「今の状態では、由依と毎日顔を合わせるのは無理だと思うのよ」
表情が固まってしまい、なにも言えずにいる私の手をそっと包み込むように、姉が自分の手を覆い重ねた。
「もちろんずっとじゃないよ? お母さんの気持ちが落ち着くまでの間だけ」
姉の話を聞きながらも、キッチンの隅にボストンバッグがあることに気がついた。
なぜこんなところにそれが置かれているのか、と姉に視線を送る。
「お姉ちゃん……これ……」
「お母さんの面倒は私が見るから。由依はしばらくここを離れてほしいの」
「でも……」
「由依の身の周りの物や着替えを適当にバッグに詰めておいたから」
不自然に置かれたあのボストンバッグには、私の身の回りの物が勝手に詰め込まれているのだとわかったが、突然のことに頭がついていかない。
「私の知り合いにね、不動産会社の社長さんがいるの。相談したら空いてるモデルルームを貸してもいいって言ってくれてるのよ。寝泊りくらいなら、そこで充分できるらしいから」
姉は〝避難〟という言い方をしたけれど、私にはどうしても〝追い出される〟感覚しかなく、胸がどんどん締めつけられていく。
仕方ないとはいえ、これしか方法がないのかと悲しくなってきた。
「その人が実はもう外で待っててくれてるの」
さあ行こう、とばかりに急かされても、私の頭と気持ちはまったく追いつかない。
だけど姉は眠っている母を起こさないように気遣って、音を立てずにそっと椅子から立ち上がる。私は未だ放心状態のままなのに。
「由依、お母さんが寝てる間に」
やんわりと促され、しぶしぶ私は重い腰を上げる。
突飛に思える姉の行動だけれど、まとまらない私の頭で考えた直したところでなにも解決策は浮かばないから、今は姉の意見に従うしかなかった。
私が我慢して、それで全部うまくいくのなら構わないと思う自分もいる。
姉とふたりで玄関の外に出ると、気温が下がったせいで空気がとても冷たくて、私はあわてて手に持っていたマフラーを再び首に巻いた。
ボストンバッグを手にして歩く姉の後ろを、くわしい行き先もわからないままとぼとぼと着いていく。
すると、路上に停まっていた一台の高級外車の中から男性が現れて私たちに近づいてきた。
年齢は三十代後半くらいで、オシャレな顎ひげをたくわえたくっきりとした顔立ちの人だった。
「お待たせしてすみません」「いや。大丈夫」 姉が恐縮しながらおじぎをすると、その男性は小さく首を振りながらゆるりと微笑んだ。 高そうなスーツに身を包んでいて、上品で物腰もやわらかい。「君が由依ちゃんだね」 男性の言葉にうなずき、不安なまま私も「はじめまして」と頭を下げる。「寒いから話は車の中でしよう。とりあえず乗って?」 姉の手からボストンバッグを奪うと、男性は私たちをその高級車へと誘導した。「お姉ちゃん……」「大丈夫。信頼できる人だし、 私もついて行くから」 姉のコートの袖口を引っ張りながら立ち止まる。 どうやら姉は、今日の勤務は無理だと判断して仕事を休む連絡をすでに入れていたようだ。 私ひとりでこの男性について行くのかと不安だったけれど、姉が一緒に来てくれるとわかり、ほんの少しだけホッとした。 さすがに見ず知らずの人の車にひとりで乗り込み、どこに連れて行かれるかわからないなんて、こんなに怖いことはない。 姉が助手席に座り、私はボストンバッグと共に後部座席へ乗り込むと、男性が運転席へ座ってドアを閉めた。車内は暖房が効いていてとても暖かい。「改めまして、僕は相馬(そうま)と言います」 その男性は運転席から振り返り、私の表情をうかがいながらスッと一枚名刺を差し出した。「そこに僕の携帯番号があるから、なにか困ったことがあったらいつでも電話していいからね。どんな小さなことでも」 薄っすらとやさしい笑みを浮かべた相馬さんはとても大人で紳士的で、怖いとか気持ち悪いといったような嫌な印象はまったく受けなかった。【株式会社ソーマコーポレーション 代表取締役社長 相馬 敬介(けいすけ)】 もらった名刺にはそう記されていた。疑っていたわけではないけれど、どうやら本当に不動産会社の社長らしい。「相馬さん、ご迷惑をおかけしてすみません。感謝しています」「いいんだ。僕で力になれるなら」 助手席から申し訳なさそうにつぶやいた姉に相馬さんは穏やかに微笑み返し、車が静かに走り出した。 いったいふたりは、どういう関係なのだろう。 恋人なのだとしたら、姉はまだ二十四歳だし、年齢が離れすぎていると思う。
「でも、そのお部屋をお借りして本当にいいんですか?」 姉の口調は敬語だし、厚意に甘えることに遠慮があるような態度を目にすると、まだ恋人未満の関係なのかもしれない。なんだか今そんなことが気になってしまった。「モデルルームなんだけど売る気はない部屋があってね。そこだと由依ちゃんの大学からも近いし、便利だと思うから」 どうやら姉は私が通っている大学のことも話しているらしく、通学するにも近いところでと相馬さんは部屋を探してくれたのだろう。「一応最上階だから見晴らしもいいし、由依ちゃんが気に入ってくれるといいけど」 一時しのぎで長く居る場所ではないのだから、たいして気に入らなくても私は平気だ。 行くあてなんてほかにはないし、気に入らないから別の部屋を、などと贅沢は言えない。選択肢はどのみちそれひとつだった。 私としては自分の家じゃなければどこでも同じで、今は寝る場所さえあればいい。「香(かおり)ちゃん」 相馬さんが姉をそう呼んだことで、ふたりの関係性がわかってしまった。 ――名前が違ったから。 姉の本名は紗由(さゆ)で、〝香〟というのは源氏名だ。相馬さんはおそらく、姉の客なのだろう。「これが最善策じゃないのはわかってるだろ? 前にも話をしたけど、お母さんのことはもう少し進んだ方向で考えないと」「……はい」 諭すように相馬さんに言われ、姉は肩を落としながらもコクリとうなずく。 姉は母についても相馬さんに相談している様子だった。「大丈夫。僕が力になるよ」「ありがとうございます」 相馬さんはただの客という枠を超えているような気がするし、姉も心を許している感じがするから、やはりふたりは恋人関係なのだろうか。 ハンドルを握る相馬さんの左手の薬指を盗み見ると、指輪はしていない。おそらく独身なのだろう。 いや、『指輪をしていない=独身』とも限らない。 紳士でお金持ちだからモテないはずはないし、相馬さんくらいの年齢の男性なら結婚している可能性が高い。 もしかしたら、ふたりは不倫の関係かもしれない。「由依ちゃん、着いたよ。ここなんだ」 妄想を繰り返していたところへ声をかけられ、現実世界へと引き戻される。
車のドアを開けて外へ出てみると、目の前に真新しくてオシャレなタワーマンションがそびえ立っていた。 ここの最上階の部屋を使わせてもらうのだろうか。 どんなところかまだ見ていないからわからないけれど、相当綺麗で広い部屋なのだと想像がついた。「部屋の中はベッドとかテレビとか、けっこう揃ってると思うから。由依ちゃんの好きなように使ってくれていいよ。もし足りないものがあったら、連絡してくれたら届ける」 私のボストンバッグを手に相馬さんがやさしくゆるりと笑った。 だけど私は不平不満を言える立場ではないと自分でもわかっている。「ありがとうございます。お世話になります」 ペコリと頭を下げると、軽く背中に手を添えられてマンションのエントランスへといざなわれた。 三人でエレベーターに乗って最上階まで上がり、通路の突き当りの部屋まで行くと、相馬さんが鍵を差し込んでドアを開けた。「さ、どうぞ」 けれど玄関に目をやった瞬間、相馬さんの笑顔は消え、代わりに残念そうな溜め息が小さく吐き出された。「誰か、いらっしゃるんですか?」 姉がおずおずとそう聞いたのも無理はない。 薄っすらと部屋の中から明かりが漏れていたし、玄関先に大きなスニーカーが脱いであったから、中に誰かが居るのは明白だった。「ああ……うん。でも心配いらないから、ふたりとも入って」 本当に心配いらないのだろうかと、先ほどの相馬さんの小さな溜め息が私の中で不安を煽る。「ジン、来てたのか」 相馬さんの後に続いて姉と私が部屋の中に入っていくと、リビングに若い男性がひとり、大きなソファーの上にゆったりと座っていた。 ジンと呼ばれたその男性は、据え置かれた一際大きなテレビの前でリモコンを操作していたので、映画かなにかを鑑賞していたようだ。「あぁ、社長」 男性は横目でチラリと私たちを視界に捉えたけれど、この状況に驚きもせずにリモコンをそっとテーブルに置いた。 彼の軽く茶色に染められた髪は特にセットしている様子もなく、服装も黒の上下のルームウェアというリラックスした格好で、まるでここに住んでいるような空気を醸し出している。
「今日はボイストレーニングだと聞いていたから、後でジンには電話するつもりだったんだが」 予想外の展開だとばかりに相馬さんが低い声で言い放ったあと、ソファーに座る彼の隣に立った。「今日はサボった」「はぁ……またショウくんに叱られるぞ」「社長、告げ口はなしで」 あきれたとばかりに肩を落とす相馬さんを私も姉もただ傍観するしかできないのだが、ところでこの人物は誰なのだろう。 意志の強そうな瞳、高くて美しい形の鼻、シャープな顎からの輪郭のラインが芸術的に綺麗で、世間ではなかなかお目にかかれないほどのイケメンだ。「ごめんね」とつぶやきながら、相馬さんが私たちのほうへ振り返った。「実はふたりには言ってなかったけど、僕にはもうひとつ会社があるんだ」 相馬さんが胸ポケットから名刺入れを出し、私と姉に一枚ずつそれを差し出す。 相馬さんはどうやら会社をふたつも経営しているみたいだ。【株式会社ポラリス・プロダクション 代表取締役社長】 今度渡された名刺には、そう書いてあった。「そっちは芸能プロダクションで、縁あって知り合いから引き継いだ会社なんだ」 相馬さんにとって元々こちらは本業ではないように聞こえた。「彼はうちの事務所の子なんだけど。時々この部屋を、くつろぎの場として使ってる」 だから相馬さんは玄関を開けたとき、中にいるのは彼しかいないと想像がついたから、特段驚きはしなかったのだと納得がいった。「ジン、この部屋はしばらく人に貸すことにしたから。悪いけどすぐに帰ってくれないか」 静かだが力強い相馬さんの言葉に、ジンがありえないとばかりに目を見開いた。「ほかの部屋があるだろ?」「それが……貸せるのは今ここしかないんだ。だからジンは自分のマンションに」 どうやら彼にはほかにきちんと自宅があり、ここに住みついているわけではなさそうだ。「このまま家に帰ったら、ショウくんに説教くらうよ」 だから今日はここで寝るつもりだったのに、とジンが口を尖らせる。 さっきから会話に出てきている〝ショウ〟という人と同居していて、顔を合わせたくないのだろうかと勝手に想像してしまう。「それに、ここからのほうが大学に通うのも便利なんだ」「あ、そうか。ジンも由依ちゃんと同じ大学か」 相馬さんにチラリと視線を送られたけれど、学内は広いし、きっと学部も違うだろうから、同
「相馬さん、ご迷惑みたいなので、やっぱりどこかホテルでも探します」 さすがに姉が気を遣い、足元に置かれていた私のボストンバッグを拾い上げた。「それなら僕が手配するよ」「いえ、大丈夫です。あまり高いホテルに連泊だとお金がかかりますし、自分たちで安いホテルを見つけますから」 これは今日一日だけの話ではないのだと、あらためて痛感せざるをえない。 私はいつになったら自宅へ戻れるのだろうかと、悲しい気持ちがこみあげてくる。「ホテル代は僕が出す」「そんなことまでお願いできませんよ!」「いいんだ。誤算が生じた責任は僕にあるから」 当事者の私とソファーから立ち上がったジンを置き去りにして、相馬さんと姉が押し問答を始めてしまった。いったい私はどうなるのだろう。「あのさ、社長、よくわかんないけど今日泊まるところを探してるんだよね?」 腕を大きく上にあげてグイッと伸びをしたあと、ジンが相馬さんに話しかけた。 ジンは相馬さんよりもさらに背が高くて百八十センチ以上ありそう。肩幅も広い。 腰の位置が高くて足も長いし、程よく筋肉もついていてスタイル抜群だと、立ち姿を目にして改めて思った。さすが芸能事務所に所属している人は違う。「向こうの部屋を使えばいいよ。俺が寝るのはいつもこのソファーだし。向こうにはベッドがあるから、寝るくらいはできる」 ジンが相馬さんに奥にある部屋の扉を目線で指し示した。「誰も使ってないから綺麗なままだよ」「ジン、だけど……お前今夜ずっとここにいるつもりか?」 そう問われ、ジンは澄んだ綺麗な瞳を相馬さんに向けてうなずいた。「それはいくらなんでも……」 相馬さんが困ったように姉に視線を向けると、姉もさすがにまずいのでは、と渋い表情をしていた。 ジンの提案に従えば、マンションの一室にふたりきりで一夜を明かすことになる。 私たちはさほど年も変わらない初対面の男女なのだから、考えてみるとかなり気まずいと思うのだけど、彼は平気なのだろうか。「俺、襲ったりしないけど?」「ジン、そうは言ってないだろ」 至極真面目な顔のジンに対し、相馬さんはわかっていると言わんばかりにジンの肩に手を置いた。
「あっちの部屋は鍵が付いてるし、俺に襲われるのが心配なら中から鍵をかければいいよ。それか、社長が住んでるマンションに泊めてあげたら?」「ダメだ。親子ほど年が違うとは言え、俺も一応男だからな」 今度は相馬さんとジンとの間で押し問答が始まってしまう。 なんだか私のほうが疲れてきて、暖かい部屋の布団で足を伸ばして眠れるなら正直どこでもいい気持ちになってきた。 ジンも社長も確かに性別は男性だけれど、姉と違って私のような色気のない女に間違っても変な気は起こさないだろう。「あの、私は向こうのお部屋でも全然構いません」 こうなるとどこだって同じで、選択肢も限られている。 だとしたら、再び行き場を求めてさまようよりも、ここに落ち着いたほうがいいはずだ。「由依……」 そばにいた姉が途端に心配そうな声を出した。「大丈夫だよ。最上階だし広くて綺麗だよね」 私はここを気に入ったふりをして笑ってみせたのだけど、姉を上手く騙せただろうか。「あっちの部屋、見せてもらってもいいですか?」 相馬さんに声をかけると隣の部屋へ案内してくれたが、姉はまだ不安そうな表情をしていた。 案内された部屋の中にはたしかにベッドが設置されており、広めの寝室といった感じだった。 エアコンもあるし、部屋全体が綺麗に清掃されている。壁に向かって机と椅子も置いてあったから、そこで本を読むなり勉強するなりできそうだ。「すごく広いですね。私はパソコンとスマホさえあれば大丈夫なので、十分です」 家を出るとき、私はいつも使っているノートパソコンだけは持って来た。 それさえあれば、私の娯楽なんてどうにでもなるのだ。「もちろんwifiは繋がるよ」 それは本当にありがたくて、ほかに足りないものはないから大丈夫だと相馬さんに微笑み返した。「由依ちゃん、申し訳ないけど今日だけ我慢してくれるかな。明日からはきちんと自分の家に帰るようにジンに話をするから」 リビングにいるジンには聞こえないような小さな声で、相馬さんが私に本当にごめんねと手を合わせた。 元はといえば姉が頼ってしまったのが発端だろうし、相馬さんが謝る必要はなにもない。 私も姉も、感謝こそすれ文句なんて言ったらバチが当たる。「香ちゃんは帰らないとね。お母さんのこと心配だろ」 相馬さんの言葉に、姉が渋い表情のまま「はい」と返事をした。
「香ちゃんを車で送ったあと、僕がまたここに戻ってこられたらいいんだけど、ちょっとこのあとどうしても外せない仕事があって……」 相馬さんは腕時計で時間を確認しつつ、どうしたものかと考えこんでしまった。「私のことは気にしないでください。なにか困ったことがあれば名刺の番号に電話、ですよね」 電話をしなくてはいけないような非常事態は、この一晩で起こらないだろうけれど、相馬さんと姉を安心させるために今はそう言うしかない。「由依ちゃん、申し訳ない。あとで香ちゃんに由依ちゃんの番号を聞いておいて、僕からも気になったら連絡するからね」「わかりました」「それに、今日はジンもいるから。僕に電話しづらいことなら、ジンに言ってくれても構わないよ。彼は悪いヤツじゃないし、話し相手くらいにはなるかな」 じっと黙って聞いていたけれど、苦笑いする相馬さんにどう返事をしていいかわからずにさすがに困ってしまった。 私が不安だったり寂しかったらかわいそうだと、相馬さんが気を遣ってくれているのはもちろんわかっている。 だけど今日は特に精神的に打ちのめされていて、心の中がめちゃくちゃで、到底そんな気分ではないのだ。 初対面のジンと愛想よく喋る気力なんて私にはもう残ってはいない。 それでも相馬さんには、わかりましたと取ってつけたような笑みを顔に貼り付けた。 今の私には、そう振る舞うことしかできない。「由依、お母さんのことは私にまかせて。できるだけ早く由依が家に戻れるようにするから」 姉の口調は真剣だけれど、その瞳は不安でいっぱいだった。 結局、姉も今のところ具体的な解決策は思い浮かばず、どうしていいのかわからないのだろう。「お姉ちゃん、無理しないでね。身体に気をつけて」 軽く微笑み、肉付きのない華奢な姉の背中を玄関先でポンポンとさする。 姉は元々細身だけれど、また痩せたようだ。 相馬さんがこの部屋の鍵を私に渡すと、姉とふたりで玄関を出た。 その背中を見送り、扉がガチャリと完全に閉まると身体の力が抜けていく。 私は先ほど案内された部屋へ再び戻り、この空間がしばらくは私の住処なのだと考えたら、どうしようもなく泣きたくなってきた。 椅子に座り、両手で顔を覆うと涙が出そうになったけれど、それを払しょくするようにふるふると小刻みに頭を振った。 もうなにも考えられないし、
放心状態でぼうっとしていると、コンコンとノックの音が聞こえたのでおそるおそるドアを開けてみる。 私の態度が気に入らないのか、扉の前に立っていたジンの眉間にはシワが寄っていた。「警戒心丸出しだな」 今日が初対面なのだから、それはある程度仕方ないと思う。いきなりフレンドリーな態度のほうがよほどおかしい。「もう一度言う。襲ったりしないから。手を出せば、いくらあの社長が温和でもきっと殺される」 襲わないと宣言してくれたのだから、それでいいのだけれど、彼の目力に圧倒された私は呆然としてしまった。「とりあえず、風呂入れば?」「……え?」 急に話題が変わり、今度はいったいなんの話なのかと不思議そうにジンを見つめた。「湯船に熱いお湯を張り直したから温まればいい。堅苦しい格好をしたままだと窮屈だろ。それを言いに来ただけだ」 彼なりに私に気を遣ってくれたのだろう。 言い方は淡々としていたけれど、私のためにお湯を張って準備してくれたのだから。 相馬さんの言っていた通り、彼は悪い人ではないのかもしれない。 それに、ジンに指摘されて、自分の格好がリクルートスーツのままだったと気がついた。 着替えるつもりだったのに、そんな時間すらなくアパートを出てきてしまったから、未だに就活用の戦闘服を着ていた。「バスルームにあるシャンプーとか、社長が高級ホテルみたいに洒落たやつを揃えてる。好きに使えばいい」「本当に使っちゃっていいの?」 目を丸くする私がおかしかったのか、ジンがフフッと声に出して笑った。「俺は遠慮なく使ってる。社長はそんなことで文句は言わない」「……ありがとう」 頭を下げてお礼を言うと、ジンは私の頭にポンと軽く手のひらを置いてから立ち去っていく。 その何気ない笑顔が本当に綺麗で、ドキンと心臓が跳ねた。 姉が用意してくれたボストンバッグの中身を見ると、下着や部屋着まで一通り詰め込んでくれていた。 とりあえず今使う分だけ引っ張り出して、バスルームへと向かう。 タオルの場所を探そうとしたが、高級ホテル並みにふかふかなものが、すぐにわかるようにきちんと積み重ねて置いてあった。 バスルーム自体も我が家とは比較にならないほど広くて、私には贅沢すぎる。
「由依って占いっていうか、予知できる能力があったっけ?」 ツボにはまったようにクスクス笑うジンに、思わずプっと頬を膨らませた。「でもわかるの。この俳優さんはまだ若いけど、同世代のほかの人と比べたら演技力が全然違うし、将来はそれが評価されること間違いなしだよ」「そうか」「ジンもそうなれると思うんだけど」 隣にいるジンをそっと見上げた。 ジンがこのまま芸能の仕事を続けるのなら、きっとそうなれる。 息をのむような演技に誰もが見惚れる、そんな俳優になるだろう。「そうなって欲しいなって……思ってるんだけど……」「俺の話はいいって。ショウくんもドラマの話ばっかりしてくるし、うんざりだ」 デートの時にまでそんな話はしたくないと言わんばかりにジンが顔をしかめた。 最後のデートなのだから楽しく過ごしたいと思っていたのに、私はまたジンをこんな顔にしてしまうのだから本当にダメだな。「社長の不動産会社の話、由依も聞いたんだろ」「……うん」「資金調達は社長がなんとかするらしいし、俺もモデルの仕事を増やして協力すれば大丈夫だって」 ジンがあまりにも楽観的にそう言うから、本当にこのままなんとかならないかと心が揺らぎそうになる。「写真集を出す話もあって、その撮影であちこち海外に行くことになるかもしれないけど……」 ジンが色気をたっぷりと乗せて、私をまっすぐ見つめた。「俺、ちゃんと由依のところに戻ってくるから」 ぶわっと一瞬で目に涙が溜まっていく。 私は照れを装い、視線を外しながら笑ってその涙をごまかした。 そんなことを言われたら、離れられずにその胸にすがりつきたくなってしまう。 この日、私たちは映画を見たあとに食事をして会話を楽しんだ。 駅の改札で彼が私の額に素早くキスを落とし、繋いでいた手を放して彼の後ろ姿を見送ったら、すぐに涙があふれてきた。 こうすると決めたのは私なのだから、泣く資格なんてないのに。『ごめんなさい』と彼の後ろ姿に向けて、何度も謝りの言葉を心の中で唱える。 それと同時に、もっと愛情表現をすればよかったと後悔の念も押し寄せた。 愛していると、彼にもっと伝えればよかった、と。 このあと私は相馬さんのマンションを出て ――― 姿を消した。
「由依が観たい映画って、これか」 ジンが映画館のパネルポスターを見ながらポツリとつぶやいた。 私はその姿を目に焼き付けるように、隣に佇むジンを眺めていた。 今日のジンはなぜか黒ぶちめがねをかけている。 目は悪くなかったはずだから、おそらく伊達めがねだろう。 普通の大学生を装う意図があるのか、特に意味はないのかわからないけれど。「恋愛映画だな。由依と見るならなんでもいい」「なんだか楽しそうね」 以前と少し変わったことと言えば、今日のジンは表情が柔らかくて機嫌が良さそうな感じがした。「由依と会ってデートするのは久しぶりだから」「……あ」「どうした?」「ううん。何でもない」 私はふるふると頭を振り、照れくささから視線を外した。 思わず言葉が出たのは、ジンが左側にエクボを作り、パッと花が咲いたように笑ったからだった。 それは私が心待ちにしていた大好きな笑顔で、久しく見ていなかった光り輝く彼の顔を最後に目に焼き付けることができたのだから、これだけでもう十分だ。 少しずつでも、私の前でなくてもいいから、彼が笑えるようになってくれたならそれでいい。「何でこの映画なんだ? もっとほかにも面白そうな作品があったのに」「だってこの俳優さん……素敵」 ポスターに写っている俳優をじっと見つめながら言うと、隣から小さく舌打ちするような音が聞こえた。「由依はこういう顔がタイプなのか? たしかにイケメンだけど、どこにでもいる若い俳優だろ」 私はポスターに視線を注いだまま、ゆっくりと首を横に振る。 私が素敵だと感じたのは恋愛映画に向いていそうな綺麗な顔だからではなく、その俳優はとても演技が上手なのだ。 逆に甘いマスクが邪魔をして、それに気づかれにくいのではないかと思うくらいに。「顔じゃなくて演技がタイプなの。この人はきっとすごい俳優さんになる。今はまだ売れてる途中かな。将来はヒーローからヒールまでカメレオンみたいに変化してなんでも演じられる俳優さんになるよ。断言する!」 きっぱりと私がそう言い切ったので、ジンは驚いて目を丸くしていた。
私はマンションに帰ってさっそく荷造りを始めた。 来たときと同じようにボストンバッグひとつで出ていくわけにはいかない。 年始に姉が送ってきた八つのダンボールに再び荷物を詰め直す作業があるからだ。 幸いジンはしばらくここには来ないはずだから、彼に知られずに荷造りはできる。 実家に帰るのだと嘘をつきたくはないし、引っ越し先の新しい住所を教えてしまえばジンが訪ねてくるのは目に見えている。 それを避けるために『消える』道を選んだ私は卑怯者だ。 それにこのマンションにはジンとの思い出がたくさん残っているから、別れるのなら私も早くここを出たい。 そう思うくらいつらいと自覚したら、自然と涙が出た。 別れるという私の決断は間違っているだろうか。 ……いや、きっとこれが正解だ。 相馬さんも、姉も、母も、ショウさんも、みんなが幸せになれる。 ジンは私がいなくなれば少しは寂しがるかもしれないけれど、それはしばらくの間だけだろう。 たぶん私よりも彼のほうがダメージは少ないはず。 ―――私のほうが、ジンを愛してる。 だけど私と一緒にいることで彼が輝けないのは嫌だし、笑顔になれないのも嫌だ。 彼が身を置くべき場所は芸能界で、私のためだけに自分の住む世界を変えてほしくはない。 私のことは忘れてくれていい。 華やかな世界でキラキラと輝き、毎日を忙しく過ごしていれば私の記憶など薄れるはずだ。 彼には自分の道を行ってもらいたい。 私は不幸を呼ぶ女なのかもしれない。 だからといって、周りの人たちまで巻き込みたくはない。 それから五日が過ぎ、甲さんが新しい住処となるマンションを見つけたと連絡をくれた。 今のバイトは辞めて新しく探しなおすつもりだったから場所はどこでも良かったし、私はすぐにそのマンションを契約した。『会えないか?』 最後に一目、ジンの顔を見たい。 そう思っていたタイミングでジンから連絡が来た。 どうやら今は日本に帰ってきているらしい。『ジンと一緒に見たい映画があるの』 私は自分から誘うようなメッセージをジンに送り、映画デートをすることにした。 今日もじめじめと雨が降って蒸し暑い中、映画館に赴くとジンが待ち合わせ場所に先に来ていた。
「わかった。それは俺が責任を持って対処すると約束する。……君のお姉さんとお母さんを人質に取ったような言い方をしてすまないと思ってる。だけど俺にとってはジンしかいないんだ」 まさか謝られるとは思っていなかった。 ショウさんは、決して悪い人ではない。 誰にだって守りたい人や事柄があるし、ショウさんにとってジンは家族同然で、実の弟のような存在だから。 ショウさんはジンのことを思い、世界に羽ばたいて欲しいだけなんだと私にも理解できた。 私と一緒にいることで、彼が窮地に立たされてしまうのなら…… 私から離れるしかないじゃないか。「由依ちゃん、さっき『消える』って言ったけど、あのマンションを出るの?」 心配そうな面持で甲さんに問われ、私は小さくうなずいた。「相馬さんが大変なことになってるのにこれ以上お世話にはなれません。住むところを早急に見つけて引っ越します」「実家には帰らないのか?」 ショウさんが少しばかり気の毒そうな表情を浮かべて私の返事を待った。「帰りません」「わかった。甲、由依の住むとこ見つけてやって。引っ越し費用は俺が出す」 うなずきながら言うショウさんに、私は慌てて首をブンブンと横に振った。「私は大丈夫ですから。それよりショウさんにもうひとつ約束してほしいことがあります」「なんだ?」 頬の涙をぬぐい、ピンと姿勢を正す私を見てショウさんが様子をうかがうように眉根を寄せる。「ジンの笑顔を取り戻してください。ショウさんは頭が良くて勘の鋭い人ですから、こんなことを私から言われなくてもわかってると思いますけど、最近のジンは本当に笑わないんです。私と出会ったころはいつも明るく笑っていたのに」 私の言葉を聞き、ショウさんは無言で視線をテーブルへと下げた。「私、ジンの笑顔が好きなんです。片側だけにできるエクボが素敵だから。でもしばらくそんな笑顔は見ていません。エクボだって左側にできていたはずだけど、もしかしたら右側だったかな?って忘れちゃうくらい」「………」「彼がまた、自然に笑えるようにしてあげてください」 頭を下げると、ショウさんはつらそうに参ったという表情を浮かべていた。「自分も大変なのに、最後に頼むのがジンのことだなんてな」 呆れられたのかもしれないが、今言ったことが私の本心だ。 誰もが惹きつけられる不思議な空気を纏う笑顔
激しく動悸がして、息ができないくらい苦しくなった。 後頭部をなにかで殴られたような衝撃を受けている私を気の毒に思ったのか、さすがに言い過ぎだと甲さんが止めに入ってくれた。 姉と母は相馬さんの恩恵があってこそ今がある。 ジンのことで頭がいっぱいで、大事なことなのにすっかり抜け落ちていた。 就職するのだと、気恥ずかしそうに話していた姉の姿が頭に浮かんだ。 それがダメになったら、また夜の仕事を続けるのだろうか。 母も施設の入所が決まっているようだったし、そこで治療しながらゆっくりと過ごすはずだ。 なのに白紙となれば、また自宅で暴れたりするのかもしれない。 姉と母の幸せを奪って踏みつけるようなことをし、お世話になった相馬さんが大変なときに恩を仇で返すようなことをしてまでもジンと一緒にいたいだなんて、そんなワガママが許されるはずがないじゃないか。 ボキッと音を立てて、このとき私の心が折れた。 私はなんのために実家を出てあのマンションで暮らし、就職をして独り立ちしたかったのかと理由を思い返せば、すべては家族のためだったはず。「君が離れてくれればジンは必ず大成する。台湾と日本だけじゃない。韓国、フィリピン、タイ、シンガポール、中国本土、香港……必ずアジアは制覇する。俺がさせてみせる。そしてその次はハリウッドだ」 夢で終わらせるつもりはないのだと、ショウさんが至極真面目に言ってるのが伝わってくる。「君が思っているより、ジンの“光”は強い」 ジンは生まれもってのスターで、その使命をもって生まれてきた。同じ人間でも私とは全然違う。 そんな、星のような人に近づきたいだとか、今なら手が届きそうだなんて願った私が ―――身の程知らずだったのだ。「もし、姉の就職や母の施設入所が白紙になりそうになったら、ショウさんが助けてくれませんか?」 ボロボロと止まらない涙を流す私を見て、ショウさんは黙って聞いていたがなにかを感じ取ったらしい。「由依、それは……」「…………私は消えます」 涙で濡れて視界が歪んで見えるけれど、ショウさんがホッと息をついたのがわかった。「その代わり、姉と母を助けてください。お願いします」 最初から許されない身分違いの恋だったのだ。 周りに反対され、ほかの人を不幸にしてまで突き進むだなんて、私にはやっぱりできない。 私の大切な人
「ちょっと待ってください。なぜそうなるんですか?」「俺だってこんなことを君に頼みたくはなかった。だけどジンがドラマの仕事を受けない理由はただひとつなんだ。君と一緒にいたい気持ちが強い」 最初はそうだったかもしれないけれど、相馬さんの会社の資金繰りの話をすればジンだって気持ちが変わるかもしれないのに。「私が説得してみます。事情があるとわかればジンはオファーを受けるはずです」「いや、無理だ。ジン自身がこの倒産危機を知らないとでも思ってるのか? すでに話してある。それでもジンは君と離れるのが嫌で、芸能活動を辞めるとまで言った。そうなると俺は、アイツと君を無理にでも引き離すしかない。なりふり構わないと言ったろ。必ずドラマには出演させる。俺は本気だ」 決して激高はしていなかったが、ただ淡々と話すショウさんが私は逆に怖くなった。 誰がなんと言おうと絶対に自分の意見を押し通して、この局面を必ず乗り越えるのだという固い決意がショウさんの中に見えたから。「気づいたんだ。今後もし同じことが起きたらジンはまた君を優先する。それは芸能活動をしていくにあたって“支障”になる。だったら今のうちに別れさせるべきだろう」 いつも助け舟を出してくれる甲さんも、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。 次から次へと矢継ぎ早に言葉を並べられ、私は頭が混乱してなにも言い返せない悔しさからかじわりと目頭が熱くなった。「それでも………どうしても一緒にいてはダメですか?」「……由依」「私はジンのことが、すごく好きなんです」 涙がポロリと両目からこぼれ落ちた。 一度だけワガママが許されるのならば、ジンと一緒にいたい。 ほかには何も望まない。愛する彼と笑って一緒に生きていきたいだけだ。 そんなたったひとつの切なる願いを訴えてみたけれど、ショウさんは眉間にグッとシワを寄せて私を真正面から見つめた。「もっとすんなりとわかってもらえると思ってた。君は今俺が話したことをなにも理解できなかったのか?」「いえ、そういうわけでは……」 手の平で頬の涙を拭う私に、ショウさんは動揺することなく視線を送り続けてきた。「今回の倒産危機は君も他人事ではない。今君が住んでるマンションも社長は手放すことになるだろう。それにお姉さんの就職もきっと白紙だ。系列会社だといっても間違いなく危機に陥り、コネで
「俺らはポラリス・プロの人間だが他人事じゃない。相馬コーポレーションの資金力でポラリス・プロは成り立ってると言っても過言じゃないからだ。あっちに倒れられたら、こっちも共倒れだ」 いつも緩慢な笑みを浮かべる癒し系の甲さんまで神妙な顔つきでただ聞いているだけだから、どうやら私が思う以上に事は深刻なのだろう。「資金繰りは社長がなんとかするって言ってるけどね。だけどショウさんのツテで、台湾の事務所にも借り入れをお願いしてるんだ」 個人でなんとかなるような、そんな金額ではないと思う。 私は会社の経営に関しては詳しくないけれどその程度のことはわかる。「幸い、台湾の事務所は協力すると言ってくれてる。だけどそれには条件を突き付けられた」「……条件?」 おそるおそる聞き返すとショウさんはコクリと首を縦に振った。「例の長編ドラマにジンを出演させることだ」 あのオファーについては、ジンが頑なに嫌がっていて未だに保留の状態らしい。「こうなったら、なりふりなんて構っていられない。俺はこの話を受けるつもりでいる」「でもジンが……」「なんとしてでもあのドラマには出てもらう。俺が出させる」 強行突破、というのはこういうのを言うのだろう。 本人の意向を無視してでも出演させるとは、かなり強引なやり方だと思う。 だけどジンの気持ちを無視してまでも、その選択しかないのだと追い詰められているみたいだった。「どうして台湾の事務所はそのドラマにこだわるんですか?」 仕事ならほかにもオファーがあるはずなのに、本人が嫌がっている仕事をなぜ無理強いするのか私はそこが引っかかる。「長編ドラマの仕事を受けたら、ギャラとして事務所に大きなカネが入る。だけどそれだけじゃない。断れば懇意にしているプロデューサーの顔に泥を塗ることになる。事務所はプロデューサーと関係が悪化するのを避けたいんだ」 力のあるプロデューサーに逆らいたくないからだとショウさんが説明してくれた。 それにドラマのオファー自体は悪い話ではない。 むしろジンの人気を後押しするきっかけになるはずだから、あとはジン自身が首を縦に振るだけだとみんな思っているのだろう。「相馬コーポレーションもポラリス・プロも倒産回避。ジンは俳優として本格デビューして人気が上がる。ドラマはヒット間違いなし。それで全部丸く収まる」 たしかにシ
ジンは私の頭を優しく撫で、額にチュっとキスを落とす。「外で会って平気?」「日本は大丈夫だろ。不安ならホテルで密会する?」「え?! 」 一瞬動揺した私を見て、ジンが吹き出すように盛大に笑った。「なにを想像したんだよ。まぁ、間違ってはいないけど」「もう!」 ケラケラと笑う彼を見て、なぜか少しホッとした。 出会ったころはよく笑っていたのに、最近めっきり笑顔が減った気がしていたから。 彼にはいつも笑っていてほしいし、自分の周りにいる人たちもみんな笑顔になれたらいい。 だけど私にとって彼はもう特別な存在だから、誰よりも心から笑顔でいてほしいと願っている。 ジンとショウさんの言い争いが絶えなくなった、と甲さんから聞いたのは、それから一ヶ月ほど経ったころだった。 ドラマのオファーのことで大揉めになっているのかと思ったけれど、それだけではないらしい。 今後の仕事の方針や、プライベートの過ごし方など、あらゆることで衝突する日々なのだそう。 ほんの些細なことでも衝突するなんて以前なら考えられない光景だけれど、今のジンとショウさんならあり得ると思う。 空気が悪いなんてもんじゃない、と甲さんが嘆くぐらいだから相当殺伐としているのだろう。 そんな日々も過ぎていき、季節は梅雨も半ばを迎えようかという蒸し暑さの中。―― 多くの人間が関係する大変な事が起きた。「話がある」 私を呼び出したのはショウさんで、用件はなんだろうかと特に気構えることなく待ち合わせのカフェへと向かった。 するとそこには甲さんもいて、私を手招きしている。 挨拶もそこそこに私の向かい側に座るふたりの顔を見て、なにか良くないことを告げられると予感した。 こういうときの勘は、なぜか当たるものだ。「回りくどく言うのは苦手だから結論から言う」 無表情に淡々とショウさんが話を切り出した。「ジンと、別れてくれ」 神妙な顔つきで私を見つめるショウさんは苦渋の表情だ。「あ、あの……」 一瞬で声が震えた。 誰かに交際を反対されるかもしれないと一定の覚悟はあったけれど、交際の事実を自分たちから伝えないままショウさんからいきなり別れろと言われて、私の頭は途端に混乱し始めた。「お前たちが数ヶ月前から付き合ってるのは知っていた。相手が由依だから黙認してただけだ」 ショウさんは私たちの交際を
「さっきショウさんに聞いたの。ドラマの話とか、第二弾の記事とか」「俺、しばらくここに来るのはやめる」 ジンは不本意だ、という気持ちを前面に出した表情をしていた。 さっきの電話の口調とは反対に、やけに素直なところに私は違和感を覚えた。「ショウくんに、お前が出入りすることで由依がそこに住めなくなるかもしれない。由依が追い出されてもいいのか? って説教された」 私のためを思って動けと、ショウさんはある意味ジンを脅したみたいだ。 自分のことを理由にされるのは気持ちよくはないけれど、それでもショウさんの助言どおり、ジンが不用意にここに出入りするのは危険だと私も思う。 彼がこれ以上週刊誌で騒がれて傷つかないためにも、しばらくここに立ち寄らないのは私も賛成だ。「ショウさんから聞いたけど、ドラマには出ないの?」 早速もう帰るつもりなのか、テーブルの上を片付け始めたジンに言葉をかけると、なんでもないことのようにあっさりと首を縦に振った。「断ってくれって言ってる」「せっかくの大きな仕事なのに」 考える余地なく断るにはもったいない話だと、私の気持ちが言葉尻で伝わったのか、ジンは私に小難しい視線を送って来た。「相手の女優が気に入らないのもあるんだ。柳 莉紋(リュウ リーウェン)で内定してるらしいから」「りゅ……?」「ほら、俺が初めて出たMVで共演した子」 あのMVでしか見たことはないけれど、今でもはっきりと覚えている。 男心をくすぐるようなほんわかとした雰囲気のとってもかわいらしい容姿をした女性だった。「すごくかわいい人なのに、どうして気に入らないの?」 彼女を思い出しながらも笑顔で話す私とは対照的に、ジンがうんざりだとばかりに顔をしかめた。「顔はどうでもいいとして性格が悪いんだ。ありえないくらいにワガママ」 おそらくだけれど、彼女のそのワガママな性格に以前直面したのだろう。「また共演なんてごめんだ」と、ジンが心の底から嫌そうに言った。 人は見かけによらないとはこのことで、あんなにかわいらしくて素直そうな女性なのに、性格の悪い一面があるとは思いもよらなかった。「これでドラマの話が来なくなるならそれまでだ。細々とモデルだけやってもいいし、全部やめたっていい」「……ジン」「俺は北京語ができるから、どこか日本の企業に就職できるだろう」 ジン