彼女は唇をきつくすぼめ、ようやく前の真ん中に座っている男を見つめた。窓から差し込んだ日差しが作った影で、彼の顔立ちがよりくっきりと際立っていた。彼は左手に煙草を持ち、白いシャツにネクタイを緩めにし、足を組んで気怠そうに二つのデザイン画を見ていた。いつもの厳しさと今朝、錯覚のように見えた優しさとは違って、今の彼からは無造作な気安さすらも感じられ、キラキラと輝いている。女が彼に食い気味になるのも無理はない。目の前にいるこの男自身にも、よくトラブルを引き起こしてしまう要素がありそうだ。「広瀬さん、私をじいっと見てきて、何か言いたいことでも?」油断してつい見つめていると、風間湊斗の冷たい声に現実に引き戻された。風間湊斗は煙草の灰を落とすと、真っ黒な瞳をまっすぐにこちらに向けた。その目には、人を吸い込む渦があるようだ。口元をわずかに上げて、その冷たい顔から柔らかささえ感じられる。広瀬雫はドキッとして、慌てて隣を見回した。春日部咲はまるで広瀬雫が風間湊斗を誘惑したと思っているような嫌そうな顔をしていた一方、浅野舞は相変わらず複雑な顔をしていた。彼女は急いで自分を落ち着かせ、風間湊斗の顔を見ずに咳払いをした。「私はただ、風間グループがデザインに対する最終的な結論を出すのを待っているだけです。風間社長が有賀グループのデザインが盗作でないと結論を出してくださらないと、私は安心できませんので」「そうですか」低い声で言ったのに、ずいぶん優しそうに聞こえた。語尾がからかうように少し高く、何か意味ありげな響きを感じる。見るまでもなく、広瀬雫は男が薄い唇を少しすぼめているのを予想できた。ふっと昨夜の不用意なキスのことを思い出して、彼女の耳がかすかに赤くなった。また今朝の曖昧な質問が頭に浮かぶと、慌ててまた自分を落ち着かせた。「そうです。問題があるかどうか、その答えをいただけるんですか」彼女は背筋を伸ばし、もう一度風間湊斗を見返した時、その目はもう波が立っていない澄んだ湖のようだった。風間湊斗は淡々と彼女の冷静な目を一瞥して、その赤くなった耳を見逃していなかった。口角をわずかに愉快そうにあげ、何もなかったかのように口を開いた。「有賀グループと浅野グループのデザインは問題ないと確認しました。盗作の形跡は見当たらないです」春日部咲は嬉し
広瀬雫は彼が春日部咲の言葉に隠した誘惑を見抜けていないと思っていた......少し唇をすぼめ、今はついて行くしかない。会社の下には運転手付きのベントレーが三台止まっていた。どうやら風間グループは彼らを直接ロイヤルガーデンまで送るつもりらしいのだ。暫く会社の下で待っていると、風間湊斗がようやく降りてきた。広瀬雫は彼がスーツを着替えたことに気づいた。彼は彼女の前を通り過ぎるとき、少しためらいながら、先頭のベントレーミュルザンヌに乗っていった。春日部咲はそれを見て、慌ててカバンを持ってその車に近づいたが、すぐに横山太一に止められた。彼は申し訳なさそうに笑いかけて「春日部さん、うちの社長は他人と同じ車に乗るのが好きではありませんので、後ろの車に乗っていただけませんか」と言いだした。春日部咲はすこし悔しそうだったが、今はわがままを言っている場合じゃないと分かっていたので、しぶしぶと後の車に乗った。広瀬雫はまだ階段に立っていた。それを見て、春日部咲の乗った車に向かおうとしたが、横山太一に止められてしまった。「広瀬さん、有賀グループのデザイン原稿について、まだ相談したいところがいくつかあると社長は言いました。広瀬さんは前の車に乗りましょうか」あまりにもあからさまな差別に、広瀬雫はわずかに眉をひそめた。遠くないところで、浅野舞とデザイナーは複雑な目でこちらを見つめていた。広瀬雫は両手をきつく握りしめ、横山太一に淡々と言った。「また何か問題があったら、後でレストランで食べながら話し合いましょう。みんなもいますから、解決方法もみんなで考えたらいいかと」横山太一の驚いた顔を見ないで、広瀬雫はそう言うと彼の横を通り過ぎ、まっすぐに春日部咲の乗った車に乗り込んだ。横山太一は広瀬雫の後ろ姿を見つめ、仕方なくベントレーミュルザンヌに近づき、中にいた男に何かを言った。すると、車の窓がすぐ閉められ、車は走りだした。浅野舞の傍にいたデザイナーは満面怒りを顕にし、不服そうに「どうして有賀グループのデザインがこんなに大袈裟に褒められたのか、ずっと不思議だと思ってたわ。そういうことなのね?有賀グループも大したことないから、このような女を二人来させて媚びを売るんだね」と言った。浅野舞は広瀬雫から視線をそらすと、唇をすぼめ小声で叱った。「しい、風間グループの人
もし、奥さんと心から愛する人が同時に水の中に落ちてしまったら、どちらのほうを助ける?広瀬雫は数日前に友人が言っていたこの言葉を思い出し、心が締め付けられてまた息が苦しくなった。広瀬雫はずぶ濡れのまま体を硬直させて、パーティ会場に立っていた。ブルーのきれいな膝丈ドレスが体にピタリとはりついて、見るに堪えない酷い姿になっていた。周りにいる同僚たちは軽蔑の目線を送り、彼女を冷笑し小声で囁き合っていた。彼らが後ろで何を言っているのか耳をそばだてるまでもなく、はっきりと分かっていた。社長を誘惑してのし上がろうとするなんて......社長の女を水の中に落とした極悪女......普段、高潔な態度でいるくせに、こんなに人でなしだったなんて......少し前にロイヤルパレスの裏にある庭園で、有賀悠真の新しい恋人であり、今人気絶頂の女性アイドル白石玲奈に行く手を阻まれてしまった。「広瀬雫さん、あなたが悠真の形だけの妻だってことは知っているわ。もし私があなただったら、恥ずかしくて彼とはもう離婚しているわよ。こうやって毎日毎日、彼が他の女性と一緒にいるのをずっと見てて面白いわけ?」有賀悠真と結婚してからというもの、このようなシーンをずっと見続けてきた。広瀬雫は彼女から言われた途端に、胸がズキズキと痛み、何か言い返そうとしたが、さっきまで勢い付いていた白石玲奈のその気迫が瞬く間にしぼんでいき、様子がガラリと変わった――「広瀬さん、あなたが悠真のことを好きだっていうことは知ってるわ。悠真もあなたのことが好きなら、私だってあなたたちの間に割って入るようなことなんかしない。でも、彼はあなたのことを嫌っているのよ。あ、あなた何を......きゃあ!誰か助け――」その言葉の続きが聞こえる前に、広瀬雫は目の前にいる女に引っ張られて一緒に水の中へと落ちていった。次のシーンはまさに白馬の王子様登場、となるはずだが、残念なことに王子様に助けられるそのヒロインは広瀬雫ではなかった。広瀬雫は目尻を拭い、誰にも気づかれないようにそっと涙を払った。そして、そう離れていないところからパーティ会場の入口を見つめていた。彼女は正面から見ることはできなかったが、有賀悠真の高くスラリとしたその後ろ姿が、大切なものを触れるかのように優しく白石玲奈を抱き寄せ、彼女の額
広瀬雫はそれを聞いた瞬間うろたえてしまい、全身をこわばらせた。彼女が大宮さんからこの花束の話を聞いた時には少し期待していた。しかし、そんなことは有り得ないということを知っていたはずだ。どうして毎回彼に期待してしまい、恥をかくようなバカな妄想をしてしまうのだろうか。「あなた......一体何の用なの?」彼女は喉の奥がつかえていた。「大人しくすると思っていたのに、まさかもっと行いがひどくなるとはな。玲奈は今回の件に関しては気にしないと言っていたが、俺はもう二度とこんなことが起きてほしくないね」有賀悠真は書斎のデスクの引き出しを開けながら、冷ややかな声でそう言った。彼の横髪はきちんと整い、鏡越しに冷たく無表情な顔が確認できる。いつもと同じように彼女に対して冷たいあの顔だ。書斎に静かに置かれた青いバラの花束は何も言わずきれいに咲き誇っていた。広瀬雫は平気なふりをしながらも、夫に誤解され心が張り裂けそうだった。「私じゃないわよ」彼女は小声で言った。有賀悠真は引き出しの中から赤いベルベットのハート型ケースを取り出した。彼は身なりをきちんと整えてあり、長身でスラリとしたその姿はばっちりきまっていた。ただ腕時計で時間を確認し、顔を上げた時のその顔は面倒そうで氷のような冷たさもあった。「広瀬雫、あんな汚い手を使って俺の女に手を出すなよ。結婚したいというからしてやっただろう、まだ何か不満があるのか?もしおまえが俺が欲しいって言ってもな、悪いがそれは叶わないぞ。もし俺の心が――」「言ったでしょう。私は白石玲奈を押して水に落としたりしてないって!」この男がさらに彼女を傷つける言葉を吐き出す前に、広瀬雫は目を閉じ、歯をぎりぎりと噛みしめて彼の話を遮った。彼女の唇はそのせいで血の気を失い、今にも倒れそうなくらいに体を震わせていた。そして有賀悠真の顔つきは怒りに満ちていた。「彼女が嘘をついているとでも言いたいのか?」と言って鼻先で笑いながら振り返った有賀悠真の目には嫌悪感があった。「彼女が全く泳げないってことを知ってるか。もし一瞬でも遅ければ彼女は溺れていたかもしれないんだぞ。そうなればおまえは、ここにこうやって何事もなかったように立ってはいられなかったぞ」「悠真、あなたには私がそんなに酷い人間に写っているの?」
明け方、広瀬雫は起きてから誰もいない部屋をしばらく呆然と見つめていた。前日は彼女の24歳の誕生日だった。有賀悠真はそれを忘れていたのか、もしくは一度も彼女の誕生日を覚えたことがなかったのだろう。彼はバラの花束を彼女とは別の女性にあげてその女と一晩を共にしたのだ。ただ雫には彼の冷たい後ろ姿だけを残していった。服を着替えて下におりると、有賀恭子が彼女を迎えた。「雫ちゃん、朝ごはんはもうできてるから、早く食べてね」有賀恭子はこの家において、広瀬雫にとっての唯一の希望と言える。広瀬雫は自分の不安定な状態を彼女の前で見せたくはなかったので、頷いてリビングの椅子に座った。「雫ちゃん、お義母さんはね、昨晩悠真がまたあなたを傷つけたこと知ってるのよ。悲しまないでちょうだい。私はずっとあなたの味方なんだから。悠真もいつか必ず一体誰が自分にふさわしい人間なのか理解する日が来るわ」有賀恭子は優しい声で彼女に慰めの言葉をかけた。それを聞くと広瀬雫の目は熱くなり、言葉に詰まった。有賀恭子はため息をつき、箸を彼女に手渡した。「食べて、悠真は朝早く用があるって先に出かけたわ。後で運転手に言ってあなたを送ってあげるわね」その言葉を言い終えたところに、大宮さんが新聞を持ってやってきた。「奥様、新聞でございます」大宮さんが新聞を食卓の上に置いた時、有賀恭子の顔色が変わるのに気づいた。彼女はその新聞を下げようとしたが、もう遅かった。広瀬雫は新聞の一面トップ記事に目を落とした。その記事は昨夜不在だったあの男と女性アイドルの熱愛キス写真だった。盗撮した場所はあるホテルのようだ。これはつまり――有賀悠真は昨夜出かけてから全く家に帰ってきてはいなかったのだ。「雫ちゃん――」「お義母さん、もうお腹いっぱいだから、会社に行ってきます」広瀬雫は無表情で立ち上がり、カバンを持つと玄関のほうへ歩いていった。有賀恭子はすぐには反応できず、ただ玄関から広瀬雫が車に乗って行ってしまうのを見ていることしかできなかった。大宮さんは少し不安になり近づいてきた。「奥様、私のせいです」「いいえ、あなたのせいではないわ」有賀恭子はため息をついた。振り返った時、彼女はかなり腹を立てていた。「後で悠真に電話をかけて、今夜は必ず帰ってくるように厳しく言うわ。私を
風間家はB市において数えるほどしかいない大富豪家の一つだ。広瀬家の人間である彼女はもちろんこの風間家について知っていた。そしてこの風間湊斗は風間家の四男坊で、一番上には既婚者である姉、そして二人の兄がいる。二人の兄は一人は機動隊勤務で、もう一人は政治家だ。最後の彼自身はビジネスが好きで、風間家のおじいさんが最も可愛がっている孫息子である。しかし、以前はかなり反抗的で、風間家を継承するのを嫌がっていたらしいが、どういうわけか突然帰国して風間グループを継承すると言い出したのだ。風間家の継承者であるとともに、高身長の整った美形の顔の持ち主で、権力も持っていることから、確かに多くの女性の憧れの的になっているのだ。それにしても彼のこの目、どこか懐かしいような......――きっとこの冷たい顔つきが彼女に有賀悠真を彷彿とさせたのだろう。有賀悠真のことを考えると、さっきの春日部咲の恋に浮かれた顔が頭の中に現れてきた。広瀬雫はまるで窒息したかのように息苦しく心が締め付けられ、それを必死に抑え込んでいた。「へへへ、イケメンを見てワクワクするだけでいいんです。生きていくのって大変なんですもん、楽しいことがあったほうがいいでしょう」広瀬雫はそれを聞いて失笑してしまった。そして、さっき目を通しておいた書類を坂本美香の腕の中に押しやった。「行きましょう。あなたの憧れの男性がいる会社に。大変な生活の中に楽しみがもっとほしいんでしょう」坂本美香はすこし驚いた後、やっとどういうことなのか理解して咲き誇る花のようにパッと笑顔を作った。「わあ、広瀬さん、もしかしてサニーヒルズの高級住宅地プロジェクトのことですか?春日部さんが来てから相談して行く予定じゃありませんでしたっけ?」「彼女は待てないわ。今日あなたが彼女の代わりに来てちょうだい」彼女はこの時、おそらく有賀悠真と一緒にいるから風間グループへ行くのは嫌がるだろうと広瀬雫は心のうちで自嘲した。「かしこまりました!必ず立派にそのお役目を務めさせていただきます!」......風間グループの地下駐車場に着いた時、広瀬雫は白いBMWを運転していて、そこへ二台のベントレーが彼女の車とすれ違った。先頭を走っているベントレーミュルザンヌは非常に目を引く車で、広瀬雫の記憶違いでなければ、あれは去年ロンドンベ
突然「ガタンッ」と音が鳴り、エレベーターが少し揺れた。広瀬雫は少しぼうっとしていて、その衝撃で体のバランスを崩してしまい、横にいる男性のほうへ突然倒れてしまった。彼女はあまりに突然のことだったので、エレベーターにある手すりを掴む暇もなく、すでに白シャツを着た男性の胸元まで顔が近づいていた。その距離はとても近く、広瀬雫は男性の香りが鼻に入ってきた。清々しく、少しタバコの匂いがした。「広瀬さん!」坂本美香は広瀬雫の後ろに安定して立っていて、彼女が倒れそうになったのに驚き、急いで手を引いた。さっきバランスを崩したときに、広瀬雫は誰かの手が簡単に彼女の腰のあたりを抱きとめるのを感じた。その手は骨ばっていて、とても力強かった。「広瀬さん、大丈夫ですか?」坂本美香は心配して尋ねた。幸いにも目の前の男性がすぐに彼女の体を支えてくれたおかげで完全に倒れてしまわずに済んだ。広瀬雫は有賀悠真以外の男性とは今までこのように肌が触れるような接触をしたことがなかった。彼女は体勢を整えると、坂本美香に大丈夫だと頭を横に振り、目の前の男性のほうを見た。その時も風間湊斗の表情には相変わらず余計な感情はなかった。のだが――彼の手は、まだ彼女の腰に触れたままだった。彼の手から熱い温度とその感触が伝わり広瀬雫は体を少しこわばらせた。「風間社長......」広瀬雫は少し気まずそうにしていた。このように狭いエレベーターの中では誰かに当たってしまうことはよくあることだから、彼女も特別驚いたりはしないのだ。しかし、彼のその手は......本来横目で見ていた男性は頭を彼女のほうへ向けると、まるでようやく自分の手が今どういう状況なのか気づいたようで、広瀬雫の顔を一瞥し、自然な動作で手を元の位置に戻し、冷たい表情を保っていた。エレベーターにいる人たちは特に驚いていなかったので、広瀬雫もそれ以上は何も言えなかった。エレベーターを降りて、坂本美香はまだ未練タラタラな様子ですでに閉じたエレベーターのドアを見つめ、自分の胸のあたりを叩きながら言った。「やっぱり、憧れの人は遠くから見ているのに尽きますね。毎日毎日こんなに至近距離で冷たくされたら、何回昇天してしまうか分かったもんじゃないですよ」広瀬雫はニコリと微笑んでいたが、頭の中にはさっきの男性が自分を見つめ
風間グループから電話がかかってきたのは意外なことではなかったが、こんなに早く返事がくるとは思っていなかった。電話相手は今日広瀬雫がデザイン画を渡したあのプロジェクトチームの今井マネージャーで、彼は彼女に対してかなり恭しい口調だった。「広瀬様、今回のサニーヒルズ開発は風間社長が責任者です。彼は広瀬様のデザイン原稿を見て、このプロジェクトについてお話したいと言っております」広瀬雫は驚いた。風間グループ傘下が行うプロジェクトは多岐に及んでいるのに、サニーヒルズ開発を風間社長自ら責任者として行っているのか?「今井マネージャー......」広瀬雫は少し声を途切れさせながら続けた。「今回は今井マネージャーにご推薦していただきありがとうございます。時間を見つけ、有賀グループを代表しまして、必ず今井さんにお礼をいたします」今井マネージャーはそれを聞くとすぐ彼女が誤解していることに気づき慌てて言った。「お礼なんてとんでもないです。私はただ横山秘書から風間社長は今晩時間があると伺っています。広瀬様、このチャンスを逃さないようにされてくださいね」サニーヒルズは今年はじめにはすでに一番注目を集めていたプロジェクトだ。さらには風間グループが行っているもので、有賀グループがこのプロジェクトを受けることができれば、不動産業にたった足掛け二年に過ぎない会社からしてみれば大きなチャンスになる。広瀬雫は何の迷いもなく、それに答えた。この日の夜、ロイヤルガーデンホテルでデザイン画初稿の件について話し合うアポイントを取り付けてから電話を切った。坂本美香は午後会社に戻ると、自分の仕事があった。そして昼以降、広瀬雫は春日部咲の姿を一切見かけず、彼女に電話をかけても出ないので、仕方なくデザイン原稿を持って地下駐車場に行った。ロイヤルガーデンに着くと、今井マネージャーはもうそこで待っていて、彼女を見て媚びるような笑いをしてみせた。「広瀬さん、来ましたね。急いで私と一緒に来てください。風間社長はもう個室でお待ちです」「遅くなって、すみません」広瀬雫は慌てて今井マネージャーの後に続いた。もうすぐ個室に着くその手前で、今井マネージャーは足を止め広瀬雫に満面の笑みを浮かべた。「広瀬さん、今回のプロジェクトにおいて何かお困りのことがありましたら、私に何でもご相談くださいね」広
広瀬雫は彼が春日部咲の言葉に隠した誘惑を見抜けていないと思っていた......少し唇をすぼめ、今はついて行くしかない。会社の下には運転手付きのベントレーが三台止まっていた。どうやら風間グループは彼らを直接ロイヤルガーデンまで送るつもりらしいのだ。暫く会社の下で待っていると、風間湊斗がようやく降りてきた。広瀬雫は彼がスーツを着替えたことに気づいた。彼は彼女の前を通り過ぎるとき、少しためらいながら、先頭のベントレーミュルザンヌに乗っていった。春日部咲はそれを見て、慌ててカバンを持ってその車に近づいたが、すぐに横山太一に止められた。彼は申し訳なさそうに笑いかけて「春日部さん、うちの社長は他人と同じ車に乗るのが好きではありませんので、後ろの車に乗っていただけませんか」と言いだした。春日部咲はすこし悔しそうだったが、今はわがままを言っている場合じゃないと分かっていたので、しぶしぶと後の車に乗った。広瀬雫はまだ階段に立っていた。それを見て、春日部咲の乗った車に向かおうとしたが、横山太一に止められてしまった。「広瀬さん、有賀グループのデザイン原稿について、まだ相談したいところがいくつかあると社長は言いました。広瀬さんは前の車に乗りましょうか」あまりにもあからさまな差別に、広瀬雫はわずかに眉をひそめた。遠くないところで、浅野舞とデザイナーは複雑な目でこちらを見つめていた。広瀬雫は両手をきつく握りしめ、横山太一に淡々と言った。「また何か問題があったら、後でレストランで食べながら話し合いましょう。みんなもいますから、解決方法もみんなで考えたらいいかと」横山太一の驚いた顔を見ないで、広瀬雫はそう言うと彼の横を通り過ぎ、まっすぐに春日部咲の乗った車に乗り込んだ。横山太一は広瀬雫の後ろ姿を見つめ、仕方なくベントレーミュルザンヌに近づき、中にいた男に何かを言った。すると、車の窓がすぐ閉められ、車は走りだした。浅野舞の傍にいたデザイナーは満面怒りを顕にし、不服そうに「どうして有賀グループのデザインがこんなに大袈裟に褒められたのか、ずっと不思議だと思ってたわ。そういうことなのね?有賀グループも大したことないから、このような女を二人来させて媚びを売るんだね」と言った。浅野舞は広瀬雫から視線をそらすと、唇をすぼめ小声で叱った。「しい、風間グループの人
彼女は唇をきつくすぼめ、ようやく前の真ん中に座っている男を見つめた。窓から差し込んだ日差しが作った影で、彼の顔立ちがよりくっきりと際立っていた。彼は左手に煙草を持ち、白いシャツにネクタイを緩めにし、足を組んで気怠そうに二つのデザイン画を見ていた。いつもの厳しさと今朝、錯覚のように見えた優しさとは違って、今の彼からは無造作な気安さすらも感じられ、キラキラと輝いている。女が彼に食い気味になるのも無理はない。目の前にいるこの男自身にも、よくトラブルを引き起こしてしまう要素がありそうだ。「広瀬さん、私をじいっと見てきて、何か言いたいことでも?」油断してつい見つめていると、風間湊斗の冷たい声に現実に引き戻された。風間湊斗は煙草の灰を落とすと、真っ黒な瞳をまっすぐにこちらに向けた。その目には、人を吸い込む渦があるようだ。口元をわずかに上げて、その冷たい顔から柔らかささえ感じられる。広瀬雫はドキッとして、慌てて隣を見回した。春日部咲はまるで広瀬雫が風間湊斗を誘惑したと思っているような嫌そうな顔をしていた一方、浅野舞は相変わらず複雑な顔をしていた。彼女は急いで自分を落ち着かせ、風間湊斗の顔を見ずに咳払いをした。「私はただ、風間グループがデザインに対する最終的な結論を出すのを待っているだけです。風間社長が有賀グループのデザインが盗作でないと結論を出してくださらないと、私は安心できませんので」「そうですか」低い声で言ったのに、ずいぶん優しそうに聞こえた。語尾がからかうように少し高く、何か意味ありげな響きを感じる。見るまでもなく、広瀬雫は男が薄い唇を少しすぼめているのを予想できた。ふっと昨夜の不用意なキスのことを思い出して、彼女の耳がかすかに赤くなった。また今朝の曖昧な質問が頭に浮かぶと、慌ててまた自分を落ち着かせた。「そうです。問題があるかどうか、その答えをいただけるんですか」彼女は背筋を伸ばし、もう一度風間湊斗を見返した時、その目はもう波が立っていない澄んだ湖のようだった。風間湊斗は淡々と彼女の冷静な目を一瞥して、その赤くなった耳を見逃していなかった。口角をわずかに愉快そうにあげ、何もなかったかのように口を開いた。「有賀グループと浅野グループのデザインは問題ないと確認しました。盗作の形跡は見当たらないです」春日部咲は嬉し
この言葉は今井マネージャーがまるで功績は自分のものではないと慌てて説明した言い訳のようなものだったが、実際誰もがその意味を理解していた。つまり風間社長が広瀬雫のデザインが素晴らしいと言っているのだ。それを聞き、浅野舞の笑顔がこわばった。ちょうどその時、今井マネージャーは助手が持ってきたカップを自ら広瀬雫に手渡した。「広瀬さん、レモンジュースです」広瀬雫に出したレモンジュース以外、他の三人とも同じコーヒーだった。広瀬雫は少し意外だったが、深く考えず一口飲んだ。春日部咲は顔色を変え、後ろから陰気な声で「今回は言い訳できないでしょ!」と言った。自分のコーヒーを見つめている浅野舞は、何も言わなかった。......間もなく、風間湊斗が会議室から出てきた。スラリとした長身に、無表情だがこれ以上ない整った顔をして、後ろに何十人かのスーツ姿の男を連れて出てきた。雰囲気から見るとそんなに堅苦しくないが、緩やかでもなく、全員小声で何かを話し合っていた。風間湊斗がこの後また用事があると分かって、彼らはエレベーターに向かった。風間湊斗は広瀬雫たちを一瞥し、目の色も変えず、横山太一に頷いて、別の会議室へ入って行った。彼はすでにスーツの上着を脱いでいた。ネクタイがきついと思ったのか、少し緩めていた。白いシャツがその完璧なボディーラインをくっきりとさせていた。醸し出すオーラ―はそれほど強くないが、とても近づけない雰囲気に包まれている。広瀬雫が立ち上がろうとすると、懐に抱えていた書類を突然春日部咲に奪われた。「これまでの報告はあなたがやったんだから、今回は私がするよ」と彼女はあごを上げて言い出した。そう言い終わると、返事も待たず、書類を抱えて風間湊斗の後ろに続いて会議室に向かった。広瀬雫は一瞬複雑な目つきになった。......今回の会議の話題は、足立グループの盗作の話に違いない。その処罰について風間グループはしっかりと決めていた。そのため、有賀グループと浅野グループのデザインを再検定しなければならない。浅野グループのデザイナーが立ち上がるのを待たず、春日部咲が先に前へ出た。スーツのタイトスカートが彼女の完璧なスタイルをくっきりと見せていた。彼女の目にはいつものように色っぽい笑みが浮かんでいた。「風間社長、私は有賀グループB
「広瀬雫!」今度は春日部咲のほうが言い返すことができなかった。昨日の夜、有賀悠真にお別れを言われたことは彼女に大きなショックを与えた。今朝また挽回したいと思っていたが、結局有賀悠真に注意される羽目になった。もしまた何かをしようとするなら、これから有賀グループにいられなくなってしまう。彼女はもちろん有賀グループを離れたくなかった。離れなければ、まだチャンスがあるからだ。今身を引いたらもう何もかも終わりと同然なのだ。そして、自分をこんな惨めな状況に落とした元凶は、まさに目の前にいるこの女だ。彼女でなければ、有賀悠真が自分を公私混同だと責めて、別れることなんてありえない!彼女は恨めしそうに歯を食いしばった。すると、広瀬雫の電話が鳴りだした。彼女は春日部咲から視線を外して、電話に出た。ちょうど今井マネージャーからの電話だった。彼の言葉遣いが丁寧で、どこか畏まっているようにも聞こえる。「広瀬さん、今日の午後三時以降、お時間がありますか」すると、隣の春日部咲は「電話までかけてきたのに、まだ何の関係もないって言う気なの」と皮肉っぽい言葉をこぼした。広瀬雫はそれを無視して、同じように丁寧な言葉で相手に返事した。「はい、ありますよ。またデザインの件でしょうか」「はい、そうです。足立グループの盗作の問題が発生しましたので、有賀グループと浅野グループのデザイン担当にまたすこし話をしたいと風間社長が言っています」風間湊斗が直接面談に来るという......広瀬雫は少し考えてから「......わかりました。では、午後三時に風間グループに伺いますね」と返事をした。「ご心配なさらずに」広瀬雫の口調が強張っているのが分かったのか、今井マネージャーは笑いながら言った。「ただの事務的な話ですから、広瀬さんはそんなに緊張しなくてもいいんですよ」今井マネージャーが好意からそう言ってくれていると分かって、広瀬雫は少しほっとした。「わかりました。ありがとうございます」「この後、風間グループに行くんでしょ?」電話を切ると、春日部咲はすぐに食いついてきた。広瀬雫の返事も待たず、彼女はふんと鼻を鳴らした。「今度は聞こえたわよ。あなたが知らせなくても分かるの。午後三時、私も一緒に風間グループに行くんだから!」広瀬雫は眉にしわを寄せた。今回のサニーヒルズ
彼女の視線は広瀬雫の首にぶら下がったネームタグに注がれていた――有賀グループデザイン部Aグループチームリーダー、広瀬雫。確かに、今回のプロジェクトには有賀グループが広瀬という女性社員を風間グループへ行かせたらしい。浅野舞はきょとんとして何か言おうとすると、広瀬雫はカバンから2千円を取り出し、テーブルの上に置いた。「コーヒーは私の奢りで。浅野さん、もし他のことがないなら、私は先に失礼します」そう言い終わると、浅野舞の返事も待たず、まっすぐカフェのドアのほうへ歩き出した。彼女の思った通り、浅野舞の目的はやはりサニーヒルズプロジェクトだったのだ。それに、浅野グループ、足立グループと有賀グループが風間グループに選ばれたということも業界内では秘密ではないみたいだ。会社に戻る途中、有賀恭子から電話がかかってきた。「雫ちゃん、よくやったわね。舞は確かに姪だけど、息子の悠真と比べられないものよ。今回のサニーヒルズプロジェクトにずいぶん苦労していたのを知っているわ。自分が正しいと信じてやってください。お義母さんはいつでも力になってあげるからね」広瀬雫の声が優しくなった。「はい、ありがとう。お義母さん」と言い、少し考えてからまた口を開いた。「大宮さんから聞きましたよ。最近また腰が痛くなったそうですね。時間を見つけて一緒に病院に行きましょう。私がついて行きますから」有賀恭子は少しびっくりしたようだが、広瀬雫を気に入ったという顔つきになって言った。「いつも雫ちゃんに面倒をかけるわけにはいかないでしょう。大宮さんが私に付き合ってくれたらいいの。時間があったら、悠真ともっと一緒にいた方がいいわ。雫ちゃんがどれほど悠真を愛しているのかは知っているから。心配しないで、雫ちゃん、どこの馬の骨も分からない女なんて、絶対有賀家に入らせないんだから」広瀬雫はしばらく黙っていたが、やがて淡々と言った。「お義母さん、会社に着きましたから、もう電話切りますね」電話を切ると、ちょうど有賀悠真が遠くないところから会社に入ってくるのが見えた。彼の後ろに何人かの部下がついていて、仕事の報告でもしているようだ。彼は厳しい表情をして、手にした書類を見ながら、後ろにいる人たちに何かを聞いていて、中へ歩いて行った。歩くたびに、彼のスーツの襟が風に揺れ、スラリとした体のラインか
その言葉を聞いた広瀬雫は顔が急に青ざめた。「広瀬雫、俺がどうして君に全く興味がないのか知りたいか」有賀悠真は少し愉快そうで残忍な笑みを浮かべた。「君のその他人を不快にさせる態度は本当に気持ち悪い。たとえ性欲を持っていても、君が目に入ると、興ざめするぞ!」言い終わると、彼はスーツと携帯を手にして、広瀬雫には一目もくれず、振り返って去っていった。書斎で、広瀬雫はソファの上に残ったブランケットをじっと見つめていた。その目は失望のあまり、何も映っていなかった。......「広瀬さん、浅野グループの浅野さんがいらっしゃいました」昼、会社に着いたところ、広瀬雫は受付からの電話を受けた。彼女は少し疲れていたが「......彼女に電話をかわってください」と伝えた。少し物音がしてから、電話から甘く澄んだ声がした。「雫姉さん、私です。浅野舞です。今会社の下にいます」「どうしましたか」広瀬雫の態度はあまり親切ではなく、浅野家では義母の有賀恭子以外との付き合いはあまりないのだ。浅野舞は優しく微笑んだ。「今日は用事で来たんです。ちょうど悠真さんの会社の下を通りましたから、雫姉さんと一緒に食事をしようと思いましたの。雫姉さん、会社の隣のレストランで待っていますよ」広瀬雫は断ろうとしたが、何かを思いつき「分かりました。じゃあ、そこでちょっと待っててください。すぐ降りますから」と返事をした。電話を切ってから、手鏡を覗いてみた。鏡の中に映った女の顔色が良いとは言えない。広瀬雫は気を取り直した。レストランに着いた時、浅野舞はつまらなさそうに目の前のコーヒーをかき混ぜていた。広瀬雫に気づくと彼女は目を見開き、すぐ立ち上がって、親切に広瀬雫の腕をとり、テーブルのところへ連れていった。「雫姉さん、普段全然私に連絡してくれないじゃないですか。一緒に遊びに行きましょうよ。今朝恭子おばさんに電話したら、義姉さんはいつも一人で退屈そうだって言われましたよ。これからは時間があったら、時々遊びに来てもいいですか」彼女のあどけない顔を目の前にして、広瀬雫はさりげなく彼女の手から自分の手を引っ込め、向かいの席に腰を下ろした。「いつも忙しいです」彼女の冷たさを浅野舞は全く気にしていないようで、ニコニコ笑っていた。「雫姉さんは有賀グループのためにい
広瀬雫は身を起そうとしたが、手足を思うように動かせず、鉛のように重かった。「ブランケットを持っていってほしいと大宮さんが――」逃げることができず、仕方ないと思いながら、彼女は目の前の渋い顔をした男を見て、乾いた声で説明した。有賀悠真は眉をひそめ、無表情のままブランケットを横に払い、立ち上がって上から床に座り込んだ女を見つめた。彼女のきちんと着こなした服に視線を落とすと、わずかに目を開き、責めるように彼女の目を睨んだ。「昨夜どこへ行ってたんだ?」広瀬雫は目を開閉し、爪がてのひらに深く食い込んで痛くなるくらい手を握りしめて、ようやく力が戻ってきたようで、ゆっくりと立ち上がった。疲れは隠せなくてもこの美形な男を見ていると、心が冷えていった。「あなたに毎日の予定をわざわざお知らせする義務なんてないでしょ」有賀悠真はわけもなく心が苛立っていた。昨晩、春日部咲と一緒にいた時のような感情がまたこみ上げてきて、思わず言った。「俺はもう白石玲奈と別れた、春日部咲とも」広瀬雫はきょとんとしたが、口元にすぐ皮肉な笑みを浮かべた。「それがどうかしたの?」白石玲奈と春日部咲がいなくても、また別の女が現れる。このように際限もなく彼女の感情と尊厳が踏みにじられる生活には、もううんざりだ。彼女が目を伏せると、長いまつ毛が目の下にうっすらと影を落とした。広瀬雫は肌が白く、うっすらとピンク色も見える整った優しい顔立ちをしている。彼のスラリとした体が近づくと、彼女の小さな体が包み込まれるようだ。近くにいるせいか、彼女からわずかないい香りがした。ゴクリと唾を飲み込み、有賀悠真は急に自分を制御できないかのように一歩踏み込んで、広瀬雫を懐に抱いた。そして、ためらいなくその桜の花のような唇を貪った。彼の呼吸が少し速くなり、唇に触れると我慢できずに、すぐ彼女の唇を吸うように舐めた。まるで中毒になったかのように、今胸の中に抱きしめた人を、そのままずっと抱きしめようと思っていた!キスされた広瀬雫は呆気に取られて固まってしまった。彼の手は優しく彼女の体を包み込んでいるが、その薄い唇は力強く押さえつけてきた!ただ、彼のはだけた白いシャツに妖艶に咲いた赤い印は、皮肉にも嘲笑していた。彼が昨夜も他の女と一緒にいたのだと思うと、広瀬雫は吐き気がしそうだった。
別荘のドアを開けると、音に気付いた大宮さんが迎えに来た。「若奥様、ようやく帰られましたね。昨日奥様は電話をおかけになりましたが、電源が切れていると言っていました。若旦那様も一晩中ずっと探していらっしゃいましたので、ただ今帰ったところです。今は書斎にいらっしゃいます。みんなは若奥様を心配して、奥様なんて午前三時まで寝つけられないご様子でしたよ」広瀬雫は申し訳なさそうに「昨日の夜、私は......友達のところに泊まったんです。携帯の電池が切れていて、連絡が取れなくて」と説明した。風間湊斗のところで一晩過ごしたのは、もちろん口が裂けても言えない。大宮さんは頷き、薄いブランケットを渡し、広瀬雫に何かを暗示するようにわざと瞬いた。「さっき若旦那様が書斎で眠っているのを見ました。風邪を引かないように、ブランケットを掛けようと思いましたが、ちょうど若奥様が帰ってきたから、ブランケットをかけてあげてくれませんか」広瀬雫はブランケットを抱えたまま、しばらくその場で固まっていた。大宮さんが好意でそうしていることは知っている。この家で、大宮さんと有賀恭子はよくさりげなく彼女と有賀悠真を仲良くさせるためにいろいろやってくれたが、残念なことに、この二年くらい、広瀬雫はずっとその期待に応えられなかった。大宮さんは彼女に勇気を与えるように笑ってから、台所に入った。持っているブランケットを見て、広瀬雫は苦笑いしていた。もしただ薄いブランケット一枚で、あの男の心を自分のものにすることができるなら、彼女はこの二年間、こんなに苦しむ必要はなかっただろう。さっき大宮さんの話によると、有賀悠真は自分を一晩中ずっと探してくれたという。広瀬雫の心はぬくもりと僅かな痛みが同時に占め、思い切って心を鬼にしてしまうことができなかった。ブランケットを胸にきつく抱きしめて、一歩、また一歩、上の書斎に向かった。書斎のドアは鍵が掛かっておらず、軽く押すと開いた。中に入って見回すと、来客用のソファーに横になった人がいた。有賀悠真は疲れて寝ていたのだろう。面倒くさいと思ったのか、上着のスーツを左手で握ったままソファの上に置き、ワイシャツのボタン―を何個開けて、そのまま寝てしまったようだ。右手を目の上に当てていて、その目の奥にある鋭さも隠していた。彼が眠っている時だけ、こうや
風間湊斗は目の前の掌くらいに小さな顔に浮かんだ笑顔を見つめた。たったこれだけのことで、こんなに彼女を満足させることができるのか。彼は背もたれに身をあずけ、ふっと意味ありげに視線を向けた。「ただデザイン画を完成させるために、俺の好みを調べたのですか」彼の横顔のラインは完璧に近いほど整っており、少し猫目で細く伸びている。普段は厳格なようにしか見えないが、今はやや微笑んでおりどこか優しそうに見えた。いや、その目の弧度は彼にしては優しすぎる。広瀬雫はきょとんとし、慌ててその視線を避けた。「すべては風間グループが満足するようなデザインのためです。うちの会社にとっても、私にとっても、一番大事なことですから」風間湊斗は目の端で彼女が居心地悪そうに車の窓の外へ視線を向けたのを見て、口元に淡い微笑みを浮かべた。彼女の真面目な返事を聞いていないかのように、そのまま話を進めていった。「昨日の朝のニュースを見ましたか。俺のインタビュー」さっきまで舞い上がっていた心が次第に窮迫してきた。その質問が最初のほうに言っていた事業の発展をさしているのか、それとも最後の話を指しているのか......広瀬雫は風間湊斗の真意を全く理解できなかった。「昨日俺が話したこと、何か思うところがありますか?」さっきの言葉では足りなかったかのように、赤信号の手前でブレーキを踏みながら彼女のほうに向いて、何気なく一言を加えた。目の前の男はただでさえ他人より優れた見た目をしていたのに、きちんとした背広を着ているせいか、その厳しさがやや抑えられていた。長い時間と様々な経験で作り上げられた魅力の持ち主は、気怠い動作にミステリ―さも潜んでいる。その深淵の底のような黒い瞳に捉えられ、広瀬雫は掌に少し汗が滲んだ。今日一日に起こった一連の出来事自体、彼女はすでに奇妙な感じを受けていたが......予想したようなことにならないように彼女は密かに願った。少し強く手を握り、頭で必死に考えているのに反して、とぼけた表情を彼に見せた。「ええと......インタビューというのは?」風間湊斗の微笑みが顔から消えて、彼女の顔色から何かを探るように念入りに観察すると、口元を少し上げて言った。「まあいい、何も聞かなかったことにして」ちょうど青信号になり、彼は再びアクセルを踏んだ。彼からは見えない角