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桜華、戦場に舞う
桜華、戦場に舞う
作者: 夏目八月

第1話

作者: 夏目八月
文月館の廊下に据えられた風灯が、障子紙の切り絵に照らされ、その影が大きな獣のように室内の壁に映し出されていた。

上原さくらは唐木の丸椅子に腰かけ、両手を膝の上で組んでいた。地味な色の服が彼女の華奢な体を包み込み、彼女は目の前の人物を見つめていた。一年間待ち続けた新婚の夫を。

北條守は半ば古びた鎧をまだ身につけたまま、威風堂々とした姿で立っていた。端正な顔には謝罪の色が僅かに混じりつつも、その表情は毅然としていた。「さくら、天子様からの勅命だ。琴音は必ず入籍することになる」

さくらは手を組んだまま、瞳の奥に複雑な思いを宿しながら、ただ不思議そうに尋ねた。「上皇后様は琴音将軍を天下の女性の鑑とおっしゃっていましたが、彼女は妾になることを望んでいるのですか?」

守の深い瞳に怒りの色が浮かんだ。「違う。妾じゃない。お前と同等の正妻だ」

さくらは姿勢を崩さずに言った。「将軍、正妻というのは聞こえがいいだけで、実際は妾のことだとご存じでしょう」

守は眉をひそめた。「妾だの何だのと、そんなことを言うな。俺と琴音は戦場で惹かれ合い、心が通じ合った仲だ。それに、俺たちは軍功を立てて天子様に婚姻を願い出たんだ。この縁談は俺たちが血と汗で勝ち取ったものだぞ。本当なら、お前の意見なんて聞く必要もないんだ」

さくらの唇の端に、押さえきれない嘲りの色が浮かんだ。「心が通じ合った? 出陣前、私に何と言ったか覚えていますか?」

一年前、二人の結婚式の夜。守は援軍を率いて出陣する直前、さくらの綿帽子を上げ、こう誓ったのだ。「俺、北條守は、生涯さくら一筋だ。決して側室なんか持たねえ!」

守は少し気まずそうに顔を背けた。「あんな言葉は忘れてくれ。お前と結婚した時、俺は恋なんて分かっちゃいなかった。ただ、お前が俺の妻にふさわしいと思っただけだ。琴音に出会うまではな」

彼は恋人のことを話し始めると、優しい眼差しになり、深い愛情が瞳の奥に宿った。そして再びさくらの方を向いて言った。「彼女は今まで会った女とは全然違う。俺は彼女を深く愛している。さくら、俺たちのことを認めてくれないか」

さくらは喉に何かが詰まったような気分だった。吐き気を覚えながらも、まだ諦めきれずに尋ねた。「では、お父様とお母様は同意なさったのですか?」

「ああ、二人とも同意してくれた。これは天子様からの勅命でもあるしな。それに琴音は率直で明るい性格だ。さっきもう母上に挨拶に行ってきたよ」

二人が同意した?はっ、なんて皮肉な話だろう。この一年間の自分の努力は、結局のところ恩知らずな者たちに与えてしまったようだ。

さくらは眉を上げた。「彼女は今、屋敷にいるのですか?」

守は琴音のことを話すとき、いつも優しい声になった。「ああ、今母上と話してるんだ。母上を上手く喜ばせてね。病状もずいぶん良くなったみたいだ」

「良くなった?」さくらは何とも言えない気持ちになった。「あなたが出陣した時、お母様の病状はかなり深刻でした。私は丹治先生をお呼びして診てもらい、昼は屋敷の内外の事務を処理し、夜はお母様の看病をしました。食事も睡眠も一緒に…そうしてようやく少し良くなってきたのです」

さくらは自慢しているわけではなく、ただ事実を述べているだけだった。簡単な一言だが、それは彼女の一年間の苦労を物語っていた。

「でも琴音に会ったら、もっと元気になったんだ」守は誠実な目で言った。「お前に申し訳ないと分かってる。でも大局を見てくれ。俺と琴音のことを、なんとか認めてくれないか」

さくらは口元をかすかに歪めた。目には涙が光っているようだったが、よく見ると鋭い光だった。「琴音将軍を呼んでいただけませんか? 直接会ってお聞きしたいことがあります」

守はきっぱりと断った。「必要ない。さくら、彼女はお前の知ってる女とは違う。女将軍なんだ。内輪もめなんて大嫌いだろう。お前に会いたがらないと思うぞ」

さくらは問い返した。「私の知っている女性とはどんな女性なのでしょう? それとも、あなたの目には私がどう映っているのでしょうか? 将軍はお忘れのようですね。私も武将の家に生まれた娘です。父と六人の兄は、三年前に邪馬台の戦場で戦死しましたが…」

「それは彼らのことだ」守はさくらの言葉を遮った。「だがお前は結局、奥座敷か内輪で育てられた繊細な娘だ。琴音はそういう娘を好まない。それに彼女は率直で細かいことにこだわらない性格だ。会えば、お前を不快にするようなことを言うかもしれない。わざわざ恥をかく必要はないだろう?」

さくらは顔を上げた。目尻の下の美人黒子が赤く輝いていた。声は相変わらず優しげだった。「構いません。もし彼女が私の気に入らないことを言っても、聞かなかったことにします。大局を考え、大人の対応をするのは、宗家の妻として最も基本的な心得です。将軍は私を信用なさらないのですか?」

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    その後二、三日は、さくらも客人との付き合いに時間を割く余裕がなかった。玄甲軍の指揮を完全に委譲するわけにもいかず、禁衛府にも戻らねばならなかった。玄武は有田先生と共に女学校の建設予定地を視察した。修繕箇所が多く、拡張工事も必要で、寒さも厳しい。年の変わり目と重なり、工事の進捗は遅れ気味だった。ただ、幸いにも資金は十分で、それさえあれば何とでもなった。年明け八日の朝廷で、北條守は上官であるさくらに母の喪に服するための休暇願を提出。さくらはそれを清和天皇の御前に届けた。天皇は一瞥すると、さくらに問いかけた。「そなたの考えは?」さくらは一瞬戸惑った。自分の考え?「陛下のお尋ねの趣旨を承知いたしかねますが」「武将の喪中休暇については、律に定めがあろう」天皇は言った。さくらは承知していた。だが、それは辺境守備の武将に対する規定であり、北條守は京に在る武官である。とはいえ、天皇の口吻からすると、北條守の休暇を認めるつもりはないということか。「すべて陛下のお心のままに」さくらは慎重に言葉を選んだ。もし北條守の休暇を否定すれば、それは母への孝を欠くことを強いるに等しい。かといって休暇を進言するにしても......天皇がここまで明確な意図を示されている以上、そのような発言は許されるはずもなかった。清和天皇は、さくらがあっさりと判断を委ねたことに微笑を浮かべた。「しばらく置くとしよう。どうせ今は特別訓練中だ。訓練は続行させ、休暇の件は後日改めて検討することとする」「御意に従います。これにて退出させていただきます」「上原卿」天皇はさくらを呼び止め、手で制して着座を促した。「少々話があるのだが」「上原卿」と呼ばれた以上、これは君臣の対話である。さくらは恭しく会釈して下がり、座に着いた。「何なりとお申し付けください」「玄甲軍には御城番、衛士、禁衛府がある。御城番一つを取っても、無為の勲貴の子息らが少なからずおるな。日を送るだけの者も、能無しの上に物分かりの悪い輩もおる。そのような者どもの統制は、さぞ骨が折れることであろう」遠回しな物言いではあったが、さくらには真意が読み取れた。天皇は御城番、衛士、禁衛府に言及しながら、御前侍衛には一切触れなかったのだ。己の立場を弁えているさくらは、天皇の意を汲んで応じることにした。「御慧

  • 桜華、戦場に舞う   第882話

    紫乃は当初、弟子たちに対して打ち解けた雰囲気で接するつもりだった。お正月のことだし、師としての威厳なんて振りかざす必要はないだろうと思っていたのだ。しかし、三組の夫婦があまりにも恭しく接し、特に村松の妻は下女から茶を受け取ると自ら紫乃に献じ、他の二人の妻も姑に仕えるかのように傍らに控えていた。これでは否が応でも師としての威厳を保たねばならなくなった。だが心の中では首を傾げていた。こんなに気を遣う必要があるのだろうか?赤炎宗にいた頃、自分は師匠にこれほど丁重には仕えていなかった。むしろ、師匠の方が自分を可愛がってくれていたような気がする。お茶の用意など、入門したての弟子の仕事であって、自分のような先輩弟子の務めではなかったはずだ。そもそも、自分が入門した時もこんな風ではなかった。そう思うと、紫乃は師匠に対して少々申し訳ない気持ちになった。実を言えば、少し師匠が恋しくもなっていた。翌日、棒太郎は大きな荷物を抱えて出発することになった。今回の梅月山行きには篭さんと石鎖さんも同行する。年の終わりだから、師匠のもとへ挨拶に行くのが当然だろう。二人の姉弟子は月謝を受け取ることを固辞したが、蘭は布地や女性の日用品、分厚い衣装など、たくさんの贈り物を用意していた。そのため、当初は馬で帰るつもりだったのが、二台の馬車に変更となった。馬車の中はぎっしりと詰まり、外にまでたくさんの荷物が吊り下げられていた。石鎖さんたちが銀子を受け取らないというので、さくらはその分を棒太郎に余計に渡した。彼は迷わず受け取った。前回、棒太郎が紅白粉を買って帰った時は師匠に叱られたが、今回も懲りずに買い込んでいた。彼なりの理由があった――女性には美しく装う権利がある。使うか使わないかは本人次第だが、選択肢として持っているべきだと。もし使いたい人がいれば?という考えだった。紫乃から「誰かが使えば師匠の叱責を受けることになるわよ」と言われても意に介さなかった。美しくなるためには代償が必要なのだ。叱られても構わない、叱られるなら綺麗な姿で叱られようじゃないか、と。一方、親王邸は相変わらず門前市をなしていた。毎日のように訪問の名刺や招待状が届いた。玄武は甥の立場として、京に滞在中の二人の叔父や、他の皇族の年長者たちへの挨拶回りも欠かせなかった。最初に湛輝親王を訪

  • 桜華、戦場に舞う   第881話

    三姫子の今回の来訪目的は明確だった。刺繍工房と女学校の件について探りを入れるためで、もし北冥親王家で本当に女学校を創設するのであれば、自分の娘のために入学枠を確保したいという魂胆だった。本来なら娘を同伴すべきところだったが、そうすれば目的があからさまになりすぎる。さくらに娘の入学を強要するような印象を与えかねず、却って良くない。そこで娘は連れてこず、まずは入学条件などを聞き出して、準備に取り掛かろうという算段だった。「どうぞ御遠慮なく。奥の間でゆっくりとお話いたしましょう」さくらは微笑みながら三姫子たちを案内し、まだ眠そうな顔をしている玄武を、あくびを連発する清家本宗と共に残していった。「あのー」清家本宗は口を押さえながら、またしてもあくびをかみ殺すように言った。「親王様のところで、横になりながら話せる場所とかございませんかな?」玄武は目を丸くして「......はぁ?」という表情を浮かべた。この年でまだ夜更かしとは。ふしだらな爺めが――伊織屋の立ち上げに紫乃が重要な役割を果たしていることを知っていた清家夫人は、「沢村お嬢様のお姿が見えませんが、伊織屋のことでご相談したいことがございまして」と尋ねた。さくらは紫乃のことを気遣い、もう少し休ませてあげたいと思ったものの、清家夫人から直接問われた以上、使いを立てて起こしてもらうしかなかった。清家夫人には周到な計画があった。伊織屋は工房として機能するものの、場所が辺鄙なため、手工芸品を販売するには別に店舗が必要だという。彼女は店舗を一軒提供し、そこで作品を専門的に販売する意向を示した。売り上げは全て刺繍工房のものとし、制作者それぞれに応じた配分を行うという提案だった。「店の賃料は頂戴いたしません。これも善行の一助とさせていただきたく」清家夫人は続けた。「販売員の丁稚の給金も、収益が出るまでは私が負担いたしましょう。収益が出始めましたら、その中から支払うという形では、いかがでございましょうか」紫乃は少し考えてから口を開いた。「とりあえずはそのような形で進めさせていただければと存じます。まだ刺繍工房に何人の方が集まるかも定かではございませんので。もし順調に運営できるようでしたら、彼女たちの中から話の上手な方を選んで販売を任せるのも一案かと。すでに自活の道を選ばれた方々なのですから、人前に出

  • 桜華、戦場に舞う   第880話

    書斎では、三人の男たちが一刻以上も話し合いを続けていた。もし本当に淡嶋親王が都にいないとすれば、行き先として三つの可能性があった。一つ目は関ヶ原。彼らはそこに回し者を潜入させているはずだ。二つ目は牟婁郡。私兵がそこに駐屯している。三つ目は都の外れにある駐屯地の衛所だ。おそらく淡嶋親王はこの数年、そこにも密かに手を回していたはずだった。どこに向かったにせよ、それは彼らが行動を起こすということを意味していた。しかし、これまで淡嶋親王は最も冷静さを保てる人物だと考えていた。なぜ今になって最初に動きを見せたのか。有田先生が言った。「恐らく背水の陣を敷いたのでしょう。結局、影森茨子はまだ生きている。怯えて暮らすくらいなら、一か八かに賭けてみようということかもしれません」「単なる捨て身の策とは思えん」玄武は首を振った。「これほど長く謀ってきた者たちだ。邪馬台の戦いの際が最善の好機だったはずだが、その時も兵を動かさなかった。今更、正面から謀反を起こすはずもない。必ず正当な理由が必要なはずだ。むしろ今は、関ヶ原の佐藤大将の方が心配だ」「平安京!」有田先生の目が険しくなった。関ヶ原で最大の不確定要素は平安京だった。恐らく淡嶋親王も平安京の皇帝が重篤だという情報を掴んでいるのだろう。もし本当に平安京を目指しているのなら、そこにも既に手駒を配置していたはずだ。しかも、その人物は新たな皇太子の側近である可能性が高い。関ヶ原、鹿背田城、平安京――これらが組み合わされば、いずれ爆発する火薬のようなものだ。予め対策は講じていたものの、実際に事が起これば、うまく対処できるかどうか。なぜなら、どう考えても変えられない事実がある。関ヶ原の総兵元帅は佐藤大将だということだ。これこそが、皆が最も懸念している点だった。さくらには残された親族が少ない。外祖父の一族は何としても守らねばならない。深水青葉が言った。「まずは穏やかに新年を過ごそう。水無月師妹に手紙を出して、あちらの様子に注意を払うよう伝えておく。動きがあれば、すぐに報告が来るはずだ」「ありがとう、大師兄」玄武は答えた。この年は、やはりしっかりと祝わねばならない。この静けさも、そう長くは続かないのだから。夜更けの丑の刻まで過ごした後、寝台に入ってからも、脚の傷が治った玄武は受けの

  • 桜華、戦場に舞う   第879話

    宮を辞して馬車に乗ると、さくらは早速玄武にその件について話を切り出した。玄武は有田先生の報告を思い出した。謀反事件以降、淡嶋親王邸は終始穏やかで、淡嶋親王自身もめったに外出しないという。有田先生は常に燕良親王邸と淡嶋親王邸を見張らせていた。淡嶋親王は二、三度ほど外出したが、いずれも酒宴に出かけただけで、その後は足が途絶えていた。「淡嶋親王は病気ではなく、都を離れた可能性もある」玄武は眉をひそめた。「我々の部下が常に監視してはいるものの、これだけ長く続けていれば油断も生じる。淡嶋親王が変装でもすれば、見破れないかもしれない」「この時期に都を離れるとすれば、どこへ?」さくらが尋ねた。「屋敷に戻ってから話そう」玄武は現在の情勢を頭の中で整理しながら、ある推測を巡らせていた。今夜の親王邸も賑やかで、太政大臣家の人々も集まって年越しの宴を共にしていた。しかし沖田家は潤を戻さなかった。宮中の宴会に参加すると知っているので、親王邸より沖田家で過ごさせた方が良いだろうとのことだった。親王邸に戻ると、そこでも賑やかな宴が催された。屋敷中の者たちが年玉をもらいに来て、さくらは気前よく配り、皆が喜んで満足げだった。玄武は有田先生と深水青葉と共に書斎へ入った。さくらは同行せず、彼らに討議を任せた。親王家の出し物は宮中よりずっと面白かった。棒太郎が拳法と剑法を披露し、二十両の賞金を手にした。道枝執事も興を添えようと歌を披露したが、皆は笑いながら耳を押さえ、「ひどい歌声だ!耳の損害賠償を要求する」と冗談を飛ばした。道枝執事にはこの癖があった。下手だと言われても気にせず、自分が良いと思えば歌うのだ。賠償金を払わされても構わないという勢いだった。一曲のつもりが、皆にはやし立てられ、勢い込んで三曲も歌った。音程も外れ、声も割れ、紫乃とさくらは涙が出るほど笑った。使用人たちもそれぞれの芸を披露した。投壺、手裏剣投げ、木登り、切り絵、さらには掃除係の者までが早業の掃除を見せた。紫乃は頬を押さえながら、「もう無理、これ以上笑えない。ご褒美目当てにここまでやるなんて」棒太郎は胸を張って、「もう一つ難しい技を見せてもいいか?」難しい技は十両、普通の出し物は一両の褒美だった。「どんな難しい技?」紫乃は笑い声が掠れ気味だった。棒太郎は目を輝か

  • 桜華、戦場に舞う   第878話

    さくらでさえ湛輝親王を見やった。今になって孝行者だと分かったということは、つまり、以前はそれほど孝行とは思えなかったということか。少なくとも、そういう印象だったのだろう。ところが、皇族たちは首を傾げるばかりだった。燕良親王はずっと孝行な人物として知られていたはずだ。毎年、母妃の安否を気遣う上奏文を提出し、帰京を願い出ていた。時に許可され、時に却下されながらも、先帝の時代からそうしてきた。その孝心は誰もが感動するものではなかったか。しかし、今日はめでたい席。その言葉の真意を深く考える者は少なかった。ただ、清和天皇は意味深な眼差しで燕良親王を見つめた。燕良親王は一瞬顔色を変えたものの、すぐに平静を装って微笑んだ。「先祖は仁と孝を以て国を治められました。この甥が不孝であってよいはずがございません」玄武は湛輝親王を一瞥したが、何も言わず、さくらとの食事を続けた。宮宴の後、女たちは芝居見物に向かった。年越しの劇団は休むことなく、正月八日の朝廷開きまで公演を続けるのだ。芝居を見ながらの年越しは悪くない。少なくとも、時間が早く過ぎていく。定子妃は身重のため、既に自室に戻っていた。太后は皆と共に夜を過ごしていた。さくらは公務で多忙なため、滅多に参内できない。この貴重な機会に、自然と彼女の手を取って話に花を咲かせたいと思った。淑徳貴太妃も傍らに座り、「婚儀から随分経ちますのに、まだ懐勢なさらないのですか?」と尋ねた。さくらはこの手の質問への対応を最も煩わしく感じていた。子を持つか持たぬか、いつ持つかは、玄武と二人で決めることだった。さくらが答える前に、太后が口を開いた。「今やっと玄甲軍の大将となったところよ。何を急ぐことがありましょう。男が出世と仕途を重んじるように、女もそうあるべきではありませんか」さくらは常々、太后の考えの斬新さに感心していた。太后は女性の自己研鑽を強く奨励していた。以前、葉月琴音が軍に身を投じ、匪賊討伐で功を立てた時も、太后は喜び、琴音を高く評価し、天下の女性の模範と称賛したほどだ。今の「女も仕途を重んじるべき」という言葉に、さくらは深い感銘を受けた。もし他の誰かがこう言えば、玄武の子孫を望まないのだろうと疑われただろう。しかし、これは太后の言葉。さくらには、その真摯な信念が伝わってきた。芝

  • 桜華、戦場に舞う   第877話

    続いて夜宴となり、燕良親王も正妃、側妃を伴って参上した。太后と帝后に拝謁した後、親族たちとも挨拶を交わした。淡嶋親王家からは淡嶋親王妃だけが参った。淡嶋親王は十二月に風邪を引き、まだ回復していないとのこと。太后は気遣いの言葉をかけ、滋養強壮の貴重な薬材を賜った。年越しの宴は豪勢を極めた。玄武とさくらは並んで座り、さくらの好物を玄武が取り分け、さくらの苦手なものは玄武が引き受けた。その様子を目にした皇后が、ふと微笑んだ。「親王様と王妃様は、本当に仲睦まじいこと」榎井親王と榎井親王妃が顔を上げた。自分たちのことかと思ったが、皇后の視線が玄武とさくらに向けられているのに気付き、彼らの方を見やった。清和天皇は軽く一瞥しただけで何も言わなかったが、酒杯を上げる際、皇后に冷ややかな視線を向けた。さくらは皇后の些細な企みを感じ取り、言葉を添えた。「陛下と皇后様の深い御愛情こそ、私どもの手本でございます」斎藤皇后は微笑むだけで、言葉を返さなかった。胸の内の苦しみは自分だけのものだった。帝后の深い愛情など、人目のためだけのもの。天皇の本当の寵愛を受けているのは定子妃なのだ。天皇が定子妃への愛情の半分でも自分に向けてくれていれば、ここまで息子を追い込む必要もなかったのに。嫡長子による皇位継承に異論などないはずだった。しかし、最も寵愛される定子妃がいつ息子を産んでもおかしくない。実子を持てば、我が子のために動くのは当然ではないか。そんな思いを巡らせている最中、宮人が薬椀を持って定子妃の元へ進み出た。「定子妃様、安胎のお薬の時間でございます」と小声で告げる。皇后の頭の中が轟いた。鋭い光が一瞬、瞳に宿ったが、すぐさま愛らしい笑みを浮かべて言った。「定子妃がお子を?こんな慶事を、なぜ私に知らせてくださらなかったの?」牡丹のように艶やかな定子妃の姿には、確かに妊婦特有の魅力が漂っていた。彼女は軽く目を上げ、微笑んで答えた。「初めは胎の安定が心配で、皇后様にお知らせできませんでした。どうかお許しください」「慶事というものに、許すも許さぬもありませんわ」皇后は笑みを浮かべた。「皇嗣をお宿しになったのですから、むしろ褒美を差し上げねばなりませんね」「恐れ入ります」定子妃は座ったまま、さりげなく応じた。皇后と定子妃の間の微妙な空気は、女性に

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