結局ふたりはどういう関係なのか、いまいち理解できない。 血の繋がらない、義理の兄弟なのだろうか。 いや、それならばわざわざ兄じゃないと否定はしないはず。 元々親しい間柄のふたりが、芸能人とマネージャーになったのかもしれない。「あの、初めまして。安田由依です」「とりあえず君、帰ってくれ」 ペコリと頭を下げた私に、イラついたショウさんが吐き捨てるように言ってそっぽを向いた。 ジンが連れ込んだ女性だと勘違いされているのだから、不遜な態度を取られても仕方がない。「ショウくん、違うんだって!」 説明するから聞いてくれとばかりに口を挟んだジンに対し、ショウさんは迫力満点に睨んだ後、再び私に懐疑的な視線を向けた。「もしかしてコイツが芸能人だと知ってて誘惑して、ここに入り込んだのか?」 ショウさんの言い方は、イケメン芸能人と一晩遊べたのだからそれでいいだろう、とまるで嘲笑しているかのようだった。「スキャンダルになると困る。帰る前にスマホをチェックさせてくれ。写真が残ってる場合は消させてもらう」 少しイントネーションが日本人らしくないところもあるけれど、ほとんどネイティブに近い日本語でそう告げられ、私は放心状態になった。 だが早く否定して誤解をとかなければと、次の瞬間なんとか言葉を発した。「あの、ほんとに誤解なんです」「意味がわからないが?」 この期に及んでなんの弁解なのだと言いたそうな表情で、ショウさんは訝しげに私を見た。「私、事情があって相馬さんからしばらくここをお借りすることになったんです。だから……帰るところがなくて……」 家にはしばらく帰れないのだし、今の私にはここ以外に居場所はない。「君は相馬社長の知り合い?」「……知り合いというか……はい」 それにはなんと答えたらいいのかわからなかった。 相馬さんとも昨日が初対面だし、私をここに案内してくれたことに間違いはないけれど、間柄を聞かれると困る関係だから。 姉と相馬さんだってどんな関係なのか知らないのだから、私と相馬さんとの関係はさらに今の段階で単純に説明などできない。「ジンとは昨日が初対面?」
「そうです。もちろん私は向こうの部屋で寝ましたからなにもありません。あ、相馬さんに電話しましょうか。今スマホ持ってきます」 蛇に睨まれた蛙、とはこの状態を言うのだろう。 真実を述べているだけなのに、なぜか焦って挙動不審になってしまう。 そんな小心者な自分が情けなくて悲しくなってくる。「いや、けっこうだ。君はウソはついていないだろう。詳しいことは後で社長から説明を聞くが、社長が君にこの部屋を貸すと決めたのなら出ていくのはジンのほうだな」 私はあきらかにおどおどしてしまっていたけれど、なぜかショウさんは私の言葉を信じてくれて、怒りの表情が一気に和らいでいった。「朝から騒がしくて……いや、君に嫌な言い方をして悪かった」 ショウさんは私に素直に謝ってくれたあと、ジンに早く着替えて準備をするようにと急かせた。 最初にこの部屋に入ってきたときには鬼の形相だったから、どれだけ怖い人なのかと心配になったけれど、ショウさんはきちんとした大人だった。 元からあまり笑顔を見せない人なのか、取っ付きにくい感じは否めないけれど。 そんなことを頭で考えているところへ再び玄関のチャイムが鳴り、今度こそ相馬さんだろうかと期待してしまう。 相馬さんが来てくれたなら、この場でショウさんに事情を話してくれるだろう。 そう思い、インターホンの液晶画面を覗き込んだけれど、相馬さんとは違う見知らぬ男性が映っていた。「誰?……」 無意識に私がそうつぶやくと、そばにいたショウさんが隣に立って画面を覗き込んできた。「ああ、開けて大丈夫。うちの事務所の人間。人畜無害な男だ」 どうやら芸能事務所の方のようで、ショウさんが大丈夫だと言うのだから怪しい人ではないのだろうとオートロックを解除した。 玄関先までおもむいてガチャリとドアを開けると、立っていたのは黒のダウンジャケットを着て青いマフラーを巻いた、ダークブラウンの髪の男性だった。「おはようございます。美山(みやま)甲(こう)と言います。相馬社長から言われて朝食を届けに来ました」 営業スマイルなのか元からなのか、どちらかはわからないけれど、男性がにこにこと人懐っこい笑みを浮かべる。 ジンやショウさんとは違い、身長がそんなに高くないこともあって威圧感はゼロだ。 怒り心頭だったとはいえ、鬼の形相で現れたショウさんとは第一印象が正反
「ジンはまだ寝てるよね? ついでに起こして連れて帰るよ」 甲さんは私より少し年上くらいの若い男性で、ショウさんの言葉どおり穏やかで人当たりが良い。 しかも相馬社長から事前に伝わっているのか、昨夜ジンがここに泊まったと知っているみたいだった。「もう起きてはいるんですが……」 どうぞ、と玄関へ招き入れると、甲さんはすぐに男性の靴が二足脱いであることに気がついた。「もしかして先にひと波乱あった?」 先客があったことを察しながら、甲さんはにこにことしたままリビングへと進んだ。「おはようございます。やっぱり。先客はショウさんか」「甲、社長は?」 甲さんに視線をやりつつ、眉ひとつ動かさずにショウさんが問う。 同じポラリス・プロで働くもの同士だから、ふたりは顔見知りどころではなくかなり親しそうだ。「社長は不動産会社の早朝会議です。だから俺が社長に頼まれて朝食を届けに。……あれ? ジンは?」「今着替えてる。社長も俺にだけこの説明がないのは酷いんじゃないか?」 辺りを見回してジンの姿を捜す甲さんに、ショウさんが低いトーンで愚痴を言う。 相馬さんは甲さんには私のことをきちんと説明していたようなので、ショウさんは自分だけ除け者にされたようで気に入らないのだろう。「いや、ショウさんに隠そうとしたわけではないですよ。社長は早朝から会議だから伝えるタイミングがなかっただけでしょう」 今の時代は電話もメールもあるのだから、甲さんの言い訳は苦しい感じがしたけれど、ショウさんは黙って聞き流していた。「ショウさんもいるってわかってたら、三人分の朝食を買ってきたのにな。今から追加で買ってきましょうか」 甲さんが明るい笑みを浮かべ、話題を朝食へと上手にすり替えた。 こういうタイプの人ならショウさんとはぶつかったりしないとすぐにわかるほど、甲さんからは柔らかい雰囲気が漂う。「いい。今からジンを連れて帰って説教する。午後から雑誌の取材も入ってるし」「ジンの好きなあったかいスープ買ってきたのに」「朝飯は甲が代わりに食っとけよ」
買ってきたものをテーブルの上に並べながら甲さんが苦笑いをすると、そこへ着替え終わったジンが別室から姿を現した。 オフホワイトの長袖シャツとデニムを合わせただけの格好なのに、先ほどとは大違いで、私は一瞬で目を奪われてしまった。 服装が違うとこうも違って見えるのかと驚くくらい、脚も長いし均整がとれていてカッコいい。「甲くん、おはよう。俺の好きなスープ買ってきてくれたの?」 うれしそうにスープにありつこうとするジンの腕を、ショウさんが的確に捕らえて引っ張った。「お前は俺と帰るんだよ!」「スープくらい飲ませてくれよ」 問答無用とばかりにショウさんは私に小さく「邪魔したな」とだけ言い、まだコートも着ていないジンを伴って部屋から去って行った。「ごめんね。朝から騒がしかったよね」 まるで現場を見ていたかのように、私とふたりになってから甲さんが謝った。 今日みたいなことがしょっちゅうあるのかはわからないけれど、甲さんはあのふたりの性格をよく知っているようだ。 冷めないうちに、と買ってきてくれたホットサンドとスープの朝食を勧められたので、ジンが口にするはずだったスープだけでもどうぞ、と私も甲さんの目の前にそれを置いた。 甲さんはスープの器で手を温めていたけれど、急に思い出したように自分の名刺を私に指し出す。 相馬さんに連絡がつかないときのために、と携帯番号の書かれた名刺だ。 そんなにしょっちゅう連絡するようなことは起こらないけれど、万が一ということもあるからお守り代わりにいただいておいた。「あの……質問してもいいですか?」 ジンにもショウさんにもなんとなくストレートには聞けないし、相馬さんにだと大げさな気がする。 私の頭に浮かんだいくつもの些細な疑問は、人の良さそうな甲さんに尋ねるのが一番かもしれない。 甲さんが「なに?」と、私にやさしい笑みを向けた。「ショウさんって、外国の方ですか?」 ショウさんが話していた言葉が中国語っぽかったので、とりあえず最初に気になった事柄を甲さんに尋ねてみた。「彼は台湾の人。向こうの言語は北京語だからね」「ジンが、ショウさんのことをお兄さんだって言ってましたけど……?」
ショウさんが台湾の人ならば、ジンもそうなのだろうか。 なかなか聞き取るのは難しいと思われるほど早口でまくし立てるショウさんの中国語を、ジンは全て聞き取れていた。「正確に言うと、ショウさんはジンのお兄さんみたいな存在なんだ。ふたりは血のつながった兄弟じゃなくて幼馴染でね、小さいころ家が近所だったらしい」 だからショウさんは、自分は兄ではないと否定したのだと、だんだん謎が解けてきた。 ふたりは兄弟のように親しい幼馴染だけれど、家族や親せきではないみたいだ。「ショウさんが五歳年上で、当時からジンを本当の弟みたいにかわいがっていたんだよ。幼いころからジンは愛くるしい容姿で誰からも愛されていたんだって」「じゃあ、ジンも台湾の人ですか?」「ああ。……あれ? ジンの名前、知ってるんじゃないの?」 急に甲さんが不思議そうな顔を私に向けた。 私は“ジン”としか聞いていないのだけれど、彼にはほかにも名前があるのだろうか。「彼の本名は楚(チュ) 悠菫(ヨウジン)。だから“ジン”って呼ばれてる」 私はてっきり“仁”のような漢字一文字の名前だと思っていたから、略されていた呼称だったのは予想外だった。「ショウさんもじゃあ……本名は違うんですか?」「ショウさんは、楊(ヤン) 薫杰(シュンジェ)」「………え、どうしてそれで“ショウ”なんですか」 名前のどこにも“ショウ”とは入っておらず、略してすらいないじゃないかと、私は意味がわからなくて首をかしげた。「“ショウ”っていうのは、英名みたい」「英名って?」「向こうの人は、本名とは別に英名を持っている人が多いんだ。日本では考えられないけどね。エディとかジョセフって名乗ったり、エドワードなんて人もいたなぁ。女性だと、シンディとかね」 そういえば香港の有名なハリウッドスターも英名ではないだろうか。「ジンが台湾出身だなんてビックリしました。あんなに上手に日本語を話しているし、初めて会ったときからずっと彼は日本人だと思ってましたから」「だよね。向こうで生まれ育ってるのに、すごい日本語力だよ」 普通はどんなに外国語が達者でも、ショウさんのように少しくらいイントネーションに違和感が生まれるものだ。
だけどジンの日本語にはおかしな部分はなにもなく、とても流暢だった。「ジンは半分日本人だからかな」「え?」「お母さんが日本人なんだ。彼はハーフ」 私は新たな事実にまた驚かされ、目を見開いてしまう。『七歳のときに別れたまま会っていないから、記憶が薄らいでる』 昨夜のジンの言葉を思い出した。 七歳まではお母さんとごく自然に日本語で会話していたから、あんなに流暢なのかもしれない。「ジンは日本が大好きなんだろうね。こっちの大学に留学するって、かなり前から決めてたみたいだよ」「そういえば、私と同じ大学だって……」 ジンは日本と台湾のハーフで、日本の大学に留学しながら芸能活動中……まとめるとそんなところだろうか。「ジンが気になる?」 まだ湯気の立つスープをすすりながら、甲さんが緩慢に笑う。 私が質問を次々としてしまったから、なにか誤解が生じたのかもしれないけれど、私がジンを気にしているのかと問われると決してそんなことはない。「まぁ、誰でもそうなるよ。ジンはイケメンだけど、あれは普通じゃない」 その言葉の意味がわからなくて、私は眉根を寄せて小首をかしげた。「妖精なのか魔法使いなのか……それとも宇宙人なのか……」「どういう意味ですか?」「ジンにはね、不思議な魅力があるんだ。強烈に人を惹きつける魔力っていうのかな。女の子は特にだと思うけど、あれは男でもやられるんだよ。きっと由依ちゃんも惹きつけられてるはず」 甲さんに断言されたものの、私は苦笑いで首を振って否定をした。「その自覚は、今のところありません」 確かにジンは整った顔をしているし、魅力を感じる人は多いのかもしれない。 だけど私は昨夜会ったばかりだから、まだジンをよく知らないのだ。「俺ね、こう見えて勘がするどい方だから先に言っちゃうけど、ジンを好きになるのはやめといたほうがいい」 惹きつけられている自覚がない、と言っているのに甲さんはまったく毒のない笑みで忠告をくれた。 私が生きてきた二十二年間で、一目惚れに近いような経験は今まで一度もないのだから、それは甲さんの取り越し苦労だと思う。
「ごめん。念のためにね。ジンは芸能人だから、ショウさんが恋愛には反対するだろうし」 だから好きにならないうちに釘を刺したのだ、と甲さんは引き続き柔和な笑みを浮かべた。 ショウさんはジンのマネージャーだから、私とジンが恋愛をしようものならショウさんがジンを守ろうとして邪魔をする。 それはありえることだろうなと納得してしまった。 だけど、きっとジンだって私を恋愛対象として見ていないから、私たちが恋人関係に発展するはずがないのだ。「ジンね、今年の初めに台湾のアーティストのMVに出演したんだ。よくあるでしょ、ドラマ仕立てみたいなやつ。それで、あのイケメンは誰だ?って人気に火がついたんだよ」 MVに出演したことがあると先ほどジンも話していた。 ほんのちょい役だろうと私の中で決めつけていたけれど、今の話を聞く限り、私が考えていたよりもかなり露出していそうだ。「今度その映像を見せてあげるよ」 照れを含んだような甲さんのうれしそうな表情に、私も笑みを浮かべつつうなずいた。 ジンは甲さんにとっても自慢の存在のようだ。「いろいろ仕事のオファーは来てるみたいだけど、ジンは日本に住んでるし、ショウさんもジンの売り出し方には考えがあるようなんだ。だから断る仕事も多くてね」 日本にいながら台湾の仕事をするとなると難しい部分もあるのだろう。 それに、ショウさんは敏腕マネージャーであり、ジンのプロデュースもしているそうで、ジンがどういう仕事を受けるのかはショウさんがすべて決めているのだそうだ。「ショウさんは、ゆくゆくはジンに歌もやらせたいらしいよ。でも、ジンは嫌だって反抗してる。普段はショウさんの言うことは聞くんだけどなぁ」「歌って……歌手、ってことですか?」「うん。向こうの人は多才で、俳優兼歌手って人が多いから。歌手デビューも視野に入れてるショウさんは、ボイストレーニングの予定を組むんだけど、ジンがたびたびサボるんだよ」 やれやれ、とため息を吐きつつ甲さんが苦笑する。「あ! ボイストレーニングって……」 昨夜ジンの口からその言葉が出ていたから、私の頭の中で急に点と点が線で繋がった。『ボイストレーニングはサボった』 ジンが相馬さんに言った文言が脳内に鮮明によみがえってくる。「今朝ショウさんがあんなに怒ってたのは、それが原因ですか?」「うん。ちゃんと行
ジンはわかっていてもそうしたのだから、相当嫌だったのだろうか。 そして、ショウさんから逃れるようにこの部屋へとやって来ていた。 ショウさんにしてみれば、またかという苦々しい気持ちだろう。裏切られたとすら思うかもしれない。 だけど、ジンが逃げ込む場所がどうしてこの部屋なのだろう。 ジンがこの部屋を気に入り、普段から頻繁に来ていることはショウさんも承知しているはずだから、決して秘密の隠れ家というわけではないと思う。 ジンの居場所を考えたとき、真っ先に疑われるのがこの部屋だろうし、本気で逃げ隠れしたいならすぐに見つかってしまうここは避けるべきなのに。「今ごろ、叱られてますかね?」「だろうね。でも、これがジンのささやかな抵抗なんだ。真っ向からショウさんに逆らうことはないジンのやり方って感じかな」 甲さんが発した言葉の意味を、私はどれくらい理解できただろう。 ジンとショウさんの深い関係性は、そんなにすぐに他人がわかるものではないのかもしれない。 考えてみたところで、私には関係のないことだ。 少し気になったから甲さんにいろいろ質問をしてしまったけれど、あのふたりにはもう会うことすらないかもしれない。 本来私とは出会っていなかった人たちなのだから、元々違う道を行く者同士だ。 それが昨夜から今朝にかけて、イレギュラーな縁が交錯しただけだと思う。「そろそろ俺、行かなきゃ。上がりこんで悪かったね」 時計に目をやり、甲さんが立ち上がる。「朝食、ありがとうございました。相馬さんに食事のことはお気遣いないようにお伝えください。私、料理はそこそこ出来るんです」 母が少しずつ調子が悪くなり始めたころから、家では私が食事の準備をしてきたから、おいしいかどうかは別として食事の準備には慣れている。 ここのキッチンに調理器具はそろっているし、自分だけの食事なら簡単なもので済ませればいいのだから楽勝だ。 甲さんが帰ってしばらくすると、私はお昼前にバイト先のカフェへ向かった。 今日は十二月二十五日でクリスマスだし、近隣に映画館があるせいか、昨日と同様に今日も店内は混んでいて若いカップル客が楽しそうに微笑みあっている。 仕事中はスマホの使用は不可のため、貴重品と共にロッカーにしまいこんだままだったから、姉からのメッセージに気がついたのは勤務を終えてスタッフルームに
「由依って占いっていうか、予知できる能力があったっけ?」 ツボにはまったようにクスクス笑うジンに、思わずプっと頬を膨らませた。「でもわかるの。この俳優さんはまだ若いけど、同世代のほかの人と比べたら演技力が全然違うし、将来はそれが評価されること間違いなしだよ」「そうか」「ジンもそうなれると思うんだけど」 隣にいるジンをそっと見上げた。 ジンがこのまま芸能の仕事を続けるのなら、きっとそうなれる。 息をのむような演技に誰もが見惚れる、そんな俳優になるだろう。「そうなって欲しいなって……思ってるんだけど……」「俺の話はいいって。ショウくんもドラマの話ばっかりしてくるし、うんざりだ」 デートの時にまでそんな話はしたくないと言わんばかりにジンが顔をしかめた。 最後のデートなのだから楽しく過ごしたいと思っていたのに、私はまたジンをこんな顔にしてしまうのだから本当にダメだな。「社長の不動産会社の話、由依も聞いたんだろ」「……うん」「資金調達は社長がなんとかするらしいし、俺もモデルの仕事を増やして協力すれば大丈夫だって」 ジンがあまりにも楽観的にそう言うから、本当にこのままなんとかならないかと心が揺らぎそうになる。「写真集を出す話もあって、その撮影であちこち海外に行くことになるかもしれないけど……」 ジンが色気をたっぷりと乗せて、私をまっすぐ見つめた。「俺、ちゃんと由依のところに戻ってくるから」 ぶわっと一瞬で目に涙が溜まっていく。 私は照れを装い、視線を外しながら笑ってその涙をごまかした。 そんなことを言われたら、離れられずにその胸にすがりつきたくなってしまう。 この日、私たちは映画を見たあとに食事をして会話を楽しんだ。 駅の改札で彼が私の額に素早くキスを落とし、繋いでいた手を放して彼の後ろ姿を見送ったら、すぐに涙があふれてきた。 こうすると決めたのは私なのだから、泣く資格なんてないのに。『ごめんなさい』と彼の後ろ姿に向けて、何度も謝りの言葉を心の中で唱える。 それと同時に、もっと愛情表現をすればよかったと後悔の念も押し寄せた。 愛していると、彼にもっと伝えればよかった、と。 このあと私は相馬さんのマンションを出て ――― 姿を消した。
「由依が観たい映画って、これか」 ジンが映画館のパネルポスターを見ながらポツリとつぶやいた。 私はその姿を目に焼き付けるように、隣に佇むジンを眺めていた。 今日のジンはなぜか黒ぶちめがねをかけている。 目は悪くなかったはずだから、おそらく伊達めがねだろう。 普通の大学生を装う意図があるのか、特に意味はないのかわからないけれど。「恋愛映画だな。由依と見るならなんでもいい」「なんだか楽しそうね」 以前と少し変わったことと言えば、今日のジンは表情が柔らかくて機嫌が良さそうな感じがした。「由依と会ってデートするのは久しぶりだから」「……あ」「どうした?」「ううん。何でもない」 私はふるふると頭を振り、照れくささから視線を外した。 思わず言葉が出たのは、ジンが左側にエクボを作り、パッと花が咲いたように笑ったからだった。 それは私が心待ちにしていた大好きな笑顔で、久しく見ていなかった光り輝く彼の顔を最後に目に焼き付けることができたのだから、これだけでもう十分だ。 少しずつでも、私の前でなくてもいいから、彼が笑えるようになってくれたならそれでいい。「何でこの映画なんだ? もっとほかにも面白そうな作品があったのに」「だってこの俳優さん……素敵」 ポスターに写っている俳優をじっと見つめながら言うと、隣から小さく舌打ちするような音が聞こえた。「由依はこういう顔がタイプなのか? たしかにイケメンだけど、どこにでもいる若い俳優だろ」 私はポスターに視線を注いだまま、ゆっくりと首を横に振る。 私が素敵だと感じたのは恋愛映画に向いていそうな綺麗な顔だからではなく、その俳優はとても演技が上手なのだ。 逆に甘いマスクが邪魔をして、それに気づかれにくいのではないかと思うくらいに。「顔じゃなくて演技がタイプなの。この人はきっとすごい俳優さんになる。今はまだ売れてる途中かな。将来はヒーローからヒールまでカメレオンみたいに変化してなんでも演じられる俳優さんになるよ。断言する!」 きっぱりと私がそう言い切ったので、ジンは驚いて目を丸くしていた。
私はマンションに帰ってさっそく荷造りを始めた。 来たときと同じようにボストンバッグひとつで出ていくわけにはいかない。 年始に姉が送ってきた八つのダンボールに再び荷物を詰め直す作業があるからだ。 幸いジンはしばらくここには来ないはずだから、彼に知られずに荷造りはできる。 実家に帰るのだと嘘をつきたくはないし、引っ越し先の新しい住所を教えてしまえばジンが訪ねてくるのは目に見えている。 それを避けるために『消える』道を選んだ私は卑怯者だ。 それにこのマンションにはジンとの思い出がたくさん残っているから、別れるのなら私も早くここを出たい。 そう思うくらいつらいと自覚したら、自然と涙が出た。 別れるという私の決断は間違っているだろうか。 ……いや、きっとこれが正解だ。 相馬さんも、姉も、母も、ショウさんも、みんなが幸せになれる。 ジンは私がいなくなれば少しは寂しがるかもしれないけれど、それはしばらくの間だけだろう。 たぶん私よりも彼のほうがダメージは少ないはず。 ―――私のほうが、ジンを愛してる。 だけど私と一緒にいることで彼が輝けないのは嫌だし、笑顔になれないのも嫌だ。 彼が身を置くべき場所は芸能界で、私のためだけに自分の住む世界を変えてほしくはない。 私のことは忘れてくれていい。 華やかな世界でキラキラと輝き、毎日を忙しく過ごしていれば私の記憶など薄れるはずだ。 彼には自分の道を行ってもらいたい。 私は不幸を呼ぶ女なのかもしれない。 だからといって、周りの人たちまで巻き込みたくはない。 それから五日が過ぎ、甲さんが新しい住処となるマンションを見つけたと連絡をくれた。 今のバイトは辞めて新しく探しなおすつもりだったから場所はどこでも良かったし、私はすぐにそのマンションを契約した。『会えないか?』 最後に一目、ジンの顔を見たい。 そう思っていたタイミングでジンから連絡が来た。 どうやら今は日本に帰ってきているらしい。『ジンと一緒に見たい映画があるの』 私は自分から誘うようなメッセージをジンに送り、映画デートをすることにした。 今日もじめじめと雨が降って蒸し暑い中、映画館に赴くとジンが待ち合わせ場所に先に来ていた。
「わかった。それは俺が責任を持って対処すると約束する。……君のお姉さんとお母さんを人質に取ったような言い方をしてすまないと思ってる。だけど俺にとってはジンしかいないんだ」 まさか謝られるとは思っていなかった。 ショウさんは、決して悪い人ではない。 誰にだって守りたい人や事柄があるし、ショウさんにとってジンは家族同然で、実の弟のような存在だから。 ショウさんはジンのことを思い、世界に羽ばたいて欲しいだけなんだと私にも理解できた。 私と一緒にいることで、彼が窮地に立たされてしまうのなら…… 私から離れるしかないじゃないか。「由依ちゃん、さっき『消える』って言ったけど、あのマンションを出るの?」 心配そうな面持で甲さんに問われ、私は小さくうなずいた。「相馬さんが大変なことになってるのにこれ以上お世話にはなれません。住むところを早急に見つけて引っ越します」「実家には帰らないのか?」 ショウさんが少しばかり気の毒そうな表情を浮かべて私の返事を待った。「帰りません」「わかった。甲、由依の住むとこ見つけてやって。引っ越し費用は俺が出す」 うなずきながら言うショウさんに、私は慌てて首をブンブンと横に振った。「私は大丈夫ですから。それよりショウさんにもうひとつ約束してほしいことがあります」「なんだ?」 頬の涙をぬぐい、ピンと姿勢を正す私を見てショウさんが様子をうかがうように眉根を寄せる。「ジンの笑顔を取り戻してください。ショウさんは頭が良くて勘の鋭い人ですから、こんなことを私から言われなくてもわかってると思いますけど、最近のジンは本当に笑わないんです。私と出会ったころはいつも明るく笑っていたのに」 私の言葉を聞き、ショウさんは無言で視線をテーブルへと下げた。「私、ジンの笑顔が好きなんです。片側だけにできるエクボが素敵だから。でもしばらくそんな笑顔は見ていません。エクボだって左側にできていたはずだけど、もしかしたら右側だったかな?って忘れちゃうくらい」「………」「彼がまた、自然に笑えるようにしてあげてください」 頭を下げると、ショウさんはつらそうに参ったという表情を浮かべていた。「自分も大変なのに、最後に頼むのがジンのことだなんてな」 呆れられたのかもしれないが、今言ったことが私の本心だ。 誰もが惹きつけられる不思議な空気を纏う笑顔
激しく動悸がして、息ができないくらい苦しくなった。 後頭部をなにかで殴られたような衝撃を受けている私を気の毒に思ったのか、さすがに言い過ぎだと甲さんが止めに入ってくれた。 姉と母は相馬さんの恩恵があってこそ今がある。 ジンのことで頭がいっぱいで、大事なことなのにすっかり抜け落ちていた。 就職するのだと、気恥ずかしそうに話していた姉の姿が頭に浮かんだ。 それがダメになったら、また夜の仕事を続けるのだろうか。 母も施設の入所が決まっているようだったし、そこで治療しながらゆっくりと過ごすはずだ。 なのに白紙となれば、また自宅で暴れたりするのかもしれない。 姉と母の幸せを奪って踏みつけるようなことをし、お世話になった相馬さんが大変なときに恩を仇で返すようなことをしてまでもジンと一緒にいたいだなんて、そんなワガママが許されるはずがないじゃないか。 ボキッと音を立てて、このとき私の心が折れた。 私はなんのために実家を出てあのマンションで暮らし、就職をして独り立ちしたかったのかと理由を思い返せば、すべては家族のためだったはず。「君が離れてくれればジンは必ず大成する。台湾と日本だけじゃない。韓国、フィリピン、タイ、シンガポール、中国本土、香港……必ずアジアは制覇する。俺がさせてみせる。そしてその次はハリウッドだ」 夢で終わらせるつもりはないのだと、ショウさんが至極真面目に言ってるのが伝わってくる。「君が思っているより、ジンの“光”は強い」 ジンは生まれもってのスターで、その使命をもって生まれてきた。同じ人間でも私とは全然違う。 そんな、星のような人に近づきたいだとか、今なら手が届きそうだなんて願った私が ―――身の程知らずだったのだ。「もし、姉の就職や母の施設入所が白紙になりそうになったら、ショウさんが助けてくれませんか?」 ボロボロと止まらない涙を流す私を見て、ショウさんは黙って聞いていたがなにかを感じ取ったらしい。「由依、それは……」「…………私は消えます」 涙で濡れて視界が歪んで見えるけれど、ショウさんがホッと息をついたのがわかった。「その代わり、姉と母を助けてください。お願いします」 最初から許されない身分違いの恋だったのだ。 周りに反対され、ほかの人を不幸にしてまで突き進むだなんて、私にはやっぱりできない。 私の大切な人
「ちょっと待ってください。なぜそうなるんですか?」「俺だってこんなことを君に頼みたくはなかった。だけどジンがドラマの仕事を受けない理由はただひとつなんだ。君と一緒にいたい気持ちが強い」 最初はそうだったかもしれないけれど、相馬さんの会社の資金繰りの話をすればジンだって気持ちが変わるかもしれないのに。「私が説得してみます。事情があるとわかればジンはオファーを受けるはずです」「いや、無理だ。ジン自身がこの倒産危機を知らないとでも思ってるのか? すでに話してある。それでもジンは君と離れるのが嫌で、芸能活動を辞めるとまで言った。そうなると俺は、アイツと君を無理にでも引き離すしかない。なりふり構わないと言ったろ。必ずドラマには出演させる。俺は本気だ」 決して激高はしていなかったが、ただ淡々と話すショウさんが私は逆に怖くなった。 誰がなんと言おうと絶対に自分の意見を押し通して、この局面を必ず乗り越えるのだという固い決意がショウさんの中に見えたから。「気づいたんだ。今後もし同じことが起きたらジンはまた君を優先する。それは芸能活動をしていくにあたって“支障”になる。だったら今のうちに別れさせるべきだろう」 いつも助け舟を出してくれる甲さんも、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。 次から次へと矢継ぎ早に言葉を並べられ、私は頭が混乱してなにも言い返せない悔しさからかじわりと目頭が熱くなった。「それでも………どうしても一緒にいてはダメですか?」「……由依」「私はジンのことが、すごく好きなんです」 涙がポロリと両目からこぼれ落ちた。 一度だけワガママが許されるのならば、ジンと一緒にいたい。 ほかには何も望まない。愛する彼と笑って一緒に生きていきたいだけだ。 そんなたったひとつの切なる願いを訴えてみたけれど、ショウさんは眉間にグッとシワを寄せて私を真正面から見つめた。「もっとすんなりとわかってもらえると思ってた。君は今俺が話したことをなにも理解できなかったのか?」「いえ、そういうわけでは……」 手の平で頬の涙を拭う私に、ショウさんは動揺することなく視線を送り続けてきた。「今回の倒産危機は君も他人事ではない。今君が住んでるマンションも社長は手放すことになるだろう。それにお姉さんの就職もきっと白紙だ。系列会社だといっても間違いなく危機に陥り、コネで
「俺らはポラリス・プロの人間だが他人事じゃない。相馬コーポレーションの資金力でポラリス・プロは成り立ってると言っても過言じゃないからだ。あっちに倒れられたら、こっちも共倒れだ」 いつも緩慢な笑みを浮かべる癒し系の甲さんまで神妙な顔つきでただ聞いているだけだから、どうやら私が思う以上に事は深刻なのだろう。「資金繰りは社長がなんとかするって言ってるけどね。だけどショウさんのツテで、台湾の事務所にも借り入れをお願いしてるんだ」 個人でなんとかなるような、そんな金額ではないと思う。 私は会社の経営に関しては詳しくないけれどその程度のことはわかる。「幸い、台湾の事務所は協力すると言ってくれてる。だけどそれには条件を突き付けられた」「……条件?」 おそるおそる聞き返すとショウさんはコクリと首を縦に振った。「例の長編ドラマにジンを出演させることだ」 あのオファーについては、ジンが頑なに嫌がっていて未だに保留の状態らしい。「こうなったら、なりふりなんて構っていられない。俺はこの話を受けるつもりでいる」「でもジンが……」「なんとしてでもあのドラマには出てもらう。俺が出させる」 強行突破、というのはこういうのを言うのだろう。 本人の意向を無視してでも出演させるとは、かなり強引なやり方だと思う。 だけどジンの気持ちを無視してまでも、その選択しかないのだと追い詰められているみたいだった。「どうして台湾の事務所はそのドラマにこだわるんですか?」 仕事ならほかにもオファーがあるはずなのに、本人が嫌がっている仕事をなぜ無理強いするのか私はそこが引っかかる。「長編ドラマの仕事を受けたら、ギャラとして事務所に大きなカネが入る。だけどそれだけじゃない。断れば懇意にしているプロデューサーの顔に泥を塗ることになる。事務所はプロデューサーと関係が悪化するのを避けたいんだ」 力のあるプロデューサーに逆らいたくないからだとショウさんが説明してくれた。 それにドラマのオファー自体は悪い話ではない。 むしろジンの人気を後押しするきっかけになるはずだから、あとはジン自身が首を縦に振るだけだとみんな思っているのだろう。「相馬コーポレーションもポラリス・プロも倒産回避。ジンは俳優として本格デビューして人気が上がる。ドラマはヒット間違いなし。それで全部丸く収まる」 たしかにシ
ジンは私の頭を優しく撫で、額にチュっとキスを落とす。「外で会って平気?」「日本は大丈夫だろ。不安ならホテルで密会する?」「え?! 」 一瞬動揺した私を見て、ジンが吹き出すように盛大に笑った。「なにを想像したんだよ。まぁ、間違ってはいないけど」「もう!」 ケラケラと笑う彼を見て、なぜか少しホッとした。 出会ったころはよく笑っていたのに、最近めっきり笑顔が減った気がしていたから。 彼にはいつも笑っていてほしいし、自分の周りにいる人たちもみんな笑顔になれたらいい。 だけど私にとって彼はもう特別な存在だから、誰よりも心から笑顔でいてほしいと願っている。 ジンとショウさんの言い争いが絶えなくなった、と甲さんから聞いたのは、それから一ヶ月ほど経ったころだった。 ドラマのオファーのことで大揉めになっているのかと思ったけれど、それだけではないらしい。 今後の仕事の方針や、プライベートの過ごし方など、あらゆることで衝突する日々なのだそう。 ほんの些細なことでも衝突するなんて以前なら考えられない光景だけれど、今のジンとショウさんならあり得ると思う。 空気が悪いなんてもんじゃない、と甲さんが嘆くぐらいだから相当殺伐としているのだろう。 そんな日々も過ぎていき、季節は梅雨も半ばを迎えようかという蒸し暑さの中。―― 多くの人間が関係する大変な事が起きた。「話がある」 私を呼び出したのはショウさんで、用件はなんだろうかと特に気構えることなく待ち合わせのカフェへと向かった。 するとそこには甲さんもいて、私を手招きしている。 挨拶もそこそこに私の向かい側に座るふたりの顔を見て、なにか良くないことを告げられると予感した。 こういうときの勘は、なぜか当たるものだ。「回りくどく言うのは苦手だから結論から言う」 無表情に淡々とショウさんが話を切り出した。「ジンと、別れてくれ」 神妙な顔つきで私を見つめるショウさんは苦渋の表情だ。「あ、あの……」 一瞬で声が震えた。 誰かに交際を反対されるかもしれないと一定の覚悟はあったけれど、交際の事実を自分たちから伝えないままショウさんからいきなり別れろと言われて、私の頭は途端に混乱し始めた。「お前たちが数ヶ月前から付き合ってるのは知っていた。相手が由依だから黙認してただけだ」 ショウさんは私たちの交際を
「さっきショウさんに聞いたの。ドラマの話とか、第二弾の記事とか」「俺、しばらくここに来るのはやめる」 ジンは不本意だ、という気持ちを前面に出した表情をしていた。 さっきの電話の口調とは反対に、やけに素直なところに私は違和感を覚えた。「ショウくんに、お前が出入りすることで由依がそこに住めなくなるかもしれない。由依が追い出されてもいいのか? って説教された」 私のためを思って動けと、ショウさんはある意味ジンを脅したみたいだ。 自分のことを理由にされるのは気持ちよくはないけれど、それでもショウさんの助言どおり、ジンが不用意にここに出入りするのは危険だと私も思う。 彼がこれ以上週刊誌で騒がれて傷つかないためにも、しばらくここに立ち寄らないのは私も賛成だ。「ショウさんから聞いたけど、ドラマには出ないの?」 早速もう帰るつもりなのか、テーブルの上を片付け始めたジンに言葉をかけると、なんでもないことのようにあっさりと首を縦に振った。「断ってくれって言ってる」「せっかくの大きな仕事なのに」 考える余地なく断るにはもったいない話だと、私の気持ちが言葉尻で伝わったのか、ジンは私に小難しい視線を送って来た。「相手の女優が気に入らないのもあるんだ。柳 莉紋(リュウ リーウェン)で内定してるらしいから」「りゅ……?」「ほら、俺が初めて出たMVで共演した子」 あのMVでしか見たことはないけれど、今でもはっきりと覚えている。 男心をくすぐるようなほんわかとした雰囲気のとってもかわいらしい容姿をした女性だった。「すごくかわいい人なのに、どうして気に入らないの?」 彼女を思い出しながらも笑顔で話す私とは対照的に、ジンがうんざりだとばかりに顔をしかめた。「顔はどうでもいいとして性格が悪いんだ。ありえないくらいにワガママ」 おそらくだけれど、彼女のそのワガママな性格に以前直面したのだろう。「また共演なんてごめんだ」と、ジンが心の底から嫌そうに言った。 人は見かけによらないとはこのことで、あんなにかわいらしくて素直そうな女性なのに、性格の悪い一面があるとは思いもよらなかった。「これでドラマの話が来なくなるならそれまでだ。細々とモデルだけやってもいいし、全部やめたっていい」「……ジン」「俺は北京語ができるから、どこか日本の企業に就職できるだろう」 ジン