ヴェルミリオン帝国の第七監獄《グラットリエ》――その地下には、生きた魔物を解体・調理する異端の調理場がある。そこで終身刑の囚人であり調理人のエルドリス・カンザラが演者を務めるのは、生放送料理番組『30分クッキング』。彼女は魔物を生かしたまま切り開き、極上の料理へと変えていく。調理助手《アシスタント》兼監督官として配属された新米役人イオルク・ネイファは、その狂気に満ちた調理を前に戦慄するが、彼女を止めることはできない。 番組は今日も進行する。血と痛みの先にある、一皿のために。
Lihat lebih banyak「んふふっふ~、んふふ♪ んふふっふ~、んふふ♪」
ここはヴェルミリオン帝国、第七監獄《グラットリエ》。
地下調理場からは今日も、彼女の鼻歌が聞こえてくる。
30分クッキングのお時間です。
◆
「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」
地下調理場の無機質な空間に、調理アシスタントの男の、張りのある声が響いた。
魔導カメラが赤く灯り、その様子を生放送している。
「本日の調理人は、エルドリス・カンザラ先生です」
アシスタントの横に立つのは、黒髪を纏《まと》めた長身の女。雪色の肌と、凍土の奥で精製されたかのような混じり気のない碧眼。恐ろしく静謐な美貌がカメラ映えする。二人は揃いの黒革のエプロンを身に着けていた。
「そして本日の食材は、ラグド・トロール。人型のC級魔物です」
アシスタントが背後を指すと、壁に磔《はりつけ》にされた魔物が暴れ出した。
ラグド・トロール――全長二メートルほどの人型の魔物。
人間と似た腕と脚を持ち、顔は獣じみた特徴をしているが、瞳には理性の名残が宿っていた。自由を奪われたそれは、低く呻き声を上げながらこちらを睨んでいる。
「作るのは、ラグド・トロールの香草焼きです。では先生、お願いします」
エルドリス、と紹介された女がここで初めて口を開く。
「ラグド・トロールの特徴は脂身の芳醇な香りだが、適切に下処理しないと臭みが残り、脂の香りを妨げてしまう。ゆえに、まずは内臓を手早く抜く」
カメラが寄り、エルドリスが長ナイフを手に取る。
怯えたように吠えた魔物に彼女はすっと手を触れた。
「では、開いていく」
刃《やいば》が魔物の硬い皮膚に沈んだ。そこから皮膚がズッズッ、と徐々に割かれる。
「グ、……ア……ギィィィィィ……ッ!」
傷口から血が溢れ、ラグド・トロールの全身が仰け反る。口は限界まで開かれ、牙を剥き出しにしながら喉を震わせる。口の端で血泡が弾け、凄まじい痙攣とともに四肢が震え、鎖がガシャガシャと鳴る。眼球は飛び出さんばかりに見開かれ、助けを求めるように中空を見つめる。
裂けた腹部からは臓器が半ば飛び出し、生臭い血が周囲を濡らしている。
だが――エルドリスは何の躊躇《ためら》いもない手つきで、素早く臓器を摘出していく。
「この時点で死んでしまうと肉が固まってしまうため、適度に魔力を流して生かす」
彼女はそう言いながら、魔物の心臓があった空隙《くうげき》に手をかざし、手のひらから、丸く白い光を放つ。
「エルドリス先生の延命魔法です。続いて、使用部位――わき腹肉の切り出しですね」
と、アシスタントが補足する。
エルドリスは、魔物のわき腹に長ナイフを突き立てた。刃が皮膚を裂き、筋肉を切り開く。ラグド・トロールの全身が弓なりに跳ね上がった。
「グ、……ギィ……ア……ッ!」
苦悶に満ちた絶叫が喉の奥で詰まり、しゃくり上げるような息遣いが漏れる。刃が肉を引き裂くたびに、魔物の身体は細かく震え、引き攣るような痙攣を繰り返した。瞳はまるで自身の運命を理解したかのように潤み、恐怖と苦痛に揺れている。
エルドリスはその表情を一瞥しながら、寸分の迷いもなくナイフを進めた。皮膚を剥ぎ、慎重に筋を断ち、滑らかに300グラムほどの肉を切り出していく。
「ハァ、……ハァ……グ、ア……」
血の臭いが充満する調理場の中で、ただ無力な肉塊と化していく自身の姿を知覚しながら、トロールは生かされ続ける。
「わき腹肉は余分な筋が少なく、調理には使いやすい」
エルドリスは切り出した肉から皮を丁寧に剥《は》いだ。
刃先が滑りやすい脂肪の層を的確に削ぎ落とし、ブロック肉全体を均一な厚みに整えていく。
そしてブロック肉の表面に塩をまぶす。
手足を磔にされ、内臓を取り除かれたトロールは、目を見開いたまま震えていた。呼吸は荒く、喉の奥から雑音のような呻き声が漏れている。
生きている。
「この個体、脳に損傷は?」
「いえ。薬も与えておらず、脳は至極正常です」
「それはいい。目の前で焼き上げてやろう」
エルドリスはにっこりと微笑み――ここで彼女は本日初めての笑みを見せた――、ブロック肉を、脂肪の層を下にして鉄板へと乗せた。
熱せられた鉄板に触れた瞬間、ジュワッという音とともに透明な脂が滲み出す。
「まずは強火で表面に焼き目をつける」
細身のトングを手に取り、エルドリスは肉を慎重に押しつける。鉄板の上では脂の滴が跳ね、きらめくように光る。
焼き面をチェックしたエルドリスは、トングを使って肉をひっくり返す。これを繰り返していき、ブロック肉の六面すべてに焼き目がつくと、彼女は用意していた刻んだラドリーフ、ミスナシュ、ファリウムの葉を指先で軽く揉み、鉄板の上に撒いた。
パチッ、パチッ……
香草の葉が弾けるような音を立てる。
それと同時に、スパイシーな香りが立ち上り、焼かれた脂の香りと混ざって調理場に満ちる。
「肉の内部に火を通しすぎると硬くなるため、ここからの過熱は中火で約一分だ」
トングで軽く肉を押す。肉の端の方では、脂が滲み出しながら細かく泡立ち、徐々に黄金色へと変わっていく。
エルドリスは仕上げの一手として、鉄板の端で温めていたルガーナの果実を取り上げ、軽く絞った。
ジュワッ……!
ルガーナの甘酸っぱい匂いが一気に広がり、香草と肉の香りに、さわやかな清涼感を加える。
肉の表面は、混ざり合った肉汁と果汁できらきらと輝いている。
調理の匂いが、まだ意識のあるトロールの鼻腔にも届いているらしい。その鼻はひくひくと動き、口の端からは生理的らしい涎《よだれ》が垂れる。
焼かれる自分の肉の匂いを嗅ぎながら、死を迎えようとしている。
「よし、完璧だな」
焼きあがった肉をまな板の上でスライスしていく。焼き加減は茶色と赤色の具合が絶妙なミディアムレア。それらを、生の香草が敷かれた大皿の上に並べ、櫛《くし》切りのルガーナを添える。
淡い湯気が立ち上る大皿をカメラの前に差し出し、エルドリスは満足げに頷いた。
「完成だ」
「わあ、美味しそう。食欲をそそる良い香りです。本日の料理は、ラグド・トロールの香草焼きでした。では材料と調理道具のおさらいと、本日のポイントです」
【材料】
人間の子どもを弄んで殺したラグド・トロールのわき腹肉 300グラム
塩 少々
ラドリーフ(甘く芳醇な香りを放つ針葉ハーブ) 少々
ミスナシュ(わずかにスパイシーで、肉の臭みを抑える紫葉ハーブ) 少々
ファリウムの葉(ナッツのようなコクと香ばしさを加える黄金色の葉) 少々
ルガーナの果実(柑橘系フルーツ) 1/2個
【調理道具】
長ナイフ(解体、整形用)
トング(肉を掴むため)
鉄板(焼き上げ用)
包丁(スライス用)
【ポイント】
焼きすぎると肉が硬くなるため注意!
「それでは皆さま、また次回お会いしましょう。良い食卓を――」
◆
赤い魔導カメラの光が消え、番組は終了した。
「……う、ぐ……っ」
調理場の隅で僕はうずくまる。
途中、何度か吐いたせいで、苦く酸っぱい味がまだ口の中に残っている。胃は今にも再びひっくり返りそうだ。
「イオルク・ネイファ」
名を呼ばれて顔を上げると、目の前にアシスタントの男が立っていた。彼は身に着けていた黒革のエプロンを脱ぎ、僕に投げて寄越す。
「要領はわかったよね? じゃあ明日からよろしく」
震える手で口元を拭い、「は、い」とほとんど吐息のような声で答える。
帝国の役人となって初めての配属先がここ、第七監獄《グラットリエ》地下調理場。
与えられた職務は、『30分クッキング』の先生として絶大な人気を誇る終身刑の囚人、エルドリス・カンザラの調理助手《アシスタント》兼監督官。
暗く湿った調理場の隅で、僕は目を閉じた。
明日が来なければいいと願いながら。
頭が重い。手足が思うように動かない。体が痛い。 目を開けると、冷たい岩肌の床が視界に入り、その先に、赤々と燃える焚き火が見えた。「おはよう、怖いお兄さん」 楽しげな声が降ってくる。 顔を動かして声のした方を見ると、ラシュトが焚き火のそばに座り、金属製のナイフを弄んでいた。彼は木製のナイフしか持っていなかったはずなので、それは恐らくエルドリスの持ち物だろう。その唇の端は愉快そうに吊り上がっている。「あなたたちさ、昨夜食べたセフィアベリーと今朝食べたヴェルド、食べ合わせって考えたことある?」 唐突な問いかけを聞きながら、頭の中で警鐘が鳴り続けている。手足が動かないのは縛られているせいだ。しかも手は背中側で括られているため、身を起こす支えにもできない。 エルドリスとネイヴァンも目を覚ましていたようで、すぐそばで動く気配がする。「セフィアベリーはね、胃でなかなか消化されないんだ。だからひと晩経ったくらいじゃまだ、胃の中に残ってる。それで、ヴェルドと混ざると……さ、あっという間に有害成分に変わる。そうなると、人間は――」 ラシュトはそこで言葉を止め、ゆっくりと笑みを深めた。「――昏倒してぐっすり眠っちゃうんだよ」 ネイヴァンが舌打ちする。本当は悪態のひとつも吐きたいところだろうが、彼とて今、この不利な状況で少年を煽るリスクを考えないわけがない。 エルドリスも同様だった。いつもネイヴァン相手に流暢に飛び出す嫌味が今は鳴りを潜めている。だが、彼女の無念は僕ら以上だろう。調理人である彼女にとって、毒の生成に食べ合わせを使われること、そしてそれにまんまと引っかかってしまったことは、屈辱にも近いはず。「あなたたちは運が悪かった。でも逆に僕はものすごく幸運だ。い
なんだ? どういうことだ? ラシュトはどこへ消えた? 僕はエルドリスとネイヴァンを起こし、事の顛末を二人へ伝えた。 ネイヴァンが点火魔法で焚き火に火をつけ、洞窟の中に鮮やかな視界が戻ってくる。僕たちは壁面を丹念に調べ始めた。叩いたり、押してみたり、突起に指をかけて引いてみたり。しかし――「特に変わったところはないな……」 ネイヴァンが首を水平に振る。壁面を構成する岩は、どれもただの岩でしかない。床も、下に抜け穴がないかと三人で調べてみたが、何も見つからなかった。 僕たちが調査を続けていると、外から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。「朝か」 エルドリスは立ち上がると、部屋の入り口へ向かっていく。「どこへ行くんです? もう砂浜へ戻りましょう。ネイヴァンさん、転移魔法をお願いします」「少し待て、念のため洞窟の外を確認する」「確認って何を! エルドリス、待ってくださいっ」 僕は洞窟へ入っていくエルドリスを追った。エルドリスは歩きながら僕の質問に答える。「確認するのはあの部屋の外側だ。私たちはここに入ってくるとき、蔓に覆われた入り口しか見なかった」「それが何なんです?」「あの部屋――あの広い空間には外気が流れていたな。つまり、僅かだが外部と繋がっているということ。その繋がっている場所を外側から見れば、わかるかもしれない。内側を調べてもさっぱりだったが、子どもひとり通り抜けるだけの隙間の手がかりが。あくまで小さな可能性だが」「わかりました。じゃあ、洞窟の周囲をざっと見て、そしたら浜辺へ帰りましょう」「おいおい、新人君。なんだか妙に焦っちゃいねえか」 後ろから付いてきていたネイヴァンが飄々と言う。彼にはわから
ラシュトに導かれ、僕たちは洞窟の中へと入っていった。 ひんやりとした空気。足元の地面は剥き出しの岩肌で、場所によっては水滴で湿っていて滑りやすい。壁面には光る苔や菌類がまばらに張り付いており、それらが様々な色合いでぼんやりとした微光を放っていた。天井は標準的な成人男性の背丈ぎりぎりくらいの高さしかなく、長身のネイヴァンは常にかがみ気味で、何度も頭をぶつけそうになっている。 洞窟の奥へ進むほどに、湿気と冷気が増していく。水の滴る音がどこからかポチャン、ポチャンと反響する中、ラシュトは楽しそうな鼻歌を歌う。 やがて道が開け、僕たちは広々とした空間へと出た。 天井は高く、壁面は無数の岩が積み重なった形状をしている。その岩々の隙間から新鮮な外気が入り込み、ゆるやかな空気の流れを生み出していた。 中央には焚き火の跡があり、奥には乾いた枯草を敷いた簡素な寝床がある。物を入れる木箱や簡素な木の机、革袋のようなものまであり、それなりの生活を営んでいる様子が伺える。「ここが僕の部屋だよ。まあ、ちょっと狭いけど、十分だよね?」 ラシュトは振り返って、にこりと微笑む。「なかなか悪くないな」 エルドリスが周囲を見回しながら呟いた。「きみが一人でここを作ったのか?」 ネイヴァンが少し驚いたように尋ねると、ラシュトは得意げに頷いた。「そうさ。死刑囚島《タルタロメア》は危険だけど、こうしてちゃんと居場所を作れば生きていけるんだ。さあ、座って」 ラシュトの言葉に従い、僕たちは焚き火の跡の周囲に腰を下ろした。「さて、晩ご飯の準備をしようかな」 ラシュトは焚き火の残骸に火をつけ直し、部屋の端に置かれていた木箱から干し肉らしきもの
「おいおい、新人君、今なんて言った? 俺の聞き間違いか?」「聞き間違いじゃありません。彼はA級殺人犯です」 ネイヴァンは眉をひそめて、少年をまじまじと見つめる。しかし、見たところでわかるものでもない。囚人に、その罪状と等級ごとに刻まれる魔導印は、人道的な理由により監獄の監督官にしか見えないようになっている。「死刑囚島《タルタロメア》に送られた囚人の生き残りか」 エルドリスが冷静に呟いた。 そうでしかあり得ないと僕も思っているが、疑問は残る。「最後に死刑囚が送られたのは約一か月前です。仮に彼がそのときの死刑囚だとしても、一か月間この島で生き抜いたことになる。そんなのは前代未聞です。大抵は数日で魔物に襲われて命を落とします」 少年に注意を払いつつ小声で話していると、少年は突然にこりと微笑んだ。「ねぇ、あなたたちも死刑囚?」 不意に発せられた問いに、僕は思わず違うと答えそうになったが、その前にエルドリスが進み出て答えた。「そうだ」 僕はぎょっとして彼女の横顔を見る。その表情には何か思惑がありそうだった。 少年は興味深そうに僕たちを見つめながら、「罪状は?」「連続強盗殺人。三人ともグルだ」 少年の目が楽しげに輝いた。「へぇ! じゃあ僕と似たようなものだね」 それは笑顔で言う台詞か? 背筋にぞくりと寒気が走った。「僕はラシュト」 少年――ラシュトに促され、僕たちはエルドリスから順に名乗った。「ラシュト
三人の総意により、フワドルの子どもは逃がしてやることにした。 だが僕が俊足の鎖《ラピッドチェイン》を解いてやると、白くふわふわした小さな魔物は走り去らず、エルドリスの足にぴょんと飛びついた。「なんだ」 エルドリスが面倒くさそうに見下ろす。「きゅるる♪」 甘えた声を出して彼女の足にすり寄るフワドル。その小さな前足で彼女のズボンをカシカシと引っかき、まるで注意を引きたいかのようだ。「おいおい、可愛いじゃあないか。ママになってやれよエリィ」 ネイヴァンが楽しげに笑うが、それも含めてエルドリスには鬱陶しいようで、彼女は大きめの舌打ちをする。「お前がパパでも何でもなってやれ。……おい、まとわりつくな、離れろ」 エルドリスは足を振ってフワドルを引き剝がそうとしたが、フワドルはまるでそれが遊びの一環であるかのように喜び、ますます彼女にじゃれついた。「きゅっきゅ♪」「……ああもう、好きにしろ」 諦めた様子でため息をつくエルドリス。 そんな彼女を見ながら、ネイヴァンが「そうだ」と手を打った。「このフワドルに、擬態してたあの気色悪い魔物をどのあたりで見たのか聞いてみようぜ。案内させれば話が早いだろ」「フワドルって会話できるんですか?」「試してみりゃあいい」 そう言ってネイヴァンは、エルドリスの足にしがみつくフワドルのそばにしゃがみ込んだ。「おい、チビ助。お前が擬態してたあの魔物、どこで見かけた?」 魔物に人間の言葉が通じるはずがない。それも
捕えた魔物を前にして、僕たちは互いに顔を見合わせた。「さて、こいつをどうするか」 ネイヴァンが腕を組んで魔物を見下ろす。エルドリスは、僕の俊足の鎖《ラピッドチェイン》でがんじがらめにされている魔物を靴底で蹴って転がし、あらゆる角度から観察しているようだった。 ひび割れた皮膚。位置のズレた不自然な関節。形の歪んだ頭部。白く濁った目。 不気味すぎて到底人間とは思えない、人間に酷似したモノ。 ナイフの刃先で魔物の顎を持ち上げて顔を凝視していたエルドリスはため息をつくと、低く言った。「やはり見ただけではわからない」 その言葉の意味するところを察し、僕の胃が縮み上がる。 やっぱり、そうなるのか……。 どうやって拒否しようかと考えていた、その時――「きゅーぅぅ♪」 思わず全員が固まった。 なんだ今の音……いや、声か? 発生源を三人で見下ろす。 聞き間違いか? 今、この魔物が頓狂な鳴き声を上げたような……。 次の瞬間、魔物の体がぼわんと破裂し、白い煙が立ち上る。「全員下がれ! 煙を吸うな!」 服の袖を口元に当てて防御しながらエルドリスが鋭く叫ぶ。僕とネイヴァンも同じように口元を覆い、離れた場所から煙が晴れるのを待った。 逃げられてはいない手応えはあった。監獄の監督官が会得する俊足の鎖《ラピッドチェイン》は、そう易々《やすやす》と破れるものではない。僕の鎖はまだ何かを捕らえている。 しかし、その対象物は随分と
朝焼けのもと、僕たちは再び島の奥へと足を踏み入れた。ネイヴァンの転移魔法で昨日、クラ―グルと遭遇した場所まで一気に移動し、そこからさらに進んでいく。 高い樹々に日光を遮られた森は晴天の朝でも薄暗く、空気は冷たく湿っていて、不気味な雰囲気があった。明確な気配こそ感じないが、どこか草葉の隙間から、僕たちを狙う上級魔物が様子を伺っているのではないかと嫌な想像をしてしまうくらいだ。「周囲をよく観察しながら進め。普通の魔物の痕跡とは異なるモノが見つかるかもしれない」 エルドリスは僕とネイヴァンにそう指示し、先頭を勇ましく歩いていく。 僕は彼女の背中を見つめながら尋ねた。「エルドリス、もしも本当に、魔物にされた人間かもしれないモノを見つけたら、どうするんですか」 エルドリスは間髪入れずに答えた。「捕えて観察する」「それで、元人間かどうかがわかりますか?」「個体によるだろう。会話ができれば間違いない。それが無理でも人間だったころの名残が見受けられれば、そうとわかる。例えば指輪をしているだとか、歯に治療痕があるだとか」「そういうのがまったくなくて、判別できなかったときは?」「……お前が頼りだ」 やっぱりな。「ねえエルドリス、わかっていますか。人間が人間を食べること――カニバリズムは禁忌です。僕に禁忌を犯させるんです?」「私のために犯してくれ。いや、私たちの目的のために」「あなたには、人の心がないんですね」「すまない。だが他に方法がない。お前に支払わせる代償は大きいが、その分私もあとから同じだけ代償を支払おう」「別に道連れを求めているわけじゃ……」 ネイヴァンが背後で軽薄に笑った。
夜の帳が下りる中、焚き火の炎が砂浜を揺らめかせる。「皆さま、こんばんは。『30分クッキング』です」 いつものように調理台の手前に立ち、僕は魔導カメラへ語る。「本日も特別企画として、死刑囚島《タルタロメア》よりお届けしております。食材はこちら、クラ―グルです」 調理台の上に横たわるのは、蛸に似た巨大な魔物。無数の触手は束ねられて、ぎちぎちと締め上げられているが、まだ抵抗の意思があるのか、拘束の下でしきりに蠢《うごめ》いている。「クラ―グルはA級魔物に分類される非常に危険な存在ですが、味は絶品と言われています。本日はこのクラ―グルを、活け造りにしていきます」 エルドリスがナイフを手に取り、クラ―グルの巨体に歩み寄る。「まずは、触手の一本を開く」 刃が触手の表皮に触れた瞬間、クラ―グルが激しくもがき出す。しかし、エルドリスは構わず、縦一直線に浅く切り込みを入れた。そして切り込みに両手の親指を差し入れる。「クグルゥゥゥゥ……ガァ……」 ズルッ、メリメリッと嫌な音を立てて皮を剥いでいく。剥ぎ終えると、手際よく内側の肉を削ぎ始める。「ピィィィィィィィ……ギャアアア……」「薄く削いだ方が、食感が良くなる」 削ぎ取られた肉は透き通るような白色。それを、まだ生きているクラ―グルの顔の上に飾り付けていく。趣向を凝らした活け造りだ。「次に、頭部を処理する」 エルドリスは、クラ―グルの頭部に垂直に刃先を当てる。そして体重をかけて刺し込む。
「何だ? ぐずぐずしている時間はないぞ」 彼女はナイフを振りかぶったまま、訝しげに僕を見下ろす。「クラーグルの一部を、ほんの少しだけ切り取ってください」「なんだと?」「お願いします。僅かですが勝算があるんです」 エルドリスは考えるような表情を見せたが、すぐにクラーグルに向き直り、ネイヴァンから最も遠い触手の先へとナイフを投げた。 触手は1cmにも満たない幅だけ切り取られ、音もなく地面に落ちる。ネイヴァンを捕らえる触手たちに大きな動きはない。「これでいいか」「はい!」 僕はうねうねと動き続けるそれに駆け寄って素早く拾った。「おい、何をする気だ」 エルドリスが背後で戸惑うような声を上げるが、答えている余裕がない。僕がこれから何をするか、彼女の位置からは見えないだろう。 僕は触手の切れ端を口に入れ、ごくんと飲み込み、二つある胃のうち、識嚥《シエ》へと落とした。 次の瞬間、視界が明滅し、目を開いているのに暗転する。 たった一度だけ味わった、あの嫌な感覚。 クラーグルの記憶が流れ込んでくる。――――― 長い手足を木々に絡ませ、植物に擬態して、ただ待つ。 幼いころから繰り返してきた狩り。 研ぎ澄まされた感覚が、獲物の気配を捕らえる。 音がする。 小枝が折れた。 空気が揺れる。 獲物が近づいてくる。 距離が縮まる。 あと少し。 獲物が完全に射程内に入る。 ここだ。 瞬時に絡みつく。 迷いはない。 獲物の全身に触手を這わせ、がんじがらめにする。
Komen