「今の状態では、由依と毎日顔を合わせるのは無理だと思うのよ」
表情が固まってしまい、なにも言えずにいる私の手をそっと包み込むように、姉が自分の手を覆い重ねた。
「もちろんずっとじゃないよ? お母さんの気持ちが落ち着くまでの間だけ」
姉の話を聞きながらも、キッチンの隅にボストンバッグがあることに気がついた。
なぜこんなところにそれが置かれているのか、と姉に視線を送る。
「お姉ちゃん……これ……」
「お母さんの面倒は私が見るから。由依はしばらくここを離れてほしいの」
「でも……」
「由依の身の周りの物や着替えを適当にバッグに詰めておいたから」
不自然に置かれたあのボストンバッグには、私の身の回りの物が勝手に詰め込まれているのだとわかったが、突然のことに頭がついていかない。
「私の知り合いにね、不動産会社の社長さんがいるの。相談したら空いてるモデルルームを貸してもいいって言ってくれてるのよ。寝泊りくらいなら、そこで充分できるらしいから」
姉は〝避難〟という言い方をしたけれど、私にはどうしても〝追い出される〟感覚しかなく、胸がどんどん締めつけられていく。
仕方ないとはいえ、これしか方法がないのかと悲しくなってきた。
「その人が実はもう外で待っててくれてるの」
さあ行こう、とばかりに急かされても、私の頭と気持ちはまったく追いつかない。
だけど姉は眠っている母を起こさないように気遣って、音を立てずにそっと椅子から立ち上がる。私は未だ放心状態のままなのに。
「由依、お母さんが寝てる間に」
やんわりと促され、しぶしぶ私は重い腰を上げる。
突飛に思える姉の行動だけれど、まとまらない私の頭で考えた直したところでなにも解決策は浮かばないから、今は姉の意見に従うしかなかった。
私が我慢して、それで全部うまくいくのなら構わないと思う自分もいる。
姉とふたりで玄関の外に出ると、気温が下がったせいで空気がとても冷たくて、私はあわてて手に持っていたマフラーを再び首に巻いた。
ボストンバッグを手にして歩く姉の後ろを、くわしい行き先もわからないままとぼとぼと着いていく。
すると、路上に停まっていた一台の高級外車の中から男性が現れて私たちに近づいてきた。
年齢は三十代後半くらいで、オシャレな顎ひげをたくわえたくっきりとした顔立ちの人だった。
「お待たせしてすみません」「いや。大丈夫」 姉が恐縮しながらおじぎをすると、その男性は小さく首を振りながらゆるりと微笑んだ。 高そうなスーツに身を包んでいて、上品で物腰もやわらかい。「君が由依ちゃんだね」 男性の言葉にうなずき、不安なまま私も「はじめまして」と頭を下げる。「寒いから話は車の中でしよう。とりあえず乗って?」 姉の手からボストンバッグを奪うと、男性は私たちをその高級車へと誘導した。「お姉ちゃん……」「大丈夫。信頼できる人だし、 私もついて行くから」 姉のコートの袖口を引っ張りながら立ち止まる。 どうやら姉は、今日の勤務は無理だと判断して仕事を休む連絡をすでに入れていたようだ。 私ひとりでこの男性について行くのかと不安だったけれど、姉が一緒に来てくれるとわかり、ほんの少しだけホッとした。 さすがに見ず知らずの人の車にひとりで乗り込み、どこに連れて行かれるかわからないなんて、こんなに怖いことはない。 姉が助手席に座り、私はボストンバッグと共に後部座席へ乗り込むと、男性が運転席へ座ってドアを閉めた。車内は暖房が効いていてとても暖かい。「改めまして、僕は相馬(そうま)と言います」 その男性は運転席から振り返り、私の表情をうかがいながらスッと一枚名刺を差し出した。「そこに僕の携帯番号があるから、なにか困ったことがあったらいつでも電話していいからね。どんな小さなことでも」 薄っすらとやさしい笑みを浮かべた相馬さんはとても大人で紳士的で、怖いとか気持ち悪いといったような嫌な印象はまったく受けなかった。【株式会社ソーマコーポレーション 代表取締役社長 相馬 敬介(けいすけ)】 もらった名刺にはそう記されていた。疑っていたわけではないけれど、どうやら本当に不動産会社の社長らしい。「相馬さん、ご迷惑をおかけしてすみません。感謝しています」「いいんだ。僕で力になれるなら」 助手席から申し訳なさそうにつぶやいた姉に相馬さんは穏やかに微笑み返し、車が静かに走り出した。 いったいふたりは、どういう関係なのだろう。 恋人なのだとしたら、姉はまだ二十四歳だし、年齢が離れすぎていると思う。
「でも、そのお部屋をお借りして本当にいいんですか?」 姉の口調は敬語だし、厚意に甘えることに遠慮があるような態度を目にすると、まだ恋人未満の関係なのかもしれない。なんだか今そんなことが気になってしまった。「モデルルームなんだけど売る気はない部屋があってね。そこだと由依ちゃんの大学からも近いし、便利だと思うから」 どうやら姉は私が通っている大学のことも話しているらしく、通学するにも近いところでと相馬さんは部屋を探してくれたのだろう。「一応最上階だから見晴らしもいいし、由依ちゃんが気に入ってくれるといいけど」 一時しのぎで長く居る場所ではないのだから、たいして気に入らなくても私は平気だ。 行くあてなんてほかにはないし、気に入らないから別の部屋を、などと贅沢は言えない。選択肢はどのみちそれひとつだった。 私としては自分の家じゃなければどこでも同じで、今は寝る場所さえあればいい。「香(かおり)ちゃん」 相馬さんが姉をそう呼んだことで、ふたりの関係性がわかってしまった。 ――名前が違ったから。 姉の本名は紗由(さゆ)で、〝香〟というのは源氏名だ。相馬さんはおそらく、姉の客なのだろう。「これが最善策じゃないのはわかってるだろ? 前にも話をしたけど、お母さんのことはもう少し進んだ方向で考えないと」「……はい」 諭すように相馬さんに言われ、姉は肩を落としながらもコクリとうなずく。 姉は母についても相馬さんに相談している様子だった。「大丈夫。僕が力になるよ」「ありがとうございます」 相馬さんはただの客という枠を超えているような気がするし、姉も心を許している感じがするから、やはりふたりは恋人関係なのだろうか。 ハンドルを握る相馬さんの左手の薬指を盗み見ると、指輪はしていない。おそらく独身なのだろう。 いや、『指輪をしていない=独身』とも限らない。 紳士でお金持ちだからモテないはずはないし、相馬さんくらいの年齢の男性なら結婚している可能性が高い。 もしかしたら、ふたりは不倫の関係かもしれない。「由依ちゃん、着いたよ。ここなんだ」 妄想を繰り返していたところへ声をかけられ、現実世界へと引き戻される。
車のドアを開けて外へ出てみると、目の前に真新しくてオシャレなタワーマンションがそびえ立っていた。 ここの最上階の部屋を使わせてもらうのだろうか。 どんなところかまだ見ていないからわからないけれど、相当綺麗で広い部屋なのだと想像がついた。「部屋の中はベッドとかテレビとか、けっこう揃ってると思うから。由依ちゃんの好きなように使ってくれていいよ。もし足りないものがあったら、連絡してくれたら届ける」 私のボストンバッグを手に相馬さんがやさしくゆるりと笑った。 だけど私は不平不満を言える立場ではないと自分でもわかっている。「ありがとうございます。お世話になります」 ペコリと頭を下げると、軽く背中に手を添えられてマンションのエントランスへといざなわれた。 三人でエレベーターに乗って最上階まで上がり、通路の突き当りの部屋まで行くと、相馬さんが鍵を差し込んでドアを開けた。「さ、どうぞ」 けれど玄関に目をやった瞬間、相馬さんの笑顔は消え、代わりに残念そうな溜め息が小さく吐き出された。「誰か、いらっしゃるんですか?」 姉がおずおずとそう聞いたのも無理はない。 薄っすらと部屋の中から明かりが漏れていたし、玄関先に大きなスニーカーが脱いであったから、中に誰かが居るのは明白だった。「ああ……うん。でも心配いらないから、ふたりとも入って」 本当に心配いらないのだろうかと、先ほどの相馬さんの小さな溜め息が私の中で不安を煽る。「ジン、来てたのか」 相馬さんの後に続いて姉と私が部屋の中に入っていくと、リビングに若い男性がひとり、大きなソファーの上にゆったりと座っていた。 ジンと呼ばれたその男性は、据え置かれた一際大きなテレビの前でリモコンを操作していたので、映画かなにかを鑑賞していたようだ。「あぁ、社長」 男性は横目でチラリと私たちを視界に捉えたけれど、この状況に驚きもせずにリモコンをそっとテーブルに置いた。 彼の軽く茶色に染められた髪は特にセットしている様子もなく、服装も黒の上下のルームウェアというリラックスした格好で、まるでここに住んでいるような空気を醸し出している。
「今日はボイストレーニングだと聞いていたから、後でジンには電話するつもりだったんだが」 予想外の展開だとばかりに相馬さんが低い声で言い放ったあと、ソファーに座る彼の隣に立った。「今日はサボった」「はぁ……またショウくんに叱られるぞ」「社長、告げ口はなしで」 あきれたとばかりに肩を落とす相馬さんを私も姉もただ傍観するしかできないのだが、ところでこの人物は誰なのだろう。 意志の強そうな瞳、高くて美しい形の鼻、シャープな顎からの輪郭のラインが芸術的に綺麗で、世間ではなかなかお目にかかれないほどのイケメンだ。「ごめんね」とつぶやきながら、相馬さんが私たちのほうへ振り返った。「実はふたりには言ってなかったけど、僕にはもうひとつ会社があるんだ」 相馬さんが胸ポケットから名刺入れを出し、私と姉に一枚ずつそれを差し出す。 相馬さんはどうやら会社をふたつも経営しているみたいだ。【株式会社ポラリス・プロダクション 代表取締役社長】 今度渡された名刺には、そう書いてあった。「そっちは芸能プロダクションで、縁あって知り合いから引き継いだ会社なんだ」 相馬さんにとって元々こちらは本業ではないように聞こえた。「彼はうちの事務所の子なんだけど。時々この部屋を、くつろぎの場として使ってる」 だから相馬さんは玄関を開けたとき、中にいるのは彼しかいないと想像がついたから、特段驚きはしなかったのだと納得がいった。「ジン、この部屋はしばらく人に貸すことにしたから。悪いけどすぐに帰ってくれないか」 静かだが力強い相馬さんの言葉に、ジンがありえないとばかりに目を見開いた。「ほかの部屋があるだろ?」「それが……貸せるのは今ここしかないんだ。だからジンは自分のマンションに」 どうやら彼にはほかにきちんと自宅があり、ここに住みついているわけではなさそうだ。「このまま家に帰ったら、ショウくんに説教くらうよ」 だから今日はここで寝るつもりだったのに、とジンが口を尖らせる。 さっきから会話に出てきている〝ショウ〟という人と同居していて、顔を合わせたくないのだろうかと勝手に想像してしまう。「それに、ここからのほうが大学に通うのも便利なんだ」「あ、そうか。ジンも由依ちゃんと同じ大学か」 相馬さんにチラリと視線を送られたけれど、学内は広いし、きっと学部も違うだろうから、同
吐き出す息が真っ白なこの季節は吸い込む空気が冷たく、乾燥していて喉が痛い。 だけど首元に巻いたマフラーのせいで、身体は若干暑いくらいだ。 履き慣らしたはずの黒のパンプスもつま先が痛くなっている。 でも今はそれを気にしている余裕はまったくなく、私は髪を振り乱しながらあわてて往来をひた走る。「すみません、遅くなりました!」 バイト先のカフェへ辿り着くと、一目散に店長に駆け寄って深々と頭を下げた。 遅れるとわかった時点で電話を入れたとはいえ、十五分の遅刻だ。「そんなに焦らなくてもよかったのに」 店長は私の姿を視界に捉えると、あきれ気味に緩慢な笑みを浮かべた。やさしくてダンディな店長が神様に見えた瞬間だった。「リクルートスーツ……今日、面接だったのか?」 スタッフルームのロッカーの前でマフラーをはずし、乱れたセミロングの髪を手櫛で直す私に武田くんが声をかけてきた。 私たちは高校の同級生で、今はお互い別々の大学に通っているけれど、奇遇にもこのバイト先で再会した。 彼は昔からガッチリ体型だから、その肉体を活かすのならほかの選択肢もあっただろうに、なぜかカフェでバイトをしている。「うん。急に来るように言われちゃって」「そっか。断るわけにもいかないよな」 今日の面接は小さな電子部品メーカーの事務職の募集だった。 急に呼び出されてしまったのだけれど、武田くんの言う通り、断る選択肢は持ち合わせていない。「当然だよ。まだ内定ゼロだもん。どんな会社でもいいから早く就職決めないといけないしね」 溜め息を吐きながら、武田くんになんとか笑みを返した。 私の名は安田由依(やすだゆい)。年齢は二十二歳。 大学四年の冬にして未だどこの企業からも内定をもらえていない、いわゆる就活難民だ。 自分ではがんばっているつもりなのだが、ここまで面接に受からないとなると、いったいなにがダメなのかわからない。 このままでは卒業後の春から私はどう考えても無職になる。 焦っても仕方ないのかもしれないが、精神的にはどんどん追い込まれている。
「しかし、こんな日にまで地味なスーツでドタバタ走るなんてな」 客観的感想を述べる武田くんに対し、ムスッとして口を尖らせた。 武田くんは早々に大手企業から内定をもらっているから、私と違って気持ちに余裕がある。 私も早く就職を決めたいけれど、なかなかうまくいかないのが現状だ。「怒るなよ。珍しいと思っただけだ。世間じゃ今日がなんの日かくらい知ってんだろ」 もちろん知っている、と私はそれに無言でうなずいた。 このカフェの店内も、今月に入ってから存在感のある大きなツリーが置かれ、赤や緑のモールで派手な飾りつけがしてある。 今日はクリスマス・イヴだ。ロマンティックな恋人たちの日なのに、私は面接が長引いたからバイトに遅刻したと、リクルートスーツ姿でドタバタと息を切らして走っていた。 恋人のいない私には、クリスマスなんて関係ないのだけれど、今日の格好はさすがに自分でも色気がないと思う。「武田くんだって、デートしないでバイトしてるじゃない」「そうだな。俺も彼女いないから。恋人のいない者同士、バイト終わったらどっか行くか? 飯くらい奢ってやるよ」 武田くんの言葉が冗談なのかそうではないのか、いまいちわからなくて押し黙る。 彼が友達という枠を超えて言っているのだとしたらどうしよう、と一瞬臆したが、それは考えすぎだろうか。「ごめんね。実はお母さんが昨日から体調悪くて、バイトが終わったら晩ご飯を作らなきゃいけないの。お姉ちゃんが仕事終わりにケーキを買って帰ってくれるから、今年は家族でクリスマスなんだ」 笑みを浮かべたつもりだが、うまく笑えていたのか自信がなくて武田くんから目を逸らしてしまう。「そうか、残念」 彼が一瞬、心配そうな顔をしたように見えたけれど、それは気のせいだと思いたい。 実は先ほどの発言には、いくつかのウソが混じっている。 それを見透かされた気がしてソワソワしてしまった。 私の家庭は結構複雑だから、それを正直に周りに話すのが嫌で、いつの間にか言い訳のように取り繕う習慣がついているのだ。 まず、母が昨日から体調が悪く、私が夕飯を作ろうと考えているのは本当だ。 だけど以前から武田くんには、二歳年上の姉は会社勤めをしていて、父親は現在単身赴任中なのだと伝えているが、本当は姉は夜の街で働いているし、父は私が高校二年のときに失踪した。 父がい
姉だってせっかく入った大学を中退したくはなかっただろう。 それまでは普通に楽しく大学生活を送っていたのだから、こうなったのはすべて父のせいだ。 姉が働いてくれたおかげで私は大学へ行かせてもらえたし、今後は姉の負担を減らすためにも、なにがなんでも就職しないといけない。 なのに、未だに内定ゼロとは、頭が痛いのを通り越して割れてしまいそうだ。 夕方、バイトを終えてカフェの外に出ると空はすでに真っ暗だったけれど、クリスマス仕様の街並みは煌びやかな電飾でキラキラと輝いている。 一旦家に帰って着替えを済ませてから、スーパーへ買いものに出かけるとしよう。姉は今日も仕事だから夜は家にいない。 姉がケーキを用意するというのは咄嗟についたウソだから、スーパーの後に洋菓子店に立ち寄って小さいクリスマスケーキを買おうかなと電車に乗りながら考えていた。 最寄りの駅に辿り着き、とぼとぼと自宅アパートまでの道のりを歩く。 とにかく、このリクルートスーツを今すぐにでも脱ぎたくて仕方がない。戦闘服みたいなこのスーツは大嫌いだ。そんなことを考えていると、私のスマホが着信を告げた。 画面に表示されているのは姉だけれど、そろそろ出勤する時間なのに、いったいどうしたのだろうと不思議に思いながら電話に出た。「由依、今どこ?」 その真剣な姉の声音で、瞬時に嫌な予感が走った。電話を持つ手が震えたのは、寒さだけのせいではないはずだ。「バイト終わって帰るとこ。駅から歩いてる」「お母さんがね……調子悪いの」 なんとなく母のことかもしれないと予想していたけれど、それが当たってしまい、私は脱力するように歩みを止めた。「今眠ったから、静かに帰って来て?」「……わかった」 電話を切った瞬間猛烈に泣きたくなり、昨日の悪夢が脳裏をよぎった。 あれが本当に夢だったらよかったのに。 姉の忠告通り、自宅に着くと静かに玄関扉を開け、音を立てないように部屋の中に入った。 ダイニングに居た姉がそっと私を手招きしたが、その表情はひどく硬い。「おかえり」「ただいま」「お母さん、今日また暴れたのよ」 左手で額を覆い、頭を抱えるようにして姉がうつむく。
私は首に巻いていたマフラーをはずしながら、ふぅーっと小さく息を吐いて、姉の向かいに静かに座った。 仕事に出かける直前だったのか、姉はきちんとメイクをし、髪も服装も整っている。私と二歳しか違わないのにとても大人っぽい。「昼間に?」「うん。昨日の続きみたいな感じ」 姉がもう限界だと言わんばかりに、つらそうに顔をしかめた。 武田くんに話した『お母さんの体調が悪い』というのはウソではないけれど、それは身体的な面ではない。 情緒不安定な母は時々、こうして発作のようなものが起きる。それが発症するようになったのは、父が失踪してからだ。 だけど昨日は、母の様子が今までになくひどかった。 頭痛がするからと部屋で寝ていた母が、起きてきてリビングに現れ、私の姿を目にした瞬間鬼の形相になったのだ。 そしていきなり、『あなた誰なの? 人の家に勝手に入らないで! 出て行きなさい!』と、わけのわからないことを叫んだ。 その後は手当たり次第に物を投げて暴れ、呆然としていた私を突き飛ばして追い出そうとした。 たまたま家に居た姉が母をなだめてなんとか落ち着かせることが出来たのだけれど、姉がいなかったらどうなっていたかわからない。「今日もね、由依のことがわからないみたいだったの。『追い出してやる!』って取り憑かれたようになってた。おかしいよね、自分の娘なのに」 ぐったりとテーブルに肘をついてうなだれる姉を見ると、今日も話の通じない母を相手に大変だったのだろうと、それは容易に想像できた。「ごめんね」「どうして謝るの。由依はなにも悪くないじゃないの」 その通りだけれど、姉の負担を少しでも一緒に背負えたらよかったのにと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。「謝らなきゃいけないのは私のほうよ」「え?」 私と視線を合わせながら、悲しそうに眉を下げる姉を見て、いったいどうしたのだろうと小首をかしげる。私には謝られるような覚えはなにもない。「今日のお母さんを見て思ったの」「なにを?」
「今日はボイストレーニングだと聞いていたから、後でジンには電話するつもりだったんだが」 予想外の展開だとばかりに相馬さんが低い声で言い放ったあと、ソファーに座る彼の隣に立った。「今日はサボった」「はぁ……またショウくんに叱られるぞ」「社長、告げ口はなしで」 あきれたとばかりに肩を落とす相馬さんを私も姉もただ傍観するしかできないのだが、ところでこの人物は誰なのだろう。 意志の強そうな瞳、高くて美しい形の鼻、シャープな顎からの輪郭のラインが芸術的に綺麗で、世間ではなかなかお目にかかれないほどのイケメンだ。「ごめんね」とつぶやきながら、相馬さんが私たちのほうへ振り返った。「実はふたりには言ってなかったけど、僕にはもうひとつ会社があるんだ」 相馬さんが胸ポケットから名刺入れを出し、私と姉に一枚ずつそれを差し出す。 相馬さんはどうやら会社をふたつも経営しているみたいだ。【株式会社ポラリス・プロダクション 代表取締役社長】 今度渡された名刺には、そう書いてあった。「そっちは芸能プロダクションで、縁あって知り合いから引き継いだ会社なんだ」 相馬さんにとって元々こちらは本業ではないように聞こえた。「彼はうちの事務所の子なんだけど。時々この部屋を、くつろぎの場として使ってる」 だから相馬さんは玄関を開けたとき、中にいるのは彼しかいないと想像がついたから、特段驚きはしなかったのだと納得がいった。「ジン、この部屋はしばらく人に貸すことにしたから。悪いけどすぐに帰ってくれないか」 静かだが力強い相馬さんの言葉に、ジンがありえないとばかりに目を見開いた。「ほかの部屋があるだろ?」「それが……貸せるのは今ここしかないんだ。だからジンは自分のマンションに」 どうやら彼にはほかにきちんと自宅があり、ここに住みついているわけではなさそうだ。「このまま家に帰ったら、ショウくんに説教くらうよ」 だから今日はここで寝るつもりだったのに、とジンが口を尖らせる。 さっきから会話に出てきている〝ショウ〟という人と同居していて、顔を合わせたくないのだろうかと勝手に想像してしまう。「それに、ここからのほうが大学に通うのも便利なんだ」「あ、そうか。ジンも由依ちゃんと同じ大学か」 相馬さんにチラリと視線を送られたけれど、学内は広いし、きっと学部も違うだろうから、同
車のドアを開けて外へ出てみると、目の前に真新しくてオシャレなタワーマンションがそびえ立っていた。 ここの最上階の部屋を使わせてもらうのだろうか。 どんなところかまだ見ていないからわからないけれど、相当綺麗で広い部屋なのだと想像がついた。「部屋の中はベッドとかテレビとか、けっこう揃ってると思うから。由依ちゃんの好きなように使ってくれていいよ。もし足りないものがあったら、連絡してくれたら届ける」 私のボストンバッグを手に相馬さんがやさしくゆるりと笑った。 だけど私は不平不満を言える立場ではないと自分でもわかっている。「ありがとうございます。お世話になります」 ペコリと頭を下げると、軽く背中に手を添えられてマンションのエントランスへといざなわれた。 三人でエレベーターに乗って最上階まで上がり、通路の突き当りの部屋まで行くと、相馬さんが鍵を差し込んでドアを開けた。「さ、どうぞ」 けれど玄関に目をやった瞬間、相馬さんの笑顔は消え、代わりに残念そうな溜め息が小さく吐き出された。「誰か、いらっしゃるんですか?」 姉がおずおずとそう聞いたのも無理はない。 薄っすらと部屋の中から明かりが漏れていたし、玄関先に大きなスニーカーが脱いであったから、中に誰かが居るのは明白だった。「ああ……うん。でも心配いらないから、ふたりとも入って」 本当に心配いらないのだろうかと、先ほどの相馬さんの小さな溜め息が私の中で不安を煽る。「ジン、来てたのか」 相馬さんの後に続いて姉と私が部屋の中に入っていくと、リビングに若い男性がひとり、大きなソファーの上にゆったりと座っていた。 ジンと呼ばれたその男性は、据え置かれた一際大きなテレビの前でリモコンを操作していたので、映画かなにかを鑑賞していたようだ。「あぁ、社長」 男性は横目でチラリと私たちを視界に捉えたけれど、この状況に驚きもせずにリモコンをそっとテーブルに置いた。 彼の軽く茶色に染められた髪は特にセットしている様子もなく、服装も黒の上下のルームウェアというリラックスした格好で、まるでここに住んでいるような空気を醸し出している。
「でも、そのお部屋をお借りして本当にいいんですか?」 姉の口調は敬語だし、厚意に甘えることに遠慮があるような態度を目にすると、まだ恋人未満の関係なのかもしれない。なんだか今そんなことが気になってしまった。「モデルルームなんだけど売る気はない部屋があってね。そこだと由依ちゃんの大学からも近いし、便利だと思うから」 どうやら姉は私が通っている大学のことも話しているらしく、通学するにも近いところでと相馬さんは部屋を探してくれたのだろう。「一応最上階だから見晴らしもいいし、由依ちゃんが気に入ってくれるといいけど」 一時しのぎで長く居る場所ではないのだから、たいして気に入らなくても私は平気だ。 行くあてなんてほかにはないし、気に入らないから別の部屋を、などと贅沢は言えない。選択肢はどのみちそれひとつだった。 私としては自分の家じゃなければどこでも同じで、今は寝る場所さえあればいい。「香(かおり)ちゃん」 相馬さんが姉をそう呼んだことで、ふたりの関係性がわかってしまった。 ――名前が違ったから。 姉の本名は紗由(さゆ)で、〝香〟というのは源氏名だ。相馬さんはおそらく、姉の客なのだろう。「これが最善策じゃないのはわかってるだろ? 前にも話をしたけど、お母さんのことはもう少し進んだ方向で考えないと」「……はい」 諭すように相馬さんに言われ、姉は肩を落としながらもコクリとうなずく。 姉は母についても相馬さんに相談している様子だった。「大丈夫。僕が力になるよ」「ありがとうございます」 相馬さんはただの客という枠を超えているような気がするし、姉も心を許している感じがするから、やはりふたりは恋人関係なのだろうか。 ハンドルを握る相馬さんの左手の薬指を盗み見ると、指輪はしていない。おそらく独身なのだろう。 いや、『指輪をしていない=独身』とも限らない。 紳士でお金持ちだからモテないはずはないし、相馬さんくらいの年齢の男性なら結婚している可能性が高い。 もしかしたら、ふたりは不倫の関係かもしれない。「由依ちゃん、着いたよ。ここなんだ」 妄想を繰り返していたところへ声をかけられ、現実世界へと引き戻される。
「お待たせしてすみません」「いや。大丈夫」 姉が恐縮しながらおじぎをすると、その男性は小さく首を振りながらゆるりと微笑んだ。 高そうなスーツに身を包んでいて、上品で物腰もやわらかい。「君が由依ちゃんだね」 男性の言葉にうなずき、不安なまま私も「はじめまして」と頭を下げる。「寒いから話は車の中でしよう。とりあえず乗って?」 姉の手からボストンバッグを奪うと、男性は私たちをその高級車へと誘導した。「お姉ちゃん……」「大丈夫。信頼できる人だし、 私もついて行くから」 姉のコートの袖口を引っ張りながら立ち止まる。 どうやら姉は、今日の勤務は無理だと判断して仕事を休む連絡をすでに入れていたようだ。 私ひとりでこの男性について行くのかと不安だったけれど、姉が一緒に来てくれるとわかり、ほんの少しだけホッとした。 さすがに見ず知らずの人の車にひとりで乗り込み、どこに連れて行かれるかわからないなんて、こんなに怖いことはない。 姉が助手席に座り、私はボストンバッグと共に後部座席へ乗り込むと、男性が運転席へ座ってドアを閉めた。車内は暖房が効いていてとても暖かい。「改めまして、僕は相馬(そうま)と言います」 その男性は運転席から振り返り、私の表情をうかがいながらスッと一枚名刺を差し出した。「そこに僕の携帯番号があるから、なにか困ったことがあったらいつでも電話していいからね。どんな小さなことでも」 薄っすらとやさしい笑みを浮かべた相馬さんはとても大人で紳士的で、怖いとか気持ち悪いといったような嫌な印象はまったく受けなかった。【株式会社ソーマコーポレーション 代表取締役社長 相馬 敬介(けいすけ)】 もらった名刺にはそう記されていた。疑っていたわけではないけれど、どうやら本当に不動産会社の社長らしい。「相馬さん、ご迷惑をおかけしてすみません。感謝しています」「いいんだ。僕で力になれるなら」 助手席から申し訳なさそうにつぶやいた姉に相馬さんは穏やかに微笑み返し、車が静かに走り出した。 いったいふたりは、どういう関係なのだろう。 恋人なのだとしたら、姉はまだ二十四歳だし、年齢が離れすぎていると思う。
「今の状態では、由依と毎日顔を合わせるのは無理だと思うのよ」 表情が固まってしまい、なにも言えずにいる私の手をそっと包み込むように、姉が自分の手を覆い重ねた。「もちろんずっとじゃないよ? お母さんの気持ちが落ち着くまでの間だけ」 姉の話を聞きながらも、キッチンの隅にボストンバッグがあることに気がついた。 なぜこんなところにそれが置かれているのか、と姉に視線を送る。「お姉ちゃん……これ……」「お母さんの面倒は私が見るから。由依はしばらくここを離れてほしいの」「でも……」「由依の身の周りの物や着替えを適当にバッグに詰めておいたから」 不自然に置かれたあのボストンバッグには、私の身の回りの物が勝手に詰め込まれているのだとわかったが、突然のことに頭がついていかない。「私の知り合いにね、不動産会社の社長さんがいるの。相談したら空いてるモデルルームを貸してもいいって言ってくれてるのよ。寝泊りくらいなら、そこで充分できるらしいから」 姉は〝避難〟という言い方をしたけれど、私にはどうしても〝追い出される〟感覚しかなく、胸がどんどん締めつけられていく。 仕方ないとはいえ、これしか方法がないのかと悲しくなってきた。「その人が実はもう外で待っててくれてるの」 さあ行こう、とばかりに急かされても、私の頭と気持ちはまったく追いつかない。 だけど姉は眠っている母を起こさないように気遣って、音を立てずにそっと椅子から立ち上がる。私は未だ放心状態のままなのに。「由依、お母さんが寝てる間に」 やんわりと促され、しぶしぶ私は重い腰を上げる。 突飛に思える姉の行動だけれど、まとまらない私の頭で考えた直したところでなにも解決策は浮かばないから、今は姉の意見に従うしかなかった。 私が我慢して、それで全部うまくいくのなら構わないと思う自分もいる。 姉とふたりで玄関の外に出ると、気温が下がったせいで空気がとても冷たくて、私はあわてて手に持っていたマフラーを再び首に巻いた。 ボストンバッグを手にして歩く姉の後ろを、くわしい行き先もわからないままとぼとぼと着いていく。 すると、路上に停まっていた一台の高級外車の中から男性が現れて私たちに近づいてきた。 年齢は三十代後半くらいで、オシャレな顎ひげをたくわえたくっきりとした顔立ちの人だった。
私は首に巻いていたマフラーをはずしながら、ふぅーっと小さく息を吐いて、姉の向かいに静かに座った。 仕事に出かける直前だったのか、姉はきちんとメイクをし、髪も服装も整っている。私と二歳しか違わないのにとても大人っぽい。「昼間に?」「うん。昨日の続きみたいな感じ」 姉がもう限界だと言わんばかりに、つらそうに顔をしかめた。 武田くんに話した『お母さんの体調が悪い』というのはウソではないけれど、それは身体的な面ではない。 情緒不安定な母は時々、こうして発作のようなものが起きる。それが発症するようになったのは、父が失踪してからだ。 だけど昨日は、母の様子が今までになくひどかった。 頭痛がするからと部屋で寝ていた母が、起きてきてリビングに現れ、私の姿を目にした瞬間鬼の形相になったのだ。 そしていきなり、『あなた誰なの? 人の家に勝手に入らないで! 出て行きなさい!』と、わけのわからないことを叫んだ。 その後は手当たり次第に物を投げて暴れ、呆然としていた私を突き飛ばして追い出そうとした。 たまたま家に居た姉が母をなだめてなんとか落ち着かせることが出来たのだけれど、姉がいなかったらどうなっていたかわからない。「今日もね、由依のことがわからないみたいだったの。『追い出してやる!』って取り憑かれたようになってた。おかしいよね、自分の娘なのに」 ぐったりとテーブルに肘をついてうなだれる姉を見ると、今日も話の通じない母を相手に大変だったのだろうと、それは容易に想像できた。「ごめんね」「どうして謝るの。由依はなにも悪くないじゃないの」 その通りだけれど、姉の負担を少しでも一緒に背負えたらよかったのにと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。「謝らなきゃいけないのは私のほうよ」「え?」 私と視線を合わせながら、悲しそうに眉を下げる姉を見て、いったいどうしたのだろうと小首をかしげる。私には謝られるような覚えはなにもない。「今日のお母さんを見て思ったの」「なにを?」
姉だってせっかく入った大学を中退したくはなかっただろう。 それまでは普通に楽しく大学生活を送っていたのだから、こうなったのはすべて父のせいだ。 姉が働いてくれたおかげで私は大学へ行かせてもらえたし、今後は姉の負担を減らすためにも、なにがなんでも就職しないといけない。 なのに、未だに内定ゼロとは、頭が痛いのを通り越して割れてしまいそうだ。 夕方、バイトを終えてカフェの外に出ると空はすでに真っ暗だったけれど、クリスマス仕様の街並みは煌びやかな電飾でキラキラと輝いている。 一旦家に帰って着替えを済ませてから、スーパーへ買いものに出かけるとしよう。姉は今日も仕事だから夜は家にいない。 姉がケーキを用意するというのは咄嗟についたウソだから、スーパーの後に洋菓子店に立ち寄って小さいクリスマスケーキを買おうかなと電車に乗りながら考えていた。 最寄りの駅に辿り着き、とぼとぼと自宅アパートまでの道のりを歩く。 とにかく、このリクルートスーツを今すぐにでも脱ぎたくて仕方がない。戦闘服みたいなこのスーツは大嫌いだ。そんなことを考えていると、私のスマホが着信を告げた。 画面に表示されているのは姉だけれど、そろそろ出勤する時間なのに、いったいどうしたのだろうと不思議に思いながら電話に出た。「由依、今どこ?」 その真剣な姉の声音で、瞬時に嫌な予感が走った。電話を持つ手が震えたのは、寒さだけのせいではないはずだ。「バイト終わって帰るとこ。駅から歩いてる」「お母さんがね……調子悪いの」 なんとなく母のことかもしれないと予想していたけれど、それが当たってしまい、私は脱力するように歩みを止めた。「今眠ったから、静かに帰って来て?」「……わかった」 電話を切った瞬間猛烈に泣きたくなり、昨日の悪夢が脳裏をよぎった。 あれが本当に夢だったらよかったのに。 姉の忠告通り、自宅に着くと静かに玄関扉を開け、音を立てないように部屋の中に入った。 ダイニングに居た姉がそっと私を手招きしたが、その表情はひどく硬い。「おかえり」「ただいま」「お母さん、今日また暴れたのよ」 左手で額を覆い、頭を抱えるようにして姉がうつむく。
「しかし、こんな日にまで地味なスーツでドタバタ走るなんてな」 客観的感想を述べる武田くんに対し、ムスッとして口を尖らせた。 武田くんは早々に大手企業から内定をもらっているから、私と違って気持ちに余裕がある。 私も早く就職を決めたいけれど、なかなかうまくいかないのが現状だ。「怒るなよ。珍しいと思っただけだ。世間じゃ今日がなんの日かくらい知ってんだろ」 もちろん知っている、と私はそれに無言でうなずいた。 このカフェの店内も、今月に入ってから存在感のある大きなツリーが置かれ、赤や緑のモールで派手な飾りつけがしてある。 今日はクリスマス・イヴだ。ロマンティックな恋人たちの日なのに、私は面接が長引いたからバイトに遅刻したと、リクルートスーツ姿でドタバタと息を切らして走っていた。 恋人のいない私には、クリスマスなんて関係ないのだけれど、今日の格好はさすがに自分でも色気がないと思う。「武田くんだって、デートしないでバイトしてるじゃない」「そうだな。俺も彼女いないから。恋人のいない者同士、バイト終わったらどっか行くか? 飯くらい奢ってやるよ」 武田くんの言葉が冗談なのかそうではないのか、いまいちわからなくて押し黙る。 彼が友達という枠を超えて言っているのだとしたらどうしよう、と一瞬臆したが、それは考えすぎだろうか。「ごめんね。実はお母さんが昨日から体調悪くて、バイトが終わったら晩ご飯を作らなきゃいけないの。お姉ちゃんが仕事終わりにケーキを買って帰ってくれるから、今年は家族でクリスマスなんだ」 笑みを浮かべたつもりだが、うまく笑えていたのか自信がなくて武田くんから目を逸らしてしまう。「そうか、残念」 彼が一瞬、心配そうな顔をしたように見えたけれど、それは気のせいだと思いたい。 実は先ほどの発言には、いくつかのウソが混じっている。 それを見透かされた気がしてソワソワしてしまった。 私の家庭は結構複雑だから、それを正直に周りに話すのが嫌で、いつの間にか言い訳のように取り繕う習慣がついているのだ。 まず、母が昨日から体調が悪く、私が夕飯を作ろうと考えているのは本当だ。 だけど以前から武田くんには、二歳年上の姉は会社勤めをしていて、父親は現在単身赴任中なのだと伝えているが、本当は姉は夜の街で働いているし、父は私が高校二年のときに失踪した。 父がい
吐き出す息が真っ白なこの季節は吸い込む空気が冷たく、乾燥していて喉が痛い。 だけど首元に巻いたマフラーのせいで、身体は若干暑いくらいだ。 履き慣らしたはずの黒のパンプスもつま先が痛くなっている。 でも今はそれを気にしている余裕はまったくなく、私は髪を振り乱しながらあわてて往来をひた走る。「すみません、遅くなりました!」 バイト先のカフェへ辿り着くと、一目散に店長に駆け寄って深々と頭を下げた。 遅れるとわかった時点で電話を入れたとはいえ、十五分の遅刻だ。「そんなに焦らなくてもよかったのに」 店長は私の姿を視界に捉えると、あきれ気味に緩慢な笑みを浮かべた。やさしくてダンディな店長が神様に見えた瞬間だった。「リクルートスーツ……今日、面接だったのか?」 スタッフルームのロッカーの前でマフラーをはずし、乱れたセミロングの髪を手櫛で直す私に武田くんが声をかけてきた。 私たちは高校の同級生で、今はお互い別々の大学に通っているけれど、奇遇にもこのバイト先で再会した。 彼は昔からガッチリ体型だから、その肉体を活かすのならほかの選択肢もあっただろうに、なぜかカフェでバイトをしている。「うん。急に来るように言われちゃって」「そっか。断るわけにもいかないよな」 今日の面接は小さな電子部品メーカーの事務職の募集だった。 急に呼び出されてしまったのだけれど、武田くんの言う通り、断る選択肢は持ち合わせていない。「当然だよ。まだ内定ゼロだもん。どんな会社でもいいから早く就職決めないといけないしね」 溜め息を吐きながら、武田くんになんとか笑みを返した。 私の名は安田由依(やすだゆい)。年齢は二十二歳。 大学四年の冬にして未だどこの企業からも内定をもらえていない、いわゆる就活難民だ。 自分ではがんばっているつもりなのだが、ここまで面接に受からないとなると、いったいなにがダメなのかわからない。 このままでは卒業後の春から私はどう考えても無職になる。 焦っても仕方ないのかもしれないが、精神的にはどんどん追い込まれている。