母の病気という家庭の事情から、突然姉の知り合いのマンションの一室を間借りすることになった主人公の大学生・由依は、そこで一人の青年・ジンと出会う。 ジンは台湾と日本のハーフで、台湾で主にモデルの仕事をしている芸能人だった。 自然と距離が近づいていき、仲が深まっていくふたり。それと同時にジンは仕事のオファーが増えていき、スターとしての階段を上り始める。 由依と一緒にいたいと願うジンだが、日本で所属している芸能事務所が突然経営危機に陥る。 由依はジンの将来と自分の家族の事情を鑑み、とある決断をする。 4年の歳月が過ぎたあと、ふたりの運命の糸が再び絡み始めて……
もっと見る私はマンションに帰ってさっそく荷造りを始めた。 来たときと同じようにボストンバッグひとつで出ていくわけにはいかない。 年始に姉が送ってきた八つのダンボールに再び荷物を詰め直す作業があるからだ。 幸いジンはしばらくここには来ないはずだから、彼に知られずに荷造りはできる。 実家に帰るのだと嘘をつきたくはないし、引っ越し先の新しい住所を教えてしまえばジンが訪ねてくるのは目に見えている。 それを避けるために『消える』道を選んだ私は卑怯者だ。 それにこのマンションにはジンとの思い出がたくさん残っているから、別れるのなら私も早くここを出たい。 そう思うくらいつらいと自覚したら、自然と涙が出た。 別れるという私の決断は間違っているだろうか。 ……いや、きっとこれが正解だ。 相馬さんも、姉も、母も、ショウさんも、みんなが幸せになれる。 ジンは私がいなくなれば少しは寂しがるかもしれないけれど、それはしばらくの間だけだろう。 たぶん私よりも彼のほうがダメージは少ないはず。 ―――私のほうが、ジンを愛してる。 だけど私と一緒にいることで彼が輝けないのは嫌だし、笑顔になれないのも嫌だ。 彼が身を置くべき場所は芸能界で、私のためだけに自分の住む世界を変えてほしくはない。 私のことは忘れてくれていい。 華やかな世界でキラキラと輝き、毎日を忙しく過ごしていれば私の記憶など薄れるはずだ。 彼には自分の道を行ってもらいたい。 私は不幸を呼ぶ女なのかもしれない。 だからといって、周りの人たちまで巻き込みたくはない。 それから五日が過ぎ、甲さんが新しい住処となるマンションを見つけたと連絡をくれた。 今のバイトは辞めて新しく探しなおすつもりだったから場所はどこでも良かったし、私はすぐにそのマンションを契約した。『会えないか?』 最後に一目、ジンの顔を見たい。 そう思っていたタイミングでジンから連絡が来た。 どうやら今は日本に帰ってきているらしい。『ジンと一緒に見たい映画があるの』 私は自分から誘うようなメッセージをジンに送り、映画デートをすることにした。 今日もじめじめと雨が降って蒸し暑い中、映画館に赴くとジンが待ち合わせ場所に先に来ていた。
「わかった。それは俺が責任を持って対処すると約束する。……君のお姉さんとお母さんを人質に取ったような言い方をしてすまないと思ってる。だけど俺にとってはジンしかいないんだ」 まさか謝られるとは思っていなかった。 ショウさんは、決して悪い人ではない。 誰にだって守りたい人や事柄があるし、ショウさんにとってジンは家族同然で、実の弟のような存在だから。 ショウさんはジンのことを思い、世界に羽ばたいて欲しいだけなんだと私にも理解できた。 私と一緒にいることで、彼が窮地に立たされてしまうのなら…… 私から離れるしかないじゃないか。「由依ちゃん、さっき『消える』って言ったけど、あのマンションを出るの?」 心配そうな面持で甲さんに問われ、私は小さくうなずいた。「相馬さんが大変なことになってるのにこれ以上お世話にはなれません。住むところを早急に見つけて引っ越します」「実家には帰らないのか?」 ショウさんが少しばかり気の毒そうな表情を浮かべて私の返事を待った。「帰りません」「わかった。甲、由依の住むとこ見つけてやって。引っ越し費用は俺が出す」 うなずきながら言うショウさんに、私は慌てて首をブンブンと横に振った。「私は大丈夫ですから。それよりショウさんにもうひとつ約束してほしいことがあります」「なんだ?」 頬の涙をぬぐい、ピンと姿勢を正す私を見てショウさんが様子をうかがうように眉根を寄せる。「ジンの笑顔を取り戻してください。ショウさんは頭が良くて勘の鋭い人ですから、こんなことを私から言われなくてもわかってると思いますけど、最近のジンは本当に笑わないんです。私と出会ったころはいつも明るく笑っていたのに」 私の言葉を聞き、ショウさんは無言で視線をテーブルへと下げた。「私、ジンの笑顔が好きなんです。片側だけにできるエクボが素敵だから。でもしばらくそんな笑顔は見ていません。エクボだって左側にできていたはずだけど、もしかしたら右側だったかな?って忘れちゃうくらい」「………」「彼がまた、自然に笑えるようにしてあげてください」 頭を下げると、ショウさんはつらそうに参ったという表情を浮かべていた。「自分も大変なのに、最後に頼むのがジンのことだなんてな」 呆れられたのかもしれないが、今言ったことが私の本心だ。 誰もが惹きつけられる不思議な空気を纏う笑顔
激しく動悸がして、息ができないくらい苦しくなった。 後頭部をなにかで殴られたような衝撃を受けている私を気の毒に思ったのか、さすがに言い過ぎだと甲さんが止めに入ってくれた。 姉と母は相馬さんの恩恵があってこそ今がある。 ジンのことで頭がいっぱいで、大事なことなのにすっかり抜け落ちていた。 就職するのだと、気恥ずかしそうに話していた姉の姿が頭に浮かんだ。 それがダメになったら、また夜の仕事を続けるのだろうか。 母も施設の入所が決まっているようだったし、そこで治療しながらゆっくりと過ごすはずだ。 なのに白紙となれば、また自宅で暴れたりするのかもしれない。 姉と母の幸せを奪って踏みつけるようなことをし、お世話になった相馬さんが大変なときに恩を仇で返すようなことをしてまでもジンと一緒にいたいだなんて、そんなワガママが許されるはずがないじゃないか。 ボキッと音を立てて、このとき私の心が折れた。 私はなんのために実家を出てあのマンションで暮らし、就職をして独り立ちしたかったのかと理由を思い返せば、すべては家族のためだったはず。「君が離れてくれればジンは必ず大成する。台湾と日本だけじゃない。韓国、フィリピン、タイ、シンガポール、中国本土、香港……必ずアジアは制覇する。俺がさせてみせる。そしてその次はハリウッドだ」 夢で終わらせるつもりはないのだと、ショウさんが至極真面目に言ってるのが伝わってくる。「君が思っているより、ジンの“光”は強い」 ジンは生まれもってのスターで、その使命をもって生まれてきた。同じ人間でも私とは全然違う。 そんな、星のような人に近づきたいだとか、今なら手が届きそうだなんて願った私が ―――身の程知らずだったのだ。「もし、姉の就職や母の施設入所が白紙になりそうになったら、ショウさんが助けてくれませんか?」 ボロボロと止まらない涙を流す私を見て、ショウさんは黙って聞いていたがなにかを感じ取ったらしい。「由依、それは……」「…………私は消えます」 涙で濡れて視界が歪んで見えるけれど、ショウさんがホッと息をついたのがわかった。「その代わり、姉と母を助けてください。お願いします」 最初から許されない身分違いの恋だったのだ。 周りに反対され、ほかの人を不幸にしてまで突き進むだなんて、私にはやっぱりできない。 私の大切な人
「ちょっと待ってください。なぜそうなるんですか?」「俺だってこんなことを君に頼みたくはなかった。だけどジンがドラマの仕事を受けない理由はただひとつなんだ。君と一緒にいたい気持ちが強い」 最初はそうだったかもしれないけれど、相馬さんの会社の資金繰りの話をすればジンだって気持ちが変わるかもしれないのに。「私が説得してみます。事情があるとわかればジンはオファーを受けるはずです」「いや、無理だ。ジン自身がこの倒産危機を知らないとでも思ってるのか? すでに話してある。それでもジンは君と離れるのが嫌で、芸能活動を辞めるとまで言った。そうなると俺は、アイツと君を無理にでも引き離すしかない。なりふり構わないと言ったろ。必ずドラマには出演させる。俺は本気だ」 決して激高はしていなかったが、ただ淡々と話すショウさんが私は逆に怖くなった。 誰がなんと言おうと絶対に自分の意見を押し通して、この局面を必ず乗り越えるのだという固い決意がショウさんの中に見えたから。「気づいたんだ。今後もし同じことが起きたらジンはまた君を優先する。それは芸能活動をしていくにあたって“支障”になる。だったら今のうちに別れさせるべきだろう」 いつも助け舟を出してくれる甲さんも、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。 次から次へと矢継ぎ早に言葉を並べられ、私は頭が混乱してなにも言い返せない悔しさからかじわりと目頭が熱くなった。「それでも………どうしても一緒にいてはダメですか?」「……由依」「私はジンのことが、すごく好きなんです」 涙がポロリと両目からこぼれ落ちた。 一度だけワガママが許されるのならば、ジンと一緒にいたい。 ほかには何も望まない。愛する彼と笑って一緒に生きていきたいだけだ。 そんなたったひとつの切なる願いを訴えてみたけれど、ショウさんは眉間にグッとシワを寄せて私を真正面から見つめた。「もっとすんなりとわかってもらえると思ってた。君は今俺が話したことをなにも理解できなかったのか?」「いえ、そういうわけでは……」 手の平で頬の涙を拭う私に、ショウさんは動揺することなく視線を送り続けてきた。「今回の倒産危機は君も他人事ではない。今君が住んでるマンションも社長は手放すことになるだろう。それにお姉さんの就職もきっと白紙だ。系列会社だといっても間違いなく危機に陥り、コネで
「俺らはポラリス・プロの人間だが他人事じゃない。相馬コーポレーションの資金力でポラリス・プロは成り立ってると言っても過言じゃないからだ。あっちに倒れられたら、こっちも共倒れだ」 いつも緩慢な笑みを浮かべる癒し系の甲さんまで神妙な顔つきでただ聞いているだけだから、どうやら私が思う以上に事は深刻なのだろう。「資金繰りは社長がなんとかするって言ってるけどね。だけどショウさんのツテで、台湾の事務所にも借り入れをお願いしてるんだ」 個人でなんとかなるような、そんな金額ではないと思う。 私は会社の経営に関しては詳しくないけれどその程度のことはわかる。「幸い、台湾の事務所は協力すると言ってくれてる。だけどそれには条件を突き付けられた」「……条件?」 おそるおそる聞き返すとショウさんはコクリと首を縦に振った。「例の長編ドラマにジンを出演させることだ」 あのオファーについては、ジンが頑なに嫌がっていて未だに保留の状態らしい。「こうなったら、なりふりなんて構っていられない。俺はこの話を受けるつもりでいる」「でもジンが……」「なんとしてでもあのドラマには出てもらう。俺が出させる」 強行突破、というのはこういうのを言うのだろう。 本人の意向を無視してでも出演させるとは、かなり強引なやり方だと思う。 だけどジンの気持ちを無視してまでも、その選択しかないのだと追い詰められているみたいだった。「どうして台湾の事務所はそのドラマにこだわるんですか?」 仕事ならほかにもオファーがあるはずなのに、本人が嫌がっている仕事をなぜ無理強いするのか私はそこが引っかかる。「長編ドラマの仕事を受けたら、ギャラとして事務所に大きなカネが入る。だけどそれだけじゃない。断れば懇意にしているプロデューサーの顔に泥を塗ることになる。事務所はプロデューサーと関係が悪化するのを避けたいんだ」 力のあるプロデューサーに逆らいたくないからだとショウさんが説明してくれた。 それにドラマのオファー自体は悪い話ではない。 むしろジンの人気を後押しするきっかけになるはずだから、あとはジン自身が首を縦に振るだけだとみんな思っているのだろう。「相馬コーポレーションもポラリス・プロも倒産回避。ジンは俳優として本格デビューして人気が上がる。ドラマはヒット間違いなし。それで全部丸く収まる」 たしかにシ
ジンは私の頭を優しく撫で、額にチュっとキスを落とす。「外で会って平気?」「日本は大丈夫だろ。不安ならホテルで密会する?」「え?! 」 一瞬動揺した私を見て、ジンが吹き出すように盛大に笑った。「なにを想像したんだよ。まぁ、間違ってはいないけど」「もう!」 ケラケラと笑う彼を見て、なぜか少しホッとした。 出会ったころはよく笑っていたのに、最近めっきり笑顔が減った気がしていたから。 彼にはいつも笑っていてほしいし、自分の周りにいる人たちもみんな笑顔になれたらいい。 だけど私にとって彼はもう特別な存在だから、誰よりも心から笑顔でいてほしいと願っている。 ジンとショウさんの言い争いが絶えなくなった、と甲さんから聞いたのは、それから一ヶ月ほど経ったころだった。 ドラマのオファーのことで大揉めになっているのかと思ったけれど、それだけではないらしい。 今後の仕事の方針や、プライベートの過ごし方など、あらゆることで衝突する日々なのだそう。 ほんの些細なことでも衝突するなんて以前なら考えられない光景だけれど、今のジンとショウさんならあり得ると思う。 空気が悪いなんてもんじゃない、と甲さんが嘆くぐらいだから相当殺伐としているのだろう。 そんな日々も過ぎていき、季節は梅雨も半ばを迎えようかという蒸し暑さの中。―― 多くの人間が関係する大変な事が起きた。「話がある」 私を呼び出したのはショウさんで、用件はなんだろうかと特に気構えることなく待ち合わせのカフェへと向かった。 するとそこには甲さんもいて、私を手招きしている。 挨拶もそこそこに私の向かい側に座るふたりの顔を見て、なにか良くないことを告げられると予感した。 こういうときの勘は、なぜか当たるものだ。「回りくどく言うのは苦手だから結論から言う」 無表情に淡々とショウさんが話を切り出した。「ジンと、別れてくれ」 神妙な顔つきで私を見つめるショウさんは苦渋の表情だ。「あ、あの……」 一瞬で声が震えた。 誰かに交際を反対されるかもしれないと一定の覚悟はあったけれど、交際の事実を自分たちから伝えないままショウさんからいきなり別れろと言われて、私の頭は途端に混乱し始めた。「お前たちが数ヶ月前から付き合ってるのは知っていた。相手が由依だから黙認してただけだ」 ショウさんは私たちの交際を
「さっきショウさんに聞いたの。ドラマの話とか、第二弾の記事とか」「俺、しばらくここに来るのはやめる」 ジンは不本意だ、という気持ちを前面に出した表情をしていた。 さっきの電話の口調とは反対に、やけに素直なところに私は違和感を覚えた。「ショウくんに、お前が出入りすることで由依がそこに住めなくなるかもしれない。由依が追い出されてもいいのか? って説教された」 私のためを思って動けと、ショウさんはある意味ジンを脅したみたいだ。 自分のことを理由にされるのは気持ちよくはないけれど、それでもショウさんの助言どおり、ジンが不用意にここに出入りするのは危険だと私も思う。 彼がこれ以上週刊誌で騒がれて傷つかないためにも、しばらくここに立ち寄らないのは私も賛成だ。「ショウさんから聞いたけど、ドラマには出ないの?」 早速もう帰るつもりなのか、テーブルの上を片付け始めたジンに言葉をかけると、なんでもないことのようにあっさりと首を縦に振った。「断ってくれって言ってる」「せっかくの大きな仕事なのに」 考える余地なく断るにはもったいない話だと、私の気持ちが言葉尻で伝わったのか、ジンは私に小難しい視線を送って来た。「相手の女優が気に入らないのもあるんだ。柳 莉紋(リュウ リーウェン)で内定してるらしいから」「りゅ……?」「ほら、俺が初めて出たMVで共演した子」 あのMVでしか見たことはないけれど、今でもはっきりと覚えている。 男心をくすぐるようなほんわかとした雰囲気のとってもかわいらしい容姿をした女性だった。「すごくかわいい人なのに、どうして気に入らないの?」 彼女を思い出しながらも笑顔で話す私とは対照的に、ジンがうんざりだとばかりに顔をしかめた。「顔はどうでもいいとして性格が悪いんだ。ありえないくらいにワガママ」 おそらくだけれど、彼女のそのワガママな性格に以前直面したのだろう。「また共演なんてごめんだ」と、ジンが心の底から嫌そうに言った。 人は見かけによらないとはこのことで、あんなにかわいらしくて素直そうな女性なのに、性格の悪い一面があるとは思いもよらなかった。「これでドラマの話が来なくなるならそれまでだ。細々とモデルだけやってもいいし、全部やめたっていい」「……ジン」「俺は北京語ができるから、どこか日本の企業に就職できるだろう」 ジン
静かな口調のショウさんとは対照的に、私の心臓はバクバクと早打ちが続いている。 同棲はしていないし、記事には虚偽が混じっているけれど、その日本の恋人とはどう考えても私のことだろう。「しつこく聞かれてジンが切れたんだ。『二股なんかするわけない! 誰と交際しようと俺の勝手だ!』と。その態度で記者を敵に回し、反撃とばかりに面白おかしく派手に書かれた。Harryは二股は否定したが恋人がいるのはたしかだとか、根っからの女好きだとか」「そんな……」 ショウさんの詳しい説明を聞き、私は唖然としながらも顔から血の気が引いた。「君の存在をチラつかされて頭にきたジンの負けだ」 ショウさんはそう言うけれど、記者たちがやったことはペンによる暴力だと思う。 あまりにも事実無根ならば名誉棄損で訴えてもいいけれど、おそらくマスコミはギリギリの範ちゅうで仕掛けているからショウさんは困っているのだろう。 そんな目にあっているジンが心配だ。「マスコミは俺がどうにかして押さえる」 ショウさんが力強く言うのだから、任せておけば本当になんとかしてくれそう。「ジンを守るのが俺の役目だからな」 ショウさんは有言実行という言葉が一番似合う人だと思う。 表向きは仲が悪くなったように見えても、ショウさんとジンはお互いに大切に想っている。 血は繋がっていなくとも、ふたりは兄弟のように切っても切り離せない関係だ。 マンションに帰ると明かりが付いていて、ジンがリビングのソファーに座りながらスマホを耳に当てて電話をしていた。「だから、ここは俺の大切な場所なんだよ!」 ジンが発する言葉の言い方が普段と違って少々荒々しい。 本気で怒っているわけではないけれど、イラついている感じだ。「ここは社長が管理してるマンションなんだから、なんとでも言い訳できるよ。記者には十分気を付ければいいんだろ?」 誰と電話しているかは尋ねなくてもショウさんだとわかったし、今口論している内容も先ほど私が聞いた話だと想像がついた。 自分の部屋に荷物と上着を置いてリビングに戻ると、ジンはもう電話を終えていた。「今の電話、ショウさん?」「ああ」「ここには来るな、って言われた?」 なぜ会話の内容がわかるのだ、とジンが目を見開いて驚いていた。 日本での同棲疑惑が囁かれているのだから、ここの場所がバレている可能性
私が首をかしげると、ショウさんは参ったというように盛大な溜息を吐き出した。「せっかくのオファーなのに出るのは嫌だと。長編だと日本に来られなくなるとか、由依の脚本でないとダメだと言ったはずだとか、ワガママばっかり」 私から視線を外し、ガラステーブルを人差し指でコツコツと無意識に叩く様子がショウさんの苛立ちを表していた。「アイツは本当になんにもわかってない。これは喉から手が出るほどのチャンスなのに」 昨日のジンの『芸能の仕事はやめてもいい』という言葉が脳裏をよぎった。 もしかしてそれをショウさんにも言ってしまったのではないかと懸念したけれど、どうやらそれはまだ告げていないみたい。 単に今回舞い込んだ仕事が嫌だと拒否しているだけのようだ。 今がチャンスだと意気込むショウさんと、やる気をなくしているように思えるジンとでは、第三者である私から見ても確実に温度差がある。「このチャンスを掴むどころか、記者と口論なんかするし」「昨日ジンからそれはちょっとだけ聞きました」「そのことでまた週刊誌の紙面を騒がせてる。第二弾だ」 対応に追われる身にもなれ、と言わんばかりにショウさんは再び盛大な溜め息を吐きだした。 マスコミへの対応と、ジン本人への説得の両方で疲れてしまっているようだ。「昔は俺の言うとおりに素直に行動してたのにな」 ポツリとつぶやいたショウさんの表情に少しばかり寂しさの感情が乗っていて、実の兄のような顔つきに変わった。「ジンは今もショウさんのことを大切に思ってますよ」「そうかな。俺よりも大切にしたい相手が出来たんじゃないか?」 その言葉と同時に視線を差し向けられ、途端に居心地が悪くなった。 遠回しだったけれど、ショウさんの鋭い目を見れば本当に言いたいことがなんなのかわかってしまった。 だけど私はわざと気づかないフリをして話を元に戻した。「記者の人に言い返したことで、それをまた記事にされちゃったんですか?」「ジンの話によると、俺がいないひとりのときの仕事帰りを狙って記者が突撃取材してきようだ。そこでいきなり『日本にも同棲している恋人がいるみたいですが二股交際ですか?』と聞かれたらしい」「え?!」 てっきりドラマで共演した女優との熱愛報道の火種がまだ消えていないのだと思っていたけれど、今のショウさんの発言で頭が一瞬でパニックになっ
吐き出す息が真っ白なこの季節は吸い込む空気が冷たく、乾燥していて喉が痛い。 だけど首元に巻いたマフラーのせいで、身体は若干暑いくらいだ。 履き慣らしたはずの黒のパンプスもつま先が痛くなっている。 でも今はそれを気にしている余裕はまったくなく、私は髪を振り乱しながらあわてて往来をひた走る。「すみません、遅くなりました!」 バイト先のカフェへ辿り着くと、一目散に店長に駆け寄って深々と頭を下げた。 遅れるとわかった時点で電話を入れたとはいえ、十五分の遅刻だ。「そんなに焦らなくてもよかったのに」 店長は私の姿を視界に捉えると、あきれ気味に緩慢な笑みを浮かべた。やさしくてダンディな店長が神様に見えた瞬間だった。「リクルートスーツ……今日、面接だったのか?」 スタッフルームのロッカーの前でマフラーをはずし、乱れたセミロングの髪を手櫛で直す私に武田くんが声をかけてきた。 私たちは高校の同級生で、今はお互い別々の大学に通っているけれど、奇遇にもこのバイト先で再会した。 彼は昔からガッチリ体型だから、その肉体を活かすのならほかの選択肢もあっただろうに、なぜかカフェでバイトをしている。「うん。急に来るように言われちゃって」「そっか。断るわけにもいかないよな」 今日の面接は小さな電子部品メーカーの事務職の募集だった。 急に呼び出されてしまったのだけれど、武田くんの言う通り、断る選択肢は持ち合わせていない。「当然だよ。まだ内定ゼロだもん。どんな会社でもいいから早く就職決めないといけないしね」 溜め息を吐きながら、武田くんになんとか笑みを返した。 私の名は安田由依(やすだゆい)。年齢は二十二歳。 大学四年の冬にして未だどこの企業からも内定をもらえていない、いわゆる就活難民だ。 自分ではがんばっているつもりなのだが、ここまで面接に受からないとなると、いったいなにがダメなのかわからない。 このままでは卒業後の春から私はどう考えても無職になる。 焦っても仕方ないのかもしれないが、精神的にはどんどん追い込まれている。...
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