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第三話

著者: 美希みなみ
last update 最終更新日: 2024-12-03 18:58:38

「ねえ、お隣って買い手決まったの?」

「帰るなり何? もう遅いんだから早く夕飯食べちゃってよ」

ただいまの挨拶もせずに尋ねた私に、母は呆れたように声を上げた。気のせいだったのだろうか。もしかしたら空き巣とか……。

母が用意してくれた食事を食べながら、ずっとそのことが頭をよぎった。

「彩華、もう遅いから先に寝るから、食器ぐらい洗っておいてよ。お父さんもとっくに寝てるからお風呂は静かにね」

母の言葉に適当に返事をしつつ、私は食事を食べ終えるとそっと家を抜け出した。昔からどうしても気になると確認しなくては気が済まない自分の性格を呪う。

隣の家といっても、かなり遠い正門にはいかず、私はポケットからキーケースを取り出し、視線をそこに落とした。小さな一つの鍵。この数年一度も使ったことのないものだ。

隣の屋敷の秘密の小さな扉。昔はお手伝いさんたちの入口だと聞いていたが、今は通いの人しかいなくなり、使わなくなったと聞いていた。

まだ小学生の頃、日向との秘密の通路。その小さな扉に鍵を差し込めば、カチャリと音がした。

木の軋む音とともに、そこを開ければ広い庭に出るのだ。花が好きだった春子さんが大切にしていた薔薇園。しかしそこには薔薇はなかった。

枯れて花が咲いていない棘だけが確認できる花壇に近づき、人気のないその家にやっぱり勘違いだったと寂しくなる。

「彩華?」

もうずっと聞くことはないと思っていた声が私を呼んだ。それがすぐに誰のものかとわかった自分に驚いた。

「日向……」

ほとんど無意識に漏れたその言葉に、ドクンと胸が音を立てる。誰かがいるかも、そう思ってここにきた。

空き巣かもしれない、と訳の分からない正義感をかざしつつ、心の中でもしかしたら日向がと思ったことは否定しない。

しかし、ほとんど百パーセントといっていいほど、日向がいるなんて奇跡……。

奇跡? そこまで思って私は自分が日向と会いたかったことに気づいた。

自ら距離を取り、何も言わずに引っ越していったことを恨んだのに、私は心の中で彼を求めていたとでもいうのだろうか。

自分の思考に唖然として、雲がかかり、仄かな月明かりの下立ちすくむ。日向の表情は見えないが、何も言わないことからいきなり家に入ってきた私に驚いているのだろう。

「大きくなったな」

その言葉の後すぐ、雲が晴れ、一気に満月の月明かりが私たちを照らす。そして、庭に一本だけあった桜が風で花びらを散らし、パラパラと舞い散った。

その幻想的ですら感じる光景に、私たちはどれぐらい向かい合っていただろう。

真っ黒のパンツに、ホワイトのカッターシャツ。シンプルな装いだが、紛れもなく日向だった。嫌味なほど大人の男性になっており、洗練された雰囲気に圧倒されてしまう。

昔から、綺麗な顔立ちで人気はあったが、今は大人の男性だ。色気すら感じる彼にクラクラしそうだ。

「何年たったと思ってるの?」

そんな思いを隠すように、視線を逸らすとなんとか平静を装って声をかける。

「そうだな。彩華が俺を避け始めてからは……もう、八年? いや、九年か?」

十年だよ。そんなことを思うも、私は答えることをしなかった。確かに私から避け始めたかもしれないが、姿を消したのは日向だ。文句を言いたいのは私のほうだ。

そこまで思ったところで、どうして私が文句を言える立場にあるなんて思ったのだろう。そんな非難をできる立場ではない。

私にとっては日向はとても大切な存在だったが、日向にとってはそうではなかったということだ。

「どうしてここに?」

その日向の当然の問いに、私は少しどもりながら答える。

「明かりがついていたから、空き巣だったらいけないと思って」

こんな説明信じるだろうか。そう思うも意外にも日向は「そうか」とだけ言った。

「どうしたの? こんな夜更けに」

今度は私が問う番のような気がして彼を見れば、日向はゆっくりと庭を歩き出した。真ん中には噴水があり、小道がある。その少し向こうには白亜の建物があった。

建物自体は昔のものだが、有名な建築家が手掛けたという屋敷は、ガラス張りのサロンに庭へそのまま降りられるテラスがあり、リビングはたくさんの日差しが入る明るい家だったことを思い出す。

そこにヨーロッパ調の家具が揃えられていて、そこで春子さんに、よく二人で本を読んでもらった。

そんな懐かしい記憶を思い出し、慌ててそれを消そうと頭を振った。

しかし、日向は小道を歩いて家の方へと歩いていく。

「彩華、お父さんたちは大丈夫なのか? こんな遅くに」

くるりと振り返ると、日向はまっすぐに私を見つめた。

「いくつだと思っているのよ。仕事でこれぐらいの日々は普通だし、もうとっくに二人とも眠ってる」

いつまでも小さい子を心配するような日向に、呆れたように答えれば何度か小さく頷いた。

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