エトルリア大陸の二つの強国ルウツとエドナ。 双方の間では長年に渡り無為の争いが続いている。 その戦乱の世で、心身に消えることのない傷を負った孤独な青年と、彼を取り巻く人々が織りなす物語。 戦闘・流血シーンを含みます。 苦手な方はご注意ください。
View More頭数合わせで皇帝主催の慰霊式に出席していたユノーは、式典が終わるなり聖堂から走るように退出した。 式に出席していた神官の中に、神官籍を持っているというあの人がいるのではないか。ならば、せめて無事帰還できた礼を伝えなければ。 そう思ってみたものの、聖堂の中では数え切れないほどの参加者に囲まれ、身動きが取れなかった。 加えて神官たちははるか前方の祭壇の周りにいたため、顔までははっきりわからない。 そこでユノーは出口付近で三々五々退出してくる神官たちからあの人を見つけようと思ったのだが、皆等しくフードを目深に被っているので、覗き込むわけにも行かない。 あきらめかけたその時、ユノーはあるものを感じた。 他でもない、じめじめとしたかび臭い空気……最終決戦の直前、司令官を起こしに行ったときに感じたあの空気だった。 吸い寄せられるようにユノーはその方向に歩を進める。 そして気が付くと、兵舎地区の一角に足を踏み入れていた。 個性のない家が建ち並ぶ、その片隅の一軒からそれは流れ出していた。 通りすがりの住人──恐らく衛兵の家族だろう──に、そこに誰が住んでいるのか、と彼は尋ねる。 すると、殆ど見かけたことはないが、という前置きの後で、あれは『無紋の勇者』の家だという答えが返ってきた。 嫌な予感がする。 いや、予感と言うにはその感覚は余りにも強すぎた。 閉ざされた扉の向こうからは、尋常ではない邪気を孕んだ空気が溢れてくる。 扉を叩くのももどかしく、ユノーは思い切って扉を開く。 かすかな邪気よけの香の残り香があるのだが、それはかび臭さに浸食されている。 その臭気に思わず口と鼻を抑え入口で立ち止まるユノーの視界に入ってきたのは、苦しげに床にうずくまるシーリアスの姿だった。「し、司令官殿! 閣下! いかがされましたか?」 叫びながら近づくユノーに、苦しげな息の中、だがはっきりとシーリアスは告げた。
皇帝の妹姫ミレダは、宮廷内に併設されている兵舎地区へと向かっていた。 ルドラで勝ち戦を納めた蒼の隊が皇都に帰還してから、行政府は戦死者に対する恩給や負傷者に対する補償金などの事務で手一杯の状況だった。 それらの決裁権を有するミレダは、あることを決定するため無理矢理時間を作ってここに来た。 今現在、行政府で問題になっている事案に対する、ある人物の『意見』を聞くために。 その人物が住む質素な家の前で彼女は立ち止まり、古びた扉を叩く。 それは来訪を告げるためではなくて、気まぐれな家主が在宅しているか不在かを確認するための行動だった。「開いてる。勝手に入ってくれ」 素っ気ない声が内側から返ってくる。どうやら家主は在宅のようだった。 礼儀の欠片すら感じられないその声に、だが気分を害するでもなくミレダは扉に手をかける。 扉が開くと同時に彼女の鼻を突いたのは、むせ返るような香木の焚かれる匂いだった。 邪気を遠ざけると言われるこの香は、神殿や聖堂ではそれこそ途切れることなく焚かれている物である。 そして戦士と神官という異なる二つの顔を持つこの家の主が戦場から戻るたび、まるで身体に染みついた血の匂いをうち消すかのように絶やすことがないことも、彼女は知っている。 そして戦で勝利を重ねるたび、一度に焚かれる香木の量が目に見えて増えていることに、彼女は一抹の不安を感じていた。「いい加減、この匂いは強すぎるんじゃないか? 何もここまでしなくても……」 言いながらミレダは後ろ手で扉を閉め、家の主に声をかける。 埃が積もった机の上には、司祭館の書庫から借りてきたと思しき分厚い教典が鎮座していた。 家主は来客に目もくれず、黙々と作業を続けながら先程同様の素っ気ない口調で答える。「……今回は色々面倒なことがあって少しばかり厳しかった
予想外の出来事が重なったものの、今回も『蒼の隊』はその不敗神話を裏切ることはなかった。 けれど、戻ってくる全軍を迎える後衛のシグマは、帰還してくる隊列の中に友人の姿を見つけることが出来ずにいた。 不安げに表情を曇らせ何か言いたげに見やってくるシグマに、司令官は眉一つ動かさずに告げる。 参謀長閣下とイータ・カイ卿は、名誉の戦死を遂げた、と。 本当なのか、とシグマは青ざめた顔をして下馬するユノーに胸ぐらを掴まんとする勢いで詰め寄る。けれど、ユノーは返す言葉がなかった。 カイ本人の名誉を守るため、そして友人を思うシグマのためにも、真実は語るべきではない、そう判断したからだ。 その後、わかっている限りの戦死者の名が告げられていく。 シグマ以外にも、それまで幾度となく戦場を共にしてきた戦友を失った者達の嗚咽が、あちらこちらから聞こえてくる。 中には膝を付き拳を大地に打ち付けながら号泣する者もいる。 それらの姿を目にしたユノーは、自分が生き残った……生き残ってしまったということをようやく思い知らされたのだった。 ※ そして、何事もなかったかのように夜が訪れた。 心配された新たな敵から追撃が行われる気配もない。どうやら先方もこれ以上の戦闘は無益と判断したのだろう。 おかげで、蒼の隊は久しぶりに静かな時を迎えることができた。 陣のあちらこちらで生き残った者達が、ささやかな祝杯をあげている。 やがて闇が深くなっていくにつれさすがに彼らも眠りにつき、次第に周囲は完全な静寂に包まれる。 その耳が痛くなるような音のない世界で、心身ともに疲れ切っているにもかかわらず、ユノーはどうしても寝付くことができずにいた。 目を閉じると、戦場で見た惨状がまぶたの裏に浮かび上がってくるのである。 敵味方の無数の躯(むくろ)がゆらゆらと起き上がり、恨みをはらんだ目で睨みつけながら、こちらへ来いとでも言わんばかりに手招いているような気がしてならない。 そんな彼の耳に、歌うような不思議な声が聞こえてきた。
『エドナの死神』と恐れられるロンドベルト・トーループが配下の部隊を率いルドラに到達した時、戦は既に終結しようとしていた。 どう見ても敵軍勝利という、予想通りの状態で。「いかがなさいますか? 追撃を仕掛けてはどうでしょう」 背後から参謀に声をかけられて、しかしロンドベルトは目を伏せ首を左右に振った。「今さら追いかけても、時間の無駄だ。ただでさえこちらの補給線は限界まで伸びている」 深追いしても袋叩きに合うだけだろう。 そうつぶやくと、ロンドベルトは不服そうな参謀を無視して、右手に控える女性に声をかける。「副官、全軍に伝達。負傷者をできる限り収容した後速やかに撤退する」 かしこまりました、と彼女が馬首を返そうとした時だった。 傷だらけの伝令が一人、彼らの前に文字通り転がり込んてきた。「イング隊のロンドベルト・トーループ将軍とお見受けいたします。我が隊の司令官がお会いしたいと申しております」 突然のことに、副官と参謀は等しく司令官をみつめる。 一方ロンドベルトはその漆黒の瞳をわずかに細め、低い声で伝令に問うた。「失礼ながらお尋ねする。シグル隊の司令官……バウワー殿はご存命なのか?」 すると、伝令はその言葉に打たれたように深々と頭を垂れる。「は、はい。恐れながら本陣にお運びいただきたいと……」 そうか、とつぶやくと、ロンドベルトは吐息を漏らす。 そして今度は左手後方に控える参
どす黒い思念が、ユノーを取り巻く空間に先程より強く流れ込んでくる。 次の瞬間、彼の視界の端で何かが動いた。 何事かと向き直った瞬間、参謀長を取り巻く一角となっていたカイが手にした剣を閃かせ虜となっているその人を切り伏せた。 と同時に、その勢いを保ったままシーリアスに向かい突っ込んでいく。 異変に気付いたシーリアスが振り向いた時には、カイは絶叫をあげ大上段から剣を振り下ろそうとしていた。 間に合わない。 その場にいた誰もが、等しく目を覆う。 が、信じられないことが起きていた。 鈍い音と共にカイの剣の先端部は何かにぶつかったかの様に折れて弾け飛び、草むらの上に突き刺さった。 強固なまでのユノーの防御が、皮肉にもその術を教えた人からの攻撃を防いだのだ。「何で……何で貴方が、こんなことを……」 まだ信じられない、と泣きそうになりながら問うユノーに、カイは剣を引き寂しげに笑った。「やっぱり防御止まりにしておいて正解でしたね、司令官殿。こんなに不安定な精神状態じゃ、何が起こるか解らない」 最後まで貴方にはかないませんでした、とカイは自嘲気味に笑う。 そして、ユノーの方を見、彼は寂しげに言った。「……そのうち、君にも解るときが来るよ。うだつの上がらない下級貴族の惨めさがね」 言い終えると同時に、カイは先端が折れた白刃を自らの首筋にあてる。「……君は、自分のようにはなるなよ」 そして次の瞬間、カイは剣を一息に引いた。 止める間すらなかった。 その傷口から噴水のように鮮血があふれる。 即死であろう事は間違いなかった。 自らが作り上げた深紅の沼の中に、事切れたカイは馬の背から落下する。 その顔には何故か満足げな微笑が浮かんでいた。 その様子を、凍り付いたようにユノーは見つめていることしか出来なかった。 手を差し伸べることも、泣き叫ぶことも出来ぬままに。「……安心しろ。お前の責任じゃない。奴が勝手に選んだ道だ」 背後から、いつも以上に突き放すようなシーリアスの声がする。 それが恐らく自分の心情を思っての精一杯の慰めであることを、ユノーは理解していた。 いや、理解しようとしていた。 だが、結果的に自分がカイを殺してしまったのではないかという考えがよぎる。 けれど、もしあの時、自分が飛
ついにここまで来てしまった。 もう逃げられない。 ユノーが覚悟を決めたときだった。 日の光に、シーリアスの宝剣が閃く。 射すくめられたようにユノーは固唾を呑んだ。「総員、抜刀! 突撃開始!」 その声と同時に、蒼の隊精鋭部隊は急斜面を駆け下り、修羅場と化した戦場に飛び込んでいく。「ぼさっとするな!」 いつも以上に鋭いシーリアスの声に、ユノーは慌てて敵の攻撃をなぎ払う。 一方で、シーリアスが手にしている宝剣から一陣の風が起こるたび、敵はばたばたと落馬していく。──暴走させれば敵も味方も仲良くあの世行きだ……── 司令官が常々口にしていた言葉の真意を、ユノーは身をもって知った。 確かにこれは、付け焼き刃の短時間講習で習得し実践するのは無理だ。 一つの攻撃を受け流してほっとするの持つかの間、次の敵騎兵が躍りかかってくる。「貴官はついてきて、敵の攻撃に対抗する『壁』を作るのに専念しろ」 混乱の中であるにもかかわらず、シーリアスの声は確実にユノーに届いた。 慌てて顔を上げたその視界の先で、一人の敵騎兵が胸から血を吹き上げて落馬する。 乱戦は続いた。 青々と茂っていた草原は、いつしか流れる血によってところどころどす黒く染まっている。 あちらこちらで剣と剣がぶつかる火花が散り、放たれた矢が空を行き交う。 斬られた者は自ら作り出した赤い沼に沈み、矢にあたった者はその傍らに落ちる。 敵味方の入り乱れるその戦場で、シーリアスは常に陣中にあり、返り血で全身を深紅に染めていた。 ユノーにとって意外だったのは、色を失った参謀長だった。 真っ先に切り伏せられると思っていたその人は、巧みにシーリアスとユノーの間に割ってはいることにより、自らは何もすることなくどうにかこの戦場を泳いでいる。 だが、この乱戦の中、その人を気にとめる者は誰一人いなかった。 誰もが生きるために、敵を屠(ほふ)っていたからである。 いつし
居並ぶ将兵の前に姿を現した『無紋の勇者』は、おもむろに口を開いた。「最衛隊として、五百を本人に残す。負傷者は可能な限り収容しここに運べ。指揮はシグマに任せる」 この状況では妥当なその言葉に、立場の異なる二人の顔に図らずも全く同じ失望の表情が浮かぶ。「大将、それはないよ! せっかくここまで来たのに、ひと暴れもできないなんて」「後衛の守りは、是非私に…」 ほぼ同時に口を開くシグマと参謀長。 が、それを予想していたのか司令官は表情を動かすことなく答える。「ここは我々の最後の砦だ。我々に万一の事が起きた場合は、それなりの経験がある者に退却の指揮を執って貰いたいからこそシグマに任せる。参謀長たるあなたには、戦場で若輩な俺を補佐して欲しい」 その人にはしては、珍しく正論である。 確かに常勝と呼ばれている蒼の隊ではあるが、それが今回もそうであるとは限らない。 蒼白になる参謀長の隣でむくれているシグマの肩を、カイがなだめるように叩いた。「まあ、その分自分が叩きのめしてくるからさ。少しは我慢しろよ」 長年の戦友にたしなめられてもなお、シグマは納得がいかないとでも言うように頬を膨らませて腕を組む。 その時、最前線からの伝令が駆け込んできた。「第二部隊、突入しました! 現在混戦状態となっております!」 無言で頷くと、『無紋の勇者』と呼ばれているその人は高らかに命じた。「総員騎乗! 友軍と合流する!」 ガシャガシャと金属がぶつかり合う音が響く。 それに遅れまいとしてユノーは慌てて鐙(あぶみ)に足をかけ、鞍の上に自らを引き上げる。 既に馬上の人となっていた司令官は宝剣を頭上にかざす。「”見えざるもの”の加護よ、我らが剣に宿り賜え!」 威風堂々としたその姿と声に、力強い鬨(とき)の声がそれに応じる。 最高潮に達しようとしていた戦意に、ユノーははからずも身震いする。 シーリアスは、邪気を切り払うかのように掲げた宝剣を水平
そして、夜が明けた。 遥かに望む山の端がほのかに光り始める頃、『最後のとどめ』をさすべく残っていた蒼の隊精鋭は食事もそこそこに各々武装を整え始めている。 が、彼らを指揮するはずの司令官の姿がどうしても見あたらない。 不安げに周囲を見回すユノーに、声をかけてきたのはシグマだった。「よお、坊ちゃん。大将起こしてきてくれないか」 はい、解りましたと一歩踏み出そうとしてから、ユノーはその違和感に足を止める。 確かに司令官は負け知らずの猛者だが、そんな人がよもや決戦を前にして寝過ごすなどということは考えられなかったからだ。 そんなユノーの心中を察してか、シグマは飽きれたような表情を浮かべている。「いや、いつものことだよ。大将は決戦前になると寝坊する癖があるのさ。何だか知らんけど」 涼しい顔で言ってのけるシグマに、堅物の参謀長はあからさまに苦々しげな視線を向ける。 その怒りの巻き添えを食らう前に、ユノーは司令官の元へ向かって走った。 見えてきた天幕は、一軍の将が使うにしてはあまりにも質素な物だった。 何も言わなければここに指揮官が居るとは誰も思わないだろう。 だが、それとは異なる理由でユノーは不意に足を止めた。 小さな天幕から漂ってくる空気は明らかにおかしい、そう感じたのだ。 けれどこのまま立ちつくして、その人の目覚めを待つ訳にもいかないので、意を決してユノーは入口の幕を上げた。 そこから溢れ出てきたのは、草原では感じるはずのないかび臭くじめじめした空気だった。 あまりの悪臭に堪えかねて、ユノーは思わず鼻と口を塞ぐ。 そして天幕の中へ足を踏み入れると同時に、無数の思念が濁流のように無防備なユノーの脳裏へ流れ込んできた。──生かして貰っているだけ有り難いと思え、罪人の子め……────お前は一体何人殺したか知っているのか? この虐殺者が……── それから耳を塞ぎたくなるような下卑た笑い声が続く。 落ち着け、と自分に言い聞かせ、ユノーは固く閉じた目を恐る恐る開く。 果たしてそこ
「何をしている、ロンダート卿! 早くその子を親と同じ所へ送ってやれ!」 耳慣れぬ鋭い声が、微かに聞こえてくる。 それに答えるのは、懐かしい父の声だった。「で、出来ません! 敵国に連なる者とは言え、幼い子どもを……」「子供一人敵国に残されて幸せだと思うか? ひと思いに殺してやるのが思いやりだろうが!」 激しいやりとり。 無数の白刃がその答えを待つかのように、ある一か所を取り囲んでいる。 が、一際豪奢な装備を付けた分隊長と思しき人物が一歩踏み出す。「ならば、私が貴官に代わって親のもとへと送ってやる! そこをどけ!」 刹那、幼い子どもの叫び声が空間を支配する……。 そのあまりの悲痛さに、ユノーは思わず耳をふさぐ。「……罪を背負った人間は、死後安住の地へ導かれることなく、地の底で永久に焼かれ続ける。あくまでも昔猊下から聞いた話の受け売りだがな」 固い声がユノーを現実世界に引き戻した。 感情を写さぬ藍色の瞳は、遥か彼方に向けられていた。「それが事実だとしても、お前は戦場へ行くつもりか? 」「……では、ご無礼と承知でお尋ねしますが、どうして司令官殿は戦場に身を置かれるという道を選択なさったのですか?」「死ぬため、かな。……俺は今まで、『死ぬ』為に生きてきたようなものだから。全てが無くなったあの時から……」 感情のない声が、即答と言って良いほどのタイミングで戻ってくる。 凍り付いた藍色の瞳は、彼方を見つめたままだ。 『生への執着こそが蒼の隊の必須条件』と言った人がなぜこんなことを言うのだろう。 しばしためらった後、ユノーは再び食い下がる。「……それではあまりにも寂しくはありませんか? 誰もそれを止めようとはなさらないのですか?」 低い笑い声が、それまで感情を表さな
突然降りだした激しい雨に、ボクはあわてて商店の軒先に駆け込んだ。 ふるふると身震いして水を払い落とすと、ボクは丁寧に毛繕いを始めた。 いつからこの街にいたのかなんて、覚えていない。 物心ついた頃には、ネズミや鳥を狩ったり、ゴミ箱をあさったりして毎日を食いつないできた。 時には魚屋の商品に手を出して、店の主人にどやされることもあるけれど、街の人々は比較的ボクらには友好的だった。 そう、ボクは野良猫。 帰る場所のない根なし草。 さて、今日は一体どこで雨露をしのごうか。 相変わらず降り続ける雨を眺めながら、ボクは思案し首をかしげる。 ちょうどその時だった。 前触れもなく、ボクが居座る軒先に、一人の少年が駆け込んできた。 どのくらい走ってきたのだろうか、頭の先から爪先までびっしょりと濡れた少年は、まるでボクらのようにぶるぶると頭をふる。 同時にせっかく乾きかけたボクの体に、飛沫が飛んできた。 いい迷惑だ。 そう伝えるため、ボクは一声鳴いた。 それでようやく少年は、ボクの存在に気が付いたらしい。 そしてボクも、その時初めて彼の顔を真正面から見ることができた。 歳の頃は十二、三くらいだろうか、どちらかと言えば小柄な少年は、その夜空の色をした瞳でまじまじとボクを見つめてくる。 何か、文句でもある? ボクは再び鳴いた。 瞬間、何の前触れも無く、少年はしゃがみこみ、ボクと視線を合わせてきた。 彼の濡れたセピア色の髪から、水滴がボクにこぼれ落ちてくる。 だから、迷惑なんだってば。 その場から離れようとした時、ボクの耳に、彼の声が飛び込んできた。「……君も、一人なの?」 その声に、ボクは立ち上がるのをやめた。 そして、改めて彼を見やる。 質素ではあるが清潔な服を着ているので、『宿無し子』ではないだろう。 腰には何故か、年齢にはそぐわない短剣を差している。 けれど、それ以上に違和感を感じたのは、彼の『声』だった。 抑揚がなく、一本調子の……そう、感情が無い声。 首をかしげるボクに、彼は手を伸ばしてきた。 濡れて冷えきった手が、ボクの頭を撫でる。「俺も、一人なんだ」 濡れた手が、頭から背に伸びる。優しく、ゆっくりと。 悪意は無いのは解っているのだけれど、これ以上濡れてしまってはたまったもんじゃない。 一つ抗議の声を...
Comments