彼女は舅姑に仕え、自らの持参金で将軍家を支えてきた。しかし、夫は戦功を立てたことを理由に、女将軍を正妻として迎えようとした。北條守は嘲るように言った。「上原さくら、分かっているのか。お前の着飾った姿も贅沢な暮らしも、俺と琴音が命懸けで戦って得たものだってことを。お前は永遠に琴音のような凛々しい女将軍にはなれない。お前に分かるのは、ただの女の駆け引きと、奥様方との陰湿なやりとりだけだ」と。さくらは背を向けて立ち去り、馬に乗って戦場へ向かった。彼女もまた武家の血筋。北條守のために家事に専念していたからといって、槍を握れないわけではなかった。
View More時として、女性から女性への悪意は最も残酷なものとなる。相良家は名門清流であったが、若い玉葉が自分たちの教師を務めることに、少なからず反発があったのだ。もしこれだけの問題なら、さくらにも対処の方法はあった。しかし、この小さな集団の背後に、雅君女学を潰そうとする何者かがいるのではないかという懸念が拭えなかった。今のところ、斎藤家の娘が中心となっているように見えるが、誰かの指示を受けているという形跡は見当たらない。さくらは眉を寄せた。斎藤家なら、これほどの弱みを握られているというのに、まさか女学校に手を出してくるとは。まずは玉葉の心情を慮り、励ましに向かわねばと、さくらは立ち上がった。相良玉葉は自室で課題の添削に没頭していた。几帳の前に置かれた生徒たちの習字の課題を一枚ずつめくりながら、眉間に深い皺を刻んでいる。その集中ぶりに、さくらの足音も耳に届かないほどだった。「相良先生」さくらの声に我に返り、顔を上げた玉葉の瞳には、一瞬の苛立ちが宿っていた。慌てて立ち上がり、会釈をする間にも、唇の端に微笑みを作り上げる。「塾長様、いつお入りになられたのでしょう。失礼いたしました」さくらは玉葉の手を取り、同じように軽く頭を下げた。「どうぞお座りください」二人が座ると、さくらは玉葉の前に広げられた課題に目を向けた。入室時の玉葉の表情を思い出し、尋ねる。「生徒たちの課題に問題でも?」玉葉は最初の数枚を取り出してさくらに差し出した。「ご覧になってください」「千字文を書き写させて、書の練習をさせようと思ったのですが」玉葉は溜め息まじりに説明を続けた。「この数名、故事を書き連ねて……文字も判読できないほど乱雑です。明らかな反抗ですわ」さくらが数枚めくると、そこには同じ故事が繰り返し書かれていた。前王朝の時代、多田羅玉葉という女性が、婚約者の家が没落すると婚約を破棄した。しかし三年後、その男は科挙最上位に及第し、宰相の娘を娶った。嫉妬に狂った多田羅玉葉は、首飾り店で新婦と出くわすと、簪で刺し殺し、自身も処刑台の露と消えたという。これは明らかに、相良玉葉への当てつけだった。生徒たちは「玉葉」の名前と、縁談にまつわる話を重ね合わせ、陰湿な嫌がらせを仕掛けているのだ。それどころか、さらに辛辣な言葉が続いていた。貧しきを嫌い富を求める浅ましい女、醜悪な
紫乃は沢村氏に対する我慢が限界に達していた。手にした鞭を振り上げると、沢村氏は悲鳴を上げながら、まるで鼠のように這うようにして逃げ去った。燕良親王の出立を前に、さくらは油断なく警戒を続けていた。親王の下心を知っているだけに、紅羽に命じて親王邸を見張らせ、紫乃が約束を破ってこっそり訪れることがないか確認させた。数日の監視の結果、紫乃は変わらず伊織屋に通うばかりで、親王邸には近づく様子もない。さくらはようやく胸を撫で下ろした。伊織屋も女学校も、徐々に世間に受け入れられつつあった。しかし、女学校の方は頭の痛い問題が山積みだった。縁故を求めて入学してくる者が後を絶たない。学問への意欲もなく、菓子や刺繍、贈り物を持参しては、名家の娘たちに取り入ろうとする。一方、高門の娘たちは下級官僚の娘たちを見下すような態度を取り、次第に派閥が形成されていった。本当に学びたい者たちは、かえって肩身の狭い思いをしている。また、土井国太夫人から礼儀作法を学びたい者、将来の良妻としての家政術を身につけたい者もいる。結婚後は家を切り盛りしなければならないのだから。開学当初とは様変わりしていた。あの頃は深水青葉の名声に惹かれて入学する者が多く、中には密かに墨宝を求めようとする者までいた。一幅の絵が手に入れば、退学したとしても本望だと考えていたのだ。塾長として、さくらはこれらの問題への対処を求められ続けていた。百名の女学生が起こす騒動は、まさに目が回るほどだった。高貴な家柄の娘たちなのに、なぜこうも揉め事を起こすのか。お屋敷での躾は、学院に来た途端に忘れてしまったとでも?さくらは即座に叱責するのではなく、まず騒ぎの中心人物を突き止めることにした。調査の結果、主だった問題児が浮かび上がってきた。その一人は、斎藤皇后の従妹、斎藤礼子。十五歳で元服したばかりの娘で、父は斎藤式部卿の実弟で宮内卿を務めている。もう一人は、前京都駐屯軍総兵官であった赤野間将軍の孫娘、赤野間羽菜。赤野間将軍は退任後、持病が再発し、郊外の別荘で療養生活を送っているという。そして三人目が、広陵侯爵家の末娘、向井玉穂だ。広陵侯爵家は都きっての名門で、太祖と共に天下を統一した功績により定国公爵に封じられた家柄である。三代で侯爵に降格し、現在の広陵侯爵で三代目となる。広陵
紫乃は少し考え込んだ。確かに父の元を離れたままで心苦しい。せめて手紙を書いて藩札を送ってもらおう。父の金を使うのも親孝行の一つだろう。「少々お待ちください。手紙を書いてまいります」「お急ぎにならずとも」燕良親王は笑みを浮かべた。「明日書いていただいても結構です。出立まで数日ございますから。義妹上、しばしお姉様とゆっくりとお話でもなさってはいかがです?」さくらの瞳に冷たい光が走った。まだ諦めていないようね。紫乃は首を傾げ、悪戯っぽい笑みを浮かべた。「はい、そうさせていただきます」さくらは紫乃を横目で睨んだ。この腕白娘、一体何を企んでいるのやら。紫乃はさくらの視線を巧みに避けた。目が合わなければ、警告など受け取っていないことにできる。玄武は燕良親王の目が紫乃の顔に釘付けになっているのを見て、胸が悪くなった。どうやら懲りていないらしい。まだ紫乃を通じて沢村家を籠絡しようというつもりか。それに……親王自身の私欲も見え見えだ。まったく下衆な男だ。玄武は心底から親王を軽蔑していた。当然、食事にも誘わなかった。せっかくの休暇を、一日中この連中の相手をするなど、ご免こうむりたい。「叔父上、燕良州へはいつ頃お戻りになられます?」玄武が尋ねた。「三日後に出立いたします。既に陛下のお許しも頂戴しております」親王の声には安堵の色が滲んでいた。これまで都を離れることすら憚られ、清和天皇の許可も危ぶまれたが、意外にもすんなりと認められたのだ。「では、その折は公務がございまして」玄武は微笑んだ。「お見送りは叶いませぬが、どうかご無事で」「お気遣いなく。玄武も機会がございましたら、燕良州へお越しください」「必ずや参上いたします」玄武は躊躇なく答えた。うんざりする一家を見送ると、さくらは紫乃の長い髪を引っ張りながら、脇の間に連れ込んだ。「随分と思うところがあるようね」さくらは腕を組み、紫乃を見据えた。紫乃はにやりと笑った。「何も考えてないわよ。だってこれ、あなたの許可がいるでしょ? あなたがダメって言えば、行けないじゃん」「ダメよ」さくらは真剣な面持ちで諭した。「棒太郎があれほど調査しても、死士の潜伏先すら掴めていないのよ。燕良親王の屋敷には腕の立つ者が大勢いて、侍女や小姓に化けている。一人で行けば、罠にはまるわ」「行かないわよ
翌日、御城番と禁衛府の耳に驚くべき事件が届いた。何者かが礼部の萬谷治部録の邸に忍び込み、重傷を負わせたという。治部録は吐血し、一時は命が危ぶまれたほどだった。医者の診立てでは、たとえ一命を取り留めても、よだれを垂らしたまま寝たきりになり、排泄も寝台の上という終わりの無い地獄が待っているという。御城番と禁衛府は必死で犯人の捜索に乗り出した。都の中心部で、朝廷の役人をここまで無謀に襲撃するとは、前代未聞の狂気の沙汰だった。さくらの調査により、目撃証言が得られた。どうやら、ある武芸者が都に現れ、萬谷が妹を死に追いやったことを知り、怒りのあまり襲撃に及んだとのことだった。さらなる調査で、萬谷辛子の噂話は全て根も葉もない作り話だと判明した。辛子の操は守られていたにもかかわらず、萬谷は根拠のない噂を信じ込み、娘を勘当。父親の不信感と噂による心の傷に耐えかねた娘は入水自殺を図り、今はもう亡く、工房が葬儀を執り行ったという。この結果が明らかになると、民衆は萬谷貴志を痛烈に非難し、正義の武芸者を称賛した。多くの人々が自発的に辛子の墓前に線香を手向け、来世では良い家に生まれ変わってほしいと祈った。だが、それは辛子の偽塚に過ぎなかった。自害を図ろうとした時に着ていた着物と共に、石鎖さんと篭さんが作った象徴的な墓。十八年の人生を葬った墓標だった。紫乃は彼女に新しい名前を授けた。錦重と。その名には、これからの人生が錦の如く華やかであれと願いが込められていた。馬車の中で、錦重はさくらと紫乃に寄り添いながら、自分の塚に集まる人々を見つめていた。線香の煙が立ち昇り、見知らぬ人々の祈りの言葉が響く中、彼女の頬を涙が伝っていく。「こんなに……私のことを想ってくれる人がいるなんて」紫乃の肩に顔を埋めながら、錦重は震える声で続けた。「もう死のうなどとは思いません。お二人が命がけで守ってくださったこと、皆様の優しいお心遣い、これほどの恩を無にするわけにはまいりません。王妃様、沢村お嬢様、私、きっと強く生きていきます」紫乃は目頭が熱くなるのを感じた。さくらとは違い、自分はいつも衝動的に行動してきた。伊織屋だって、さくらが必要だと言ったから始めただけ。けれど今、錦重が新しい人生を歩み始めようとする姿を見て、紫乃は胸が熱くなった。自分のやってきたことには、確かな意味があ
斎藤夫人は終始、中庭の外で立っていた。さくらが出てくるのを見るや、深々と礼を取って見送る。外で全てを聞いていたのだ。「あの娘は……今はどうしております?」屋敷の門まで見送りながら、夫人は静かに尋ねた。「工房でお預かりしていますが……まだ自害をほのめかしております」さくらは小さく溜め息をついた。「なんという罪作り……」夫人は暫し黙したのち、門前で言葉を継いだ。「王妃様、あの娘に何かできることがございましたら、どうかお申し付けください」さくらは頷いた。「ありがとうございます」夫人は深々と一礼し、さくらが馬に乗って去っていくのを見送った。しばらく門前に佇んでいたが、やがて松平勝とその妻が駆け寄ってきて、跪いて医者を呼んでほしいと懇願した。夫人は目を伏せ、「旦那様にお願いなさい。私にはどうすることもできません」と告げた。「お慈悲を!」松平勝の妻は夫人の裾にすがりつき、涙ながらに訴えた。「この子一人っ子でございます。どうか跡絶えさせないで……」斎藤夫人の目に怒りの色が宿った。「自業自得でしょう。誰を恨むというのです」そう言い放つと、裾を振り払い、背を向けて立ち去った。松平の妻の嘆き悲しむ声が、夕暮れの庭に響き渡る。「奥様、大丈夫でございますか」屋敷へ戻る途中、めまいを覚えた夫人を同楽が支える。「本当にこのままで?古くからの使用人が離反しては……」同楽には不思議だった。これまで夫人は家政を預かる者として、使用人たちに慈悲深く接してきた。それは夫人の優しさゆえでもあり、また代々の使用人たちが離れていって斎藤家の評判を貶めることを恐れてのことでもあった。普段なら、罰を与えた後には必ず慈悲も示したものを。今回ばかりは違う。松平一家は長年この屋敷に仕え、様々な内情を知っている。もし反感を抱けば、どんな厄介ごとを引き起こすか分からない。夫人は眉を寄せながらも、首を振った。「手出しはできませぬ。あの娘に、何と申し開きをすれば良いというの?」「でも、あの娘は父親に売られたのです。そもそも旦那様の側室にと差し出されたもの。旦那様が断られた後も、どこかの旦那の寝台に上がることになっていたはず。所詮は……」「黙りなさい!」夫人は怒りに声を震わせた。「萬谷家がどうしようと、それは私たちの知ったことではありません。ただ、松平三郎があの娘を
さくらは身を乗り出し、詰問するような口調で言った。「斎藤様は、果たしてその弾劾に耐えられますかしら?」式部卿の顔色が一瞬にして変わった。今の彼には目立つことなど望みもない。むしろ、各方面からの視線を避けたいところだった。東江のもとで育てている隠し子のことを考えれば、なおさらである。その上、皇位継承がまだ定まらぬ今、外戚が醜聞を起こして面目を失うことは、大皇子にとっても不利となる。つまるところ、松平三郎などただの下僕、自分が取り立てて護衛にしてやったに過ぎない。諸々を天秤にかけ、式部卿の決断は固まった。その目に宿った殺意に、松平三郎は全身を震わせ、必死に頭を下げて命乞いを続けた。「この不届き者め!まだ命乞いか?罪なき娘を汚しておって、死んでも足りんぞ!」「だ、旦那様……」松平三郎は涙ながらに叫んだ。「あの娘に罪がないとでも?萬谷家はもともと旦那様に献上するつもりで差し向けたのです。旦那様がお気に召さなかっただけで……私めが過ちを犯したのは確かですが、あの娘だって……媚薬を飲んでいて……私めは助けただけで……どう考えても、死罪には……」式部卿は萬谷治部録への憎しみを募らせた。すでに娘を側室にすることは断っていたというのに、まさかこのような手段まで……さくらを見据えながら、覚悟を決めた様子で言った。「王妃様、このものの命をお望みとあらば、この場で討ち取らせましょう」「彼は斎藤家の者。その罪をどう定められるかは、斎藤様次第でございます」さくらは無表情のまま告げた。式部卿は唇を噛んだ。心中では激しい怒りが渦巻いていた。なんと狡猾な女だ。松平三郎の命が欲しいくせに、自らの口からは言わぬ。この一件が後々どのような形で蒸し返されようと、彼女自身には一切の非難の矢が向かぬよう、実に巧妙に立ち回っている。まさに油断のならぬ女だ。北冥親王家を鉄壁の要塞のように守り通している。「引き下げよ!杖刑に処せ!」式部卿は歯を食いしばり、青ざめた顔で命じた。「お、お許しを!」松平三郎は瞳を震わせ、主の命令を信じられない様子で、まるで餅つきのように激しく頭を地面に打ちつけた。式部卿が顔を背けるのを見るや、這いずり寄るようにさくらの方へ向き直り、怒声を上げた。「大和国の律法でさえ死罪には当たりませぬぞ!なんと残酷な女!」さくらの瞳に冷気が凍
結局のところ、事件の糸は斎藤家へと辿り着いた。密かにさくらから事の経緯を聞かされた斎藤式部卿は、全身を震わせながら怒りに震えていた。かつて側室との間に娘を儲けたという過ちを犯した自分にとって、それは消し去れない汚点だった。今回の件が世間に漏れれば、たとえ無実であろうとも、人々は必ずや自分が同じ轍を踏んだと思い込むに違いない。自分の面目は丸つぶれになってしまう。激怒した式部卿の命により、問題の護衛も引き立てられてきた。松平三郎という名のその護衛は、斎藤家で生まれ育った下僕の息子だった。武芸を習得した後、屋敷の護衛として仕えることになり、母親が邸内の女中であった縁で、萬谷家が門番に式部卿の温泉の予定を問い合わせていたことを知った。そして、式部卿夫婦が寺院参りに出かけ、温泉には行かないと分かると、その隙に付け込んだのだ。辛子を辱めたのは、紛れもなくこの男だった。式部卿は一瞬、この男を殺してしまいたい衝動に駆られた。特に、今や目の前に座っているのは上原さくらだ。かつて側室の存在を暴き、その娘を正妻の手に委ねたのもこの女性だった。天子の義父である自分は二位の式部卿として、数多の官僚の昇進を左右する立場にある。しかし、彼は上原さくらを恐れていた。彼女の前では、顔を上げることすらできない。男の過ちは数あれど、人殺しや放火でさえ、このような過ちほど顔向けできないものはない。さくらは式部卿の目の前で、松平三郎を地面に蹴り倒した。その一撃の威力たるや、式部卿の目には、まるで命を奪いかねないほどに映った。松平三郎の口から鮮血が迸った。腹部を押さえながら地面に倒れ込み、体を丸めたまま、口を大きく開けても苦痛の唸り声すら出せない。式部卿は手巾で額の汗を拭った。鼻先にまで細かな汗が浮かび、何と口を開いていいのかさえ分からない様子だった。「斎藤様のお考えはいかがでしょうか。けじめはつけねばなりませんが」さくらが向かい合って座ったまま、静かに問いかけた。式部卿は顔を拭いながら、幾度か心中で思案し、ため息をつくと、「松平の罪は明白じゃ。だが、萬谷にも非がある。娘を利用して出世を図ろうとしたのだからな」「萬谷治部録の件は、然るべき者が対処いたします。私がお伺いしているのは、松平三郎への処置についてです」式部卿は松平三郎を見つめた。殺し
さくらは自ら金鳳屋の若旦那を訪ねた。商売人として知られる若旦那は、その聡明さと純粋さを兼ね備えた人物だった。決して細かい損得に拘泥する男ではないが、商売には全力を注ぐ。しかし、その胸には報国の志も秘めていた。学問も武芸も身につかなかった彼は、戦時には惜しみなく献金することで国に貢献してきた。彼はさくらを深く敬慕し、親交を結びたいと願っていた。だが、商人という身分ゆえ、なかなか謁見の機会もなく、まして邸を訪ねることなど叶わなかった。今日、さくら自らが訪れたことに、彼は心を躍らせながら懇ろに応対した。玉山温泉での出来事については、おぼろげながら知るところがあった。しかし、余りに多くの官僚の秘密が絡んでおり、独自の調査は差し控えていた。ただ、ある娘が酷い目に遭ったことだけは把握していた。さくらが調査の意向を示すと、若旦那は即座に協力を約束した。胸を叩きながら、「お任せください!良い知らせをお待ちください」と力強く請け合った。半日も経たないうちに、若旦那は禁衛府に助力を求めた。ある貴人が先日、玉山温泉で家伝の佩玉を紛失したという。御城番による捜索を願い出たのだ。通常、紛失物の届け出は形式的な対応に終わることが多い。しかし、この佩玉の持ち主は並の人物ではなかった。その正体は明かされなかったものの、既に致仕した高官だと噂された。些細な事件に見えたため、人々の注目も集めなかった。だが、被害者からの要請という形を取ることで、御城番の調査は正当な理由を得たのだった。玉山温泉は決して安価ではなく、仲居も常駐していた。そのため、辛子が被害に遭った日の出入りを調べるのは、さほど困難ではなかった。翡翠の湯は確かに斎藤式部卿の予約があったが、その日、夫婦は寺院で過ごしており、玉山温泉には足を運んでいない。沙弥がその証人となれた。さくらは村松碧を伴い、まず玉山温泉の周辺を詳しく調べ上げた。温泉は寺院の東角から三里ほどの場所にあり、大きな門楼を構え、周囲を塀で囲まれていた。出入りできるのは正門だけだ。繁盛していた玉山温泉は、ほとんどの場合、事前の予約が必要だった。予約なしでは、空いている湯船を見つけることは難しい。そこでさくらは支配人から当日の客の名簿を取り寄せ、一つ一つ精査していった。一方、村松は仲居たちから聞き取りを行い、不審な人物が
「じゃあ、どうすればいいの?」紫乃の声は氷のように冷たかった。「このまま、あの父親の野望の犠牲にさせておくの?出世のために娘たちを物のように差し出して……ああ、それに、どうしても分からないのよ。なぜ辛子に死ねなんて……あの卑劣な考えからすれば、まだ……ううっ、言葉にするのも吐き気がするわ」玄武は箸を取り上げ、二口ほど食べかけたが、すぐに置いた。もはや食欲など湧くはずもない。「犯人が誰か分からず、噂まで広まってしまった。禍根を断ちたかったのだろう。辛子を死なせ、娘の存在自体を否定すれば、後々の脅しもない。恐らく、家系図からも名を消したはずだ」「本当に、何も出来ないの?」紫乃の目が怒りで燃えていた。「あの父親を好き勝手にさせておくの?こんな汚れた官界を、陛下も穂村宰相も見過ごすの?」玄武はさくらの方をちらりと見た。「刑部で調査することは可能だ。だが、辛子を巻き込まないとなると……治部録程度の微官を追及するなら、別の角度からになる。横領を問うほどの地位でもなく、職務怠慢を問うほどの重要な仕事もない。となると、私生活か人格の問題しかない。が、表向きの評判はいい。自分の名声作りには長けている。最大の悪行は……娘や妹を踏み台にしたことだけだ」「そうね、方法は二つってことね」紫乃は指を折って数えた。「一つは辛子を巻き込むこと。でも、それは私にはできない。もう一つは、罪を積み上げていくこと」さくらは指の関節を鳴らしながら、紫乃を見上げた。「三つ目の方法もあるわ。一生寝たきりにして、官位も取れず、息も絶え絶えのまま、妻や娘の顔色を窺って生きていくしかないように」紫乃は目を輝かせたが、すぐに玄武の方をちらりと見て、声を潜めた。「こういう話は内々にしましょ。親王様は刑部のお方なんだから、こんな話、お耳に入れちゃいけないわ」玄武はようやく箸を取り直し、悠然と食事を始めた。「私は何も聞いていないぞ。さあ食べろ。どんな大事があろうと、己の腹を粗末にしてはならん」「そうね!」紫乃は顔を綻ばせた。「しっかり食べましょ」さくらは茶碗を手に取り、二口ほど食べたが、また箸を止めた。「辛子を辱めた男も探し出さないと。禁衛府で調べるわ」「さくら、あの畜生は私に任せて」紫乃は冷たく言い放った。「あなたはその男を探して」「その温泉は金鳳屋の若旦那の所有物だ」玄武が口を
文月館の廊下に据えられた風灯が、障子紙の切り絵に照らされ、その影が大きな獣のように室内の壁に映し出されていた。上原さくらは唐木の丸椅子に腰かけ、両手を膝の上で組んでいた。地味な色の服が彼女の華奢な体を包み込み、彼女は目の前の人物を見つめていた。一年間待ち続けた新婚の夫を。北條守は半ば古びた鎧をまだ身につけたまま、威風堂々とした姿で立っていた。端正な顔には謝罪の色が僅かに混じりつつも、その表情は毅然としていた。「さくら、天子様からの勅命だ。琴音は必ず入籍することになる」さくらは手を組んだまま、瞳の奥に複雑な思いを宿しながら、ただ不思議そうに尋ねた。「上皇后様は琴音将軍を天下の女性の鑑とおっしゃっていましたが、彼女は妾になることを望んでいるのですか?」守の深い瞳に怒りの色が浮かんだ。「違う。妾じゃない。お前と同等の正妻だ」さくらは姿勢を崩さずに言った。「将軍、正妻というのは聞こえがいいだけで、実際は妾のことだとご存じでしょう」守は眉をひそめた。「妾だの何だのと、そんなことを言うな。俺と琴音は戦場で惹かれ合い、心が通じ合った仲だ。それに、俺たちは軍功を立てて天子様に婚姻を願い出たんだ。この縁談は俺たちが血と汗で勝ち取ったものだぞ。本当なら、お前の意見なんて聞く必要もないんだ」さくらの唇の端に、押さえきれない嘲りの色が浮かんだ。「心が通じ合った? 出陣前、私に何と言ったか覚えていますか?」一年前、二人の結婚式の夜。守は援軍を率いて出陣する直前、さくらの綿帽子を上げ、こう誓ったのだ。「俺、北條守は、生涯さくら一筋だ。決して側室なんか持たねえ!」守は少し気まずそうに顔を背けた。「あんな言葉は忘れてくれ。お前と結婚した時、俺は恋なんて分かっちゃいなかった。ただ、お前が俺の妻にふさわしいと思っただけだ。琴音に出会うまではな」彼は恋人のことを話し始めると、優しい眼差しになり、深い愛情が瞳の奥に宿った。そして再びさくらの方を向いて言った。「彼女は今まで会った女とは全然違う。俺は彼女を深く愛している。さくら、俺たちのことを認めてくれないか」さくらは喉に何かが詰まったような気分だった。吐き気を覚えながらも、まだ諦めきれずに尋ねた。「では、お父様とお母様は同意なさったのですか?」「ああ、二人とも同意してくれた。これは天子様からの勅命でもあるしな...
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