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第3話

榎本月香は吉沢凛子に背を向けて話していたので、彼女の存在に気づいておらず、話はもっとエスカレートしていった。

「吉沢凛子はね、学生の時、ある男性教師にどっちつかずの態度で誘惑して、卒業論文をその先生に書いてもらったんですって」

「綺麗な子ってお得よねぇ」と受付嬢は嫉妬して言った。

「綺麗だからって何よ、猫かぶりのくせに、男を誘うことしか能がないんじゃない」と榎本月香は不満そうに言い返した。

「それも彼女の能力の一つでしょ、彼女のカレシって超イケメンだって聞いたけど、その人もあなたたちの同級生なの?」

「ハッ!」と榎本月香は少し得意そうな顔をして言った。「林佑樹は今、私の彼氏よ」

「いつから?」受付嬢は興味津々で尋ねた。「ということは、吉沢凛子はフラレたってこと?」

「私が振られてそんなに嬉しいわけ?」吉沢凛子が突然話しかけたので、二人はとても驚いた。

「あんた、幽霊か何かなの、全く気配を感じなかったわよ、びっくりしたぁ」榎本月香は白目で吉沢凛子を一瞥した。

「榎本月香、あなたこんなところで油売ってないで、林佑樹の履歴書を送るのを手伝ってあげれば?あなただけの給料じゃ、あいつを養うのは難しいわよ」

榎本月香は吉沢凛子と同級生なのだが、凛子は早くに財務部長まで昇進し、彼女はまだ下っ端の経理職員でしかなかった。だから、二人の給与にはかなりの差があるのだ。

吉沢凛子がそれでも週末にはチラシ配り、広告会社のモデルのアルバイトを掛け持ちしていたのは、林佑樹の出費が大きかったからだ。彼はゲームをしたり、ブランドの高級品を購入したり、さらにはバーで夜通し酒を飲むなど、彼女が稼いだお金をまるで湯水の如く散財していたのだ。

もちろん吉沢凛子には、このことを榎本月香に教えるような義理などない。

榎本月香はこの時、良い物を手に入れたと思っていたから、彼女は吉沢凛子が言う皮肉を自分のことを嫉妬し恨んでいるからだと思って聞いていた。

そして、彼女は見下したように笑った。「ご心配いただかなくても結構です。アステルテクノロジーが彼に面接の連絡をくれたの。アステルテクノロジーって聞いたことあるでしょ?あそこは大企業で、月収は100万あるんだから」

榎本月香は人差し指を立てて吉沢凛子の目の前で左右に揺らした。「羨ましいでしょ、嫉妬した?」

「お子様ね!」吉沢凛子は榎本月香の横を通り過ぎ、自分のオフィスへと向かっていった。

オフィスに入ると、彼女はデスクの上に溜まっているまだ処理されていない領収書の山を見つめた。

「これは経理の仕事じゃないの、どうして私のところに?」と吉沢凛子はアシスタントに尋ねた。

「福留社長が榎本月香さんがここ数日体調不良だから、吉沢さんに代わってやってもらうようにと言ってきたんです」とアシスタントは答えた。

「また私に」吉沢凛子は怒ってファイルフォルダーをデスクに叩きつけ、その衝撃で中にあった領収書が床に散乱した。

これが初めてのことではない。以前、榎本月香がこんなに腹黒女だとは全く思っていなかった。今、吉沢凛子は自分は本当にバカだと思った。昔の自分は榎本月香を親友だと思っていたのに、まさか自分に災いを招いてしまう結果になるとは。

丸一日、吉沢凛子は水すら一口も飲む暇がないほど忙しく働いた。食事なんて言うまでもない。

夜、家に帰ってカップラーメンを適当に食べた。

それから、おばあさんにテレビ電話をかけた。おばあさんはまだ自分が癌になったことを知らなかったので、吉沢凛子はただ簡単に彼女の病状について話し、医者の言うことをよく聞いて、お金のことは気にせず、しっかり病気を治すように伝えた。

おばあさんは吉沢凛子の仕事が忙しいのを知っていて、逆に彼女に自分の病気の心配はしないようにと慰めてくれた。

吉沢凛子は何度も自分の結婚について話そうと思ったが、喉元まできて、また呑み込んでしまった。

次の日の朝、吉沢凛子は少し熱っぽく、全身がだるくて会社を休んだ。

昼になると、体調が少し良くなったので、荷物を整理して、夜、篠崎家に引っ越そうと思っていた。

知らない男性と一緒に寝ることを考え、吉沢凛子はそわそわと緊張してきた。

夕方、吉沢凛子はスーツケースと身の回りの荷物を持ち、篠崎暁斗が送ってきた住所にたどり着いた。

錦が丘小路88号。

錦が丘小路は少し古い居住区で、通りは非常に狭く、道の両側には自転車やバイクなどが駐めてあり、他にも雑多な物が置かれていた。

吉沢凛子は歩きづらそうにスーツケーツを引いて歩きながら、人に尋ねて行ったが、どうしても住所の88号が見つからなかった。

彼女はだんだん自分が道に迷ってしまったのだと感じてきた。

なぜなら奥に進むほど、周りの環境はきれいに整っていき、道の幅も広くなるし、誰かの家の専用駐車場まで見えてきて、さっきまでと様子がガラッと変わってきたからだ。

88号って一体どこなんだろう?

何人かに尋ねてみたが、みんな彼女にもっと奥へ進むように言った。でも、もう突き当たりになるというのに、88号はまだ見つからなかった。

吉沢凛子は仕方ないので、篠崎暁斗に電話をかけるしかなかったが、彼はいつまでたっても電話に出なかった......

そして、最後には電源を切られてしまった。

吉沢凛子に焦りと怒りが同時に押し寄せてきた。一体この人はどういうつもりなの?

彼女に今夜引っ越して来るように言っておいて、家まで迎えに来ないのはまだいいとして、今彼女が迷子になっているというのに電話にも出ないなんてどういうことなのか。

頭が少しぼうっとしてきて、吉沢凛子は緑化帯の横の石段の上に屈んだ。どのくらい経ったのか分からないが、眩しい車のライトに照らされた。

吉沢凛子が顔を上げると、ライトを背に車から降りてきた篠崎暁斗の姿が見えた。

彼女は立ち上がろうとしたが、長いあいだ屈んでいたせいで足がしびれて体勢を崩し、立ち上がった瞬間に前かがみに倒れてしまった。

しかし、痛みは全く感じなかった。篠崎暁斗の逞しい腕が吉沢凛子を支えてくれたおかげで転ばずに済んだのだ。

「ありがとうございます」吉沢凛子は申し訳なさそうに言った。

「なんで中に入らなかったんです?」

「あの、88号がどこなのか分からなくて」

「さっき、私に電話をかけてきたのはあなたでしたか?」篠崎暁斗はさっき重役会議に出ていて、携帯がずっと鳴り続けて邪魔だったので、そのまま携帯の電源を切ってしまったのだった。

「あ、どうして電話に出てくれなかったんですか?」吉沢凛子は少し腹を立ていた。この人ってごまかすのが上手ね。

「中に入りましょう」篠崎暁斗は弁解することもなく、鍵を取り出して吉沢凛子の向かい側にある建物の方へ歩き出した。

ここが88号だったの?吉沢凛子は木の枝で遮られていた住所が書かれたプレートを見つけた。まったくもう。

篠崎暁斗が門を開けると、50歳くらいの女性が迎えた。

「相田さん、おじいさんは寝てしまった?」

「まだですよ。あなた達が帰ってくるのをお待ちになるんですって」

篠崎暁斗が大股で門に入る時、後ろで一生懸命スーツケースを引っ張っている吉沢凛子に気づいていなかった。

段差はとても高く、吉沢凛子は全身の力を振り絞っていたが、その段差を越えられなかった。

この時、大きな手が伸びてきて、吉沢凛子からスーツケースを受け取った。

ちょっと、ドキッとした。

吉沢凛子が記憶するところでは、林佑樹は一度も彼女の荷物を持ってくれたことなんてなかったのだ。

前回の引越しの時も、林佑樹は指一本動かすこともなく、彼女一人で休まず7、8個もあった大きな荷物を担いで何度も上の階まで運んでいったのだ。

このようにしても、林佑樹は彼女が怠けていると文句まで言ったのだ。彼女が荷物を運んで来ても適当に置いておくだけで、整理整頓もできないとまで言ってきた。しかも林佑樹はゲームばかりしていて彼女にデリバリーを頼むように言った。

「入らないんですか?」

篠崎暁斗の不機嫌そうな声が吉沢凛子の考えを遮った。

そして彼女は前へと進み大きな門の中に入っていった。

庭はそんなに大きくはなかったが、とても手入れが行き届いていて整っていた。壁に沿って色々な盆栽も置かれている。

「あ!」吉沢凛子は突然声を上げた。

彼女は周りの様子に気を取られていて、丸石に躓いて、もう少しで転んでしまうところだった。

篠崎暁斗は後ろを振り向いた。

吉沢凛子は気まずくなり手を振って「大丈夫です」と言った。

篠崎暁斗は地面の丸石をチラリと見て、凛子のほうに向かって来ると、その石を横に蹴飛ばし、彼女に手を伸ばした。

その手は骨ばっていて、うっすらとたこができていた。たぶん長年体を鍛えてできたものなのだろう。

吉沢凛子はどういうことかよく分かっていないようだった。

篠崎暁斗は口をへの字に歪めた。

次の瞬間、彼は自ら吉沢凛子の手を取った。

手から伝わる温かさに、吉沢凛子はドキッとした。温かいものが心の中に流れてきたようだった。

篠崎暁斗はスーツケースを相田おばさんに任せると、吉沢凛子の手を繋ぎ、おじいさんの部屋の前までやってきた。

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