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─3─殿下

Author: 内藤晴人
last update Last Updated: 2025-03-18 20:30:00

 突然のすごい音に、ボクは跳び跳ねた。

 そして、ぼさっと柔らかい寝台に落ちる。

 鐘の音がこんなに大きく聞こえるなんて……そうか、ここはいつもの街じゃなかったんだっけ。

 気が付いて、ボクは周囲を見回した。

 その耳に、彼の声が飛び込んできた。

「目が覚めたのか?」

 見ると、テーブルの脇に座り頬杖をついている彼がいた。

 『似合わない』と自分でも言っていた神官の服を着て。

 そして、テーブルの上には、何だか良く解らない分厚い本が開いた状態で置いてあった。

 寝ていたとはいえ、彼が起きたのに気がつかなかったなんて。

 こいつ、一体何なんだ?

 驚くボクに、彼は微笑を浮かべながら床を指差した。

 そこには昨日同様、彼が残してきたとおぼしき食事が置いてある。

 すとん、と寝台から降り立ち、ボクはそれを食べ始める。

 彼はしばらくそんなボクを見ていたが、やがてあの分厚い本を読み始めた。

 すっかり食べ終わってボクが毛繕いを始めると、彼は静かに立ち上がる。

 食べ物が置かれていた布を拾い上げ、丁寧に折り畳むとそれを懐へしまいこんだ。

 でも、いつも残してくるなら、君の分が足りなくなるんじゃないの?

 鳴きながら見上げるボクの頭を、彼はくしゃくしゃとかき回した。

 せっかくきれいにしたのに、台無しじゃないか。

 抗議の声を上げるボクに、彼は笑った。

「本当によく食べるな」

 大きなお世話だよ。

 再び鳴くボクに背を向けて、彼はテーブルに戻ると、分厚い本を読み始める。

 一体何を読んでいるのかな。

 興味を覚えて、ボクは使われていない椅子の上にに飛び乗り、そこからテーブルの上に飛び移る。

「これは、『祈りの書』。一応、修行しないといけないから」

 ボクの視線に気が付いた彼は、本から目を離すことなく言った。

 恐る恐る、ボクも眺めてみる。

 見開きのページにはびっしりと蛇かミミズがのったくったような模様が印刷されている。

 いや、模様じゃなくて文字かな?

 どちらにしても、ボクには意味が解らないから同じことだ。

 テーブルの上で伸びをして、そのまま丸くなる。

 静かな室内には、彼がページをめくる音だけが響く。

 どのくらい時間が経っただろうか。

 あまりの静かさに、ボクが眠ってしまいそうになった頃、不意に扉を叩く音がした。

 何事か?

 あわててボクは顔を上げて、そちらを見やる。

 一方彼は、読みさしのページにしおりを挟んで本を閉じると、扉の方へ歩みよった。

 彼は短く返事をして扉を開ける。

 そこに立っていたのは、『導師さま』だった。

「殿下のお使いがお見えよ。すぐにお行きなさい」

「解りました」

 やはり短く返事をすると、彼は後ろ手で扉を閉めた。

 そのままボクの前を素通りし、奥の部屋へと消える。

 再び現れた彼は昨日街で着ていたような腰丈の上衣を着て、左肩には長い剣を背負っていた。

 君、神官じゃなかったの? それに、殿下って、偉い人なんじゃないの?

 瞬くボクに向かって、彼は少し複雑な表情を浮かべていた。

「……一緒にくるか?」

 もちろん、行くに決まってるさ。

 ボクはテーブルの上からすとん、と飛び降りた。

 そして、とてとてと彼の足元にじゃれついた。

「解った。じゃ、迷子になるなよ」

 言いながら彼は扉を開ける。

 同時にまぶしい光が目に入ってきた。

 昨日の雨が嘘のような良い天気だった。

 『孤児院』から出ると、彼はすたすたと歩き出す。

 聖堂の前を横切り、緑の庭を通り抜ける。

 一体どこへ向かっているんだろう。

 でも、周囲を見回していると本当に迷子になりそうなので、ボクは必死に彼の後を追った。

 そして、急に視界が開けた。

 しっとりと濡れた土の広場が広がっている。

「あそこにいるのが、『殿下』。俺の恩人。一応」

 彼の指差した先には、一人の少女が立っていた。

「遅いじゃないか! 何をしていたんだ?」

 ボクらの姿を認めると、『殿下』は機嫌悪そうにそう言った。

 回りにいるお着きの大人達はみんなその声に小さくなっているのに、彼はまったく動じない。

「遅いもなにも……。今日は師匠は来ないんだろ? 準備していなかったから仕方ない」

 ……ちょっと待ってよ。

 『殿下』でしかも『恩人』でしょ? そんな言葉使いでいいの?

 驚いて顔を上げるボクの視線と、殿下のそれとがぶつかった。

 赤茶色の髪と、澄んだ青緑色の瞳を持った、なかなかの美少女だ。

 その殿下は、大きな目でボクを見つめながら言った。

「何だ、これは?」

「何って……見れば解るだろ? どこからどう見ても、猫」

「いや、そうじゃなくて」

 言いながら殿下は、ボクと彼とをまじまじと見比べた。

「……お前、こんな趣味、あったのか?」

「さあ、な」

 ぶっきらぼうに言い放つと、彼は背負っていた剣を下ろした。

 がちゃり、と、重い音が響く。

「時間が無いんだろ? 早く剣を抜いたらどうだ?」

 その言葉に殿下は納得がいかないようだったが、深々とため息をつくと、ボクに向かってこう言った。

「お前も大変な奴に拾われたな。苦労するぞ」

 そしてボクの頭を一撫ですると、殿下はおもむろに剣を抜いた。

 剣と剣とがぶつかるのを、ボクは初めて見た。

 街の子どものチャンバラごっこ程度の物かと思っていたのだけれど、大違いだった。

 鉄と鉄とがぶつかる激しい音。

 そして飛び散る火花。

 その激しさに、ボクは何度か思わず飛び上がりそうになった。

 お着きの人達の噂話を引っくるめて解ったことは、ここは『練兵場』という所であること。

 殿下は皇帝の第二皇女で、かなり跳ね返りのお転婆姫だということ。

 二人の剣の先生は同じ人であること。

 そして、剣を習い始めたのは、彼の方が後であること。

 けれど、端から見ても剣の腕は殿下よりも彼の方が上のように見える。

 がちん。

 鈍い音がした。

 彼が殿下の剣をなぎ払ったのだ。

 取り落とした剣を拾おうとする殿下の背に、彼の無感動な声が投げ掛けられる。

「……いい加減、これくらいで良いだろ? 今日はもう……」

「嫌だ! お前から一本取るまで……」

「……師匠から怒鳴られるのは、俺なんだぞ」

 あきらめろ、とでも言うように彼は剣をひく。

 一方殿下はその場に座り込み、泣きじゃくり始めた。

 困ったように立ち尽くす彼と、お着きの大人達。

 どうやら、ボクの出番らしい。

 引き上げてくる彼と入れ違いに、ボクはとてとてと殿下に歩みよる。

 そして、涙に濡れたその頬をぺろり、となめる。

 同時に正午を告げる聖堂の鐘が、高々と鳴り響いた。

 そんなこんなあるけど、孤児院での生活はおおむね平和だった。

 『祈りの書』を黙読する彼の足元で丸まっていたり、子ども達にもみくちゃにされたり、彼の剣の稽古を遠巻きに眺めたり……。

 そして、彼はいつしか少年から青年へと成長していた。

 小柄だった身長もいつしか殿下よりも頭一つ半くらい高くなった。

 ある日のこと、彼の部屋を一人の女性が訪ねてきた。

 穏やかな微笑みを浮かべたその人を見るなり、彼の表情が一瞬強ばった。

 殿下に怒鳴られても眉一つ動かさないのに。

 いつものごとく、部屋の片隅に丸まって、ボクは耳をそばだてる。

 が、彼はつかつかとボクに歩みより抱き上げると、有無を言わさず部屋の外へ放り出し、荒々しく扉を閉めた。

 一体どういうことなのだろう。

 後ろ足で立ち上がり、ボクはかりかりと扉に爪をたてる。

 室内からは二人が何か話している声が聞こえるのだが、その内容までは解らない。

 やがて、静かに扉が開いた。

 出てきた女性は、わずかに腰をかがめボクの頭を優しく撫でながら言った。

「あの子は大変な選択をしてしまったけれど……。あなたもあの子を支えてあげてちょうだいね」

 支える? どういうこと?

 疑問を抱きながら、ボクは室内に滑り込む。

 テーブルに腰をかけた彼は、いつになく厳しい表情を浮かべていた。

 そして一言、言った。

 ここを出ていく、と。

「俺は、もう子どもじゃないから、孤児院にはいられない。どうやら神官の適正も無いみたいだから、ここを出ていく」

 出ていくって……。

 でも、一体どこへ行くのさ?

 そう一声鳴くボクの目の前に、彼はひざまずく。

 夜空の色をした瞳は、やっぱりどこか涙をこらえているようだった。

「猊下のお名前を頂いたんだ。……武官として、殿下を守る」

 猊下って、さっきの女の人?

 首をかしげるボクに、彼は柔らかく笑った。

 こんな彼の表情を見るのは、初めてだった。

 彼はボクの背を撫でながら、さらに続ける。

「大司祭猊下の『息子』として一軍を率いる将になる。前線に引っ張られることになるけれど、これ以外に仕方ないんだ」

 前線ってことは、戦場に出るってことじゃないか! それじゃあ……。

「大丈夫。そう簡単には死なない。でも、お前はどうする?」

 このまま孤児院に残ってもいいんだぞ。

 言いながら彼は立ち上がる。

 その後ろ姿は、あまりにも孤独で寂しげだった。

 一緒に行くよ。だって、猊下に頼まれたんだから。

 思わずボクは駆け寄り、彼の足元にじゃれついた。

 しばらく、彼はボクを見つめていたけれど、すい、とボクを抱き上げる。

 そして、ボクの目を見ながら、言った。

「……面倒見るって、約束したんだっけ……」

 泣き笑いのような表情を浮かべ、彼はボクの頭を少し乱暴にかき回した。

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     息子や娘という存在は、無条件に愛せるものだ。親にとって自らの血を分けた存在であるならば、なおのことだ。 自分は、ずっとそう思って疑わなかった。 けれど、実際自分が親という立場になってみると、その考えは単なる理想論に過ぎない、そう思い知らされたのである。 自分はこの国ではありふれた中流の武人の家に生まれた。なんの疑いもなくその職業を継ぎ、戦場ではそこそこ武勲を上げた。その結果かどうかはわからないが、縁あって上官の息女を妻として迎えることとなった。 初めて会った上官の息女は、無骨で無愛想な上官に似ても似つかないほどの美しく優しい女性で、特につややかな黒い髪と瞳が魅力的な人だった。 はじめのうちこそぎごちない共同生活を送っていた自分たちではあったが、日々を共に過ごすうち自然と愛情が芽生え、それは小さな形になった。 けれど愛情の結晶が息子という形でこの世に生まれ落ちた瞬間、妻はそれと引き換えにあっけなくこの世を去った。 子を産むという行為は、女性にとっては命がけのことだ。 そう頭では理解していたつもりではいたのだが、その事実を目の前に突きつけられた自分は、泣きわめく息子と冷たくなっていく妻を前にして呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 けれど、武人という立場上、戦乱が続くこのご時世では妻の死を悲しんでばかりはいられない。 自分は戦のため家をあけることが多く、息子の世話は信頼の置ける乳母や召使いに任せ切りだった。 そして、家に戻っても何かと理由をつけ、自分は息子と向かい合おうとはしなかった。 その理由は、息子の容姿にあった。 黒い髪に黒い瞳を持つ息子の容姿は、失った妻を彷彿とさせ、なんとも言えない気分になる。 愛憎入り混じった感情、そう言ってしまえば簡単だが、そう単純なものではない。 だが下手をすると、自分はふつふつと湧いてくる複雑な感情から息子を手にかけてしまうかもしれない。 それが一番恐ろしく、自分は息子に会わないようなしていたのである。 そんなある日、戦から開放され自室で酒をあおっていた自分の

  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─30─ 旅立ち

    「……本当に、行くつもりなの?」 慈愛に満ちた大司祭の茶色の瞳は、卓を挟んで目の前に座す最愛の『息子』を不安げに見つめている。「ようやく、続けていた書写が終わりました。聖地リンピアスへ納めるならば、冬季の休戦期間に入る今を置いて他にはない。そう思います」 常の如く感情が全く感じられない声が、それに答える。 下級神官の長衣をまとった彼は、だが今日はその髪を無造作に束ねていた。 言葉もなく見つめてくる大司祭に、彼はさらに続ける。「確かに、自分が犯してしまったこと、そして忘れ難い過去の事実は、記録上抹消されたことですし、あくまでも非公式な物ですから、高官達も何も言えないとはわかっています。ですが……」 一端言葉を切り、自分を見つめる『母』の視線から逃れるように、彼はうつむく。「自分について公文書に記載されている事柄は、それこそ他者の血で塗り固められています。それでは……」 あの方のそばにいる資格はないとでも言いたげに唇を噛む彼に向かい、大司祭は諭すように言う。「……休戦期間だからこそ、内政は混乱を極めるでしょう。そんな時だからこそ誰かが殿下をお守りしなければいけなくはないくて?」「血と汚物にまみれた今の自分では、それに相応しくはありません」 せめてしかるべき地位を、とほとんど即答と言って良い速さで戻ってきたその言葉に、カザリン=ナロードはようやく折れた。どうやらその決意は固いらしい。 困ったような表情を浮かべながら、彼女は用意されていた書類を卓上に置いた。 それはルウツ大司祭の名で記された、正式な聖地への通行証だった。 だが、そこに記されている名は、『無紋の勇者』と畏れられている彼のそれではなかった。 前触れもなく失われてしまった『過去』に彼を繋ぎ止める、唯一のそれだった。「どうやら、決心は変えられないようね……。でもこれだけは約束してちょうだい。必ず帰ってくると」

  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─29─ 真実

     雑草の上に、血の飛沫が舞う。緑の草むらに真紅の雫(しずく)がこぼれ落ちる。 刃を紅に染めた短剣が、やや遅れてその上に落ちた。「どうして、止めたんですか? 僕は貴方にとっては、恨んでも恨みきれない、ご両親の仇の子なんですよ?」 短剣を払いのけられると同時に、後方へと突き飛ばされたユノーは、体勢を立て直しながら言った。 その視線の先には、短剣をなぎ払った左腕から血を流すシーリアスが、傷口を押さえ草むらにうずくまっている。 長い前髪に阻まれて、どんな表情をしているのかは、うかがい知ることが出来なかった。「だから、貴方は『寂しい』方だったんですね。……僕と違って、声を上げて泣くことも許されなくて。一人で、戦場を巡って……」「……違う……」「同じ事です! 同じ罪を僕に押しつけて、貴方は一人で逃げるんですか? それでは……それでは僕は、あなたを助けようとした父に顔向けが出来ません」 返答は、無い。 立ち上がったユノーは、雑草の上に落ちた短剣を拾い上げ、手巾で丁寧に血糊を拭うと元通り鞘に収めた。 そして、身じろぎもせずうずくまるシーリアスに歩み寄った。「お返しします……。お父上の形見なら、大切な物でしょうから……」「……た、と……」「え?」 聞きとがめ、ユノーは首をかしげる。 その時になって初めて、ユノーは『無紋の勇者』と敵味方から畏れられているその人が、泣いていることに気が付いた。 低いつぶやきが、再びその口から漏れる。「君が死ななくて良かった、と……貴官の御父君の、最期の言葉だ……」 息を飲むユノーを気にするでもなく、懺悔の告白にも似た言葉は、更に続いた。「その瞬間、こちらに向け

  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─28─ 事実

     そして、夜が明けた。 常ならば父や母の好物や花を手に、人目を避けるように家を出て墓参をしていた、父の命日が来た。 ようやくその無念を晴らすことができた、騎士籍を取り戻すことができた。そう父母に伝えられる日が。 が、ユノーはなぜかよからぬ胸騒ぎを感じていた。 適当な口実で不審がる祖母をはぐらかし、一足早く家を出た。 まだほとんどの店が鎧戸(よろいど)を閉めていて人通りがまったく無い街を、一路墓地へと向かい走る。 開門直後の入口は、既に先客がいたのか、僅かに開いていた。 さらに嫌な予感がした。 ユノーは思い鉄製の扉を押し開く。 墓地に溜まる邪気が街に流れ込むのを防ぐ結界でもある扉を通り抜けた途端、ユノーはある物を感じた。 押さえ込まれながらも溢れ出ようとする哀しい『力』の波動。 これと全く同じ物を、ユノーは以前ごく最近感じたことがある。 それは忘れもしない、ルドラの最終決戦の後……。 なるべく自分の気配を消しながら、ユノーはその『力』の波動が来る方向へ足を向ける。 記憶が確かであれば、滅多に足を運ぶ人もいない区域──皇帝に対する逆賊者をまとめて埋めている場所から流れてきている。 苔むした道を歩くユノーの足は僅かに震えていた。 鬱蒼(うっそう)と茂っていた木々が次第にまばらになる。 その木々の中、申し訳程度に整地された草むらに、やはり申し訳程度の粗末な石塔が建っている。 その前で祈る人の姿が見えた。 無造作に束ねられたセピアの髪が、風に揺れている。 その人が祈り終えたとき、だが現れるはずのあの光の群は、浮かび上がっては来なかった。 信じがたい現実。 言葉もなくユノーは木の幹にもたれかかる。 静けさの中、ユノーが良く知るその人の声が、いつもと同じく無感動に告げる。「罪人の魂が浮かばれないと言う伝承は本当らしいな。ここで何度祈りを捧げてみても、誰も天に呼ばれて行こうとはしない」 すでにユノーの存在に気付いていたのだろう。 

  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─27─ 善意と悪意

     完全に女帝とそのお付き達の気配が無くなってから、ミレダは先程とは異なる口調で話し出す。「これからの話は、身分の差などは関係なく、対等な人間として聴いて欲しい。そして、一切の他言は無用だ」 何事かと思いつつもユノーはうなずく。  それを確認してから、組んだ足に行儀悪く頬杖をつきながらミレダは問うた。「お前は、この度めでたく名誉を復した訳だが、それで今まで思い抱いていた無念は晴れたか?」「……失礼ながら、どうしてそのようなことを、小官にお尋ねになるのですか?」 沈黙。  ややためらってから、ミレダは重い口を開いた。「私には、戦友と言える奴がいる。奴は昔、無意識のうちにとある罪を犯した。以来奴は、それに縛られて生きている。罪を償うためだけに生きてきたと言っていいだろうな……」 遠くを見つめるようなミレダの宝石のような青緑色の瞳に、ユノーは魅入っていた。  どこかで、同じ様なことを聞いた気がする。そんなことを思うユノー。  それを意に介することなく、ミレダの言葉は続く。「それでも……私にはもう、奴は充分苦しみ足掻き抜いたように見える。けれど私が何と言っても、奴本人が納得しない。まるでさらなる辛い道を望んでいるかのようで……」「……殿下は、その方を余程大切に思われているのですね」 正直なユノーの言葉に、ミレダの頬に僅かに朱がさす。  不相応なことを口にしてしまった。そう気付きあわてて謝罪しようとするユノーを、ミレダは手を挙げて制した。「いや、身分関係なく人間同士として聴いて欲しいと言ったのは私の方だ。謝ることはない。……だから私も正直に思っていることを話そう。私は、奴に死んでは欲しくない。……果たして、罪とは一体どういう物なのか……。一度犯してしまったら、もう絶対にうち消すことは出来ないのかと……。そこで、お前の意見が聞きたいんだ」 ようやく納得して、ユノーはそれまで渦巻いていた考えを整理する。  そして静かに切り出した。「では、御無礼と承知で申し上げます。……罪とは記録上からは消せるものですが、記憶からは消えないものではないかと思います」 続けろ、と言うようにミレダは青緑色の瞳をユノーに向けるわずかにうなずく。  それを確認してから、ユノーはやや震える声で言葉を継いだ。「自分のことを引き合いに出すのも気が引けるのですが……ロンダ

  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─26─ 謁見

     後味の悪い慰霊式の日に周囲で起きた様々な出来事に未だ混乱しているユノーとは裏腹に、時間はことのほか静かに、そしていつも通りに流れていた。 そして気が付けば、忘れるはずもない父の命日はいつの間にか目の前に迫っていた。 せめて墓前に良い報告……騎士籍を取り戻したとの報告ができれば、そう思っていたのだが、未だその報せはない。 やはり生きて戻ってきては駄目だったのか、そうユノーは諦めかけていた。 だが予想に反して、ロンダート家に宮廷からの使者が訪れたのである。 明日参内するように、との命令を携えて。 その見計らったかのような事の展開に多少の疑問を抱きながら、ユノーは慰霊祭の時身につけていた礼装を再び引っぱり出した。 そして、翌日。 果たして迎えの馬車が、ちっぽけな家の前に現れた。 街の目抜き通りを抜け、宮殿の正門を馬車は粛々(しゅくしゅく)と走り抜ける。 皇宮の敷地にはいること数十分、手入れの行き届いた庭園の緑を眺めるユノーは、そのまぶしさに目を細めた。 やがて馬車は謁見の間がある建物に横付けされる。 扉を開ける御者に会釈をしてから、ユノーは案内役の侍従に従い、謁見の間へと向かう。 初めて足を踏み入れる選ばれた者達しか立ち入ることが許されぬ空間は、一目見てそれと解る高価な絵画や彫刻などで埋め尽くされている。 やがてその先に、一際大きな両開きの扉が見えた。 脇に控える者が左右からそれを開くと、侍従は脇に退き、こちらでお待ちください、とユノーに告げて頭を垂れた。 会釈を返し、ユノーは赤い絨毯の上に足を踏み出した。 背後で重々しい音と共に扉が閉まる。 高い天井とそれを支える柱には、細かい彫刻と彫金が施されており、明かり取りの窓から射す光が一段高いところにある玉座の上に落ちる。 さすがに貴族とはいえ末端の騎士との謁見とあって、その前には薄絹の幕が貼られ、彼のいる『世界』とは隔てられていた。 いや、ユノーような最末端なものに対しては代理のものが現れて、儀礼的に辞令を伝えて終わるはずである。

  • 名も無き星たちは今日も輝く   ─25─ 一抹の不安

    「まったく、お前という奴は今までどこで何をしていたんだ?」 後宮内のテラスで遅れてやって来た師匠と友人の姿を認めるなり、ミレダの口からは予想通りの怒声がついて出る。 彼女のかたわらには卓がしつらえてあり、その上には茶器や菓子が並べられている。そして、一足先に訪れていたカザリン=ナロードが、やや眉根をよせその様子をみつめていた。 慰霊式の後、お前が無事に帰還したことを慰労してやるからささやかながら茶会を開いてやる。そう提案したのはミレダだった。 公的ではないから強制力もないのだが、皇帝の妹姫というミレダの身分を考えると、それは半ば命令と言っても良い誘いである。 いわば主賓であるにもかかわらず遅れてきたシーリアスは、どこか面白くなさそうに主催者の苛立ちを真正面から受け止める。 だが、いつもとは異なりミレダからわずかに視線をそらし、やや離れたところに立ち尽くしたままそこから動こうとしない。 全てを押し殺したような表情から、カザリン=ナロードは何かを感じとったようだった。 不安げに眉根を寄せ、大司祭は静かに口を開く。「……何か、あったのではないの?」 何気なくかけられたその言葉に、ことの顛末を説明しようとしていたジョセが一瞬固まる。 けれど、問われた側はそんなに大騒ぎするほどのことではないとでも言うように、いつもと同様感情のない声で答えた。「何故自分がこの立場にいるのか……猊下や殿下のお側にいるきっかけを、ある人物に見られただけです」 わずかに目を伏せ吐息を漏らすシーリアス。青ざめた顔でカザリン=ナロードはジョセに向き直ると、ジョセは沈痛な表情を浮かべ一つうなずいた。 ただ一人話が見えないミレダは、少しいらだったようにシーリアスに鋭い視線を突き刺す。そして、表情同然の鋭い声でまくし立てた。「だから一体、何がどうしたんだ! 私にわかるように説明しろ!」「宰相の飼い犬に力づくで嬲られている所を、ロンダート卿に見られただけだ」 まるで他人事のように言うその人に、ミレダは返す言葉も

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