母の病気という家庭の事情から、突然姉の知り合いのマンションの一室を間借りすることになった主人公の大学生・由依は、そこで一人の青年・ジンと出会う。 ジンは台湾と日本のハーフで、台湾で主にモデルの仕事をしている芸能人だった。 自然と距離が近づいていき、仲が深まっていくふたり。それと同時にジンは仕事のオファーが増えていき、スターとしての階段を上り始める。 由依と一緒にいたいと願うジンだが、日本で所属している芸能事務所が突然経営危機に陥る。 由依はジンの将来と自分の家族の事情を鑑み、とある決断をする。 4年の歳月が過ぎたあと、ふたりの運命の糸が再び絡み始めて……
View More「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普
吐き出す息が真っ白なこの季節は吸い込む空気が冷たく、乾燥していて喉が痛い。 だけど首元に巻いたマフラーのせいで、身体は若干暑いくらいだ。 履き慣らしたはずの黒のパンプスもつま先が痛くなっている。 でも今はそれを気にしている余裕はまったくなく、私は髪を振り乱しながらあわてて往来をひた走る。「すみません、遅くなりました!」 バイト先のカフェへ辿り着くと、一目散に店長に駆け寄って深々と頭を下げた。 遅れるとわかった時点で電話を入れたとはいえ、十五分の遅刻だ。「そんなに焦らなくてもよかったのに」 店長は私の姿を視界に捉えると、あきれ気味に緩慢な笑みを浮かべた。やさしくてダンディな店長が神様に見えた瞬間だった。「リクルートスーツ……今日、面接だったのか?」 スタッフルームのロッカーの前でマフラーをはずし、乱れたセミロングの髪を手櫛で直す私に武田くんが声をかけてきた。 私たちは高校の同級生で、今はお互い別々の大学に通っているけれど、奇遇にもこのバイト先で再会した。 彼は昔からガッチリ体型だから、その肉体を活かすのならほかの選択肢もあっただろうに、なぜかカフェでバイトをしている。「うん。急に来るように言われちゃって」「そっか。断るわけにもいかないよな」 今日の面接は小さな電子部品メーカーの事務職の募集だった。 急に呼び出されてしまったのだけれど、武田くんの言う通り、断る選択肢は持ち合わせていない。「当然だよ。まだ内定ゼロだもん。どんな会社でもいいから早く就職決めないといけないしね」 溜め息を吐きながら、武田くんになんとか笑みを返した。 私の名は安田由依(やすだゆい)。年齢は二十二歳。 大学四年の冬にして未だどこの企業からも内定をもらえていない、いわゆる就活難民だ。 自分ではがんばっているつもりなのだが、ここまで面接に受からないとなると、いったいなにがダメなのかわからない。 このままでは卒業後の春から私はどう考えても無職になる。 焦っても仕方ないのかもしれないが、精神的にはどんどん追い込まれている。...
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