっと何があっても忘れられなかったのだ。こんなことを知りなくないのに。そう思うが、今は瑠香のためにはありがたい。「ありがとう」瑠香は楽しそうにお子様ランチのメニューを指差し、アピールしていた。パンダの顔が描かれたうどんやハンバーグがワンプレートになったセット。カラフルな見た目にテンションが上がった様子だった。「瑠香、それがいいの?」「あい」満面の笑みでうなずく娘を見て、私も笑ってしまう。「じゃあ、それにしようね」料理が運ばれてくると、瑠香は目を輝かせて喜び

    Last Updated : 2024-12-26
  • Once more with you もう一度あなたと   第十八話

    食事を終え、園内をいろいろと見て回った。瑠香はとても楽しそうだったが、お昼を過ぎたあたりから少しずつうとうとし始めた。「瑠香、眠そうだね」私がそう呟いた瞬間、瑠香は小さなあくびをして、ベビーカーにもたれるように目を閉じた。「……眠っちゃった」柔らかい寝息が聞こえる。私は瑠香の顔を覗き込み、そっとブランケットをかける。このままだと、瑠香は短くても一時間は眠るだろう。日向とふたりでいても仕方がない。話すべきことはあるのかもしれないが、今、「瑠香はあなたの子です」なんて言っても、立場ある日向に迷惑をかけるだけだ。「帰ろうか」そう口にした私の言葉に、日向は首を横に振った。「少し話せないか?」「え? なにを? 話すことなんてあったっけ?」「言い訳にしかならないけど、あの時、姿を消した理由を聞いてほしい」日向の真剣な表情に、私は思わず息を呑んだ。彼の瞳には、いつもとは違う、どこか迷いや戸惑いが垣間見えた。そして会社での噂話が頭をよぎる。日向が複雑な家庭環境に生まれ育ったこと、そして父親との関係。詳しいことは何も知らないけれど、その断片だけでも彼の苦労が想像できた。「……わかった」私は小さく頷いた。私が知っている日向は、すべてを一人で背負ってきた人だ。一緒にいたときも、彼から自分の話を聞いた記憶はない。だからこそ、今、彼が自分のことを話そうとしていることが、どれだけ大きな決断なのかも感じていた。「ありがとう」と彼が小さく呟き、視線を少しだけ遠くへ向けた。それから彼はゆっくりと口を開き、自分の過去を語り始めた。「俺が祖母の家を出たのは……父の家に戻ることになったからだ」一度言葉を止めた日向の言葉の続きを待つ。「異母兄が亡くなったんだ。俺のことなんていないものと思っていた父が、必要に迫られて俺を呼び戻した」あの頃の私は、隣の家に住んでいた幼い頃の記憶の中で、日向には両親がいないのだと勝手に思っていた。「父は……愛人を作るような人間で、仕事のためなら手段を選ばない。控えめに言っても最低な父親だ。だけど、そんな父でも会社のために働く社員がいて、どんな汚い手段を使っても目的を遂行する人間だ。それで……俺は諦めた気持ちで父の元に戻った」日向の言葉に胸が痛む。遠い記憶を思い起こすような彼の表情から、その時の苦しさが伝わってきた。遠い記憶を呼び起こ

    Last Updated : 2025-01-07
  • Once more with you もう一度あなたと   第十九話

    「ふわ……」ベビーカーで静かに寝息を立てていた瑠香が、伸びをしながら目を覚ました。ぱちりと大きな瞳を開けると、周りを見回し、すぐに私のほうを見上げる。「おはよう、瑠香。たくさん寝たね」瑠香は「んー」と小さく返事をしながら、まだぼんやりしている様子だった。「少し遊んで帰ろうか」隣にいた日向がベビーカーのハンドルを押しながら、瑠香にそう声をかける。「疲れてない?」毎日遅くまで仕事をしているのも知っている以上、あまり遅くなるのも申し訳なくなる。「大丈夫だよ」柔らかく笑う日向に、私も小さく頷くと、瑠香の指さすほうへと歩き始めた。結局閉園になるまで一緒に過ごした。帰り送ってもらい、車が家の近くに止まり、瑠香を降ろそうとしたときだった。「彩華」日向が私を呼び止める。その声に、思わず背筋が伸びる。「久しぶりに、ご両親にも挨拶したいんだけど……いいかな?」その言葉に、私の胸は一気にざわめいた。「それは……」咄嗟に言葉が出てこない。どう断るべきかわからなかったけれど、家の中に日向を招き入れるわけにはいかない。「今日はちょっと……瑠香も疲れてるし、また今度にしよう?」必死で微笑みながらそう言うと、日向の眉がわずかに動いた。日向と一緒だということも話していないし、瑠香と日向が一緒にいる姿を見たら、母は何かを感じるかもしれない。それだけは避けたかった。日向はそんな私の態度に何かを感じ取ったようだったが、それ以上は何も言わなかった。「また誘ってもいいか?」「……どうして?」つい、そう尋ねてしまった自分に驚く。日向は少し考えるように視線を外し、次に瑠香を見つめた。そして、静かに言った。「瑠香ちゃんと遊びたいから」その答えに、胸がざわめく。でも、同時にどこかで安心した自分もいる。今日一日、日向と瑠香と過ごして気づいたことがある。私は、日向の隣にいると安心する。そして自分らしくいられる。けれど――。その「けれど」の先を考えると、どうしても心が乱れる。「あ、ありがとう。また……」言葉を濁しながら小さく頭を下げ、私は瑠香を抱きかかえると家の中へと向かった。家に帰り着くと、瑠香は案の定ぐっすりと眠りに落ちてしまった。動物園でたくさん遊んだから、さすがに疲れたのだろう。私はそっと彼女をベッドに寝かせ、柔らかい毛布をかけてあげた。薄暗い部屋の

    Last Updated : 2025-01-14
  • Once more with you もう一度あなたと   第二十話

    昨日のことを思い出すと、自然と口元が緩むのがわかった。瑠香と彩華――あの二人と過ごした時間は、久しぶりに穏やかで、心から楽しいと思えるものだった。だが、それも長く続く夢ではない。俺がいる現実を目の当たりにするたび、その甘い余韻は容赦なく引き剥がされる。「明日の朝、話があるから実家に来い」彩華たちを送った後、それだけの一言が父からの連絡だった。用件を伝えないのはいつものことだ。俺に選択権などない。父の指示には従うしかなかった。そして今、重苦しい朝を迎えている。広いダイニングルームには、見慣れた光景が広がっていた。大理石のテーブル、豪華な装飾、完璧に整えられた朝食。まるでホテルの一室のように整然としているが、そこに「家族」などあるはずもない。父はいつもの定位置に座り、新聞を広げていた。「話は高木のご令嬢とのことだ」父の低い声が静寂を切り裂いた。新聞から視線を上げることもなく、淡々とした口調で言葉を投げかける。「私と彼女はそういう関係にはなれません」「なんだと?」この日まではなんとなく曖昧に父に返事をしていた。初めて自分の意思を伝えたことで、父が新聞を投げつけるのが分かった。「高木家とは縁を深める必要がある。それが河和のためだ。お前は自分の役割を放棄するのか!」河和のため、役割、放棄――父にとって俺は、ただの道具に過ぎない。家のために利用される駒。それ以上でもそれ以下でもない。「断る選択肢はない。高木絵梨奈さんは、お前には過ぎた相手だ」追い打ちをかけるように言う父に、さらに反抗の言葉が口につくのをぐっと耐える。俺がここまで我慢する理由。それは、亡くなった異母兄――晃一のことがあるからだ。幼い頃、兄と過ごした日々を思い出す。彼は俺にとって「優しい兄」だった。週末には公園に連れて行ってくれたり、一緒にゲームをしたり、宿題を見てくれたり――兄といる時間は、いつも楽しかった。けれど、それがどれほど特別なものだったのかを、俺はあの頃にはわかっていなかった。たまにしか会えないことから、何かしら複雑な事情があることは子供ながらに理解をしていた。しかし、兄は俺が想像をすることすらできないほど、父から「後継者」としての重圧を背負っていたのだろう。それでも兄は、俺にはその苦しさを一切見せなかった。いつも明るくて優しくて、頼りになる兄だった。だけど、

    Last Updated : 2025-01-18
  • Once more with you もう一度あなたと   第二十一話

    朝のオフィス。出社してすぐ、私は呼ばれて大会議室に向かった。そこには三十人ほどの社員が集まっていた。営業、開発、マーケティング、法務――会社の中核を担うであろう多方面の部署から選ばれた面々。その中で、一番前に座る彼の姿が目に入った。日向――。動物園で見た、ラフで穏やかな雰囲気の日向とはまるで別人だった。高級感漂う濃紺のスリーピースを身にまとい、胸元にはシンプルながらも品のあるシルバーのポケットチーフが添えられている。その姿は、どんな場に出ても恥じることのない完璧さだった。髪もいつも以上に整えられ、背筋をピンと伸ばした彼からは、揺るぎないオーラが放たれている。彼の隣に座る役員たちでさえ、どこか緊張感を漂わせているように見える。先日、動物園で瑠香を抱き上げ、優しい微笑みを浮かべていた同じ人間だとは思えない。「では、始めましょう」日向の低く通る声が静かに響き、会議室内のざわめきがピタリと止んだ。次にモニターに映し出されたのは、スーツ姿の男性だった。「本日、我々河和グループが手掛ける次期プロジェクトを発表します。このプロジェクトは、グローバル市場における競争力をさらに高めるための重要な試みです」画面越しに映るのは、河和グループのトップ――河和社長。その存在感には、相変わらず圧倒される。彼が会社を率いる姿を見るのは、社員である私にとって珍しくはないことだ。けれど、「彼が日向の父親なんだ」という事実を改めて意識すると、不思議と居心地の悪さを感じる。日向とはあまりにも雰囲気が違う。冷徹で威厳に満ちた眼差し――その姿が、この会社を支える柱であることを如実に物語っていた。社長は続ける。「新たなプロジェクト『グローバルコネクト』は、海外パートナー企業と連携し、最先端のAIプラットフォームを構築するものだ。これは、我々の企業の技術力を世界に示すだけでなく、新たな成長の柱となるはずだ」モニターに映し出される資料には、海外の有名企業名がいくつも並んでいた。すべて、このプロジェクトのパートナー企業らしい。「このプロジェクトには、河和日向副社長をトップに据え、我々が誇る精鋭たちがチームを組む。全員の協力を期待している」そう言って社長が一度目を細めた。その視線は画面越しでも冷たく感じられた。一瞬モニターが消え、会議室内がざわつく。私も、こんな大きなプロジェクトに

    Last Updated : 2025-01-20
  • Once more with you もう一度あなたと   第二十二話

    近くのテーブルから漏れ聞こえてきた噂話。 「副社長が本社に戻ったのは、高木さんと結婚するため」――その言葉が、私の心を乱していた。フォークを握る手が止まったまま動かない。頭の中では、「そんなことあるわけがない」と否定する声と、「もし本当だったら?」という不安がせめぎ合っていた。"日向が、この会社に戻った理由が……高木さんとの結婚のため?" 噂の真偽なんてわからない。それでも、さっきの会議で見た日向の堂々とした姿と、その隣に立つ高木さんの姿が頭に浮かんでしまう。美しくて品があって、自信に満ち溢れた高木さん。彼女こそ、日向の隣にふさわしい存在に見える。 それに比べて私は――ただの平凡な営業アシスタントで、シングルマザー……。そんな時だった。急に聞こえた声に顔を上げると、食堂の入り口付近がざわついているのが見えた。スーツ姿の役員たちが数人、視察のために入ってきたのだ。その中には、日向の姿もあった。濃紺のスリーピースに身を包んだ彼は、先ほど会議で見たときと同じく、誰にも負けない存在感を放っている。まっすぐ前を見つめ、落ち着いた足取りで食堂内を歩いている。周囲の社員たちも、彼の姿に気づいてさざめいている。その注目を一身に集めながら、彼は役員たちとともに奥のテーブルへと進んでいった。しかし――その隣には、高木さんの姿もあった。彼女は日向の隣を歩きながら、時折親しげに彼に話しかけている。日向の仕事用の表情からは、彼女をどう思っているかはわからない。でも、もし「会社の未来」のために、彼女との結婚が決定事項だったら、高木さんを無下に扱うことなどできないのは当然だ。日向は、自分の感情だけで動けるような立場ではないのだから。"じゃあ……私が今、彼とこうして一緒に過ごしていることは、正しいのだろうか?"昨日の動物園のことが頭をよぎる。日向と瑠香が笑い合っている姿。それは、まるで本当の家族のように見えた。だけど――。"もし、瑠香のことが知られたら?"私は息を呑んだ。もしあの時のことが公になり、瑠香の存在が日向のものだと知られたら――。それは、日向にとって大きなスキャンダルになるはずだ。彼の立場や、彼が背負うものを考えれば、その影響は計り知れない。彼のそばにいていいのだろうか?「どうした?」神代さんの声に、私はハッとして顔を上げた。気づけば、私の表

    Last Updated : 2025-01-21

Latest chapter

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十九話

    どれくらいの時間、抱きしめられていたのかはわからない。かなり長かったかもしれないし、一瞬だったかもしれない。日向は小さく息を吐いたあと、そっと私から距離を取ると、少し困ったような表情を浮かべていた。「悪い。いきなり」そう言って、日向は私を見下ろした。「ありがとう。食事、作ってきてくれたんだろ?」いつも通りにふるまっているように見えたけれど、明らかに疲れがにじんでいて、私はただその顔を見つめていた。「これ? もらっていい?」私が持っていたバッグに手を伸ばし、それを受け取ろうとする。「あと、どうやって来た? 送っていこうか?」私が何も言わないままなのに、日向は一方的に話し続けていた。「日向」静かに名前を呼ぶと、私の言いたかったことがわかったのか、日向はゆっくりと首を振った。「ごめん」「どうしたの?」いつもの余裕のある日向なら、スマートに「ありがとう」って言って、私を家に招き入れて、「食べたら送っていくよ」なんて、さらっと言い出す気がしていた。なのに今日は、なんとなく避けるような言い方をしながら、突然抱きしめてきたりして、やってることと言ってることがバラバラだった。でも、本気で私がここに来たことを迷惑に思っていないことは、もう私にもわかっていた。きっと日向は、小さいころからずっと、自分の気持ちを隠して、飄々としたふりをして生きてきたんだと思う。でも今は、そんな彼の心の内を、少しは理解できる気がしていた。「正直、少し疲れてる。このまま家に入れたら、俺はきっとまたさっきみたいに、抱きしめたり、甘えてしまう」まっすぐに伝えられたその言葉に、私は思わず笑ってしまった。「いまさらじゃん。いきなり抱きしめておいて、よく言うよ」そう返すと、日向は少し驚いたように目を見開いた。「……それもそうだな」小さく何度か頷いたあと、日向はようやくいつも通りの表情を浮かべた。「瑠香ちゃんは? 大丈夫なのか?」「お母さんが見てくれてる」そう答えると、日向はひとつ大きく息を吐いた。「少し上がっていってもらっていい? 俺、これ温められるかわからない」本当か嘘かなんて、今の私にはわからなかった。でもたぶん、今の私たちには、お互いにとって何かしらの“理由”が必要だった。「わかった」そう言って、私は日向と一緒に部屋へ向かった。日向がバスルームへ

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十八話

    夕飯の時間、私はいつもどおり瑠香にごはんを食べさせていた。今日もよく食べるな、なんて微笑みながらスプーンを口に運ぶ。「もっとー」「はいはい。ちゃんともぐもぐしてね」お風呂に入れて、髪を乾かして、絵本を一冊読んで――瑠香がすやすやと寝息を立てるころには、夜の10時を回っていた。ベッドのそばに静かに腰を下ろし、小さくため息をついた瞬間、ふと日向の顔が頭をよぎった。ちゃんと食事はとれているのか、夜はちゃんと眠れているのか。そんなことばかりが次々と浮かんできて、どれだけ「信じてる」なんて言葉を口にしても、不安はなかなか消えてくれなかった。気がつけば、私はいつのまにかキッチンに立っていて、日向が食べられそうなもの、体力が落ちていても胃にやさしいものを思い浮かべながら、煮物を小さな仕切りに入れ、お弁当箱にそっと詰めていた。なんとなく色どりも欲しくなって、卵焼きを焼き、冷ましてから隣に添える。気がつけば、お弁当が出来上がっていて、私はそれをそっと保冷バッグに入れた。そのまま母の部屋へ向かい、扉の前で小さく声をかける。「ちょっとだけ、出てきてもいいかな」「……日向くんのところ?」母はすべてを見透かすようなまなざしで私を見つめたが、反対の言葉はひとつもなく、静かに頷いてくれた。「瑠香のことは心配しないで」「ありがとう、お母さん」私は小さく頭を下げると、バッグを手にして家を出た。夜の都心に足を踏み入れると、空気は静かで張りつめており、高級住宅街の一角にひっそりと建つ、あのスタイリッシュな低層マンションが視界に入った。そこを訪れるのは、あの夜以来のことだった。建物の入り口にたどり着いた瞬間、ふと以前のことを思い出した。このマンションは、コンシェルジュやセキュリティが非常に厳しく、たとえ宅配業者であっても、住人の許可がなければ中へ入ることはできない。誰にも会わずに玄関先に置いて帰るといったことは、この場所では通用しなかった。何をやってるんだろう、私。家に押しかけるわけにはいかず、勝手に料理を作り、勝手に来て、さらには勝手に置いて帰ろうとしている自分の行動が、思っていた以上に身勝手なものに思えてきた。「はぁ……」深いため息をつき、仕方なく踵を返そうとした、そのときだった。「……彩華?」不意に背後から聞こえてきた声に驚いて振り返ると、マン

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十七話

    最近の日向――副社長の姿を見ることが、めっきり減った。本来であれば、週に何度も顔を合わせていたはずのプロジェクトの定例会議にも姿を見せなくなり、確認事項や指示もすべて、別の担当者や管理職経由で降りてくるようになった。私はそれに従って淡々と仕事をこなしていたが、心のどこかでずっと引っかかっていた。――忙しいだけ。そう言い聞かせていた。何かあったとしても、私には聞けない。日向はあの夜「すべてが片付いたら」と言った。だから、私は待つと決めたのだ。どんな形であっても、彼を信じると。だけど――。「東雲さん、これ確認お願いします」「はい、ありがとうございます」営業資料を受け取りながらも、集中しきれない自分がいた。PC画面に目を向けても、文字が頭に入ってこない。ぼんやりと、あの夜のことを思い出す。 日向の腕の中で、あたたかさに包まれて眠った夜。 夢みたいな時間だった。だからこそ、今は怖くもある。まるで、あれが現実じゃなかったような気がしてしまう。ふと耳にした同僚たちの小声が、聞こえてきてドクンと大きく心臓がはねた。「副社長、会議全部外されてるらしいよ」 「高木家との縁談、断ったって噂も……」 「なんか揉めてるみたいよ。なんか誰かわからないけど、不倫してるとかもきいたな」名前は出されていなかったけれど、その言い方に背筋がぞわりとした。まさか、私のことだろうか……。後ろめたいことなどなにもないが、噂はいろいろ尾ひれがついていく。日向が会社で何を抱えているのか、何と戦っているのかわからない。隣にいると伝えたが、何もできていない。それ以上に、やはり自分が魔をしているのではないか――。 あの時、高木さんに言われた言葉が、今も頭の中で繰り返される。「あなたのせいで、彼の未来が壊れる」資料のページをめくる手が、いつの間にか止まっていた。「東雲」名前を呼ばれて、はっと顔を上げると、神代さんがすぐそばに立っていた。「顔色、悪いぞ。大丈夫か?」「……あっ、はい。すみません、ちょっと考え事をしていて……」無理に笑ってごまかしたが、神代さんは目を細めて、じっと私を見てくる。「最近、なんか元気ないよな。何かあった?」「……いえ。なんでもないです」本当は、いろいろある。でも、それを話せるわけがない。「今日、飯でもどうだ?」その誘いに、私

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十六話

    父との対峙から数日。俺は社内で孤立しつつあった。副社長の肩書きこそ残っているが、経営会議には参加できず、決定権もない。会議室の扉が閉ざされるたびに、自分が組織の中で徐々に排除されていくのを感じる。だが、このまま指をくわえているつもりはない。俺はスマホを取り出し、ある人物の連絡先を開いた。専務である藤堂英彦。かつては父の右腕として経営を支えてきたが、最近では意見の対立が増えていると聞く。もし彼がまだこの会社の未来を案じているのなら……俺の話を聞くはずだ。躊躇なく、発信ボタンを押した。数コールの後、低く落ち着いた声が応じる。「……珍しいな。お前から連絡をもらうとは」「専務、少しお時間をいただけませんか? 直接お話ししたいことがあります」「話? お前と?」専務の声色には警戒が滲んでいた。当然だ。俺は社長の息子であり、彼にとっては父と同じ側の人間だと思われているはず。「ええ。専務にしか相談できないことです」俺の真剣な口調に、専務はしばし沈黙する。そして数秒後、静かに言った。「……今夜20時、ホテル・グランヴィアのラウンジに来い。そこなら話せる」「ありがとうございます」通話が切れた後、俺はスマホを握りしめた。これが最初の一歩だ。指定された時間にラウンジへ向かうと、すでに専務は席についていた。落ち着いた雰囲気の中、彼はウイスキーグラスを手にしながら、俺をじっと見つめている。「座れ」言われるままに対面に腰を下ろすと、専務は静かに切り出した。「さて、話とは何だ?」俺は息を整え、まっすぐに専務を見据えた。「専務。俺は父を退陣させるつもりです」一瞬、専務の表情が動いた。「……随分と大胆なことを言うな」「父は独裁的になりすぎている。高木家との婚約話も、俺の意志を無視した独断でした。ですが、それだけじゃない。最近の会社の動き……投資の方向性、人事の決定、どれを見ても危うい。社内でも不満の声は出ているはずです」「……まあな」専務はグラスを置き、腕を組んだ。「お前がそのことに気づいているとは驚きだ。確かに、社長のやり方に疑問を抱いている者はいる。だが、だからといって、お前に何ができる?」「俺は社長ではありません。でも、会社を守るために動くことはできます」俺は拳を握りしめ、強く言った。「専務、力を貸してください。父に不満を持つ人

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十五話

    高木が部屋を出て行ったあとも、父はしばらく無言のままだった。机に肘をつき、指先で軽くこめかみを押さえている。その仕草からは苛立ちとも疲労ともつかない感情が滲んでいた。重苦しい沈黙が社長室に漂う。重厚な木製のデスクと革張りのソファ、壁に飾られた額縁――どこを見ても、この部屋の空気は冷たく、威圧感があった。俺は椅子に深く腰を下ろし、静かに父の言葉を待った。「……お前、何か勘違いをしているようだな」やがて、父が低く呟く。その声音は先ほどよりも抑えられていたが、言葉の奥には確かな圧力が潜んでいた。「勘違い?」「お前が一人で勝手に動いたところで、この話が終わるとでも思っているのか?」父の冷ややかな視線が俺を射抜く。まるで、手に乗った駒を見下ろすような目だ。その眼差しにわずかな苛立ちが混じったのを、俺は見逃さなかった。「この結婚は、すでに高木家と正式に進めると決まっている。お前の意思ごときで覆る話ではない」「俺は高木家にはっきりと断りを入れました。それでもあなたは、まだこの話を続けるつもりですか?」「当然だ」父はあっさりと言い切った。その表情に迷いは微塵もない。俺の反発など初めから織り込み済みだとでも言うように、淡々とした口調だった。「お前の勝手な判断が、どれほどの影響を及ぼすのか理解しているのか? 高木家の後ろ盾を失えば、我が社は経営基盤を大きく揺るがすことになる。その責任を取る覚悟があるのか?」「その責任を取るのが副社長の仕事なら、俺は正々堂々とやるまでです」言い放つと、父の表情がわずかに変わった。「ほう……?」鼻で笑いながら椅子にもたれかかる。その仕草には余裕が漂っていたが、僅かに目を細めたのを俺は見逃さなかった。俺の言葉が、多少なりとも彼の意識に引っかかったことは確かだ。父は鼻で笑い、椅子にもたれかかる。「ならば、お前の力だけでやってみろ」その言葉に、嫌な予感がした「どういう意味ですか?」「お前を、今日付けですべての経営会議から外す」「……は?」父は淡々と続ける。「副社長という立場は残してやるが、意思決定には一切関与させない。今後、経営に関わる重要案件は、すべて私と取締役会で決める」「そんな……」息を呑む。これは単なる権限の剥奪ではない。「これは私の命令だ」父の言葉は絶対だった。副社長という肩書きを持っていても、

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十四話

    Side 日向彩華の「隣にいる」と言ってくれた言葉が、頭の中で何度も反響していた。すべてを片付けるまで――そう言ってくれた。俺にとって、それはどんな言葉よりも救いだった。彼女の温もりを腕の中に感じながら、俺はようやく一歩踏み出す覚悟を決めた。もう、迷うつもりはない。このまま、曖昧な状態を続けるわけにはいかない。父親の言いなりになり、会社の未来のために「必要な選択」をしろと言われ続ける人生は、もう終わらせる。高木家との政略結婚も、親の都合で決められた跡継ぎのレールも、すべて――。俺はあの日、すぐに行動に移した。高木家にはっきりと断りの連絡を入れたのだ。だが、その決意がどれほど大きな障害を生むのかは、すぐに思い知らされることになった。翌朝、いつも通りオフィスに出社すると、すぐに秘書が俺の元へ駆け寄ってきた。「副社長、社長がお呼びです」何も言わなくても、すでに動きを察知されていることぐらい想像はつく。「わかった」俺は無言で立ち上がり、社長室へ向かった。扉を開けると、すでに父がソファに座って待っていた。その隣には、高木絵梨奈の姿もある。想像通りすぎていらだちが募るが顔には出せない。「日向、お前、何を考えている?」父の声は低く冷たい。まさか俺が父や彼女を通り越して、正式に断るとは思っていなかったのだろう。それが、この会社に与える影響も父はもちろん、俺だってわかっている。この結婚によって父はこの業界の確固たる地位を築きたいのだ。だが、それは彩華や瑠香を犠牲にしてやることではない。兄もきっとそれはわかってくれるはずだ。それに俺だってただずっとぼんやりと会社にいたわけではない。絶対にいつか、この父を今の地位から引きずり降ろしてみせる。「日向さん、こんにちは」高木が父の隣で微かに笑みを浮かべながら、俺に頭を下げた。「絵梨奈さん、お久しぶりですね」俺もにっこりと笑いつつ、そう答える。とんだ茶番でしかない。そんな俺たちを見て、父が苛立ったように声を荒げる。「とぼけるな。お前が最近、妙な動きをしていることは知っている。会社の将来のためにお前を副社長に据えたというのに、余計なことを考えるな!!」「余計なこと、とは?」「彼女との婚約の件だ」だろうな。それ以外この状況でありえない。しかし、俺も今回は引くつもりはない。「……その話なら

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十三話

    「彩華といるときだけが、俺にとって自分でいられる場所だった。でも、俺が彩華の隣を望むことは許されないよな……」そう言って、日向はふっと悲しげに笑った。その笑顔はあまりにも寂しそうで、どこか諦めが滲んでいて。――どうして、そんな顔をするの?まるで、最初から叶わないことが決まっているみたいに。まるで、最初から私の気持ちなんて、どうせ受け入れられないって決めつけているみたいに。胸の奥がちくりと痛む。なのに、それと同時に、どうしようもなく苛立ちが募っていった。「ねえ、本当に日向はずるい。謝るなら最初からそんなこと言わないでしょ!」気づけば、感情のままに声を上げていた。「『お前なんて嫌いだ、二度と顔も見たくない』そう言えばいいじゃない!」自分でも驚くくらい、強い口調になっていた。「昔から思わせぶりなことばかり言うじゃない! そんなふうに言うから、私は……!」言葉が詰まる。頭の中は混乱しているのに、どうしても止められなかった。「本当は私にそばにいてほしいんでしょ!!」その瞬間、息が詰まった。なんてことを言ってしまったの。まるで、ただのうぬぼれみたいじゃないか。「私のこと好きなんでしょう?」そう聞いているのと同じ。そんなこと、口に出すなんて――。背中に冷たい汗が流れる。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。けれど、日向は――。「そうだよ」迷いなく、即答した。「俺はずっとずっと彩華にそばにいてほしい。狂おしいほどに」静かな言葉だった。だけど、その一言は、私の心に鋭く突き刺さった。言葉が出ない。息をするのさえ、苦しくなる。どうしよう。どうしたらいいの?「それができないのは、お父様のことがあるから?」やっと絞り出した声は、震えていた。日向はすぐには答えなかった。けれど、その表情を見れば、答えが「YES」であることは明白だった。「日向は、お父様のこと、どうにかするつもりはあるの? ないなら、もう私と瑠香とは関わら……」そこまで話した私の言葉を遮るように、日向は「ある!」と強く言った。「すべてを片付けて、俺は……」言いかけた言葉をのみ込むように、日向は私をまっすぐに見つめた。その目に映るのは迷いがある様には見えなかった。「でも高木さんの方が、日向の隣にいるのにふさわしいんじゃないの?」それは、私がずっと思っていたこと

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十二話

    日向の問いに、何か言葉を返そうとしても、喉がつかえて声にならなかった。 彼の手が触れたままの手首がじんと熱を持ち、鼓動の音だけがやけに響いている。 言葉を発することも、逃げることもできず、ただじっと彼を見つめるしかなかった。それでも日向は諦めず、もう一度問いかける。「昔のことを気にすることないって……どういう意味だ?」さっきよりも少しだけ強い声。「それは……」何かを言わなきゃいけないと思うのに、どんな言葉を紡いでも、うまく伝えられる自信がなかった。あの日、酔って私と一夜をともにしたことを、きっとやさしい日向はずっと気にしている。 再会してからの彼の態度は、後悔からくるものだと、ずっと思っていた。 だから、もう気にしなくていい。 私たちのことは忘れて、自分のために生きてくれたらいい――そう伝えたかった。でも、それが嘘だということも、私は自分でわかっていた。罪悪感だったとしても、日向がそばにいてくれることが嬉しい。 そんなずるい気持ちが、私の心の奥底に確かにあった。だけど、日向は会社を背負う人間。 高木さんが言った通り、私は足手まといだ。そんな迷いを抱えたまま、私は何も言えずにただ黙り込んだ。すると、不意に日向が視線を逸らす。「悪い、体調が悪いときに……」まるで、自分を落ち着かせるようにそう言いながら、彼はそっと私の手を放した。自由になったはずなのに、つかまれていた部分がじんじんと熱を持ち、胸がドキドキと早鐘を打つ。 どうしていいかわからなくて、私は自分の腕をそっと抱えながら、ただ俯くしかなかった。「でも、これだけは知っておいて」沈黙の中、日向の低く落ち着いた声が響く。「……え?」顔を上げると、日向は少しだけ言葉を選ぶように考え込み、そして、ゆっくりとした口調で言った。「今の言葉が、あの日――彩華を抱いたことを言っているなら」その一言に、心臓が跳ねる。あの日――。意識しないようにしていた記憶が、鮮明によみがえってくる。「後悔したこともないし、忘れるつもりもない」静かに、でも確かに日向の声が響く。 私は、息をのんだ。「……っ」驚いて顔を上げると、日向の目がまっすぐに私を見ていた。 迷いのない、揺るがない瞳。「ただ、俺が悔いているのは、彩華のそばを離れたことだ」その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけら

  • Once more with you もう一度あなたと   第三十一話

    Side 彩華朝の光がカーテンの隙間から差し込み、ぼんやりとしたまぶたを照らしていた。まるで柔らかな手で揺さぶられるような感覚がして、意識が浅い眠りから徐々に浮かび上がる。――あれ……?ゆっくりとまぶたを持ち上げると、視界の端に伏せられた頭が見えた。日向――?まだ夢を見ているのかと錯覚しそうになった。けれど、覚醒していく意識の中で、目の前の光景が夢ではないことを理解する。ベッドのそばに置かれた椅子に座り、日向が腕を枕代わりにしてつっぷして眠っていた。最初は、何が起こっているのかわからなかった。でも、彼の肩がゆっくりと上下しているのを見て、現実なのだと気づく。――ずっと、そばにいてくれたの?驚きとともに、心がじんと温かくなるのを感じる。何時間ここにいたのかわからないけれど、少なくとも私は、日向がそばにいることに気づかずに眠ってしまっていた。申し訳なさと同時に、胸の奥に静かに嬉しさが広がっていく。どうして、こんなことをしてくれるの?昔の罪滅ぼし?あの夜のことを、まだ気にしているの?でも、それなら、もういいんだよ。勝手にいなくなる理由があったことは、もうわかった。彼が苦しんでいたことも、どうしようもなかったことも、すべて理解している。だから、そんなふうに気にしないでほしい。それとも――違う?私としては、もう一度、瑠香のパパとママとして、新しい生活を夢見ることもある。現実的ではないとわかっていても、そんな未来を想像してしまう日がある。再会してからの彼は、昔と違っていた。あの頃は、ただ憧れていた。子どもが夢見るように、無邪気に「好き」だと思っていた。でも今は違う。大人になった日向を知り、彼の生き方を知り、私はもう、ただの幼い恋心ではない感情を抱いてしまっている。だけど――。私は、彼の隣に並べるような人間じゃない。それを、一番理解しているのは私自身だった。日向は、会社の後継者であり、大企業の副社長。一方の私は、ただの社員で、子どもを育てるのに精一杯なシングルマザー。彼にとって、私との関係は、きっと重荷になる。それを望んでしまうのは、ただの私のわがままでしかない。――こんな想いを抱いてしまうのは、迷惑なだけ。心にそう言い聞かせるように、眠る日向を見つめた。こうして目を閉じていると、昔の彼に戻ったように見

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status