共有

第10話

篠崎暁斗が車に乗ると、吉沢凛子は我慢できずに尋ねた。「あの人たちと何を話したんですか?」

「なにも、ちょっと知り合いの友人に状況を聞いてみたんだ」

「あなたが警察に彼らを連れて来させたんですか?」吉沢凛子はさっき警察署に入っていった家族三人を指差して言った。

「あの人たちは誰なんだ?」

「私の家を占拠している一家です」

「ああ、たぶんあの人たちが警察に通報したんだろう。だから連れてきて状況を聞いているんじゃないかな」

吉沢凛子はそれを聞いて確かにそうだと思い、それ以上は聞かなかった。

家に帰ると、吉沢凛子は警察から電話がかかってきた。あの一家は三日後にあの家から引っ越すことに同意したらしい。

吉沢凛子は信じられなかった。

警察の仕事はいつからこんなにも速くなったのか?

吉沢凛子は喜んでこの良い知らせを篠崎暁斗に伝えた。この時、彼はソファに座って携帯をいじっていた。

篠崎暁斗は顔も上げずに、ただ「そうか」と言って、続けて携帯を見ていた。

吉沢凛子はこの機に乗じて篠崎暁斗に貸してくれると約束したあの1000万はいつもらえるのか尋ねた。

今度は篠崎暁斗は携帯を下ろした。

「君の家は購入してからまだ5年以下だろ、家を売って得られた利益の結構な割合を税金として支払わないといけないし、その他諸々の費用を差し引いたら、手元に残るのは1000万に満たないはずだ。君はどうやってそのお金を俺に返すと約束してくれる?」と尋ねた。

そうなのだ、あの家は諸費用を差し引いたら、手元に来るのは多くても800万くらいにしかならないのだ。

今度は吉沢凛子が質問されて返事に困ってしまった。

そして暫くしどろもどろになっていた。

「今公認会計士の資格試験を受けているんです。一回で合格すれば、給料が高い仕事に変えようと思っています」

篠崎暁斗は明らかに信じていない様子だった。ただ吉沢凛子が時間稼ぎをしているだけな気がしたのだ。

しかし、それでも彼は彼女の要求に応えることにした。以前、約束していたことだからだ。

「明日の午前中にカードに振り込むよ」

でも、篠崎暁斗はまた新しい条件を出してきた。「俺たち二人が交わした婚前契約は他言無用だ。絶対におじいさんに知られないでくれ」

吉沢凛子はもちろん何の疑いもなく同意した。

次の日の午前。

篠崎暁斗は会社に到着すると、まず人事を管理している滝本副社長を呼びつけ、彼の部下に林佑樹に通達を出すように指示をした。その通達とは会社側は彼を技術部へ転属させてもいいが、そこは会社の中核を担う部署だから、社内機密保持のために120万の補償金を支払えというものだった。彼が120万を払い終えたら、この部署へ配属するらしい。

滝本副社長は聡明でかなりやり手の中年男性だ。彼は篠崎社長がどうしてこの新人社員に入社して数日で部署を転々とさせ、こんなに『手厚い待遇』をするのかとても興味津々だった。

しかも、いろいろと理由をつけて、彼にハードルを設置しているのだ。滝本副社長が長年この会社に勤めてきて、今まで機密保持のための保証金を課すなど一度も聞いたことがない。

今回彼は教えを受けたといえよう。篠崎社長を怒らせると、訳も分からず死ぬハメになるということだ。

一方、林佑樹はというと、この時120万の家賃収入を得て大喜びしている最中だった。彼はこの間、榎本月香に指輪を買ってあげることができなかったので心中むしゃくしゃしていたのだ。

吉沢凛子を利用して得たお金だから、今回それで前回の面子を取り戻せたというものだ。彼はここ数年自分が払ってきた家賃を計算し、120万以上であると分かり、どちらかというと吉沢凛子のほうが得をしていると思った。

携帯に表示されている120万を見て、林佑樹は榎本月香に電話をかけ、会社から一ヶ月分の給料を前倒しでもらったから、仕事が終わったら彼女を連れてあの指輪を買いに行けると嬉しそうに話した。

榎本月香はあまりの嬉しさに飛び跳ねそうになった。これで彼女はまた吉沢凛子にマウントがとれるわけだ。彼女は凛子が怒りで発狂してしまうと確信した。

ただ、人生というものは何が起こるか全く予測できないもの。

林佑樹が電話を切ると、すぐに人事部から120万の機密保持保証金を支払えば転属させてくれるという通知を受け取った。転属後の給料は基本給が10万であとは歩合制で彼の仕事の成果によって給与を渡すというのだ。

通知を受けて、林佑樹は怒って汚い罵り言葉を吐き出した。

彼はさっき120万を手に入れた喜びの熱からまだ冷めていないのだぞ。

でも、このチャンスを逃すのは、また惜しいと思った。

彼は自分のことを一ヶ月60万から80万くらいの給料がもらえるくらい十分な能力があると思っていたのだ。

彼は榎本月香に指輪を買う約束までしていたのに......

クソッ!

林佑樹は悩みに悩んで頭を掻きむしった。結局彼は先に部署を変えてから考えることに決めた。

指輪を買うことに至っては、まあ少しくらい後回しにしてもいい。彼は榎本月香がきっと理解してくれると信じていた。

仁愛病院にて。

吉沢凛子は篠崎暁斗から送金してもらい、急いで病院に来てお金を払っていた。

しかし、会計所のスタッフが、彼女のおばあさんの手術費用はもう十分だと説明した。

彼女は慌ててカード記録のサインを見ると、なんとそれは大沢康介だった。

1000万近くの大金なのに。

大沢康介はどうしてこんなことをしたのだろう?

しかも彼女には一言も伝えてくれていない。

医者という職業の人間はこんなにも人助けが好きなのか?

吉沢凛子が急いで病室に来た時、ちょうど大沢康介が病室回りをして出てきた。

「吉沢さん、おばあさんの手術の日程が決まりました。やはり来週水曜日に計画通りに行います」と大沢康介は言った。

「大沢先生、私の代わりにお金を払っていただいて、どうもありがとうございます。もうお金の用意ができたので、今すぐお金をお返しします」

それを聞いて、大沢康介の表情が一瞬でこわばり、気まずくなって笑った。

「そんなに焦らないで大丈夫ですよ。先におばあさんの手術の予定を立てるのが何よりも重要なことですから」

吉沢凛子はそれでも折れずに彼に今すぐお金を返したかった。

この時、大沢康介に一本の電話がかかってきた。

電話の相手の声はとても大きく、吉沢凛子がその声を聞くと、どうも相田紬の声に似ていた。彼女は大声で大沢康介に病人のために手術費用を出したんじゃないかと詰問していた。

大沢康介は電話のスピーカー部分を押さえて、足早に医者のオフィスへと入っていった。

吉沢凛子は彼のあとは追わずに、もう少し後でまた彼のところに行こうと思い、先におばあさんの様子を見にいった。

大沢康介がオフィスへ入った後も携帯から聞こえる相田紬の声は休むことなく響いていた......

大沢康介はイライラして携帯を裏返しにしてデスクの上に置き、相田紬とは一言も話したくなかった。

少し経ってから、携帯はようやく静かになった。

大沢康介は引き出しを開けて、中から精巧な作りの写真立てを取り出した。その写真立てには大沢康介とある女の子が一緒に写っていた。

その女の子は清純そうで可愛らしく、外見や顔つきはとても吉沢凛子に似ていた。

その女の子の名前は水野莉沙。大沢康介の初恋でもある恋人で、20歳の時に癌でこの世を去った。

それ以来、大沢康介は医者になると決め、彼はこれからたくさんの癌患者たちを救うと誓ったのだ。以前の彼が経験した悲しみを他の家族に経験させたくないと思っていた。

昼、吉沢凛子は大沢康介を見つけ、お金を彼に送金した。

おばあさんが二日後に手術をするための準備に、家族がずっと付き添わなければならなかったので、吉沢凛子は家のこと、それから会社のことを先に片付けておく必要があった。

午後、吉沢凛子が会社に戻った時、榎本月香の姿は見当たらなかった。彼氏が彼女を連れて大きなダイヤの指輪を買いに行ったらしい。

もうすぐ退勤時間になる頃、吉沢凛子はもう会社に休みをもらい、仕事も他の人に任せてしまい帰ろうとしていた。その時、榎本月香がマスクをつけて戻ってきたのを目撃した。目尻は少し赤く腫れていて、誰かと喧嘩したような感じだった。

榎本月香はオフィスに入ると保険証を取り出し、後ろを振り向いた時に、入口に吉沢凛子が立っているのに気がついた。

「なに見てるのよ?」榎本月香は口を開くとすぐ激怒した。

「ちょっとあなたに聞きたいことがあるの」吉沢凛子は言った。

「私忙しいの、あんたなんかに構ってる時間なんてないのよ」

「林佑樹が私の家を勝手に人に貸出したこと、あなたは知っているのか聞きたいのよ」

榎本月香は驚いた。

「佑樹があなたの家を貸出したって?いつのこと?」

「ここ最近よ」

「じゃあ、彼はいくらお金をもらったのよ?」榎本月香は怒って歯ぎしりをした。

「120万」

「あの男、なんで突然私にダイヤの指輪を買うと言い出したのかと思ってたのよ。しかも、私に会社が給料を先に振り込んでくれたって騙して。そして今度はそのお金を友達に貸しただなんて言い出して、あの大嘘つき!」榎本月香は地団太を踏んで、そのまま会社を飛び出していった。

関連チャプター

最新チャプター

DMCA.com Protection Status