未来への囁き

未来への囁き

By:  長喜Updated just now
Language: Japanese
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快楽だけでなく、永遠の愛も手に入れようとするなんて、身の程知らずだ――誰もが瀬名詩織(せな しおり)をそう言って嘲笑った。 その場で足が棒になるまで待ち続けた彼女だったが、ついに待つのをやめた時、外の世界はずっと広いことに気づいた。ハイヒールが痛くて我慢できなかったら、脱ぎ捨てて裸足で走ればいい彼女が遠くへ走り去ってから、ようやく黒木修司(くろき しゅうじ)は狂ったように追いかけてきた。 息を切らし、目を赤くして彼は言った。「詩織、初めて本気で人を愛したんだ。頼む、もう一度だけチャンスをくれ」 詩織は残念そうに、軽く息を吐いた。「でも、もう他の男を夫と呼んでしまったから。黒木社長、順番待ちしてくださいね」 【無理やり手に入れてたものがいいか悪いかはやってみないと分からない】

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第1話

瀬名詩織(せな しおり)は、男の人って28歳を過ぎるとあんなに性欲が強くなるものなのか、と不思議に思っていた。今夜も何度目か分からないほど求められ、さすがに辛くなってきた。でも詩織は黒木修司(くろき しゅうじ)をよく分かっていた。細い指を彼の背骨に沿ってゆっくり滑らせ、ぎこちなく焦らしながら、敏感な箇所を探り当てる。彼が低い呻き声を漏らすと、ようやく長い行為は終わりを告げた。「来月で25になるの」詩織は布団を捲ってベッドから降り、床に散らばった下着とワンピースを拾い上げて、一枚ずつ身につけた。背中のファスナーが一人では届かないので、ベッドヘッドに寄りかかっている修司を振り返った。彼は煙草に手を伸ばし、ライターの音とともに火を点ける。立ちのぼる煙越しに、ふと目を上げるとそのまま詩織と目が合った。詩織はベッドに戻り、無意識に色っぽく髪をかき上げ、雪のように白い背中を露わにした。修司の視線が、重たく彼女の上を彷徨っていた。しばらくして、彼は紳士らしく、煙草を咥えたまま体を起こし、自然にファスナーを一番上まで上げてやった。「何か言いたいのか?」部屋は静まり返っていた。「私もいい歳だし、そろそろ自分の家庭が欲しいの」と彼女は言った。修司は煙草の灰を落とし、「俺たちが初めて寝た夜、言ったことを忘れたのか?」と言った。「忘れないわ。結婚はしないって」詩織はスカートの裾をぎゅっと握りしめ、それでも顔にはあっさりとした笑みを浮かべていた。「でもねこの3年間、一番辛い時に、病気の母さんの腎臓ドナーを探してくれたり、治療費を出してくれたり、本当に感謝してる。結局は、助からなかったけど......」最後に、彼女の声には悲しみがこもっていた。半年前、詩織は母親の葬儀を済ませた。その頃から、修司と別れようと考えていたが、心の奥底にはまだ未練が残っていた。昨日、彼が家柄も釣り合いの取れた吉田さんを伴って、結婚指輪を選んでいるのを目の当たりにし、ついにきっぱりと諦めがついたのだ。詩織が修司と付き合い始めたのは、お互い独身だったからだ。彼は格好良くて、彼女はお金に困っていた。だから、すぐに意気投合した。今は、人の関係に割って入る趣味もないし、これ以上彼に付き合う気力も残っていない。修司は一本煙草を吸い終え、もう一本吸おうと煙草の箱を...

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30 Chapters
第1話
瀬名詩織(せな しおり)は、男の人って28歳を過ぎるとあんなに性欲が強くなるものなのか、と不思議に思っていた。今夜も何度目か分からないほど求められ、さすがに辛くなってきた。でも詩織は黒木修司(くろき しゅうじ)をよく分かっていた。細い指を彼の背骨に沿ってゆっくり滑らせ、ぎこちなく焦らしながら、敏感な箇所を探り当てる。彼が低い呻き声を漏らすと、ようやく長い行為は終わりを告げた。「来月で25になるの」詩織は布団を捲ってベッドから降り、床に散らばった下着とワンピースを拾い上げて、一枚ずつ身につけた。背中のファスナーが一人では届かないので、ベッドヘッドに寄りかかっている修司を振り返った。彼は煙草に手を伸ばし、ライターの音とともに火を点ける。立ちのぼる煙越しに、ふと目を上げるとそのまま詩織と目が合った。詩織はベッドに戻り、無意識に色っぽく髪をかき上げ、雪のように白い背中を露わにした。修司の視線が、重たく彼女の上を彷徨っていた。しばらくして、彼は紳士らしく、煙草を咥えたまま体を起こし、自然にファスナーを一番上まで上げてやった。「何か言いたいのか?」部屋は静まり返っていた。「私もいい歳だし、そろそろ自分の家庭が欲しいの」と彼女は言った。修司は煙草の灰を落とし、「俺たちが初めて寝た夜、言ったことを忘れたのか?」と言った。「忘れないわ。結婚はしないって」詩織はスカートの裾をぎゅっと握りしめ、それでも顔にはあっさりとした笑みを浮かべていた。「でもねこの3年間、一番辛い時に、病気の母さんの腎臓ドナーを探してくれたり、治療費を出してくれたり、本当に感謝してる。結局は、助からなかったけど......」最後に、彼女の声には悲しみがこもっていた。半年前、詩織は母親の葬儀を済ませた。その頃から、修司と別れようと考えていたが、心の奥底にはまだ未練が残っていた。昨日、彼が家柄も釣り合いの取れた吉田さんを伴って、結婚指輪を選んでいるのを目の当たりにし、ついにきっぱりと諦めがついたのだ。詩織が修司と付き合い始めたのは、お互い独身だったからだ。彼は格好良くて、彼女はお金に困っていた。だから、すぐに意気投合した。今は、人の関係に割って入る趣味もないし、これ以上彼に付き合う気力も残っていない。修司は一本煙草を吸い終え、もう一本吸おうと煙草の箱を
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第2話
尾行されているはずがない。詩織は自分がそれほど魅力的だとは思っていなかった。修司を見た瞬間、何故か後ろめたくなった。少し距離が離れているが。彼のどこか嘲るような表情が見え、詩織はなぜか背筋が寒くなった。「知り合い?」向かいに座る海斗も詩織の視線の先を見た。しかし彼は近眼で、しかも今日は急いで家を出てコンタクトレンズを忘れてしまったため、ぼんやりとした塊が見えるだけで、実際には何も見えていなかった。詩織は平静を装い、電話を切った。「知らない人よ」すると次の瞬間、先日宝石店で見たあの吉田さんが目に留まった。たぶん今ちょうどトイレから出てきたところで、白いロングドレスをひらりと揺らしながら、ハイヒールの音を響かせ、まるで天女のように修司の方へ歩いて行った。修司も視線を戻した。そして向かいの女性に注意を向け、詩織の方を二度と見ようとはしなかった。さっき飲んだコーヒーが合わなかったのか、それとも修司を見て緊張したせいなのか、胃の中が急にこみ上げてくるような気がした。詩織の顔色が悪いことに気づいた海斗は、送ろうか、と尋ねた。それは詩織にとって渡りに船だった。詩織はバッグを持ち、海斗と一緒に席を立った。店の出口に向かう途中、修司と吉田さんの横を通ることになった。何気なく視線を向けると、吉田さんが照れくさそうにテーブル越しに修司の指に自分の指を絡めているのが見えた。修司もためらうことなく吉田さんの手を握り返していた。......帰る途中、佳澄から電話がかかってきた。楽しそうにお見合いの結果を聞いてきた。「どうだった?詩織、気に入った?」隣では海斗が、脇目もふらずに運転している。詩織は彼を一瞥し、電話を手で覆って正直に言った。「いい人だった。真面目そうだし」少なくとも、一目見て逃げ出したくなるような相手ではなかった。それに、詩織は結婚願望もあったので、もし縁があれば海斗と進展させてもいいと思っていた。1番はしゃいでたのは佳澄だった。最初はマシンガーントークのように修司の悪口を次から次へと吐き出し、そのあとはまるで自慢のコレクションを語るように海斗のことをこれでもかってくらい褒めちぎった。「最近、いい男なんてなかなかいないんだから。本当にいい人じゃなきゃ紹介しないわよ。詩織、失恋を癒す一番の方法
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第3話
そんな可能性を思い浮かべた瞬間、全身にじわじわと寒気が巡り上がってくるような感覚に襲われ、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。自分の推測が正しいかどうか確かめるため、その日の夜、薬局で妊娠検査薬を買った。そして、愕然とした。検査薬には、くっきりと2本の赤い線が表示されていた。何度試しても結果は同じだった。まるで運命に弄ばれているような気がした。つらい恋からようやく立ち直ったと思った矢先に、こんな致命的な一撃を受けるなんて。お腹の子を盾に相手の家に乗り込むなんて、そんなありがちな話を何度も聞いてきたが、詩織はそんなことをするのはプライドが許さないし、愚かなことだと思っていた。まして相手は黒木家のような名家なのだ。権力を持つ者は、一般人をいとも簡単に踏みにじることができる。修司は、自分が妊娠していることを知ったら喜んでくれるだろうか?ふっ、もちろん喜ぶはずがない。3年間彼と一緒にいて、詩織はよく分かっていた。彼はセックスと結婚をきっぱりと区別する男なのだ。修司の妻になるのは、吉田さんのような、彼にふさわしい家柄で、強い力を持つ令嬢だけだ。秋風に舞う枯れ葉のように簡単に散ってしまう弱い自分ではない。詩織は修司に中絶させられたくなかった。この世に、彼女にはもう身内はいない。お腹の中のこの子だけは、失いたくなかった。......詩織は黒木家にはもう行かないことにした。仲の良い先輩に頼んで、他の生徒を紹介してもらった。先輩は親切で、すぐに何人か紹介してくれた。こういうマンツーマンレッスンは、それほど時間は取られない。昼間は楽団でリハーサルや公演に参加し、夜は別のアルバイトをすることもできた。彼女はそっとお腹に手を当てた。この子のために、しっかり生きていかなければならない。気を抜いてはいられない。詩織が新しいアルバイトを見つけたことを知った海斗は、お祝いだと言って食事に誘ってきた。詩織は生徒のレッスンを終えてからそのメッセージに気づき、少し迷った後、【はい】と返信した。海斗には、きちんと話しておきたいと思っていた。今、自分は妊娠しているのだ。彼の時間を無駄にさせるわけにはいかない。19時半、詩織は海斗の車に乗り込んだ。二人きりだと思っていたが、着いてみると、そこは会食
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第4話
彼の視線とぶつかったが、詩織は苛立ちながら顔を背け、無視することにした。修司は何事もなかったかのようにスマホをしまい、冷たい表情で言った。「車に乗れ」元カレの前に現れるなら、誰だって毎回、華やかで輝いていたいと思うだろう。しかし今夜は、あんなみっともない姿を彼に見られてしまった。詩織は唇を噛み、タクシーを呼ぼうとアプリを開いた。その時、車のドアが開く音が聞こえ、修司が長い脚でさっそうと彼女の前に歩いてきた。彼の手には、大きな黒い傘がさされていた。一人は階段の上に、もう一人は下に立っている。それでも彼女は、男から突然放たれる圧倒的な威圧感を感じた。後ろへ下がろうとしたが、修司に手首を掴まれた。「言うことを聞かないのか?」彼の、その人を見下すような、しかもそれでいて当然のような口調が、彼女にまるで二人が一度も別れたことなんてなかったかのような錯覚を与えた。しかし、それは一瞬だけだった。すぐに我に返った詩織は、「黒木社長、ありがとう。でも、自分でできる......」と言った。「新しい男は、ろくでもないな」修司は低い声で、からかうように彼女の言葉を遮った。彼は詩織のもう片方の手を掴み、彼女をさらに自分の近くに引き寄せた。それでも彼女は顔を上げなければならなかった。「俺と別れて、結婚すると言っていたのに、結局あんな男を見つけてきたのか?瀬名先生、俺を馬鹿にしてるのか?」彼の言葉は、自分の男を見る目と、今の自分の状況を嘲笑っているのだと、詩織には理解できた。詩織の顔はさらに赤くなった。彼女は恥ずかしさのあまり怒って彼を睨みつけた。「私がどんな人を選ぼうと、あなたには関係ないでしょう。あなたがここにいるって知ってたら、絶対に来なかったわ」詩織は海斗に騙されてここに来たのだ。しかし、そんなことは彼に説明する必要もない。言い終わるか終わらないかのうちに、修司は詩織の手首を掴み、無理やり車の中に引きずり込んだ。詩織が抵抗しようとしても、全く無駄だった。気づいた時には、すでに助手席に押し込まれ、ドアにはロックがかかっていた。修司が終始、冷たい表情をしているのが見えた。彼のこういう態度を見ると、詩織はいつも怖くなってしまい、叫びたい衝動を喉の奥に抑え込まなければならなかった。フロントガラスには雨が降
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第5話
間違いなく、修司は吉田さんとの結婚が既定路線であることを認めたのだ。詩織は、彼らのような階層の人間には、結婚や恋愛に対して独自の論理と基準があることをすでに分かっていた。しかし今、初めて彼の口からそれを直接聞いて、心の中にはやはり複雑で微妙な感情が渦巻いた。彼女が黙っているのを見て、修司は彼女に手を伸ばし、その顔に触れようとした。しかし今回は、彼女はためらうことなく身をかわした。「吉田さんは気にしないかもしれないけど、私は無理よ」詩織が再び顔を上げた時、その目にはまだ涙が浮かんでいたが、さきほどよりも意地と強い意志が込められていた。「黒木社長、私は子供の頃から厳しいしつけを受けて育ってきた。人の愛人になるような真似はできない。他を当たって」彼女は歯を食いしばり、彼が口にしなかった意味を直接言い放った。見るからに、今のところ、彼はまだ彼女に少しばかり肉体的な興味を抱いているようだ。飽きられるまでの間、彼女はネズミのように人目を避けて隠れていなければならない。これが、彼と一緒にいることの代償なのだ。以前は母親の治療のために彼の「援助」が必要だったが、今、彼女の唯一の弱みはなくなった。もう二度と、こんな惨めな思いはしたくなかった。普段は子猫のようにおとなしかった女が、彼に対して爪を立てた。それは彼にとって、かえって興味深く感じられた。修司は眉を上げ、意味深な笑みを浮かべたが、声は低かった。「愛人は嫌で、正式な彼女になりたいのか?渡辺さんの彼女に?」彼は、散々選んでいたくせによりによってあんなろくでなしにしたなんてと彼女をまた皮肉っていた。詩織は修司の言動が理解できなかったが、今回は、彼の言葉に腹を立てることはなく、冷静に言った。「私にとって、あなたも彼も同じ。私はどちらも選ばないわ」彼女には意地になっている様子は微塵もなく、真剣な口調で言った。「女性は色々な男と付き合うことで成長できるものよ。あなたたちと別れたことは、私にとって解放なの。私は若くて綺麗だし、性格だって悪くない。本当に私にふさわしい相手に出会えないなんて、心配する必要ある?」修司の笑みがこわばった。彼は歯を食いしばり、自分を抑えているように見えた。詩織は再びうつむき、彼が海斗と同じレベルに扱ったことに腹を立てているのだろう、と思った。修司にとっ
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第6話
突然、スマホの着信音が鳴り響いた。画面には「杏奈」と表示されていた。我に返った修司は、通話ボタンを押した。「修司、今月の26日は姪の誕生日なの。一緒にお祝いしようって約束したんだけど、来る?」修司はスマホを握りしめ、こめかみを押さえながら、心地よい声で答えた。「ああ、行くよ」......詩織は帰宅後、海斗とのことを佳澄に事細かに話した。佳澄はひどく驚き、しばらく何も言えなかった。まさか海斗が、あんなに裏表のある人間だとは全く知らなかったのだ。電話で、佳澄は詩織に何度も謝った。佳澄によると、海斗は彼女の父のゴルフ仲間で、父に付き合ってゴルフに行った時に知り合ったそうだ。もし自分がすでに長年付き合っている婚約者がいなかったら、海斗に猛アタックしていたかもしれない、と言った。自分とは縁がなかったから、親友に紹介しようと思ったのだ、と。しかし今、詩織の話を聞いて、彼に対するフィルターは粉々に砕け散った!自分の軽率な行動を償うため、佳澄は詩織に鍋をご馳走した。食事中、詩織は佳澄の左手の薬指にキラキラ光る指輪がはめられていることに気づいた。佳澄は嬉しそうに、婚約者との結婚式は年末に決まったと詩織に告げた。二人は色々な話をしたが、修司の話だけは一切出なかった。詩織があの男をどれだけ好きだったか、佳澄は知っていた。ようやく吹っ切れたのだから、もう二度と関わりを持たない方がいい。しかし、現実はそう甘くはなかった。......この日、詩織が楽団の練習を終えて控室に戻ると、皆が不思議な視線で自分を見ていることに気づいた。「......知らなかったわ。普段はおとなしそうなのに、裏では不倫してたなんて」「人は見かけによらないわね。裏でどれだけ派手に遊んでるかなんて、誰にも分からないわ!」普段、詩織と仲の良かったチェロ奏者の白石由美(しらいし ゆみ)は、詩織を隅に連れて行き、心配そうに彼女を見つめた。「どうしたの?」詩織はまだ状況を把握できていなかった。由美は、「誰か敵に回した?楽団の掲示板を見てみなよ。覚悟しておいた方がいいわ。ろくなこと書いてないから」と言った。詩織はスマホを取り出し、掲示板を開いた。目に飛び込んできたのは、トップに固定された投稿のタイトルだった。【有名楽団の女性ピア
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第7話
「君たち、何をしているんだ?練習しないでサボっているのか?」楽団の団長だった。メンバーたちはぞろぞろと去っていった。「詩織、玲奈、二人とも私の部屋に来なさい」事務室。「これだけ悪い噂が広まっていると、楽団の名誉にも大きく関わる」団長はそう言いながら、指で机を叩いた。「詩織、しばらく休暇を取った方がいいだろう。明後日の公演は、玲奈に代役を頼む」どう見ても、詩織を見捨てて楽団を守ろうとしているのだ。「でも、私は一か月も準備をしてきたのに......」詩織はまだ諦めきれなかった。「休むんだ、と言っているだろう!」団長の言葉は鋭く、詩織に対する態度は今までにないほど厳しかった。今年の首席ピアニストへの昇格は確実だと思っていたのに、これで玲奈に先を越されるだけでなく、昇格自体も白紙に戻ってしまうかもしれない。詩織はこれほど長く努力してきたのに、今や無期限の活動休止に追い込まれてしまった。詩織が部屋から出てきたのは、1時間後のことだった。彼女は素早くリハーサル室の廊下をまっすぐに通り過ぎた。窓から差し込む光と影が彼女の体にまだら模様を描いていた。今はまるで熱帯雨林を抜けてきたばかりのような疲労と動揺が全身を覆っていた。玲奈は明らかに喜んでおり、詩織を見ると勝ち誇ったような笑みを浮かべた。詩織は悔しかった。とても悔しかった。楽団の首席ピアニストになることは、詩織の夢であるだけでなく、亡き母との約束でもあった。冷静さを取り戻すと、彼女はこのまま黙って引き下がるつもりはなかった。詩織はまず、掲示板への書き込みとあの親密な写真が誰の仕業なのかを突き止めようと思った。写真に写っているのは自分だけで、相手の男は顔が見えない。どうしてこんなことが許されるのだろうか?詩織はスマホを取り出し、修司にラインを送った。【いる?】しかし、そのメッセージの下には赤い丸にビックリマークが表示され、「メッセージは送信されましたが、相手側に拒否されました」という短い文字列が続いていた。まさか、ブロックされている?詩織はしばらく呆然とした。詩織は二人は円満に別れたと思っていたので、ブロックされるほどのことではないと思っていた。しかし、修司は冷酷にも詩織をブロックし、友達申請を送る機会すら与えなかった。きっと、吉田
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第8話
「お前が仕組んだんだろ!黒木社長とは契約を交わしたのに、急に撤回された。お前のせいだろ!」詩織は目を見開き、ようやく目の前の男の顔が分かった。海斗だ!男は詩織の抵抗も聞かず、彼女を壁に押し付けた。息苦しさに襲われ、詩織の頭は真っ白になったが、海斗のまくしたてる言葉から、どうにか状況を理解した。この一件は修司が絡んでおり、彼が海斗の利益を損なったのだ!詩織は歯を食いしばり、海斗が一瞬気を抜いた隙に、思い切り彼の股間を蹴り上げた。急所を蹴られた海斗は、青ざめた顔で詩織を解放した。それまでの紳士的な態度は、完全に剥ぎ取られた。詩織はすでに彼の醜い本性を知っていたが、それでも恐怖に慄いた。「私は仕返しされたんだ!全部、お前のせいだ!」詩織はしばらく呆然とし、彼の言葉の意味を何度も考えた。仕返しされた......だと?もしかして......詩織は海斗を見上げ、眉をひそめた。「あの写真、あなたが掲示板に投稿したの?」海斗は目をそらした。何も言わなくても、彼の表情が全てを物語っていた。「黒木社長と仕事をしている大事な時期に、あんなものを流したっていうの?」海斗がわざわざ自分から地雷を踏みに行くなんて、本当にバカだなと思った。その時、詩織は思い出した。あの写真には修司の顔が写っておらず、写っていたのは自分だけだった。つまり、海斗が狙っていたのは詩織ただ一人だった。あの夜、彼女が個室で海斗の面子を潰したから。海斗は執念深い男なのだ。しかし、事態は彼の予想とは全く違う方向へ進んでいった。修司の顔は写っていなかったが、彼は激怒し、今では海斗の電話にも出なくなっていた。海斗は完全に無視され、苛立ちをどこにぶつけていいのか分からずにいた。今日の彼は、その腹いせに詩織を襲いに来たのだ。「たいしたもんだな。黒木社長と本当に繋がっていたのか」彼は軽蔑したような口調で皮肉を言った。海斗は、修司がすでに契約を交わしたプロジェクトを撤回したのは、詩織のためだと信じ込んでいるようだった。以前なら、詩織も少し期待を抱いたかもしれない。しかし今は違う。修司はすでに自分をブロックしているのだ。詩織は鼻で笑い、冷たく言った。「まさか、彼が私のために、違約金を払ってまであなたと敵対すると思ってるの?勘違いしないで。私は、それほど重要な人間じゃないわ」海斗は今
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第9話
詩織は、目の前の女性が小さなケーキを手に持ち、優しく微笑んでいるのを見た。隣の背の高い男性はスーツを着こなし、上品でハンサムだった。身長差から見ても、容姿や雰囲気から見ても、二人は非常にお似合いに見えた。修司に会うのは、半月ぶりだった。しばらくして、詩織は立ち上がった。佳月は二人を見て嬉しそうに椅子から飛び降り、スリッパを引きずりながら、パタパタと駆け寄っていった。そして、女性の腰に抱きついた。佳月は言葉を発することができないため、吉田杏奈(よしだ あんな)の手に顔をすり寄せた。杏奈は佳月を優しく見つめ、もう片方の手で佳月の髪を撫でた。「今日はうちのお姫様の誕生日なの」「いらっしゃい」清水さんは下の物音に気づき、ショールを羽織って2階から降りてきた。二人に視線を向け、軽く会釈した。清水さんの視線を感じ、杏奈は少し緊張したように微笑み、背筋も少しこわばったが、それでも男性の腕に自分の腕を絡めていた。「お母さん、私の婚約者が......会いに来た」「修司、久しぶりね」清水さんはとても優雅だった。この年齢にして、独特のオーラを放っており、修司の前に立つと、気品に満ち溢れ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。修司は微笑みながら言った。「清水社長、最近はお元気ですか?」二人は挨拶を交わし、近況についても少し話した。清水さんの節度ある質問に、修司は一つ一つ丁寧に答えていた。彼らは佳月を予約したレストランに連れて行き、誕生日を祝うためにやってきたのだ。清水さんは離婚後、長年静かに暮らしており、人混みが苦手だったため、彼らの誘いを丁寧に断った。杏奈は堂々としていたが、ただ詩織に視線を向けた時、その眼差しは一瞬にして複雑な色を帯びた。詩織は顔が真っ赤になった。杏奈が、きっと自分に気づいたのだと、彼女は分かった。ネット上に流出した写真には、男性の顔は写っていなかったものの、二人が乗っていた黒いベントレーは、知っている人なら修司の車だとすぐに分かるはずだ。騒動が収まってから、まだそれほど時間は経っていない。詩織は穴があったら入りたい気持ちだった。しかし、杏奈はすぐに気持ちを切り替え、再び笑顔を見せた。「瀬名先生、今日は佳月の誕生日なので、レッスンはここまでにしましょうか」詩織は気まずさを隠すた
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第10話
清水さんは意味ありげに微笑み、詩織をしばらく見つめた後、何も言わずに2階へ上がっていった。写真のことについては、誰もが暗黙の了解で一言も触れなかった。しかし、詩織は彼らの視線を忘れることができなかった。杏奈も清水さんも、まるで詩織のことを軽蔑しているかのような視線を向けていた。彼らは修司にはそんな視線を向けない。男は余裕があって魅力的だと称賛されるのに、女だと放蕩で自己愛がないといった汚名を背負わなければならない。この世の中は、そもそも不公平なのだ。詩織は、この不公平を変えることはできない。ただ耐えるしかなかった。詩織は、自分が本当に運が悪いと思った。彼を避けようと思っていたのに、またしても同じことの繰り返しだ。詩織はすぐに清水さんに解雇されるだろうと思っていた。自分の娘の婚約者と曖昧な関係を持つ教師を雇い続ける人などいないだろう、と。しかし、意外にもそのような通知は来なかった。佳月の誕生日の後、詩織は清水さんの家で杏奈に会うことはなかった。詩織は、清水さんと杏奈は親子でありながら、それほど仲が良いわけではないように感じた。......詩織は3年間、黒木家で啓太にピアノを教えてきたが、普通の師弟関係以上の繋がりがあるとは思っていなかった。黒木家を出てからは、連絡を取ることもなかった。だから、啓太から突然電話がかかってきた時、詩織はとても驚いた。それでも、詩織は電話に出た。「瀬名先生、俺、友達と喧嘩しちゃって......今、相手が病院に......」啓太は口ごもった。電話の向こうで、啓太は可哀想な声で「俺、家族に言えないんだ。瀬名先生、ちょっと来てくれないかな?お礼に、今度ご馳走するから」と言った。「......」断ろうと思ったが、結局、断りきれなかった。病院に着いて、詩織は啓太が言う「喧嘩」が正確ではないことを知った。実際は、相手が一方的に殴られたのだ。詩織の印象では、啓太はおとなしい中学生だった。問題を起こすような子には見えなかったので、まさか人を殴って大怪我をさせるほど乱暴だとは思ってもみなかった。顔に痣ができているだけでなく、手首も脱臼しており、相手の親は激怒していた。詩織は先に治療費を立て替え、入院病棟へ向かった。啓太は廊下で俯き加減に立ち、壁を蹴っていた
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