【あの……お仕事の延長ってありますか?】 貧しい男爵家のイレーネ・シエラは唯一の肉親である祖父を亡くし、住む場所も失ってしまう。住み込みの仕事を探していたときに、好条件の求人広告を見つける。けれどイレーネは知らなかった。この求人、実は契約結婚の求人であることを。そして一方、結婚相手となるルシアンはその事実を一切知らされてはいなかった。呑気なイレーネと気難しいルシアンの期間限定の契約結婚が始まるのだが……?
Lihat lebih banyakゲオルグがマイスター伯爵に怒鳴られ、逃げるように城を去っていった翌日――イレーネは馬車の前に立っていた。「……本当にもう帰ってしまうのか? 寂しくなるのぉ……」外までイレーネを見送りに出ていた伯爵が残念そうにしている。「そう仰っていただけるなんて嬉しいです。けれど、お城の見学も十分させていただきましたし何よりルシアン様が待っているでしょうから。恐らく今頃私のことを心配していると思うのです」(きっとルシアン様は私が伯爵様と良い関係を築けているか心配しているはず。ゲオルグ様と伯爵様の会話の内容も報告しないと)イレーネは使命感に燃えていた。しかし、内情を知らないマイスター伯爵は彼女の本当の胸の内を知らない。「なるほど、そうか。2人の関係は良好ということの証だな。ルシアンもきっと、今頃イレーネ嬢の不在で寂しく思っているに違いない。なら、早く顔を見せてあげることだな」「はい。早くルシアン様の元に戻って、安心させてあげたいのです」勿論、これはイレーネの本心。何しろ、ルシアンを次期当主にさせる為の契約を結んでいるのだから。「何と! そこまで2人は思い合っていたのか……これは引き止めて悪いことをしたかな? だが、この様子なら安心だ。ルシアンもようやく目が覚めたのだろう。どうかこれからもルシアンのことをよろしく頼む」伯爵は笑顔でイレーネの肩をポンポンと叩く。「ええ、お任せ下さい。伯爵様。自分の役割は心得ておりますので。それではそろそろ失礼いたしますね」イレーネは丁寧に挨拶すると、伯爵に見送られて城を後にした――****一方その頃「デリア」では――「……またか……」手紙の束を前に、ルシアンがため息をつく。「また、イレーネさんからのお手紙を探しておられたのですか? ルシアン様」紅茶を淹れていたリカルドが声をかける。「い、いや! 違うぞ! と、取引先の会社からの報告書を探していたところだ!」バサバサと手紙の束を片付けるルシアン。その様子を見たリカルドが肩をすくめる。「全くルシアン様は素直になれない方ですね。正直にイレーネさんの手紙を待っていると仰っしゃればよいではありませんか? ……本当に、何故伯爵様はイレーネさんのことを教えてくださらないのでしょう……」その言葉にルシアンは反応する。「リカルド、お前まさかまた……祖父に電話を入れたのか?
書斎ではマイスター家の現当主、ジェームズ伯爵の声が響き渡っていた。「何!? 何故ゲオルグとイレーネ嬢が一緒にやってきたのだ!?」イレーネがゲオルグと共に現れたことで伯爵の驚きは隠せない。「ええ、お祖父様に会う前に『クライン』城に行っていたのですよ」肩をすくめて答えるゲオルグ。『クライン』城とは、先程イレーネとゲオルグが出会った城のことだ。「そうだったのか? だが何故、すぐにこの城に来なかったのだ? お前の為に今日は予定を空けていたのだぞ?」どこか非難めいた眼差しを送る伯爵。「申し訳ございません。実は今、新しい事業計画を立てておりまして自分の好きなあの城で構想を練っていたのですよ。お祖父様に提案するためにね」「また、くだらない事業計画では無いだろうな?」「ええ勿論です。今度こそお祖父様のお気に召すこと間違いないです」得意げにスーツのポケットから封筒を取り出すゲオルグ。一方のイレーネは先程から2人のやり取りを黙って見ていた。(お二人の話なのに、私この場にいて良いのかしら? それにしても意外だったわ。ゲオルグ様は伯爵の前では『お祖父様』と言うのね。私の前では『爺さん』と言っていたのに……)「分かった、ならその計画書とやらを出せ。一応見てやろうじゃないか」「ええ、是非御覧下さい。今度こそお祖父様の納得のいく事業だと思いますよ。確か跡継ぎになる条件には、『仕事で成功を収めた者』も含まれていましたよね?」ゲオルグはチラリとイレーネを見る。「ああ、確かにそう言ったな。跡継ぎ候補は平等に扱わなければならないから……ん? な、何だ……この事業計画書は……」伯爵の肩がブルブル震え始めた。「ええ、どうです? 素晴らしい計画書でしょう? これでマイスター伯爵家も、益々発展していくに間違いないですよ」自慢気に胸をそらすゲオルグ。しかし、得意になっている彼は気づいていない。伯爵が震えているのは怒りのためによるものだということを。「あの、伯爵様。どうされましたか?」異変に気づいたイレーネが声をかけると、伯爵は顔を上げた。「ゲオルグ……お前、この事業計画……本気で言っているのか?」怒りを抑えながら尋ねる伯爵。「ええ、勿論です。本気も本気ですよ。何しろ、次期当主の座がかかっているのですからね」すると……。「ふ……ふざけるなーっ!!」伯爵が大声
「婚約者には、包み隠さず何でも打ち明けるのが筋じゃないか? 俺だったらそうするね。それが相手に対する誠意ってものだと思わないか?」身を乗り出すようにイレーネに語るゲオルグ。「そういうものなのでしょうか?」首を傾げ、反応が鈍いイレーネにゲオルグは益々不信感を抱く。(何だって言うんだ? そんなにこの話に興味を持てないのか? やはり、2人の婚約の話は嘘なんじゃないだろうか?)一方のイレーネはゲオルグの話を冷静に考えていた。(そう言えば、リカルド様に少し聞いたことがあるわ。確かゲオルグ様は何度もお相手の女性を取っ替え引っ替えしているって。それはやはり、過去の女性遍歴を交際相手に話してきたからじゃないかしら。きっとそうね、間違いないわ)「まぁいい。誰だって自分の婚約者が過去にどんな相手と交際していたか気になるだろうからな……ルシアンが話していないなら、俺が代わりに教えてやろう。どうだ? 知りたいだろう?」「いいえ? 別に知りたくはありませんけど?」「やっぱりな、そうくると思ったよ。誰だって知りた……ええっ!? い、今何と言ったんだ!」「はい、別に知りたくはありませんと申し上げました」何しろ、イレーネは1年間という期間限定でルシアンの妻になる雇用契約を結んだだけの関係。そこには一切の恋愛感情など存在しないのだから。「クックックッ……そうか……やはり俺の思ったとおりだったな……」もはや心の内を隠すこともなく、不敵に笑うゲオルグ。「つまりだ、イレーネ嬢。君はルシアンに頼まれて婚約したのだろう!? 何しろ爺さんが提案した次期当主になる条件は結婚なのだからな! どうだ? 違うか?」「はい、違います」「な、何!? 違うのか!」思わず椅子からずり落ちそうになるゲオルグ。そういうところはルシアンと似ている。「ええ、違います。ルシアン様に頼まれてはいません」最初に頼んできたのはリカルド。イレーネは決して嘘などついてはいない。「そうか、違うのか……では俺の見込み違いだったというわけか……? だとしたら何故ルシアンが以前交際していた女性のことを知りたくないのだ?」「ルシアン様に関するお話は、本人から直接聞きたいからです。私に話していないということは、話す必要が無いからなのではないでしょうか? それなのに無理に知りたいとは思いませんから」(私はお給料を頂
「どうぞ、イレーネ嬢」ゲオルグは自分が手配した馬車の扉を開けた。「ありがとうごいます」早速イレーネは馬車に乗り込むと、ゲオルグも後に続く。扉を閉めるとすぐに馬車は音を立てて走り始めた。「どうだい? イレーネ嬢。この馬車の乗り心地は?」何故か自慢気に尋ねてくるゲオルグ。「そうですね。座面も背もたれも丁度良い具合ですね」あまり馬車にこだわりがないイレーネは当たり障りの無い返事をする。「やっぱり分かるか? この馬車は俺が自ら考案したんだ。特にこだわったのが椅子だ。絶妙な座り心地だろう? 実は馬車の内装も今後の俺の商売に取り入れようかと考えている最中なのさ」「ゲオルグ様自ら考案とは素晴らしいですね。日々、仕事のことを考えていらっしゃるなんて。流石はルシアン様と血が繋がっているだけのことはあります」すると何故か突然ゲオルグの顔が曇った。「……やめてくれないか? あいつを引き合いに出すのは」「え? 駄目なのですか?」「ああ。あいつは昔から何かにつけ生真面目で、どこか俺を見下しているようなところがあったからな。確かにあいつの方がいい大学は卒業しているが……」ブツブツ文句を言い始めるゲオルグ。一方のイレーネは話を半分にしか聞いていなかった。何故かと言うと、馬車の中の暖かさと揺れで眠くなってきたからだ。(眠い……眠いわ……。今にも意識が……)必死で眠気をこらえるも、本能には抗えない。ついに……。「ふわぁぁあ……」我慢できずに、イレーネは大きな欠伸をしてしまった。勿論、一応淑女? らしく口元は手で隠したのだが。しかし当然のように正面に座るゲオルグに見られてしまった。「何だ? 眠くなったのか?」「あ、お話中だったのに、失礼な真似をしてしまい、申し訳ございません」すぐにイレーネは謝る。てっきり不機嫌になるのではないかとイレーネは思ったが、ゲオルグの反応は予想外のものだった。「何、別に気にすることはないさ。誰だって眠くなることがあるのだから」「確かに仰るとおりですね。つい馬車の乗り心地が良かったもので眠気が来てしまったようです」「お? 君は中々気の利いたことを言ってくれるじゃないか? 気に入ったよ。以前ルシアンが付き合っていた女性とは全く真逆のタイプだ。……おっと、婚約者の前でこれは余計な話だったかな。気に障ったなら許してくれ」ゲオル
イレーネとゲオルグは2人でガゼボの中で会話をしていた。「イレーネ。君は本当に、あのルシアンと婚約しているのか?」真剣に尋ねるゲオルグ。「はい、そうです。私のことを当主様に認めていただくために1週間前から城に滞在しております」(ゲオルグ様はルシアン様のいとこにあたる方。失礼な態度をとってはいけないわね)丁寧にゲオルグの問に答えるイレーネ。「認めていただくって……1週間も滞在しているってことは爺さんに気に入られているようなものじゃないか……」ため息をつきながら、前髪をかきあげるゲオルグ。「そうなのでしょうか? 本当にそう思われますか?」ゲオルグの言葉に嬉しくなったイレーネは笑みを浮かべる。「……それを俺に尋ねるのか? 全く君って人は……俺とルシアンの話は聞いているんだろう? 」「はい、うかがっております。後継者問題が起きているのですよね?」「そうだ、ルシアンは爺さんのお気に入りだからな。何と言っても取り入るのがうまい。結局祖父の心配事はルシアンが未だに身を固めないってことだ。だから俺を引き合いに出して、先に結婚した相手に当主の座を譲ると決めたのさ」肩をすくめて投げやりに話すゲオルグ。「そうなのですね」イレーネは使用人が淹れてくれた紅茶を飲みながら、適度に頷く。「だが、それでも俺にもチャンスはあるってことだろう。だから今、仕事を頑張っているんだ。それに新しい事業計画だって立てている。今日だって爺さんに呼ばれたからチャンスだと思ってここへ来たっていうのに……」そして再びゲオルグはため息をつくと、イレーネを見つめる。「? あの……何か?」キョトンと首を傾げるイレーネ。「今、分かったよ。爺さんが何故俺をここへ呼んだのか……つまり、ルシアンの婚約者になった君を俺に引き合わせるためだったのか。全く……イヤになるぜ」「はぁ……」適当に相槌を打つイレーネ。(いつまでこのお話は続くのかしら……歩いて帰るからそろそろ帰りたいのだけど)「君、俺の話を聞いているのか?」「はい、聞いておりますわ。お仕事を頑張って事業計画も立てていらっしゃるのですよね?」「ああ、そうだ。今日はこれからこの事業計画書を持って爺さんのところを訪ねるつもりなんだ」得意げに背広のポケットを叩くゲオルグ。この話を聞いてイレーネはゲオルグから開放されるチャンスだと思
振り向いたイレーネは声をかけてきた青年をじっくり見た……のには訳があった。(あら? この方、いつの間に現れたのかしら? それに何処かで見たような顔だわ)「聞いているのか? 返事くらいしたらどうなんだ?」青年はイレーネに近付き……近くまで来ると、足を止めた。「へぇ〜……これは驚いた。随分若くて綺麗な女性じゃないか。一体ここへ何をしに来たんだい? 良い身なりをしているわりに、供をつけてもいないようだし……。もしよければ君の名前を教えてもらえないか?」イレーネが若く美しい女性だということに気づいた青年は笑みを浮かべる。「……」一方のイレーネはじっと青年を見つめている。どこかで見たことのある顔のような気がしてならずに、記憶の糸を辿っていたのである。(やっぱり、何処かで見たことのある顔だわ……? いつ、何処で見たのかしら……?)返事もせずに、自分をじっとみつめるイレーネに青年は首を傾げる。「どうしたんだ? お嬢さん」そこでようやくイレーネは口を開いた。しかも、思いきり勘違いさせるような口ぶりで。「あの、私達……どこかでお会いしたことありませんか?」「え……?」青年は戸惑いの表情を浮かべ……次の瞬間、満面の笑みを浮かべる。「これは驚いたな! まさか君のように美しい女性から口説かれるとは!」「え? 口説く?」イレーネは自分の発した言葉が、まさか青年にとっての口説き文句になるとは思わなかった。しかし、今の言葉で青年が上機嫌になったのは言うまでもない。「生憎、会うのは初めてだよ。君のような美人、一度会ったら忘れるはずはないからね。……そうだ、まずは自己紹介しよう。俺の名前はゲオルグ・マイスター。この城はマイスター伯爵家が所有する城の一つで、いずれは俺が当主の座を引き継ぐ予定になっているのさ。今日は当主に呼ばれていて、これから会いに行くのだが、その前に自分が好きな場所を訪れていたんだよ」青年……ゲオルグはイレーネが何者か知らないので得意げに語る。一方のイレーネは青年の話を聞きながら、目まぐるしく頭を働かせていた。(ゲオルグ……。そうだわ、何処かで見たことがある顔だと思ったら、ルシアン様によく似ていたのだわ。つまり、この方と次期当主の座を競い合っているというわけね。私がルシアン様と関係があることが知られたらどうなるのかしら?)しかし、イレー
リカルドがイレーネの身を案じ、ルシアンが仕事も手につかない? 頃――イレーネはマイスター伯爵とサンルームで午前のティータイムを楽しんでいた。「どうだね? イレーネ嬢。マイスター家の紅茶は」「はい、香りも良くて美味しいです。さすがは有名ブランドの紅茶ですね」紅茶の香りを吸い込むと、イレーネは笑みを浮かべた。「そうか、そうか。それは良かった。何しろ我が会社が創立した当時に初めて生産した茶葉で歴史のある紅茶だからな」「それにしても素晴らしいですね。マイスター家では150年も歴史のある紅茶を作り続けているのですから」感心した様子でイレーネは伯爵を見つめる。「シエラ家だって、ワインを作っていたのだろう? 大したものではないか」「そんなことありませんわ。祖父の代でワイナリーは終わってしまいましたから。私が男性だったならワイナリーを残せたかもしれませんけど」少しだけしんみりした様子で紅茶を飲むイレーネ。「だが、きっとイレーネ嬢の祖父は君という孫娘を誇りに思っていたに違いない。何しろ、しっかり者で気立ても良いからな」「そうでしょうか……? でもそう、仰っていただけるなんて光栄です。ところで伯爵様」「何だね?」「本当に私の方から、ルシアン様に連絡を入れなくても良いのでしょうか? こちらへ滞在してから、もう1週間になりますのに」するとマイスター伯爵が豪快に笑う。「ハッハッハッ! 良いのだよ! 少し位心配させてやきもきさせた方が、あいつにとってはな!」「そいうものなのでしょうか……?」(ルシアン様のことが気がかりだけど……でも、マイスター伯爵様に気に入られることが先決だものね。ここは伯爵様の言う通りにしましょう)イレーネは自分の中で結論づけた。「そうですね。少し位ルシアン様に心配していただいたほうが良いかもしれませんわね?」「ああ、そうだとも。中々話の分かる娘ではないか。それで? 今日は何をして過ごすつもりかね?」「本日もお城を見学に行こうと思っております。確かこの城からほど近い、ガゼボの美しいお城がありましたよね?」「ああ、あそこか。そう言えば、イレーネ嬢はあの城のガゼボを随分気に入っていたようだしな」マイスター伯爵はイレーネが宿泊した翌日から、自分の所有する城を全て案内していたのだ。「はい。私、ガゼボにずっと憧れていたのです。また
イレーネが『ヴァルト』の城に残り、1周間が経過していた。マイスター伯爵邸では、リカルドが予言? していた通りイレーネ不在により、活気がすっかり消え失せていた。「ルシアン様。使用人たちが話しておりましたよ? イレーネ様はいつ頃この屋敷に戻られるのだろうと」書斎で仕事をしているルシアンに紅茶を淹れに来たリカルドが声をかける。「さぁな。半月程滞在すると言っていたから、まだ戻って来ないのではないか?」ペンを走らせながらルシアンが答える。「それで、イレーネさんからは連絡がきているのですか?」その言葉にルシアンの動きがピタリと止まる。「電話がきている様子も無ければ、お手紙も届いてはおりませんよね」「そうだな……だが、便りがないということは、元気でいる証拠なのではないか?」ルシアンは相変わらず顔を上げないまま、黙々と仕事をしている。そんなルシアンの手元を見ながらリカルドが声をかけた。「ルシアン様」「何だ?」「何故、この書類にまでサインをしているのですか? これは取引先から受けとった書類でサインは必要ありませんよね?」「え!? あ!」慌てて書類を避けるルシアン。「やはり、ルシアン様もイレーネ様から連絡が来ないので気がかりで仕方ないのでしょう? 心配していないふりをしてもみえみえですよ?」「う、うるさい! お前が先程から話しかけてくるから間違えただけだ! 妙な勘ぐりをするのはやめろ!」「そうでしょうか? でもその証拠に、ここ1週間ルシアン様は外出せずに屋敷に閉じこもっているではありませんか。イレーネさんからの連絡を待っているからですよね?」「違う! 片付けなければならない書類が山積みだからだ! そ、それに閉じこもってばかりではないぞ? ちゃんと外へ出て仕事だってしている!」しかし、それでもリカルドは食い下がってくる。「確かに外出はなさっておりますが、遅くても3時間以内には戻ってこられておりますよね? しかも毎日『おい、俺宛に手紙が届いていないか?』とメッセンジャーに尋ねているのを知らないとでも思っているのですか?」「うっ!」ここまで問い詰められれば、さすがのルシアンも何も言い返せない。「そ、それは……」しかし、リカルドはルシアンの言い訳を聞こうともせずにため息をつく。「はぁ〜……イレーネさん。本当にあなたはどうしてしまったのでし
――コンコン ルシアンが書類に目を通していると、書斎の扉がノックされた。「入ってくれ」声をかけると、紅茶を用意したリカルドが扉を開けて入ってきた。「ルシアン様、紅茶をお持ちいたしました」「ありがとう」リカルドが紅茶を机に置くと、すぐにルシアンは手を伸ばして口をつけ……。「何だ?」じっとその場で待機して自分を見つめるリカルドに声をかけた。「ルシアン様、何があったのか当然お話してくださるのですよね?」リカルドの目には強い意志が宿っている。「当然て……」「ええ、当然のことです。契約婚のことを思いつき、尚且つイレーネさんを見つけ出したのは、この私なのですよ? 当然何があったのか知る権利があります」「分かったよ……」ルシアンは『ヴァルト』の城で何があったのか、説明を始めた――**「な、何ですって! それではイレーネさんは身代わりとなって、ルシアン様以上に気難しい当主様の元へ残ったのですか!?」書斎にリカルドの大きな声が響き渡る。「人聞きの悪い事を言うな! 誰が身代わりだ? 大体気難しいとはどういうことだ。この俺が気難しいとでも言うのか?」「ええ、そうです。ルシアン様のことですよ。御自分でそのことに気付かれていないのですか?」「全くお前というやつは……本当に遠慮というものを知らないな」ジロリとリカルドを睨みつけるルシアン。子供の頃から互いのことを良く知るリカルドは遠慮がない。何しろ2人は幼馴染同士なのだから。「はぁ……そうですか……でも半月もイレーネさんがこの屋敷を不在にするなんて……」「何だ? その態度は。もしかしてイレーネがいないと何かあるのか?」残念そうにため息をつくリカルドの姿に、ルシアンはムッとしながら尋ねた。(ひょっとしてリカルドはイレーネに特別な感情を寄せているのか?)「ええ。大ありですよ。イレーネさんがいないと、寂しいじゃありませんか」「寂しい……だって?」ルシアンはイレーネがこの屋敷に来てからのことを思い出してみる。(確かにイレーネがここへ来てからは何かと色々あったな……)「はぁ……毎日が刺激に満ちていたのに、またありきたりな日常が戻ってきてしまうのですね……」心底残念そうなリカルド。「リカルド……今からそんなことを言っていたらどうするのだ? 1年という契約期間が終了すれば、イレーネはここを
イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」古びた机の上には書類の山が置かれている。イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」イレーネはパチンと手を叩い...
Komen