湯船に浸かると体の芯が温まって身も心も溶けそうになり、疲れが取れていくのがわかった。 いつもとは違うシャンプーの匂いをまといながらそっとバスルームから出ると、キッチンからカチャカチャと茶器の音がしていた。「由依も飲む? 紅茶、コーヒー、日本茶、烏龍茶があるけど」「あの、なんで私の名前……」「さっき社長たちがそう呼んでただろ」 それはそうだけれど、突然親し気に名前で呼ばれて戸惑ってしまった。「社長から聞いたと思うけど、俺はジン。よろしく」 ジン……短くて呼びやすいけれど、下の名前だろうか。 もしかしたら名前の一部を取ったニックネームかもしれないが、特にそれ以上は聞かなかった。「烏龍茶にしよう。本場のうまい茶葉があるんだ」 私の答えを待たずにジンは勝手に烏龍茶を淹れ始めた。きっと自分がそれを飲みたかったのだろう。 ジンのそばにおもむくと、急須からお茶の良い香りが漂っている。「ここに置いてあるもの以外に、冷蔵庫の中にも水とかジュースとか飲みものが入ってるし、自由にどうぞ」「私が勝手に飲んでもいいの?」「ああ。飲んだらその分補充されるから」 言われた意味がまったくわからなくて首をかしげた。 勝手に飲み物が湧いて出てくるわけではないのだから、誰かが冷蔵庫に入れてくれているはずなのに、と。「誰が補充してるの?」「社長に雇われてる人」 会話がかみ合っていないような気がして、幾分気持ちが悪い。自然と考え込むように、私は眉根を寄せてしまう。「要するに、部屋をメンテナンスしてくれる人がいるんだ。冷蔵庫の中身を補充したり、隅々まで掃除してくれる人」 キッチンの棚に何気なく目をやると、お店の商品の展示かと思うくらい綺麗に紅茶などが整頓されて並べられているし、ホコリひとつ付いていない。 ジンがここまで几帳面にひとりで掃除をしているとは思えないから、先ほどの説明通り、相馬さんが業者にお願いしているのだろう。 お茶の準備を終えたジンが茶器のセットを持ってリビングへと向かい、そのあとを追いかけるように私も続いた。
ふたりでリビングに敷いてあるフカフカのラグの上に腰を下ろす。 床暖房が効いていて心地よく、やさしい温もりに包まれている気分だ。「お茶、ありがとう」 淹れてもらった烏龍茶は、鼻に抜ける香りが良くておいしかった。「さっき社長から電話がきて、デリバリー頼んだって。なんとなくだけど豪華な飯が届きそうだよな」 相馬さんが気を遣って、ここに食べ物が届くように手配してくれたらしい。 爽やかな笑みを向けられると、私もつられて笑みを返してしまう。 ジンは本当に端正な顔立ちをしていて、見れば見るほどイケメンだと気づいた。「社長が俺から掃除の件を説明しとくように、って」「掃除?」「業者の人が定期的に来るから掃除と洗濯はしなくていいんだ。ゴミも分別して置いとけば出してくれるし、必要なものがあったら買っといてくれる」 やはり家事代行サービスのような感じなのだろう。 清掃だけでなく家事全般をお願いしているから、ジンが使っていても部屋がこんなに綺麗に保たれているのだ。「相馬さんに悪いよね」「社長もモデルルームが汚いとまずいし、いいんじゃないか」 だけど私たちの後始末を業者の人にさせるようで申し訳なく思うから、出来るだけ自分のことは自分でしようと心に決めた。「由依が出かけてる昼間に来てやってくれるから、帰ってきたら全部綺麗になってる」 あきらめて任せておけばいいとでも言いたげな彼の表情に、私はクスリと笑ってしまった。 なぜだかジンは不思議な空気をまとう人だ。「あなたがここを気に入る理由、わかる気がする。温かみのある部屋だもの」「だろ?」「なのに私が追い出すみたいで、ごめんなさい」 住んでいないとしても彼にとってこの部屋は快適な空間だったはずなのに、それを私が奪う形になるのだと複雑な気持ちになった。「母さんとなにかあったのか?」 なんでもないようなトーンで尋ねられたけれど、私は瞬間的にグッと喉をつまらせた。 昨日から今日にかけて出来たばかりの心の傷に触れられると、さすがに痛い。「由依の姉さんがそう言ってたしな。ただの家出なら社長はこんなに助けないだろうし、ワケありか?」 本質をつくような質問に私は絶句してしまい、しばし沈黙が流れた。
「ま、答えたくないならいいよ。社長に聞いとく」 母親が精神を病み、私を見ただけで暴れるなんて知ったら、普通の人はかなり驚くだろう。それを初対面のジンに言えるわけがない。「ねぇ、ジンのお母さんって、どんな人?」 きっとやさしいお母さんだろうと想像が膨らんだ。 きちんと食事をしているかと電話でいつも息子を心配するような料理上手な人で、時には口うるさいしっかりとした母親のイメージが湧いた。 ジンがイケメンということは、お母さんも美人なのだろう。「どんなって……普通だったかな」「だった?」 なぜ過去形なのかと、反射的に聞き返してしまう。「七歳のときに別れたまま会ってないから、記憶が薄らいでる」 驚いた、というより私の想像とはまったく違ったから意外だった。「そんな顔すんなよ。ま、俺も家族に関しては十分ワケありだ」 お母さんについてそれ以上ジンに尋ねられなかったけれど、〝亡くなった〟という言葉はなかったから、生き別れかもしれない。今は離婚なんて珍しくない時代だ。「それより、由依の姉さんと社長って、どんな関係?」 相馬さんの存在を今日知ったばかりの私にそれを聞かれても困るけれど、私もすごく気になっていることだ。「年の差がありすぎだけど、付き合ってるのかな?」 ジンが烏龍茶をひと口飲み、柔らかい笑みを浮かべてそう言った。「私も知らないの。ところで相馬さんって独身?」「ああ、今はな。ずいぶん前にバツは付いてるみたいだけど」 相馬さんが元既婚者だとしても、今は独身ならとりあえず不倫にはならない。内心ホッとして口元が緩んだ。「年の差はあるよね。相馬さんはいくつ?」「えっと……四十四かな」「え?! 若い!」 てっきりまだ三十代だと思っていたのに、相馬さんは私の予想をはるかに超えた四十代半ばだった。「社長は若く見えるよな」 ジンの言うように見た目は相当若いけれど、あの落ち着いた紳士的な態度は四十代で納得だ。 しかし、相馬さんが四十四歳で姉が二十四歳だから、親子ほどの年の差がある。 ぼうっとそんなことを考えていたら、会話が途切れたタイミングで玄関のチャイムが鳴った。「デリバリーが来たな」 玄関先に向かったジンが、届けられたものを両手で抱えてリビングへと戻ってくる。 ふたり分にしては多そうな量だった。「絶対チキンだ」 包みを開けも
「もしもし。……うん、届いた。ありがたくいただきます」 明るい声で相馬さんと話していたジンが、しばらくすると私に自分のスマホを差し出した。「社長が代わってくれって」 あわててスマホを受け取って耳に当てると、「もしもし」と低くてやさしい声が聞こえてきた。『由依ちゃん、 なにか困ってない?』「ありがとうございます。大丈夫です」 相馬さんの気遣いがうれしくて、電話なのにペコリと会釈してしまった。 これだけ至れり尽くせりなのだから、困ったことを探すほうが難しいくらいだ。『勝手だけど、夕飯をそっちに届けさせたからジンとふたりで食べて。キッチンにシャンパンやワインもあったと思うから、飲んでかまわないよ』「食事のことまですみません。お忙しいのにお気遣いいただいて感謝しています」『いや、謝るのは俺のほうだ。どこか外のうまい店に連れていってあげたかったけど、今日は難しくてね。だけど、由依ちゃんも今夜はゆっくりできる場所のほうがよかったかな』 姉に好意があるからという理由を差し引いても、妹の私にここまでしてくれるのだから相馬さんはやさしい人だ。 相馬さんみたいな人が父親だったらよかったのにと、ふと考えてしまった。 それなら我が家はみんな幸せだっただろう。『メリークリスマス。大丈夫、きっとこれからは由依ちゃんに幸せな毎日が訪れるよ』 その言葉が胸に響いて、目頭が熱くなってくる。 なにか救われた気がしたし、蒸発しそうになっていた魂が戻ってきたような気もした。 私が電話を終えてすぐ、ジンがキッチンから白い箱を持ってきて私の目の前に広げる。「これ、俺ひとりで食いきれないから、由依がいてよかった」 白い箱の中身は、イチゴとベリーがたっぷりと乗った豪華なクリスマスケーキだった。 これをひとりで食べるのはたしかに多すぎる。「このケーキ、めちゃくちゃうまいから。生クリームの甘さが絶妙」 イケメンのジンが言うと、まるでCMみたいでなんだかおかしい。 私は笑みを浮かべているはずだったのに、自分でも不思議なくらい急速に目に涙が溜まっていくのがわかった。「なんで泣くんだよ」 私の異変に気づいたジンが途端に血相を変え、あわてて笑みを引っ込めた。 涙の理由は、こんなにも素敵なクリスマスを送れると思っていなかったからだし、相馬さんやジンの温かさややさしさがうれし
◇◇◇ 朝目覚めると知らない天井が視界に映り、私は昨日家を出たのだったと寝ぼけながらも自覚した。 なぜこうなったのだろう。昨日のことが夢みたいに思えたけれど、これは紛れもない現実だ。 ベッドから起き上がり、洗面台で顔を洗ってからキッチンへと向かう。 仕切りがなく繋がった空間のリビングに視線を移すと、ジンが毛布にくるまってソファーで眠っていた。 そんなところで寝たら風邪をひくかもしれないと一瞬心配になったが、部屋は暖房がきいていて暖かいから大丈夫だろう。 とりあえずジンを起こさないように、静かにケトルでお湯を沸かした。 勝手に飲んでいいと昨日教わっていた個包装のドリップコーヒーとカップを拝借する。 やはり相馬さんに申し訳ないので、今後は自分で買い足そう。 食費だけなら私のバイト代でまかなえるし、なにからなにまでお世話になっていてはいけない。 ケトルを見つめつつお湯が沸くのをボーっと待っていたら、突然人の気配がして振り向く。 するとそこには、起きたばかりのジンの姿があった。「おはよう。ごめん、起こした?」「いいよ。俺は夜型だけど、今日は早めにここから脱出しないと捕まるから」 ジンの言葉を聞いて、まさか警察が捕まえにでも来るのかとおかしな妄想をしたものの、まさかそんなわけはないと思う。 朝っぱらから冗談を言ってるのだと軽く流していたら、ジンが洗面台のほうへ向かった。 リビングの分厚いカーテンを開けると、まぶしい朝日が差し込んだ。 今朝は雲ひとつない晴天で、窓の外は空気が澄みきっているのか景色がくっきりと見えた。タワーマンションの最上階からの眺めは、さすがに見事だ。 リビングに戻ってきたジンは、先ほど私が目にした人物とは別人のようにシャキッと目覚めていて、心なしか顔の彫りも深くなった気がする。 相馬さんが社長をしている『ポラリス・プロ』という芸能事務所は、素人には聞き覚えのない名前なので大手ではないのだろう。小さな個人事務所なのかもしれない。 とはいえ、ジンはそこに所属しているのだから芸能人だ。 特に二重瞼がキリッとしていて目力が抜群だし、笑うと左側の頬にだけ軽くエクボができるのが特徴的でカッコいい。 精神的に余裕がなかった昨日も彼をかなりのイケメンだと認識してはいたが、明るい朝日に照らされたジンを目にして私はさらに圧倒されてし
「由依は今日、なにするんだ?」 見惚れていたら、淹れたてのブラックコーヒーの香りを楽しみながら不意にジンが尋ねた。「大学に行って求人の確認をしてから、カフェのバイトに行く」「授業もないのに大学へ行くのか。今日はクリスマスなのに、就活大変そうだな」 まだ内定ゼロの私にとって就活は死活問題で焦っているけれど、ジンにとっては完全に他人事なのだろう。「ジン、就活は?」「俺はまだ大学三年だしな」「もしかして私より年下?」 なぜかわからないけれど、てっきり同い年だと思いこんでいたので驚いてしまったが、ジンは二十一歳で、私よりひとつ年下だった。「ひとつ違いなら、同い年みたいなもんだ」 ジンがフッと口もとを緩めて笑った。「今後も芸能活動をしていくなら就活はしないよね。今も大学へ行きながら芸能の仕事してるの?」 ジンは間違いなくイケメンだけれど、申し訳ないが私はテレビや雑誌などにジンが出ている記憶はない。 芸能の仕事をしているとしても、なにかの雑誌に小さく載る程度のモデルだろうか。 もしくはドラマのエキストラか、どこかの劇団員か。 芸能人とひと口に言ってもいろいろあるし、私が知らないだけかもしれない。「仕事はちょこちょこと。ミュージックビデオの出演とか」「すごいね。誰のMV?」「由依の知らないアーティストだよ」 話に食いついてみたけれど、苦笑い気味にするりとかわされた。 彼がその映像にどれだけの時間映っているのか、露出度は詳しくわからない。 だけどMV出演なんてすごい仕事なのに、ジン本人はどうも言いたくなさそうに見えた。 もしかしたら、ほんの数秒しか映っていないことも考えられるけれど。 そんなふうに思考を巡らせていると、突然玄関のチャイムが鳴った。 朝早くから誰だろう、などと考えなくても、きっと相馬さんだ。 昨夜のご飯のお礼を改めて言わなくてはいけない。 相馬さんとジンのおかげで、身も心も凍えずに済んだのだから。「もう来たのか。やばい、絶体絶命だ」 室内にあるモニターでドアの前に立つ人物を確認すると、ジンはすぐに応答することなく両手で頭を抱えた。 よくわからないけれど、訪れたのは相馬さんではなさそうだ。
「どうしたの?」 私がそう声をかけると同時にピンポンともう一度チャイムが鳴り、間髪入れずにそれは何度か続いた。「え……誰?」 私がモニターを覗き込むと、知らない男性が鬼のような形相でチャイムを連打していた。 ジンが一緒だったからいいものの、私ひとりだったら相当怖い光景だ。「由依、ごめん。今から台風が来る」「……は?」「大丈夫。標的は俺だから」 どういう意味かさっぱりわからなくて、私がポカンとしたままでいると、ジンはフーッと息を吐きつつ観念したように玄関先へと向かった。 ガチャリと玄関ドアの開く音がすると同時にものすごい剣幕で怒鳴っている男性の声が聞こえ、その人物がリビングに近づいてきて、私は一瞬で身体が固まってしまった。 こんなに驚いたのはいつぶりだろう。 ジンが困ったような微妙な表情で戻ってくると、それに続いて大声を出していた男性が姿を現した。 長めの黒髪をしたその人は背の高いジンよりもさらに長身で、切れ長の瞳で整った顔立ちをしていた。 濃いグレーのコート姿もスタイリッシュで素敵なのに、怒っているので今は全部が台無しになっている。 私がなぜここまで驚いたかというと、見た目は日本人なのに男性がわめくように発している言語が日本語ではなかったからだ。「ショウくん、待った。日本では日本語の約束だろ」 笑いながらジンにそう言われた男性はカーッと顔を赤くさせたあと、さらに眉が吊り上がった。 平和に話し合うのが一番だから、とりあえずこれ以上怒らせるのはやめてほしい。「怒り心頭のときには母国語が出るんだよ!!」 この男性はおそらく外国人だろうから、日本語が話せるとしてもカタコトだと思っていたら、今度は流ちょうな日本語が飛び出したので私はまたそれに驚かされた。 ジンはこの男性のことを“ショウくん”と呼んだけれど、どこかで聞き覚えがある。 どこだったか、と記憶をたどると、昨日相馬さんとジンとの会話で出てきていた名前だと思い出した。「ジン、俺を怒らせるお前が悪…………」 その男性はリビングの隅にそっと立つ私の存在に気づいた途端、話の途中で言葉を詰まらせた。
ハァーッという盛大な溜息と共に眉間にキュッとシワを寄せ、イラついたように髪をかきあげる。「ついにやったか」「なにを?」 怒っている男性を目の当たりにしてもまったく臆することなくジンは尋ね返したけれど、その男性はじっと射貫くように私に視線を送ってきた。 表情に加え、身体に穴があくかと思うくらいの攻撃的な視線に、私は身を縮こまらせる。「いつか俺に隠れてやるんじゃないかと思っていたが」「だからなんの話?」「堂々と女を連れ込んどいて、なにをとぼけてんだよ!」 ジンは呆気にとられていたけれど、すぐにふるふると首を横に振る。「違うよ、誤解だ」 ジンの言うとおりなのだけれど、朝早くに男女が起き抜けにモーニングコーヒーを飲んでいるのだから、この光景を見たら事情を知らない人は誰しもが誤解するだろう。 私たちが一夜を共にするような男女の仲だと。『家に今帰ったら、ショウくんに説教くらうよ』 たしか昨日、ジンはそう口にしていたと思い出した。 異常なまでのチャイムの連打からして、ジンがショウさんを元々怒らせていた原因は別にある。 その上、私のことで誤解が生じたとなるとショウさんの怒りがさらにエスカレートするのは至極当然だ。「なにが誤解だ!」「由依は社長が連れてきたんだよ」「そんなわけないだろ。もっと上手い言い訳くらい考えとけよ!」 ショウさんの迫力に押されながらも、本当に誤解なのだとジンが必死に説明を繰り返す。 事情をわかってもらえるように私も加勢しなければと思うものの、口を挟む隙がない。「由依、驚かせてごめん。この人は、俺の兄貴」 突然そう紹介され、別の意味で驚いた。 この外国人であろうショウさんがジンのお兄さんだとはすぐに理解できずに頭が混乱する。 もしかしたらジンも日本人ではないのかもしれない。「実の兄貴じゃないだろ」 少し困ったような色を含ませながら、ショウさんが小声でボソリとつぶやいた。「俺はコイツのマネージャーだ」
「由依って占いっていうか、予知できる能力があったっけ?」 ツボにはまったようにクスクス笑うジンに、思わずプっと頬を膨らませた。「でもわかるの。この俳優さんはまだ若いけど、同世代のほかの人と比べたら演技力が全然違うし、将来はそれが評価されること間違いなしだよ」「そうか」「ジンもそうなれると思うんだけど」 隣にいるジンをそっと見上げた。 ジンがこのまま芸能の仕事を続けるのなら、きっとそうなれる。 息をのむような演技に誰もが見惚れる、そんな俳優になるだろう。「そうなって欲しいなって……思ってるんだけど……」「俺の話はいいって。ショウくんもドラマの話ばっかりしてくるし、うんざりだ」 デートの時にまでそんな話はしたくないと言わんばかりにジンが顔をしかめた。 最後のデートなのだから楽しく過ごしたいと思っていたのに、私はまたジンをこんな顔にしてしまうのだから本当にダメだな。「社長の不動産会社の話、由依も聞いたんだろ」「……うん」「資金調達は社長がなんとかするらしいし、俺もモデルの仕事を増やして協力すれば大丈夫だって」 ジンがあまりにも楽観的にそう言うから、本当にこのままなんとかならないかと心が揺らぎそうになる。「写真集を出す話もあって、その撮影であちこち海外に行くことになるかもしれないけど……」 ジンが色気をたっぷりと乗せて、私をまっすぐ見つめた。「俺、ちゃんと由依のところに戻ってくるから」 ぶわっと一瞬で目に涙が溜まっていく。 私は照れを装い、視線を外しながら笑ってその涙をごまかした。 そんなことを言われたら、離れられずにその胸にすがりつきたくなってしまう。 この日、私たちは映画を見たあとに食事をして会話を楽しんだ。 駅の改札で彼が私の額に素早くキスを落とし、繋いでいた手を放して彼の後ろ姿を見送ったら、すぐに涙があふれてきた。 こうすると決めたのは私なのだから、泣く資格なんてないのに。『ごめんなさい』と彼の後ろ姿に向けて、何度も謝りの言葉を心の中で唱える。 それと同時に、もっと愛情表現をすればよかったと後悔の念も押し寄せた。 愛していると、彼にもっと伝えればよかった、と。 このあと私は相馬さんのマンションを出て ――― 姿を消した。
「由依が観たい映画って、これか」 ジンが映画館のパネルポスターを見ながらポツリとつぶやいた。 私はその姿を目に焼き付けるように、隣に佇むジンを眺めていた。 今日のジンはなぜか黒ぶちめがねをかけている。 目は悪くなかったはずだから、おそらく伊達めがねだろう。 普通の大学生を装う意図があるのか、特に意味はないのかわからないけれど。「恋愛映画だな。由依と見るならなんでもいい」「なんだか楽しそうね」 以前と少し変わったことと言えば、今日のジンは表情が柔らかくて機嫌が良さそうな感じがした。「由依と会ってデートするのは久しぶりだから」「……あ」「どうした?」「ううん。何でもない」 私はふるふると頭を振り、照れくささから視線を外した。 思わず言葉が出たのは、ジンが左側にエクボを作り、パッと花が咲いたように笑ったからだった。 それは私が心待ちにしていた大好きな笑顔で、久しく見ていなかった光り輝く彼の顔を最後に目に焼き付けることができたのだから、これだけでもう十分だ。 少しずつでも、私の前でなくてもいいから、彼が笑えるようになってくれたならそれでいい。「何でこの映画なんだ? もっとほかにも面白そうな作品があったのに」「だってこの俳優さん……素敵」 ポスターに写っている俳優をじっと見つめながら言うと、隣から小さく舌打ちするような音が聞こえた。「由依はこういう顔がタイプなのか? たしかにイケメンだけど、どこにでもいる若い俳優だろ」 私はポスターに視線を注いだまま、ゆっくりと首を横に振る。 私が素敵だと感じたのは恋愛映画に向いていそうな綺麗な顔だからではなく、その俳優はとても演技が上手なのだ。 逆に甘いマスクが邪魔をして、それに気づかれにくいのではないかと思うくらいに。「顔じゃなくて演技がタイプなの。この人はきっとすごい俳優さんになる。今はまだ売れてる途中かな。将来はヒーローからヒールまでカメレオンみたいに変化してなんでも演じられる俳優さんになるよ。断言する!」 きっぱりと私がそう言い切ったので、ジンは驚いて目を丸くしていた。
私はマンションに帰ってさっそく荷造りを始めた。 来たときと同じようにボストンバッグひとつで出ていくわけにはいかない。 年始に姉が送ってきた八つのダンボールに再び荷物を詰め直す作業があるからだ。 幸いジンはしばらくここには来ないはずだから、彼に知られずに荷造りはできる。 実家に帰るのだと嘘をつきたくはないし、引っ越し先の新しい住所を教えてしまえばジンが訪ねてくるのは目に見えている。 それを避けるために『消える』道を選んだ私は卑怯者だ。 それにこのマンションにはジンとの思い出がたくさん残っているから、別れるのなら私も早くここを出たい。 そう思うくらいつらいと自覚したら、自然と涙が出た。 別れるという私の決断は間違っているだろうか。 ……いや、きっとこれが正解だ。 相馬さんも、姉も、母も、ショウさんも、みんなが幸せになれる。 ジンは私がいなくなれば少しは寂しがるかもしれないけれど、それはしばらくの間だけだろう。 たぶん私よりも彼のほうがダメージは少ないはず。 ―――私のほうが、ジンを愛してる。 だけど私と一緒にいることで彼が輝けないのは嫌だし、笑顔になれないのも嫌だ。 彼が身を置くべき場所は芸能界で、私のためだけに自分の住む世界を変えてほしくはない。 私のことは忘れてくれていい。 華やかな世界でキラキラと輝き、毎日を忙しく過ごしていれば私の記憶など薄れるはずだ。 彼には自分の道を行ってもらいたい。 私は不幸を呼ぶ女なのかもしれない。 だからといって、周りの人たちまで巻き込みたくはない。 それから五日が過ぎ、甲さんが新しい住処となるマンションを見つけたと連絡をくれた。 今のバイトは辞めて新しく探しなおすつもりだったから場所はどこでも良かったし、私はすぐにそのマンションを契約した。『会えないか?』 最後に一目、ジンの顔を見たい。 そう思っていたタイミングでジンから連絡が来た。 どうやら今は日本に帰ってきているらしい。『ジンと一緒に見たい映画があるの』 私は自分から誘うようなメッセージをジンに送り、映画デートをすることにした。 今日もじめじめと雨が降って蒸し暑い中、映画館に赴くとジンが待ち合わせ場所に先に来ていた。
「わかった。それは俺が責任を持って対処すると約束する。……君のお姉さんとお母さんを人質に取ったような言い方をしてすまないと思ってる。だけど俺にとってはジンしかいないんだ」 まさか謝られるとは思っていなかった。 ショウさんは、決して悪い人ではない。 誰にだって守りたい人や事柄があるし、ショウさんにとってジンは家族同然で、実の弟のような存在だから。 ショウさんはジンのことを思い、世界に羽ばたいて欲しいだけなんだと私にも理解できた。 私と一緒にいることで、彼が窮地に立たされてしまうのなら…… 私から離れるしかないじゃないか。「由依ちゃん、さっき『消える』って言ったけど、あのマンションを出るの?」 心配そうな面持で甲さんに問われ、私は小さくうなずいた。「相馬さんが大変なことになってるのにこれ以上お世話にはなれません。住むところを早急に見つけて引っ越します」「実家には帰らないのか?」 ショウさんが少しばかり気の毒そうな表情を浮かべて私の返事を待った。「帰りません」「わかった。甲、由依の住むとこ見つけてやって。引っ越し費用は俺が出す」 うなずきながら言うショウさんに、私は慌てて首をブンブンと横に振った。「私は大丈夫ですから。それよりショウさんにもうひとつ約束してほしいことがあります」「なんだ?」 頬の涙をぬぐい、ピンと姿勢を正す私を見てショウさんが様子をうかがうように眉根を寄せる。「ジンの笑顔を取り戻してください。ショウさんは頭が良くて勘の鋭い人ですから、こんなことを私から言われなくてもわかってると思いますけど、最近のジンは本当に笑わないんです。私と出会ったころはいつも明るく笑っていたのに」 私の言葉を聞き、ショウさんは無言で視線をテーブルへと下げた。「私、ジンの笑顔が好きなんです。片側だけにできるエクボが素敵だから。でもしばらくそんな笑顔は見ていません。エクボだって左側にできていたはずだけど、もしかしたら右側だったかな?って忘れちゃうくらい」「………」「彼がまた、自然に笑えるようにしてあげてください」 頭を下げると、ショウさんはつらそうに参ったという表情を浮かべていた。「自分も大変なのに、最後に頼むのがジンのことだなんてな」 呆れられたのかもしれないが、今言ったことが私の本心だ。 誰もが惹きつけられる不思議な空気を纏う笑顔
激しく動悸がして、息ができないくらい苦しくなった。 後頭部をなにかで殴られたような衝撃を受けている私を気の毒に思ったのか、さすがに言い過ぎだと甲さんが止めに入ってくれた。 姉と母は相馬さんの恩恵があってこそ今がある。 ジンのことで頭がいっぱいで、大事なことなのにすっかり抜け落ちていた。 就職するのだと、気恥ずかしそうに話していた姉の姿が頭に浮かんだ。 それがダメになったら、また夜の仕事を続けるのだろうか。 母も施設の入所が決まっているようだったし、そこで治療しながらゆっくりと過ごすはずだ。 なのに白紙となれば、また自宅で暴れたりするのかもしれない。 姉と母の幸せを奪って踏みつけるようなことをし、お世話になった相馬さんが大変なときに恩を仇で返すようなことをしてまでもジンと一緒にいたいだなんて、そんなワガママが許されるはずがないじゃないか。 ボキッと音を立てて、このとき私の心が折れた。 私はなんのために実家を出てあのマンションで暮らし、就職をして独り立ちしたかったのかと理由を思い返せば、すべては家族のためだったはず。「君が離れてくれればジンは必ず大成する。台湾と日本だけじゃない。韓国、フィリピン、タイ、シンガポール、中国本土、香港……必ずアジアは制覇する。俺がさせてみせる。そしてその次はハリウッドだ」 夢で終わらせるつもりはないのだと、ショウさんが至極真面目に言ってるのが伝わってくる。「君が思っているより、ジンの“光”は強い」 ジンは生まれもってのスターで、その使命をもって生まれてきた。同じ人間でも私とは全然違う。 そんな、星のような人に近づきたいだとか、今なら手が届きそうだなんて願った私が ―――身の程知らずだったのだ。「もし、姉の就職や母の施設入所が白紙になりそうになったら、ショウさんが助けてくれませんか?」 ボロボロと止まらない涙を流す私を見て、ショウさんは黙って聞いていたがなにかを感じ取ったらしい。「由依、それは……」「…………私は消えます」 涙で濡れて視界が歪んで見えるけれど、ショウさんがホッと息をついたのがわかった。「その代わり、姉と母を助けてください。お願いします」 最初から許されない身分違いの恋だったのだ。 周りに反対され、ほかの人を不幸にしてまで突き進むだなんて、私にはやっぱりできない。 私の大切な人
「ちょっと待ってください。なぜそうなるんですか?」「俺だってこんなことを君に頼みたくはなかった。だけどジンがドラマの仕事を受けない理由はただひとつなんだ。君と一緒にいたい気持ちが強い」 最初はそうだったかもしれないけれど、相馬さんの会社の資金繰りの話をすればジンだって気持ちが変わるかもしれないのに。「私が説得してみます。事情があるとわかればジンはオファーを受けるはずです」「いや、無理だ。ジン自身がこの倒産危機を知らないとでも思ってるのか? すでに話してある。それでもジンは君と離れるのが嫌で、芸能活動を辞めるとまで言った。そうなると俺は、アイツと君を無理にでも引き離すしかない。なりふり構わないと言ったろ。必ずドラマには出演させる。俺は本気だ」 決して激高はしていなかったが、ただ淡々と話すショウさんが私は逆に怖くなった。 誰がなんと言おうと絶対に自分の意見を押し通して、この局面を必ず乗り越えるのだという固い決意がショウさんの中に見えたから。「気づいたんだ。今後もし同じことが起きたらジンはまた君を優先する。それは芸能活動をしていくにあたって“支障”になる。だったら今のうちに別れさせるべきだろう」 いつも助け舟を出してくれる甲さんも、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。 次から次へと矢継ぎ早に言葉を並べられ、私は頭が混乱してなにも言い返せない悔しさからかじわりと目頭が熱くなった。「それでも………どうしても一緒にいてはダメですか?」「……由依」「私はジンのことが、すごく好きなんです」 涙がポロリと両目からこぼれ落ちた。 一度だけワガママが許されるのならば、ジンと一緒にいたい。 ほかには何も望まない。愛する彼と笑って一緒に生きていきたいだけだ。 そんなたったひとつの切なる願いを訴えてみたけれど、ショウさんは眉間にグッとシワを寄せて私を真正面から見つめた。「もっとすんなりとわかってもらえると思ってた。君は今俺が話したことをなにも理解できなかったのか?」「いえ、そういうわけでは……」 手の平で頬の涙を拭う私に、ショウさんは動揺することなく視線を送り続けてきた。「今回の倒産危機は君も他人事ではない。今君が住んでるマンションも社長は手放すことになるだろう。それにお姉さんの就職もきっと白紙だ。系列会社だといっても間違いなく危機に陥り、コネで
「俺らはポラリス・プロの人間だが他人事じゃない。相馬コーポレーションの資金力でポラリス・プロは成り立ってると言っても過言じゃないからだ。あっちに倒れられたら、こっちも共倒れだ」 いつも緩慢な笑みを浮かべる癒し系の甲さんまで神妙な顔つきでただ聞いているだけだから、どうやら私が思う以上に事は深刻なのだろう。「資金繰りは社長がなんとかするって言ってるけどね。だけどショウさんのツテで、台湾の事務所にも借り入れをお願いしてるんだ」 個人でなんとかなるような、そんな金額ではないと思う。 私は会社の経営に関しては詳しくないけれどその程度のことはわかる。「幸い、台湾の事務所は協力すると言ってくれてる。だけどそれには条件を突き付けられた」「……条件?」 おそるおそる聞き返すとショウさんはコクリと首を縦に振った。「例の長編ドラマにジンを出演させることだ」 あのオファーについては、ジンが頑なに嫌がっていて未だに保留の状態らしい。「こうなったら、なりふりなんて構っていられない。俺はこの話を受けるつもりでいる」「でもジンが……」「なんとしてでもあのドラマには出てもらう。俺が出させる」 強行突破、というのはこういうのを言うのだろう。 本人の意向を無視してでも出演させるとは、かなり強引なやり方だと思う。 だけどジンの気持ちを無視してまでも、その選択しかないのだと追い詰められているみたいだった。「どうして台湾の事務所はそのドラマにこだわるんですか?」 仕事ならほかにもオファーがあるはずなのに、本人が嫌がっている仕事をなぜ無理強いするのか私はそこが引っかかる。「長編ドラマの仕事を受けたら、ギャラとして事務所に大きなカネが入る。だけどそれだけじゃない。断れば懇意にしているプロデューサーの顔に泥を塗ることになる。事務所はプロデューサーと関係が悪化するのを避けたいんだ」 力のあるプロデューサーに逆らいたくないからだとショウさんが説明してくれた。 それにドラマのオファー自体は悪い話ではない。 むしろジンの人気を後押しするきっかけになるはずだから、あとはジン自身が首を縦に振るだけだとみんな思っているのだろう。「相馬コーポレーションもポラリス・プロも倒産回避。ジンは俳優として本格デビューして人気が上がる。ドラマはヒット間違いなし。それで全部丸く収まる」 たしかにシ
ジンは私の頭を優しく撫で、額にチュっとキスを落とす。「外で会って平気?」「日本は大丈夫だろ。不安ならホテルで密会する?」「え?! 」 一瞬動揺した私を見て、ジンが吹き出すように盛大に笑った。「なにを想像したんだよ。まぁ、間違ってはいないけど」「もう!」 ケラケラと笑う彼を見て、なぜか少しホッとした。 出会ったころはよく笑っていたのに、最近めっきり笑顔が減った気がしていたから。 彼にはいつも笑っていてほしいし、自分の周りにいる人たちもみんな笑顔になれたらいい。 だけど私にとって彼はもう特別な存在だから、誰よりも心から笑顔でいてほしいと願っている。 ジンとショウさんの言い争いが絶えなくなった、と甲さんから聞いたのは、それから一ヶ月ほど経ったころだった。 ドラマのオファーのことで大揉めになっているのかと思ったけれど、それだけではないらしい。 今後の仕事の方針や、プライベートの過ごし方など、あらゆることで衝突する日々なのだそう。 ほんの些細なことでも衝突するなんて以前なら考えられない光景だけれど、今のジンとショウさんならあり得ると思う。 空気が悪いなんてもんじゃない、と甲さんが嘆くぐらいだから相当殺伐としているのだろう。 そんな日々も過ぎていき、季節は梅雨も半ばを迎えようかという蒸し暑さの中。―― 多くの人間が関係する大変な事が起きた。「話がある」 私を呼び出したのはショウさんで、用件はなんだろうかと特に気構えることなく待ち合わせのカフェへと向かった。 するとそこには甲さんもいて、私を手招きしている。 挨拶もそこそこに私の向かい側に座るふたりの顔を見て、なにか良くないことを告げられると予感した。 こういうときの勘は、なぜか当たるものだ。「回りくどく言うのは苦手だから結論から言う」 無表情に淡々とショウさんが話を切り出した。「ジンと、別れてくれ」 神妙な顔つきで私を見つめるショウさんは苦渋の表情だ。「あ、あの……」 一瞬で声が震えた。 誰かに交際を反対されるかもしれないと一定の覚悟はあったけれど、交際の事実を自分たちから伝えないままショウさんからいきなり別れろと言われて、私の頭は途端に混乱し始めた。「お前たちが数ヶ月前から付き合ってるのは知っていた。相手が由依だから黙認してただけだ」 ショウさんは私たちの交際を
「さっきショウさんに聞いたの。ドラマの話とか、第二弾の記事とか」「俺、しばらくここに来るのはやめる」 ジンは不本意だ、という気持ちを前面に出した表情をしていた。 さっきの電話の口調とは反対に、やけに素直なところに私は違和感を覚えた。「ショウくんに、お前が出入りすることで由依がそこに住めなくなるかもしれない。由依が追い出されてもいいのか? って説教された」 私のためを思って動けと、ショウさんはある意味ジンを脅したみたいだ。 自分のことを理由にされるのは気持ちよくはないけれど、それでもショウさんの助言どおり、ジンが不用意にここに出入りするのは危険だと私も思う。 彼がこれ以上週刊誌で騒がれて傷つかないためにも、しばらくここに立ち寄らないのは私も賛成だ。「ショウさんから聞いたけど、ドラマには出ないの?」 早速もう帰るつもりなのか、テーブルの上を片付け始めたジンに言葉をかけると、なんでもないことのようにあっさりと首を縦に振った。「断ってくれって言ってる」「せっかくの大きな仕事なのに」 考える余地なく断るにはもったいない話だと、私の気持ちが言葉尻で伝わったのか、ジンは私に小難しい視線を送って来た。「相手の女優が気に入らないのもあるんだ。柳 莉紋(リュウ リーウェン)で内定してるらしいから」「りゅ……?」「ほら、俺が初めて出たMVで共演した子」 あのMVでしか見たことはないけれど、今でもはっきりと覚えている。 男心をくすぐるようなほんわかとした雰囲気のとってもかわいらしい容姿をした女性だった。「すごくかわいい人なのに、どうして気に入らないの?」 彼女を思い出しながらも笑顔で話す私とは対照的に、ジンがうんざりだとばかりに顔をしかめた。「顔はどうでもいいとして性格が悪いんだ。ありえないくらいにワガママ」 おそらくだけれど、彼女のそのワガママな性格に以前直面したのだろう。「また共演なんてごめんだ」と、ジンが心の底から嫌そうに言った。 人は見かけによらないとはこのことで、あんなにかわいらしくて素直そうな女性なのに、性格の悪い一面があるとは思いもよらなかった。「これでドラマの話が来なくなるならそれまでだ。細々とモデルだけやってもいいし、全部やめたっていい」「……ジン」「俺は北京語ができるから、どこか日本の企業に就職できるだろう」 ジン