「ま、答えたくないならいいよ。社長に聞いとく」 母親が精神を病み、私を見ただけで暴れるなんて知ったら、普通の人はかなり驚くだろう。それを初対面のジンに言えるわけがない。「ねぇ、ジンのお母さんって、どんな人?」 きっとやさしいお母さんだろうと想像が膨らんだ。 きちんと食事をしているかと電話でいつも息子を心配するような料理上手な人で、時には口うるさいしっかりとした母親のイメージが湧いた。 ジンがイケメンということは、お母さんも美人なのだろう。「どんなって……普通だったかな」「だった?」 なぜ過去形なのかと、反射的に聞き返してしまう。「七歳のときに別れたまま会ってないから、記憶が薄らいでる」 驚いた、というより私の想像とはまったく違ったから意外だった。「そんな顔すんなよ。ま、俺も家族に関しては十分ワケありだ」 お母さんについてそれ以上ジンに尋ねられなかったけれど、〝亡くなった〟という言葉はなかったから、生き別れかもしれない。今は離婚なんて珍しくない時代だ。「それより、由依の姉さんと社長って、どんな関係?」 相馬さんの存在を今日知ったばかりの私にそれを聞かれても困るけれど、私もすごく気になっていることだ。「年の差がありすぎだけど、付き合ってるのかな?」 ジンが烏龍茶をひと口飲み、柔らかい笑みを浮かべてそう言った。「私も知らないの。ところで相馬さんって独身?」「ああ、今はな。ずいぶん前にバツは付いてるみたいだけど」 相馬さんが元既婚者だとしても、今は独身ならとりあえず不倫にはならない。内心ホッとして口元が緩んだ。「年の差はあるよね。相馬さんはいくつ?」「えっと……四十四かな」「え?! 若い!」 てっきりまだ三十代だと思っていたのに、相馬さんは私の予想をはるかに超えた四十代半ばだった。「社長は若く見えるよな」 ジンの言うように見た目は相当若いけれど、あの落ち着いた紳士的な態度は四十代で納得だ。 しかし、相馬さんが四十四歳で姉が二十四歳だから、親子ほどの年の差がある。 ぼうっとそんなことを考えていたら、会話が途切れたタイミングで玄関のチャイムが鳴った。「デリバリーが来たな」 玄関先に向かったジンが、届けられたものを両手で抱えてリビングへと戻ってくる。 ふたり分にしては多そうな量だった。「絶対チキンだ」 包みを開けも
「もしもし。……うん、届いた。ありがたくいただきます」 明るい声で相馬さんと話していたジンが、しばらくすると私に自分のスマホを差し出した。「社長が代わってくれって」 あわててスマホを受け取って耳に当てると、「もしもし」と低くてやさしい声が聞こえてきた。『由依ちゃん、 なにか困ってない?』「ありがとうございます。大丈夫です」 相馬さんの気遣いがうれしくて、電話なのにペコリと会釈してしまった。 これだけ至れり尽くせりなのだから、困ったことを探すほうが難しいくらいだ。『勝手だけど、夕飯をそっちに届けさせたからジンとふたりで食べて。キッチンにシャンパンやワインもあったと思うから、飲んでかまわないよ』「食事のことまですみません。お忙しいのにお気遣いいただいて感謝しています」『いや、謝るのは俺のほうだ。どこか外のうまい店に連れていってあげたかったけど、今日は難しくてね。だけど、由依ちゃんも今夜はゆっくりできる場所のほうがよかったかな』 姉に好意があるからという理由を差し引いても、妹の私にここまでしてくれるのだから相馬さんはやさしい人だ。 相馬さんみたいな人が父親だったらよかったのにと、ふと考えてしまった。 それなら我が家はみんな幸せだっただろう。『メリークリスマス。大丈夫、きっとこれからは由依ちゃんに幸せな毎日が訪れるよ』 その言葉が胸に響いて、目頭が熱くなってくる。 なにか救われた気がしたし、蒸発しそうになっていた魂が戻ってきたような気もした。 私が電話を終えてすぐ、ジンがキッチンから白い箱を持ってきて私の目の前に広げる。「これ、俺ひとりで食いきれないから、由依がいてよかった」 白い箱の中身は、イチゴとベリーがたっぷりと乗った豪華なクリスマスケーキだった。 これをひとりで食べるのはたしかに多すぎる。「このケーキ、めちゃくちゃうまいから。生クリームの甘さが絶妙」 イケメンのジンが言うと、まるでCMみたいでなんだかおかしい。 私は笑みを浮かべているはずだったのに、自分でも不思議なくらい急速に目に涙が溜まっていくのがわかった。「なんで泣くんだよ」 私の異変に気づいたジンが途端に血相を変え、あわてて笑みを引っ込めた。 涙の理由は、こんなにも素敵なクリスマスを送れると思っていなかったからだし、相馬さんやジンの温かさややさしさがうれし
◇◇◇ 朝目覚めると知らない天井が視界に映り、私は昨日家を出たのだったと寝ぼけながらも自覚した。 なぜこうなったのだろう。昨日のことが夢みたいに思えたけれど、これは紛れもない現実だ。 ベッドから起き上がり、洗面台で顔を洗ってからキッチンへと向かう。 仕切りがなく繋がった空間のリビングに視線を移すと、ジンが毛布にくるまってソファーで眠っていた。 そんなところで寝たら風邪をひくかもしれないと一瞬心配になったが、部屋は暖房がきいていて暖かいから大丈夫だろう。 とりあえずジンを起こさないように、静かにケトルでお湯を沸かした。 勝手に飲んでいいと昨日教わっていた個包装のドリップコーヒーとカップを拝借する。 やはり相馬さんに申し訳ないので、今後は自分で買い足そう。 食費だけなら私のバイト代でまかなえるし、なにからなにまでお世話になっていてはいけない。 ケトルを見つめつつお湯が沸くのをボーっと待っていたら、突然人の気配がして振り向く。 するとそこには、起きたばかりのジンの姿があった。「おはよう。ごめん、起こした?」「いいよ。俺は夜型だけど、今日は早めにここから脱出しないと捕まるから」 ジンの言葉を聞いて、まさか警察が捕まえにでも来るのかとおかしな妄想をしたものの、まさかそんなわけはないと思う。 朝っぱらから冗談を言ってるのだと軽く流していたら、ジンが洗面台のほうへ向かった。 リビングの分厚いカーテンを開けると、まぶしい朝日が差し込んだ。 今朝は雲ひとつない晴天で、窓の外は空気が澄みきっているのか景色がくっきりと見えた。タワーマンションの最上階からの眺めは、さすがに見事だ。 リビングに戻ってきたジンは、先ほど私が目にした人物とは別人のようにシャキッと目覚めていて、心なしか顔の彫りも深くなった気がする。 相馬さんが社長をしている『ポラリス・プロ』という芸能事務所は、素人には聞き覚えのない名前なので大手ではないのだろう。小さな個人事務所なのかもしれない。 とはいえ、ジンはそこに所属しているのだから芸能人だ。 特に二重瞼がキリッとしていて目力が抜群だし、笑うと左側の頬にだけ軽くエクボができるのが特徴的でカッコいい。 精神的に余裕がなかった昨日も彼をかなりのイケメンだと認識してはいたが、明るい朝日に照らされたジンを目にして私はさらに圧倒されてし
「由依は今日、なにするんだ?」 見惚れていたら、淹れたてのブラックコーヒーの香りを楽しみながら不意にジンが尋ねた。「大学に行って求人の確認をしてから、カフェのバイトに行く」「授業もないのに大学へ行くのか。今日はクリスマスなのに、就活大変そうだな」 まだ内定ゼロの私にとって就活は死活問題で焦っているけれど、ジンにとっては完全に他人事なのだろう。「ジン、就活は?」「俺はまだ大学三年だしな」「もしかして私より年下?」 なぜかわからないけれど、てっきり同い年だと思いこんでいたので驚いてしまったが、ジンは二十一歳で、私よりひとつ年下だった。「ひとつ違いなら、同い年みたいなもんだ」 ジンがフッと口もとを緩めて笑った。「今後も芸能活動をしていくなら就活はしないよね。今も大学へ行きながら芸能の仕事してるの?」 ジンは間違いなくイケメンだけれど、申し訳ないが私はテレビや雑誌などにジンが出ている記憶はない。 芸能の仕事をしているとしても、なにかの雑誌に小さく載る程度のモデルだろうか。 もしくはドラマのエキストラか、どこかの劇団員か。 芸能人とひと口に言ってもいろいろあるし、私が知らないだけかもしれない。「仕事はちょこちょこと。ミュージックビデオの出演とか」「すごいね。誰のMV?」「由依の知らないアーティストだよ」 話に食いついてみたけれど、苦笑い気味にするりとかわされた。 彼がその映像にどれだけの時間映っているのか、露出度は詳しくわからない。 だけどMV出演なんてすごい仕事なのに、ジン本人はどうも言いたくなさそうに見えた。 もしかしたら、ほんの数秒しか映っていないことも考えられるけれど。 そんなふうに思考を巡らせていると、突然玄関のチャイムが鳴った。 朝早くから誰だろう、などと考えなくても、きっと相馬さんだ。 昨夜のご飯のお礼を改めて言わなくてはいけない。 相馬さんとジンのおかげで、身も心も凍えずに済んだのだから。「もう来たのか。やばい、絶体絶命だ」 室内にあるモニターでドアの前に立つ人物を確認すると、ジンはすぐに応答することなく両手で頭を抱えた。 よくわからないけれど、訪れたのは相馬さんではなさそうだ。
「どうしたの?」 私がそう声をかけると同時にピンポンともう一度チャイムが鳴り、間髪入れずにそれは何度か続いた。「え……誰?」 私がモニターを覗き込むと、知らない男性が鬼のような形相でチャイムを連打していた。 ジンが一緒だったからいいものの、私ひとりだったら相当怖い光景だ。「由依、ごめん。今から台風が来る」「……は?」「大丈夫。標的は俺だから」 どういう意味かさっぱりわからなくて、私がポカンとしたままでいると、ジンはフーッと息を吐きつつ観念したように玄関先へと向かった。 ガチャリと玄関ドアの開く音がすると同時にものすごい剣幕で怒鳴っている男性の声が聞こえ、その人物がリビングに近づいてきて、私は一瞬で身体が固まってしまった。 こんなに驚いたのはいつぶりだろう。 ジンが困ったような微妙な表情で戻ってくると、それに続いて大声を出していた男性が姿を現した。 長めの黒髪をしたその人は背の高いジンよりもさらに長身で、切れ長の瞳で整った顔立ちをしていた。 濃いグレーのコート姿もスタイリッシュで素敵なのに、怒っているので今は全部が台無しになっている。 私がなぜここまで驚いたかというと、見た目は日本人なのに男性がわめくように発している言語が日本語ではなかったからだ。「ショウくん、待った。日本では日本語の約束だろ」 笑いながらジンにそう言われた男性はカーッと顔を赤くさせたあと、さらに眉が吊り上がった。 平和に話し合うのが一番だから、とりあえずこれ以上怒らせるのはやめてほしい。「怒り心頭のときには母国語が出るんだよ!!」 この男性はおそらく外国人だろうから、日本語が話せるとしてもカタコトだと思っていたら、今度は流ちょうな日本語が飛び出したので私はまたそれに驚かされた。 ジンはこの男性のことを“ショウくん”と呼んだけれど、どこかで聞き覚えがある。 どこだったか、と記憶をたどると、昨日相馬さんとジンとの会話で出てきていた名前だと思い出した。「ジン、俺を怒らせるお前が悪…………」 その男性はリビングの隅にそっと立つ私の存在に気づいた途端、話の途中で言葉を詰まらせた。
ハァーッという盛大な溜息と共に眉間にキュッとシワを寄せ、イラついたように髪をかきあげる。「ついにやったか」「なにを?」 怒っている男性を目の当たりにしてもまったく臆することなくジンは尋ね返したけれど、その男性はじっと射貫くように私に視線を送ってきた。 表情に加え、身体に穴があくかと思うくらいの攻撃的な視線に、私は身を縮こまらせる。「いつか俺に隠れてやるんじゃないかと思っていたが」「だからなんの話?」「堂々と女を連れ込んどいて、なにをとぼけてんだよ!」 ジンは呆気にとられていたけれど、すぐにふるふると首を横に振る。「違うよ、誤解だ」 ジンの言うとおりなのだけれど、朝早くに男女が起き抜けにモーニングコーヒーを飲んでいるのだから、この光景を見たら事情を知らない人は誰しもが誤解するだろう。 私たちが一夜を共にするような男女の仲だと。『家に今帰ったら、ショウくんに説教くらうよ』 たしか昨日、ジンはそう口にしていたと思い出した。 異常なまでのチャイムの連打からして、ジンがショウさんを元々怒らせていた原因は別にある。 その上、私のことで誤解が生じたとなるとショウさんの怒りがさらにエスカレートするのは至極当然だ。「なにが誤解だ!」「由依は社長が連れてきたんだよ」「そんなわけないだろ。もっと上手い言い訳くらい考えとけよ!」 ショウさんの迫力に押されながらも、本当に誤解なのだとジンが必死に説明を繰り返す。 事情をわかってもらえるように私も加勢しなければと思うものの、口を挟む隙がない。「由依、驚かせてごめん。この人は、俺の兄貴」 突然そう紹介され、別の意味で驚いた。 この外国人であろうショウさんがジンのお兄さんだとはすぐに理解できずに頭が混乱する。 もしかしたらジンも日本人ではないのかもしれない。「実の兄貴じゃないだろ」 少し困ったような色を含ませながら、ショウさんが小声でボソリとつぶやいた。「俺はコイツのマネージャーだ」
結局ふたりはどういう関係なのか、いまいち理解できない。 血の繋がらない、義理の兄弟なのだろうか。 いや、それならばわざわざ兄じゃないと否定はしないはず。 元々親しい間柄のふたりが、芸能人とマネージャーになったのかもしれない。「あの、初めまして。安田由依です」「とりあえず君、帰ってくれ」 ペコリと頭を下げた私に、イラついたショウさんが吐き捨てるように言ってそっぽを向いた。 ジンが連れ込んだ女性だと勘違いされているのだから、不遜な態度を取られても仕方がない。「ショウくん、違うんだって!」 説明するから聞いてくれとばかりに口を挟んだジンに対し、ショウさんは迫力満点に睨んだ後、再び私に懐疑的な視線を向けた。「もしかしてコイツが芸能人だと知ってて誘惑して、ここに入り込んだのか?」 ショウさんの言い方は、イケメン芸能人と一晩遊べたのだからそれでいいだろう、とまるで嘲笑しているかのようだった。「スキャンダルになると困る。帰る前にスマホをチェックさせてくれ。写真が残ってる場合は消させてもらう」 少しイントネーションが日本人らしくないところもあるけれど、ほとんどネイティブに近い日本語でそう告げられ、私は放心状態になった。 だが早く否定して誤解をとかなければと、次の瞬間なんとか言葉を発した。「あの、ほんとに誤解なんです」「意味がわからないが?」 この期に及んでなんの弁解なのだと言いたそうな表情で、ショウさんは訝しげに私を見た。「私、事情があって相馬さんからしばらくここをお借りすることになったんです。だから……帰るところがなくて……」 家にはしばらく帰れないのだし、今の私にはここ以外に居場所はない。「君は相馬社長の知り合い?」「……知り合いというか……はい」 それにはなんと答えたらいいのかわからなかった。 相馬さんとも昨日が初対面だし、私をここに案内してくれたことに間違いはないけれど、間柄を聞かれると困る関係だから。 姉と相馬さんだってどんな関係なのか知らないのだから、私と相馬さんとの関係はさらに今の段階で単純に説明などできない。「ジンとは昨日が初対面?」
「そうです。もちろん私は向こうの部屋で寝ましたからなにもありません。あ、相馬さんに電話しましょうか。今スマホ持ってきます」 蛇に睨まれた蛙、とはこの状態を言うのだろう。 真実を述べているだけなのに、なぜか焦って挙動不審になってしまう。 そんな小心者な自分が情けなくて悲しくなってくる。「いや、けっこうだ。君はウソはついていないだろう。詳しいことは後で社長から説明を聞くが、社長が君にこの部屋を貸すと決めたのなら出ていくのはジンのほうだな」 私はあきらかにおどおどしてしまっていたけれど、なぜかショウさんは私の言葉を信じてくれて、怒りの表情が一気に和らいでいった。「朝から騒がしくて……いや、君に嫌な言い方をして悪かった」 ショウさんは私に素直に謝ってくれたあと、ジンに早く着替えて準備をするようにと急かせた。 最初にこの部屋に入ってきたときには鬼の形相だったから、どれだけ怖い人なのかと心配になったけれど、ショウさんはきちんとした大人だった。 元からあまり笑顔を見せない人なのか、取っ付きにくい感じは否めないけれど。 そんなことを頭で考えているところへ再び玄関のチャイムが鳴り、今度こそ相馬さんだろうかと期待してしまう。 相馬さんが来てくれたなら、この場でショウさんに事情を話してくれるだろう。 そう思い、インターホンの液晶画面を覗き込んだけれど、相馬さんとは違う見知らぬ男性が映っていた。「誰?……」 無意識に私がそうつぶやくと、そばにいたショウさんが隣に立って画面を覗き込んできた。「ああ、開けて大丈夫。うちの事務所の人間。人畜無害な男だ」 どうやら芸能事務所の方のようで、ショウさんが大丈夫だと言うのだから怪しい人ではないのだろうとオートロックを解除した。 玄関先までおもむいてガチャリとドアを開けると、立っていたのは黒のダウンジャケットを着て青いマフラーを巻いた、ダークブラウンの髪の男性だった。「おはようございます。美山(みやま)甲(こう)と言います。相馬社長から言われて朝食を届けに来ました」 営業スマイルなのか元からなのか、どちらかはわからないけれど、男性がにこにこと人懐っこい笑みを浮かべる。 ジンやショウさんとは違い、身長がそんなに高くないこともあって威圧感はゼロだ。 怒り心頭だったとはいえ、鬼の形相で現れたショウさんとは第一印象が正反
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普