別荘のドアを開けると、音に気付いた大宮さんが迎えに来た。「若奥様、ようやく帰られましたね。昨日奥様は電話をおかけになりましたが、電源が切れていると言っていました。若旦那様も一晩中ずっと探していらっしゃいましたので、ただ今帰ったところです。今は書斎にいらっしゃいます。みんなは若奥様を心配して、奥様なんて午前三時まで寝つけられないご様子でしたよ」広瀬雫は申し訳なさそうに「昨日の夜、私は......友達のところに泊まったんです。携帯の電池が切れていて、連絡が取れなくて」と説明した。風間湊斗のところで一晩過ごしたのは、もちろん口が裂けても言えない。大宮さんは頷き、薄いブランケットを渡し、広瀬雫に何かを暗示するようにわざと瞬いた。「さっき若旦那様が書斎で眠っているのを見ました。風邪を引かないように、ブランケットを掛けようと思いましたが、ちょうど若奥様が帰ってきたから、ブランケットをかけてあげてくれませんか」広瀬雫はブランケットを抱えたまま、しばらくその場で固まっていた。大宮さんが好意でそうしていることは知っている。この家で、大宮さんと有賀恭子はよくさりげなく彼女と有賀悠真を仲良くさせるためにいろいろやってくれたが、残念なことに、この二年くらい、広瀬雫はずっとその期待に応えられなかった。大宮さんは彼女に勇気を与えるように笑ってから、台所に入った。持っているブランケットを見て、広瀬雫は苦笑いしていた。もしただ薄いブランケット一枚で、あの男の心を自分のものにすることができるなら、彼女はこの二年間、こんなに苦しむ必要はなかっただろう。さっき大宮さんの話によると、有賀悠真は自分を一晩中ずっと探してくれたという。広瀬雫の心はぬくもりと僅かな痛みが同時に占め、思い切って心を鬼にしてしまうことができなかった。ブランケットを胸にきつく抱きしめて、一歩、また一歩、上の書斎に向かった。書斎のドアは鍵が掛かっておらず、軽く押すと開いた。中に入って見回すと、来客用のソファーに横になった人がいた。有賀悠真は疲れて寝ていたのだろう。面倒くさいと思ったのか、上着のスーツを左手で握ったままソファの上に置き、ワイシャツのボタン―を何個開けて、そのまま寝てしまったようだ。右手を目の上に当てていて、その目の奥にある鋭さも隠していた。彼が眠っている時だけ、こうや
広瀬雫は身を起そうとしたが、手足を思うように動かせず、鉛のように重かった。「ブランケットを持っていってほしいと大宮さんが――」逃げることができず、仕方ないと思いながら、彼女は目の前の渋い顔をした男を見て、乾いた声で説明した。有賀悠真は眉をひそめ、無表情のままブランケットを横に払い、立ち上がって上から床に座り込んだ女を見つめた。彼女のきちんと着こなした服に視線を落とすと、わずかに目を開き、責めるように彼女の目を睨んだ。「昨夜どこへ行ってたんだ?」広瀬雫は目を開閉し、爪がてのひらに深く食い込んで痛くなるくらい手を握りしめて、ようやく力が戻ってきたようで、ゆっくりと立ち上がった。疲れは隠せなくてもこの美形な男を見ていると、心が冷えていった。「あなたに毎日の予定をわざわざお知らせする義務なんてないでしょ」有賀悠真はわけもなく心が苛立っていた。昨晩、春日部咲と一緒にいた時のような感情がまたこみ上げてきて、思わず言った。「俺はもう白石玲奈と別れた、春日部咲とも」広瀬雫はきょとんとしたが、口元にすぐ皮肉な笑みを浮かべた。「それがどうかしたの?」白石玲奈と春日部咲がいなくても、また別の女が現れる。このように際限もなく彼女の感情と尊厳が踏みにじられる生活には、もううんざりだ。彼女が目を伏せると、長いまつ毛が目の下にうっすらと影を落とした。広瀬雫は肌が白く、うっすらとピンク色も見える整った優しい顔立ちをしている。彼のスラリとした体が近づくと、彼女の小さな体が包み込まれるようだ。近くにいるせいか、彼女からわずかないい香りがした。ゴクリと唾を飲み込み、有賀悠真は急に自分を制御できないかのように一歩踏み込んで、広瀬雫を懐に抱いた。そして、ためらいなくその桜の花のような唇を貪った。彼の呼吸が少し速くなり、唇に触れると我慢できずに、すぐ彼女の唇を吸うように舐めた。まるで中毒になったかのように、今胸の中に抱きしめた人を、そのままずっと抱きしめようと思っていた!キスされた広瀬雫は呆気に取られて固まってしまった。彼の手は優しく彼女の体を包み込んでいるが、その薄い唇は力強く押さえつけてきた!ただ、彼のはだけた白いシャツに妖艶に咲いた赤い印は、皮肉にも嘲笑していた。彼が昨夜も他の女と一緒にいたのだと思うと、広瀬雫は吐き気がしそうだった。
その言葉を聞いた広瀬雫は顔が急に青ざめた。「広瀬雫、俺がどうして君に全く興味がないのか知りたいか」有賀悠真は少し愉快そうで残忍な笑みを浮かべた。「君のその他人を不快にさせる態度は本当に気持ち悪い。たとえ性欲を持っていても、君が目に入ると、興ざめするぞ!」言い終わると、彼はスーツと携帯を手にして、広瀬雫には一目もくれず、振り返って去っていった。書斎で、広瀬雫はソファの上に残ったブランケットをじっと見つめていた。その目は失望のあまり、何も映っていなかった。......「広瀬さん、浅野グループの浅野さんがいらっしゃいました」昼、会社に着いたところ、広瀬雫は受付からの電話を受けた。彼女は少し疲れていたが「......彼女に電話をかわってください」と伝えた。少し物音がしてから、電話から甘く澄んだ声がした。「雫姉さん、私です。浅野舞です。今会社の下にいます」「どうしましたか」広瀬雫の態度はあまり親切ではなく、浅野家では義母の有賀恭子以外との付き合いはあまりないのだ。浅野舞は優しく微笑んだ。「今日は用事で来たんです。ちょうど悠真さんの会社の下を通りましたから、雫姉さんと一緒に食事をしようと思いましたの。雫姉さん、会社の隣のレストランで待っていますよ」広瀬雫は断ろうとしたが、何かを思いつき「分かりました。じゃあ、そこでちょっと待っててください。すぐ降りますから」と返事をした。電話を切ってから、手鏡を覗いてみた。鏡の中に映った女の顔色が良いとは言えない。広瀬雫は気を取り直した。レストランに着いた時、浅野舞はつまらなさそうに目の前のコーヒーをかき混ぜていた。広瀬雫に気づくと彼女は目を見開き、すぐ立ち上がって、親切に広瀬雫の腕をとり、テーブルのところへ連れていった。「雫姉さん、普段全然私に連絡してくれないじゃないですか。一緒に遊びに行きましょうよ。今朝恭子おばさんに電話したら、義姉さんはいつも一人で退屈そうだって言われましたよ。これからは時間があったら、時々遊びに来てもいいですか」彼女のあどけない顔を目の前にして、広瀬雫はさりげなく彼女の手から自分の手を引っ込め、向かいの席に腰を下ろした。「いつも忙しいです」彼女の冷たさを浅野舞は全く気にしていないようで、ニコニコ笑っていた。「雫姉さんは有賀グループのためにい
彼女の視線は広瀬雫の首にぶら下がったネームタグに注がれていた――有賀グループデザイン部Aグループチームリーダー、広瀬雫。確かに、今回のプロジェクトには有賀グループが広瀬という女性社員を風間グループへ行かせたらしい。浅野舞はきょとんとして何か言おうとすると、広瀬雫はカバンから2千円を取り出し、テーブルの上に置いた。「コーヒーは私の奢りで。浅野さん、もし他のことがないなら、私は先に失礼します」そう言い終わると、浅野舞の返事も待たず、まっすぐカフェのドアのほうへ歩き出した。彼女の思った通り、浅野舞の目的はやはりサニーヒルズプロジェクトだったのだ。それに、浅野グループ、足立グループと有賀グループが風間グループに選ばれたということも業界内では秘密ではないみたいだ。会社に戻る途中、有賀恭子から電話がかかってきた。「雫ちゃん、よくやったわね。舞は確かに姪だけど、息子の悠真と比べられないものよ。今回のサニーヒルズプロジェクトにずいぶん苦労していたのを知っているわ。自分が正しいと信じてやってください。お義母さんはいつでも力になってあげるからね」広瀬雫の声が優しくなった。「はい、ありがとう。お義母さん」と言い、少し考えてからまた口を開いた。「大宮さんから聞きましたよ。最近また腰が痛くなったそうですね。時間を見つけて一緒に病院に行きましょう。私がついて行きますから」有賀恭子は少しびっくりしたようだが、広瀬雫を気に入ったという顔つきになって言った。「いつも雫ちゃんに面倒をかけるわけにはいかないでしょう。大宮さんが私に付き合ってくれたらいいの。時間があったら、悠真ともっと一緒にいた方がいいわ。雫ちゃんがどれほど悠真を愛しているのかは知っているから。心配しないで、雫ちゃん、どこの馬の骨も分からない女なんて、絶対有賀家に入らせないんだから」広瀬雫はしばらく黙っていたが、やがて淡々と言った。「お義母さん、会社に着きましたから、もう電話切りますね」電話を切ると、ちょうど有賀悠真が遠くないところから会社に入ってくるのが見えた。彼の後ろに何人かの部下がついていて、仕事の報告でもしているようだ。彼は厳しい表情をして、手にした書類を見ながら、後ろにいる人たちに何かを聞いていて、中へ歩いて行った。歩くたびに、彼のスーツの襟が風に揺れ、スラリとした体のラインか
「広瀬雫!」今度は春日部咲のほうが言い返すことができなかった。昨日の夜、有賀悠真にお別れを言われたことは彼女に大きなショックを与えた。今朝また挽回したいと思っていたが、結局有賀悠真に注意される羽目になった。もしまた何かをしようとするなら、これから有賀グループにいられなくなってしまう。彼女はもちろん有賀グループを離れたくなかった。離れなければ、まだチャンスがあるからだ。今身を引いたらもう何もかも終わりと同然なのだ。そして、自分をこんな惨めな状況に落とした元凶は、まさに目の前にいるこの女だ。彼女でなければ、有賀悠真が自分を公私混同だと責めて、別れることなんてありえない!彼女は恨めしそうに歯を食いしばった。すると、広瀬雫の電話が鳴りだした。彼女は春日部咲から視線を外して、電話に出た。ちょうど今井マネージャーからの電話だった。彼の言葉遣いが丁寧で、どこか畏まっているようにも聞こえる。「広瀬さん、今日の午後三時以降、お時間がありますか」すると、隣の春日部咲は「電話までかけてきたのに、まだ何の関係もないって言う気なの」と皮肉っぽい言葉をこぼした。広瀬雫はそれを無視して、同じように丁寧な言葉で相手に返事した。「はい、ありますよ。またデザインの件でしょうか」「はい、そうです。足立グループの盗作の問題が発生しましたので、有賀グループと浅野グループのデザイン担当にまたすこし話をしたいと風間社長が言っています」風間湊斗が直接面談に来るという......広瀬雫は少し考えてから「......わかりました。では、午後三時に風間グループに伺いますね」と返事をした。「ご心配なさらずに」広瀬雫の口調が強張っているのが分かったのか、今井マネージャーは笑いながら言った。「ただの事務的な話ですから、広瀬さんはそんなに緊張しなくてもいいんですよ」今井マネージャーが好意からそう言ってくれていると分かって、広瀬雫は少しほっとした。「わかりました。ありがとうございます」「この後、風間グループに行くんでしょ?」電話を切ると、春日部咲はすぐに食いついてきた。広瀬雫の返事も待たず、彼女はふんと鼻を鳴らした。「今度は聞こえたわよ。あなたが知らせなくても分かるの。午後三時、私も一緒に風間グループに行くんだから!」広瀬雫は眉にしわを寄せた。今回のサニーヒルズ
この言葉は今井マネージャーがまるで功績は自分のものではないと慌てて説明した言い訳のようなものだったが、実際誰もがその意味を理解していた。つまり風間社長が広瀬雫のデザインが素晴らしいと言っているのだ。それを聞き、浅野舞の笑顔がこわばった。ちょうどその時、今井マネージャーは助手が持ってきたカップを自ら広瀬雫に手渡した。「広瀬さん、レモンジュースです」広瀬雫に出したレモンジュース以外、他の三人とも同じコーヒーだった。広瀬雫は少し意外だったが、深く考えず一口飲んだ。春日部咲は顔色を変え、後ろから陰気な声で「今回は言い訳できないでしょ!」と言った。自分のコーヒーを見つめている浅野舞は、何も言わなかった。......間もなく、風間湊斗が会議室から出てきた。スラリとした長身に、無表情だがこれ以上ない整った顔をして、後ろに何十人かのスーツ姿の男を連れて出てきた。雰囲気から見るとそんなに堅苦しくないが、緩やかでもなく、全員小声で何かを話し合っていた。風間湊斗がこの後また用事があると分かって、彼らはエレベーターに向かった。風間湊斗は広瀬雫たちを一瞥し、目の色も変えず、横山太一に頷いて、別の会議室へ入って行った。彼はすでにスーツの上着を脱いでいた。ネクタイがきついと思ったのか、少し緩めていた。白いシャツがその完璧なボディーラインをくっきりとさせていた。醸し出すオーラ―はそれほど強くないが、とても近づけない雰囲気に包まれている。広瀬雫が立ち上がろうとすると、懐に抱えていた書類を突然春日部咲に奪われた。「これまでの報告はあなたがやったんだから、今回は私がするよ」と彼女はあごを上げて言い出した。そう言い終わると、返事も待たず、書類を抱えて風間湊斗の後ろに続いて会議室に向かった。広瀬雫は一瞬複雑な目つきになった。......今回の会議の話題は、足立グループの盗作の話に違いない。その処罰について風間グループはしっかりと決めていた。そのため、有賀グループと浅野グループのデザインを再検定しなければならない。浅野グループのデザイナーが立ち上がるのを待たず、春日部咲が先に前へ出た。スーツのタイトスカートが彼女の完璧なスタイルをくっきりと見せていた。彼女の目にはいつものように色っぽい笑みが浮かんでいた。「風間社長、私は有賀グループB
彼女は唇をきつくすぼめ、ようやく前の真ん中に座っている男を見つめた。窓から差し込んだ日差しが作った影で、彼の顔立ちがよりくっきりと際立っていた。彼は左手に煙草を持ち、白いシャツにネクタイを緩めにし、足を組んで気怠そうに二つのデザイン画を見ていた。いつもの厳しさと今朝、錯覚のように見えた優しさとは違って、今の彼からは無造作な気安さすらも感じられ、キラキラと輝いている。女が彼に食い気味になるのも無理はない。目の前にいるこの男自身にも、よくトラブルを引き起こしてしまう要素がありそうだ。「広瀬さん、私をじいっと見てきて、何か言いたいことでも?」油断してつい見つめていると、風間湊斗の冷たい声に現実に引き戻された。風間湊斗は煙草の灰を落とすと、真っ黒な瞳をまっすぐにこちらに向けた。その目には、人を吸い込む渦があるようだ。口元をわずかに上げて、その冷たい顔から柔らかささえ感じられる。広瀬雫はドキッとして、慌てて隣を見回した。春日部咲はまるで広瀬雫が風間湊斗を誘惑したと思っているような嫌そうな顔をしていた一方、浅野舞は相変わらず複雑な顔をしていた。彼女は急いで自分を落ち着かせ、風間湊斗の顔を見ずに咳払いをした。「私はただ、風間グループがデザインに対する最終的な結論を出すのを待っているだけです。風間社長が有賀グループのデザインが盗作でないと結論を出してくださらないと、私は安心できませんので」「そうですか」低い声で言ったのに、ずいぶん優しそうに聞こえた。語尾がからかうように少し高く、何か意味ありげな響きを感じる。見るまでもなく、広瀬雫は男が薄い唇を少しすぼめているのを予想できた。ふっと昨夜の不用意なキスのことを思い出して、彼女の耳がかすかに赤くなった。また今朝の曖昧な質問が頭に浮かぶと、慌ててまた自分を落ち着かせた。「そうです。問題があるかどうか、その答えをいただけるんですか」彼女は背筋を伸ばし、もう一度風間湊斗を見返した時、その目はもう波が立っていない澄んだ湖のようだった。風間湊斗は淡々と彼女の冷静な目を一瞥して、その赤くなった耳を見逃していなかった。口角をわずかに愉快そうにあげ、何もなかったかのように口を開いた。「有賀グループと浅野グループのデザインは問題ないと確認しました。盗作の形跡は見当たらないです」春日部咲は嬉し
広瀬雫は彼が春日部咲の言葉に隠した誘惑を見抜けていないと思っていた......少し唇をすぼめ、今はついて行くしかない。会社の下には運転手付きのベントレーが三台止まっていた。どうやら風間グループは彼らを直接ロイヤルガーデンまで送るつもりらしいのだ。暫く会社の下で待っていると、風間湊斗がようやく降りてきた。広瀬雫は彼がスーツを着替えたことに気づいた。彼は彼女の前を通り過ぎるとき、少しためらいながら、先頭のベントレーミュルザンヌに乗っていった。春日部咲はそれを見て、慌ててカバンを持ってその車に近づいたが、すぐに横山太一に止められた。彼は申し訳なさそうに笑いかけて「春日部さん、うちの社長は他人と同じ車に乗るのが好きではありませんので、後ろの車に乗っていただけませんか」と言いだした。春日部咲はすこし悔しそうだったが、今はわがままを言っている場合じゃないと分かっていたので、しぶしぶと後の車に乗った。広瀬雫はまだ階段に立っていた。それを見て、春日部咲の乗った車に向かおうとしたが、横山太一に止められてしまった。「広瀬さん、有賀グループのデザイン原稿について、まだ相談したいところがいくつかあると社長は言いました。広瀬さんは前の車に乗りましょうか」あまりにもあからさまな差別に、広瀬雫はわずかに眉をひそめた。遠くないところで、浅野舞とデザイナーは複雑な目でこちらを見つめていた。広瀬雫は両手をきつく握りしめ、横山太一に淡々と言った。「また何か問題があったら、後でレストランで食べながら話し合いましょう。みんなもいますから、解決方法もみんなで考えたらいいかと」横山太一の驚いた顔を見ないで、広瀬雫はそう言うと彼の横を通り過ぎ、まっすぐに春日部咲の乗った車に乗り込んだ。横山太一は広瀬雫の後ろ姿を見つめ、仕方なくベントレーミュルザンヌに近づき、中にいた男に何かを言った。すると、車の窓がすぐ閉められ、車は走りだした。浅野舞の傍にいたデザイナーは満面怒りを顕にし、不服そうに「どうして有賀グループのデザインがこんなに大袈裟に褒められたのか、ずっと不思議だと思ってたわ。そういうことなのね?有賀グループも大したことないから、このような女を二人来させて媚びを売るんだね」と言った。浅野舞は広瀬雫から視線をそらすと、唇をすぼめ小声で叱った。「しい、風間グループの人
広瀬雫は彼が春日部咲の言葉に隠した誘惑を見抜けていないと思っていた......少し唇をすぼめ、今はついて行くしかない。会社の下には運転手付きのベントレーが三台止まっていた。どうやら風間グループは彼らを直接ロイヤルガーデンまで送るつもりらしいのだ。暫く会社の下で待っていると、風間湊斗がようやく降りてきた。広瀬雫は彼がスーツを着替えたことに気づいた。彼は彼女の前を通り過ぎるとき、少しためらいながら、先頭のベントレーミュルザンヌに乗っていった。春日部咲はそれを見て、慌ててカバンを持ってその車に近づいたが、すぐに横山太一に止められた。彼は申し訳なさそうに笑いかけて「春日部さん、うちの社長は他人と同じ車に乗るのが好きではありませんので、後ろの車に乗っていただけませんか」と言いだした。春日部咲はすこし悔しそうだったが、今はわがままを言っている場合じゃないと分かっていたので、しぶしぶと後の車に乗った。広瀬雫はまだ階段に立っていた。それを見て、春日部咲の乗った車に向かおうとしたが、横山太一に止められてしまった。「広瀬さん、有賀グループのデザイン原稿について、まだ相談したいところがいくつかあると社長は言いました。広瀬さんは前の車に乗りましょうか」あまりにもあからさまな差別に、広瀬雫はわずかに眉をひそめた。遠くないところで、浅野舞とデザイナーは複雑な目でこちらを見つめていた。広瀬雫は両手をきつく握りしめ、横山太一に淡々と言った。「また何か問題があったら、後でレストランで食べながら話し合いましょう。みんなもいますから、解決方法もみんなで考えたらいいかと」横山太一の驚いた顔を見ないで、広瀬雫はそう言うと彼の横を通り過ぎ、まっすぐに春日部咲の乗った車に乗り込んだ。横山太一は広瀬雫の後ろ姿を見つめ、仕方なくベントレーミュルザンヌに近づき、中にいた男に何かを言った。すると、車の窓がすぐ閉められ、車は走りだした。浅野舞の傍にいたデザイナーは満面怒りを顕にし、不服そうに「どうして有賀グループのデザインがこんなに大袈裟に褒められたのか、ずっと不思議だと思ってたわ。そういうことなのね?有賀グループも大したことないから、このような女を二人来させて媚びを売るんだね」と言った。浅野舞は広瀬雫から視線をそらすと、唇をすぼめ小声で叱った。「しい、風間グループの人
彼女は唇をきつくすぼめ、ようやく前の真ん中に座っている男を見つめた。窓から差し込んだ日差しが作った影で、彼の顔立ちがよりくっきりと際立っていた。彼は左手に煙草を持ち、白いシャツにネクタイを緩めにし、足を組んで気怠そうに二つのデザイン画を見ていた。いつもの厳しさと今朝、錯覚のように見えた優しさとは違って、今の彼からは無造作な気安さすらも感じられ、キラキラと輝いている。女が彼に食い気味になるのも無理はない。目の前にいるこの男自身にも、よくトラブルを引き起こしてしまう要素がありそうだ。「広瀬さん、私をじいっと見てきて、何か言いたいことでも?」油断してつい見つめていると、風間湊斗の冷たい声に現実に引き戻された。風間湊斗は煙草の灰を落とすと、真っ黒な瞳をまっすぐにこちらに向けた。その目には、人を吸い込む渦があるようだ。口元をわずかに上げて、その冷たい顔から柔らかささえ感じられる。広瀬雫はドキッとして、慌てて隣を見回した。春日部咲はまるで広瀬雫が風間湊斗を誘惑したと思っているような嫌そうな顔をしていた一方、浅野舞は相変わらず複雑な顔をしていた。彼女は急いで自分を落ち着かせ、風間湊斗の顔を見ずに咳払いをした。「私はただ、風間グループがデザインに対する最終的な結論を出すのを待っているだけです。風間社長が有賀グループのデザインが盗作でないと結論を出してくださらないと、私は安心できませんので」「そうですか」低い声で言ったのに、ずいぶん優しそうに聞こえた。語尾がからかうように少し高く、何か意味ありげな響きを感じる。見るまでもなく、広瀬雫は男が薄い唇を少しすぼめているのを予想できた。ふっと昨夜の不用意なキスのことを思い出して、彼女の耳がかすかに赤くなった。また今朝の曖昧な質問が頭に浮かぶと、慌ててまた自分を落ち着かせた。「そうです。問題があるかどうか、その答えをいただけるんですか」彼女は背筋を伸ばし、もう一度風間湊斗を見返した時、その目はもう波が立っていない澄んだ湖のようだった。風間湊斗は淡々と彼女の冷静な目を一瞥して、その赤くなった耳を見逃していなかった。口角をわずかに愉快そうにあげ、何もなかったかのように口を開いた。「有賀グループと浅野グループのデザインは問題ないと確認しました。盗作の形跡は見当たらないです」春日部咲は嬉し
この言葉は今井マネージャーがまるで功績は自分のものではないと慌てて説明した言い訳のようなものだったが、実際誰もがその意味を理解していた。つまり風間社長が広瀬雫のデザインが素晴らしいと言っているのだ。それを聞き、浅野舞の笑顔がこわばった。ちょうどその時、今井マネージャーは助手が持ってきたカップを自ら広瀬雫に手渡した。「広瀬さん、レモンジュースです」広瀬雫に出したレモンジュース以外、他の三人とも同じコーヒーだった。広瀬雫は少し意外だったが、深く考えず一口飲んだ。春日部咲は顔色を変え、後ろから陰気な声で「今回は言い訳できないでしょ!」と言った。自分のコーヒーを見つめている浅野舞は、何も言わなかった。......間もなく、風間湊斗が会議室から出てきた。スラリとした長身に、無表情だがこれ以上ない整った顔をして、後ろに何十人かのスーツ姿の男を連れて出てきた。雰囲気から見るとそんなに堅苦しくないが、緩やかでもなく、全員小声で何かを話し合っていた。風間湊斗がこの後また用事があると分かって、彼らはエレベーターに向かった。風間湊斗は広瀬雫たちを一瞥し、目の色も変えず、横山太一に頷いて、別の会議室へ入って行った。彼はすでにスーツの上着を脱いでいた。ネクタイがきついと思ったのか、少し緩めていた。白いシャツがその完璧なボディーラインをくっきりとさせていた。醸し出すオーラ―はそれほど強くないが、とても近づけない雰囲気に包まれている。広瀬雫が立ち上がろうとすると、懐に抱えていた書類を突然春日部咲に奪われた。「これまでの報告はあなたがやったんだから、今回は私がするよ」と彼女はあごを上げて言い出した。そう言い終わると、返事も待たず、書類を抱えて風間湊斗の後ろに続いて会議室に向かった。広瀬雫は一瞬複雑な目つきになった。......今回の会議の話題は、足立グループの盗作の話に違いない。その処罰について風間グループはしっかりと決めていた。そのため、有賀グループと浅野グループのデザインを再検定しなければならない。浅野グループのデザイナーが立ち上がるのを待たず、春日部咲が先に前へ出た。スーツのタイトスカートが彼女の完璧なスタイルをくっきりと見せていた。彼女の目にはいつものように色っぽい笑みが浮かんでいた。「風間社長、私は有賀グループB
「広瀬雫!」今度は春日部咲のほうが言い返すことができなかった。昨日の夜、有賀悠真にお別れを言われたことは彼女に大きなショックを与えた。今朝また挽回したいと思っていたが、結局有賀悠真に注意される羽目になった。もしまた何かをしようとするなら、これから有賀グループにいられなくなってしまう。彼女はもちろん有賀グループを離れたくなかった。離れなければ、まだチャンスがあるからだ。今身を引いたらもう何もかも終わりと同然なのだ。そして、自分をこんな惨めな状況に落とした元凶は、まさに目の前にいるこの女だ。彼女でなければ、有賀悠真が自分を公私混同だと責めて、別れることなんてありえない!彼女は恨めしそうに歯を食いしばった。すると、広瀬雫の電話が鳴りだした。彼女は春日部咲から視線を外して、電話に出た。ちょうど今井マネージャーからの電話だった。彼の言葉遣いが丁寧で、どこか畏まっているようにも聞こえる。「広瀬さん、今日の午後三時以降、お時間がありますか」すると、隣の春日部咲は「電話までかけてきたのに、まだ何の関係もないって言う気なの」と皮肉っぽい言葉をこぼした。広瀬雫はそれを無視して、同じように丁寧な言葉で相手に返事した。「はい、ありますよ。またデザインの件でしょうか」「はい、そうです。足立グループの盗作の問題が発生しましたので、有賀グループと浅野グループのデザイン担当にまたすこし話をしたいと風間社長が言っています」風間湊斗が直接面談に来るという......広瀬雫は少し考えてから「......わかりました。では、午後三時に風間グループに伺いますね」と返事をした。「ご心配なさらずに」広瀬雫の口調が強張っているのが分かったのか、今井マネージャーは笑いながら言った。「ただの事務的な話ですから、広瀬さんはそんなに緊張しなくてもいいんですよ」今井マネージャーが好意からそう言ってくれていると分かって、広瀬雫は少しほっとした。「わかりました。ありがとうございます」「この後、風間グループに行くんでしょ?」電話を切ると、春日部咲はすぐに食いついてきた。広瀬雫の返事も待たず、彼女はふんと鼻を鳴らした。「今度は聞こえたわよ。あなたが知らせなくても分かるの。午後三時、私も一緒に風間グループに行くんだから!」広瀬雫は眉にしわを寄せた。今回のサニーヒルズ
彼女の視線は広瀬雫の首にぶら下がったネームタグに注がれていた――有賀グループデザイン部Aグループチームリーダー、広瀬雫。確かに、今回のプロジェクトには有賀グループが広瀬という女性社員を風間グループへ行かせたらしい。浅野舞はきょとんとして何か言おうとすると、広瀬雫はカバンから2千円を取り出し、テーブルの上に置いた。「コーヒーは私の奢りで。浅野さん、もし他のことがないなら、私は先に失礼します」そう言い終わると、浅野舞の返事も待たず、まっすぐカフェのドアのほうへ歩き出した。彼女の思った通り、浅野舞の目的はやはりサニーヒルズプロジェクトだったのだ。それに、浅野グループ、足立グループと有賀グループが風間グループに選ばれたということも業界内では秘密ではないみたいだ。会社に戻る途中、有賀恭子から電話がかかってきた。「雫ちゃん、よくやったわね。舞は確かに姪だけど、息子の悠真と比べられないものよ。今回のサニーヒルズプロジェクトにずいぶん苦労していたのを知っているわ。自分が正しいと信じてやってください。お義母さんはいつでも力になってあげるからね」広瀬雫の声が優しくなった。「はい、ありがとう。お義母さん」と言い、少し考えてからまた口を開いた。「大宮さんから聞きましたよ。最近また腰が痛くなったそうですね。時間を見つけて一緒に病院に行きましょう。私がついて行きますから」有賀恭子は少しびっくりしたようだが、広瀬雫を気に入ったという顔つきになって言った。「いつも雫ちゃんに面倒をかけるわけにはいかないでしょう。大宮さんが私に付き合ってくれたらいいの。時間があったら、悠真ともっと一緒にいた方がいいわ。雫ちゃんがどれほど悠真を愛しているのかは知っているから。心配しないで、雫ちゃん、どこの馬の骨も分からない女なんて、絶対有賀家に入らせないんだから」広瀬雫はしばらく黙っていたが、やがて淡々と言った。「お義母さん、会社に着きましたから、もう電話切りますね」電話を切ると、ちょうど有賀悠真が遠くないところから会社に入ってくるのが見えた。彼の後ろに何人かの部下がついていて、仕事の報告でもしているようだ。彼は厳しい表情をして、手にした書類を見ながら、後ろにいる人たちに何かを聞いていて、中へ歩いて行った。歩くたびに、彼のスーツの襟が風に揺れ、スラリとした体のラインか
その言葉を聞いた広瀬雫は顔が急に青ざめた。「広瀬雫、俺がどうして君に全く興味がないのか知りたいか」有賀悠真は少し愉快そうで残忍な笑みを浮かべた。「君のその他人を不快にさせる態度は本当に気持ち悪い。たとえ性欲を持っていても、君が目に入ると、興ざめするぞ!」言い終わると、彼はスーツと携帯を手にして、広瀬雫には一目もくれず、振り返って去っていった。書斎で、広瀬雫はソファの上に残ったブランケットをじっと見つめていた。その目は失望のあまり、何も映っていなかった。......「広瀬さん、浅野グループの浅野さんがいらっしゃいました」昼、会社に着いたところ、広瀬雫は受付からの電話を受けた。彼女は少し疲れていたが「......彼女に電話をかわってください」と伝えた。少し物音がしてから、電話から甘く澄んだ声がした。「雫姉さん、私です。浅野舞です。今会社の下にいます」「どうしましたか」広瀬雫の態度はあまり親切ではなく、浅野家では義母の有賀恭子以外との付き合いはあまりないのだ。浅野舞は優しく微笑んだ。「今日は用事で来たんです。ちょうど悠真さんの会社の下を通りましたから、雫姉さんと一緒に食事をしようと思いましたの。雫姉さん、会社の隣のレストランで待っていますよ」広瀬雫は断ろうとしたが、何かを思いつき「分かりました。じゃあ、そこでちょっと待っててください。すぐ降りますから」と返事をした。電話を切ってから、手鏡を覗いてみた。鏡の中に映った女の顔色が良いとは言えない。広瀬雫は気を取り直した。レストランに着いた時、浅野舞はつまらなさそうに目の前のコーヒーをかき混ぜていた。広瀬雫に気づくと彼女は目を見開き、すぐ立ち上がって、親切に広瀬雫の腕をとり、テーブルのところへ連れていった。「雫姉さん、普段全然私に連絡してくれないじゃないですか。一緒に遊びに行きましょうよ。今朝恭子おばさんに電話したら、義姉さんはいつも一人で退屈そうだって言われましたよ。これからは時間があったら、時々遊びに来てもいいですか」彼女のあどけない顔を目の前にして、広瀬雫はさりげなく彼女の手から自分の手を引っ込め、向かいの席に腰を下ろした。「いつも忙しいです」彼女の冷たさを浅野舞は全く気にしていないようで、ニコニコ笑っていた。「雫姉さんは有賀グループのためにい
広瀬雫は身を起そうとしたが、手足を思うように動かせず、鉛のように重かった。「ブランケットを持っていってほしいと大宮さんが――」逃げることができず、仕方ないと思いながら、彼女は目の前の渋い顔をした男を見て、乾いた声で説明した。有賀悠真は眉をひそめ、無表情のままブランケットを横に払い、立ち上がって上から床に座り込んだ女を見つめた。彼女のきちんと着こなした服に視線を落とすと、わずかに目を開き、責めるように彼女の目を睨んだ。「昨夜どこへ行ってたんだ?」広瀬雫は目を開閉し、爪がてのひらに深く食い込んで痛くなるくらい手を握りしめて、ようやく力が戻ってきたようで、ゆっくりと立ち上がった。疲れは隠せなくてもこの美形な男を見ていると、心が冷えていった。「あなたに毎日の予定をわざわざお知らせする義務なんてないでしょ」有賀悠真はわけもなく心が苛立っていた。昨晩、春日部咲と一緒にいた時のような感情がまたこみ上げてきて、思わず言った。「俺はもう白石玲奈と別れた、春日部咲とも」広瀬雫はきょとんとしたが、口元にすぐ皮肉な笑みを浮かべた。「それがどうかしたの?」白石玲奈と春日部咲がいなくても、また別の女が現れる。このように際限もなく彼女の感情と尊厳が踏みにじられる生活には、もううんざりだ。彼女が目を伏せると、長いまつ毛が目の下にうっすらと影を落とした。広瀬雫は肌が白く、うっすらとピンク色も見える整った優しい顔立ちをしている。彼のスラリとした体が近づくと、彼女の小さな体が包み込まれるようだ。近くにいるせいか、彼女からわずかないい香りがした。ゴクリと唾を飲み込み、有賀悠真は急に自分を制御できないかのように一歩踏み込んで、広瀬雫を懐に抱いた。そして、ためらいなくその桜の花のような唇を貪った。彼の呼吸が少し速くなり、唇に触れると我慢できずに、すぐ彼女の唇を吸うように舐めた。まるで中毒になったかのように、今胸の中に抱きしめた人を、そのままずっと抱きしめようと思っていた!キスされた広瀬雫は呆気に取られて固まってしまった。彼の手は優しく彼女の体を包み込んでいるが、その薄い唇は力強く押さえつけてきた!ただ、彼のはだけた白いシャツに妖艶に咲いた赤い印は、皮肉にも嘲笑していた。彼が昨夜も他の女と一緒にいたのだと思うと、広瀬雫は吐き気がしそうだった。
別荘のドアを開けると、音に気付いた大宮さんが迎えに来た。「若奥様、ようやく帰られましたね。昨日奥様は電話をおかけになりましたが、電源が切れていると言っていました。若旦那様も一晩中ずっと探していらっしゃいましたので、ただ今帰ったところです。今は書斎にいらっしゃいます。みんなは若奥様を心配して、奥様なんて午前三時まで寝つけられないご様子でしたよ」広瀬雫は申し訳なさそうに「昨日の夜、私は......友達のところに泊まったんです。携帯の電池が切れていて、連絡が取れなくて」と説明した。風間湊斗のところで一晩過ごしたのは、もちろん口が裂けても言えない。大宮さんは頷き、薄いブランケットを渡し、広瀬雫に何かを暗示するようにわざと瞬いた。「さっき若旦那様が書斎で眠っているのを見ました。風邪を引かないように、ブランケットを掛けようと思いましたが、ちょうど若奥様が帰ってきたから、ブランケットをかけてあげてくれませんか」広瀬雫はブランケットを抱えたまま、しばらくその場で固まっていた。大宮さんが好意でそうしていることは知っている。この家で、大宮さんと有賀恭子はよくさりげなく彼女と有賀悠真を仲良くさせるためにいろいろやってくれたが、残念なことに、この二年くらい、広瀬雫はずっとその期待に応えられなかった。大宮さんは彼女に勇気を与えるように笑ってから、台所に入った。持っているブランケットを見て、広瀬雫は苦笑いしていた。もしただ薄いブランケット一枚で、あの男の心を自分のものにすることができるなら、彼女はこの二年間、こんなに苦しむ必要はなかっただろう。さっき大宮さんの話によると、有賀悠真は自分を一晩中ずっと探してくれたという。広瀬雫の心はぬくもりと僅かな痛みが同時に占め、思い切って心を鬼にしてしまうことができなかった。ブランケットを胸にきつく抱きしめて、一歩、また一歩、上の書斎に向かった。書斎のドアは鍵が掛かっておらず、軽く押すと開いた。中に入って見回すと、来客用のソファーに横になった人がいた。有賀悠真は疲れて寝ていたのだろう。面倒くさいと思ったのか、上着のスーツを左手で握ったままソファの上に置き、ワイシャツのボタン―を何個開けて、そのまま寝てしまったようだ。右手を目の上に当てていて、その目の奥にある鋭さも隠していた。彼が眠っている時だけ、こうや
風間湊斗は目の前の掌くらいに小さな顔に浮かんだ笑顔を見つめた。たったこれだけのことで、こんなに彼女を満足させることができるのか。彼は背もたれに身をあずけ、ふっと意味ありげに視線を向けた。「ただデザイン画を完成させるために、俺の好みを調べたのですか」彼の横顔のラインは完璧に近いほど整っており、少し猫目で細く伸びている。普段は厳格なようにしか見えないが、今はやや微笑んでおりどこか優しそうに見えた。いや、その目の弧度は彼にしては優しすぎる。広瀬雫はきょとんとし、慌ててその視線を避けた。「すべては風間グループが満足するようなデザインのためです。うちの会社にとっても、私にとっても、一番大事なことですから」風間湊斗は目の端で彼女が居心地悪そうに車の窓の外へ視線を向けたのを見て、口元に淡い微笑みを浮かべた。彼女の真面目な返事を聞いていないかのように、そのまま話を進めていった。「昨日の朝のニュースを見ましたか。俺のインタビュー」さっきまで舞い上がっていた心が次第に窮迫してきた。その質問が最初のほうに言っていた事業の発展をさしているのか、それとも最後の話を指しているのか......広瀬雫は風間湊斗の真意を全く理解できなかった。「昨日俺が話したこと、何か思うところがありますか?」さっきの言葉では足りなかったかのように、赤信号の手前でブレーキを踏みながら彼女のほうに向いて、何気なく一言を加えた。目の前の男はただでさえ他人より優れた見た目をしていたのに、きちんとした背広を着ているせいか、その厳しさがやや抑えられていた。長い時間と様々な経験で作り上げられた魅力の持ち主は、気怠い動作にミステリ―さも潜んでいる。その深淵の底のような黒い瞳に捉えられ、広瀬雫は掌に少し汗が滲んだ。今日一日に起こった一連の出来事自体、彼女はすでに奇妙な感じを受けていたが......予想したようなことにならないように彼女は密かに願った。少し強く手を握り、頭で必死に考えているのに反して、とぼけた表情を彼に見せた。「ええと......インタビューというのは?」風間湊斗の微笑みが顔から消えて、彼女の顔色から何かを探るように念入りに観察すると、口元を少し上げて言った。「まあいい、何も聞かなかったことにして」ちょうど青信号になり、彼は再びアクセルを踏んだ。彼からは見えない角