【あの……お仕事の延長ってありますか?】 貧しい男爵家のイレーネ・シエラは唯一の肉親である祖父を亡くし、住む場所も失ってしまう。住み込みの仕事を探していたときに、好条件の求人広告を見つける。けれどイレーネは知らなかった。この求人、実は契約結婚の求人であることを。そして一方、結婚相手となるルシアンはその事実を一切知らされてはいなかった。呑気なイレーネと気難しいルシアンの期間限定の契約結婚が始まるのだが……?
もっと見る「一体何なんだ? その募集要項は。 二十四時間体制だが、基本夜の勤務は殆ど無い? けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せだとは。このような内容では誰だって勘違いするに決まっているだろう!? お前は俺を獣扱いしているのか! 一体どういうつもりでこんなことを書いたんだ!」ルシアンは肩で荒い息を吐きながらまくしたてた。「そ、それはですね。ほら、アレです。時には王侯貴族の親睦を深める目的で夜会などが開かれることがあるではありませんか?」「ああ、あるな。それがどうした?」「そうなると、結婚しているのであれば夫婦そろって出席を求められるのは当然のことですよね?」「確かにその通りだが……まさかその意味合いで二十四時間体制、時には夜勤が入ると書いたのか!?」ルシアンはワインの瓶を掴むと、勢いよくグラスに注ぐ。「はい、その通りです……」「な、何てことだ……イレーネ嬢が勘違いするのは当然じゃないか! これでは契約妻に夫婦生活を強要するような最低な男としてとられてしまったに決まっている!」ルシアンはグラスを握りしめると、まるで水のようにワインを一気に飲み干した。「落ち着いて下さい。ルシアン様、そんなに乱暴な飲み方ではお身体に障ります」「誰のせいで、落ち着けないと思っているんだ! 絶対、彼女は俺に不信感を抱いているに違いない……何がまた明日会おうだ! もう顔向けできないじゃないか……」どこまでも生真面目なルシアン。酔いがすっかり回っていた彼はリカルドにイレーネの誤解を解くように説明したことなど忘れていた。「それなら大丈夫です、ご安心ください。イレーネ嬢は決して怪しい意味合いではとらえておりませんでした。流石は私の見込んだ女性のことだけありました!」「何だと……? 一体それはどういう意味だ……?」顔を赤く染め、半分目が座っているルシアンがリカルドを見上げた。「はい、イレーネさんは夜の夫婦生活のことを想定してはいなかったのですよ。メイドとしての夜勤があるのかと思っていたのです。それで、あのようなことを尋ねられたのですよ」「そうだったのか……? そう言えば、イレーネ嬢は契約妻兼メイドの仕事をするものだと勘違いしていたな……」「ええ、そうです。なので、誤解を解くまでも無かったのですよ。何しろ初めから誤解されていたのですから」「初めから誤解だったから、誤解を
「リカルド……夜のお勤めとは……一体どういうことだ?」ルシアンが口元に笑みを浮かべながらリカルドを見る。しかし、目は少しも笑っていない。これが一番マズイ状況であるということを、リカルドは知り尽くしている。「ル、ルシアン様……こ、これはそう! 誤解、誤解なのです!」「ほう? 誤解? 一体どんな誤解なのだ? 詳しく教えて貰おうじゃないか? だがその前に……」ルシアンはイレーネに視線を移す。「イレーネ嬢」「はい、何でしょうか? ルシアン様」「もう、メイドの仕事はしなくていい。とりあえず、今日は休むといい。リカルドに客室を案内させよう」「はい、ルシアン様!」(やった! この場から逃げられる!)リカルドは喜々として返事をするが、次に告げられたリカルドの言葉に冷や水を浴びせかけられる。「いいか? イレーネ嬢を客室に案内したら、ここへ戻ってくるように。分かったか?」ジロリと睨みつけられるリカルド。「は……はい! で、ではイレーネさん。参りましょう」「はい。では失礼致します、ルシアン様」イレーネは立ち上がると、挨拶した。「ああ、明日また会おう。……リカルド」「はい! ルシアン様!」リカルドは背筋をピンと伸ばす。「……イレーネ嬢の誤解をきちんと、解くのだぞ。責任を持ってな」「も……勿論です」こうして、奇妙な動きを見せるリカルドに連れられてイレーネはダイニングルームを後にした。「……全く」ダイニングルームに1人残ったリカルドため息をつき、すっかり冷めてしまった料理を口にした。「……生ぬるいスープだ……」そして再びため息をついた――****1時間後――「ルシアン様、戻りました……」ビクビクしながらリカルドがルシアンの待ち受けるダイニングルームに戻ってきた。すっかりテーブルの上が片付けられ、今はルシアンの飲んでいるワインとグラスだけが置かれている。「ああ、戻ったか。イレーネ嬢に客室を用意したのか?」「ええ、勿論です! 前回よりも素晴らしい客室にご案内致しました! メイド長にもイレーネさんのことを伝えてまいりました。それに使用人部屋に置かれた荷物も客室へ運びました!」リカルドは説教を恐れ、媚びを売るように揉み手をしながら返事をする。「そうか……」ルシアンは手元のワインを煽るように一気に飲み干すと、乱暴にグラスを置いた。
「イレーネ嬢……」自分のテーブルの前に料理を並べていくイレーネにルシアンは頭を抑えながら声をかけた。「はい、何でしょうか? ルシアン様」スープ皿を置いたイレーネがにっこり微笑む。「一体、その恰好は……何だ?」「あ、このメイド服ですか? これは先輩のジャックさんが用意してくれたんです。素敵なメイド服で、とても気に入りました」濃紺のロングワンピースに、フリルの付いたエプロン姿のイレーネはジャックの名前を出した。自分の名前が出たジャックは、まんざらでもない様子で給仕を務めている。「い、いや。俺が尋ねているのはそういうことでは無くてだな……」「あ、ルシアン様。今置いたこちらのスープは熱いので火傷にご注意下さいね」「ああ、ありがとう……って違う! そうじゃない!」危うくイレーネのペースに巻き込まれそうになったルシアンは、激しく首を振る。「ど、どうなさったのです? 落ち着いて下さい。ルシアン様」イレーネが見つかったことで、すっかり余裕のリカルドがルシアンに声をかける。「いいか、イレーネ嬢。俺が言いたいのは、そういうことではない。何故、君がメイドとして働いているかと言う事だ。誰かにメイドとして働くようにそそのかされたのか? ひょっとして、ジャックという者の仕業か!?」ルシアンの言葉に、ビクリとジャックの肩が跳ねる。(どうか……どうか、俺がジャックだということがルシアン様にバレませんように……!)マイスター家には大勢の使用人が働いている。そしてジャックはまだこの屋敷で働き始めて1年目。当然、ルシアンはジャックの顔を知らない。「いいえ? ジャックさんは、そのような方ではありません。とても親切な人で、丁寧に仕事を教えてくれます」少し、ズレたところのあるイレーネはルシアンの質問に見当違いな返答をする。「そうか。やはりジャックの仕業なのだな? 親切にメイド服を貸してくれたというわけか?」そこへ嚙み合わない2人の会話に、リカルドが割って入ってきた。「落ち着いて下さい、ルシアン様。ジャックがそそのかしたと疑うのは時期尚早ではないでしょうか?」リカルドがルシアンを宥めながら、ジャックに早く退散するように目配せする。「で、では私はこれで失礼致します」ジャックは、逃げるようにダイニングルームを飛び出した。自分はクビになってしまうのではないかという恐
――午後7時、ダイニングルーム。「一体どういうことだ……? 未だにイレーネ嬢が訪ねて来ないなんて……」テーブルの前に着席し、手を組んで顎を乗せたルシアンがためいきをついた。「ルシアン様……確かに私も心配でたまりませんが、まずは夕食をお召し上がりになって下さい。よくよく考えてみれば、イレーネさんは本日ここへ来るとは話されていましたが、時間までは仰っていませんでした。もしかすると、もう間もなくこちらへいらっしゃるかも……しれませんよ?」リカルドは笑顔で声をかけるも、内心では焦りがピークに達していた。(まずいまずいまずい! これは非常にまずいぞ!! ひょっとしてここへ来る道中、何かあったのではないだろうか? イレーネさんは可愛らしい外見だし、おっとりしてはいる。もっとも言い方を変えれば、世間より少しズレている感じがある。片田舎出身であるが故に、都会に潜む悪い連中に騙されて何処かへ連れ去られてしまったのではないだろうか!? そうなったら……全てこの私の責任! ああ……今にも胃に穴が空きそうだ……)少々失礼な物言いで、イレーネの身を案じる。「何かあったのではないだろうか……?」ポツリと呟くルシアンの言葉に、思わず肩が跳ねそうになるリカルド。「落ち着いて下さい、ルシアン様。まずは紅茶でも飲んでみてはいかがですか?」胃痛に耐え、震える手でリカルドはカチャカチャと紅茶を入れ……。カチャン! 手が滑ってソーサーの上に音を立ててカップを置く。そしてそんな様子をじっと見つめるルシアン。「……リカルド」「はひ? な、何でしょう?」リカルドは思わず上ずった声で返事をする。「落ち着くのは……むしろ俺よりもお前の方ではないか?」「い、いえ。何を仰っているのですか? 私はとても落ち着いておりますよ。大丈夫です、きっともうすぐイレーネさんはこちらにいらっしゃるはずですとも……あの方を信じて待ちましょう……」まるで自分に言い聞かせるかのように語るリカルド。そこへ――「ルシアン様、夕食をお持ちしました」フットマンがワゴンを押してダイニングルームへ現れた。「何? 食事だと? こんな一大事のときに食事など出来るか……え……?」眉間に皺を寄せたルシアンはフットマンを見上げ……次に驚愕で目を見開いた。 何と、フットマンの背後にはメイド服姿のイレーネがいたからだ。彼
イレーネとジャックは和やかに話をしながら、2人で仕事をしていた。「それでイレーネはどこから来たんだっけ?」棚の備品を片付けながらジャックが尋ねる。「はい、私は『コルト』の町から来ました」イレーネは雑巾がけをしながら答える。「『コルト』か……随分遠くから来たんだなぁ。その若さで……両親を亡くして、しかも育ててくれた祖父まで亡くすなんて……ううっ。本当にイレーネは苦労したんだなぁ……」ジャックが目をうるませる。「ええ。でも、縁あってこちらでお世話になることが出来たので、私は運が良かったです。仕事を教えてくれるジャックさんも良い人ですし」「そ、そうか? そう言われると……何だか照れくさいな」目元を赤くするジャック。そこへホールに集められた使用人たちがゾロゾロと戻ってきた。そして一人のフットマンがジャックの姿を見て近づいてきた。「おい! ジャック、お前こんなところで何してたんだよ」「え? 何って……見ての通り仕事ですけど?」「あのなぁ、さっきまでルシアン様から大事な話があって俺たち全員ホールに集められていたんだよ!」「ええ!? そうだったんですか! 俺……お使いに行ってたので知らなかったんですよ!」ジャックは自分だけホールに行かなかったことを知り、顔が青ざめる。「全く……仕方ないなぁ。でも知らなかったなら仕方ないか……ん? ところで、あんたは何者だ?」フットマンは雑巾を握りしめているイレーネに気づいた。「はい、私は今日からこちらでお世話になることが決まりましたイレーネと申します。どうぞよろしくお願いします」「イレーネ……? イレーネ……どこかで聞いたような気がする名前だが……ハハハ。まさかな」先程ホールで集められた時に、本日イレーネ・シエラという大事な客人がこの屋敷にやってくるという話をルシアンから聞かされた。だが、エプロン姿に雑巾を手にしたイレーネがその本人だとは彼は思いもしなかったのだ。「ここで俺が、新人のイレーネに仕事を教えてあげていたんですよ」ジャックが説明する。「ふ〜ん……だが、新しいメイドが来るなんて話、聞かされていなかったがな……でも、人手が足りなかったから丁度いいか。俺はフットマンのホセ。ここの部署のリーダーを務めている。よろしくな。イレーネ」「はい、よろしくお願いします」「ホセさん。イレーネの世話なら
17時少し前に、イレーネを乗せた辻馬車がマイスター家に到着した。「お客様、マイスター家に到着しました」男性御者がイレーネに声をかけてきた。「はい、どうもありがとうございま……」そこまで言いかけて、ハタとイレーネは気付いた。(そう言えば、つい先日貴族の御令嬢に言われたばかりだったわよね……)イレーネの脳裏に赤い髪の女性……ブリジットの言葉が蘇る。『ちょっと、ここはあなたのような身分の者が気安く出入りしていい場所じゃ無いわよ? 入るなら、せめて裏口からにしたらどうなの?』(そうよね、私なんかが正面口から入ってはいけないわよね。現に昨日、このお屋敷を出るときもフードで顔を隠したくらいなのだから)「あの、お客様……どうなさいましたか?」考え事をして黙り込んでしまったイレーネに御者が遠慮がちに声をかけてきた。「いえ、何でもありません。あの、恐れ入りますが馬車を裏口に回していただけますか?」「裏口ですか? ええ、よろしいですよ。それでは裏口に周りますね」男性御者は手綱を握りしめると、馬車の移動を始めた――**** マイスター家のフットマンとして働き始めて、ようやく1年を迎えようとしていたジャックは今とても忙しかった。「全く……お使いから戻ってみれば、誰もいないんだからな……こんな一番忙しい夕方時だっていうのに。皆一体どこにいるんだよ」ブツブツ文句を言いながら、ジャックは入り口にほど近い部屋で備品の整理をしていた。「あ〜なんだ、この棚……ホコリが溜まっているなぁ。これじゃ片付けられないじゃないか」その時――「あの〜……すみません。どなたかいらっしゃいますか?」女性の声が聞こえてきたのでジャックは部屋を出た。すると入り口の前で立っている一人の女性が目に入った。その女性とは……イレーネである。「え〜と……、どちら様です?」ジャックに尋ねられたイレーネは少しだけ悩んだ。(そう言えば、この屋敷の人たちに私のことは話してあるのかしら……万一の為に、あまり詳しい話はしないほうが良いかもしれないわね)そこで、簡単な自己紹介をすることにした。「はい、私は本日よりこちらでお世話になることになりましたイレーネと申します。どうぞよろしくお願いいたします」「イレーネ……?」見たこともない女性を見て、首を傾げるジャック。(う〜ん……見たところ
午後4時半――イレーネは『デリア』のホームに降り立った。「う~ん……快適な汽車の旅だったわ。やっぱり二等車両は座り心地が違うわね。切符を手配してくれたリカルド様に感謝しないと」帽子をかぶり直したイレーネは、ホームに停車している汽車を見て嬉しそうに笑みを浮かべる。「でもこんな贅沢、私のような者には身の丈が合わないわね。1年後、ルシアン様と離婚したら質素倹約に励まなくちゃ」結婚生活が始まる前から、既に離婚後のことを見据えていたのだ。「さて、では行きましょう」イレーネはキャリーケースを引きずりながら、改札を目指して歩き始めた。**「う~ん……迂闊だったわ……そう言えばこの駅は階段を上らないと、外に出られなかったのよね……」じっと階段を見上げるイレーネ。手元には二つのキャリーケース。とてもイレーネの細腕では二つの荷物を持って、上ることは出来ない。「……仕方ないわ。一つ残しておいて、階段を上るしかないわね……」ため息をついたとき、背後で声をかけられた。「お困りですか? よければ荷物をお持ちしますよ?」「え?」その声に振り向くと、白髪交じりの男性駅員が立っていた。「よろしいのですか?」「ええ。ちょうど駅員室に戻るところだったので」そして男性駅員はキャリーケースを2つとも、持ったのでイレーネは慌てた。「あ、あの。一つだけで大丈夫ですので。後の一つは自分で持ちます」「いいえ、見たところ女性が持つには大きすぎる荷物ですよ。私が持つのでどうぞ階段を登って下さい」「そうですか? それではお言葉に甘えて……ご親切にありがとうございます」イレーネは礼を述べると、階段を登っていく。そこを後ろからキャリーケースを持った駅員がついていった。「荷物を運んで頂き、ありがとうございました」階段を登り終えると、イレーネは礼を述べた。「いいえ、お役に立てて良かったです」「あの……図々しいお願いとは思いますが……もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか?」「はい、何でしょう?」「電話をお借りしても良いでしょうか?」イレーネは恥ずかしそうに駅員に尋ねた――**** 駅を出ると、イレーネはため息をついた。「それにしても、リカルド様が電話に出られなかったのは残念だったわ……というか、何故誰も電話に出なかったのかしら……?」イレーネは何も知らなか
「はい、ではイレーネさん。お待ちしておりますね。ですが、どうかくれぐれも慌てず、落ち着いて……ゆっくりお越し下さい。……はい、では失礼いたします」チン……イレーネとの電話を終えたリカルドは顔面蒼白になっていた。「た、大変だ……! こうはしていられないぞ……!!」リカルドは部屋を飛び出すと、脱兎の如くルシアンの部屋を目指して駆け出した――****「何だって!! イレーネ嬢が今日、やってくるだって!!」書斎で仕事をしていたルシアンが驚きの声を上げる。「はい、そうなのです。たった今、私の仕事部屋に直通で電話がかかってきたのです」その言葉にルシアンの眉が上がる。「……ちょっと待て。何故、お前の部屋の電話が鳴るんだ?」そしてルシアンは自分の机の上に置かれた電話に視線を移す。「え……? それは……私が帰り際にイレーネさんに電話番号を書いたメモを渡したからですが……?」「だから、何故お前の電話番号を教える? ここにだって……電話があるじゃないか」ルシアンは自分でも良く分からないが、何故か電話がリカルドの部屋にかかってきたことが気に食わなかった。そして、ルシアンの苛立ちにピンとくるリカルド。「ルシアン様……もしかしてイレーネさんにこちらのお部屋の電話番号をお伝えしたほうがよろしかったでしょうか?」「……いや、そういうわけではないが、大体お前は俺の専属執事だろう? ここで仕事をすることが多いのだから、この部屋の電話番号を教えたほうが良かったのではないか?」「あ……言われてみれば、確かにそうでしたね。このお部屋で電話が鳴っても、出るのは私ですからね。大変失礼いたしました」リカルドはこれがルシアンの言い訳だということに気付いていたが、あえて気付かないふりをした。「あ、ああ。まぁ……そういうことだ。だが、イレーネ嬢が本日この屋敷へやって来るなら……まずは使用人全員を集めて、大事な客人が来ることを伝える必要があるな」「ええ、そうですね」頷くリカルド。「では、リカルド。早速この屋敷にいる使用人全員をホールに集めるのだ! いますぐにな!」「はい!」(そ、そんな……! ただでさえ忙しいのに……それを使用人全員をホールに集めるだなんて……!! 無茶振りだ!!)返事をしながら、心の中でリカルドが悲鳴を上げたのは言うまで無い――****一方その頃
――翌朝「う〜ん……よく寝たわ……」目覚めたイレーネはベッドの上で伸びをした。「それにしても……いよいよ、本当に何も無くなってしまったわね」この部屋には、もはやイレーネが眠っていたベッドしか残されていなかった。残りの家具は全て昨日、ルノーの手によって階下のリビングに運ばれていたからだ。「さて、起きましょう。最後に何も忘れ物が無いか色々見て回らないとならないものね」イレーネは室内履きに足を通すと、ベッドサイドにかけておいた洋服に着替え始めた。**「うん、美味しい。我ながらクッキー作りの天才ね」朝食代わりにクッキーを食べながらイレーネはウンウンと頷く。イレーネは料理もお菓子作りも、この屋敷で働いていたボビーという名のシェフに教わった。自分が屋敷を去った後、食事に困らないようにと彼が直々にイレーネに教えてくれたのだった。「ボビーさん……この屋敷が無くなったことを知ったら、ショックを受けるかしら……」少しだけ感傷に浸りながらクッキーを完食すると、屋敷の中に忘れ物が無いか見て回った。「見回り完了、いよいよこの屋敷を出る時がやってきたわね」扉を開けて外に出ると、鍵をかけるイレーネ。「後はルノーに言われたとおり、鍵を郵便受けに入れておけばいいのね」屋敷の鍵を紙でくるむと、郵便受けに入れた。「これで……このお屋敷ともお別れね」改めて、イレーネは屋敷をじっと見た。彼女がこの屋敷にやってきたのは5歳の時。母親は出産のときに亡くなり、父親は5歳のときに病気で亡くなった。家族を失ったイレーネを引き取ったのが、父方の祖父だったのだ。以来15年間、ずっとイレーネはこの屋敷で暮らしてきた。その生活も今日で終わる。「15年間、お世話になりました」ペコリと屋敷に頭を下げると、2つのトランクケースをガラガラとひっぱりながら、イレーネは辻馬車乗り場を目指した――**** 10時半――イレーネは駅舎に到着すると、男性駅員に声をかけた。「あの、恐れ入りますが……電話をお借りできないでしょうか?」田舎町の『コルト』では、まだまだ電話が普及していない。そこでこの町に住む人々は駅で電話を借りていたのだ。「ええ、よろしいですよ。どうぞ中に入ってお使い下さい」「ご親切にありがとうございます」イレーネはお礼を述べると駅員室に入り、壁に取り付けた電話の受話
イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」古びた机の上には書類の山が置かれている。イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」イレーネはパチンと手を叩い...
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