Chapter: 父の日-06「あの、僕は平日休みが多いんですが……」「すみません、私は平日仕事で海斗を保育園に迎えに行くのも十八時くらいなんです」「えっ、平日仕事をしてて、土日もラーメン店で働いているんですか?」「はい、実はそうなんです」「それは……大変ですね」紗良は曖昧に微笑む。海斗と生活する上で大変だと思うことはあっても、自分の仕事を大変だと思うことはなかった。むしろそうしなくては海斗を十分に養えないという使命感の方が大きく、とにかく日々がむしゃらだったのかもしれない。「先生さえご迷惑でなければ、平日に会ってもらってもいいですか?」「ええ、それは、全然構いませんよ」「えっと、じゃあ……」紗良はスマホのスケジュールアプリを開く。 杏介も同じくアプリを開き、日程を擦り合わせた。 チラリと見える紗良のスケジュール表には予定がびっしりと書き込まれている。 何かはわからないが、なかなかに忙しそうだ。「この日は海斗の歯医者さんがあるし……」などと呟いているから、きっと海斗絡みの予定ばかりなのだろう。短い付き合いだが、なんとなく紗良の性格は分かってきている。彼女はいつも真面目なのだ。だけど可愛らしい部分も多々あって――。「先生、火曜日の夜はいかがですか?」「大丈夫ですよ」「ありがとうございます」肯定すればすぐに嬉しそうな表情を浮かべる。 柔らかくて可愛らしい微笑みと声色。杏介はぐっと息を飲む。本当はプール教室に通う親に個人的な連絡先を教えるべきではないのだが、だけどこれも海斗のためと杏介は言い訳をして自然な感じを装い言った。「念のため連絡先を交換してもいいですか?」「あ、はい、そうですね」紗良も特に気にもせず、二人連絡先を交換する。スマホの画面に表示された名前。(滝本杏介さんって言うんだ……) (石原紗良さん、か…)お互い妙に照れくさく、でも嬉しいような気持ちになり、顔を見合わせふふっと控えめに笑った。
最終更新日: 2024-12-18
Chapter: 父の日-05 「……保育園で描いた父の日のプレゼントなんですけど。……あの、深く考えずに、体裁だけでいいので受け取ってもらえないでしょうか。それで本人納得すると思うんです。……ダメでしょうか」強張っている杏介の表情から、やはりお願いすべきではなかったかもと泣きそうな気持ちになる。なんとなく、最近は杏介と打ち解けていた気がして、だからきっと引き受けてくれるんじゃないかと思っていた紗良だったが、現実はそんなに甘くはなかったのかもしれない。「……やっぱりご迷惑ですよね。ごめんなさい、今の話は忘れてください」「あ、いや、いいんです。ちょっと驚いただけで。えっと、僕が受け取るのは全然構わないのですが、その……海斗くんのお父さんに申し訳ないな、と……」「海斗の父親は亡くなっているので、お気になさらず……」「あ、そうだったんですか。申し訳ありません、デリカシーがなくて」「いえ、海斗は先生のことがとても好きなので、だから描いたんだと思います」「そういうことなら、喜んでいただきますよ。むしろ海斗くんに好きになってもらえて光栄です」杏介はニコッと微笑む。 紗良と海斗にそんな事情が隠されていたなんて思いもよらなかったが、可愛い教え子と紗良の頼みとあらば、断る理由がない。杏介が快く承諾してくれたことで、紗良もようやくほうっと胸を撫で下ろしていた。「えっと、じゃあ、プール教室のときは持っていっても受け取れませんよね?」「あー、そうですね。レッスンが続けて入っているし濡れてしまうかも……」海斗が水着を忘れたときに杏介が追いかけて届けてくれたことがあったが、あのときはレッスンの合間をぬって急いで来てくれたことで、髪もシャツも濡れていた。だから誰かのために時間を作ることはなかなか難しい。妥協案としてはレッスン外で会うことなのだが……。
最終更新日: 2024-12-17
Chapter: 父の日-04「わかりました。じゃあ隣のコンビニでどうですか?」「はい、それで。ありがとうございます」ほっとしたような、それでもまだ落ち着かないようなそんな表情を浮かべる紗良。お願いとはなんだろうか。海斗の水泳のことで何かあるのだろうか。(もっと優しくしてくださいとか厳しくしてくださいとか?)プール教室の先生をしているとそういう意見をもらうことも少なくない。だからきっとプール教室の指導に関わることなのだろうと杏介は予想して、コンビニへ向かった。ペットボトルのお茶を一本だけ買って、あとは駐車場に停めた車の中で紗良を待つ。スマホのアプリゲームで時間を潰していると、ラーメン店の方からコンビニへ向かってくる人影が見えた。こちらに近づくに連れシルエットがはっきりしてきて、それが紗良だとわかる。制服から着替えた紗良は、ロングワンピースにレギンスといったラフな格好。小さなショルダーバッグを斜めに掛けて、小走りで向かってくる。私服の紗良はやはり若くて、とても母親には見えない。(でも母なんだよなぁ……)世の中の不思議に触れた気分になりながら、杏介は車から降り紗良にわかるよう小さく手を上げた。「お待たせしてすみません」「いえ、大丈夫ですよ。それでお願いと言うのは……?」「はい、あの……」紗良はしばし目を泳がせた後、杏介をぐっと見つめる。身長差のせいで上目遣いに見つめられた杏介は、図らずも心臓がドキリと跳ねた。紗良の艶やかな唇が小さく開かれる。「……海斗が、どうしても先生に渡したいものがあって」「渡したいもの?」「はい、保育園で描いた絵なんですけど……」紗良は再び口ごもってしまう。とんでもなく言いづらいし、本来ならこんなことを
最終更新日: 2024-12-16
Chapter: 父の日-03「えーっと、ここにお父さんって書いてあるじゃん。滝本先生はお父さんじゃないでしょ」「えー、あげたいあげたい。かいと、がんばってかいたもん。あげるもん。こんどのプールきょうしつにもってくの」「いやいやいや、濡れちゃうし」「わーたーすー」「ダメだって」「ヤダヤダ」言い合いをしていると、だんだん海斗の顔が曇ってくる。そしてついに不機嫌な顔でその場を動かなくなった。「ちょっと海斗、帰るよ」「やだっ」「置いてくよ」「やだっ」「保育園に泊まる?」「やだっ」「もうっ、どうしたいのよっ」「だってたきもとせんせーにわたしてくれないんでしょ」「だって渡せないじゃない」「やだっ」テコでも動かない海斗と譲らない紗良。だけど先に根負けしたのは紗良だった。「あーもう、じゃあ今度聞いてみるから。それでいいでしょ?」「……いい」「……帰ろ?」「かえる」ようやく靴を履いてくれた海斗と手を繋ぎ、駐車場へと向かう。(ああ、変なことを引き受けてしまった。寝たら忘れてくれないかしら)一気に疲れてしまった紗良は、どんよりとした気分のまま家路についた。杏介はいつものラーメン店でいつものように接客してくれた紗良を見て、首を傾げた。 上手く言い表せないのだが、何だか今日は紗良の様子がおかしい気がする。妙にソワソワしているというか、落ち着かないというか。そんな彼女は意を決したかのように口を開いた。「あの、先生にお願いがあって……」「はい、何でしょう」「あ……、えっと……」エプロンの裾をぎゅっと握りしめて、モゴモゴと口ごもる。言いづらそうな雰囲気にここでは話しづらいことなのかと思い、杏介はひとつ提案した。「今日は何時までですか
最終更新日: 2024-12-15
Chapter: 父の日-02「えっと……?」保育園にお迎えに行き、先生から手渡された海斗が制作した『父の日の似顔絵』を見て、紗良は固まった。「海斗くんには父の日とは言わずに、大好きな人の絵を描こうねって言ったんですけど、皆と同じがいいって言うので……」「あー、そうなんですね……」色画用紙で枠組まれた『父の日の似顔絵』には、クレヨンで描かれた顔っぽい何か。男か女かわからないけれど、髪の毛らしきものは短いから男なのか、と思わなくもない。それはいいとして。枠には先生の字で『おとうさん、いつもありがとう』と書いてあった。「誰を描いたのか聞いたら、タキモト先生って言うので、タキモト先生ありがとうって書こうかって提案したんですけど、どうしても皆と同じ、おとうさんいつもありがとうがいいって言うので……すみません」「いえいえ、こちらこそ、気を遣っていただいて、すみません」しばらく先生と謝り合戦をしてしまった紗良だったが、何か聞き捨てならない言葉を聞いたような気がする。「海斗、これ誰を描いたの?」「たきもとせんせー」「……プールの?」「うん、プールのせんせー」「そう……」プール教室で滝本先生にやたら懐いているとは思っていた。 けれど、絵に描くほど好きだったとは。(あの先生、面倒見よさそうだもんなあ)なんてぼんやり考えていると……。「かいと、せんせーにプレゼントしたい」「は?」「たきもとせんせーに、これ、わたす」「……いや、それはちょっとどうかと思うよ」紗良は当たり障りのない言葉でサラっと流そうとするが、海斗は引き下がらない。(滝本先生が好きなのはわかった。わかったけど、あげられないでしょ。だって、おもいきり『おとうさん、いつもありがとう』って書いてあるし。さすがにもらう方もドン引きでしょ)心の葛藤が顔に出るほどに紗良の眉間にはシワが寄った。
最終更新日: 2024-12-14
Chapter: 父の日-01ある日のことだ。海斗が保育園で描いてきた絵を、得意気に披露していた。「これが、かいとで、これがさらねえちゃん、これがばあば」「すごい、上手に描けてる」「海ちゃんは絵の才能があるねぇ」お世辞にも上手とは言えないような顔っぽい何かと塗りたくった何かだが、海斗が一生懸命描いたものは何だって愛おしく感じる。「海斗、これは?」もうひとつ、顔っぽい何かが描かれていて、紗良は何の気なしに尋ねた。「これはねぇ、パパ!」元気よく言うものだから、紗良は思わず言葉に詰まった。海斗の両親が亡くなったのは海斗が二歳の時。だから両親の記憶なんてほとんどないのではないかと勝手に思っていたけれど、もしかして何か覚えているのだろうか。「あらー、海ちゃん、いいわねぇ」「いいでしょー」紗良の母は気にも止めず、キャッキャと海斗と盛り上がる。「ちょっとお母さん……」こそこそと母に耳打ちするも、逆にバシンと背中を叩かれてしまった。「紗良は気にしすぎ。海ちゃんが楽しければそれでいいのよ」「それはそうかもだけど……」「あら、それともなあに? 結婚する気になったの?」「は? そんなわけないじゃない。私には海斗がいるもの。結婚とか、ないない!」「あら、そう? でも、紗良にばかり負担をかけて申し訳ないわ」「別に、私が望んで海斗を引き取ったのよ。お母さんが気にすることないわ。それにいつもお母さんに助けられてるし」そう、結婚なんてできるわけがない。 彼氏すら作れない。でもそれは納得してのこと。 紗良が姉の代わりに海斗を立派に育てるんだって決めたのだ。 そういう決意と責任のもと、海斗を引き取った。だから紗良には結婚とか恋愛とか、まったく必要ないものなのだ。(もしも、だけど、私が誰かと結婚したならば海斗に新しい父親ができることになるけど……)ふと考えて、慌てて頭を横に振る。(いや、ないない。海斗だってそんなの望んでないもの)紗良は考えるのを放棄するように、さらに頭をブンブンと横に振った。それなのに数日後、まさか頭を抱える事態に陥るとは誰が想像しようか。
最終更新日: 2024-12-14