しかし、この件に関して、響也が謝る必要はなかった。ただ、理恵と涼介の間にある溝を早く深めたいと考えただけだった。だが、紗月も響也も透也も予想できなかったのは、涼介の理恵への肩入れが、善悪の区別すらつかなくなるほどだったということだ。そんなことを思いながら、紗月は長くため息をつき、手を伸ばして響也にメッセージを送った。「ママは何も怒っていないから、しっかり自分の体を大事にしなさい」と。実は、これが桐島市に戻って、初めて響也から送られてきたメッセージだった。前回、観覧車の件ではあかりのペンダントを通じて彼女に連絡を取ってきたが、あのときは緊急事態で仕方なかった。彼女が桐島市に戻るのを決めたとき、響也は強く反対していた。そのため、彼女と軽い冷戦状態に入っていたのだ。「ママ、どうか桐島市に戻らないでくれない?もっといい方法があるはずだ、あの男に頼らなくてもいいんだ。あの男の元に戻るのは嫌だ。ましてや、僕のためにまた彼の子を産むなんて、絶対に嫌だ。もしそんなことが必要だというなら、僕は死んでも構わない。ママがその男と関わるくらいなら、自分を犠牲にするさ。お願いだから、あの男と関係を持たないでほしい......僕は死んでも構わない。でも、ママがあの男に苦しめられるのは絶対に見たくないし、ママがつらくて、苦しむ姿なんて見たくないんだ......」彼女が出発したとき、響也が言ったその言葉一つ一つが、心に深く響いてきた。紗月は目を痛そうに閉じた。おそらく、彼女が妊娠していた当時、体が弱すぎたのが原因なのだろう。生まれた三人の子どものうち、あかりは幼い頃から病弱で、響也は5歳のときに白血病と診断された。透也の骨髄は響也と一致せず、あかりは服薬が多く骨髄が不健康になって、骨髄提供ができなかった。智久があらゆる骨髄データセンターを調べたが、響也に適合するドナーは見つからなかった。最終的に、涼介の元を訪れることが紗月の唯一の選択肢となった。「ちゃんと自分のことを大事にするよ」まもなくして、響也から再びメッセージが届いた。「ママも、弟や妹をしっかり守ってね。そして、何よりも自分自身を大事にしてね。もしつらくなったら、いつでも帰ってきていいよ。この病気は治らなくてもいいからさ」息子のこの思いやりあ
紗月は彼を無視した。今一番会いたくないのが涼介だった。彼女はそのままソファを避けてキッチンに向かい、自分のために水を注いだ。「俺にも一杯注いでくれ」リビングには低く冷たい彼の声が響いた。紗月は内心で彼を罵りつつも、結局は丁寧に水を注ぎ、彼に差し出した。彼女は今、自分がこの家のメイドであり、涼介が主人であることを忘れていなかった。彼に水を注ぐのは当たり前のことだ。「なんで泣いてたんだ?」彼女が水をテーブルに置いた瞬間、涼介は優雅にタバコの火を消した。深い瞳で彼女の顔を見つめ、まるで心の中を読み取ろうとしているかのようだった。紗月は鼻をすすり、水を置いて立ち上がった。「別に。ただ、泣きたい気分だっただけだわ」彼女は丁寧に一礼し、彼に目を向けた。「佐藤さん、特にご指示がないなら、上に戻るわ」そう言い、彼女はすぐにその場を離れようとした。だが、涼介のそばを通り過ぎた瞬間、長い腕が伸びて彼女を抱き寄せた。彼の身体から漂う酒の匂いが、紗月の鼻腔に強く入り込んできた。「理恵の件で、悔しくて泣いてたのか?」涼介は紗月をソファに押し倒し、低く響く声でそう囁いた。急な接近に紗月は居心地の悪さを感じ、必死に涼介の拘束から逃れようとしたが、男女の力の差は大きく、抵抗は無意味だった。最終的に、彼女は力を振り絞って彼を押し返し、ソファに伏せたまま荒い息を吐いた。「佐藤さん、酔ってるよ」「酔ってない」涼介は彼女に再び手を出すことなく、冷たい笑みを浮かべてソファにもたれかかった。「お前が何を悔しがる必要があるの?確かに理恵が間違ったことをしたとしても、お前だって不相応な幻想を抱いてここに来たんだ。今日は俺のほうがよほど損をしているんだ」その言葉に、紗月は思わず笑ってしまった。「でも、佐藤さんは彼女の侮辱を受け入れたんだろう?彼女は佐藤さんの婚約者だから、すべての過ちを許され、罪をかぶせて守られているわ。それなのに、私はどうなの?ただの一般人で、彼女とは何の関係もないのに、盗撮されて泥棒猫扱いされて、悔しがる権利すらないの?」涼介は静かに眉をひそめ、彼女をソファに座らせた。水を一気に飲み干すと、彼は静かに言った。「実は......」「理恵は俺にとって、とても大切な人なんだ。それ
酒に酔った涼介は、紗月に向かって彼らが出会った当時のことを包み隠さず語り出した。その情熱的な言葉は、紗月の目にはすべて偽りに見えた。彼は知らなかったのだ。紗月と彼の初めての出会いは、桜の木の下ではなかった。涼介が交通事故に遭ったときだったことを。何年も前、涼介はひどい事故に巻き込まれた。車に轢かれ、道端に放置された彼を助けたのは紗月だった。病院に送り、意識を取り戻すまで、1ヶ月間献身的に彼を看病した。紗月は涼介に好意を抱いていたが、実際に好きになってしまうことを恐れていた。自分があまりにも普通すぎて、彼のような特別な人に釣り合わないと思っていたからだ。だから涼介が目を覚ました日に、紗月は何も告げずに病院を去った。お互いもう二度と会わないだろうと思っていたが、再会は意外と早く訪れた。再び出会った瞬間、彼こそが運命の人だと信じていた。そして、紗月は必死に追いかけた。そしてついには彼と結婚することになった。だが、結婚式の日、涼介は紗月にはっきりと「好きじゃない」と告げた。「好きになるかどうかもわからないけれど、佐藤家の妻という立場は他の誰にも与えない」と言われた。その時、彼女はそれを最高の誓いだと思い込んでしまった。だが、結局どうなっただろうか......紗月は目の前の男を見つめ、その瞳には怒りの炎が宿っていた。紗月は彼のためにキャリアを捨て、あちこちで医者を訪ねては薬を求めた。ただ、涼介が「そろそろ子供を持とう」と言ったから。その結果、彼女は彼の子を宿した。それも三つ子だった。しかし、返ってきたのは、彼と妹の理恵による同時の裏切りだった。彼女が得たのは、彼が手配した車により、海を渡る橋の上から突き落とされた記憶だった。そして、紗月の死後、遺書という名の屈辱を使って彼女をさらに辱めた。彼女を裏切り者だとし、遺書には理恵と結婚するよう指示が書かれていると世間に発表したのだ。その過去は、海外で深夜に目が覚めたときに思い出すたびに、紗月の背筋を凍らせた。もし3人の子供がいなければ、もし響也の病気の治療が必要でなければ、紗月は涼介の腹を切り裂いて、良心があるのか確かめていたかもしれなかった。そんな男が、今、自分の前で深い愛情を装い、彼女との過去を語っていた。一体何のために?今の自分
一晩中、紗月はほとんど眠れなかった。夢の中では、涼介との過去の出来事が何度も繰り返された。二人の初めての出会い、結婚写真を撮った時の幸せ、そして結婚式の慌ただしさ......夢の中で、彼女はずっと涼介に「なぜ?」と問い続けていた。なぜ。なぜ,彼女の愛情をあのように踏みにじったのか。目が覚めると、枕は涙で濡れていた。愛されない苦しみは、何年経っても癒えることはなかったのだ。「ママ......」ベッドのそばにいたあかりが、そっとティッシュを手に取り、紗月の涙を拭いていた。「またパパがママを怒らせたの?」紗月は目を閉じ、あかりを抱きしめた。その小さな体を抱きしめると、彼女は再び力が湧いてくるのを感じた。6年間、彼女を支え続けてくれたのはこの子どもたちだった。どんなに辛くても、彼らを決して諦めることはできない。「ママ、もう泣かないで」あかりは紗月の背中を優しく撫で、「いつでも、あかりとお兄ちゃんたちはママの味方だから、ママは悲しまないで」と優しく声をかけた。その真剣な声色に、紗月の心は少しだけ温かくなった。二人はしばらく抱き合っていた。やがて、ドアの外から白石のノックが聞こえてきた。「紗月さん、起きていますか?」紗月は眉をひそめ、あかりを離してドアを開けた。「何かあったの?」「もし起きていたら......」白石は困惑した表情でドアの前に立っていた。「佐藤さんのために、二日酔いスープを作ってもらえませんか?彼、これから大事な会議があるんですが、昨夜飲みすぎて二日酔いで頭が痛くて、まだ起きられないんです。今の時間、他の使用人はまだ出勤していなくて、頼れるのがあなたしかいないんです......」紗月はうなずいた。「わかったわ」そう言うと、彼女は振り返って上着を持ち、階下に降りていった。彼女はキッチンで二日酔いスープを作りながら、同時にあかりの朝食も準備していた。白石がキッチンの入り口に立ち、何か言いたげだった。「何か言いたいことがあったら、言ってください」紗月は食材を切りながら、彼に声をかけた。白石は一瞬ためらい、そして口を開いた。しばらくして、白石は頭を上げ、紗月の完璧に近い横顔を見た。「昨日のことですが......嘘をつきました」紗月の手が少
6年前、紗月がこの家の主人だった時も、誰も本当に彼女を尊重してはいなかった。白石は一瞬言葉を詰まらせ、「そうだ」と言った。「それがあなたの考えかもしれないが」紗月は棚からスプーンとトレイを取り出しながら、「私、これまでの人生で十分すぎるほどの屈辱を味わってきた」と静かに語った。「これからは、もう屈辱を受けたくない」そう言い切ると、彼女はトレイを持ち、白石を避けて階段を上がっていった。白石はその場に立ち尽くし、紗月の細くて長い背中を見つめていた。彼の目の中の光は、次第に消えていった。もし選べるなら、誰が進んで屈辱を受けたいと思うだろうか?だが、今理恵に取り入らなければ、後で彼女が嫁いでくる時にどうしようもなくなるのだ。......主寝室。紗月が二日酔いスープを持ってドアを開けた時、涼介はベッドにもたれ、スマホを見つめていた。昨晩の二日酔いで頭痛がひどく、起き上がるのさえ困難だった。昨夜のことは記憶が混濁しており、何が起きたかはっきりとは思い出せなかった。彼女が入ってきたのを見て、涼介はスマホを置き、眉をひそめた。昨晩の彼の振る舞いを思い出すと、紗月の表情はさらに冷たくなった。冷淡な表情で部屋に入り、二日酔いスープを差し出した。涼介は紗月の目が赤く腫れているのを見て、眉をひそめながら口を開いた。「泣いたのか?」昨夜と同じ質問に、紗月は思わず冷笑した。紗月は涼介を冷たく見つめ、皮肉を込めて答えた。「昨夜、リビングでも同じように話しかけてきたね」「また同じ手を使って、次は私を押し倒し、奥様との出会いの話をするつもりか?」涼介は顔をしかめた。昨夜のことは全く覚えていなかった。「俺が昨夜、妻のことを話したのか?」「そうよ」涼介がスープを受け取らないので、紗月はスープとスプーンをベッドサイドに置き、「奥様のために桜井さんと婚約したって話をしたわ」と冷たく続けた。「奥様は本当に素晴らしい人だね。お腹に三つ子がいるのに、自分の命を投げ出して、遺書を書いて、佐藤さんに妹と結婚させたなんて」「事情を知っている人は彼女を称賛するだろうが、知らない人はあなたと桜井さんが何か後ろ暗いことをして、証拠隠滅のために殺したんじゃないかって疑うかもしれないね!」これまで抑えてきた言葉を、紗月
この味は違う!これはまさしく妻の味だ!涼介は仕事でよく酒席に参加することがあり、昔一緒に暮らしていた時は、いつも酔っ払って帰ってきていた。いつも彼が酔い潰れると、桜井は気が利いていて、二日酔いスープを作ってくれた。スープにある独特な香辛料が入っているので、その味は特別だった。涼介は、もう6年も彼女のスープを口にしていなかった。しかし今、この女が作ったスープの味は、桜井が作ったスープとほとんど同じだった!涼介は他のことは気にせず、ベッドから飛び出して階下に駆け下りた。キッチンでは、紗月があかりのためにお粥を作っていた。彼女は集中していて、背後の急ぎ足の音にも気づかなかった。涼介の存在に気づいたときには、すでに彼女の後ろに立っていた。涼介は紗月をぐいっと引き寄せ、大きな手で顎をつかみ、鋭い鷹のような目で危険な光を放ちながら問いかけた。「このスープ、誰に教わったんだ?」紗月は突然の動きに驚き、反射的に反抗しようとしたが、逆にさらに強くつかまれた。最後に彼女は彼を見上げ、「誰にも教わっていないわ。自分で作ったんだ」と答えた。「ありえない」涼介の低い声は、酔いの残るかすれた響きを帯びていた。「味が違うから。誰に教わったんだ?お前、桜井とつながっているのか?彼女が、お前を送り込んできたのか?」彼がそう言うにつれて、その推測はますます正しいと確信しているようだった。国外で有名なジュエリーデザイナーである紗月が、わざわざここに戻ってきて仕事もせず、あかりの専属メイドとして来たこと。あかりに対する接し方が、まるで実の子供のように大切にしていること。紗月の名前が、桜井紗月とほとんど同じだ。家のインテリアが桜井の趣味と同じで、スープの味まで同じだということ!紗月の目が桜井の目と違っていなければ、涼介は紗月が顔を整形し、声を変えた桜井だと思ってしまうかもしれないほどだった。だが、彼ははっきりと分かっていた。紗月は桜井じゃなかった。桜井の目は彼を愛で見つめ、その瞳には光が宿っていた。しかし、紗月の目はまるで涼介を他人のように見つめていた。そんな目をしている人物が、桜井であるはずがなかった。涼介はその鋭い目で、紗月をじっと見つめた。紗月は少し動揺した。まさか、スープだけで、彼女を
紗月は苦笑して首を振り、頭に浮かんだ雑念を追い払った。涼介が孤独だなんてあり得なかった。ずっと孤独だったのは、彼女自身だ。紗月は気持ちを切り替え、あかりのためにお粥を作り続けた。ふと、金属製のコンロに映った自分の顔に目が留まった。今の紗月は、顔立ちが整っていて、完璧で欠点が見つからないほど美しかった。しかし、以前のような幸せはもう感じられなかった。......それから数日間、紗月はできる限り涼介の前に姿を現さないようにしていた。ひとつには、先日の出来事のせいで、涼介に対して無理に熱心な態度を見せることができなかったからだ。もうひとつは、涼介がすでに彼女と桜井紗月の関係に疑念を抱き始めているため、できるだけ自分の存在を意識させたくなかったからだ。そうしているうちに、別荘の誰もが紗月が意図的に涼介を避けていることに気づいた。長年ここで働いている使用人たちは、紗月に対して忠告を始めた。「紗月、あんたはメイドだってことを忘れちゃいけないよ。佐藤さんに尽くすのが仕事なんだから、いつまでもそんな顔をしてちゃダメだよそんな態度じゃ、クビになるのがオチだよ。ここで長年働いてるけど、佐藤さんに顔色をうかがわせるメイドなんて見たことないよあかりをあんたしか世話できないと思わないほうがいい......」......紗月は、これらの忠告の中に涼介の差し金があるかどうかは分からなかったが、何を言われても変わるつもりはなかった。あかりは紗月の様子がいつもと違うことに気づき、透也に相談した。透也の答えはシンプルだった。「きっと、この前の件でママは渋々気づいたんだよ。あのクズ男と女の関係は簡単に壊せないってね。だから、気持ちが抵抗しちゃって、自暴自棄になってるんじゃない?大丈夫さ。時間が経てば、また元に戻るよ。女性の気持ちなんて、すぐに変わるものだからさ」しかし、透也の予想に反して、紗月のその状態は一週間も続いた。その一週間、彼女は毎日、涼介をまるで空気のように扱った。必要な会話以外、涼介に対して一言も余計なことを話そうとしなかった。その従順でそっけない態度が、逆に涼介を苛立たせた。書斎で書類に目を通している彼の脳裏に浮かぶのは、無表情な紗月の顔ばかり。一文字も頭に入らなかった。最近、紗
紗月は温かいお茶を持って書斎の扉をノックしたとき、涼介は椅子に座って電話をかけていた。彼女が入ってくると、涼介は冷ややかな視線を向け、そのまま電話の向こうの社員を叱り続けた。「何年も仕事をしているのに、上司と部下の関係を教える必要があるのか?機嫌が悪いからといって、俺がその感情に気を遣わないといけないのか?次に同じことをしたら、解雇になると思え!」その声を聞きながら、紗月は冷笑した。表向きは部下を叱っているが、実は紗月に聞かせるために言っているのだ。今夜だけで、すでに三度目の飲み物の注文だ。コーヒーからお茶まで、本当にこれほどまでに飲む必要があるとは思えなかった。唯一の理由は、最近冷たく無視していたことが、涼介のプライドを傷つけたからだろう。涼介は常に他人に仰ぎ見られる存在だった。そんな彼が無視されることは耐えられないのだ。それは紗月を気にしているわけではなく、涼介の生まれ持った誇りが刺激されただけだ。お茶を置いて、紗月はさっと踵を返し、部屋を出ようとした。「待て」ドアノブに手をかけた瞬間、背後から涼介の冷たい声が響いた。彼女は動きを止めた。「疲れたよ」涼介は椅子に背筋を伸ばし、「肩を揉んでくれ」紗月は振り返らずに答えた。「佐藤さん、私はあかりの専属のメイドだわ。佐藤さんのではないよ。契約を交わしたときに、佐藤さんははっきり言ったはずだった。この家ではあかりの世話だけをすればいいと。今夜、佐藤さんにコーヒーやお茶を淹れたのは、サービスでやったことだわ。それに甘えてはいけないよ」涼介はその一言で言葉を失った。確かに契約時に、その条件を強調していた。当時、紗月が何か企んでいるのではないかと警戒していたため、その条項を設けていたのだ。だからこのような条項は、彼女自身が何者であるかを思い出させるためのものなのだ。しかし、いざ何かしてもらいたいと思った時、彼女がその契約を持ち出すとは思わなかった。甘えてるだって?「おやすみなさい」紗月は涼介の反応を気にせず、ドアノブを回して部屋を出ていった。書斎の扉が閉まった。紗月が去っていく方向をじっと見つめ、閉まったドアを睨みつけて、彼はますます苛立った。仕事に集中しようとしたが、彼女が言った「甘えてる」という言
友美は目を伏せながら話し始めた。「あかりは私の長女が産んだ子供なの。長女は今、生きているかどうかもわからなかった。だから、せめて孫娘とはもっと親しくなりたいの」「お願いできる?」紗月は唇をかみしめた。「いいですよ」本当なら断るべきだった。しかし、目の前にいるのはかつて自分にとって一番近い存在だった母親だ。どうしても「ダメだ」と言えなかったのだ。「何で彼女に許可を取るの?」理恵が目を細めながら不満そうに言った。「ただのメイドじゃない?母さんはあかりの外祖母よ。あかりと一緒に食事するのに、彼女の意見を聞く必要なんてないでしょ?」友美は振り返り、たしなめるように理恵を睨んだ。「これは彼女の仕事だから、ちゃんと確認しないとね」そう言うと、再び紗月に向き直り、謝るように言った。「ごめんなさいね、この子は昔から甘やかされて育ったから......」その場に立ち尽くした紗月はそんな友美を見て、複雑な感情が湧き上がってきた。かつては自分がその友美に大事にされ、甘やかされて育った。しかし今や他人のような立場になっているなんて。紗月から許可をもらうと、友美はあかりを抱きかかえ、レストランへ向かって歩き始めた。紗月と理恵もその後に続いた。「あんた、一体何やってるの?」理恵は腕を組み、高慢そうにあかりの背中を見ながら、冷たく言い放った。「たかがその子のために何度も命を懸けるなんて」「でも結局、彼女は姉の娘で、母さんの孫よ」「私たちが本当の家族よ」「あんた?」理恵は鼻で笑った。「あなたなんか、家族でもなんでもないわ」紗月は目を伏せ、黙っていた。「でも、安心して。まだこの子に何かするつもりはないわ」理恵は、遠くにいる監視者たちを一瞥しながら言った。「涼介が大事にしてる子だから、手出しできないの」理恵は今のところ手出しできなかった。そのことを思うと、理恵は紗月が憎らしくてたまらなかった。あの忌々しいメイドがいなければ、とっくにあかりなんて始末できていたのに!こんな面倒なことになるなんて、誰が思っただろう?紗月は冷静に彼女を見つめ、静かに言った。「あかりはまだ6歳の子供よ」「だからどうしたっていうの?」たとえ6歳の子供であっても、理恵にとっては心に刺さった棘のような存在だった。桜井
友美は慌てて声を張り上げた。「こっちにいるわ」紗月は、この時点であかりを連れてその場を離れるべきだとわかっていた。友美の前で理恵と直接対立するのは避けるべきだった。だが、足が鉛のように重く、動くことができなかった。六年ぶりだった。目の前にいる中年の女性は、六年間一度も会わなかった母だった。喉が渇き、言葉が詰まったように感じ、何か言おうとしたが、声が出なかった。「何してるの?」その時、理恵が近づいてきた。彼女は一目で、友美の前に立っている紗月とあかりを見つけた。彼女の唇には嘲笑が浮かんでいた。唇には嘲笑が浮かんでいた。「あいにくだな」この数日、涼介に軟禁され、ようやく友美を呼び寄せることで、やっと外出する許可を得たのだ。しかし、外に出て間もなく、こんなにも早く二人に出くわすとは思わなかった。友美は驚いて、「理恵、知り合いなの?」「知り合いどころか」理恵は冷たく笑った。「お母さん、この子が、言ってたあかりよ」友美の目が一瞬で輝いた。彼女はすぐにしゃがみ込み、紗月の後ろに隠れようとするあかりを引き寄せた。「これが桜井紗月の子供なの?」あかりが少し怯えているのを見て、彼女は笑顔で優しく言った。「怖がらないで、私はおばあちゃんよ!」そう言うと、彼女はあかりをしっかりと抱きしめた。「いい子ね!」六年前に桜井が亡くなって以来、友美は一度も桐島市に戻ったことがなかった。理恵と涼介が婚約しても、彼女は姿を見せなかった。彼女は佐藤家が長女を殺したことを憎み、次女まで奪われることを恐れていた。昨日、理恵から桜井の娘が戻ってきたと聞かなければ、友美は絶対にここには来なかっただろう。明日の誕生日宴で初めてあかりと再会するつもりだったが、まさかここで出会うとは思わなかった。友美は驚きと喜びで、あかりを抱く手が震えていた。「あかり、おばあちゃんに顔をよく見せてちょうだい!」突然の熱心な中年女性に戸惑ったあかりは、少し言葉に詰まった。彼女は紗月に助けを求めるような視線を送った。紗月は首を横に振り、抵抗しないように合図を送った。あかりは素直に顔を上げて、甘い声で「おばあちゃん」と呼んだ。「そうだ」「いい子ね!」友美は涙を流しながらあかりを抱きしめ、感激で涙を拭いた。「本当に嬉し
しかし、不思議なことに、この数日間、理恵はまるでこの世から蒸発したかのように姿を消していた。ニュースでは、彼女が体調を崩し、いくつかの映画契約をキャンセルして自宅で療養していると報じられていた。最も大事にしていた授賞式さえも欠席していた。そして、智久の情報によると、理恵は最近ずっと自宅にいるといった。涼介の部下が彼女を守っているらしい。紗月はこの知らせを見て、一瞬呆然とした。涼介の部下が理恵を守っている?なぜ彼女を守る必要があるのか?まさか、誰かが理恵に危害を加えることを心配しているの?冗談じゃない、今までずっと他人を操っていたのは彼女自身じゃないのか?そう思うと、紗月は苦笑し、顔に一筋の嘲笑が浮かんだ。結局、涼介が本当に愛している人に対しては、こんなにも慎重なんだな。理恵があかりを裏切り、何度もあかりを危険にさらしたとしても、理恵の安全を気にかけ、彼女の公の活動を中止させ、自宅周辺に警護を付けた。そんな姿は、かつて理恵のために自分を犠牲にしようとした涼介と重なって見えた。そうだ。六年前も、彼は同じだった。今更何を驚くことがあるだろう?「紗月」突然、病室のドアがノックされた。紗月は慌てて携帯をしまい、顔を上げた。病室のドアの前には、白い服を着た白石が立っていた。彼女は眉をひそめ、「何か用?」「明日は佐藤夫人の誕生日宴ですよ」白石は軽く咳払いをしながら言った。「佐藤さんが伝えてほしいとのことですよ。今日は外に出て、買い物でもして、明日のためにあかりのスタイルを整えておいた方がいいと」「明日、佐藤さんと夫人はみんなの前であかりの正体を公表するので、きちんとした格好をしておく必要がありますよ」「わかった」確かにあかりの準備をきちんとしてあげる必要があった。何しろ、明日からあかりは佐藤家で一人で生活することになるのだから。明日の誕生日宴は、あかりが公に名乗りを上げる日であり、独り立ちする日でもあった。紗月はあかりを連れてショッピングに行くことにした。これまで外出のたびに問題が起きていたので、今回はあかりと一緒にただ簡単にショッピングモールに行くだけだったが、後ろには10人以上のボディガードが付き添っていた。かつて海外にいた頃、紗月はいつも忙しくて、あか
透也は真剣な眼差しで涼介を見つめた。「どうか僕を失望させないでくださいね」そう言い終えると、透也は決意を込めてスマートフォンを取り出し、クラウドに保存していた証拠データをすべて削除した。透也は賭けに出たのだ。涼介があかりのために、そして紗月のために、理恵を排除してくれると信じて。あの日、涼介のパソコンで見た内容が、ずっと透也を悩ませていた。今回の件で、彼は涼介が本当に母に対して深い愛情を持っているのか、それとも自分自身を欺いているだけなのかを確かめたかった。透也が証拠を消すのを見届けた涼介は、薄く笑みを浮かべた。「それほどまでに俺を信じているのか?」透也は涼介を見上げ、狡猾な目つきで答えた。「まさか、佐藤さんご自身が信頼できない人間だとでも思っているのか?」「ただ気になったの」「もし俺が嘘をついていて、理恵を何もしないなら、どうするの?」透也は果汁を一口飲み、「もしそうなったら、佐藤さんは多くの大切なものを失うと思うよ」そして、空のグラスをテーブルに置き、椅子から軽やかに飛び降りた。「それじゃ、これでね」そう言い終えると、透也は後ろに手を振り、振り返ることなくカフェを後にした。涼介の背後に立っていた白石は、少年が去る姿を見て驚愕した。「あの子、本当に6歳なんですか?」彼は自分よりも成熟していると感じた。恐ろしいほどだと思った。透也が紗月の息子だと思うと、白石は紗月までが少し怖く感じた。涼介は淡々とコーヒーを一口飲み、「俺も6歳の頃、あんなもんだった」白石:「......」やはり天才は同じで、凡人はそれぞれ異なった。白石は深呼吸し、テーブルに置かれたタブレットを見た。「これ、今すぐ警察に持って行きますか?」「急ぐな」涼介は骨ばった手でタブレットを手に取り、じっと見つめながら言った。「しばらく理恵を監視しておけ、今は動かないさ」白石は驚いた。「動かないんですか?」これまで、白石は理恵の側に立っていたが、それは彼女が涼介の五年間の婚約者だったからだ。だが、今や証拠は揃い、理恵は二度もあかりを危険にさらした。そのような状況で、涼介が彼女を放っておくとは?「何か意見があるか?」「い、いえ......ありません」白石はしばらく迷ったが、結局言わずにはいられなか
さらに進んで映像を再生すると、遊園地での動画や写真が次々と映し出された。そのすべてに、理恵の姿があった。涼介は微かに眉をひそめ、目には驚きの色が浮かんでいた。「これ、全部お前が集めたのか?」目の前にいるのは、たった五、六歳ぐらいの少年だった。普通の子供なら、この年齢では幼稚園で泣き虫になっているころだろう。だが、この子は、こんなに整理された情報を集めて、さらに彼と対等に会話までしていた。しかも、これだけの証拠を集めるなんて、探偵業でも難しいことだった。一体、こんな幼い子供がどうやってこれを手に入れたのだろうか?「爽太と悠太が手伝ってくれましたが、力では限界があり、これだけしか集められなかったさ」涼介の考えを見透かしたように、透也は淡々と肩をすくめて言った。「僕一人じゃ、ここまでの証拠は集められなかったよ」「ただ」少年は、目を細めて涼介を見つめた。「僕はまだ子供だし、爽太や悠太もただのボディガードさ」「それでも、僕たち三人だけでこれだけの証拠が集められたの」「だから、佐藤さんが本気で調べようと思えば、この犯人が誰かなんて、とっくに分かっていたはずだよね」「でも、観覧車の事件が起きてからこんなに時間が経っても、佐藤さんは何の動きも見せていなかったね。正直、それがすごく意外だよ」透也の口元には、皮肉めいた笑みが浮かんでいた。「本当は、そんなにあかりのこと好きじゃないんじゃないんか?」その声はまだ幼さが残っていたが、語調や言い回しは大人と何ら変わらなかった。その成熟した姿は、到底六歳の子供には見えなかった。涼介は淡々と微笑んだ。「俺には俺なりの考えがあるぞ」「へぇ」透也は口を歪めた。「佐藤さんの考えなんて、僕には関係ないけど」「今日これを見せたのは、証拠を掴んだってことを伝えたかっただけさ」「紗月は僕のママで、あかりは佐藤さんの娘。この女が何度も二人を危険にさらしたんだ」「大人として、佐藤さんが自らこの問題に対処するべきだと思うよ」「もし、まだ何もしたくないなら、僕が自分で警察に訴えるよ」だが、透也はたった六歳の子供であり、警察に訴えてもその証拠の信憑性が疑われるだろう。爽太や悠太も、それほど頭が切れるわけではなかった。杏奈は悠々自適に暮らしており、彼女を巻き込むこともし
紗月は仕方なく、白石に従って病室に入った。ベッドに寄りかかっていた涼介は、優雅な動作で書類を脇に置き、淡々とした表情で紗月に一瞥をくれた。「12分間も外から俺を見ていたんだな」紗月は微笑みを浮かべた。「佐藤さんがあまりに素敵だったので、つい見とれてしまったわ」その褒め言葉に対して、涼介は否定も肯定もしなかった。骨ばった手で温かいお湯の入ったコップをそっと手に取り、一口啜った。「そんなに俺の顔が見たくて、わざわざ病室を出てまで覗き見するとはな」そう言いながら、彼はちらっと紗月を見た。「飲むか?」彼の唇にはまだ水滴が残っていて、紗月に飲むかどうかを尋ねていた。紗月は冷ややかに微笑みながら、彼に近づいてコップを奪い取り、中に残っていたお湯を一気に飲み干した。「ありがとう」温かいお湯が喉を通り、体がぽかぽかと温まった。だが、彼女の心は依然として冷たかった。「お前、うちのばあちゃんに、青湾別荘を出るって約束したそうだな?」涼介は目を細め、その瞳は深い湖のように何もかもを隠していた。「俺のところに来た目的、果たしたのか?」「まだよ」紗月は遠慮なく椅子に座り、楽な姿勢を取った。「まだまだ道のりは長いわ」「じゃあ、なんで出ていくんだ?」「うん」紗月は笑みを浮かべた。「佐藤さんは私が出ていくことを望んでいたんじゃなかった?」「夫人の誕生日が終わったら、ちゃんと出ていくつもりよ」涼介は目を細めた。以前は、彼女を追い出そうとした時、必死になってあかりの側に残ろうとした。なのに、涼介が火の中に飛び込んで彼女を救い、命を危険に晒した今、おばあちゃんの一言で簡単に出て行くと言った。この女、本当に掴みどころがなかった。その持つ謎めいた雰囲気に、涼介はどうしても引き寄せられ、もっと知りたくなった。それはかつての妻よりも、彼を強く惹きつける誘惑だった。「何もなければ、もう行くわね」涼介の視線が重く、紗月は少し居心地が悪くなった。紗月は微笑みを浮かべ、立ち上がって涼介に別れを告げ、大股で病室を出て行った。彼女の手がドアノブに触れた瞬間、ベッドに寄りかかっていた涼介が、耐えかねたように眉をひそめた。「本当に未練はないのか?」紗月は心の中で冷たく笑った。「もちろん、あかりには未練があるわ」
透也はまだ6歳なのに、その言葉はまるで26歳の大人のように成熟していた。紗月は静かにため息をつき、返信した。「佐藤夫人の誕生日宴が終わったら、青湾別荘を出るつもりよ」「その後、あかりを一人で残すの?」「ええ」「それなら、まず理恵の問題を片付けなきゃ」透也からの返信は早かった。「今回の火事に関して、爽太がたくさんの重要な証拠を保管してるよ。たとえ涼介が無視したとしても、この資料を警察に提出すれば、理恵は数年間出てこれないだろう」紗月は再びため息をついた。透也は、いつもこんなに分別があった。「この数日、あかりをよく慰めてあげてね。あかりは私が離れるのを嫌がっているから」「あかりを涼介のもとに戻すように勧めたのは透也なんだから、責任を持って解決してね」電話の向こうで、透也はしばらく黙っていた。そして、透也は何も言わずに、「杏奈が帰ってきた」とだけ伝え、紗月との会話を終えた。さらに時間が経った頃、紗月の携帯に再びメッセージが届いた。今回は響也からだった。「ママ、あかりのことは僕に任せて」「あかりは僕の言うことを一番よく聞いてくれるから」「ママと透也は、理恵の件に専念して」響也が紗月にメッセージを送るのは珍しいことだった。その文字を見て、紗月は深くため息をついた。「ありがとうね、響也」「大したことじゃないよ」響也もため息をついてから、こう続けた。「ママ、実は......僕自身は、長く生きられなくても構わないと思ってるんだ」「でも、ママのことが心配だし、透也やあかりのことも気がかりなんだ」「ママはたくさんの痛みを抱えているのに、結城さんのことも拒んでるし、ママがこのままでは幸せになれないんじゃないかって心配してるさ」「透也は賢いけど、ちょっといたずらっ子で、全体を見渡す力が足りないさ。いつか大きな失敗をするかもしれないよ」「あかりはわがままで、感情的だし、よく泣き叫んでるさ」「本当に、君たち3人のことが心配だからこそ、もっと生きたいと思ってるんだよ」「でも、もし僕を助けるためにみんなが苦しむなら、むしろ死んだほうがましだよ」紗月は目を閉じ、しばらく黙っていた。「そんなこと考えないで。必ず響也を治すわ」「私たちはみんな、幸せになるのよ」そのメッセージを送り終えた後、
夫人が去った後、あかりは泣きながら紗月の病室に飛び込んできた。あかりは病室のドアに鍵をかけ、紗月の胸に顔を埋めて涙を拭いながら言った。「ママと離れたくない......」「ひいおばあちゃんの言うこと、聞かないでよ。何とかしてママをここに残せるようにするから!」紗月は無力に首を振った。「無駄なことはしないで」そう言いながら、あかりの小さな顔を手に取り、優しく言った。「あなたもいつかは大人になるのよ、わかるでしょ?」あかりは涙をこらえ、黙っていた。「安心して。あかりを危険な目に合わせたりしないよ。あと数日すれば、すべてが解決するわ。そしたら、安心して佐藤家にいられるわ」「涼介は、あまり良いところがないけど、あかりにはいつも優しい」「それに、夫人も、あかりだけは可愛がっているみたいね」あかりは唇を噛んで不満げに言った。「全然可愛がってなんかないわ」「本当に可愛がってくれるなら、どうしてママをそばに置いてくれないの?」「大人だから、いろいろ考えることがあるのよ」実際、紗月は夫人の気持ちを理解できた。あかりは佐藤家の大切な存在であり、そんな重要な人がメイドに依存することは、大家族にとって受け入れがたいことだろう。「あかりは気にしないもん。彼女が嫌いの」あかりはわがままそうに唇を突き出して言った。「もし彼女がママを追い出すなら、もう二度と彼女と仲良くしない!」そのわがままな様子を見て、紗月はため息をつき、小さなあかりをなだめながら最後には送り出した。あかりが去るころには、外はもう暗くなっていた。看護師が紗月に夕食を運んできた。食事をセットしてくれた後、看護師がリモコンを取り出してテレビをつけた。「退屈じゃない?」紗月は特に返事をせず、軽く微笑んだ。そしてふと見上げると、テレビ画面には理恵の偽善的な笑顔が映し出されていた。理恵はカメラに向かって微笑みながら言っていた。「最近、ネットで私の婚約者、涼介が意識不明だって噂がありますが、それは全くのデタラメですわ」「涼介はとても忙しくて、行動が神秘的なので、病院にいると誤解されただけですよ」「もちろん、私たちの関係はとても順調ですし、結婚も近々発表する予定ですわ」「そういえば」理恵はカメラに向かって右手の薬指にある指輪を見せた。「この指輪は
「ただあかりが好きなだけだ」か、見物だ。それに......これまでのことも、理恵と決着をつける時が来た。「好きだって?」夫人は冷たく鼻で笑った。「あんたが好きなのはあかりじゃなくて、彼女の父親、涼介でしょ!」「以前、あかりの存在を知らなく、あんたの企みも知らなかったわ」「あかりの好意と依存心を利用して、青湾別荘に平然と住みつき、一方であかりを気に入り、もう一方で涼介を誘惑して......」「綺麗な顔をしているけど、その心はなんて醜いんだろうね!」紗月は彼女がこんなことを言うだろうと予想していた。だから、紗月は軽く笑った。「推理は筋が通っているが、残念ながらすべて間違ってるわ」そう言って、紗月は淡々と夫人の首にかけられているネックレスに視線を向けた。「理恵がまた贈り物をしたのか?」今回のネックレスは、前回のと同じシリーズだった。当然、今回も偽物だ。夫人は冷たく彼女を一瞥し、「そうよ」「理恵は優しくて賢い、あんたなんかよりはるかにいいわ!」「さらに大事なのは、理恵はあかりの叔母だってことだ。この関係がある限り、あんたは永遠に理恵に敵わないよ!」「もし、あんたと理恵、どちらかを選ばなきゃならないなら、当然理恵を選ぶ。彼女を佐藤家の嫁にするわ」そう言って、彼女は冷たく鼻を鳴らした。「そろそろ身の程を知ったらどう?」「青湾別荘で働き始めて、あかりと涼介に近づいたのは金が目的だったんでしょ?」「二千万円じゃ足りないなら、値段を言ってみなさい。欲張りすぎないことだよ」病床に寄りかかりながら、紗月は微笑み、夫人のネックレスを見ながら言った。「そうね」「欲張りすぎると良くないんだよね」「だから、こういう千万円ぐらいのネックレスも、数が多ければ良いってわけじゃないでしょ?」夫人は眉をひそめ、紗月の皮肉っぽい口調に耐えかね、ネックレスを服の中に隠しながら言った。「話をそらすな!」「いくらなら出て行く気になるんだ?」紗月は目を閉じ、ため息をついた。しばらくして、彼女は目を開けて言った。「出て行くよ」「お金もいらないよ」「でも、条件があるわ」「条件?」「あなたの誕生日宴が終わるまでは、ここにいさせてください」紗月は、涼介の元でメイドとして長く過ごすことはできないとわかっ