数日後、ボクらは孤児院を出た。
子どもたちは口々にまた来てね、と言いながら、いつものごとくボクをもみくちゃにする。
少々乱暴な送別会が終わると、ボクは彼の後を追った。
引っ越し、なんていっても荷物なんてたいしたことはなかった。
僅かな着替えと、古ぼけた剣が一本。
それをまとめて背負った彼は、迷うことなく歩みを進める。
いつも練兵場へ行くのとは正反対の方へ向かっているのは、ボクにも解った。
この方向に、何があるんだろう。
そんなボクの疑問に答えるかのように、周囲の空気はがらりと一変した。
道ばたを走り回る子ども達。
窓から翻る洗濯物。
まるで街みたいだ。
「ここは、『兵舎地区』。近衛兵みたいな、陛下の御身辺を常にお守りする兵と、その家族が住む所」
言いながら、彼は最も奥まった所にある家に歩み寄り、扉に鍵を差し入れた。
かちゃり、という音の後、扉はぎしぎしと開いた。
さっそく駆け込んだボクは、屋内に入るなり、盛大にくしゃみをした。
床には一面、ホコリが積もっていたのだから。
「どうやら、ずいぶん長いこと、使われてなかったみたいだな」
言いながら、彼は荷物を寝台の上に放り投げた。
すると盛大にホコリが舞った。
「今からでも、戻っていいんだぞ。いや、帰った方が良いかもしれない」
大きなお世話だよ。
ボクはぽん、と跳ね上がって寝台の上に着地する。
そして、その上に放置された物を見つめた。
ふとその視界に、鈍く光る剣が入ってきた。
それは、いつも殿下との稽古で使っていたそれじゃない。
「これは、『宝剣』。勇者の称号を持つ人間に与えられる物」
言いながら彼は剣を手に取った。
ボクはそれを良く見ようと、彼の膝の上に無理矢理潜り込む。
「皇帝陛下への絶対の忠誠と、それを示す戦を行う者に与えられる力の象徴、だとさ」
なんだよ、それ?
わけが解らず瞬くボクに、彼は苦笑を浮かべて言った。
「良く解らないだろ? 俺にもまったく意味不明だ。……でも」
剣の柄を撫でながら、彼は低く呟く。
「行く限りは、勝つ。そして、生き延びてみせる」
その彼の手を見て、ボクは息を飲んだ。
彼の手が、僅かに震えている。
あわてて彼の顔をボクは見上げる。
凍りついたような夜空の色をした瞳が、ボクを見下ろしていた。
「今までは、猊下や殿下のご厚意で生かされていた。今度はそれをお返しする番だ。だから……必ず帰ってくる。これから先、ずっと……」
ボクも待っているのを、忘れないで。
一声鳴くボクの頭を、彼は優しく撫でてくれた。
※
そして、ついにその日はやってきた。
彼は、無言で旅装を整えている。
ボクは、淡々と作業を続ける彼をただ見つめることしかできなかった。
「だいたい、一ヶ月くらいかかるかな。何事もなく終われば」
そんなボクの視線に気がついたのか、彼はボクに向かって苦笑を浮かべた。
「……もっとも、俺が戻って来ない事を期待している奴らの方が多いけど、な」
そんなこと、言わないでよ。
ボクだって、殿下だって、猊下だって、君が戻って来るのを待っているんだから。
寝台から飛び降りたボクは、小さく鳴きながら彼の足元にじゃれついた。
そんなボクの頭を、彼はいつものようにくしゃくしゃとかき回す。
「心配するな。……俺は、これで終わりにするつもりはない」
けれど、彼の手はやっぱり震えている。
本当に、戻って来てね。
もう一度、ボクは小さく鳴く。
その夜、いつもより早く寝台に潜り込んだ彼は、何度も寝返りをうっていた。
翌朝、ボクが目を覚ました時、彼は甲冑という物を着込み、マントを羽織っていた。
その姿に驚くボクを彼は抱き上げると、彼は家を出、ボクを下ろしてから扉を閉めた。
追い出すつもりなの?
抗議の声を上げるボクに、彼は言った。
「……俺がいない間、この家の中でどうやって食っていくんだ?」
確かにその通りだ。
ボクでは、この扉を開け閉めすることはできない。
食事を持って来てくれる彼がいなくなれば、ボクは飢え死にしてしまう。
「孤児院に顔を出せば、たぶん大丈夫だろう。何ならそのままそっちに居座ってもかまわない」
……やっぱり、ボクを追い出すつもりなの?
見上げるボクに、彼は困ったように笑う。
「お前は、俺と違って自由なんだ。だから……」
それでも、ボクは君を待っているよ。だから、帰って来てね。
「……じゃ、行ってくる」
そんなボクの視線から逃れるように、彼は足を踏み出した。
だんだんと小さくなっていくその後ろ姿を、ボクはいつまでも見つめていた。
※
それから、ボクの野良生活が始まった。
いや、毎晩彼の家の軒先で夜を過ごすので、完全な野良という訳ではない。
昼間は孤児院に顔を出したり、近所の家のお世話になったりしたので、街にいた頃よりは遥かに幸せだった。
けれど、どこか寂しさと不安があった。
言うまでもない。彼が心配だったから。
そんなこんなで、約束の一ヶ月が過ぎようとしていた。
夕方から広がり出した雲は、低くたれ込め今にも泣き出しそうに見える。
「お前、まだ奴の所にいたのか?」
いつものように軒先で丸まっていたボクの耳に、懐かしい声が飛び込んできた。
間違いようもない、あのお転婆殿下がそこに立っていた。
「……とんでもない状況だったらしい」
ボクを軽く撫でてから扉に寄りかかると、殿下は重い口を開いた。
「戦闘なんて統率の取れた物じゃない。敵味方入り交じっての殺し合いだ。……運良く相手が浮き足立ったのと、こちらの指令部が壊滅しなければ、負けていただろうな」
指令部が壊滅したのに?
首をかしげるボクに、殿下は苦笑を浮かべてみせた。
「指令部なんて言っても、名ばかりの馬鹿共だ。戦いのことなんか、何も知っちゃいない。負けるのを見越して、そんな所に奴を放りこんだんだ」
そして、殿下は悔しそうに唇を噛む。
自分にもっと力があれば、こんなことにはさせなかったのに、と。
でも、どうしてそんな所に?
さらに首をかしげるボクに、殿下はかがみこみ、ボクと目線を合わせた。
これって、『恐れ多いこと』なんだろうな。
そんな事をぼんやりと考えるボクの頭を、殿下は優しくなでた。
どこかの誰かとは大違いだ。
「どうやら、降ってきそうだな」
言いながら、殿下はボクを抱き上げた。
青緑色の瞳は、上空を見つめていた。
「自己顕示欲に取りつかれた指令部は、現状を無視して突撃命令を繰り返したそうだ。自分たちは安全な場所に陣取って……。敵の別動隊が指令部を急襲してくれなければ、今ごろ……」
でも、指令部がなくなったら、終わりじゃないの?
まだ納得がいかないボクの耳に、殿下の声が流れこんでくる。
「戦場を渡り歩いてきた奴らは、自分たちがどうすれば生き延びられるか、本能的に知っている。……つまりあいつは、烏合の衆になりかけた奴らを、実力でまとめあげ、自らを司令官として認めさせたんだ」
これで名実共に『蒼の隊』の奴らは、あいつにたいして絶対の忠誠を誓うだろうな。
そう言いながら、殿下は寂しげに笑った。
でも、最初からそうしていれば、もっと犠牲者は少なくてすんだんでしょ? だから殿下も辛く感じているんじゃないの?
声を上げるボクを、殿下は静かにおろした。
「できれば、そうしてやりたかった。けれど、初陣で司令官待遇なんて過去に前例がない。頭の固い着飾った奴らが首を縦に振る訳がない。何よりあいつは家柄も無い孤児で、しかも……」
不意に、殿下の言葉が途切れた。
ぽつぽつと雨が大地を打つ音が、代わりに聞こえてくる。
けれど、殿下が口を閉ざしたのは、それが理由じゃなかった。
なぜなら、その視線の先には……。
「親は敵国の間者。本人はその取り締まり部隊を一人残らず惨殺した大罪人、だったからさ……」
降りだした雨を気にも止めず、どこか焦点の定まらない目をこちらに向けた彼が、そこに立っていた。
立ち尽くす殿下。 表情を崩さない彼。 その間でうろうろするボク。「どうした? 本当の事を言っただけじゃないか」 言いながら、彼は笑った。 視線同様、おぼつかない足取りで、彼はこちらに歩み寄る。 言葉を失う殿下とボクの前を素通りして、彼は扉に手をかけた。「お前……酔っているのか?」 殿下の言葉に、ボクはあらためて彼を見つめる。 確かにその右手には、中身が半分程になった緑色の瓶が握られていた。 それをテーブルの上に置くと、彼は崩れるように寝台に座り込んだ。 あわててボクも、その隣に飛び乗る。「すまなかったと思っている。けれど……」 言いさした殿下の言葉が途切れたのは、彼が身に着けていたマントを殿下へ向けて放り投げたからだ。「……持って行け。深窓のお姫様がずぶ濡れになる訳にもいかないだろ? ……多少血の匂いが染み付いているかもしれないけど、我慢しろ」「そうじゃなくて、私は……」「いいから、早く行け! ……これしか生きる道が無い事は、俺自身が一番知ってる。だから……」 あなたが気にする事は、何もない。 囁くような小さい声で、彼は言った。 彼の隣にいたボクの耳に辛うじて入る大きさだったので、それが殿下に届いていたかは、定かでは無い。 マントとボクら。 しばらく交互に見つめていた殿下は、また来る、とだけ言い残して家を出て行った。&
冬はあっという間に訪れた。 暖炉には赤々と炎がたかれ、ほの暗い室内を柔らかく照らし出す。 その暖かい光の中で、彼は相変わらず本を写すという作業を続けていた。 その作業に一体どんな意味があるのか、ボクにはまったく解らない。 一心不乱に作業を続ける彼を、丸まりながら見つめる日々が過ぎていった。 そんなある夜、彼はいつもよりかなり早くその作業を切り上げると、頬杖をつきながらボクに言った。「今日は『年越しの祭』だ。孤児院……猊下からお誘いを受けているんだけど、来るか? あまり気は進まないけれど……」 それって、逆にすっぽかす方がまずいんじゃないの? 寝台から飛び下りると、ボクは彼の足元で鳴いた。 諦めた、とでも言うように小さく吐息をつくと、彼は静かに立ち上がると、大きく伸びをした。 防寒用のマントを神官の長衣の上から着込むと、彼はボクを促して外にでた。 はりつめたような冬の外気に身震いするボクを、彼は問答無用で抱き上げた。「降って来たら雪だろうな」 呟く彼の胸元で、ボクは注意深く周囲を見回した。 どこの部屋にも明るい光が灯っている。 みんな、静かにお祝いしているんだろうな。 そんなことを考えるボクの頭上を、彼の声が通過していった。 最後に家族で過ごしたのは、いつだったかな、と。 そのうち、家族で過ごした時間よりも一人の時の方が長くなる。 そう言う彼の表情は、夜目がきくボクにもはっきりとは見えなかった。 やがて、目の前には石造りの建物が現れた。 無言で彼が扉を叩くと、音もなく開かれ
年が明けても、ボクらの生活は変わらなかった。 相変わらず彼は神官の長衣を着こんで、いつ終わるともしれない作業を続けている。 そしてボクは、寝台に丸まってそんな彼の姿を見つめている。 ふと、かりかりというペンが紙を削る音が止まった。 あわてて顔を上げると、彼が立ち上がり扉の方へ向かうのが見えた。 何事だろう。 瞬きするボクをよそに、彼は無言で扉を開く。 と、そこには、何やら包みを抱えた殿下が立っていた。「どいてくれ。とにかく、中に入れろ」「……わざわざのお運び、どういうことだ?」 そう言う彼の口元には、どこか斜に構えた笑みが浮かんでいる。 そう言えば孤児院からの帰り道で……。「宴会、宴会。それがすんだら茶話会。一体あいつらは何を考えているんだ? まったく、ただの無駄遣いとしか思えない!」 殿下は深窓のお姫様らしからぬ大股で入って来るなりそう言い放つ。 扉を閉める彼に向かいテーブルの上にある物を片付けるよう、視線で命令した。 大当たりだろ? とでも言うようにボクを見てから、彼はテーブルの上を占領していた本と紙の束を寝台の上へと移動させる。 そうしてできあがった空間に、殿下は持ってきた荷物を広げ始めた。 銀の食器にティーセット。 もちろんそれは空ではなく、温かい湯気のたつ料理や菓子で満たされていた。「……茶話会と宴会は無駄遣いと言ったのは、どこの誰だ?」「さて、どこの誰だったかな」 そうはぐらかしてから、殿下は皿の一つを手に取り、寝台の上で固まっていたボクに歩み寄る。
下級とは言え、貴族の物としてはあまりにもみすぼらしい墓石に、老婦人は持ってきた花束を手向けた。 そしていつものように合掌し深々と頭を垂れる。 この冷たい石の下には、彼女の一人息子がその妻と共に眠っている。 隊長命令に背くという武官としては致命的な行為を犯し、皇帝から死を賜った息子と、将来を悲観しその後を追った妻が。 その結果老婦人とその孫の家は、代々受け継いできた騎士籍は皇帝預かりとなり、貴族籍より除名という厳しい処分を受けた。 今では周囲からは裏切り者と後ろ指をさされながら、皇都の片隅でひっそりと身を隠すようにして暮らしている。 改めて老婦人は、墓石を見つめる。 除名された貴族籍への復活と預かりとなっている騎士籍とを取り戻すという悲願のため、最後に残された肉親である孫が今戦場へ引き出されようとしていた。 けれど彼女にとって、今更身分などはどうでも良いものになっていた。 とにかくその無事の帰還を祈るため、彼女はここへやって来たのである。 けれど墓石は何も語ろうとはしない。 深く溜息をつき、彼女はその場を離れた。 人気のない、木漏れ日が降り注ぐ共同墓地の中を、老婦人は背を丸めながら家路につく。 近く皇都を離れる孫のために、好物を用意してやろう、と思いながら。 と、その時だった。 墓地の中でも一際じめじめとした所にある、皇国に仇なす逆賊者達が埋められている場所へと向かう苔むした脇道から、前触れもなく一人の青年が姿を現した。 殆ど訪れる者もない、忌まわしい場所へと続くその道から。 年の頃は、老婦人の孫と同じくらいだろうか。 一目見てそれと解る下級神官の質素な長衣を身につけ、首からは何やら古代語が刻まれた護符を下げている。 全く癖のない真っ直ぐなセピア色の髪は背に届くほど長い。 自分を見つめる視線に気が付いたのか、青年は一瞬驚いたように顔を上げる。 そして、僅かに会釈をすると足早に
『蒼の隊』。 それはルウツ皇国の中でも極めて特異な存在だった。 ルウツの主な戦力は、色分けされた名で呼ばれるのが習わしである。 かつてロンダート家が所属し、皇宮警備や皇都の治安維持を主な任務とする皇帝直属の『朱の隊』。 皇帝を支える代表的な五つの伯爵家がもつ『緑』・『白』・『黒』・『黄』・『紫』の各隊。 そしてユノーが今回配された『蒼の隊』である。 『蒼の隊』はいかなる門閥にも属さない、流れの傭兵や、のし上がろうとする平民、そして失地回復をもくろむ没落貴族などから構成される、いわば混成部隊だった。 そのありとあらゆる階層出身の混成部隊を率い、由緒ある五伯家以上の働きをさせているのは、格を重んじる皇国で唯一の平民出身の司令官だった。 記録上の軍歴は約二年半。 だが初陣より一部隊を率いて以来、未だ敗戦を知らない。 その平民出身の彼のことを、庶民は尊敬を込めて、敵国はこれ以上ない畏怖の念を込めて、そしてルウツの高官や名だたる貴族達は蔑みを込めて、こう呼んでいた。 『無紋の勇者』と。 だが、華々しい働きとは裏腹に、その素性はあまり人々には語られていない。 解っているのは、司祭館にある孤児院で育ち、ルウツの大司祭であるカザリン・ナロード・マルケノフの養子となった、という事。 もっともこの養子縁組は、平民である彼が一部隊を率いる『勇者』の位を得るために、子爵家の出身の大司祭が動いた形ばかりのものだとも言われている。 シーリアス・マルケノフ。 それが、その渦中の人物の名前だった。彼を直接知る人は、口をそろえて言う。 あの人は得体の知れない人だ、と。 深い藍色の瞳は常に無表情で、何を考えているのかを決して他者に悟らせることはない。 そして、自分以外の存在はおろか、自分自身にさえも関心が無いように見える。そう評する人もいた。 噂には当然
この一歩一歩が、自分を確実に死へと導いている。 そう思うと、ユノーは情けなくも身体の震えを止めることが出来なかった。 騎馬の群がたてる規則正しい金属音に混じって、ユノーの手綱を握る指先がカチカチと小刻みな音を立てていた。 何事かと彼の脇をすり抜けていく古参の騎兵や騎士達は、くすんだ癖毛の金髪と優しげな水色の瞳のせいで実年齢よりも幼く見えるユノーの顔をのぞき込む。 そして彼らは等しく同情するように溜息をついて、ユノーを追い越していく。 恐らくユノーの置かれた状況を理解してのことだろう。 この『寄せ集め隊』には、しばしば同じような境遇の人間が配置されるのが慣例となっているのだから。「初陣なのか?」 急に背後から声をかけられ、驚きのあまりユノーは馬から落ちそうになる。 何より、こんなに接近されるまで気配を感じ取ることが出来なかった自分自身を、ユノーは恥ずかしく思った。 そんな自己嫌悪に捕らわれながらも、彼はようやく鞍の上に腰を落ち着ける。 すると、声をかけた当の本人はあっさりと馬首を並べる。 こちらを見つめるその鋭い視線を、ユノーは無言で受け止めた。「初陣で騎士待遇か。さすがは血筋がはっきりした貴族様だな。どこの馬の骨とも解らない俺とは大違いだ」 皮肉混じりに投げかけられた言葉を、ユノーは珍しく怒りを含んだ声で否定した。「そう言われても今回は仮待遇です。今は貴族籍から除名処分中なので、この戦いで死んででも軍功をあげなければ、本当に家名が取りつぶしになってしまいます」 身分を盾にして遊びに来たわけではない。 そう生真面目に答えるユノーに、横に並ぶその人は含み笑いで応じる。 更なる怒りを感じながら彼は隣に並ぶその人を注意深く観察した。 年の頃は、さして変わらないように見えた。 せいぜい一つか二つ違い、というところだろう。 けれど、その人が身にまとっている空気は、明らかに幾度も修羅場をくぐり抜けてきた人の……戦場に生きる人のそれだった。 それを裏付けるよ
この年、大陸統一歴一四八年は、戦で幕を開けた。 エドナのマケーネ大公配下ロンドベルト率いる北方方面駐留軍イング隊が、その駐屯地であるアレンタ平原を出、国境を接するルウツ領セナンへ攻撃を仕掛けた。 対するセナンの国境警備隊は、その黒一色の旗印を見て恐怖を覚え、一戦も交えることなく撤退してしまった。 それに呼応するようにエドナのアルタント大公は配下のシグル隊を、古都バドリナードにほど近いルウツ皇国領ルドラへ進軍させたのである。 古の都バドリナードは大帝ロジュア・ルウツが大陸統一の足がかりとした要地にして、現在はその大帝が眠る場所、言わば聖地である。 それを自らの手中に収め、優位に立つべくルウツ皇国とエドナの両大公家はその機会を虎視眈々とうかがい、牽制しあっていた。 このままでは、バドリナードはがいずれ二つの部隊から挟み撃ちされ、エドナの手に堕ちるかもしれない。 その事態を憂慮した宰相マリス侯は皇帝に対し出兵を進言した。 マリス侯を後見人として即位した病弱なルウツ皇帝メアリはその案を採った。 かくしてルドラへの出兵はなし崩しに決まった。 しかし、どの部隊を派兵するかでまた一騒動が起きた。 宰相マリス侯は、由緒ある五伯家のいずれかを、と提案した。 一方で皇帝の妹姫で、近衞と皇都の警備を担う『朱の隊』を預かるミレダ・ルウツが真っ向から反対した。 曰く、今必要なことは、権威や名誉ではなく確実に勝つという裏付けである、と。 皇国の現状を見ればそれは当然のことであるが、マリス侯は渋った。 それが犬猿の仲であるミレダの案であり、何よりマリス侯は『蒼の隊』その物を毛嫌いしていたからである。 だが自らも武人であり、しかも皇帝に連なるミレダの言葉に反論できる者はいなかった。 そこまでの命知らずは、存在しなかったのである。 こうして渋々ながらもマリス侯は蒼の隊を派兵することを了承した。 しかし宮廷でそんな裏事情があったなどと言うことを、最前線の人間は知る由もない。 ただ
本陣の天幕は、陣の中央にある。 一際大きな天幕の前で呼吸を整えてから、恐る恐るユノーは入口の幕を上げた。 広い内部には、ルドラ地方の地図が広げられており、事細かに敵の布陣状況が記入されている。 上座に座るセピアの髪の司令官は、面白くなさそうにそれを見つめていた。 申し訳なさそうに足を踏み入れ、邪魔をしないように細心の注意を払いながら最末席についたユノーには、全く興味がないようだった。 そして、各小隊長級以上の人々が三々五々入ってくる。 その度毎にユノーは一々立ち上がり、黙礼する。 それに気がついたシグマは、にやりと笑いながら親指を立ててそれに応じる。 共に入ってきたカイは、先程の話などまるでなかったかのようにいつもの穏やかな笑みを返してきた。 やがて全ての席が埋まる頃を見計らうかのように参謀長が姿を現し、それを合図に軍議は始まった。 まず発言したのは、最新の状況を実際に目にしてきた斥候隊長である。 押し殺したような声でぼそぼそと戦況が述べられ、その言葉に応じて地図に書かれた矢印は長く伸ばされる。 そして敵軍進路の延長線上には、古都バドリナードがあった。「直接バドリナードをおとそう、という訳か。確かにそれが一番手っ取り早いか」 面白くなさそうに言う司令官に、参謀長は顔を真っ赤にして怒鳴った。「そのように悠長なことを言っている場合ではありません! 一刻も早く物騒なエドナの逆賊共を……」「見る限り、相手の補給線はぎりぎりの所まで伸びている。周囲の村を二つ三つおさえれば、勝手に自滅してくれるだろう」「しかし、それでは時間がかかりすぎます! 陛下よりお預かりした貴重な兵員を、長期間危険にさらすような愚かな策は……」 立ち上がり、さらに激高する参謀長。
「汝に平安あれ」 先程見た光景と全く同じその言葉に、ユノーは思わず振り返った。 その視界に入ってきたのは、心ここにあらずと言うような表情を浮かべて起きあがろうとする上官の姿だった。「……師匠。……どうして……こちらに?」「どうしても何も、突然姿を消したのは、お前の方だろう。おかげで殿下はたいそうご立腹だ。しかもいらぬ手間を部下にかけさせるとは……」 珍しく戸惑った様な藍色の瞳を向けられて、けれどユノーは立ちすくみ、ややあって思わず数歩後ずさった。 そして、震える声でなんとか取り繕うとする。「も……申し訳ありません……。勝手に……お邪魔して……。あの……」 けれど、経験値ではユノーは司令官と比べると完全に劣る。 鋭い視線を投げかけられて、彼は完全に口ごもってしまった。「……ロンダート卿、何を見た?」 開戦の直前に投げかけられたのと、全く同じ質問である。 けれど、今度はユノーは返すべき言葉を持たなかった。 その様子に全てを理解したのだろう、シーリアスはわずかに吐息を漏らし、苦笑になりきらない表情を浮かべて見せた。「わかった。酒場の笑い話のきっかけぐらいにはなるだろう。……全部本当の事だから、気にするな」 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ユノーの涙が埃の積もった床に落ちた。「…&hellip
周囲は完全な暗闇に包まれていた。 申し訳程度に敷かれたぼろ布の上に横たえられているのは、先ほどまで鞭打たれていたあの少年である。 冷たい石に囲まれた狭い空間で、ぴくりとも動かない。 その場所を満たしているのは、もう何年も動いた形跡がない重苦しくじめじめとした空気と、少年の身体に刻まれた傷口から流れ落ちる血の匂いだった。 地下牢、という言葉が刹那ユノーの脳裏によぎった。 そして少年に向かい手を伸ばした瞬間、ユノーの思念は少年と同化していた。 何時ここに連れて来られたのかもわからない。いや、なぜこんなことになったのかもわからない。 ただ、全身の傷が脈打つように疼(うず)く。 傷は腫れ上がり熱を持ち、地下牢内の寒さを感じないほどだった。 時折天井から水滴がむき出しの背にしたたり落ちるたび、その痛みは激しくなる。 そして痛みに耐えかねて体を動かそうとすると、更なる激痛が襲いかかってくる。 叫び声を上げる力も失せ、ただ目を閉じ涙を流していたその時、闇の中に変化が起きた。 鉄格子のはまった扉の隙間から、明かりが漏れてくる。 同時に何者かが格子越しに中を確認しているらしい視線を感じた。 しばらくしてがちゃり、という重々しい音がした。 抵抗するかのような嫌な音を立てて扉が開き、ランプを手にした穏やかな風貌の武人が踏み込んできた。 その武人はゆっくりと近づき、用心深く身をかがめ、手をこちらに向けて差し伸べてくる。 逃げなければ。 何故そのように感じたのかすら解らない。 ただ咄嗟(とっさ)にそう思い、顔面近くにあった彼の指先に噛みついた。「大丈夫だ。私は助けに来たんだ……」 言いながら、武人は両の手をこちらに差し伸べる。 抱きかかえられそうになるところを無茶苦茶に暴れ、差し出された武人の手の甲を、近づいてくる頬を引っ掻く。 けれど、はめられた枷と繋がれた鎖が、この僅かな抵抗を試みるたびに確実に体力を奪っていく。 意味を成さない叫び声をあげながら、残された僅かな力で、這うように武人の手中から逃れようとする。 けれどその指先は、すぐに剥き出しの石壁にぶつかった。 そう、ここは『閉ざされた』空間なのだ。 何をされようとも、ここから逃れられないのは解っている。 何時しか額には武人の手がか
頭数合わせで皇帝主催の慰霊式に出席していたユノーは、式典が終わるなり聖堂から走るように退出した。 式に出席していた神官の中に、神官籍を持っているというあの人がいるのではないか。ならば、せめて無事帰還できた礼を伝えなければ。 そう思ってみたものの、聖堂の中では数え切れないほどの参加者に囲まれ、身動きが取れなかった。 加えて神官たちははるか前方の祭壇の周りにいたため、顔までははっきりわからない。 そこでユノーは出口付近で三々五々退出してくる神官たちからあの人を見つけようと思ったのだが、皆等しくフードを目深に被っているので、覗き込むわけにも行かない。 あきらめかけたその時、ユノーはあるものを感じた。 他でもない、じめじめとしたかび臭い空気……最終決戦の直前、司令官を起こしに行ったときに感じたあの空気だった。 吸い寄せられるようにユノーはその方向に歩を進める。 そして気が付くと、兵舎地区の一角に足を踏み入れていた。 個性のない家が建ち並ぶ、その片隅の一軒からそれは流れ出していた。 通りすがりの住人──恐らく衛兵の家族だろう──に、そこに誰が住んでいるのか、と彼は尋ねる。 すると、殆ど見かけたことはないが、という前置きの後で、あれは『無紋の勇者』の家だという答えが返ってきた。 嫌な予感がする。 いや、予感と言うにはその感覚は余りにも強すぎた。 閉ざされた扉の向こうからは、尋常ではない邪気を孕んだ空気が溢れてくる。 扉を叩くのももどかしく、ユノーは思い切って扉を開く。 かすかな邪気よけの香の残り香があるのだが、それはかび臭さに浸食されている。 その臭気に思わず口と鼻を抑え入口で立ち止まるユノーの視界に入ってきたのは、苦しげに床にうずくまるシーリアスの姿だった。「し、司令官殿! 閣下! いかがされましたか?」 叫びながら近づくユノーに、苦しげな息の中、だがはっきりとシーリアスは告げた。
皇帝の妹姫ミレダは、宮廷内に併設されている兵舎地区へと向かっていた。 ルドラで勝ち戦を納めた蒼の隊が皇都に帰還してから、行政府は戦死者に対する恩給や負傷者に対する補償金などの事務で手一杯の状況だった。 それらの決裁権を有するミレダは、あることを決定するため無理矢理時間を作ってここに来た。 今現在、行政府で問題になっている事案に対する、ある人物の『意見』を聞くために。 その人物が住む質素な家の前で彼女は立ち止まり、古びた扉を叩く。 それは来訪を告げるためではなくて、気まぐれな家主が在宅しているか不在かを確認するための行動だった。「開いてる。勝手に入ってくれ」 素っ気ない声が内側から返ってくる。どうやら家主は在宅のようだった。 礼儀の欠片すら感じられないその声に、だが気分を害するでもなくミレダは扉に手をかける。 扉が開くと同時に彼女の鼻を突いたのは、むせ返るような香木の焚かれる匂いだった。 邪気を遠ざけると言われるこの香は、神殿や聖堂ではそれこそ途切れることなく焚かれている物である。 そして戦士と神官という異なる二つの顔を持つこの家の主が戦場から戻るたび、まるで身体に染みついた血の匂いをうち消すかのように絶やすことがないことも、彼女は知っている。 そして戦で勝利を重ねるたび、一度に焚かれる香木の量が目に見えて増えていることに、彼女は一抹の不安を感じていた。「いい加減、この匂いは強すぎるんじゃないか? 何もここまでしなくても……」 言いながらミレダは後ろ手で扉を閉め、家の主に声をかける。 埃が積もった机の上には、司祭館の書庫から借りてきたと思しき分厚い教典が鎮座していた。 家主は来客に目もくれず、黙々と作業を続けながら先程同様の素っ気ない口調で答える。「……今回は色々面倒なことがあって少しばかり厳しかった
予想外の出来事が重なったものの、今回も『蒼の隊』はその不敗神話を裏切ることはなかった。 けれど、戻ってくる全軍を迎える後衛のシグマは、帰還してくる隊列の中に友人の姿を見つけることが出来ずにいた。 不安げに表情を曇らせ何か言いたげに見やってくるシグマに、司令官は眉一つ動かさずに告げる。 参謀長閣下とイータ・カイ卿は、名誉の戦死を遂げた、と。 本当なのか、とシグマは青ざめた顔をして下馬するユノーに胸ぐらを掴まんとする勢いで詰め寄る。けれど、ユノーは返す言葉がなかった。 カイ本人の名誉を守るため、そして友人を思うシグマのためにも、真実は語るべきではない、そう判断したからだ。 その後、わかっている限りの戦死者の名が告げられていく。 シグマ以外にも、それまで幾度となく戦場を共にしてきた戦友を失った者達の嗚咽が、あちらこちらから聞こえてくる。 中には膝を付き拳を大地に打ち付けながら号泣する者もいる。 それらの姿を目にしたユノーは、自分が生き残った……生き残ってしまったということをようやく思い知らされたのだった。 ※ そして、何事もなかったかのように夜が訪れた。 心配された新たな敵から追撃が行われる気配もない。どうやら先方もこれ以上の戦闘は無益と判断したのだろう。 おかげで、蒼の隊は久しぶりに静かな時を迎えることができた。 陣のあちらこちらで生き残った者達が、ささやかな祝杯をあげている。 やがて闇が深くなっていくにつれさすがに彼らも眠りにつき、次第に周囲は完全な静寂に包まれる。 その耳が痛くなるような音のない世界で、心身ともに疲れ切っているにもかかわらず、ユノーはどうしても寝付くことができずにいた。 目を閉じると、戦場で見た惨状がまぶたの裏に浮かび上がってくるのである。 敵味方の無数の躯(むくろ)がゆらゆらと起き上がり、恨みをはらんだ目で睨みつけながら、こちらへ来いとでも言わんばかりに手招いているような気がしてならない。 そんな彼の耳に、歌うような不思議な声が聞こえてきた。
『エドナの死神』と恐れられるロンドベルト・トーループが配下の部隊を率いルドラに到達した時、戦は既に終結しようとしていた。 どう見ても敵軍勝利という、予想通りの状態で。「いかがなさいますか? 追撃を仕掛けてはどうでしょう」 背後から参謀に声をかけられて、しかしロンドベルトは目を伏せ首を左右に振った。「今さら追いかけても、時間の無駄だ。ただでさえこちらの補給線は限界まで伸びている」 深追いしても袋叩きに合うだけだろう。 そうつぶやくと、ロンドベルトは不服そうな参謀を無視して、右手に控える女性に声をかける。「副官、全軍に伝達。負傷者をできる限り収容した後速やかに撤退する」 かしこまりました、と彼女が馬首を返そうとした時だった。 傷だらけの伝令が一人、彼らの前に文字通り転がり込んてきた。「イング隊のロンドベルト・トーループ将軍とお見受けいたします。我が隊の司令官がお会いしたいと申しております」 突然のことに、副官と参謀は等しく司令官をみつめる。 一方ロンドベルトはその漆黒の瞳をわずかに細め、低い声で伝令に問うた。「失礼ながらお尋ねする。シグル隊の司令官……バウワー殿はご存命なのか?」 すると、伝令はその言葉に打たれたように深々と頭を垂れる。「は、はい。恐れながら本陣にお運びいただきたいと……」 そうか、とつぶやくと、ロンドベルトは吐息を漏らす。 そして今度は左手後方に控える参
どす黒い思念が、ユノーを取り巻く空間に先程より強く流れ込んでくる。 次の瞬間、彼の視界の端で何かが動いた。 何事かと向き直った瞬間、参謀長を取り巻く一角となっていたカイが手にした剣を閃かせ虜となっているその人を切り伏せた。 と同時に、その勢いを保ったままシーリアスに向かい突っ込んでいく。 異変に気付いたシーリアスが振り向いた時には、カイは絶叫をあげ大上段から剣を振り下ろそうとしていた。 間に合わない。 その場にいた誰もが、等しく目を覆う。 が、信じられないことが起きていた。 鈍い音と共にカイの剣の先端部は何かにぶつかったかの様に折れて弾け飛び、草むらの上に突き刺さった。 強固なまでのユノーの防御が、皮肉にもその術を教えた人からの攻撃を防いだのだ。「何で……何で貴方が、こんなことを……」 まだ信じられない、と泣きそうになりながら問うユノーに、カイは剣を引き寂しげに笑った。「やっぱり防御止まりにしておいて正解でしたね、司令官殿。こんなに不安定な精神状態じゃ、何が起こるか解らない」 最後まで貴方にはかないませんでした、とカイは自嘲気味に笑う。 そして、ユノーの方を見、彼は寂しげに言った。「……そのうち、君にも解るときが来るよ。うだつの上がらない下級貴族の惨めさがね」 言い終えると同時に、カイは先端が折れた白刃を自らの首筋にあてる。「……君は、自分のようにはなるなよ」 そして次の瞬間、カイは剣を一息に引いた。 止める間すらなかった。 その傷口から噴水のように鮮血があふれる。 即死であろう事は間違いなかった。 自らが作り上げた深紅の沼の中に、事切れたカイは馬の背から落下する。 その顔には何故か満足げな微笑が浮かんでいた。 その様子を、凍り付いたようにユノーは見つめていることしか出来なかった。 手を差し伸べることも、泣き叫ぶことも出来ぬままに。「……安心しろ。お前の責任じゃない。奴が勝手に選んだ道だ」 背後から、いつも以上に突き放すようなシーリアスの声がする。 それが恐らく自分の心情を思っての精一杯の慰めであることを、ユノーは理解していた。 いや、理解しようとしていた。 だが、結果的に自分がカイを殺してしまったのではないかという考えがよぎる。 けれど、もしあの時、自分が飛
ついにここまで来てしまった。 もう逃げられない。 ユノーが覚悟を決めたときだった。 日の光に、シーリアスの宝剣が閃く。 射すくめられたようにユノーは固唾を呑んだ。「総員、抜刀! 突撃開始!」 その声と同時に、蒼の隊精鋭部隊は急斜面を駆け下り、修羅場と化した戦場に飛び込んでいく。「ぼさっとするな!」 いつも以上に鋭いシーリアスの声に、ユノーは慌てて敵の攻撃をなぎ払う。 一方で、シーリアスが手にしている宝剣から一陣の風が起こるたび、敵はばたばたと落馬していく。──暴走させれば敵も味方も仲良くあの世行きだ……── 司令官が常々口にしていた言葉の真意を、ユノーは身をもって知った。 確かにこれは、付け焼き刃の短時間講習で習得し実践するのは無理だ。 一つの攻撃を受け流してほっとするの持つかの間、次の敵騎兵が躍りかかってくる。「貴官はついてきて、敵の攻撃に対抗する『壁』を作るのに専念しろ」 混乱の中であるにもかかわらず、シーリアスの声は確実にユノーに届いた。 慌てて顔を上げたその視界の先で、一人の敵騎兵が胸から血を吹き上げて落馬する。 乱戦は続いた。 青々と茂っていた草原は、いつしか流れる血によってところどころどす黒く染まっている。 あちらこちらで剣と剣がぶつかる火花が散り、放たれた矢が空を行き交う。 斬られた者は自ら作り出した赤い沼に沈み、矢にあたった者はその傍らに落ちる。 敵味方の入り乱れるその戦場で、シーリアスは常に陣中にあり、返り血で全身を深紅に染めていた。 ユノーにとって意外だったのは、色を失った参謀長だった。 真っ先に切り伏せられると思っていたその人は、巧みにシーリアスとユノーの間に割ってはいることにより、自らは何もすることなくどうにかこの戦場を泳いでいる。 だが、この乱戦の中、その人を気にとめる者は誰一人いなかった。 誰もが生きるために、敵を屠(ほふ)っていたからである。 いつし
居並ぶ将兵の前に姿を現した『無紋の勇者』は、おもむろに口を開いた。「最衛隊として、五百を本人に残す。負傷者は可能な限り収容しここに運べ。指揮はシグマに任せる」 この状況では妥当なその言葉に、立場の異なる二人の顔に図らずも全く同じ失望の表情が浮かぶ。「大将、それはないよ! せっかくここまで来たのに、ひと暴れもできないなんて」「後衛の守りは、是非私に…」 ほぼ同時に口を開くシグマと参謀長。 が、それを予想していたのか司令官は表情を動かすことなく答える。「ここは我々の最後の砦だ。我々に万一の事が起きた場合は、それなりの経験がある者に退却の指揮を執って貰いたいからこそシグマに任せる。参謀長たるあなたには、戦場で若輩な俺を補佐して欲しい」 その人にはしては、珍しく正論である。 確かに常勝と呼ばれている蒼の隊ではあるが、それが今回もそうであるとは限らない。 蒼白になる参謀長の隣でむくれているシグマの肩を、カイがなだめるように叩いた。「まあ、その分自分が叩きのめしてくるからさ。少しは我慢しろよ」 長年の戦友にたしなめられてもなお、シグマは納得がいかないとでも言うように頬を膨らませて腕を組む。 その時、最前線からの伝令が駆け込んできた。「第二部隊、突入しました! 現在混戦状態となっております!」 無言で頷くと、『無紋の勇者』と呼ばれているその人は高らかに命じた。「総員騎乗! 友軍と合流する!」 ガシャガシャと金属がぶつかり合う音が響く。 それに遅れまいとしてユノーは慌てて鐙(あぶみ)に足をかけ、鞍の上に自らを引き上げる。 既に馬上の人となっていた司令官は宝剣を頭上にかざす。「”見えざるもの”の加護よ、我らが剣に宿り賜え!」 威風堂々としたその姿と声に、力強い鬨(とき)の声がそれに応じる。 最高潮に達しようとしていた戦意に、ユノーははからずも身震いする。 シーリアスは、邪気を切り払うかのように掲げた宝剣を水平