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第005話

篠崎葵の背後に立っているのは、藤島翔太以外の誰でもなかった。

彼の薄い笑みが浮かぶ顔に、耳に心地よい低く落ち着いた声が響いた。「母の病気には休息が必要だ。君は何か問題があれば、俺に相談すればいいじゃないか。どうしてわざわざ母を煩わせたんだ?」

篠崎葵は目を見開き、口が塞がらなかった。「......」

藤島翔太は何も言わずに彼女を抱き寄せ、外へ連れて行った。

「翔太、しっかりと篠崎さんとの結婚について話し合って、絶対に彼女をぞんざいに扱わないでね」夏井淑子が後で叫んだ。

「安心して、母さん」男はそう答えながら、病室のドアを閉めた。

篠崎葵は藤島翔太に引きずられるようにして、遠くまで連れ出された。

廊下の端にたどり着いたとき、彼の穏やかな表情はすでに冷たく険しいものに変わっていた。

藤島翔太は篠崎葵の首を強く掴み、壁に押し付けた。その目は鋭い剣のように冷たかった。「女囚め!お前は何度も何度も俺の忍耐を試している。今度は母の前にまで現れたなんて、図々しいにも程がある!もし母に何かあれば、お前に生き地獄を味わわせてやる!」

篠崎葵は首を掴まれ、顔が真っ赤になりながらも、苦しそうに言った。「私......知らなかった......夏井さんが......あなたの......お母さんだって」

彼女はついに理解した。藤島翔太がなぜ彼女をこれほど嫌いながらも、婚姻届を出すことに固執しているのか。以前、刑務所で夏井さんが彼女に言った。「出所したら私の息子の嫁になってくれ」と。

その時、篠崎葵は冗談だと思っていた。

しかし、夏井さんは本気だったのだ。

藤島翔太の手の力はさらに強まった。「お前が俺を信じさせると思っているのか?こんなに駆け引きを繰り返して、もっと自分に有利な条件を引き出したいだけか?それとも、最初から俺の家に嫁ぐのが目的だったのか?」

彼女は何も弁解せず、ただ目を閉じた。

このまま彼に絞め殺されてしまえば、腹の中の赤ちゃんと一緒に永遠に眠れるし、母親とも再会できる。

どんなに楽になるだろう。

涙が目尻からこぼれ落ちた。

彼は突然手を離した。そして、平静を取り戻した。

「母にはあと二ヶ月の命しかない。俺は彼女の願いを叶えるためにお前と結婚するが、手は出さない!二ヶ月後には離婚するが、その時にはまとまった額を支払ってやる。だが、もう一度でも企みを起こせば、お前に生き地獄を見せてやる!」とその声には冷たく厳しい響きがあった。

夏井さんがあと二ヶ月しか生きられない?

篠崎葵の心は重く沈んだ。

彼女は新鮮な空気を大きく吸い込み、しばらくしてようやく落ち着いて言った。「偽装結婚の取引を受けるということ?」

「それとも、本当に俺の妻になりたいとでも?」彼は彼女を嫌悪する目つきで頭の先から足の先までじっくりと見た。

篠崎葵は、その日浴室で彼が自分の前を見たとき、全身に亡き男の痕跡が残っていたことを思い出した。

彼は当然、彼女を汚らわしいと思っているに違いない。

篠崎葵は唇を噛みしめて言った。「取引をするなら、私には条件があります」

「言ってみろ」

「私に大都市の戸籍を与えてください。どの都市でも構いません」

彼女は将来、子供を故郷に連れて帰るとき、周りの人々が父親のいない子供を見下すのを見たくなかった。

彼女は子供に差別を受けさせたくない。

彼女は子供を連れて遠くへ行くつもりだ。

藤島翔太は信じられないような表情で彼女を見つめた。「それだけ?」

篠崎葵は思い切って、「今すぐに現金で30万円を用意してほしいです。それを私のお小遣いにします」と言った。

30万円あれば、病院で妊娠検査を受けられるし、妊娠中の全ての費用を賄える。それに、故郷に帰って母を弔うこともできる。

藤島翔太は冷たく笑った。

やはり、欲深い女だ。

彼は離婚の時にまとまった金額を渡すと言ったのに、それでも20万円もの小遣いを要求するとは。

今日彼女の30万円の要求を満たせば、明日には50万円を要求するのではないか?

いつか彼女の気に入らないことがあれば、また姿を消して脅してくるに違いない。

本当に欲望の底が知れない、許しがたい女だ!

この数年で藤島翔太は邪魔な存在をいくつも排除してきた。篠崎葵をもう一人始末することに躊躇はない。

しかし、母にはもう時間が残されていない。

藤島翔太は携帯を取り出し、電話をかけた。5分後、助手の谷原剛が封筒を手に現れた。

彼は封筒を受け取り、中から5万円を取り出し、篠崎葵に差し出した。彼は高飛車な口調で言った。「30万円はあげるが、分割払いだ。まずは5万円だ。もしお前が母の前でうまく振る舞えば、小遣いを順次渡してやる」

5万円?

彼女は妊娠検査を受けなければならないし、新しい家を借りる必要があるし、仕事も探さなければならない。5万円ではどうにもならない。

「しゅ......10万円!それ以下は無理です」

「2万円!」男の冷たい声は骨の髄まで凍りつくようなものだった。

「5万円、5万円でいいから」篠崎葵はすぐに言い直した。

「1万円!」

篠崎葵は唇を噛みしめ、涙をこらえた。彼女が交渉するたびに、向こうは金額をどんどん下げてくるのだと気づいた。

1万円あれば、少なくとも妊娠検査は受けられる。

「1万円でいいです」篠崎葵は喉を鳴らしながら、手を伸ばしてお金を受け取ろうとした。

しかし、藤島翔太はそのお金を地面に捨てた。

男は上から目線で言った。「お前が役をきちんと演じる限り、2ヶ月間の結婚契約を結んでやる。契約が満了したら、報酬は一銭も欠かさず渡してやる。小遣いは、お前の態度次第だ!」

篠崎葵は地面のお金を拾うことに夢中で、藤島翔太が何を言ったのか聞き取れなかった。

1万円は彼女にとって、プライドを捨ててでも手に入れる価値のある大金だった。せめて林家からの施しを受けるよりはずっといい。

「何を言ったの?」お金を拾い終わった篠崎葵は、藤島翔太に聞いた。

このあまめ!

藤島翔太は彼女を睨みつけ、「ついて来い!役をきちんと演じることを忘れるな!もし言い間違えたら......」

「言い間違えません」篠崎葵は静かに言った。

藤島翔太に協力しようというわけではない。ただ、彼女は本当に夏井淑子を心から大切に思っていたのだ。

刑務所では彼女と夏井淑子はまるで母娘のようだった。

今、夏井淑子が余命わずかとなった今、藤島翔太がこの取引を持ちかけなくても、彼女は自分の力を尽くすだろう。

二人は一緒に病室に戻った。篠崎葵は笑顔を浮かべて言った。「夏井さん、翔太と外で結婚のことを話していたんです。私がここにいなくて、気を悪くされませんでしたか?」

「おバカさん。お前たちが早く結婚式を挙げることを待ち望んでいるのよ。それで安心できるわ」おばちゃんは篠崎葵の手を引き寄せ、彼女に近づくよう促した。そして、低い声で言った。「ねえ、私の息子を気に入ってくれたかしら?」

篠崎葵は恥ずかしそうに笑い、「とても気に入っています」と答えた。

「じゃあ、今すぐ翔太と婚姻届を出しに行ってきてくれないかしら?早く私をお母さんって呼んでほしいの」

篠崎葵は優しく夏井淑子の手を取り、「そうします、おばちゃん」と言った。

その日の午後、篠崎葵と藤島翔太は一緒に役所へ向かった。

二人は一緒に写真を撮り、指紋を押し、誓いを立てた。証明書が完成し、鋼印が押されたその瞬間まで、篠崎葵はこれが現実だとは信じられなかった。

自分が......結婚したのだ。

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