社内で高嶺の花と言われる朱宮姫乃(29) 彼氏いない歴=年齢なのに、彼氏がいると勘違いされてずるずると過ごしてきてしまった。 「じゃあ俺が彼氏になってあげますよ。恋人ができたときの練習です」 そう協力をかって出たのは後輩の大野樹(25) 練習のはずなのに、あれよあれよと彼のペースに巻き込まれて――。 恋愛偏差値低すぎな姫乃を、後輩の樹が面倒を見るお話です。
View More「はぁー」帰りの電車の中、思わずため息が漏れた。彼氏って、どうしたらできるんだろう? ガラス越しに映るカップルをチラリ盗み見しながら、私はまた大きく項垂れる。 世の中にはこんなにもカップルで溢れているのに、私はいつになったら彼氏ができるのだろう? もう一度ため息が出そうになったとき、タイミングよく電車が揺れ、私はバランスを崩して目の前のガラスへ頭をぶつけた。「いたっ!」鈍いゴチンという音と私の小さな悲鳴は、一瞬のうちに電車内の乗客の視線を集める。恥ずかしさと痛さで頭を押さえながら、隠れるように慌ててうつむいた。「大丈夫ですか?」ふいに声をかけられ振り向くと、そこには心配そうに覗き込む大野くんがいて、驚きのあまり心臓が跳ねた。「……だ、だいじょうぶ」と言ってみたものの、知り合いに見られていた羞恥心で一気に顔が赤くなるのがわかる。「お、同じ電車だったんだね」「姫乃さん案外どんくさいですね。飲み会中、なんか無理してる感ありましたけど、悩み事でもあるんですか?」悩み事ならあります! と心の声が叫んでいるけれど、“どうしたら彼氏ができるのか”なんて事を大野くんに言えるはずがなく、私は愛想笑いを浮かべた。「えっ? いや? ないよ。大丈夫。ちょっと飲み過ぎたのかなー? えへへ」「じゃあ彼氏に迎えに来てもらえばいいじゃないですか?」愛想笑いでごまかそうとしたのに、大野くんはしれっとした顔で心臓に悪いことを言う。「えっ、うん、そうかな? そうだよね? でも忙しいかも?」上手く受け答えができず、しどろもどろになってしまう。 ちょうど駅に到着するアナウンスがあり、私はそそくさと降りる準備をした。「私、駅ここだから、じゃあね」「俺もここです」「えっ?」扉が開くと同時に大野くんが降りる。私もその後を追うように、急いで降りた。 「姫乃さんって最寄り駅ここでした?」 「うん、最近引っ越したんだ」 「ふーん」 電車を降りて改札口まで一緒に歩く。 そこで別れるものだと思っていたのに、大野くんは私の帰り道と同じ道を歩いていく。歩道には桜の木が植わっていて、満開の桜が風に揺れている。 「大野くん家こっちなの? 方面一緒だね。全然気付かなかったなぁ」 といっても、私はまだ二週間前に引っ越してきたばかりだ。近所の事はまだよくわかっていないし
私が口を開こうとしたときだった。「ふーん。姫乃さん彼氏いるんだ?」大野くんの言葉に、私は箸を落としそうになった。「おっ、新人、さっそく姫ちゃんを名前呼びとは、生意気~!」祥子さんがニヤニヤとからかい、真希ちゃんがうんうんと大きく頷く。「ダメでした?」「いいんですか、姫乃さん?」「えっ? いや、いいよ。名前の方が親しみやすいし、仲良くなれる気がするし。ね、大野くん」私は大野くんに向けて、にっこりと笑った。別に下の名前で呼ばれることくらい、何ともない。現に大多数の同僚が“姫ちゃん”とか“姫乃さん”と親しみをもって呼んでくれるので、むしろありがたく感じている。「いやー、いいよね。姫ちゃんのその笑顔、癒しだったなあ」早田さんが名残惜しそうに言う。「早田さん、私たちは?」「もちろん、君たちもだよ!」真希ちゃんが不満げに言うと、早田さんはすかさずフォローして明るく笑った。そんなこんなで、和気あいあいとした飲み会は宴もたけなわのうちにお開きになった。祥子さんと真希ちゃんと駅で別れ、私は一人電車に揺られる。今日もまた、“彼氏と別れました”と打ち明けられなかった。 このまま私は、彼氏がいると勘違いされつつ結婚適齢期を逃してしまうのだろうか。ていうか、アラサーの時点ですでに結婚適齢期は過ぎているのかもしれないけど。死ぬまで一度も彼氏ができずに、そのままおばあちゃんになってしまうかも。ああ、その前に嘘がばれて会社に居づらくなって、仕事も辞めることになったりして?考えれば考えるほど、よくわからないネガティブな思考になり、項垂れていく。
「大野、もう少し愛想よくできない?」早田さんの言葉に、大野くんはゆっくりと私たちを見回す。「すみません、これでも愛想よくしてるつもりです。結構気を遣ってますよ」物怖じしない貫禄っぷりに感心する。私が入社したての頃は、もっと先輩にペコペコしてたっけ。「堂々としてるわ~」祥子さんも感心したように呟き、私もそれに同調して頷いた。「えっと、何か飲む?」「じゃあビールを」「はい、どうぞ」私は空いている綺麗なグラスを大野くんに手渡すと、まだ残っているビール瓶を探して注いであげた。「どうも」淡々と受け答えする大野くんに、真希ちゃんがボソッと呟く。「姫乃さんにお酌してもらって喜ばない男、初めて見た」「はあ?」「確かに。ほら見て、あっちのテーブルのおじさんたちは羨ましそうにしてるわよ」祥子さんが指差す隣のテーブルでは、年配の男性陣がみんなこちらを見ている。「さすが姫ちゃん」「ちょっと、祥子さん、そんなわけないでしょう。からかわないでください」何だか急に恥ずかしくなって、私は慌てて否定する。お酌くらいで羨ましがるとか、意味がわからない。きっとみんな、大野くんを見ていたと思うの。「なるほど」「ちょっと、大野くんも真に受けないの」大野くんまで感心したように頷くので、私は居心地が悪い。「姫ちゃんも早く結婚したらいいのに」「えっ? いや、あの……」「あ、彼氏仕事に忙しいんだっけ? 大変ねー」「いや、だから……」突然の祥子さんからの話題に、私は心臓が跳ねる。そういえば今日こそ“彼氏と別れた”って言おうと思っていたんだった。 今こそチャンスじゃない?
「姫ちゃん安心して。今は産休取りやすくなったし、いつでも結婚出産できるわよ」祥子さんは先程とはうって変わって、キラキラとした目で私を見る。なんだか期待されているようで、落ち着かない。「あの、そのことなんですけど、実は……」彼氏と別れた――と言いたかったのに、突然肩を叩かれて、私は飛び上がるほど驚いた。「ねえ、君たち、今日はお祝い会なんだけど、女子会になってない?」見上げれば、私の肩に手を置く早田さんが、爽やかに微笑みながら立っていた。「きゃあ、早田さん! 違います、いなくなって寂しいって話をしてたんです」真希ちゃんが慌てて否定し、祥子さんと私もうんうんと頷く。「ほんと? 厄介なやつがグループからいなくなって嬉しいんじゃないのー?」「まさか!」「ははっ、僕はちょっと寂しいな。皆と仕事するの楽しかったから。ねえ?」そう言って、早田さんは目配せをした。 私はそれに合わせて軽く頷く。「でも課長として同じフロアにはいるから、またよろしくね。あとは新人の教育は任せたよ」早田さんはもう一人の主賓、大野くんを顎で指す。大野くんのまわりに人はいるものの、大野くん自身はひとりしっぽりと過ごしていた。寂しそう……ではないかな。あまりはしゃがないタイプのようで、楽しいのか楽しくないのか表情からはよくわからない。「それなんですけど、大野さんなんか怖いんですけど」真希ちゃんがズケズケとものを言い、早田さんは苦笑いをした。「そうだね、ちょっと無愛想だよね。大野、こっちこい」早田さんが呼ぶと、大野くんは返事をして表情ひとつ変えずにこちらに来た。 私よりも四、五歳くらい若いのに、いつもクールで落ち着いている。
私は一人納得し、意を決して口を開いた。「あの実は……」「それにね真希ちゃん、姫ちゃんはお茶汲みから経験してる女子社員の鑑なのよ」祥子さんがビールジョッキ片手に、私の肩をバンバンと叩く。思わず言葉を飲み込んだ。「ええっ? 今時お茶汲みですか?」真希ちゃんが、信じられないと言った顔でこちらを見る。「あ、うん。入社当時は、だよ」「さすがに今はそんなのないよね。今そんなことさせたら、セクハラパワハラだって問題になるわよー」「ですよねー。私絶対やりたくないもん。あ、早田さんにならお茶入れてあげたいかな」真希ちゃんは否定しつつも、調子の良いことを言う。「真希ちゃん現金な子! とはいっても、女は損よねー。頑張ったって出世の道もないんだからさぁ」祥子さんはビールを煽りながら嘆いた。 私は空いた大皿を店員さんに返しながら、新しく運ばれてきた天ぷらの大皿と交換する。「祥子さん、今はだいぶ緩和されましたよ。女性役職者もいますし」「そう? だったら姫ちゃんだってそろそろ階級が上がったってよくない?」「階級って何ですか?」真希ちゃんの質問に祥子さんは少し声を落とし、早田さんの方をこっそり指差す。「真希ちゃん、課長になるためにはいくつ階級があると思う?」「課長の前がグループ長で、その前が主任でしたっけ? だから三つ?」祥子さんはカバンからペンを取り出すと、割り箸の箸包みに階級を書き出す。 平社員から主任に上がるには、一級から三級までの三段階あり、主任からグループ長に上がるにも試験がある。その上の課長になるためには、試験と上司からの推薦が必要だ。 うちの会社は大手で歴史も古く、今なお昔ながらの階級制度が残っている。「さっすが、祥子さん詳しいですね」「私は元社員だもの。結婚出産で退職してパートで出戻りしただけだから、会社の事情は割りと知ってるわ。昔は産休育休なんて取れなかったのよねぇ」「へえー」真希ちゃんと私はしきりに感心した。確かに祥子さんの言うとおり、出世に関してはまだまだ男尊女卑の傾向は強い。今はだいぶ制度が整ってきたので、ようやく女性役職者が増えてきた。産休育休の取得率も上がっているみたいだ。
「はい、真希ちゃん。カルピスサワーだったよね?」「ありがとうございます! あ、サラダも分けられてる。さすが姫乃さん」真希ちゃんはカルピスサワーを受けとりながら、目の前のサラダに箸をつけた。「真希ちゃんも姫ちゃんを見習いなー」「見習ってますよう。私だって姫乃さんみたいに綺麗で気立ての良い女になりたいですもん。そしてその暁にはイケメンエリート彼氏ゲットです!」真希ちゃんは胸の前でグッとガッツポーズをすると、私を見てうんうんと頷く。 私は愛想笑いをしながら、内心ギクリとした。「真希ちゃんもさ、姫ちゃんみたいにできる女になって、大手のイケメンエリートを捕まえなさいよ」「もー、祥子さんはすぐそうやって簡単に言うんだから。姫乃さん、どこで彼氏と知り合ったんですか?」「ええっと……」私は冷や汗をかきながら言い淀む。 真希ちゃんの純粋な視線が眩しくて、そして痛い。”綺麗で気立てが良くて名前負けしていない高嶺の花の朱宮姫乃は、大手企業に勤めるイケメンエリート彼氏持ち”そんな絵に描いたような噂が社内に流れ、あっという間に定着してしまった今のこの状況に、私は困惑しつつも否定できないでいた。”朱宮姫乃”という名前。 芸能人みたいな名前で、どこへ行っても目を引かれがちだ。名前負けするのが嫌で、勉強も頑張って良い大学に入ったし、加えて美容にも気をつかってきた。そんな努力の甲斐あってか、就職先も一応大手のメーカーに内定が通った訳なのだが、そこで働くこと早七年。 まわりが言うような、“大手企業に勤めるイケメンエリート彼氏”にはまったくもって出会っていない。むしろ、勝手に一人歩きするそのデマのせいで、男性が寄ってこないのではないかと疑っている。きちんと“違います”と言いたいのだけど、言う機会がないまま……いや、言っても信じてもらえないまま今日に至っているわけで。今日こそ言って信じてもらわなくちゃ。そう、”別れた”って言えば納得してもらえるよね、きっと。
春は出会いと別れの季節。 毎年いろんなことがあるけれど、今年はどんな出会いと別れがあるのだろう――。わいわいと、賑やかで美味しい香りが漂う和風居酒屋で、我がIT管理課インフラグループの昇進お祝い&歓迎会が行われた。グループ長だった早田さんが、IT管理課長に昇進してグループを出ていくのだ。それと入れ違いに、入社二年目の大野樹《おおのいつき》くんがインフラグループに入ることになった。といっても大野くんは半年前から先に異動してきていて、その時はバタバタして歓迎会が出来ていなかったので、このタイミングで一緒に飲み会をしようとなったわけだ。下座に位置するテーブルを囲んで、仲の良いベテランパート社員の祥子さんと、若くてフレッシュな派遣社員の真希ちゃん、そしてインフラグループ唯一の女性社員であるアラサー独身彼氏なしの私、朱宮姫乃《しゅみやひめの》は、ペチャクチャとおしゃべりに花を咲かせていた。女性が集まると、主賓そっちのけでとたんに女子会のノリになる。「あ~、早田グループ長がいなくなるなんてショックです」「そう? まあ、なかなか良いグループ長だったけどねぇ」「癒しがなくなりますよぉ」真希ちゃんはしょんぼりと項垂れ、祥子さんはビールを煽りながらガハハと笑った。早田グループ長は、女性の間では“イケメンエリート”と称されていてなかなか人気が高い。高身長、高学歴、高収入とはよく言ったもので、プラス容姿端麗ときたらそれはもう人気が出るのがわかる。他の部署の女性たちからも、支持されているらしい。そんな早田さんのイケメン噂話を聞きながら、私は一人黙々とサラダを取り分け、注文したドリンクを配っていた。
春は出会いと別れの季節。 毎年いろんなことがあるけれど、今年はどんな出会いと別れがあるのだろう――。わいわいと、賑やかで美味しい香りが漂う和風居酒屋で、我がIT管理課インフラグループの昇進お祝い&歓迎会が行われた。グループ長だった早田さんが、IT管理課長に昇進してグループを出ていくのだ。それと入れ違いに、入社二年目の大野樹《おおのいつき》くんがインフラグループに入ることになった。といっても大野くんは半年前から先に異動してきていて、その時はバタバタして歓迎会が出来ていなかったので、このタイミングで一緒に飲み会をしようとなったわけだ。下座に位置するテーブルを囲んで、仲の良いベテランパート社員の祥子さんと、若くてフレッシュな派遣社員の真希ちゃん、そしてインフラグループ唯一の女性社員であるアラサー独身彼氏なしの私、朱宮姫乃《しゅみやひめの》は、ペチャクチャとおしゃべりに花を咲かせていた。女性が集まると、主賓そっちのけでとたんに女子会のノリになる。「あ~、早田グループ長がいなくなるなんてショックです」「そう? まあ、なかなか良いグループ長だったけどねぇ」「癒しがなくなりますよぉ」真希ちゃんはしょんぼりと項垂れ、祥子さんはビールを煽りながらガハハと笑った。早田グループ長は、女性の間では“イケメンエリート”と称されていてなかなか人気が高い。高身長、高学歴、高収入とはよく言ったもので、プラス容姿端麗ときたらそれはもう人気が出るのがわかる。他の部署の女性たちからも、支持されているらしい。そんな早田さんのイケメン噂話を聞きながら、私は一人黙々とサラダを取り分け、注文したドリンクを配っていた。...
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