尾行されているはずがない。詩織は自分がそれほど魅力的だとは思っていなかった。修司を見た瞬間、何故か後ろめたくなった。少し距離が離れているが。彼のどこか嘲るような表情が見え、詩織はなぜか背筋が寒くなった。「知り合い?」向かいに座る海斗も詩織の視線の先を見た。しかし彼は近眼で、しかも今日は急いで家を出てコンタクトレンズを忘れてしまったため、ぼんやりとした塊が見えるだけで、実際には何も見えていなかった。詩織は平静を装い、電話を切った。「知らない人よ」すると次の瞬間、先日宝石店で見たあの吉田さんが目に留まった。たぶん今ちょうどトイレから出てきたところで、白いロングドレスをひらりと揺らしながら、ハイヒールの音を響かせ、まるで天女のように修司の方へ歩いて行った。修司も視線を戻した。そして向かいの女性に注意を向け、詩織の方を二度と見ようとはしなかった。さっき飲んだコーヒーが合わなかったのか、それとも修司を見て緊張したせいなのか、胃の中が急にこみ上げてくるような気がした。詩織の顔色が悪いことに気づいた海斗は、送ろうか、と尋ねた。それは詩織にとって渡りに船だった。詩織はバッグを持ち、海斗と一緒に席を立った。店の出口に向かう途中、修司と吉田さんの横を通ることになった。何気なく視線を向けると、吉田さんが照れくさそうにテーブル越しに修司の指に自分の指を絡めているのが見えた。修司もためらうことなく吉田さんの手を握り返していた。......帰る途中、佳澄から電話がかかってきた。楽しそうにお見合いの結果を聞いてきた。「どうだった?詩織、気に入った?」隣では海斗が、脇目もふらずに運転している。詩織は彼を一瞥し、電話を手で覆って正直に言った。「いい人だった。真面目そうだし」少なくとも、一目見て逃げ出したくなるような相手ではなかった。それに、詩織は結婚願望もあったので、もし縁があれば海斗と進展させてもいいと思っていた。1番はしゃいでたのは佳澄だった。最初はマシンガーントークのように修司の悪口を次から次へと吐き出し、そのあとはまるで自慢のコレクションを語るように海斗のことをこれでもかってくらい褒めちぎった。「最近、いい男なんてなかなかいないんだから。本当にいい人じゃなきゃ紹介しないわよ。詩織、失恋を癒す一番の方法
そんな可能性を思い浮かべた瞬間、全身にじわじわと寒気が巡り上がってくるような感覚に襲われ、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。自分の推測が正しいかどうか確かめるため、その日の夜、薬局で妊娠検査薬を買った。そして、愕然とした。検査薬には、くっきりと2本の赤い線が表示されていた。何度試しても結果は同じだった。まるで運命に弄ばれているような気がした。つらい恋からようやく立ち直ったと思った矢先に、こんな致命的な一撃を受けるなんて。お腹の子を盾に相手の家に乗り込むなんて、そんなありがちな話を何度も聞いてきたが、詩織はそんなことをするのはプライドが許さないし、愚かなことだと思っていた。まして相手は黒木家のような名家なのだ。権力を持つ者は、一般人をいとも簡単に踏みにじることができる。修司は、自分が妊娠していることを知ったら喜んでくれるだろうか?ふっ、もちろん喜ぶはずがない。3年間彼と一緒にいて、詩織はよく分かっていた。彼はセックスと結婚をきっぱりと区別する男なのだ。修司の妻になるのは、吉田さんのような、彼にふさわしい家柄で、強い力を持つ令嬢だけだ。秋風に舞う枯れ葉のように簡単に散ってしまう弱い自分ではない。詩織は修司に中絶させられたくなかった。この世に、彼女にはもう身内はいない。お腹の中のこの子だけは、失いたくなかった。......詩織は黒木家にはもう行かないことにした。仲の良い先輩に頼んで、他の生徒を紹介してもらった。先輩は親切で、すぐに何人か紹介してくれた。こういうマンツーマンレッスンは、それほど時間は取られない。昼間は楽団でリハーサルや公演に参加し、夜は別のアルバイトをすることもできた。彼女はそっとお腹に手を当てた。この子のために、しっかり生きていかなければならない。気を抜いてはいられない。詩織が新しいアルバイトを見つけたことを知った海斗は、お祝いだと言って食事に誘ってきた。詩織は生徒のレッスンを終えてからそのメッセージに気づき、少し迷った後、【はい】と返信した。海斗には、きちんと話しておきたいと思っていた。今、自分は妊娠しているのだ。彼の時間を無駄にさせるわけにはいかない。19時半、詩織は海斗の車に乗り込んだ。二人きりだと思っていたが、着いてみると、そこは会食
彼の視線とぶつかったが、詩織は苛立ちながら顔を背け、無視することにした。修司は何事もなかったかのようにスマホをしまい、冷たい表情で言った。「車に乗れ」元カレの前に現れるなら、誰だって毎回、華やかで輝いていたいと思うだろう。しかし今夜は、あんなみっともない姿を彼に見られてしまった。詩織は唇を噛み、タクシーを呼ぼうとアプリを開いた。その時、車のドアが開く音が聞こえ、修司が長い脚でさっそうと彼女の前に歩いてきた。彼の手には、大きな黒い傘がさされていた。一人は階段の上に、もう一人は下に立っている。それでも彼女は、男から突然放たれる圧倒的な威圧感を感じた。後ろへ下がろうとしたが、修司に手首を掴まれた。「言うことを聞かないのか?」彼の、その人を見下すような、しかもそれでいて当然のような口調が、彼女にまるで二人が一度も別れたことなんてなかったかのような錯覚を与えた。しかし、それは一瞬だけだった。すぐに我に返った詩織は、「黒木社長、ありがとう。でも、自分でできる......」と言った。「新しい男は、ろくでもないな」修司は低い声で、からかうように彼女の言葉を遮った。彼は詩織のもう片方の手を掴み、彼女をさらに自分の近くに引き寄せた。それでも彼女は顔を上げなければならなかった。「俺と別れて、結婚すると言っていたのに、結局あんな男を見つけてきたのか?瀬名先生、俺を馬鹿にしてるのか?」彼の言葉は、自分の男を見る目と、今の自分の状況を嘲笑っているのだと、詩織には理解できた。詩織の顔はさらに赤くなった。彼女は恥ずかしさのあまり怒って彼を睨みつけた。「私がどんな人を選ぼうと、あなたには関係ないでしょう。あなたがここにいるって知ってたら、絶対に来なかったわ」詩織は海斗に騙されてここに来たのだ。しかし、そんなことは彼に説明する必要もない。言い終わるか終わらないかのうちに、修司は詩織の手首を掴み、無理やり車の中に引きずり込んだ。詩織が抵抗しようとしても、全く無駄だった。気づいた時には、すでに助手席に押し込まれ、ドアにはロックがかかっていた。修司が終始、冷たい表情をしているのが見えた。彼のこういう態度を見ると、詩織はいつも怖くなってしまい、叫びたい衝動を喉の奥に抑え込まなければならなかった。フロントガラスには雨が降
間違いなく、修司は吉田さんとの結婚が既定路線であることを認めたのだ。詩織は、彼らのような階層の人間には、結婚や恋愛に対して独自の論理と基準があることをすでに分かっていた。しかし今、初めて彼の口からそれを直接聞いて、心の中にはやはり複雑で微妙な感情が渦巻いた。彼女が黙っているのを見て、修司は彼女に手を伸ばし、その顔に触れようとした。しかし今回は、彼女はためらうことなく身をかわした。「吉田さんは気にしないかもしれないけど、私は無理よ」詩織が再び顔を上げた時、その目にはまだ涙が浮かんでいたが、さきほどよりも意地と強い意志が込められていた。「黒木社長、私は子供の頃から厳しいしつけを受けて育ってきた。人の愛人になるような真似はできない。他を当たって」彼女は歯を食いしばり、彼が口にしなかった意味を直接言い放った。見るからに、今のところ、彼はまだ彼女に少しばかり肉体的な興味を抱いているようだ。飽きられるまでの間、彼女はネズミのように人目を避けて隠れていなければならない。これが、彼と一緒にいることの代償なのだ。以前は母親の治療のために彼の「援助」が必要だったが、今、彼女の唯一の弱みはなくなった。もう二度と、こんな惨めな思いはしたくなかった。普段は子猫のようにおとなしかった女が、彼に対して爪を立てた。それは彼にとって、かえって興味深く感じられた。修司は眉を上げ、意味深な笑みを浮かべたが、声は低かった。「愛人は嫌で、正式な彼女になりたいのか?渡辺さんの彼女に?」彼は、散々選んでいたくせによりによってあんなろくでなしにしたなんてと彼女をまた皮肉っていた。詩織は修司の言動が理解できなかったが、今回は、彼の言葉に腹を立てることはなく、冷静に言った。「私にとって、あなたも彼も同じ。私はどちらも選ばないわ」彼女には意地になっている様子は微塵もなく、真剣な口調で言った。「女性は色々な男と付き合うことで成長できるものよ。あなたたちと別れたことは、私にとって解放なの。私は若くて綺麗だし、性格だって悪くない。本当に私にふさわしい相手に出会えないなんて、心配する必要ある?」修司の笑みがこわばった。彼は歯を食いしばり、自分を抑えているように見えた。詩織は再びうつむき、彼が海斗と同じレベルに扱ったことに腹を立てているのだろう、と思った。修司にとっ
突然、スマホの着信音が鳴り響いた。画面には「杏奈」と表示されていた。我に返った修司は、通話ボタンを押した。「修司、今月の26日は姪の誕生日なの。一緒にお祝いしようって約束したんだけど、来る?」修司はスマホを握りしめ、こめかみを押さえながら、心地よい声で答えた。「ああ、行くよ」......詩織は帰宅後、海斗とのことを佳澄に事細かに話した。佳澄はひどく驚き、しばらく何も言えなかった。まさか海斗が、あんなに裏表のある人間だとは全く知らなかったのだ。電話で、佳澄は詩織に何度も謝った。佳澄によると、海斗は彼女の父のゴルフ仲間で、父に付き合ってゴルフに行った時に知り合ったそうだ。もし自分がすでに長年付き合っている婚約者がいなかったら、海斗に猛アタックしていたかもしれない、と言った。自分とは縁がなかったから、親友に紹介しようと思ったのだ、と。しかし今、詩織の話を聞いて、彼に対するフィルターは粉々に砕け散った!自分の軽率な行動を償うため、佳澄は詩織に鍋をご馳走した。食事中、詩織は佳澄の左手の薬指にキラキラ光る指輪がはめられていることに気づいた。佳澄は嬉しそうに、婚約者との結婚式は年末に決まったと詩織に告げた。二人は色々な話をしたが、修司の話だけは一切出なかった。詩織があの男をどれだけ好きだったか、佳澄は知っていた。ようやく吹っ切れたのだから、もう二度と関わりを持たない方がいい。しかし、現実はそう甘くはなかった。......この日、詩織が楽団の練習を終えて控室に戻ると、皆が不思議な視線で自分を見ていることに気づいた。「......知らなかったわ。普段はおとなしそうなのに、裏では不倫してたなんて」「人は見かけによらないわね。裏でどれだけ派手に遊んでるかなんて、誰にも分からないわ!」普段、詩織と仲の良かったチェロ奏者の白石由美(しらいし ゆみ)は、詩織を隅に連れて行き、心配そうに彼女を見つめた。「どうしたの?」詩織はまだ状況を把握できていなかった。由美は、「誰か敵に回した?楽団の掲示板を見てみなよ。覚悟しておいた方がいいわ。ろくなこと書いてないから」と言った。詩織はスマホを取り出し、掲示板を開いた。目に飛び込んできたのは、トップに固定された投稿のタイトルだった。【有名楽団の女性ピア
「君たち、何をしているんだ?練習しないでサボっているのか?」楽団の団長だった。メンバーたちはぞろぞろと去っていった。「詩織、玲奈、二人とも私の部屋に来なさい」事務室。「これだけ悪い噂が広まっていると、楽団の名誉にも大きく関わる」団長はそう言いながら、指で机を叩いた。「詩織、しばらく休暇を取った方がいいだろう。明後日の公演は、玲奈に代役を頼む」どう見ても、詩織を見捨てて楽団を守ろうとしているのだ。「でも、私は一か月も準備をしてきたのに......」詩織はまだ諦めきれなかった。「休むんだ、と言っているだろう!」団長の言葉は鋭く、詩織に対する態度は今までにないほど厳しかった。今年の首席ピアニストへの昇格は確実だと思っていたのに、これで玲奈に先を越されるだけでなく、昇格自体も白紙に戻ってしまうかもしれない。詩織はこれほど長く努力してきたのに、今や無期限の活動休止に追い込まれてしまった。詩織が部屋から出てきたのは、1時間後のことだった。彼女は素早くリハーサル室の廊下をまっすぐに通り過ぎた。窓から差し込む光と影が彼女の体にまだら模様を描いていた。今はまるで熱帯雨林を抜けてきたばかりのような疲労と動揺が全身を覆っていた。玲奈は明らかに喜んでおり、詩織を見ると勝ち誇ったような笑みを浮かべた。詩織は悔しかった。とても悔しかった。楽団の首席ピアニストになることは、詩織の夢であるだけでなく、亡き母との約束でもあった。冷静さを取り戻すと、彼女はこのまま黙って引き下がるつもりはなかった。詩織はまず、掲示板への書き込みとあの親密な写真が誰の仕業なのかを突き止めようと思った。写真に写っているのは自分だけで、相手の男は顔が見えない。どうしてこんなことが許されるのだろうか?詩織はスマホを取り出し、修司にラインを送った。【いる?】しかし、そのメッセージの下には赤い丸にビックリマークが表示され、「メッセージは送信されましたが、相手側に拒否されました」という短い文字列が続いていた。まさか、ブロックされている?詩織はしばらく呆然とした。詩織は二人は円満に別れたと思っていたので、ブロックされるほどのことではないと思っていた。しかし、修司は冷酷にも詩織をブロックし、友達申請を送る機会すら与えなかった。きっと、吉田
「お前が仕組んだんだろ!黒木社長とは契約を交わしたのに、急に撤回された。お前のせいだろ!」詩織は目を見開き、ようやく目の前の男の顔が分かった。海斗だ!男は詩織の抵抗も聞かず、彼女を壁に押し付けた。息苦しさに襲われ、詩織の頭は真っ白になったが、海斗のまくしたてる言葉から、どうにか状況を理解した。この一件は修司が絡んでおり、彼が海斗の利益を損なったのだ!詩織は歯を食いしばり、海斗が一瞬気を抜いた隙に、思い切り彼の股間を蹴り上げた。急所を蹴られた海斗は、青ざめた顔で詩織を解放した。それまでの紳士的な態度は、完全に剥ぎ取られた。詩織はすでに彼の醜い本性を知っていたが、それでも恐怖に慄いた。「私は仕返しされたんだ!全部、お前のせいだ!」詩織はしばらく呆然とし、彼の言葉の意味を何度も考えた。仕返しされた......だと?もしかして......詩織は海斗を見上げ、眉をひそめた。「あの写真、あなたが掲示板に投稿したの?」海斗は目をそらした。何も言わなくても、彼の表情が全てを物語っていた。「黒木社長と仕事をしている大事な時期に、あんなものを流したっていうの?」海斗がわざわざ自分から地雷を踏みに行くなんて、本当にバカだなと思った。その時、詩織は思い出した。あの写真には修司の顔が写っておらず、写っていたのは自分だけだった。つまり、海斗が狙っていたのは詩織ただ一人だった。あの夜、彼女が個室で海斗の面子を潰したから。海斗は執念深い男なのだ。しかし、事態は彼の予想とは全く違う方向へ進んでいった。修司の顔は写っていなかったが、彼は激怒し、今では海斗の電話にも出なくなっていた。海斗は完全に無視され、苛立ちをどこにぶつけていいのか分からずにいた。今日の彼は、その腹いせに詩織を襲いに来たのだ。「たいしたもんだな。黒木社長と本当に繋がっていたのか」彼は軽蔑したような口調で皮肉を言った。海斗は、修司がすでに契約を交わしたプロジェクトを撤回したのは、詩織のためだと信じ込んでいるようだった。以前なら、詩織も少し期待を抱いたかもしれない。しかし今は違う。修司はすでに自分をブロックしているのだ。詩織は鼻で笑い、冷たく言った。「まさか、彼が私のために、違約金を払ってまであなたと敵対すると思ってるの?勘違いしないで。私は、それほど重要な人間じゃないわ」海斗は今
詩織は、目の前の女性が小さなケーキを手に持ち、優しく微笑んでいるのを見た。隣の背の高い男性はスーツを着こなし、上品でハンサムだった。身長差から見ても、容姿や雰囲気から見ても、二人は非常にお似合いに見えた。修司に会うのは、半月ぶりだった。しばらくして、詩織は立ち上がった。佳月は二人を見て嬉しそうに椅子から飛び降り、スリッパを引きずりながら、パタパタと駆け寄っていった。そして、女性の腰に抱きついた。佳月は言葉を発することができないため、吉田杏奈(よしだ あんな)の手に顔をすり寄せた。杏奈は佳月を優しく見つめ、もう片方の手で佳月の髪を撫でた。「今日はうちのお姫様の誕生日なの」「いらっしゃい」清水さんは下の物音に気づき、ショールを羽織って2階から降りてきた。二人に視線を向け、軽く会釈した。清水さんの視線を感じ、杏奈は少し緊張したように微笑み、背筋も少しこわばったが、それでも男性の腕に自分の腕を絡めていた。「お母さん、私の婚約者が......会いに来た」「修司、久しぶりね」清水さんはとても優雅だった。この年齢にして、独特のオーラを放っており、修司の前に立つと、気品に満ち溢れ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。修司は微笑みながら言った。「清水社長、最近はお元気ですか?」二人は挨拶を交わし、近況についても少し話した。清水さんの節度ある質問に、修司は一つ一つ丁寧に答えていた。彼らは佳月を予約したレストランに連れて行き、誕生日を祝うためにやってきたのだ。清水さんは離婚後、長年静かに暮らしており、人混みが苦手だったため、彼らの誘いを丁寧に断った。杏奈は堂々としていたが、ただ詩織に視線を向けた時、その眼差しは一瞬にして複雑な色を帯びた。詩織は顔が真っ赤になった。杏奈が、きっと自分に気づいたのだと、彼女は分かった。ネット上に流出した写真には、男性の顔は写っていなかったものの、二人が乗っていた黒いベントレーは、知っている人なら修司の車だとすぐに分かるはずだ。騒動が収まってから、まだそれほど時間は経っていない。詩織は穴があったら入りたい気持ちだった。しかし、杏奈はすぐに気持ちを切り替え、再び笑顔を見せた。「瀬名先生、今日は佳月の誕生日なので、レッスンはここまでにしましょうか」詩織は気まずさを隠すた
しかし、1週間尾行してみても、詩織の毎日の生活は非常にシンプルだった。楽団に行くか、家庭教師の仕事をするか、それだけだった。たまに佳澄や撫子と食事に行ったり、買い物をしたりするぐらいで、怪しいところは何もなかった。撫子は帰国後、実家の会社に入り、簡単な仕事を任されていた。彼女には兄が二人おり、父親は男尊女卑の考え方の持ち主だったため、口では「勉強のため」と言っていたが、実際は彼女に期待しておらず、毎日、結婚相手を見つけるように急かしていた。櫻井家の両親にとって、女の子が良い男性と結婚することが最重要事項なのだ。撫子も結婚相手を探してはいたが、なかなか良い人に出会えなかった。両親はお金のことしか考えておらず、紹介してくるのは、金は持っているが、見栄えのしない、ろくでもない相手ばかりだ。撫子は、そんな男たちには全く興味がなかった。あの日、黒木家で黒木夫妻の結婚記念日に参加してから、撫子は修司に一目惚れしてしまった。もちろん、以前から修司の名前は知っていた。ただ、櫻井家が景都で力を持つようになったのは、ここ数年のことだった。こんなに間近で彼に会ったのは初めてで、撫子は彼の魅力にすっかり心を奪われてしまった。ちょうど佳澄が撫子に「どんな人がタイプなの?」と尋ねた。撫子は目を輝かせて言った。「黒木社長みたいな人がいい!」隣に座っていた詩織の、箸を持つ手が震えた。しかし、撫子はすぐにため息をつき、「でも、無理よね。黒木社長には婚約者がいるんだし。杏奈......本当に運がいいわね!」と羨ましそうな口調で言った。詩織と修司が以前、付き合っていたことを知っているのは、佳澄だけだった。佳澄は静かに食事を続ける詩織を見た。彼女は落ち着いた様子で、本当に修司のことを吹っ切ったようだった。......清は毎日、詩織の行動を海斗に報告していたが、平凡な日常ばかりで、海斗も飽きてきていた。彼が諦めかけたある日、詩織が私立病院へ行っているのを発見した。病院に行くこと自体は別に珍しくないが、なぜ私立病院を選んだのか?何かやましいことがあるのだろうか?清は詩織の後をつけ、彼女が婦人科に入って、笑顔で出てくるところを確認した。そして、そのことを海斗に報告した。「婦人科?しかも、私立病院?」海斗はゆっくり
修司は眉をひそめた。気持ちが落ち着いたせいか、彼はいつもより冷静だった。彼は詩織をじっと見つめ、穏やかな口調で言った。「この間、啓太が怪我をさせたクラスメートの治療費、立て替えてくれた分を返している」詩織は言葉を失い、少し恥ずかしかった。なぜこうなってしまったのか、詩織には分からなかった。詩織はされるがままだった。彼女は彼に従わなければ、かえって彼を怒らせ、子供を傷つけてしまうのではないかと恐れた。しかし、行為の間、詩織は彼の腕の中で安らぎを感じていたことも事実だった。懐かしく、愛おしくもあった。詩織は服を着直しながら、不安な気持ちだった。そしてバッグを持ち、数歩歩いた後、立ち止まった。「黒木社長、あなたの気持ちはどうでもいいけど、私は自分の軽率な行動を恥じているわ。これが最後にしてほしい。そうでなければ、私は耐えられない」「俺と関係を持ったことを、恥ずかしいと思っているのか?」修司はまた煙草に手を伸ばしたが、思い直して置いた。落ち着いた気持ちは、再び苛立ちに変わっていた。「不倫よ!恥ずかしくないの?」詩織はきつい言葉でぶつけた。しかし、同時に、そう言う自分こそ、恥をかくべきだと感じていた。そう言うと、彼女はハイヒールを鳴らしながら、足早に部屋を出て行った。カチカチというハイヒールの音が、修司の耳から遠ざかっていった。彼女が去った後も、部屋には彼女の香りが残っていた。彼は椅子を回転させ、窓の外を見た。しばらくの間、彼は一人でオフィスにいた。誰にも邪魔されたくなかった。......海斗が建設会社に訴えられたことは、業界で噂になっていた。示談が成立しなかった海斗は、18億円もの賠償金を支払わなければならなくなった。修司のような大企業の社長にとっては、大した金額ではないだろうが、海斗のような中小企業の経営者にとっては、致命的な金額だった。一連の騒動の末、海斗は路頭に迷うのも時間の問題となった。長年の努力が、水の泡になってしまった。海斗は毎日酒に溺れ、夜遊びをしまくり、現実から逃げ続け、かつての姿とはまるで別人のように荒れ果てていた。「海斗、結局、俺たちは生まれが悪いんだよ。金持ちの機嫌を損ねたら、すぐにこうやって潰されるんだ」話しているのは藤堂清(とうどう きよ
あの夜、黒木家のバルコニーで、彼は詩織を「風俗嬢」呼ばわりした。詩織は、その屈辱を忘れることができなかった。それを思い出すたびに、詩織は怒りと悲しみに胸が締め付けられた。修司は一瞬驚いた後、詩織を抱き上げた。詩織は彼が何をしようとしているのか察したが、ここはオフィスだ。「正気なの?私たちはもう別れたのよ。あなたには婚約者がいる......」「それでも、お前の体を抱きたい」修司は詩織の言葉に耳を貸さず、彼女を抱きかかえてデスクの前に連れて行き、書類を床に落とした。たくさんの書類が、床に散らばった。詩織の心は、ズタズタに引き裂かれた。自分はいったい、どんな男を好きになってしまったのだろうか?婚約者がいるにもかかわらず、罪悪感もなくこんなことをするなんて。修司に体を向けられた詩織は、お腹を机の角にぶつけた。さっきまで抵抗していた詩織だったが、冷や汗をかいていた。女は男の力には敵わない。詩織は、今日、彼から逃れることはできないだろう、と思った。詩織は歯を食いしばり、彼がスカートのベルトを外そうとした時、顔をそむけた。修司が顔を上げると、いつの間にか、詩織の顔は涙でいっぱいになっていた。彼女は歯を食いしばりながら、憎しみを込めて言った。「あなた、これでも人間なのか?」誰も彼にそんな言葉を投げかけたことはなかった。しかし、修司は怒らなかった。彼も以前、彼女にひどいことを言った。まあいい、これでチャラだ!彼女は怒鳴りながらも、悲しげに、泣きそうな目でかれを見つめた。二人は今、非常に近い距離にいた。彼の鼻先に、彼がよく知っているほのかな香りがふわりと漂ってきた。とても淡く、そしてとても誘惑的で、詩織自身の雰囲気によく合っている。天使のようで悪魔でもあるような。彼は詩織の体を向き直らせ、額を彼女の額に合わせた。しばらくして、彼は詩織の唇に優しくキスをした。少し開いたドアの前に、牙が立っていた。彼は修司に用があって来たのだが、偶然、この現場を目撃してしまった。しばらくすると、部屋の中から男女の嫌らしい喘ぎ声が漏れ聞こえてきた。詩織は嫌がっていたが、修司は無理やり彼女を抱いていた。最後は諦めた詩織が、弱々しい声で「お願い......優しく......」と
翌日、詩織は勢い込んで修司の会社へ向かった。詩織が彼の仕事場を訪れるのは、これが初めてだった。これまで詩織は、別荘で彼の都合の良いように扱われるだけの女だった。田中秘書がドアをノックし、社長室に入った。デスクの後ろに座る社長に、瀬名という名の女性が訪ねてきていると告げた。田中秘書は内心、不安だった。アポイントメントなしで社長に会える人はほとんどいない。しかし、瀬名さんは堂々とした態度で、田中秘書を言いくるめてしまった。仕方なく、田中秘書は社長に確認することにした。修司はうつむいて何か書いていたが、まさか彼がすぐに承諾するとは思わなかった。ペンを走らせながら、静かに「通してくれ」と言った。まるで詩織が来るのを待っていたかのようだった。「黒木社長」詩織が部屋に入ると、修司はソファに座り、書類に目を通していた。詩織は、彼に文句を言いに来たのだ。「昨日、海斗が楽団に来て、土下座までして謝罪してきたんだけど、どういうつもり?あなたが指示したの?」「土下座ぐらい当然だろ」修司は軽く言った。詩織は眉をひそめた。「私のために、仕返しをしたってこと?」修司は顔を上げ、詩織を一瞥してから、テーブルの上の煙草に手を伸ばした。詩織はイライラしていたので、彼が煙草を吸おうとするのを見て、自分が妊娠していることを思い出し、思わず叫んだ。「煙草を吸わないで!」修司は驚いた。彼はこれまで、詩織の前で煙草を吸うことをためらったことはなかった。詩織が文句を言ったことも、彼に怒鳴ったことも、これが初めてだった。彼は鼻で笑い、目を細めた。男の眼差しは深く黒く、鋭かった。詩織は、まるで冷水を浴びせられたかのように、さっきまでのすべての衝動が一瞬で冷めてしまった。彼女は唇を噛み締め、再び口を開いた時には勢いは明らかに弱まっていた。「渡辺さんは、訴訟を取り下げてほしいと私に頼んできたけど、私は関わりたくないの。彼が今、こんな目に遭っているのは、自業自得よ」「同情しないのか?」彼が尋ねた。「知り合ってまだ数日しか経ってないのに?」「数日?俺が覚えている限りでは、お前は俺と別れた次の日に、彼とデートしてたようだが?」「あれは佳澄が勝手にセッティングしたお見合いで......」詩織は言いながら、
あの夜、海斗と会って以来、詩織は彼と会うのはあれが最後だと思っていた。しかし数日後の午後。海斗が、なんと多くの人がいるリハーサル室に現れたのだ。詩織はピアノの前で調律をしていた。由美が詩織の耳元で「詩織、あなたを探しに来た男の人がいるわよ」と言った。詩織が不思議そうに振り返ると、そこに海斗が立っていた。皆の見ている前で、彼は突然土下座をした。団長は驚いて、詩織の元に駆け寄ってきた。「詩織、一体どういうことだ?」詩織には何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。詩織は慌てて立ち上がり、海斗を起こそうとした。「何をしているの?立って話して!」「詩織、私がお前の写真をネットに流して、デマを流したのは、お前への片思いが報われなかったからの嫉妬だった!お前が不倫なんてしていないこともわかってる。あの日車の中での親密な写真も、全部私が加工したものなんだ!今回の件でお前に迷惑をかけたことは償う。本当に申し訳なかった。他に何も望むことはないが、ただ許してほしい」海斗はまるで一夜にして性格が変わったかのようだった。まるで正反対の人間になってしまったかのようだった。彼は詩織にかけられていた濡れ衣を全て晴らし、自分の非を認めたのだ。彼の見た目から一見すると真面目そうに見える。もし彼が、あの時、あんな酷いことをしていなかったら、詩織は彼をクズ男だと思うことはなかっただろう。今、そんな彼が、プライドを捨てて自分の前で土下座をしている。泣きじゃくりながら許しを乞う彼を見て、詩織はどうすればいいのか分からなかった。しかし、彼の泣き叫ぶ姿を見て、詩織のことを悪く言っていた人たちは、少し申し訳なさそうだった。皆、顔を見合わせた。海斗があんなに悲しんでいるのだから、嘘をついているとは思えない。もしかして、自分たちは詩織のことを勘違いしていたのだろうか?玲奈は腕組みをして、この騒動を冷ややかに見ていた。彼女は何か裏があるに違いないと思い、疑念を抱いていた。......詩織はどうにか海斗を起こした。彼女は他のメンバーの練習の邪魔をしたくなかったので、海斗を廊下に連れ出した。「どうしてここに来たの?一体、何がしたいの?」彼女は声を低くし、怒りで顔が赤くなった。詩織には、海斗の意図が全く
修司は海斗との電話を切り、ゆっくりと振り返った。少し離れた場所に立っていた杏奈は、潤んだ目で彼を見ていた。さっき、詩織も泣いていた。彼が詩織に「風俗嬢」と言った時だった。あんな言葉は、どんな女性にとっても屈辱的なものだ。ましてや、詩織は風俗嬢などではない。詩織の心は、深い悲しみと屈辱感でいっぱいだったに違いない。修司は肘を後ろの手すりについていた。彼は冷たい表情で杏奈を見た。「何か用か?」杏奈は、まるで悔しい思いをした小学生のようだった。心配されると、余計に悲しくなってしまったのだろう。さっきこらえた涙が、今またぽろぽろと流れ落ち、ひどく悲しんでいた。彼女は修司の前に立ち、「修司、婚約指輪をなくしちゃったの」と言った。修司は表情を変えず、3秒ほど沈黙した後、「どうしてなくしたんだ?」と尋ねた。「お手洗に行った時に、指輪を外して洗面台に置いたの。個室に入って、出てきたら、指輪がなくなってたの......」杏奈は本当に悲しそうだった。それは修司からもらった大切な指輪だったのだ。もうすぐ婚約式なのに、どうして今、なくしてしまうの?彼女は普段、迷信を信じる方ではなかったが、今はなぜか胸騒ぎがした。何だか悪い予感がした。修司は何も言わなかった。杏奈は修司に近づき、泣きじゃくった。彼女は修司のネクタイを掴み、「修司、お願い、探して!まだお客さんもいるし、監視カメラの映像を確認すれば、きっと見つかるわ!ううっ......」と懇願した。仕方なく、修司は使用人を呼び、彼らに指輪を見なかったか尋ねた。使用人たちは、家のものがなくなったと聞いて、疑われるのを恐れて、必死に「見ていません」と答えた。それからすべての監視カメラを調べた。リビング、廊下、どこにも問題はなかった。よりによって、一階の廊下の、トイレに近いあの場所の監視カメラが、なんと壊れていたのだ!杏奈は監視カメラの映像を確認すれば、犯人が分かると期待していた。しかし、監視カメラが壊れていては、どうすることもできない。「まあ、いいか。なくなったものは仕方がない」修司は全く気にしていないようだった。婚約者が指輪をなくしたというのに、彼は落ち着いていた。あの指輪が彼女にとって何を意味するか、彼が知らないはずはない
修司は冷たい眼差しで顔を上げた。詩織はすでに人混みを抜け、歩き出していた。彼女は黒木家の門を出るまで、涙を拭うことを思い出さなかった。さっきは、頭が真っ白になって、あんなことを言ってしまった。少し衝動的だったかもしれないが、間違いなく彼女自身の本当の気持ちだった。さっき急いで出てきたので、冷たい夜風が頬を撫でた時、彼女はコートを部屋に忘れてきたことに気づいた。しかし、こんな状況で戻るわけにはいかない。彼女は自分の体を抱きしめ、寒さをしのいだ。突然、肩にコートがかけられた。詩織が振り返ると、そこに牙が立っていた。「瀬名先生、タクシーを呼びましょうか?」今夜、二度も自分を助けてくれたのは、牙だった。詩織は感謝していた。さっき、門の前に立っていた時、詩織は涙をこぼしていた。今、顔にはまだ乾いていない涙の跡が残っていた。それに気づいた牙はポケットを探り、ティッシュを取り出して詩織に渡した。「ありがとう」詩織はティッシュを受け取った。そして顔を上げたその時、少し離れた場所に、見覚えのある人影が立っているのに気づいた。――海斗!門の前のフロアランプは、明るく照らしていた。詩織には、男のやつれた顔、伸びた髭、みすぼらしい服装が見えた。風が彼の髪を乱し、見ていると少し哀れにさえ思えた。「......渡辺さん?」牙は彼女の視線を追って、そちらを見た。彼は「ああ」と言って、「渡辺さんは一週間も黒木社長に会おうとしていたんだ。社長はずっと会おうとしなかったのに、まさかここまで来るとは」と付け加えた。「渡辺さんに何かあったの?」詩織は、修司が海斗のプロジェクトをキャンセルしたことを覚えていたが、それだけで彼がここまで落ちぶれるとは思えなかった。「最近請け負った工事で訴えられたらしいだよ。本来契約を結ぶ予定だった建設会社も黒木グループの傘下なんだ。偶然なのかどうか分からないが、渡辺さんが最近立て続けに痛い目に遭ったのは、どちらも黒木社長が関わっているね」建設会社は海斗に訴訟を起こしており、もし訴えが取り下げられなければ、彼は巨額の賠償を支払わなければならない。これは、海斗のような中小企業にとっては、まさに致命傷だ。海斗の会社に出資している株主たちは、どこからか情報を得て、動
「俺は瀬名先生に、彼女が持ってきたプレゼントを渡すようにと頼まれたのだ」修司はそう言って、そのまま詩織から受け取ったジュエリーボックスを黒木夫人に渡した。「さあ、これだ。瀬名先生から、結婚記念日おめでとうございます、と」詩織と黒木夫人は同時に一瞬固まった。黒木夫人はさっき他の客と話している時、意図的か無意識か、彼らに愚痴をこぼしていた。詩織のような家柄の低い女は、本当に常識がない。人の家にお祝いに来て、手ぶらで来るなんてことがあるかしら?本当にお金がなくて何も買えず、ただタダで飲み食いしに来たのかもしれない!ところが今、詩織は逆にプレゼントを贈ってきたのだ!修司が買ったものなのに、詩織の手柄になってしまった。詩織は申し訳ない気持ちになった。彼女は修司を一瞥したが、彼がなぜそんなことを言ったのか分からなかった。さっき自分が黒木夫人に困っている時は助けてくれなかったのに、今になってなぜ?詩織には、彼の気まぐれな態度が理解できなかった。詩織は黙って、成り行きを見守ることにした。バルコニーの入り口に立っていた夫人たちは、黒木夫人が不思議そうにネックレスの箱を開けるのを見ていた。目ざとい人がいて、一目でそのネックレスが高価なものだと見抜いた。しかし、さらに目ざとい人がいて、思わず声を上げた。「あら?おかしいわね。このネックレス、今日、黒木社長があなたにあげたものと全く同じじゃない?」「......」その女性は、普段から黒木夫人と親しくしている山田夫人だった。同じ社交界で、よく一緒に麻雀をしている仲だった。関係は親密に見えるが、実は互いに密かに競い合い、複雑な嫉妬心を抱いていた。山田夫人は、何かおかしいと感じた。彼女は早足で近づいてきて、大げさに叫んだ。「ほら、やっぱり!私の見間違いじゃなかったのね!全く同じだわ!」彼女は笑いながら詩織を一瞥し、それから修司を見た。「まさか、啓太のピアノの先生と黒木社長の好みが、こんなに一致しているなんて。プレゼントまで同じものを選ぶなんて!」彼女はわざと事を荒立て、顔を上げて顔色の悪い黒木夫人を一瞥し、再び杏奈を見て、さらに彼女を刺激した。「杏奈、これは瀬名先生に見習わないとね。黒木社長の婚約者なのに、どうして彼と好みが合わないの?まあ、瀬名先生は..
詩織は何か言いかけてはやめ、機会を見つけてネックレスを彼に返したらすぐに立ち去ろうと思った。その時、修司に電話がかかってきた。仕事の話のようだった。彼は落ち着いた様子で電話を終えると、湯呑みをテーブルに置き、向かいに座っている父親に「すみません、少しお手洗いに」と言った。そして立ち上がり、部屋を出て行った。詩織はハッとして、チャンスが来たと思い、彼を追いかけた。しばらくして、修司は手を拭きながらトイレから出てきた。そして顔を上げると、廊下でスマホを見ている詩織の姿が目に入った。物音に気づいた詩織は顔を上げ、修司と目が合った。修司の視線は冷淡で、詩織と目が合っても、何の感情も読み取れなかった。彼は両手をポケットに入れたまま、詩織を無視して通り過ぎようとした。詩織は急いで彼を追いかけ、「黒木社長、渡したいものがあるの」と言った。修司には新しい恋人がいるのだから、詩織に冷たくするのは当然のことだった。詩織は、彼が自分に良い顔をするとは思っていなかった。しかし、修司は意外にも「バルコニーについて来い」と言った。「え?」詩織は驚いた。修司は振り返り、詩織を上から目線で見下ろすように言った。「渡したいものがあるんだろう?」そう言うと、彼はバルコニーの方へ歩いて行った。詩織は瞬きし、急いで後を追った。夜風は優しく涼やかだった。しかしやはり秋だ。たとえ南方であっても、朝晩はかなり冷える。薄着の詩織は、思わず腕を組んだ。バルコニーの手すりに寄りかかっていた修司は、振り返り、詩織をじっと見つめた。詩織には、彼の視線が何を意味しているのか分からなかった。しかし、詩織は彼の気持ちを詮索する気にもなれず、バッグからネックレスの箱を取り出した。「これ、前に送られてきたネックレス。返すわ」「気に入らないのか?」修司はネックレスの箱を一瞥したが、手をポケットに入れたままで、受け取ろうとはしなかった。詩織は首を横に振った。「高すぎるわ。こんなもの、もらえない......」「どうして駄目なんだ?」彼が尋ねた。詩織はドキッとした。次の瞬間、彼が小さく笑うのが聞こえた。「3年間、お前の体を楽しませてもらったんだ。タダでヤるわけにはいかないだろう。風俗嬢にだって料金を払うんだぞ」さっき持ち直し