突然「ガタンッ」と音が鳴り、エレベーターが少し揺れた。広瀬雫は少しぼうっとしていて、その衝撃で体のバランスを崩してしまい、横にいる男性のほうへ突然倒れてしまった。彼女はあまりに突然のことだったので、エレベーターにある手すりを掴む暇もなく、すでに白シャツを着た男性の胸元まで顔が近づいていた。その距離はとても近く、広瀬雫は男性の香りが鼻に入ってきた。清々しく、少しタバコの匂いがした。「広瀬さん!」坂本美香は広瀬雫の後ろに安定して立っていて、彼女が倒れそうになったのに驚き、急いで手を引いた。さっきバランスを崩したときに、広瀬雫は誰かの手が簡単に彼女の腰のあたりを抱きとめるのを感じた。その手は骨ばっていて、とても力強かった。「広瀬さん、大丈夫ですか?」坂本美香は心配して尋ねた。幸いにも目の前の男性がすぐに彼女の体を支えてくれたおかげで完全に倒れてしまわずに済んだ。広瀬雫は有賀悠真以外の男性とは今までこのように肌が触れるような接触をしたことがなかった。彼女は体勢を整えると、坂本美香に大丈夫だと頭を横に振り、目の前の男性のほうを見た。その時も風間湊斗の表情には相変わらず余計な感情はなかった。のだが――彼の手は、まだ彼女の腰に触れたままだった。彼の手から熱い温度とその感触が伝わり広瀬雫は体を少しこわばらせた。「風間社長......」広瀬雫は少し気まずそうにしていた。このように狭いエレベーターの中では誰かに当たってしまうことはよくあることだから、彼女も特別驚いたりはしないのだ。しかし、彼のその手は......本来横目で見ていた男性は頭を彼女のほうへ向けると、まるでようやく自分の手が今どういう状況なのか気づいたようで、広瀬雫の顔を一瞥し、自然な動作で手を元の位置に戻し、冷たい表情を保っていた。エレベーターにいる人たちは特に驚いていなかったので、広瀬雫もそれ以上は何も言えなかった。エレベーターを降りて、坂本美香はまだ未練タラタラな様子ですでに閉じたエレベーターのドアを見つめ、自分の胸のあたりを叩きながら言った。「やっぱり、憧れの人は遠くから見ているのに尽きますね。毎日毎日こんなに至近距離で冷たくされたら、何回昇天してしまうか分かったもんじゃないですよ」広瀬雫はニコリと微笑んでいたが、頭の中にはさっきの男性が自分を見つめ
風間グループから電話がかかってきたのは意外なことではなかったが、こんなに早く返事がくるとは思っていなかった。電話相手は今日広瀬雫がデザイン画を渡したあのプロジェクトチームの今井マネージャーで、彼は彼女に対してかなり恭しい口調だった。「広瀬様、今回のサニーヒルズ開発は風間社長が責任者です。彼は広瀬様のデザイン原稿を見て、このプロジェクトについてお話したいと言っております」広瀬雫は驚いた。風間グループ傘下が行うプロジェクトは多岐に及んでいるのに、サニーヒルズ開発を風間社長自ら責任者として行っているのか?「今井マネージャー......」広瀬雫は少し声を途切れさせながら続けた。「今回は今井マネージャーにご推薦していただきありがとうございます。時間を見つけ、有賀グループを代表しまして、必ず今井さんにお礼をいたします」今井マネージャーはそれを聞くとすぐ彼女が誤解していることに気づき慌てて言った。「お礼なんてとんでもないです。私はただ横山秘書から風間社長は今晩時間があると伺っています。広瀬様、このチャンスを逃さないようにされてくださいね」サニーヒルズは今年はじめにはすでに一番注目を集めていたプロジェクトだ。さらには風間グループが行っているもので、有賀グループがこのプロジェクトを受けることができれば、不動産業にたった足掛け二年に過ぎない会社からしてみれば大きなチャンスになる。広瀬雫は何の迷いもなく、それに答えた。この日の夜、ロイヤルガーデンホテルでデザイン画初稿の件について話し合うアポイントを取り付けてから電話を切った。坂本美香は午後会社に戻ると、自分の仕事があった。そして昼以降、広瀬雫は春日部咲の姿を一切見かけず、彼女に電話をかけても出ないので、仕方なくデザイン原稿を持って地下駐車場に行った。ロイヤルガーデンに着くと、今井マネージャーはもうそこで待っていて、彼女を見て媚びるような笑いをしてみせた。「広瀬さん、来ましたね。急いで私と一緒に来てください。風間社長はもう個室でお待ちです」「遅くなって、すみません」広瀬雫は慌てて今井マネージャーの後に続いた。もうすぐ個室に着くその手前で、今井マネージャーは足を止め広瀬雫に満面の笑みを浮かべた。「広瀬さん、今回のプロジェクトにおいて何かお困りのことがありましたら、私に何でもご相談くださいね」広
「......えっと」広瀬雫は突然の質問に呆気にとられていた。男はタバコの先端を灰皿に押し付けた。その動きはとても優雅で、その指は長く骨格まで美しかった。その時、広瀬雫はこの日、エレベーターの中で彼に支えられた時にちょうどこの美しい手が自分の腰に当てられていたことを思い出した。彼女は少しうろたえた様子で頷いた。「はい、もう二年になります」自分の結婚を考えると、広瀬雫は心にまた冷たい風が吹いた。男は彼女の急に冷え切った顔つきには目もくれないようで、そのまま続けて尋ねた。「広瀬さんはなかなかの名家のご出身でしょう。旦那さんの家はきっと広瀬さんに見合った家柄なんでしょうし、さぞや旦那さんから大切にされていることでしょうね」広瀬雫はなぜ風間湊斗がわざわざこんな話をするのか理解できず、この言葉が彼女の逆鱗に触れた。彼女は顔を暗くし、口角を下げて言った。「風間社長、今日私がここに来たのはサニーヒルズプロジェクトに関することを話すためなんですが」風間湊斗はまたタバコを手に取り火をつけようとしていたが、彼女のこの言葉を聞いて、火をつけようとした手が少し止まり、ライターをしきりに開閉していた。急に個室の中は微妙な空気が流れた。「プロジェクトの話じゃなく俺が広瀬さんのプライベートな話を聞きたいだけだとでも?」風間湊斗は少し口元を引き締め、きれいに整っている眉を眉間に少し寄せていて、この時彼は機嫌を悪くしたようだ。「広瀬さんが軽い世間話もせずに単刀直入に本題に入りたいのであれば、早速今回のサニーヒルズプロジェクトに対する特別な考えを聞かせていただこうか」ライターがテーブルの上に投げ捨てられた。ライターは「バンッ」と音をたて、広瀬雫は気まずくなってしまった。彼女のさっきの言葉は、明らかに目の前にいるこの男を怒らせてしまったようだ。もしかしたら、彼のさっきの話はただこの場の雰囲気を和ませるためだったのかもしれない。彼女は乾いた咳をして言った。「風間社長、今回のサニーヒルズプロジェクトの初稿なのですが、私個人の好みのデザインを加えてみました。例えば......」少し強引に本題に入った形だったが、風間湊斗はわざと彼女を困らせるようなことはしなかった。それでも、彼は右手の人差し指と中指でトントンとテーブルを叩いていたので、この迫力のせいで広瀬
車を運転して家に帰る途中、坂本美香が電話をかけてきて商談はどうだったのか結果を尋ねた。広瀬雫はありのままに事実を坂本美香に伝えた。もちろん、余計なあのシーンはカットしてなのだが。それを聞いて坂本美香は大喜びし、続けて彼女の憧れの男性について一通り質問してから電話を切った。デザイン画の初稿が認められたからだろう、広瀬雫の気分もなかなか晴れやかだった。家に帰ると、すでに10時ちかくで、この時間には有賀恭子はもう眠りについていた。車が有賀邸の門を過ぎると、中には一台の黒いランボルギーニが止まっていて、そこから艶かしい驚きの声が聞こえてきた。この声を広瀬雫は知っている。春日部咲だ。さっきの晴れやかな気持ちは真冬に冷水を浴びせられたかのように凍りついてしまった。広瀬雫は車の中に座り、体が硬直していた。とりわけ心が冷たかった。彼女は車のライトを消した。向かいに止まっている車のライトも消えていた。ただその車はちょうど庭園のライトの下に止めてあったので、車の中の曖昧な情景を余すことなく伺うことができた。広瀬雫は春日部咲が急いでスカートとコートを着て、有賀悠真をとがめるような目つきで見つめ、彼にしつこくキスをするのを見ていた。その時、心にまるで穴が空いたかのように、冷たい風がお構いなしに吹き込んできた。長く待ち過ぎて、一体どのくらいの時間が過ぎたのかわからないほど彼女の心は麻痺していた。有賀悠真はようやく車のエンジンをかけ、春日部咲を乗せたまま走り去っていった。広瀬雫は生気を失ったかのようにふらふらと家の中に歩いていき、直接洗面所まで行くと蛇口をひねり顔を洗おうとした。水が出てきてすぐ、彼女はズルズルと地べたにへたり込み、自分の顔を膝に埋めた。彼女と有賀悠真は初めはこのようではなかった。多くの場合、彼女が彼につきまとう形だったが、彼も彼女に優しくしてくれていた。一度も彼女を厳しく責め立てたり、苦しめるようなことはしたことがなかった。しかし、いつからだっただろうか、彼は変わってしまった。彼はある時から彼女が彼のためにする事は一切見ることもなくなり、ひたすら徹底的に彼女を苦しめ始めたのだ。体中が冷えてきて、広瀬雫は寒さで身震いをし、ようやく蛇口をひねったままなことに気がついた。そして洗面所の床はすでにかなり水が溜まってお
彼女は低い声で笑っていた。その笑い声はとても冷ややかだった。「有賀悠真、あなたは私に無関心だと思ってたけど。それとも、まだ私なんかのことを気にしてくれているのって聞くべきかしら?」有賀悠真は何も言わず、唇を固く歪めていた。広瀬雫はとても苦しくなり、仏頂面でそれ以上は何も言わず、そのまま上の階にあがっていった。長時間冷たい水に当てられていたせいなのか、この日の夜広瀬雫は微熱が出て、眠りについてからしばらく夢を見ていた。有賀悠真と初めて出会った時のこと、それから彼が他の女性と愛し合っているのをただ黙って見ていた時のこと、そして最後に彼とやっと一緒になり結婚したこと、最後は結婚式の情景だった。有賀悠真は両目を真っ赤にさせて、疲れた表情に彼女を憎む目つきで冷たく彼女に尋ねた。「もう一度言え。俺に何か申し開きできないようなことをしなかったか!?」彼女は手を握り締め、力いっぱい頭を横に振って否定した。有賀悠真の顔色は一瞬にして暗くなった。「わかった。おまえの望むようにしよう」彼の憎しみに満ちた顔が夢の中に再び現れ、広瀬雫はようやく驚き目を覚ました。広瀬雫は体を起こし、ブランケットを抱きしめ、深く呼吸をした。時間を見ると、まだ明け方の4時だったが、それからはどうしても眠ることができなかった。次の日の朝起きる時、目の周りにはやはり大きなクマができていて、ファンデーションを厚塗りしてやっと誤魔化すことができた。下の階では、有賀悠真がちょうど食卓で朝食をとっていて、有賀恭子が隣でブツブツと小言を言っていた。小言はどうせ彼に毎晩早く帰って来るようにとか、広瀬雫に一人で寂しくさせないようになどの話でしかない。普段の有賀悠真はそれに耐え切れなくなり、有賀恭子の話を遮ってしまうのだが、今日は珍しくそれに反発することはなく、階段の上にいる広瀬雫の姿を見て、これまた珍しいことに「分かった」と一言答えた。有賀恭子はとても嬉しそうにしていた。彼女は振り返って階段の踊り場にいる広瀬雫を見ると、すぐに喜色満面になり彼女に手招きをした。「雫ちゃん、早く降りてきて朝ごはんを食べましょう」明らかに自分の息子が理解してくれたと思っているようだった。広瀬雫の表情は乏しく、有賀恭子に軽くお辞儀して低い声で言った。「お義母さん、今朝は用事があるので、家でごはん
「あなたはAグループ、私はBグループのリーダーよ。私達は会社での立場は同じじゃないの!広瀬雫、こんなふうに会社の上層部の意向を無視するなんて、もしかして風間グループに対して人には言えないような取引でもしてるんじゃないでしょうね。それが私にバレるのが怖くて、こうやって私をないがしろにしているんじゃないの!」騒ぎを聞きつけて野次馬社員がどんどん集まって来ると、春日部咲の目に嫉妬と憎しみが現れた。「あー、分かったわ。風間グループがこんなに簡単に今回のプロジェクトを任せたってことは、広瀬雫、あなたもしかしてプロジェクト担当のあの今井マネージャーと......」彼女はそこで話を止めると、同僚たちの目に広瀬雫に対する軽蔑の色が出てきたのを見て、得意げになってまた続けた。「広瀬雫、あの今井マネージャーはあなたの父親くらいの年齢でしょう。年取ってるし、カッコよくないし。あなた会社のために自分を犠牲にしちゃってさ、もし最終的に私たちの会社が風間グループに選ばれなかったら、あなた大損じゃないの?......そうだ、あなたが好きなのは有賀社長でしょう?社長を誘惑したけど、ダメだったからって、あんな奴に乗り換えなくたっていいじゃないの......あ――!」「もう十分かしら!」広瀬雫はコーヒーカップを手に持ち、目の前にいる熱いコーヒーをかけられた女を冷ややかな目で見つめた。彼女はこの目の前にいる女が有賀悠真の好みであることに嫌悪感を覚えた。こんなに虚栄心が強く愚かで、口の汚い女を彼は喜んで受け入れられるのに、自分のことは拒絶するのだから。彼は一体どれほど自分のことを嫌っているというのか!どうしてこのように自分の自尊心を傷つけなければならないのか!「ああ!広瀬雫、あんた......このクソ女!」春日部咲が今日着ている服は有賀悠真が彼女に買ってあげたシャネルの上下セットで、合わせて彼女の年収でも足りない値段だ。茶色のコーヒーが襟元からポタポタと落ちていて、ひどく醜い縦線になり、彼女は発狂してしまいそうだった!「言葉遣いには気をつけなさいよ」広瀬雫は頭がクラクラするのを我慢し、カップを持つ手と逆の手を体の横に下げ力強く握り締めた。「あのデザイン原稿がすぐに採用されて、私も驚いているのよ。でも、昨晩の食事では風間社長とデザイン原稿について話し合っただけ。あなた、風
広瀬雫はペンを持つ手を止め、彼のほうは見ずに言った。「私と一緒に帰ってくれなくていいわ。帰ったらお義母さんに私から説明しておくから」「なにを説明するって?」有賀悠真は顔を曇らせ、目を細めた。「広瀬雫、まさか怒ってるんじゃないだろうな?おまえはこんなことで駄々をこねるような女じゃないと思っていたが」駄々をこねる?広瀬雫は目を閉じた。じゃあどのような人がそうではないというのだろうか?「私の夫は先に愛人と一緒に服を買いに行って、それから私を迎えに来て一緒に家に帰るって。有賀悠真、あなた本当に自分がひどい人間じゃないって思ってるの?」今や自分もデザイン原稿に集中することができないと分かり、広瀬雫はいっそのことペンを置き、目線を目の前の絶世のイケメンのほうに移した。彼は実際にとてもルックスが良い。高く整った鼻、薄い唇にその瞳。優しくなれば、彼に見つめられたいと思う女性は世界中にいるだろう。このような男性を好きにならない女性はこの世にいるだろうか?「これ以上用がないのであれば、有賀社長、お先にどうぞ。私はまだ仕事がありますので、あなたに構ってる時間なんてないんです」広瀬雫は彼に出て行けと言わんばかりに告げた。有賀悠真はすでに怒りが頂点に達していた。彼は凍るような冷たい目線で広瀬雫を睨み、最後にふんと鼻を鳴らし去っていった。「勝手にしろ!」広瀬雫は有賀悠真が去っていく背中を見つめ、しばらく深く呼吸をして気持ちを整えた後、ようやく窒息しそうな感覚が和らいできた。携帯が鳴り、彼女はその着信相手を見ると顔色が一気に青くなり、出らずにそのまま電話を切ってしまった。そして携帯を適当に机の上に放り投げ、広瀬雫は目の前のデザイン原稿を見つめ呆然としていた。......退勤時間となり、春日部咲はおめかしをして先に会社を出て行った。広瀬雫は無表情で彼女が去っていく後ろ姿を眺めていた。彼女は会社に残り、そのままデザイン画の修正を行った。風間湊斗の個人資料を調べて見たことがある。彼が昔どのような不動産プロジェクトに関わったのか、その中から有用な情報を引き出したかったのだ。例えば、彼はどのようなスタイルの建築に興味を持っているかを理解し、それを自分の作品に取り入れようと思っているのだ。そして偶然、彼に関する動画を目にした。そ
クラブルミナスにて。広瀬雫は店員の案内でようやくロビーの片隅にひっそりといた長谷川優花を見つけだした。彼女が近づいていった時、長谷川優花はつまらなさそうに、自分の前にあるレモンジュースをシャンパンの中に入れながら、頻繁に頭を上げてそのコーナーのすぐ横にある一本の廊下のほうをチラチラと見ていた。「何を見てるのよ?」広瀬雫は彼女の向かい側にある椅子に座ると、ようやくモヤモヤとしていた頭が少しだけスッキリするのを感じた。長谷川優花は彼女が来たのを見ると、瞳がすぐにキラキラと輝きだした。彼女は広瀬雫に手招きをし、少し興奮した様子で声のトーンを抑えて尋ねた。「あなた、風間家の三男坊を知ってる?」広瀬雫は彼女のその言葉の意味をはっきりと理解した。ただ今日の彼女は体の調子が悪く、元気がなかったので淡々と彼女に注意した。「優花、元カレと別れてまだ一週間しか経っていないでしょう」「それでも別れたことに違いはないじゃない!」長谷川優花は太ももを叩き、少し広瀬雫の言った言葉に不満そうに白目で一瞥した。そして我慢できずにこう続けた。「あのね、今回は私本気なのよ!ある日、市役所のロビーで彼をひと目見た時......白シャツに黒のスーツでさ、重苦しい色なのに彼がそのスーツを着たとたんに、エレガントで高貴な雰囲気に......本当に天使が舞い降りたかのようだったのよ!絶対的な紳士!彼の一つ一つの動作が、もう私を虜にしちゃったわ......雫、私は絶対彼を追いかけて、結婚してやるんだから!」「あなたが今までに結婚すると言った男性は、ここからあなたの家まで並べるほどたくさんいるけど」広瀬雫は一口レモンジュースを飲み、長谷川優花の話を真面目に捉えて聞いてはいないようだった。長谷川優花は広瀬雫の幼馴染で、芸能界では有名な移り気な女王様で知られていた。男性をまるで服のように取っ替え引っ替えし、広瀬雫とは全く正反対の恋愛歴だ。ただ、毎回彼女がある男性を追いかける時、必ずその男性と結婚するという考えに重きを置いているのだが、今でも彼女はまだ独身のままだった......「雫、いつも私のやる気をなくさせるわよね。どうりで私の恋愛がいっつも失敗に終わるわけだわ」長谷川優花の表情は一気に曇り、撮影現場ではない演技が始まり、彼女は目を真っ赤にさせ涙をぽろぽろと流した。広瀬雫は少し
広瀬雫は彼が春日部咲の言葉に隠した誘惑を見抜けていないと思っていた......少し唇をすぼめ、今はついて行くしかない。会社の下には運転手付きのベントレーが三台止まっていた。どうやら風間グループは彼らを直接ロイヤルガーデンまで送るつもりらしいのだ。暫く会社の下で待っていると、風間湊斗がようやく降りてきた。広瀬雫は彼がスーツを着替えたことに気づいた。彼は彼女の前を通り過ぎるとき、少しためらいながら、先頭のベントレーミュルザンヌに乗っていった。春日部咲はそれを見て、慌ててカバンを持ってその車に近づいたが、すぐに横山太一に止められた。彼は申し訳なさそうに笑いかけて「春日部さん、うちの社長は他人と同じ車に乗るのが好きではありませんので、後ろの車に乗っていただけませんか」と言いだした。春日部咲はすこし悔しそうだったが、今はわがままを言っている場合じゃないと分かっていたので、しぶしぶと後の車に乗った。広瀬雫はまだ階段に立っていた。それを見て、春日部咲の乗った車に向かおうとしたが、横山太一に止められてしまった。「広瀬さん、有賀グループのデザイン原稿について、まだ相談したいところがいくつかあると社長は言いました。広瀬さんは前の車に乗りましょうか」あまりにもあからさまな差別に、広瀬雫はわずかに眉をひそめた。遠くないところで、浅野舞とデザイナーは複雑な目でこちらを見つめていた。広瀬雫は両手をきつく握りしめ、横山太一に淡々と言った。「また何か問題があったら、後でレストランで食べながら話し合いましょう。みんなもいますから、解決方法もみんなで考えたらいいかと」横山太一の驚いた顔を見ないで、広瀬雫はそう言うと彼の横を通り過ぎ、まっすぐに春日部咲の乗った車に乗り込んだ。横山太一は広瀬雫の後ろ姿を見つめ、仕方なくベントレーミュルザンヌに近づき、中にいた男に何かを言った。すると、車の窓がすぐ閉められ、車は走りだした。浅野舞の傍にいたデザイナーは満面怒りを顕にし、不服そうに「どうして有賀グループのデザインがこんなに大袈裟に褒められたのか、ずっと不思議だと思ってたわ。そういうことなのね?有賀グループも大したことないから、このような女を二人来させて媚びを売るんだね」と言った。浅野舞は広瀬雫から視線をそらすと、唇をすぼめ小声で叱った。「しい、風間グループの人
彼女は唇をきつくすぼめ、ようやく前の真ん中に座っている男を見つめた。窓から差し込んだ日差しが作った影で、彼の顔立ちがよりくっきりと際立っていた。彼は左手に煙草を持ち、白いシャツにネクタイを緩めにし、足を組んで気怠そうに二つのデザイン画を見ていた。いつもの厳しさと今朝、錯覚のように見えた優しさとは違って、今の彼からは無造作な気安さすらも感じられ、キラキラと輝いている。女が彼に食い気味になるのも無理はない。目の前にいるこの男自身にも、よくトラブルを引き起こしてしまう要素がありそうだ。「広瀬さん、私をじいっと見てきて、何か言いたいことでも?」油断してつい見つめていると、風間湊斗の冷たい声に現実に引き戻された。風間湊斗は煙草の灰を落とすと、真っ黒な瞳をまっすぐにこちらに向けた。その目には、人を吸い込む渦があるようだ。口元をわずかに上げて、その冷たい顔から柔らかささえ感じられる。広瀬雫はドキッとして、慌てて隣を見回した。春日部咲はまるで広瀬雫が風間湊斗を誘惑したと思っているような嫌そうな顔をしていた一方、浅野舞は相変わらず複雑な顔をしていた。彼女は急いで自分を落ち着かせ、風間湊斗の顔を見ずに咳払いをした。「私はただ、風間グループがデザインに対する最終的な結論を出すのを待っているだけです。風間社長が有賀グループのデザインが盗作でないと結論を出してくださらないと、私は安心できませんので」「そうですか」低い声で言ったのに、ずいぶん優しそうに聞こえた。語尾がからかうように少し高く、何か意味ありげな響きを感じる。見るまでもなく、広瀬雫は男が薄い唇を少しすぼめているのを予想できた。ふっと昨夜の不用意なキスのことを思い出して、彼女の耳がかすかに赤くなった。また今朝の曖昧な質問が頭に浮かぶと、慌ててまた自分を落ち着かせた。「そうです。問題があるかどうか、その答えをいただけるんですか」彼女は背筋を伸ばし、もう一度風間湊斗を見返した時、その目はもう波が立っていない澄んだ湖のようだった。風間湊斗は淡々と彼女の冷静な目を一瞥して、その赤くなった耳を見逃していなかった。口角をわずかに愉快そうにあげ、何もなかったかのように口を開いた。「有賀グループと浅野グループのデザインは問題ないと確認しました。盗作の形跡は見当たらないです」春日部咲は嬉し
この言葉は今井マネージャーがまるで功績は自分のものではないと慌てて説明した言い訳のようなものだったが、実際誰もがその意味を理解していた。つまり風間社長が広瀬雫のデザインが素晴らしいと言っているのだ。それを聞き、浅野舞の笑顔がこわばった。ちょうどその時、今井マネージャーは助手が持ってきたカップを自ら広瀬雫に手渡した。「広瀬さん、レモンジュースです」広瀬雫に出したレモンジュース以外、他の三人とも同じコーヒーだった。広瀬雫は少し意外だったが、深く考えず一口飲んだ。春日部咲は顔色を変え、後ろから陰気な声で「今回は言い訳できないでしょ!」と言った。自分のコーヒーを見つめている浅野舞は、何も言わなかった。......間もなく、風間湊斗が会議室から出てきた。スラリとした長身に、無表情だがこれ以上ない整った顔をして、後ろに何十人かのスーツ姿の男を連れて出てきた。雰囲気から見るとそんなに堅苦しくないが、緩やかでもなく、全員小声で何かを話し合っていた。風間湊斗がこの後また用事があると分かって、彼らはエレベーターに向かった。風間湊斗は広瀬雫たちを一瞥し、目の色も変えず、横山太一に頷いて、別の会議室へ入って行った。彼はすでにスーツの上着を脱いでいた。ネクタイがきついと思ったのか、少し緩めていた。白いシャツがその完璧なボディーラインをくっきりとさせていた。醸し出すオーラ―はそれほど強くないが、とても近づけない雰囲気に包まれている。広瀬雫が立ち上がろうとすると、懐に抱えていた書類を突然春日部咲に奪われた。「これまでの報告はあなたがやったんだから、今回は私がするよ」と彼女はあごを上げて言い出した。そう言い終わると、返事も待たず、書類を抱えて風間湊斗の後ろに続いて会議室に向かった。広瀬雫は一瞬複雑な目つきになった。......今回の会議の話題は、足立グループの盗作の話に違いない。その処罰について風間グループはしっかりと決めていた。そのため、有賀グループと浅野グループのデザインを再検定しなければならない。浅野グループのデザイナーが立ち上がるのを待たず、春日部咲が先に前へ出た。スーツのタイトスカートが彼女の完璧なスタイルをくっきりと見せていた。彼女の目にはいつものように色っぽい笑みが浮かんでいた。「風間社長、私は有賀グループB
「広瀬雫!」今度は春日部咲のほうが言い返すことができなかった。昨日の夜、有賀悠真にお別れを言われたことは彼女に大きなショックを与えた。今朝また挽回したいと思っていたが、結局有賀悠真に注意される羽目になった。もしまた何かをしようとするなら、これから有賀グループにいられなくなってしまう。彼女はもちろん有賀グループを離れたくなかった。離れなければ、まだチャンスがあるからだ。今身を引いたらもう何もかも終わりと同然なのだ。そして、自分をこんな惨めな状況に落とした元凶は、まさに目の前にいるこの女だ。彼女でなければ、有賀悠真が自分を公私混同だと責めて、別れることなんてありえない!彼女は恨めしそうに歯を食いしばった。すると、広瀬雫の電話が鳴りだした。彼女は春日部咲から視線を外して、電話に出た。ちょうど今井マネージャーからの電話だった。彼の言葉遣いが丁寧で、どこか畏まっているようにも聞こえる。「広瀬さん、今日の午後三時以降、お時間がありますか」すると、隣の春日部咲は「電話までかけてきたのに、まだ何の関係もないって言う気なの」と皮肉っぽい言葉をこぼした。広瀬雫はそれを無視して、同じように丁寧な言葉で相手に返事した。「はい、ありますよ。またデザインの件でしょうか」「はい、そうです。足立グループの盗作の問題が発生しましたので、有賀グループと浅野グループのデザイン担当にまたすこし話をしたいと風間社長が言っています」風間湊斗が直接面談に来るという......広瀬雫は少し考えてから「......わかりました。では、午後三時に風間グループに伺いますね」と返事をした。「ご心配なさらずに」広瀬雫の口調が強張っているのが分かったのか、今井マネージャーは笑いながら言った。「ただの事務的な話ですから、広瀬さんはそんなに緊張しなくてもいいんですよ」今井マネージャーが好意からそう言ってくれていると分かって、広瀬雫は少しほっとした。「わかりました。ありがとうございます」「この後、風間グループに行くんでしょ?」電話を切ると、春日部咲はすぐに食いついてきた。広瀬雫の返事も待たず、彼女はふんと鼻を鳴らした。「今度は聞こえたわよ。あなたが知らせなくても分かるの。午後三時、私も一緒に風間グループに行くんだから!」広瀬雫は眉にしわを寄せた。今回のサニーヒルズ
彼女の視線は広瀬雫の首にぶら下がったネームタグに注がれていた――有賀グループデザイン部Aグループチームリーダー、広瀬雫。確かに、今回のプロジェクトには有賀グループが広瀬という女性社員を風間グループへ行かせたらしい。浅野舞はきょとんとして何か言おうとすると、広瀬雫はカバンから2千円を取り出し、テーブルの上に置いた。「コーヒーは私の奢りで。浅野さん、もし他のことがないなら、私は先に失礼します」そう言い終わると、浅野舞の返事も待たず、まっすぐカフェのドアのほうへ歩き出した。彼女の思った通り、浅野舞の目的はやはりサニーヒルズプロジェクトだったのだ。それに、浅野グループ、足立グループと有賀グループが風間グループに選ばれたということも業界内では秘密ではないみたいだ。会社に戻る途中、有賀恭子から電話がかかってきた。「雫ちゃん、よくやったわね。舞は確かに姪だけど、息子の悠真と比べられないものよ。今回のサニーヒルズプロジェクトにずいぶん苦労していたのを知っているわ。自分が正しいと信じてやってください。お義母さんはいつでも力になってあげるからね」広瀬雫の声が優しくなった。「はい、ありがとう。お義母さん」と言い、少し考えてからまた口を開いた。「大宮さんから聞きましたよ。最近また腰が痛くなったそうですね。時間を見つけて一緒に病院に行きましょう。私がついて行きますから」有賀恭子は少しびっくりしたようだが、広瀬雫を気に入ったという顔つきになって言った。「いつも雫ちゃんに面倒をかけるわけにはいかないでしょう。大宮さんが私に付き合ってくれたらいいの。時間があったら、悠真ともっと一緒にいた方がいいわ。雫ちゃんがどれほど悠真を愛しているのかは知っているから。心配しないで、雫ちゃん、どこの馬の骨も分からない女なんて、絶対有賀家に入らせないんだから」広瀬雫はしばらく黙っていたが、やがて淡々と言った。「お義母さん、会社に着きましたから、もう電話切りますね」電話を切ると、ちょうど有賀悠真が遠くないところから会社に入ってくるのが見えた。彼の後ろに何人かの部下がついていて、仕事の報告でもしているようだ。彼は厳しい表情をして、手にした書類を見ながら、後ろにいる人たちに何かを聞いていて、中へ歩いて行った。歩くたびに、彼のスーツの襟が風に揺れ、スラリとした体のラインか
その言葉を聞いた広瀬雫は顔が急に青ざめた。「広瀬雫、俺がどうして君に全く興味がないのか知りたいか」有賀悠真は少し愉快そうで残忍な笑みを浮かべた。「君のその他人を不快にさせる態度は本当に気持ち悪い。たとえ性欲を持っていても、君が目に入ると、興ざめするぞ!」言い終わると、彼はスーツと携帯を手にして、広瀬雫には一目もくれず、振り返って去っていった。書斎で、広瀬雫はソファの上に残ったブランケットをじっと見つめていた。その目は失望のあまり、何も映っていなかった。......「広瀬さん、浅野グループの浅野さんがいらっしゃいました」昼、会社に着いたところ、広瀬雫は受付からの電話を受けた。彼女は少し疲れていたが「......彼女に電話をかわってください」と伝えた。少し物音がしてから、電話から甘く澄んだ声がした。「雫姉さん、私です。浅野舞です。今会社の下にいます」「どうしましたか」広瀬雫の態度はあまり親切ではなく、浅野家では義母の有賀恭子以外との付き合いはあまりないのだ。浅野舞は優しく微笑んだ。「今日は用事で来たんです。ちょうど悠真さんの会社の下を通りましたから、雫姉さんと一緒に食事をしようと思いましたの。雫姉さん、会社の隣のレストランで待っていますよ」広瀬雫は断ろうとしたが、何かを思いつき「分かりました。じゃあ、そこでちょっと待っててください。すぐ降りますから」と返事をした。電話を切ってから、手鏡を覗いてみた。鏡の中に映った女の顔色が良いとは言えない。広瀬雫は気を取り直した。レストランに着いた時、浅野舞はつまらなさそうに目の前のコーヒーをかき混ぜていた。広瀬雫に気づくと彼女は目を見開き、すぐ立ち上がって、親切に広瀬雫の腕をとり、テーブルのところへ連れていった。「雫姉さん、普段全然私に連絡してくれないじゃないですか。一緒に遊びに行きましょうよ。今朝恭子おばさんに電話したら、義姉さんはいつも一人で退屈そうだって言われましたよ。これからは時間があったら、時々遊びに来てもいいですか」彼女のあどけない顔を目の前にして、広瀬雫はさりげなく彼女の手から自分の手を引っ込め、向かいの席に腰を下ろした。「いつも忙しいです」彼女の冷たさを浅野舞は全く気にしていないようで、ニコニコ笑っていた。「雫姉さんは有賀グループのためにい
広瀬雫は身を起そうとしたが、手足を思うように動かせず、鉛のように重かった。「ブランケットを持っていってほしいと大宮さんが――」逃げることができず、仕方ないと思いながら、彼女は目の前の渋い顔をした男を見て、乾いた声で説明した。有賀悠真は眉をひそめ、無表情のままブランケットを横に払い、立ち上がって上から床に座り込んだ女を見つめた。彼女のきちんと着こなした服に視線を落とすと、わずかに目を開き、責めるように彼女の目を睨んだ。「昨夜どこへ行ってたんだ?」広瀬雫は目を開閉し、爪がてのひらに深く食い込んで痛くなるくらい手を握りしめて、ようやく力が戻ってきたようで、ゆっくりと立ち上がった。疲れは隠せなくてもこの美形な男を見ていると、心が冷えていった。「あなたに毎日の予定をわざわざお知らせする義務なんてないでしょ」有賀悠真はわけもなく心が苛立っていた。昨晩、春日部咲と一緒にいた時のような感情がまたこみ上げてきて、思わず言った。「俺はもう白石玲奈と別れた、春日部咲とも」広瀬雫はきょとんとしたが、口元にすぐ皮肉な笑みを浮かべた。「それがどうかしたの?」白石玲奈と春日部咲がいなくても、また別の女が現れる。このように際限もなく彼女の感情と尊厳が踏みにじられる生活には、もううんざりだ。彼女が目を伏せると、長いまつ毛が目の下にうっすらと影を落とした。広瀬雫は肌が白く、うっすらとピンク色も見える整った優しい顔立ちをしている。彼のスラリとした体が近づくと、彼女の小さな体が包み込まれるようだ。近くにいるせいか、彼女からわずかないい香りがした。ゴクリと唾を飲み込み、有賀悠真は急に自分を制御できないかのように一歩踏み込んで、広瀬雫を懐に抱いた。そして、ためらいなくその桜の花のような唇を貪った。彼の呼吸が少し速くなり、唇に触れると我慢できずに、すぐ彼女の唇を吸うように舐めた。まるで中毒になったかのように、今胸の中に抱きしめた人を、そのままずっと抱きしめようと思っていた!キスされた広瀬雫は呆気に取られて固まってしまった。彼の手は優しく彼女の体を包み込んでいるが、その薄い唇は力強く押さえつけてきた!ただ、彼のはだけた白いシャツに妖艶に咲いた赤い印は、皮肉にも嘲笑していた。彼が昨夜も他の女と一緒にいたのだと思うと、広瀬雫は吐き気がしそうだった。
別荘のドアを開けると、音に気付いた大宮さんが迎えに来た。「若奥様、ようやく帰られましたね。昨日奥様は電話をおかけになりましたが、電源が切れていると言っていました。若旦那様も一晩中ずっと探していらっしゃいましたので、ただ今帰ったところです。今は書斎にいらっしゃいます。みんなは若奥様を心配して、奥様なんて午前三時まで寝つけられないご様子でしたよ」広瀬雫は申し訳なさそうに「昨日の夜、私は......友達のところに泊まったんです。携帯の電池が切れていて、連絡が取れなくて」と説明した。風間湊斗のところで一晩過ごしたのは、もちろん口が裂けても言えない。大宮さんは頷き、薄いブランケットを渡し、広瀬雫に何かを暗示するようにわざと瞬いた。「さっき若旦那様が書斎で眠っているのを見ました。風邪を引かないように、ブランケットを掛けようと思いましたが、ちょうど若奥様が帰ってきたから、ブランケットをかけてあげてくれませんか」広瀬雫はブランケットを抱えたまま、しばらくその場で固まっていた。大宮さんが好意でそうしていることは知っている。この家で、大宮さんと有賀恭子はよくさりげなく彼女と有賀悠真を仲良くさせるためにいろいろやってくれたが、残念なことに、この二年くらい、広瀬雫はずっとその期待に応えられなかった。大宮さんは彼女に勇気を与えるように笑ってから、台所に入った。持っているブランケットを見て、広瀬雫は苦笑いしていた。もしただ薄いブランケット一枚で、あの男の心を自分のものにすることができるなら、彼女はこの二年間、こんなに苦しむ必要はなかっただろう。さっき大宮さんの話によると、有賀悠真は自分を一晩中ずっと探してくれたという。広瀬雫の心はぬくもりと僅かな痛みが同時に占め、思い切って心を鬼にしてしまうことができなかった。ブランケットを胸にきつく抱きしめて、一歩、また一歩、上の書斎に向かった。書斎のドアは鍵が掛かっておらず、軽く押すと開いた。中に入って見回すと、来客用のソファーに横になった人がいた。有賀悠真は疲れて寝ていたのだろう。面倒くさいと思ったのか、上着のスーツを左手で握ったままソファの上に置き、ワイシャツのボタン―を何個開けて、そのまま寝てしまったようだ。右手を目の上に当てていて、その目の奥にある鋭さも隠していた。彼が眠っている時だけ、こうや
風間湊斗は目の前の掌くらいに小さな顔に浮かんだ笑顔を見つめた。たったこれだけのことで、こんなに彼女を満足させることができるのか。彼は背もたれに身をあずけ、ふっと意味ありげに視線を向けた。「ただデザイン画を完成させるために、俺の好みを調べたのですか」彼の横顔のラインは完璧に近いほど整っており、少し猫目で細く伸びている。普段は厳格なようにしか見えないが、今はやや微笑んでおりどこか優しそうに見えた。いや、その目の弧度は彼にしては優しすぎる。広瀬雫はきょとんとし、慌ててその視線を避けた。「すべては風間グループが満足するようなデザインのためです。うちの会社にとっても、私にとっても、一番大事なことですから」風間湊斗は目の端で彼女が居心地悪そうに車の窓の外へ視線を向けたのを見て、口元に淡い微笑みを浮かべた。彼女の真面目な返事を聞いていないかのように、そのまま話を進めていった。「昨日の朝のニュースを見ましたか。俺のインタビュー」さっきまで舞い上がっていた心が次第に窮迫してきた。その質問が最初のほうに言っていた事業の発展をさしているのか、それとも最後の話を指しているのか......広瀬雫は風間湊斗の真意を全く理解できなかった。「昨日俺が話したこと、何か思うところがありますか?」さっきの言葉では足りなかったかのように、赤信号の手前でブレーキを踏みながら彼女のほうに向いて、何気なく一言を加えた。目の前の男はただでさえ他人より優れた見た目をしていたのに、きちんとした背広を着ているせいか、その厳しさがやや抑えられていた。長い時間と様々な経験で作り上げられた魅力の持ち主は、気怠い動作にミステリ―さも潜んでいる。その深淵の底のような黒い瞳に捉えられ、広瀬雫は掌に少し汗が滲んだ。今日一日に起こった一連の出来事自体、彼女はすでに奇妙な感じを受けていたが......予想したようなことにならないように彼女は密かに願った。少し強く手を握り、頭で必死に考えているのに反して、とぼけた表情を彼に見せた。「ええと......インタビューというのは?」風間湊斗の微笑みが顔から消えて、彼女の顔色から何かを探るように念入りに観察すると、口元を少し上げて言った。「まあいい、何も聞かなかったことにして」ちょうど青信号になり、彼は再びアクセルを踏んだ。彼からは見えない角