「相馬さん、ご迷惑みたいなので、やっぱりどこかホテルでも探します」 さすがに姉が気を遣い、足元に置かれていた私のボストンバッグを拾い上げた。「それなら僕が手配するよ」「いえ、大丈夫です。あまり高いホテルに連泊だとお金がかかりますし、自分たちで安いホテルを見つけますから」 これは今日一日だけの話ではないのだと、あらためて痛感せざるをえない。 私はいつになったら自宅へ戻れるのだろうかと、悲しい気持ちがこみあげてくる。「ホテル代は僕が出す」「そんなことまでお願いできませんよ!」「いいんだ。誤算が生じた責任は僕にあるから」 当事者の私とソファーから立ち上がったジンを置き去りにして、相馬さんと姉が押し問答を始めてしまった。いったい私はどうなるのだろう。「あのさ、社長、よくわかんないけど今日泊まるところを探してるんだよね?」 腕を大きく上にあげてグイッと伸びをしたあと、ジンが相馬さんに話しかけた。 ジンは相馬さんよりもさらに背が高くて百八十センチ以上ありそう。肩幅も広い。 腰の位置が高くて足も長いし、程よく筋肉もついていてスタイル抜群だと、立ち姿を目にして改めて思った。さすが芸能事務所に所属している人は違う。「向こうの部屋を使えばいいよ。俺が寝るのはいつもこのソファーだし。向こうにはベッドがあるから、寝るくらいはできる」 ジンが相馬さんに奥にある部屋の扉を目線で指し示した。「誰も使ってないから綺麗なままだよ」「ジン、だけど……お前今夜ずっとここにいるつもりか?」 そう問われ、ジンは澄んだ綺麗な瞳を相馬さんに向けてうなずいた。「それはいくらなんでも……」 相馬さんが困ったように姉に視線を向けると、姉もさすがにまずいのでは、と渋い表情をしていた。 ジンの提案に従えば、マンションの一室にふたりきりで一夜を明かすことになる。 私たちはさほど年も変わらない初対面の男女なのだから、考えてみるとかなり気まずいと思うのだけど、彼は平気なのだろうか。「俺、襲ったりしないけど?」「ジン、そうは言ってないだろ」 至極真面目な顔のジンに対し、相馬さんはわかっていると言わんばかりにジンの肩に手を置いた。
「あっちの部屋は鍵が付いてるし、俺に襲われるのが心配なら中から鍵をかければいいよ。それか、社長が住んでるマンションに泊めてあげたら?」「ダメだ。親子ほど年が違うとは言え、俺も一応男だからな」 今度は相馬さんとジンとの間で押し問答が始まってしまう。 なんだか私のほうが疲れてきて、暖かい部屋の布団で足を伸ばして眠れるなら正直どこでもいい気持ちになってきた。 ジンも社長も確かに性別は男性だけれど、姉と違って私のような色気のない女に間違っても変な気は起こさないだろう。「あの、私は向こうのお部屋でも全然構いません」 こうなるとどこだって同じで、選択肢も限られている。 だとしたら、再び行き場を求めてさまようよりも、ここに落ち着いたほうがいいはずだ。「由依……」 そばにいた姉が途端に心配そうな声を出した。「大丈夫だよ。最上階だし広くて綺麗だよね」 私はここを気に入ったふりをして笑ってみせたのだけど、姉を上手く騙せただろうか。「あっちの部屋、見せてもらってもいいですか?」 相馬さんに声をかけると隣の部屋へ案内してくれたが、姉はまだ不安そうな表情をしていた。 案内された部屋の中にはたしかにベッドが設置されており、広めの寝室といった感じだった。 エアコンもあるし、部屋全体が綺麗に清掃されている。壁に向かって机と椅子も置いてあったから、そこで本を読むなり勉強するなりできそうだ。「すごく広いですね。私はパソコンとスマホさえあれば大丈夫なので、十分です」 家を出るとき、私はいつも使っているノートパソコンだけは持って来た。 それさえあれば、私の娯楽なんてどうにでもなるのだ。「もちろんwifiは繋がるよ」 それは本当にありがたくて、ほかに足りないものはないから大丈夫だと相馬さんに微笑み返した。「由依ちゃん、申し訳ないけど今日だけ我慢してくれるかな。明日からはきちんと自分の家に帰るようにジンに話をするから」 リビングにいるジンには聞こえないような小さな声で、相馬さんが私に本当にごめんねと手を合わせた。 元はといえば姉が頼ってしまったのが発端だろうし、相馬さんが謝る必要はなにもない。 私も姉も、感謝こそすれ文句なんて言ったらバチが当たる。「香ちゃんは帰らないとね。お母さんのこと心配だろ」 相馬さんの言葉に、姉が渋い表情のまま「はい」と返事をした。
「香ちゃんを車で送ったあと、僕がまたここに戻ってこられたらいいんだけど、ちょっとこのあとどうしても外せない仕事があって……」 相馬さんは腕時計で時間を確認しつつ、どうしたものかと考えこんでしまった。「私のことは気にしないでください。なにか困ったことがあれば名刺の番号に電話、ですよね」 電話をしなくてはいけないような非常事態は、この一晩で起こらないだろうけれど、相馬さんと姉を安心させるために今はそう言うしかない。「由依ちゃん、申し訳ない。あとで香ちゃんに由依ちゃんの番号を聞いておいて、僕からも気になったら連絡するからね」「わかりました」「それに、今日はジンもいるから。僕に電話しづらいことなら、ジンに言ってくれても構わないよ。彼は悪いヤツじゃないし、話し相手くらいにはなるかな」 じっと黙って聞いていたけれど、苦笑いする相馬さんにどう返事をしていいかわからずにさすがに困ってしまった。 私が不安だったり寂しかったらかわいそうだと、相馬さんが気を遣ってくれているのはもちろんわかっている。 だけど今日は特に精神的に打ちのめされていて、心の中がめちゃくちゃで、到底そんな気分ではないのだ。 初対面のジンと愛想よく喋る気力なんて私にはもう残ってはいない。 それでも相馬さんには、わかりましたと取ってつけたような笑みを顔に貼り付けた。 今の私には、そう振る舞うことしかできない。「由依、お母さんのことは私にまかせて。できるだけ早く由依が家に戻れるようにするから」 姉の口調は真剣だけれど、その瞳は不安でいっぱいだった。 結局、姉も今のところ具体的な解決策は思い浮かばず、どうしていいのかわからないのだろう。「お姉ちゃん、無理しないでね。身体に気をつけて」 軽く微笑み、肉付きのない華奢な姉の背中を玄関先でポンポンとさする。 姉は元々細身だけれど、また痩せたようだ。 相馬さんがこの部屋の鍵を私に渡すと、姉とふたりで玄関を出た。 その背中を見送り、扉がガチャリと完全に閉まると身体の力が抜けていく。 私は先ほど案内された部屋へ再び戻り、この空間がしばらくは私の住処なのだと考えたら、どうしようもなく泣きたくなってきた。 椅子に座り、両手で顔を覆うと涙が出そうになったけれど、それを払しょくするようにふるふると小刻みに頭を振った。 もうなにも考えられないし、
放心状態でぼうっとしていると、コンコンとノックの音が聞こえたのでおそるおそるドアを開けてみる。 私の態度が気に入らないのか、扉の前に立っていたジンの眉間にはシワが寄っていた。「警戒心丸出しだな」 今日が初対面なのだから、それはある程度仕方ないと思う。いきなりフレンドリーな態度のほうがよほどおかしい。「もう一度言う。襲ったりしないから。手を出せば、いくらあの社長が温和でもきっと殺される」 襲わないと宣言してくれたのだから、それでいいのだけれど、彼の目力に圧倒された私は呆然としてしまった。「とりあえず、風呂入れば?」「……え?」 急に話題が変わり、今度はいったいなんの話なのかと不思議そうにジンを見つめた。「湯船に熱いお湯を張り直したから温まればいい。堅苦しい格好をしたままだと窮屈だろ。それを言いに来ただけだ」 彼なりに私に気を遣ってくれたのだろう。 言い方は淡々としていたけれど、私のためにお湯を張って準備してくれたのだから。 相馬さんの言っていた通り、彼は悪い人ではないのかもしれない。 それに、ジンに指摘されて、自分の格好がリクルートスーツのままだったと気がついた。 着替えるつもりだったのに、そんな時間すらなくアパートを出てきてしまったから、未だに就活用の戦闘服を着ていた。「バスルームにあるシャンプーとか、社長が高級ホテルみたいに洒落たやつを揃えてる。好きに使えばいい」「本当に使っちゃっていいの?」 目を丸くする私がおかしかったのか、ジンがフフッと声に出して笑った。「俺は遠慮なく使ってる。社長はそんなことで文句は言わない」「……ありがとう」 頭を下げてお礼を言うと、ジンは私の頭にポンと軽く手のひらを置いてから立ち去っていく。 その何気ない笑顔が本当に綺麗で、ドキンと心臓が跳ねた。 姉が用意してくれたボストンバッグの中身を見ると、下着や部屋着まで一通り詰め込んでくれていた。 とりあえず今使う分だけ引っ張り出して、バスルームへと向かう。 タオルの場所を探そうとしたが、高級ホテル並みにふかふかなものが、すぐにわかるようにきちんと積み重ねて置いてあった。 バスルーム自体も我が家とは比較にならないほど広くて、私には贅沢すぎる。
湯船に浸かると体の芯が温まって身も心も溶けそうになり、疲れが取れていくのがわかった。 いつもとは違うシャンプーの匂いをまといながらそっとバスルームから出ると、キッチンからカチャカチャと茶器の音がしていた。「由依も飲む? 紅茶、コーヒー、日本茶、烏龍茶があるけど」「あの、なんで私の名前……」「さっき社長たちがそう呼んでただろ」 それはそうだけれど、突然親し気に名前で呼ばれて戸惑ってしまった。「社長から聞いたと思うけど、俺はジン。よろしく」 ジン……短くて呼びやすいけれど、下の名前だろうか。 もしかしたら名前の一部を取ったニックネームかもしれないが、特にそれ以上は聞かなかった。「烏龍茶にしよう。本場のうまい茶葉があるんだ」 私の答えを待たずにジンは勝手に烏龍茶を淹れ始めた。きっと自分がそれを飲みたかったのだろう。 ジンのそばにおもむくと、急須からお茶の良い香りが漂っている。「ここに置いてあるもの以外に、冷蔵庫の中にも水とかジュースとか飲みものが入ってるし、自由にどうぞ」「私が勝手に飲んでもいいの?」「ああ。飲んだらその分補充されるから」 言われた意味がまったくわからなくて首をかしげた。 勝手に飲み物が湧いて出てくるわけではないのだから、誰かが冷蔵庫に入れてくれているはずなのに、と。「誰が補充してるの?」「社長に雇われてる人」 会話がかみ合っていないような気がして、幾分気持ちが悪い。自然と考え込むように、私は眉根を寄せてしまう。「要するに、部屋をメンテナンスしてくれる人がいるんだ。冷蔵庫の中身を補充したり、隅々まで掃除してくれる人」 キッチンの棚に何気なく目をやると、お店の商品の展示かと思うくらい綺麗に紅茶などが整頓されて並べられているし、ホコリひとつ付いていない。 ジンがここまで几帳面にひとりで掃除をしているとは思えないから、先ほどの説明通り、相馬さんが業者にお願いしているのだろう。 お茶の準備を終えたジンが茶器のセットを持ってリビングへと向かい、そのあとを追いかけるように私も続いた。
ふたりでリビングに敷いてあるフカフカのラグの上に腰を下ろす。 床暖房が効いていて心地よく、やさしい温もりに包まれている気分だ。「お茶、ありがとう」 淹れてもらった烏龍茶は、鼻に抜ける香りが良くておいしかった。「さっき社長から電話がきて、デリバリー頼んだって。なんとなくだけど豪華な飯が届きそうだよな」 相馬さんが気を遣って、ここに食べ物が届くように手配してくれたらしい。 爽やかな笑みを向けられると、私もつられて笑みを返してしまう。 ジンは本当に端正な顔立ちをしていて、見れば見るほどイケメンだと気づいた。「社長が俺から掃除の件を説明しとくように、って」「掃除?」「業者の人が定期的に来るから掃除と洗濯はしなくていいんだ。ゴミも分別して置いとけば出してくれるし、必要なものがあったら買っといてくれる」 やはり家事代行サービスのような感じなのだろう。 清掃だけでなく家事全般をお願いしているから、ジンが使っていても部屋がこんなに綺麗に保たれているのだ。「相馬さんに悪いよね」「社長もモデルルームが汚いとまずいし、いいんじゃないか」 だけど私たちの後始末を業者の人にさせるようで申し訳なく思うから、出来るだけ自分のことは自分でしようと心に決めた。「由依が出かけてる昼間に来てやってくれるから、帰ってきたら全部綺麗になってる」 あきらめて任せておけばいいとでも言いたげな彼の表情に、私はクスリと笑ってしまった。 なぜだかジンは不思議な空気をまとう人だ。「あなたがここを気に入る理由、わかる気がする。温かみのある部屋だもの」「だろ?」「なのに私が追い出すみたいで、ごめんなさい」 住んでいないとしても彼にとってこの部屋は快適な空間だったはずなのに、それを私が奪う形になるのだと複雑な気持ちになった。「母さんとなにかあったのか?」 なんでもないようなトーンで尋ねられたけれど、私は瞬間的にグッと喉をつまらせた。 昨日から今日にかけて出来たばかりの心の傷に触れられると、さすがに痛い。「由依の姉さんがそう言ってたしな。ただの家出なら社長はこんなに助けないだろうし、ワケありか?」 本質をつくような質問に私は絶句してしまい、しばし沈黙が流れた。
「ま、答えたくないならいいよ。社長に聞いとく」 母親が精神を病み、私を見ただけで暴れるなんて知ったら、普通の人はかなり驚くだろう。それを初対面のジンに言えるわけがない。「ねぇ、ジンのお母さんって、どんな人?」 きっとやさしいお母さんだろうと想像が膨らんだ。 きちんと食事をしているかと電話でいつも息子を心配するような料理上手な人で、時には口うるさいしっかりとした母親のイメージが湧いた。 ジンがイケメンということは、お母さんも美人なのだろう。「どんなって……普通だったかな」「だった?」 なぜ過去形なのかと、反射的に聞き返してしまう。「七歳のときに別れたまま会ってないから、記憶が薄らいでる」 驚いた、というより私の想像とはまったく違ったから意外だった。「そんな顔すんなよ。ま、俺も家族に関しては十分ワケありだ」 お母さんについてそれ以上ジンに尋ねられなかったけれど、〝亡くなった〟という言葉はなかったから、生き別れかもしれない。今は離婚なんて珍しくない時代だ。「それより、由依の姉さんと社長って、どんな関係?」 相馬さんの存在を今日知ったばかりの私にそれを聞かれても困るけれど、私もすごく気になっていることだ。「年の差がありすぎだけど、付き合ってるのかな?」 ジンが烏龍茶をひと口飲み、柔らかい笑みを浮かべてそう言った。「私も知らないの。ところで相馬さんって独身?」「ああ、今はな。ずいぶん前にバツは付いてるみたいだけど」 相馬さんが元既婚者だとしても、今は独身ならとりあえず不倫にはならない。内心ホッとして口元が緩んだ。「年の差はあるよね。相馬さんはいくつ?」「えっと……四十四かな」「え?! 若い!」 てっきりまだ三十代だと思っていたのに、相馬さんは私の予想をはるかに超えた四十代半ばだった。「社長は若く見えるよな」 ジンの言うように見た目は相当若いけれど、あの落ち着いた紳士的な態度は四十代で納得だ。 しかし、相馬さんが四十四歳で姉が二十四歳だから、親子ほどの年の差がある。 ぼうっとそんなことを考えていたら、会話が途切れたタイミングで玄関のチャイムが鳴った。「デリバリーが来たな」 玄関先に向かったジンが、届けられたものを両手で抱えてリビングへと戻ってくる。 ふたり分にしては多そうな量だった。「絶対チキンだ」 包みを開けも
「もしもし。……うん、届いた。ありがたくいただきます」 明るい声で相馬さんと話していたジンが、しばらくすると私に自分のスマホを差し出した。「社長が代わってくれって」 あわててスマホを受け取って耳に当てると、「もしもし」と低くてやさしい声が聞こえてきた。『由依ちゃん、 なにか困ってない?』「ありがとうございます。大丈夫です」 相馬さんの気遣いがうれしくて、電話なのにペコリと会釈してしまった。 これだけ至れり尽くせりなのだから、困ったことを探すほうが難しいくらいだ。『勝手だけど、夕飯をそっちに届けさせたからジンとふたりで食べて。キッチンにシャンパンやワインもあったと思うから、飲んでかまわないよ』「食事のことまですみません。お忙しいのにお気遣いいただいて感謝しています」『いや、謝るのは俺のほうだ。どこか外のうまい店に連れていってあげたかったけど、今日は難しくてね。だけど、由依ちゃんも今夜はゆっくりできる場所のほうがよかったかな』 姉に好意があるからという理由を差し引いても、妹の私にここまでしてくれるのだから相馬さんはやさしい人だ。 相馬さんみたいな人が父親だったらよかったのにと、ふと考えてしまった。 それなら我が家はみんな幸せだっただろう。『メリークリスマス。大丈夫、きっとこれからは由依ちゃんに幸せな毎日が訪れるよ』 その言葉が胸に響いて、目頭が熱くなってくる。 なにか救われた気がしたし、蒸発しそうになっていた魂が戻ってきたような気もした。 私が電話を終えてすぐ、ジンがキッチンから白い箱を持ってきて私の目の前に広げる。「これ、俺ひとりで食いきれないから、由依がいてよかった」 白い箱の中身は、イチゴとベリーがたっぷりと乗った豪華なクリスマスケーキだった。 これをひとりで食べるのはたしかに多すぎる。「このケーキ、めちゃくちゃうまいから。生クリームの甘さが絶妙」 イケメンのジンが言うと、まるでCMみたいでなんだかおかしい。 私は笑みを浮かべているはずだったのに、自分でも不思議なくらい急速に目に涙が溜まっていくのがわかった。「なんで泣くんだよ」 私の異変に気づいたジンが途端に血相を変え、あわてて笑みを引っ込めた。 涙の理由は、こんなにも素敵なクリスマスを送れると思っていなかったからだし、相馬さんやジンの温かさややさしさがうれし
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普