「実を結ぶ花の名を持つ癖に、何をしても結果は出せない」 「努力さえ結ばず、恩さえ仇で返す」 全て無駄、よって徒花。と、蔑まれる伯爵令嬢キルシュは、〝忌々しい古き信仰の名残〟とされた能力と、孤児の出自ゆえ、学院にも養家族にも冷遇された嫌われ者。 ある日、彼女は義兄の言葉に傷付き家出した。 ひとりぼっち彷徨う真夜中の森。この世の者と思えぬ奇っ怪な生き物に襲われ、そこを救ったのは、自立し思考する機械人形――まるで機械仕掛けの王子様。 彼との出会いが、孤独な少女に初恋と運命を芽吹かせる。しかし、宿命は二人を残酷な終末へと導き、絆の結実を許さない。 儚く甘い。産業革命・近世ヒストリカル風×ファンタジーロマンス。
view more本当にどうしてなのだろう。なぜ、こんなにも悲しいのか、切ないのか分からない。 嗚咽を溢して泣くキルシュに彼はしゃがんで手を伸ばす。そうして、優しく髪を撫で頬を撫でて……濁流のように溢れ落ちる涙を掬った。 「泣き虫は相変わらずなんだな。ほら行くぞ」 ──立てるか? と、優しく言って。彼はキルシュに左手を差し出した。 そこにある太陽を象る火輪の紋様はいびつに引き裂かれていて……それを見た瞬間にキルシュの瞳は余計に潤った。 ああ、間違いない。先程の幻視の中で見たものと違いない。彼はきっと〝元〟能有りだ。そして恐らく、人間だったに違いない。そう考えるのが自然だった。 「……ケルン」 キルシュが小さく呟くと、彼はどこか切なげに笑んでキルシュの手をやんわりと握る。 「俺の名前、思い出してくれたんだ」 そうだ、ケルンだ。と彼は言って、彼はキルシュを抱き寄せた。 男の人に抱き締められたのは、記憶上初めてだった。 無骨で胸板が固くて少し厚い。機械人形にしてはあまりによく、出来過ぎている。皮膚も人間の質感と何ら変わらなくて、首筋から感じる匂いが何だか、温かなお日様のようで。何だか不思議と懐かしい心地がする。「……ねぇ、どうして。私は貴方の事を何も知らないのに、どうして」 分からない事が怖い。けれど、知る事が怖くて堪らなかった。 忘れた記憶が今にも蘇りそうだ。キルシュがこめかみに手を当てた途端だった。 目を瞑って真っ暗な視界の中、ボーンボーン……と柱時計のような音が鳴り、胸の奥がたちまち凍てつくように冷たくなる。 ────怖い。嫌だ、忘れたくない。忘れたくないよ。 しゃくり上げるように嗚咽を溢し、懇願する幼い自分が浮かび上がる。目隠しをされているのだろう。視界は塞がれていて、何も見えない。 身動き一つ取れなくて、ただならぬ恐怖で身体が強ばった。 ひっ。と、キルシュが、目を瞠った瞬間に、彼は途端にキルシュを今一度抱き寄せた。 まるで、〝そちら側に行くな〟という
──霞のかかった白の視界は次第に色が付き始めた。黄昏を連想させる金と茜が交じり合う……そんな光が空間いっぱいに満ちていた。 記憶に無いが、そこはどこか見覚えのある景色で……。唖然としたキルシュは辺りをぐるりと見渡した。 なだらかな曲線を描いて広がる木目調の高い天井に、高い場所にある窓には蔓草を象ったアイアンの窓飾り。どこかの礼拝堂だろうか。『なぁキルシュ!』 途端に呼ばれた少年の声にキルシュが、振り向くと壇上のステンドグラスの前に少年と少女が立っていた。年齢は十歳に満たない程で……。 その光景を見た瞬間にキルシュの側頭部はズキリと痛んだ。 そこに立っている少女は、紛れもなく幼い頃の自分自身。茜色の髪に、若苗色の瞳。そんな小さな自分の正面で手を差し出している少年は、真夏の陽光を束ねたかのような金髪だった。 しかし不思議と彼の顔ははっきりと見えなかった。 それでも大きな特徴が見えた、左手の甲にある火輪──まさに太陽を象ったかのような能有りの紋様がある。それをはっきりと見た瞬間にキルシュの胸は痛い程に爆ぜた。喉の奥が嫌に乾いて苦しい。(何なの、これは……私は確か真夜中の森に居たはずで) どくどくと自分の脈が煩くなって、呼吸が苦しい。 身体が心が〝これ以上は見るな〟と拒絶している感覚もあるが、壇上の二人から目が逸らせない。 幼きキルシュは差し出された彼の手を取り、やんわりと微笑んでいた。 ……自然に普通に笑えている。今ではできない事に、キルシュは唖然としてしまった。『おれね、キルシュが大好きなんだ。大人になっても最高の親友でいよう。それでな、いつか……いつかは……』 顔の見えない少年は言葉を詰まらせる。そんな様子に幼いキルシュは首を傾げて彼を見上げていた。『なぁに?』『──っ! いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほし
……と、言っても近すぎるだろう。 キルシュは彼からぷいと顔を逸らす。「な、何?」 いくら顔が格好良くて、人のように感情を持ち自立し思考するように思えても、人ではない。何を考えいるのか分からなかった。キルシュは、彼を一瞥した途端だった。すぐに頤を摘ままれて、無理矢理彼の方を向かされる。「……!」 頭から湯気でも上がってしまいそうだった。キルシュは真っ赤になって彼から目を逸らす。 堪らぬ羞恥は、具象の花を手のひらから次々に芽吹かせる。薄紅の蕾が膨らみぱっと小さな小花を次々に咲く様はまさに感情現れ。いたたまれない羞恥にキルシュは追い込まれる。「俺は一つ、おまえに頼み事をしなきゃいけない」 ややあって言った彼の声は少し震えていた。 おっかなびっくりとキルシュが彼を見ると、光る目のせいでうっすら分かる彼の顔が紅潮しているのが分かった。「頼み事?」 訝しげにキルシュは見る。彼は頷いた。「俺に少しヘルツを……おまえの〝心〟をくれないか?」「心?」 キルシュは眉をひそめて復唱した。 ──ヘルツとは、宗教学的に〝心そのもの〟を示す言葉だ。『心が欲しい』それがいったい、何を示すのだろうか……キルシュは困惑し何度も目をしばたたく。「〝心〟は力を発動させる為の原動力だ。さっきおまえを助けた時に、殆ど使い果たした。あと数時間しないと、俺の〝心〟は回復しない。このままだと俺たちは安全な場所に逃げ切れないと思う」 ──おまえを守らなきゃいけない、だから頼みたいんだ。と付け添えて。彼は、キルシュを上に向かせた。 確かこんなシーンは、夜に部屋で一人密やかに楽しむ娯楽、恋愛小説で見た事がある。 男性に頤を摘まみ上げられて、上を向かされて……そう。作中のヒロインたちと、全く同じ状態に置かれている。ああ、きっと、そうに違いない。 これから、されるであろう事
やがて視界いっぱいを覆い尽くした閃光が消え、露わとなった正体にキルシュは目を瞠った。 ──それは、齢二十に届くか届かないかという風貌の青年だった。 柔らかに逆毛の立つ短い髪。その髪色は暗闇の中でも淡い色をしている事が分かる。装いは暗色を基調としたジレにシャツ、下衣に革製のブーツを合わせていて、洗練された雰囲気のあるものを召している。 上背もあり、ぱっと見た雰囲気は、鋭い目付きが印象的。とても、精悍な顔立ちの青年だった。 しかし、射貫かれた瞳は人間のものではない。 その瞳は暗闇の中、煌々とした光を放っているのだ。それはまるで、真昼の陽光を絞り集めたかのよな眩い金色で……。そんな瞳の奥底に真鍮色のギアのようなものがゆっくりと回っているのが見える。 更によく見れば、彼の首や手首の関節部位には不自然な継ぎ目があって……。 ふと連想するのは、機械科学の産物── 「機械人形(オートマトン)……?」 キルシュは呟くと、彼は何も答えずに視線を反らした。「走るぞ」 ぶっきらぼうに彼は言う。そして、彼はキルシュの手首を掴む獣道を駆け出した。 その一拍後、禍々しい咆哮を上げて異形の生き物は二人を追い始める。「**あああああ! 許さない、許さない、憎い……憎い!**」 のろのろとまどろっこしい、呪詛のような言葉が後方から響き渡った。 しかし彼の足は速すぎた。とてもでは追いつけず、さっそく足がもつれて転びそうになった瞬間だった。「仕方ないな」 痛い程に手首を引っ張られて、腰を掴まれた。そうして抱え上げられるなり、彼の肩に担がれる。 「──!」 とっさの事に驚いてしまった。 落ちないようにと片腕でがっちりと腰に腕を回……思いきり、おしりを触られているが、もはやそれどころではない。 背後からこの世の生き物とは思えない恐ろしい奇声が聞こえてくる。 ふとキルシュが身体を少し起こして後ろを見ると、やはりあの恐ろしい生き物が涎を垂らして追ってきていた。「ね
新月の夜という事もあって、森の中はひたすらに暗かった。 しかし、カンテラなどの明かりをもっていたら、〝見えてはいけないもの〟が見えそうで、逆にこの真っ暗な方がかえって怖くない気がした。 森に入って一時間近く。キルシュは獣道を歩んで森の奥へと進んでいた。 時折、木の枝に引っかかったりもするが、問題なく歩けている。 こうも暗くとも暗順応が働き、目が慣れるものだった。それに針葉樹の隙間から見える星空を見る限り、星たちは西の方向へ動いている。 あと数時間で空が白み、夜明けを迎えるだろう。 それを理解すると、なぜだがホッとしてしまい、キルシュはその場にしゃがみ込んだ。「さすがに疲れたわ……」 家を出てから、ほぼ立ちっぱなしの歩きっぱなしでだった。 もう足が棒のようだ。膝も笑って力が入らなくなってきた。大都会で寮暮らしをするお嬢様にしては根性を出しただろう。ほんの少し自画自賛して、キルシュはその場に腰掛けた。 だが、そこで座ってしまった事が間違いだっただろう。 疲労から来る眠気は容赦無く襲いかかり、瞼が重たくなってきたのだ。 そもそも普段の生活では、日付が変わる前には確実に寝ているのだ。今の詳しい時間は分からないが、恐らく午前二時を過ぎたのではないだろうか。キルシュは瞼を擦って欠伸をひとつ。(せめて陽が昇るまでは起きていよう……) だが、もう一度立つ気力が湧かない。それに瞼は段々と持ち上がらなくなってしまった。国内屈指の心霊スポットだ。こんな場所で眠れるなんて自分の神経が意外にも図太いなんて自分でも心のどこかで感心してしまうが、体力的にもう限界だった。 (少しだけ、ほんの少しだけ……休もう) すぐに起きるんだと自分に言い聞かせて。キルシュは、背を木の幹に背を預け眠りに落ちた。 それからどれ程の時間が経過しただろうか。 心地良い眠りを彷徨っていたキルシュは、どこか聞き覚えのある子どもの声に突如として叩き起こされた。『おい、キルシュ起きろ!
無計画に歩む事、幾許か。 真っ暗闇に静まり帰った真夜中の街を横切り、林檎畑の続く農園地帯を横切り、領地の南端の方までやってきた。 そもそも伯爵家のある場所が領地の南寄り。実際には大した距離ではない。 ……無計画とはいえ、家出は成功させたい。 やはり兄の言った言葉は到底許せぬもので、キルシュ自身むきになっていた。だからこそ、せめてこれくらいは成し遂げたいなんて思えてしまった。 とはいえ、二度と帰らないという程の心構えではなかった。 いつか帰って来て、立派になって見返してやりたい。と、ふんわりとその程度に思うだけ。 それでも屋敷を出るのに成功したのだ。何だか、今なら何でもできる気がして仕方ない。 (あのお兄様に〝ぎゃふん〟と言わせてあげたい。そうできたら最高) この家出を本当の意味で成功させるには、絶対に見つからないように、探し出せぬように。これが必須だ。そこで考えたのは、国外逃亡だった。 今、キルシュの目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。この森はシュメルツ・ヴァアルト……ツァール帝国と隣接するオルニエール王国の境となる森だった。 ……そう。レルヒェ地方でもヴィーゼ領は国境沿いの街だった。 だが、この深い森──シュメルツ・ヴァルトが理由してここには関所が無い。オルニエール王国との行き来するには、二つ以上離れた領地の川の関所を通らねばならない。 まさに抜け道と言えば抜け道だが……誰もこんな場所を通って他国に逃亡しようなんて考えもしないだろうと思えた。 だが、この選択は不思議と〝意図して〟というより自然と浮かんだものだった。 むしろ、勝手にこの方向に足が進み、直感的に悟っただけで……。(オリニエール語は一応話せるけど……ツァール語が普通に通じる地域が多いって聞いたわ。あちらで何かしら、仕事を見つけてどうにか生計を立てていけば暮らしていけるはず) きっと大丈夫だ。と、根拠も無い自信を心を弾ませて、キルシュは暗闇に広がる森を見る。 しかし、足は震えて一歩がなかなか踏み出せなかった。 この
頭上に広がる紺碧の夜空に沢山の星々の瞬きが鮮明だった。今日は月が無い、新月だったようだ。 初秋の夜風は少しだけ冷たさを含んでいるが、まだ震える程の寒さでは無い。 キルシュは着の身着のまま、女学院の夏制服を纏ったキルシュは一人……否、一羽の鳩を連れて伯爵家へと続く穏やかな坂道を下りながら、ぼんやりと空を眺めて歩んでいた。 その表情は、どこかせいせいとしており、先程までの暗さが無かった。 「勢いだけで、本当に屋敷から出てきちゃった……」 キルシュは歩みつつも後ろを振り返る。後方には明かりが消えた屋敷の輪郭だけが闇にぼんやりと浮かんでいた。 ──何のために生きるんだ? おまえは、自分の存在意義をどうしたいの? 突如として現れた〝喋る鳩〟に訊かれた事に、キルシュは今も尚、答えも出せずにいた。 だが、考えるよりも身体が動くのは早かった。『分かった。出て行く。後で考える』と、鳩にそう言って、最低限の荷物を肩掛けの鞄に詰めた。そうして…… 探さないでください、兄様さようなら。 出来損ないの妹より そう、書き殴って家出した。 しかし、玄関から出れば間違いなく、使用人にバレてしまう。そこで、すぐに浮かんだ脱出方法は窓からだった。 自室の窓を空けて、能有りの力を使った。植物の蔦を生やし、近くの木に結びつけて飛び移り……そうして、あとは蔦を伝って木を降りた。 そうして思いの他、簡単に脱出に成功してしまったのだ。 ほんの少しだけ運動神経が良かった事も幸いしただろう。しかし。まさかこんな事に自分の力が役立つとは思わず、キルシュ自身も驚いてしまった。 「私の力って、夜逃げや家出に向いてたのね……なんか結構便利かも」 普段遣うなと制限しているものだ。それなのに、こうも簡単に思い通りに扱えてしまうとは。そして、家出を成功させてしまうとは。 ちょっとし
部屋に引きこもったまま数時間。キルシュはベッドに移って突っ伏していた。 使用人が夕食を運んでくれたが、返事をする事はおろか起き上がる気にもなれず、食事が乗せられたワゴンは廊下に置かれたままだった。(言ってしまったからにはもう巻き戻せない……) キルシュは寝返りを打ち、仰向けになる。 そうして薄く目を開けて、ぼんやりと天蓋の裏を眺めた。 時刻は既に十二時を回っただろう。使用人の足音や会話さえ聞こえず、屋敷中シン……とした静謐に包まれている。 明かりもつけずに何時間も真っ暗闇の中にいたので、暗順応で部屋の輪郭ははっきりと見えた。何も考えないでいた方が良い。気が滅入って、心が壊れてしまいそうだ。だから、こうしてぼんやりして寝落ちしようしているのに、頭も心も散らかり、どうにも義兄の顔が不機嫌な顔が浮かぶ。 そして続け様に、学院長、性格が悪いクラスメイトたちの顔まで……。 耳の中にこびりついた自分を蔑む言葉の数々に、キルシュは手で目を覆って唇を拉げた。(こんな力いらないよ……欲しくなかった) 再び嗚咽を溢すと、キルシュの手のひらから蔓が伸び、白い小花が次々に綻び、散った。 好きで、能有りで生まれたわけではない。できる事なら、そんなものは持たないで生まれたかった。 かといって、自分を不幸とは思わないし、恵まれすぎている待遇だとは思っている。 ……この屋敷に来た時、義父から部屋を与えられた。『今日からここがキルシュのお家だ』 そう言って、ドレスや装飾品を沢山与えられて、街に出掛けた時には可愛らしいお人形も買ってもらった。欲しいものは何でも与えてもらえて、美味しいものや甘いものも食べさせてもらって、記憶喪失とはいえ幸せな幼少期を過ごさせてもらった。 それに家庭教師を付けてもらえたし、十四歳でパトリオーヌ女学院に入学し、充分すぎる程の教育も受けさせてもらった。 どう考えても、ごく一般的な十七歳より
「……でも」 ようやく出た言葉はたった一言。イグナーツは更に眉根に寄せた。「言い訳か? 恥さらしが。おまえは何のために生きている? 誰に拾われて生かされたんだ」 続けて言われた言葉に、キルシュは一瞬目を瞠るが、すぐに俯いた。 きっと分かってくれない。聞いてくれる訳がない。たったこの一言で悟る事ができたからだ。 〝誰に拾われて生かされた〟これを言われてしまえば、もうおしまいだ。 自分には、何も言う権利も持ち上がらせていないという事だ。 悔しくてやるせなくて堪らない。どうしてこうも……何も言わせないようにするのだ。 たちまちキルシュの若苗色の瞳には分厚い水膜が張り、それはみるみるうちに水流となって頬を滑り落ちる。「ごめんなさい」 俯けば、ポタポタと熱い雫が落ちてきた。義理とは言え兄だと思い、大切に思ってきた。 昔は優しかった。怖い夢を見て夜中に起きてしまい眠れなくなった夜、一緒に寝てくれた事もあったし、転んで泣いてしまったら、抱き締めて慰めてくれた事もあった。 『……大丈夫だ、キルシュ。俺がいる』 同じベッドの中、名前で呼んでくれた。抱き締めて背を撫でてくれた。涼やかな双眸を細めて、穏やかに笑んでくれた。 けれど、そんな優しい兄はもういないのだ。 キルシュは溢れ落ちる涙を拭い、肩で呼吸する。嗚咽が絡んで苦しい。 心がひどくヒリヒリとした。しかし、気を緩められない。気を緩めて、感情に飲み込まれてしまえば、具象の花が芽吹いてしまう。 そうしたら、もっとひどい叱責をされるのは分かっていた。 これ以上叱られるのだって癪だった。 なるべく思考に感情に飲み込まれぬよう、呼吸を整えていれば、ふと一つの疑念が過った。 ……兄が変わったのは、婚約の破綻のあったあの日。 具象の花をあげた事は、空気が読めない自分が悪かったと思うが、ここ
大聖堂に響き渡る鐘の音は、まるで終りの時を知らせるように寂しい音を響かせていた。 誰も居ない筈の場所で、いったい誰が鳴らしているかは分からない。 それはまるで、計り知れぬ悲壮に慟哭しているかのように聞こえてしまった。 眼下に望む見慣れた錆色の町並みは、まさに終末と呼んで良い程……。 横殴りの雪が降りしきる中で赤々とした炎の群れが至るところで上がり、崩れた落ちた建物から黒煙が上がっていた。 そんな終末の大聖堂──頂点へと続く途方もなく長い石造りの階段を茜髪の少女はひたすらに駆け上っていた。その合間も砲弾が撃ち込まれる鈍い音と、尋常ではない振動が襲い来る。 来た道を振り向けば、石造りの階段はバラバラと崩れ落ち、ぽっかりとした虚ろができていた。 もう引き返せない。そう思いつつも、彼女は前を向き再び階段を駆け上る。 窓の外に見える、屋根の上に佇むものは教会の雨樋〝ガーゴイル〟を彷彿させる姿の怪鳥だった。 しかしそれは、鉄錆びた色合いの機械仕掛け。極めて人工的な姿をしていた。 ……彼女自身も認めたくない事実ではあるが、これが彼女の愛した青年の成れの果てだった。 ──ケルン。 少女は身を焦がす程に恋した青年の名を呟き、溢れ落ちた涙を拭って再び階段を駆け上る。 実を結ぶ花の名を持つ癖に、何をしても結果を出せず、努力さえ実を結ばず恩さえ仇で返す。よって〝徒花〟と、不名誉にも呼ばれた日々の事。彼と過ごした半年ばかりの短くも幸せ過ぎた日々の事。そして、忘却の彼方にあった断片的な記憶の数々。 茜髪の少女、キルシュ・ヴィーゼは一つ一つを思い返した。...
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