姉だってせっかく入った大学を中退したくはなかっただろう。
それまでは普通に楽しく大学生活を送っていたのだから、こうなったのはすべて父のせいだ。
姉が働いてくれたおかげで私は大学へ行かせてもらえたし、今後は姉の負担を減らすためにも、なにがなんでも就職しないといけない。
なのに、未だに内定ゼロとは、頭が痛いのを通り越して割れてしまいそうだ。
夕方、バイトを終えてカフェの外に出ると空はすでに真っ暗だったけれど、クリスマス仕様の街並みは煌びやかな電飾でキラキラと輝いている。
一旦家に帰って着替えを済ませてから、スーパーへ買いものに出かけるとしよう。姉は今日も仕事だから夜は家にいない。
姉がケーキを用意するというのは咄嗟についたウソだから、スーパーの後に洋菓子店に立ち寄って小さいクリスマスケーキを買おうかなと電車に乗りながら考えていた。
最寄りの駅に辿り着き、とぼとぼと自宅アパートまでの道のりを歩く。
とにかく、このリクルートスーツを今すぐにでも脱ぎたくて仕方がない。戦闘服みたいなこのスーツは大嫌いだ。そんなことを考えていると、私のスマホが着信を告げた。
画面に表示されているのは姉だけれど、そろそろ出勤する時間なのに、いったいどうしたのだろうと不思議に思いながら電話に出た。
「由依、今どこ?」
その真剣な姉の声音で、瞬時に嫌な予感が走った。電話を持つ手が震えたのは、寒さだけのせいではないはずだ。
「バイト終わって帰るとこ。駅から歩いてる」
「お母さんがね……調子悪いの」
なんとなく母のことかもしれないと予想していたけれど、それが当たってしまい、私は脱力するように歩みを止めた。
「今眠ったから、静かに帰って来て?」
「……わかった」
電話を切った瞬間猛烈に泣きたくなり、昨日の悪夢が脳裏をよぎった。
あれが本当に夢だったらよかったのに。
姉の忠告通り、自宅に着くと静かに玄関扉を開け、音を立てないように部屋の中に入った。
ダイニングに居た姉がそっと私を手招きしたが、その表情はひどく硬い。
「おかえり」
「ただいま」
「お母さん、今日また暴れたのよ」
左手で額を覆い、頭を抱えるようにして姉がうつむく。
私は首に巻いていたマフラーをはずしながら、ふぅーっと小さく息を吐いて、姉の向かいに静かに座った。 仕事に出かける直前だったのか、姉はきちんとメイクをし、髪も服装も整っている。私と二歳しか違わないのにとても大人っぽい。「昼間に?」「うん。昨日の続きみたいな感じ」 姉がもう限界だと言わんばかりに、つらそうに顔をしかめた。 武田くんに話した『お母さんの体調が悪い』というのはウソではないけれど、それは身体的な面ではない。 情緒不安定な母は時々、こうして発作のようなものが起きる。それが発症するようになったのは、父が失踪してからだ。 だけど昨日は、母の様子が今までになくひどかった。 頭痛がするからと部屋で寝ていた母が、起きてきてリビングに現れ、私の姿を目にした瞬間鬼の形相になったのだ。 そしていきなり、『あなた誰なの? 人の家に勝手に入らないで! 出て行きなさい!』と、わけのわからないことを叫んだ。 その後は手当たり次第に物を投げて暴れ、呆然としていた私を突き飛ばして追い出そうとした。 たまたま家に居た姉が母をなだめてなんとか落ち着かせることが出来たのだけれど、姉がいなかったらどうなっていたかわからない。「今日もね、由依のことがわからないみたいだったの。『追い出してやる!』って取り憑かれたようになってた。おかしいよね、自分の娘なのに」 ぐったりとテーブルに肘をついてうなだれる姉を見ると、今日も話の通じない母を相手に大変だったのだろうと、それは容易に想像できた。「ごめんね」「どうして謝るの。由依はなにも悪くないじゃないの」 その通りだけれど、姉の負担を少しでも一緒に背負えたらよかったのにと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。「謝らなきゃいけないのは私のほうよ」「え?」 私と視線を合わせながら、悲しそうに眉を下げる姉を見て、いったいどうしたのだろうと小首をかしげる。私には謝られるような覚えはなにもない。「今日のお母さんを見て思ったの」「なにを?」
「今の状態では、由依と毎日顔を合わせるのは無理だと思うのよ」 表情が固まってしまい、なにも言えずにいる私の手をそっと包み込むように、姉が自分の手を覆い重ねた。「もちろんずっとじゃないよ? お母さんの気持ちが落ち着くまでの間だけ」 姉の話を聞きながらも、キッチンの隅にボストンバッグがあることに気がついた。 なぜこんなところにそれが置かれているのか、と姉に視線を送る。「お姉ちゃん……これ……」「お母さんの面倒は私が見るから。由依はしばらくここを離れてほしいの」「でも……」「由依の身の周りの物や着替えを適当にバッグに詰めておいたから」 不自然に置かれたあのボストンバッグには、私の身の回りの物が勝手に詰め込まれているのだとわかったが、突然のことに頭がついていかない。「私の知り合いにね、不動産会社の社長さんがいるの。相談したら空いてるモデルルームを貸してもいいって言ってくれてるのよ。寝泊りくらいなら、そこで充分できるらしいから」 姉は〝避難〟という言い方をしたけれど、私にはどうしても〝追い出される〟感覚しかなく、胸がどんどん締めつけられていく。 仕方ないとはいえ、これしか方法がないのかと悲しくなってきた。「その人が実はもう外で待っててくれてるの」 さあ行こう、とばかりに急かされても、私の頭と気持ちはまったく追いつかない。 だけど姉は眠っている母を起こさないように気遣って、音を立てずにそっと椅子から立ち上がる。私は未だ放心状態のままなのに。「由依、お母さんが寝てる間に」 やんわりと促され、しぶしぶ私は重い腰を上げる。 突飛に思える姉の行動だけれど、まとまらない私の頭で考えた直したところでなにも解決策は浮かばないから、今は姉の意見に従うしかなかった。 私が我慢して、それで全部うまくいくのなら構わないと思う自分もいる。 姉とふたりで玄関の外に出ると、気温が下がったせいで空気がとても冷たくて、私はあわてて手に持っていたマフラーを再び首に巻いた。 ボストンバッグを手にして歩く姉の後ろを、くわしい行き先もわからないままとぼとぼと着いていく。 すると、路上に停まっていた一台の高級外車の中から男性が現れて私たちに近づいてきた。 年齢は三十代後半くらいで、オシャレな顎ひげをたくわえたくっきりとした顔立ちの人だった。
「お待たせしてすみません」「いや。大丈夫」 姉が恐縮しながらおじぎをすると、その男性は小さく首を振りながらゆるりと微笑んだ。 高そうなスーツに身を包んでいて、上品で物腰もやわらかい。「君が由依ちゃんだね」 男性の言葉にうなずき、不安なまま私も「はじめまして」と頭を下げる。「寒いから話は車の中でしよう。とりあえず乗って?」 姉の手からボストンバッグを奪うと、男性は私たちをその高級車へと誘導した。「お姉ちゃん……」「大丈夫。信頼できる人だし、 私もついて行くから」 姉のコートの袖口を引っ張りながら立ち止まる。 どうやら姉は、今日の勤務は無理だと判断して仕事を休む連絡をすでに入れていたようだ。 私ひとりでこの男性について行くのかと不安だったけれど、姉が一緒に来てくれるとわかり、ほんの少しだけホッとした。 さすがに見ず知らずの人の車にひとりで乗り込み、どこに連れて行かれるかわからないなんて、こんなに怖いことはない。 姉が助手席に座り、私はボストンバッグと共に後部座席へ乗り込むと、男性が運転席へ座ってドアを閉めた。車内は暖房が効いていてとても暖かい。「改めまして、僕は相馬(そうま)と言います」 その男性は運転席から振り返り、私の表情をうかがいながらスッと一枚名刺を差し出した。「そこに僕の携帯番号があるから、なにか困ったことがあったらいつでも電話していいからね。どんな小さなことでも」 薄っすらとやさしい笑みを浮かべた相馬さんはとても大人で紳士的で、怖いとか気持ち悪いといったような嫌な印象はまったく受けなかった。【株式会社ソーマコーポレーション 代表取締役社長 相馬 敬介(けいすけ)】 もらった名刺にはそう記されていた。疑っていたわけではないけれど、どうやら本当に不動産会社の社長らしい。「相馬さん、ご迷惑をおかけしてすみません。感謝しています」「いいんだ。僕で力になれるなら」 助手席から申し訳なさそうにつぶやいた姉に相馬さんは穏やかに微笑み返し、車が静かに走り出した。 いったいふたりは、どういう関係なのだろう。 恋人なのだとしたら、姉はまだ二十四歳だし、年齢が離れすぎていると思う。
「でも、そのお部屋をお借りして本当にいいんですか?」 姉の口調は敬語だし、厚意に甘えることに遠慮があるような態度を目にすると、まだ恋人未満の関係なのかもしれない。なんだか今そんなことが気になってしまった。「モデルルームなんだけど売る気はない部屋があってね。そこだと由依ちゃんの大学からも近いし、便利だと思うから」 どうやら姉は私が通っている大学のことも話しているらしく、通学するにも近いところでと相馬さんは部屋を探してくれたのだろう。「一応最上階だから見晴らしもいいし、由依ちゃんが気に入ってくれるといいけど」 一時しのぎで長く居る場所ではないのだから、たいして気に入らなくても私は平気だ。 行くあてなんてほかにはないし、気に入らないから別の部屋を、などと贅沢は言えない。選択肢はどのみちそれひとつだった。 私としては自分の家じゃなければどこでも同じで、今は寝る場所さえあればいい。「香(かおり)ちゃん」 相馬さんが姉をそう呼んだことで、ふたりの関係性がわかってしまった。 ――名前が違ったから。 姉の本名は紗由(さゆ)で、〝香〟というのは源氏名だ。相馬さんはおそらく、姉の客なのだろう。「これが最善策じゃないのはわかってるだろ? 前にも話をしたけど、お母さんのことはもう少し進んだ方向で考えないと」「……はい」 諭すように相馬さんに言われ、姉は肩を落としながらもコクリとうなずく。 姉は母についても相馬さんに相談している様子だった。「大丈夫。僕が力になるよ」「ありがとうございます」 相馬さんはただの客という枠を超えているような気がするし、姉も心を許している感じがするから、やはりふたりは恋人関係なのだろうか。 ハンドルを握る相馬さんの左手の薬指を盗み見ると、指輪はしていない。おそらく独身なのだろう。 いや、『指輪をしていない=独身』とも限らない。 紳士でお金持ちだからモテないはずはないし、相馬さんくらいの年齢の男性なら結婚している可能性が高い。 もしかしたら、ふたりは不倫の関係かもしれない。「由依ちゃん、着いたよ。ここなんだ」 妄想を繰り返していたところへ声をかけられ、現実世界へと引き戻される。
車のドアを開けて外へ出てみると、目の前に真新しくてオシャレなタワーマンションがそびえ立っていた。 ここの最上階の部屋を使わせてもらうのだろうか。 どんなところかまだ見ていないからわからないけれど、相当綺麗で広い部屋なのだと想像がついた。「部屋の中はベッドとかテレビとか、けっこう揃ってると思うから。由依ちゃんの好きなように使ってくれていいよ。もし足りないものがあったら、連絡してくれたら届ける」 私のボストンバッグを手に相馬さんがやさしくゆるりと笑った。 だけど私は不平不満を言える立場ではないと自分でもわかっている。「ありがとうございます。お世話になります」 ペコリと頭を下げると、軽く背中に手を添えられてマンションのエントランスへといざなわれた。 三人でエレベーターに乗って最上階まで上がり、通路の突き当りの部屋まで行くと、相馬さんが鍵を差し込んでドアを開けた。「さ、どうぞ」 けれど玄関に目をやった瞬間、相馬さんの笑顔は消え、代わりに残念そうな溜め息が小さく吐き出された。「誰か、いらっしゃるんですか?」 姉がおずおずとそう聞いたのも無理はない。 薄っすらと部屋の中から明かりが漏れていたし、玄関先に大きなスニーカーが脱いであったから、中に誰かが居るのは明白だった。「ああ……うん。でも心配いらないから、ふたりとも入って」 本当に心配いらないのだろうかと、先ほどの相馬さんの小さな溜め息が私の中で不安を煽る。「ジン、来てたのか」 相馬さんの後に続いて姉と私が部屋の中に入っていくと、リビングに若い男性がひとり、大きなソファーの上にゆったりと座っていた。 ジンと呼ばれたその男性は、据え置かれた一際大きなテレビの前でリモコンを操作していたので、映画かなにかを鑑賞していたようだ。「あぁ、社長」 男性は横目でチラリと私たちを視界に捉えたけれど、この状況に驚きもせずにリモコンをそっとテーブルに置いた。 彼の軽く茶色に染められた髪は特にセットしている様子もなく、服装も黒の上下のルームウェアというリラックスした格好で、まるでここに住んでいるような空気を醸し出している。
「今日はボイストレーニングだと聞いていたから、後でジンには電話するつもりだったんだが」 予想外の展開だとばかりに相馬さんが低い声で言い放ったあと、ソファーに座る彼の隣に立った。「今日はサボった」「はぁ……またショウくんに叱られるぞ」「社長、告げ口はなしで」 あきれたとばかりに肩を落とす相馬さんを私も姉もただ傍観するしかできないのだが、ところでこの人物は誰なのだろう。 意志の強そうな瞳、高くて美しい形の鼻、シャープな顎からの輪郭のラインが芸術的に綺麗で、世間ではなかなかお目にかかれないほどのイケメンだ。「ごめんね」とつぶやきながら、相馬さんが私たちのほうへ振り返った。「実はふたりには言ってなかったけど、僕にはもうひとつ会社があるんだ」 相馬さんが胸ポケットから名刺入れを出し、私と姉に一枚ずつそれを差し出す。 相馬さんはどうやら会社をふたつも経営しているみたいだ。【株式会社ポラリス・プロダクション 代表取締役社長】 今度渡された名刺には、そう書いてあった。「そっちは芸能プロダクションで、縁あって知り合いから引き継いだ会社なんだ」 相馬さんにとって元々こちらは本業ではないように聞こえた。「彼はうちの事務所の子なんだけど。時々この部屋を、くつろぎの場として使ってる」 だから相馬さんは玄関を開けたとき、中にいるのは彼しかいないと想像がついたから、特段驚きはしなかったのだと納得がいった。「ジン、この部屋はしばらく人に貸すことにしたから。悪いけどすぐに帰ってくれないか」 静かだが力強い相馬さんの言葉に、ジンがありえないとばかりに目を見開いた。「ほかの部屋があるだろ?」「それが……貸せるのは今ここしかないんだ。だからジンは自分のマンションに」 どうやら彼にはほかにきちんと自宅があり、ここに住みついているわけではなさそうだ。「このまま家に帰ったら、ショウくんに説教くらうよ」 だから今日はここで寝るつもりだったのに、とジンが口を尖らせる。 さっきから会話に出てきている〝ショウ〟という人と同居していて、顔を合わせたくないのだろうかと勝手に想像してしまう。「それに、ここからのほうが大学に通うのも便利なんだ」「あ、そうか。ジンも由依ちゃんと同じ大学か」 相馬さんにチラリと視線を送られたけれど、学内は広いし、きっと学部も違うだろうから、同
「相馬さん、ご迷惑みたいなので、やっぱりどこかホテルでも探します」 さすがに姉が気を遣い、足元に置かれていた私のボストンバッグを拾い上げた。「それなら僕が手配するよ」「いえ、大丈夫です。あまり高いホテルに連泊だとお金がかかりますし、自分たちで安いホテルを見つけますから」 これは今日一日だけの話ではないのだと、あらためて痛感せざるをえない。 私はいつになったら自宅へ戻れるのだろうかと、悲しい気持ちがこみあげてくる。「ホテル代は僕が出す」「そんなことまでお願いできませんよ!」「いいんだ。誤算が生じた責任は僕にあるから」 当事者の私とソファーから立ち上がったジンを置き去りにして、相馬さんと姉が押し問答を始めてしまった。いったい私はどうなるのだろう。「あのさ、社長、よくわかんないけど今日泊まるところを探してるんだよね?」 腕を大きく上にあげてグイッと伸びをしたあと、ジンが相馬さんに話しかけた。 ジンは相馬さんよりもさらに背が高くて百八十センチ以上ありそう。肩幅も広い。 腰の位置が高くて足も長いし、程よく筋肉もついていてスタイル抜群だと、立ち姿を目にして改めて思った。さすが芸能事務所に所属している人は違う。「向こうの部屋を使えばいいよ。俺が寝るのはいつもこのソファーだし。向こうにはベッドがあるから、寝るくらいはできる」 ジンが相馬さんに奥にある部屋の扉を目線で指し示した。「誰も使ってないから綺麗なままだよ」「ジン、だけど……お前今夜ずっとここにいるつもりか?」 そう問われ、ジンは澄んだ綺麗な瞳を相馬さんに向けてうなずいた。「それはいくらなんでも……」 相馬さんが困ったように姉に視線を向けると、姉もさすがにまずいのでは、と渋い表情をしていた。 ジンの提案に従えば、マンションの一室にふたりきりで一夜を明かすことになる。 私たちはさほど年も変わらない初対面の男女なのだから、考えてみるとかなり気まずいと思うのだけど、彼は平気なのだろうか。「俺、襲ったりしないけど?」「ジン、そうは言ってないだろ」 至極真面目な顔のジンに対し、相馬さんはわかっていると言わんばかりにジンの肩に手を置いた。
「あっちの部屋は鍵が付いてるし、俺に襲われるのが心配なら中から鍵をかければいいよ。それか、社長が住んでるマンションに泊めてあげたら?」「ダメだ。親子ほど年が違うとは言え、俺も一応男だからな」 今度は相馬さんとジンとの間で押し問答が始まってしまう。 なんだか私のほうが疲れてきて、暖かい部屋の布団で足を伸ばして眠れるなら正直どこでもいい気持ちになってきた。 ジンも社長も確かに性別は男性だけれど、姉と違って私のような色気のない女に間違っても変な気は起こさないだろう。「あの、私は向こうのお部屋でも全然構いません」 こうなるとどこだって同じで、選択肢も限られている。 だとしたら、再び行き場を求めてさまようよりも、ここに落ち着いたほうがいいはずだ。「由依……」 そばにいた姉が途端に心配そうな声を出した。「大丈夫だよ。最上階だし広くて綺麗だよね」 私はここを気に入ったふりをして笑ってみせたのだけど、姉を上手く騙せただろうか。「あっちの部屋、見せてもらってもいいですか?」 相馬さんに声をかけると隣の部屋へ案内してくれたが、姉はまだ不安そうな表情をしていた。 案内された部屋の中にはたしかにベッドが設置されており、広めの寝室といった感じだった。 エアコンもあるし、部屋全体が綺麗に清掃されている。壁に向かって机と椅子も置いてあったから、そこで本を読むなり勉強するなりできそうだ。「すごく広いですね。私はパソコンとスマホさえあれば大丈夫なので、十分です」 家を出るとき、私はいつも使っているノートパソコンだけは持って来た。 それさえあれば、私の娯楽なんてどうにでもなるのだ。「もちろんwifiは繋がるよ」 それは本当にありがたくて、ほかに足りないものはないから大丈夫だと相馬さんに微笑み返した。「由依ちゃん、申し訳ないけど今日だけ我慢してくれるかな。明日からはきちんと自分の家に帰るようにジンに話をするから」 リビングにいるジンには聞こえないような小さな声で、相馬さんが私に本当にごめんねと手を合わせた。 元はといえば姉が頼ってしまったのが発端だろうし、相馬さんが謝る必要はなにもない。 私も姉も、感謝こそすれ文句なんて言ったらバチが当たる。「香ちゃんは帰らないとね。お母さんのこと心配だろ」 相馬さんの言葉に、姉が渋い表情のまま「はい」と返事をした。
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普