ハァーッという盛大な溜息と共に眉間にキュッとシワを寄せ、イラついたように髪をかきあげる。「ついにやったか」「なにを?」 怒っている男性を目の当たりにしてもまったく臆することなくジンは尋ね返したけれど、その男性はじっと射貫くように私に視線を送ってきた。 表情に加え、身体に穴があくかと思うくらいの攻撃的な視線に、私は身を縮こまらせる。「いつか俺に隠れてやるんじゃないかと思っていたが」「だからなんの話?」「堂々と女を連れ込んどいて、なにをとぼけてんだよ!」 ジンは呆気にとられていたけれど、すぐにふるふると首を横に振る。「違うよ、誤解だ」 ジンの言うとおりなのだけれど、朝早くに男女が起き抜けにモーニングコーヒーを飲んでいるのだから、この光景を見たら事情を知らない人は誰しもが誤解するだろう。 私たちが一夜を共にするような男女の仲だと。『家に今帰ったら、ショウくんに説教くらうよ』 たしか昨日、ジンはそう口にしていたと思い出した。 異常なまでのチャイムの連打からして、ジンがショウさんを元々怒らせていた原因は別にある。 その上、私のことで誤解が生じたとなるとショウさんの怒りがさらにエスカレートするのは至極当然だ。「なにが誤解だ!」「由依は社長が連れてきたんだよ」「そんなわけないだろ。もっと上手い言い訳くらい考えとけよ!」 ショウさんの迫力に押されながらも、本当に誤解なのだとジンが必死に説明を繰り返す。 事情をわかってもらえるように私も加勢しなければと思うものの、口を挟む隙がない。「由依、驚かせてごめん。この人は、俺の兄貴」 突然そう紹介され、別の意味で驚いた。 この外国人であろうショウさんがジンのお兄さんだとはすぐに理解できずに頭が混乱する。 もしかしたらジンも日本人ではないのかもしれない。「実の兄貴じゃないだろ」 少し困ったような色を含ませながら、ショウさんが小声でボソリとつぶやいた。「俺はコイツのマネージャーだ」
結局ふたりはどういう関係なのか、いまいち理解できない。 血の繋がらない、義理の兄弟なのだろうか。 いや、それならばわざわざ兄じゃないと否定はしないはず。 元々親しい間柄のふたりが、芸能人とマネージャーになったのかもしれない。「あの、初めまして。安田由依です」「とりあえず君、帰ってくれ」 ペコリと頭を下げた私に、イラついたショウさんが吐き捨てるように言ってそっぽを向いた。 ジンが連れ込んだ女性だと勘違いされているのだから、不遜な態度を取られても仕方がない。「ショウくん、違うんだって!」 説明するから聞いてくれとばかりに口を挟んだジンに対し、ショウさんは迫力満点に睨んだ後、再び私に懐疑的な視線を向けた。「もしかしてコイツが芸能人だと知ってて誘惑して、ここに入り込んだのか?」 ショウさんの言い方は、イケメン芸能人と一晩遊べたのだからそれでいいだろう、とまるで嘲笑しているかのようだった。「スキャンダルになると困る。帰る前にスマホをチェックさせてくれ。写真が残ってる場合は消させてもらう」 少しイントネーションが日本人らしくないところもあるけれど、ほとんどネイティブに近い日本語でそう告げられ、私は放心状態になった。 だが早く否定して誤解をとかなければと、次の瞬間なんとか言葉を発した。「あの、ほんとに誤解なんです」「意味がわからないが?」 この期に及んでなんの弁解なのだと言いたそうな表情で、ショウさんは訝しげに私を見た。「私、事情があって相馬さんからしばらくここをお借りすることになったんです。だから……帰るところがなくて……」 家にはしばらく帰れないのだし、今の私にはここ以外に居場所はない。「君は相馬社長の知り合い?」「……知り合いというか……はい」 それにはなんと答えたらいいのかわからなかった。 相馬さんとも昨日が初対面だし、私をここに案内してくれたことに間違いはないけれど、間柄を聞かれると困る関係だから。 姉と相馬さんだってどんな関係なのか知らないのだから、私と相馬さんとの関係はさらに今の段階で単純に説明などできない。「ジンとは昨日が初対面?」
「そうです。もちろん私は向こうの部屋で寝ましたからなにもありません。あ、相馬さんに電話しましょうか。今スマホ持ってきます」 蛇に睨まれた蛙、とはこの状態を言うのだろう。 真実を述べているだけなのに、なぜか焦って挙動不審になってしまう。 そんな小心者な自分が情けなくて悲しくなってくる。「いや、けっこうだ。君はウソはついていないだろう。詳しいことは後で社長から説明を聞くが、社長が君にこの部屋を貸すと決めたのなら出ていくのはジンのほうだな」 私はあきらかにおどおどしてしまっていたけれど、なぜかショウさんは私の言葉を信じてくれて、怒りの表情が一気に和らいでいった。「朝から騒がしくて……いや、君に嫌な言い方をして悪かった」 ショウさんは私に素直に謝ってくれたあと、ジンに早く着替えて準備をするようにと急かせた。 最初にこの部屋に入ってきたときには鬼の形相だったから、どれだけ怖い人なのかと心配になったけれど、ショウさんはきちんとした大人だった。 元からあまり笑顔を見せない人なのか、取っ付きにくい感じは否めないけれど。 そんなことを頭で考えているところへ再び玄関のチャイムが鳴り、今度こそ相馬さんだろうかと期待してしまう。 相馬さんが来てくれたなら、この場でショウさんに事情を話してくれるだろう。 そう思い、インターホンの液晶画面を覗き込んだけれど、相馬さんとは違う見知らぬ男性が映っていた。「誰?……」 無意識に私がそうつぶやくと、そばにいたショウさんが隣に立って画面を覗き込んできた。「ああ、開けて大丈夫。うちの事務所の人間。人畜無害な男だ」 どうやら芸能事務所の方のようで、ショウさんが大丈夫だと言うのだから怪しい人ではないのだろうとオートロックを解除した。 玄関先までおもむいてガチャリとドアを開けると、立っていたのは黒のダウンジャケットを着て青いマフラーを巻いた、ダークブラウンの髪の男性だった。「おはようございます。美山(みやま)甲(こう)と言います。相馬社長から言われて朝食を届けに来ました」 営業スマイルなのか元からなのか、どちらかはわからないけれど、男性がにこにこと人懐っこい笑みを浮かべる。 ジンやショウさんとは違い、身長がそんなに高くないこともあって威圧感はゼロだ。 怒り心頭だったとはいえ、鬼の形相で現れたショウさんとは第一印象が正反
「ジンはまだ寝てるよね? ついでに起こして連れて帰るよ」 甲さんは私より少し年上くらいの若い男性で、ショウさんの言葉どおり穏やかで人当たりが良い。 しかも相馬社長から事前に伝わっているのか、昨夜ジンがここに泊まったと知っているみたいだった。「もう起きてはいるんですが……」 どうぞ、と玄関へ招き入れると、甲さんはすぐに男性の靴が二足脱いであることに気がついた。「もしかして先にひと波乱あった?」 先客があったことを察しながら、甲さんはにこにことしたままリビングへと進んだ。「おはようございます。やっぱり。先客はショウさんか」「甲、社長は?」 甲さんに視線をやりつつ、眉ひとつ動かさずにショウさんが問う。 同じポラリス・プロで働くもの同士だから、ふたりは顔見知りどころではなくかなり親しそうだ。「社長は不動産会社の早朝会議です。だから俺が社長に頼まれて朝食を届けに。……あれ? ジンは?」「今着替えてる。社長も俺にだけこの説明がないのは酷いんじゃないか?」 辺りを見回してジンの姿を捜す甲さんに、ショウさんが低いトーンで愚痴を言う。 相馬さんは甲さんには私のことをきちんと説明していたようなので、ショウさんは自分だけ除け者にされたようで気に入らないのだろう。「いや、ショウさんに隠そうとしたわけではないですよ。社長は早朝から会議だから伝えるタイミングがなかっただけでしょう」 今の時代は電話もメールもあるのだから、甲さんの言い訳は苦しい感じがしたけれど、ショウさんは黙って聞き流していた。「ショウさんもいるってわかってたら、三人分の朝食を買ってきたのにな。今から追加で買ってきましょうか」 甲さんが明るい笑みを浮かべ、話題を朝食へと上手にすり替えた。 こういうタイプの人ならショウさんとはぶつかったりしないとすぐにわかるほど、甲さんからは柔らかい雰囲気が漂う。「いい。今からジンを連れて帰って説教する。午後から雑誌の取材も入ってるし」「ジンの好きなあったかいスープ買ってきたのに」「朝飯は甲が代わりに食っとけよ」
買ってきたものをテーブルの上に並べながら甲さんが苦笑いをすると、そこへ着替え終わったジンが別室から姿を現した。 オフホワイトの長袖シャツとデニムを合わせただけの格好なのに、先ほどとは大違いで、私は一瞬で目を奪われてしまった。 服装が違うとこうも違って見えるのかと驚くくらい、脚も長いし均整がとれていてカッコいい。「甲くん、おはよう。俺の好きなスープ買ってきてくれたの?」 うれしそうにスープにありつこうとするジンの腕を、ショウさんが的確に捕らえて引っ張った。「お前は俺と帰るんだよ!」「スープくらい飲ませてくれよ」 問答無用とばかりにショウさんは私に小さく「邪魔したな」とだけ言い、まだコートも着ていないジンを伴って部屋から去って行った。「ごめんね。朝から騒がしかったよね」 まるで現場を見ていたかのように、私とふたりになってから甲さんが謝った。 今日みたいなことがしょっちゅうあるのかはわからないけれど、甲さんはあのふたりの性格をよく知っているようだ。 冷めないうちに、と買ってきてくれたホットサンドとスープの朝食を勧められたので、ジンが口にするはずだったスープだけでもどうぞ、と私も甲さんの目の前にそれを置いた。 甲さんはスープの器で手を温めていたけれど、急に思い出したように自分の名刺を私に指し出す。 相馬さんに連絡がつかないときのために、と携帯番号の書かれた名刺だ。 そんなにしょっちゅう連絡するようなことは起こらないけれど、万が一ということもあるからお守り代わりにいただいておいた。「あの……質問してもいいですか?」 ジンにもショウさんにもなんとなくストレートには聞けないし、相馬さんにだと大げさな気がする。 私の頭に浮かんだいくつもの些細な疑問は、人の良さそうな甲さんに尋ねるのが一番かもしれない。 甲さんが「なに?」と、私にやさしい笑みを向けた。「ショウさんって、外国の方ですか?」 ショウさんが話していた言葉が中国語っぽかったので、とりあえず最初に気になった事柄を甲さんに尋ねてみた。「彼は台湾の人。向こうの言語は北京語だからね」「ジンが、ショウさんのことをお兄さんだって言ってましたけど……?」
ショウさんが台湾の人ならば、ジンもそうなのだろうか。 なかなか聞き取るのは難しいと思われるほど早口でまくし立てるショウさんの中国語を、ジンは全て聞き取れていた。「正確に言うと、ショウさんはジンのお兄さんみたいな存在なんだ。ふたりは血のつながった兄弟じゃなくて幼馴染でね、小さいころ家が近所だったらしい」 だからショウさんは、自分は兄ではないと否定したのだと、だんだん謎が解けてきた。 ふたりは兄弟のように親しい幼馴染だけれど、家族や親せきではないみたいだ。「ショウさんが五歳年上で、当時からジンを本当の弟みたいにかわいがっていたんだよ。幼いころからジンは愛くるしい容姿で誰からも愛されていたんだって」「じゃあ、ジンも台湾の人ですか?」「ああ。……あれ? ジンの名前、知ってるんじゃないの?」 急に甲さんが不思議そうな顔を私に向けた。 私は“ジン”としか聞いていないのだけれど、彼にはほかにも名前があるのだろうか。「彼の本名は楚(チュ) 悠菫(ヨウジン)。だから“ジン”って呼ばれてる」 私はてっきり“仁”のような漢字一文字の名前だと思っていたから、略されていた呼称だったのは予想外だった。「ショウさんもじゃあ……本名は違うんですか?」「ショウさんは、楊(ヤン) 薫杰(シュンジェ)」「………え、どうしてそれで“ショウ”なんですか」 名前のどこにも“ショウ”とは入っておらず、略してすらいないじゃないかと、私は意味がわからなくて首をかしげた。「“ショウ”っていうのは、英名みたい」「英名って?」「向こうの人は、本名とは別に英名を持っている人が多いんだ。日本では考えられないけどね。エディとかジョセフって名乗ったり、エドワードなんて人もいたなぁ。女性だと、シンディとかね」 そういえば香港の有名なハリウッドスターも英名ではないだろうか。「ジンが台湾出身だなんてビックリしました。あんなに上手に日本語を話しているし、初めて会ったときからずっと彼は日本人だと思ってましたから」「だよね。向こうで生まれ育ってるのに、すごい日本語力だよ」 普通はどんなに外国語が達者でも、ショウさんのように少しくらいイントネーションに違和感が生まれるものだ。
だけどジンの日本語にはおかしな部分はなにもなく、とても流暢だった。「ジンは半分日本人だからかな」「え?」「お母さんが日本人なんだ。彼はハーフ」 私は新たな事実にまた驚かされ、目を見開いてしまう。『七歳のときに別れたまま会っていないから、記憶が薄らいでる』 昨夜のジンの言葉を思い出した。 七歳まではお母さんとごく自然に日本語で会話していたから、あんなに流暢なのかもしれない。「ジンは日本が大好きなんだろうね。こっちの大学に留学するって、かなり前から決めてたみたいだよ」「そういえば、私と同じ大学だって……」 ジンは日本と台湾のハーフで、日本の大学に留学しながら芸能活動中……まとめるとそんなところだろうか。「ジンが気になる?」 まだ湯気の立つスープをすすりながら、甲さんが緩慢に笑う。 私が質問を次々としてしまったから、なにか誤解が生じたのかもしれないけれど、私がジンを気にしているのかと問われると決してそんなことはない。「まぁ、誰でもそうなるよ。ジンはイケメンだけど、あれは普通じゃない」 その言葉の意味がわからなくて、私は眉根を寄せて小首をかしげた。「妖精なのか魔法使いなのか……それとも宇宙人なのか……」「どういう意味ですか?」「ジンにはね、不思議な魅力があるんだ。強烈に人を惹きつける魔力っていうのかな。女の子は特にだと思うけど、あれは男でもやられるんだよ。きっと由依ちゃんも惹きつけられてるはず」 甲さんに断言されたものの、私は苦笑いで首を振って否定をした。「その自覚は、今のところありません」 確かにジンは整った顔をしているし、魅力を感じる人は多いのかもしれない。 だけど私は昨夜会ったばかりだから、まだジンをよく知らないのだ。「俺ね、こう見えて勘がするどい方だから先に言っちゃうけど、ジンを好きになるのはやめといたほうがいい」 惹きつけられている自覚がない、と言っているのに甲さんはまったく毒のない笑みで忠告をくれた。 私が生きてきた二十二年間で、一目惚れに近いような経験は今まで一度もないのだから、それは甲さんの取り越し苦労だと思う。
「ごめん。念のためにね。ジンは芸能人だから、ショウさんが恋愛には反対するだろうし」 だから好きにならないうちに釘を刺したのだ、と甲さんは引き続き柔和な笑みを浮かべた。 ショウさんはジンのマネージャーだから、私とジンが恋愛をしようものならショウさんがジンを守ろうとして邪魔をする。 それはありえることだろうなと納得してしまった。 だけど、きっとジンだって私を恋愛対象として見ていないから、私たちが恋人関係に発展するはずがないのだ。「ジンね、今年の初めに台湾のアーティストのMVに出演したんだ。よくあるでしょ、ドラマ仕立てみたいなやつ。それで、あのイケメンは誰だ?って人気に火がついたんだよ」 MVに出演したことがあると先ほどジンも話していた。 ほんのちょい役だろうと私の中で決めつけていたけれど、今の話を聞く限り、私が考えていたよりもかなり露出していそうだ。「今度その映像を見せてあげるよ」 照れを含んだような甲さんのうれしそうな表情に、私も笑みを浮かべつつうなずいた。 ジンは甲さんにとっても自慢の存在のようだ。「いろいろ仕事のオファーは来てるみたいだけど、ジンは日本に住んでるし、ショウさんもジンの売り出し方には考えがあるようなんだ。だから断る仕事も多くてね」 日本にいながら台湾の仕事をするとなると難しい部分もあるのだろう。 それに、ショウさんは敏腕マネージャーであり、ジンのプロデュースもしているそうで、ジンがどういう仕事を受けるのかはショウさんがすべて決めているのだそうだ。「ショウさんは、ゆくゆくはジンに歌もやらせたいらしいよ。でも、ジンは嫌だって反抗してる。普段はショウさんの言うことは聞くんだけどなぁ」「歌って……歌手、ってことですか?」「うん。向こうの人は多才で、俳優兼歌手って人が多いから。歌手デビューも視野に入れてるショウさんは、ボイストレーニングの予定を組むんだけど、ジンがたびたびサボるんだよ」 やれやれ、とため息を吐きつつ甲さんが苦笑する。「あ! ボイストレーニングって……」 昨夜ジンの口からその言葉が出ていたから、私の頭の中で急に点と点が線で繋がった。『ボイストレーニングはサボった』 ジンが相馬さんに言った文言が脳内に鮮明によみがえってくる。「今朝ショウさんがあんなに怒ってたのは、それが原因ですか?」「うん。ちゃんと行
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普