買ってきたものをテーブルの上に並べながら甲さんが苦笑いをすると、そこへ着替え終わったジンが別室から姿を現した。 オフホワイトの長袖シャツとデニムを合わせただけの格好なのに、先ほどとは大違いで、私は一瞬で目を奪われてしまった。 服装が違うとこうも違って見えるのかと驚くくらい、脚も長いし均整がとれていてカッコいい。「甲くん、おはよう。俺の好きなスープ買ってきてくれたの?」 うれしそうにスープにありつこうとするジンの腕を、ショウさんが的確に捕らえて引っ張った。「お前は俺と帰るんだよ!」「スープくらい飲ませてくれよ」 問答無用とばかりにショウさんは私に小さく「邪魔したな」とだけ言い、まだコートも着ていないジンを伴って部屋から去って行った。「ごめんね。朝から騒がしかったよね」 まるで現場を見ていたかのように、私とふたりになってから甲さんが謝った。 今日みたいなことがしょっちゅうあるのかはわからないけれど、甲さんはあのふたりの性格をよく知っているようだ。 冷めないうちに、と買ってきてくれたホットサンドとスープの朝食を勧められたので、ジンが口にするはずだったスープだけでもどうぞ、と私も甲さんの目の前にそれを置いた。 甲さんはスープの器で手を温めていたけれど、急に思い出したように自分の名刺を私に指し出す。 相馬さんに連絡がつかないときのために、と携帯番号の書かれた名刺だ。 そんなにしょっちゅう連絡するようなことは起こらないけれど、万が一ということもあるからお守り代わりにいただいておいた。「あの……質問してもいいですか?」 ジンにもショウさんにもなんとなくストレートには聞けないし、相馬さんにだと大げさな気がする。 私の頭に浮かんだいくつもの些細な疑問は、人の良さそうな甲さんに尋ねるのが一番かもしれない。 甲さんが「なに?」と、私にやさしい笑みを向けた。「ショウさんって、外国の方ですか?」 ショウさんが話していた言葉が中国語っぽかったので、とりあえず最初に気になった事柄を甲さんに尋ねてみた。「彼は台湾の人。向こうの言語は北京語だからね」「ジンが、ショウさんのことをお兄さんだって言ってましたけど……?」
ショウさんが台湾の人ならば、ジンもそうなのだろうか。 なかなか聞き取るのは難しいと思われるほど早口でまくし立てるショウさんの中国語を、ジンは全て聞き取れていた。「正確に言うと、ショウさんはジンのお兄さんみたいな存在なんだ。ふたりは血のつながった兄弟じゃなくて幼馴染でね、小さいころ家が近所だったらしい」 だからショウさんは、自分は兄ではないと否定したのだと、だんだん謎が解けてきた。 ふたりは兄弟のように親しい幼馴染だけれど、家族や親せきではないみたいだ。「ショウさんが五歳年上で、当時からジンを本当の弟みたいにかわいがっていたんだよ。幼いころからジンは愛くるしい容姿で誰からも愛されていたんだって」「じゃあ、ジンも台湾の人ですか?」「ああ。……あれ? ジンの名前、知ってるんじゃないの?」 急に甲さんが不思議そうな顔を私に向けた。 私は“ジン”としか聞いていないのだけれど、彼にはほかにも名前があるのだろうか。「彼の本名は楚(チュ) 悠菫(ヨウジン)。だから“ジン”って呼ばれてる」 私はてっきり“仁”のような漢字一文字の名前だと思っていたから、略されていた呼称だったのは予想外だった。「ショウさんもじゃあ……本名は違うんですか?」「ショウさんは、楊(ヤン) 薫杰(シュンジェ)」「………え、どうしてそれで“ショウ”なんですか」 名前のどこにも“ショウ”とは入っておらず、略してすらいないじゃないかと、私は意味がわからなくて首をかしげた。「“ショウ”っていうのは、英名みたい」「英名って?」「向こうの人は、本名とは別に英名を持っている人が多いんだ。日本では考えられないけどね。エディとかジョセフって名乗ったり、エドワードなんて人もいたなぁ。女性だと、シンディとかね」 そういえば香港の有名なハリウッドスターも英名ではないだろうか。「ジンが台湾出身だなんてビックリしました。あんなに上手に日本語を話しているし、初めて会ったときからずっと彼は日本人だと思ってましたから」「だよね。向こうで生まれ育ってるのに、すごい日本語力だよ」 普通はどんなに外国語が達者でも、ショウさんのように少しくらいイントネーションに違和感が生まれるものだ。
だけどジンの日本語にはおかしな部分はなにもなく、とても流暢だった。「ジンは半分日本人だからかな」「え?」「お母さんが日本人なんだ。彼はハーフ」 私は新たな事実にまた驚かされ、目を見開いてしまう。『七歳のときに別れたまま会っていないから、記憶が薄らいでる』 昨夜のジンの言葉を思い出した。 七歳まではお母さんとごく自然に日本語で会話していたから、あんなに流暢なのかもしれない。「ジンは日本が大好きなんだろうね。こっちの大学に留学するって、かなり前から決めてたみたいだよ」「そういえば、私と同じ大学だって……」 ジンは日本と台湾のハーフで、日本の大学に留学しながら芸能活動中……まとめるとそんなところだろうか。「ジンが気になる?」 まだ湯気の立つスープをすすりながら、甲さんが緩慢に笑う。 私が質問を次々としてしまったから、なにか誤解が生じたのかもしれないけれど、私がジンを気にしているのかと問われると決してそんなことはない。「まぁ、誰でもそうなるよ。ジンはイケメンだけど、あれは普通じゃない」 その言葉の意味がわからなくて、私は眉根を寄せて小首をかしげた。「妖精なのか魔法使いなのか……それとも宇宙人なのか……」「どういう意味ですか?」「ジンにはね、不思議な魅力があるんだ。強烈に人を惹きつける魔力っていうのかな。女の子は特にだと思うけど、あれは男でもやられるんだよ。きっと由依ちゃんも惹きつけられてるはず」 甲さんに断言されたものの、私は苦笑いで首を振って否定をした。「その自覚は、今のところありません」 確かにジンは整った顔をしているし、魅力を感じる人は多いのかもしれない。 だけど私は昨夜会ったばかりだから、まだジンをよく知らないのだ。「俺ね、こう見えて勘がするどい方だから先に言っちゃうけど、ジンを好きになるのはやめといたほうがいい」 惹きつけられている自覚がない、と言っているのに甲さんはまったく毒のない笑みで忠告をくれた。 私が生きてきた二十二年間で、一目惚れに近いような経験は今まで一度もないのだから、それは甲さんの取り越し苦労だと思う。
「ごめん。念のためにね。ジンは芸能人だから、ショウさんが恋愛には反対するだろうし」 だから好きにならないうちに釘を刺したのだ、と甲さんは引き続き柔和な笑みを浮かべた。 ショウさんはジンのマネージャーだから、私とジンが恋愛をしようものならショウさんがジンを守ろうとして邪魔をする。 それはありえることだろうなと納得してしまった。 だけど、きっとジンだって私を恋愛対象として見ていないから、私たちが恋人関係に発展するはずがないのだ。「ジンね、今年の初めに台湾のアーティストのMVに出演したんだ。よくあるでしょ、ドラマ仕立てみたいなやつ。それで、あのイケメンは誰だ?って人気に火がついたんだよ」 MVに出演したことがあると先ほどジンも話していた。 ほんのちょい役だろうと私の中で決めつけていたけれど、今の話を聞く限り、私が考えていたよりもかなり露出していそうだ。「今度その映像を見せてあげるよ」 照れを含んだような甲さんのうれしそうな表情に、私も笑みを浮かべつつうなずいた。 ジンは甲さんにとっても自慢の存在のようだ。「いろいろ仕事のオファーは来てるみたいだけど、ジンは日本に住んでるし、ショウさんもジンの売り出し方には考えがあるようなんだ。だから断る仕事も多くてね」 日本にいながら台湾の仕事をするとなると難しい部分もあるのだろう。 それに、ショウさんは敏腕マネージャーであり、ジンのプロデュースもしているそうで、ジンがどういう仕事を受けるのかはショウさんがすべて決めているのだそうだ。「ショウさんは、ゆくゆくはジンに歌もやらせたいらしいよ。でも、ジンは嫌だって反抗してる。普段はショウさんの言うことは聞くんだけどなぁ」「歌って……歌手、ってことですか?」「うん。向こうの人は多才で、俳優兼歌手って人が多いから。歌手デビューも視野に入れてるショウさんは、ボイストレーニングの予定を組むんだけど、ジンがたびたびサボるんだよ」 やれやれ、とため息を吐きつつ甲さんが苦笑する。「あ! ボイストレーニングって……」 昨夜ジンの口からその言葉が出ていたから、私の頭の中で急に点と点が線で繋がった。『ボイストレーニングはサボった』 ジンが相馬さんに言った文言が脳内に鮮明によみがえってくる。「今朝ショウさんがあんなに怒ってたのは、それが原因ですか?」「うん。ちゃんと行
ジンはわかっていてもそうしたのだから、相当嫌だったのだろうか。 そして、ショウさんから逃れるようにこの部屋へとやって来ていた。 ショウさんにしてみれば、またかという苦々しい気持ちだろう。裏切られたとすら思うかもしれない。 だけど、ジンが逃げ込む場所がどうしてこの部屋なのだろう。 ジンがこの部屋を気に入り、普段から頻繁に来ていることはショウさんも承知しているはずだから、決して秘密の隠れ家というわけではないと思う。 ジンの居場所を考えたとき、真っ先に疑われるのがこの部屋だろうし、本気で逃げ隠れしたいならすぐに見つかってしまうここは避けるべきなのに。「今ごろ、叱られてますかね?」「だろうね。でも、これがジンのささやかな抵抗なんだ。真っ向からショウさんに逆らうことはないジンのやり方って感じかな」 甲さんが発した言葉の意味を、私はどれくらい理解できただろう。 ジンとショウさんの深い関係性は、そんなにすぐに他人がわかるものではないのかもしれない。 考えてみたところで、私には関係のないことだ。 少し気になったから甲さんにいろいろ質問をしてしまったけれど、あのふたりにはもう会うことすらないかもしれない。 本来私とは出会っていなかった人たちなのだから、元々違う道を行く者同士だ。 それが昨夜から今朝にかけて、イレギュラーな縁が交錯しただけだと思う。「そろそろ俺、行かなきゃ。上がりこんで悪かったね」 時計に目をやり、甲さんが立ち上がる。「朝食、ありがとうございました。相馬さんに食事のことはお気遣いないようにお伝えください。私、料理はそこそこ出来るんです」 母が少しずつ調子が悪くなり始めたころから、家では私が食事の準備をしてきたから、おいしいかどうかは別として食事の準備には慣れている。 ここのキッチンに調理器具はそろっているし、自分だけの食事なら簡単なもので済ませればいいのだから楽勝だ。 甲さんが帰ってしばらくすると、私はお昼前にバイト先のカフェへ向かった。 今日は十二月二十五日でクリスマスだし、近隣に映画館があるせいか、昨日と同様に今日も店内は混んでいて若いカップル客が楽しそうに微笑みあっている。 仕事中はスマホの使用は不可のため、貴重品と共にロッカーにしまいこんだままだったから、姉からのメッセージに気がついたのは勤務を終えてスタッフルームに
私の姿が視界から消えて、落ち着いていればいいのだけれど、また別な理由で精神が不安定になっているケースも考えられる。 おそるおそるスマホをタップして、姉からのメッセージを開けた。【由依、お母さんは元気で落ち着いているから大丈夫よ。今朝私がお味噌汁を作ったら、いつもと味が違うって軽く文句言われちゃった】 読み終えると、母が元気で良かったと思うと同時になんだか苦しくなってきて、スマホを胸の前でキュッと握った。「今朝って……朝じゃないでしょう」 周りに誰もいないのをいいことに、苦笑いしながら独り言がこぼれる。 姉の起床時間はいつもお昼ごろだし、母も調子を崩してからは朝早くに起きたりしないのを知っている。 家では私が毎日お味噌汁を作っていた。 母はその味を覚えていたから、いつもと味が違うと不満を言ったのだろう。 私がまだ中学生のころ、お味噌汁の作り方を教えてくれたのは母だった。 あのころの母はまだしっかりとしていて、料理を手伝う私に出汁の取り方や野菜の切り方など、いろいろと細かく教えてくれた。 そんな些細なことなど今の母はもう覚えていないだろう。 娘である私のことすらわからないのだから。 だけど、お味噌汁の味は舌が覚えていたのだと思ったら、とても切ない気持ちになった。 母が落ち着きを取り戻し、再び家に戻れたら、そのときはまた私がお味噌汁を作ろう。 そんなことしか、私は母にしてあげられない。「もう上がり?」 急に背後から声がかかり、私は驚いて肩が跳ね上がった。「あぁ、うん」 振り向くと、そこには怪訝そうな顔をした武田くんが立っていたのだけれど、私はシフトを無視して早上がりしたわけでもないのだから、どうしてそんな顔をされるのかわからない。「まさかと思うけど、今からデートか?」 彼氏がいないとはいえ、“まさか”という失礼極まりない発言に不貞腐れそうになる。「デートならいいけどね。今から違うバイトなんです」 口を尖らせながらも慌ててコートとマフラーを身に着ける私に、武田くんが再び眉根を寄せた。「違うバイトって、そんなのしてたっけ?」「今日一日だけのバイトを入れたの」「お前はほんと、勤労少女だな」
二十二歳の女に向かって、“少女”だなどと言うのは武田くんくらいのものだ。 彼の中では、私はずっと出会ったころの高校生のままなのだろう。「今日こそ一緒に飯でも、って思ったのに」「ごめんね、武田くん。また今度」「お前……大丈夫か?」 バッグを肩に引っ掛け、軽く手を振って立ち去ろうとしたそのとき、武田くんに呼び止められてピタリと足を止めた。「大丈夫って、なにが?」「なにか悩み事があるんなら、遠慮せずに俺に言えよ」 その言葉を聞いた途端、私は周りの人たちに知らず知らずのうちに憂いを秘めた顔を見せてしまっていたのかもしれないと気がついた。 武田くんの心配そうな瞳を目にしてそれを確信する。「ありがとう。もし悩み事ができたら話すね」 私は無理ににっこりと笑って誤魔化し、バイト先をあとにした。 街を吹き抜ける風が昨日よりも冷たい。 武田くんに対して申し訳ない気持ちと感謝の気持ちが心の中でマーブル模様を描く。 いつか、もう少し私の心に余裕ができたら、母のことを武田くんにも話せる日がくるかもしれない。「じゃあ、これに着替えてください」 今日一日だけやることにした臨時のバイト先で、私は衣装を渡され、唖然としてそれを手に取りまじまじと見つめた。「寒いけどコートは着ないでね。せっかくの可愛い衣装が隠れてしまうから」 ごめんね、と苦笑いで店長の男性は控室をあとにした。 とりあえず渡された衣装に袖を通していく。 こういうものを着ると事前に聞かされていたけれど、私が想像したものと少し違った。「なんか、スカートが短い」 自分の姿を鏡と目視でチェックしながらポツリと独り言が漏れる。 かなり太ももがあらわになったこの格好で、私はこれから外に行かなくてはいけないのだ。 今日だけの臨時バイトとは、洋菓子店の店頭でクリスマスケーキを売る仕事で、たまたま募集を見つけた私はたった一日だけならと応募したのだ。 暗くなり始める夕方からなので、時給もかなり良かった。 臨時で設置された簡易テーブルにずらりと並べられたクリスマスケーキを、待ち行く人を呼び込んで買ってもらう。
今日は二十五日なので明日に持ち越すわけにいかず、ひとつでも多く売らなければいけないのだ。「クリスマスケーキ販売中です!」 店長から渡された衣装というのが女子用のサンタのコスチュームで、かわいいを通り越したセクシー路線だった。 上は長袖で普通だったけれど下のスカートがかなりミニ丈で、ストッキングをはいてるとはいえ、太ももが冷たい風にさらされて感覚がすでに麻痺しかけている。 日が落ちるとさらに気温が降下して、気を抜くとブルッと身体が震えてしまいそうになるけれど、笑顔を絶やしてはいけないから気合で踏ん張っていた。「かわいいサンタの格好だね」「ケーキ、おひとついかがですか?」 声をかけてくれたのは仕事帰りのサラリーマンの中年男性で、私は懸命に笑顔を振りまいた。「寒い中そんな格好でがんばっているんだから、ひとつ協力しようかな」「ありがとうございます!」 売り始めの最初のころは女性客が多かったけれど、時間が経つにつれて客層が徐々に変わっていった。今みたいに男性客が足を止めてくれるのだ。「大変だね。今日は寒いのに」 店側は色気を武器にひとつでも多く売上をと、考えていたのかもしれないけれど、実際は娘くらいの年齢の子が寒い中がんばっている姿に同情して買ってくれる、といった感じだった。 たしかに今日は風がとても冷たい。 なのに私はこの寒空の下、コートも羽織らず何時間も外にいて、このバイトがかなり過酷なものだと思い知らされた。 ふと空を見上げると、小さくて白い雪がかすかに降ってきていた。 時計で時間を確認すると、バイト終了まであと1時間だから耐えるしかない。 二十時を過ぎ、バイトから解放された私は新しい住処となったマンションへと帰宅した。「ただいま」 誰もいない真っ暗な部屋の明かりをつけ、広いリビングをあらためて見回してみる。 こんな豪華なマンションで、私はひとり暮らしを始めたのだ。 ポジティブに考えてみたら、したいと思ってもできない夢みたいな生活ではないか。 凍えながらあれこれ考え、暖房のスイッチを最大で入れる。 冷え切った体には温かい飲み物だろうか。 いや、それよりも熱いお湯の湯船に浸かるほうがいい。 バスルームへ赴くと、昨日使用した脱衣所のタオルはすべてなくなっていて、代わりに新しいタオルが積まれていた。
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普