広瀬雫はそれを聞いた瞬間うろたえてしまい、全身をこわばらせた。彼女が大宮さんからこの花束の話を聞いた時には少し期待していた。しかし、そんなことは有り得ないということを知っていたはずだ。どうして毎回彼に期待してしまい、恥をかくようなバカな妄想をしてしまうのだろうか。「あなた......一体何の用なの?」彼女は喉の奥がつかえていた。「大人しくすると思っていたのに、まさかもっと行いがひどくなるとはな。玲奈は今回の件に関しては気にしないと言っていたが、俺はもう二度とこんなことが起きてほしくないね」有賀悠真は書斎のデスクの引き出しを開けながら、冷ややかな声でそう言った。彼の横髪はきちんと整い、鏡越しに冷たく無表情な顔が確認できる。いつもと同じように彼女に対して冷たいあの顔だ。書斎に静かに置かれた青いバラの花束は何も言わずきれいに咲き誇っていた。広瀬雫は平気なふりをしながらも、夫に誤解され心が張り裂けそうだった。「私じゃないわよ」彼女は小声で言った。有賀悠真は引き出しの中から赤いベルベットのハート型ケースを取り出した。彼は身なりをきちんと整えてあり、長身でスラリとしたその姿はばっちりきまっていた。ただ腕時計で時間を確認し、顔を上げた時のその顔は面倒そうで氷のような冷たさもあった。「広瀬雫、あんな汚い手を使って俺の女に手を出すなよ。結婚したいというからしてやっただろう、まだ何か不満があるのか?もしおまえが俺が欲しいって言ってもな、悪いがそれは叶わないぞ。もし俺の心が――」「言ったでしょう。私は白石玲奈を押して水に落としたりしてないって!」この男がさらに彼女を傷つける言葉を吐き出す前に、広瀬雫は目を閉じ、歯をぎりぎりと噛みしめて彼の話を遮った。彼女の唇はそのせいで血の気を失い、今にも倒れそうなくらいに体を震わせていた。そして有賀悠真の顔つきは怒りに満ちていた。「彼女が嘘をついているとでも言いたいのか?」と言って鼻先で笑いながら振り返った有賀悠真の目には嫌悪感があった。「彼女が全く泳げないってことを知ってるか。もし一瞬でも遅ければ彼女は溺れていたかもしれないんだぞ。そうなればおまえは、ここにこうやって何事もなかったように立ってはいられなかったぞ」「悠真、あなたには私がそんなに酷い人間に写っているの?」
明け方、広瀬雫は起きてから誰もいない部屋をしばらく呆然と見つめていた。前日は彼女の24歳の誕生日だった。有賀悠真はそれを忘れていたのか、もしくは一度も彼女の誕生日を覚えたことがなかったのだろう。彼はバラの花束を彼女とは別の女性にあげてその女と一晩を共にしたのだ。ただ雫には彼の冷たい後ろ姿だけを残していった。服を着替えて下におりると、有賀恭子が彼女を迎えた。「雫ちゃん、朝ごはんはもうできてるから、早く食べてね」有賀恭子はこの家において、広瀬雫にとっての唯一の希望と言える。広瀬雫は自分の不安定な状態を彼女の前で見せたくはなかったので、頷いてリビングの椅子に座った。「雫ちゃん、お義母さんはね、昨晩悠真がまたあなたを傷つけたこと知ってるのよ。悲しまないでちょうだい。私はずっとあなたの味方なんだから。悠真もいつか必ず一体誰が自分にふさわしい人間なのか理解する日が来るわ」有賀恭子は優しい声で彼女に慰めの言葉をかけた。それを聞くと広瀬雫の目は熱くなり、言葉に詰まった。有賀恭子はため息をつき、箸を彼女に手渡した。「食べて、悠真は朝早く用があるって先に出かけたわ。後で運転手に言ってあなたを送ってあげるわね」その言葉を言い終えたところに、大宮さんが新聞を持ってやってきた。「奥様、新聞でございます」大宮さんが新聞を食卓の上に置いた時、有賀恭子の顔色が変わるのに気づいた。彼女はその新聞を下げようとしたが、もう遅かった。広瀬雫は新聞の一面トップ記事に目を落とした。その記事は昨夜不在だったあの男と女性アイドルの熱愛キス写真だった。盗撮した場所はあるホテルのようだ。これはつまり――有賀悠真は昨夜出かけてから全く家に帰ってきてはいなかったのだ。「雫ちゃん――」「お義母さん、もうお腹いっぱいだから、会社に行ってきます」広瀬雫は無表情で立ち上がり、カバンを持つと玄関のほうへ歩いていった。有賀恭子はすぐには反応できず、ただ玄関から広瀬雫が車に乗って行ってしまうのを見ていることしかできなかった。大宮さんは少し不安になり近づいてきた。「奥様、私のせいです」「いいえ、あなたのせいではないわ」有賀恭子はため息をついた。振り返った時、彼女はかなり腹を立てていた。「後で悠真に電話をかけて、今夜は必ず帰ってくるように厳しく言うわ。私を
風間家はB市において数えるほどしかいない大富豪家の一つだ。広瀬家の人間である彼女はもちろんこの風間家について知っていた。そしてこの風間湊斗は風間家の四男坊で、一番上には既婚者である姉、そして二人の兄がいる。二人の兄は一人は機動隊勤務で、もう一人は政治家だ。最後の彼自身はビジネスが好きで、風間家のおじいさんが最も可愛がっている孫息子である。しかし、以前はかなり反抗的で、風間家を継承するのを嫌がっていたらしいが、どういうわけか突然帰国して風間グループを継承すると言い出したのだ。風間家の継承者であるとともに、高身長の整った美形の顔の持ち主で、権力も持っていることから、確かに多くの女性の憧れの的になっているのだ。それにしても彼のこの目、どこか懐かしいような......――きっとこの冷たい顔つきが彼女に有賀悠真を彷彿とさせたのだろう。有賀悠真のことを考えると、さっきの春日部咲の恋に浮かれた顔が頭の中に現れてきた。広瀬雫はまるで窒息したかのように息苦しく心が締め付けられ、それを必死に抑え込んでいた。「へへへ、イケメンを見てワクワクするだけでいいんです。生きていくのって大変なんですもん、楽しいことがあったほうがいいでしょう」広瀬雫はそれを聞いて失笑してしまった。そして、さっき目を通しておいた書類を坂本美香の腕の中に押しやった。「行きましょう。あなたの憧れの男性がいる会社に。大変な生活の中に楽しみがもっとほしいんでしょう」坂本美香はすこし驚いた後、やっとどういうことなのか理解して咲き誇る花のようにパッと笑顔を作った。「わあ、広瀬さん、もしかしてサニーヒルズの高級住宅地プロジェクトのことですか?春日部さんが来てから相談して行く予定じゃありませんでしたっけ?」「彼女は待てないわ。今日あなたが彼女の代わりに来てちょうだい」彼女はこの時、おそらく有賀悠真と一緒にいるから風間グループへ行くのは嫌がるだろうと広瀬雫は心のうちで自嘲した。「かしこまりました!必ず立派にそのお役目を務めさせていただきます!」......風間グループの地下駐車場に着いた時、広瀬雫は白いBMWを運転していて、そこへ二台のベントレーが彼女の車とすれ違った。先頭を走っているベントレーミュルザンヌは非常に目を引く車で、広瀬雫の記憶違いでなければ、あれは去年ロンドンベ
突然「ガタンッ」と音が鳴り、エレベーターが少し揺れた。広瀬雫は少しぼうっとしていて、その衝撃で体のバランスを崩してしまい、横にいる男性のほうへ突然倒れてしまった。彼女はあまりに突然のことだったので、エレベーターにある手すりを掴む暇もなく、すでに白シャツを着た男性の胸元まで顔が近づいていた。その距離はとても近く、広瀬雫は男性の香りが鼻に入ってきた。清々しく、少しタバコの匂いがした。「広瀬さん!」坂本美香は広瀬雫の後ろに安定して立っていて、彼女が倒れそうになったのに驚き、急いで手を引いた。さっきバランスを崩したときに、広瀬雫は誰かの手が簡単に彼女の腰のあたりを抱きとめるのを感じた。その手は骨ばっていて、とても力強かった。「広瀬さん、大丈夫ですか?」坂本美香は心配して尋ねた。幸いにも目の前の男性がすぐに彼女の体を支えてくれたおかげで完全に倒れてしまわずに済んだ。広瀬雫は有賀悠真以外の男性とは今までこのように肌が触れるような接触をしたことがなかった。彼女は体勢を整えると、坂本美香に大丈夫だと頭を横に振り、目の前の男性のほうを見た。その時も風間湊斗の表情には相変わらず余計な感情はなかった。のだが――彼の手は、まだ彼女の腰に触れたままだった。彼の手から熱い温度とその感触が伝わり広瀬雫は体を少しこわばらせた。「風間社長......」広瀬雫は少し気まずそうにしていた。このように狭いエレベーターの中では誰かに当たってしまうことはよくあることだから、彼女も特別驚いたりはしないのだ。しかし、彼のその手は......本来横目で見ていた男性は頭を彼女のほうへ向けると、まるでようやく自分の手が今どういう状況なのか気づいたようで、広瀬雫の顔を一瞥し、自然な動作で手を元の位置に戻し、冷たい表情を保っていた。エレベーターにいる人たちは特に驚いていなかったので、広瀬雫もそれ以上は何も言えなかった。エレベーターを降りて、坂本美香はまだ未練タラタラな様子ですでに閉じたエレベーターのドアを見つめ、自分の胸のあたりを叩きながら言った。「やっぱり、憧れの人は遠くから見ているのに尽きますね。毎日毎日こんなに至近距離で冷たくされたら、何回昇天してしまうか分かったもんじゃないですよ」広瀬雫はニコリと微笑んでいたが、頭の中にはさっきの男性が自分を見つめ
風間グループから電話がかかってきたのは意外なことではなかったが、こんなに早く返事がくるとは思っていなかった。電話相手は今日広瀬雫がデザイン画を渡したあのプロジェクトチームの今井マネージャーで、彼は彼女に対してかなり恭しい口調だった。「広瀬様、今回のサニーヒルズ開発は風間社長が責任者です。彼は広瀬様のデザイン原稿を見て、このプロジェクトについてお話したいと言っております」広瀬雫は驚いた。風間グループ傘下が行うプロジェクトは多岐に及んでいるのに、サニーヒルズ開発を風間社長自ら責任者として行っているのか?「今井マネージャー......」広瀬雫は少し声を途切れさせながら続けた。「今回は今井マネージャーにご推薦していただきありがとうございます。時間を見つけ、有賀グループを代表しまして、必ず今井さんにお礼をいたします」今井マネージャーはそれを聞くとすぐ彼女が誤解していることに気づき慌てて言った。「お礼なんてとんでもないです。私はただ横山秘書から風間社長は今晩時間があると伺っています。広瀬様、このチャンスを逃さないようにされてくださいね」サニーヒルズは今年はじめにはすでに一番注目を集めていたプロジェクトだ。さらには風間グループが行っているもので、有賀グループがこのプロジェクトを受けることができれば、不動産業にたった足掛け二年に過ぎない会社からしてみれば大きなチャンスになる。広瀬雫は何の迷いもなく、それに答えた。この日の夜、ロイヤルガーデンホテルでデザイン画初稿の件について話し合うアポイントを取り付けてから電話を切った。坂本美香は午後会社に戻ると、自分の仕事があった。そして昼以降、広瀬雫は春日部咲の姿を一切見かけず、彼女に電話をかけても出ないので、仕方なくデザイン原稿を持って地下駐車場に行った。ロイヤルガーデンに着くと、今井マネージャーはもうそこで待っていて、彼女を見て媚びるような笑いをしてみせた。「広瀬さん、来ましたね。急いで私と一緒に来てください。風間社長はもう個室でお待ちです」「遅くなって、すみません」広瀬雫は慌てて今井マネージャーの後に続いた。もうすぐ個室に着くその手前で、今井マネージャーは足を止め広瀬雫に満面の笑みを浮かべた。「広瀬さん、今回のプロジェクトにおいて何かお困りのことがありましたら、私に何でもご相談くださいね」広
「......えっと」広瀬雫は突然の質問に呆気にとられていた。男はタバコの先端を灰皿に押し付けた。その動きはとても優雅で、その指は長く骨格まで美しかった。その時、広瀬雫はこの日、エレベーターの中で彼に支えられた時にちょうどこの美しい手が自分の腰に当てられていたことを思い出した。彼女は少しうろたえた様子で頷いた。「はい、もう二年になります」自分の結婚を考えると、広瀬雫は心にまた冷たい風が吹いた。男は彼女の急に冷え切った顔つきには目もくれないようで、そのまま続けて尋ねた。「広瀬さんはなかなかの名家のご出身でしょう。旦那さんの家はきっと広瀬さんに見合った家柄なんでしょうし、さぞや旦那さんから大切にされていることでしょうね」広瀬雫はなぜ風間湊斗がわざわざこんな話をするのか理解できず、この言葉が彼女の逆鱗に触れた。彼女は顔を暗くし、口角を下げて言った。「風間社長、今日私がここに来たのはサニーヒルズプロジェクトに関することを話すためなんですが」風間湊斗はまたタバコを手に取り火をつけようとしていたが、彼女のこの言葉を聞いて、火をつけようとした手が少し止まり、ライターをしきりに開閉していた。急に個室の中は微妙な空気が流れた。「プロジェクトの話じゃなく俺が広瀬さんのプライベートな話を聞きたいだけだとでも?」風間湊斗は少し口元を引き締め、きれいに整っている眉を眉間に少し寄せていて、この時彼は機嫌を悪くしたようだ。「広瀬さんが軽い世間話もせずに単刀直入に本題に入りたいのであれば、早速今回のサニーヒルズプロジェクトに対する特別な考えを聞かせていただこうか」ライターがテーブルの上に投げ捨てられた。ライターは「バンッ」と音をたて、広瀬雫は気まずくなってしまった。彼女のさっきの言葉は、明らかに目の前にいるこの男を怒らせてしまったようだ。もしかしたら、彼のさっきの話はただこの場の雰囲気を和ませるためだったのかもしれない。彼女は乾いた咳をして言った。「風間社長、今回のサニーヒルズプロジェクトの初稿なのですが、私個人の好みのデザインを加えてみました。例えば......」少し強引に本題に入った形だったが、風間湊斗はわざと彼女を困らせるようなことはしなかった。それでも、彼は右手の人差し指と中指でトントンとテーブルを叩いていたので、この迫力のせいで広瀬
車を運転して家に帰る途中、坂本美香が電話をかけてきて商談はどうだったのか結果を尋ねた。広瀬雫はありのままに事実を坂本美香に伝えた。もちろん、余計なあのシーンはカットしてなのだが。それを聞いて坂本美香は大喜びし、続けて彼女の憧れの男性について一通り質問してから電話を切った。デザイン画の初稿が認められたからだろう、広瀬雫の気分もなかなか晴れやかだった。家に帰ると、すでに10時ちかくで、この時間には有賀恭子はもう眠りについていた。車が有賀邸の門を過ぎると、中には一台の黒いランボルギーニが止まっていて、そこから艶かしい驚きの声が聞こえてきた。この声を広瀬雫は知っている。春日部咲だ。さっきの晴れやかな気持ちは真冬に冷水を浴びせられたかのように凍りついてしまった。広瀬雫は車の中に座り、体が硬直していた。とりわけ心が冷たかった。彼女は車のライトを消した。向かいに止まっている車のライトも消えていた。ただその車はちょうど庭園のライトの下に止めてあったので、車の中の曖昧な情景を余すことなく伺うことができた。広瀬雫は春日部咲が急いでスカートとコートを着て、有賀悠真をとがめるような目つきで見つめ、彼にしつこくキスをするのを見ていた。その時、心にまるで穴が空いたかのように、冷たい風がお構いなしに吹き込んできた。長く待ち過ぎて、一体どのくらいの時間が過ぎたのかわからないほど彼女の心は麻痺していた。有賀悠真はようやく車のエンジンをかけ、春日部咲を乗せたまま走り去っていった。広瀬雫は生気を失ったかのようにふらふらと家の中に歩いていき、直接洗面所まで行くと蛇口をひねり顔を洗おうとした。水が出てきてすぐ、彼女はズルズルと地べたにへたり込み、自分の顔を膝に埋めた。彼女と有賀悠真は初めはこのようではなかった。多くの場合、彼女が彼につきまとう形だったが、彼も彼女に優しくしてくれていた。一度も彼女を厳しく責め立てたり、苦しめるようなことはしたことがなかった。しかし、いつからだっただろうか、彼は変わってしまった。彼はある時から彼女が彼のためにする事は一切見ることもなくなり、ひたすら徹底的に彼女を苦しめ始めたのだ。体中が冷えてきて、広瀬雫は寒さで身震いをし、ようやく蛇口をひねったままなことに気がついた。そして洗面所の床はすでにかなり水が溜まってお
彼女は低い声で笑っていた。その笑い声はとても冷ややかだった。「有賀悠真、あなたは私に無関心だと思ってたけど。それとも、まだ私なんかのことを気にしてくれているのって聞くべきかしら?」有賀悠真は何も言わず、唇を固く歪めていた。広瀬雫はとても苦しくなり、仏頂面でそれ以上は何も言わず、そのまま上の階にあがっていった。長時間冷たい水に当てられていたせいなのか、この日の夜広瀬雫は微熱が出て、眠りについてからしばらく夢を見ていた。有賀悠真と初めて出会った時のこと、それから彼が他の女性と愛し合っているのをただ黙って見ていた時のこと、そして最後に彼とやっと一緒になり結婚したこと、最後は結婚式の情景だった。有賀悠真は両目を真っ赤にさせて、疲れた表情に彼女を憎む目つきで冷たく彼女に尋ねた。「もう一度言え。俺に何か申し開きできないようなことをしなかったか!?」彼女は手を握り締め、力いっぱい頭を横に振って否定した。有賀悠真の顔色は一瞬にして暗くなった。「わかった。おまえの望むようにしよう」彼の憎しみに満ちた顔が夢の中に再び現れ、広瀬雫はようやく驚き目を覚ました。広瀬雫は体を起こし、ブランケットを抱きしめ、深く呼吸をした。時間を見ると、まだ明け方の4時だったが、それからはどうしても眠ることができなかった。次の日の朝起きる時、目の周りにはやはり大きなクマができていて、ファンデーションを厚塗りしてやっと誤魔化すことができた。下の階では、有賀悠真がちょうど食卓で朝食をとっていて、有賀恭子が隣でブツブツと小言を言っていた。小言はどうせ彼に毎晩早く帰って来るようにとか、広瀬雫に一人で寂しくさせないようになどの話でしかない。普段の有賀悠真はそれに耐え切れなくなり、有賀恭子の話を遮ってしまうのだが、今日は珍しくそれに反発することはなく、階段の上にいる広瀬雫の姿を見て、これまた珍しいことに「分かった」と一言答えた。有賀恭子はとても嬉しそうにしていた。彼女は振り返って階段の踊り場にいる広瀬雫を見ると、すぐに喜色満面になり彼女に手招きをした。「雫ちゃん、早く降りてきて朝ごはんを食べましょう」明らかに自分の息子が理解してくれたと思っているようだった。広瀬雫の表情は乏しく、有賀恭子に軽くお辞儀して低い声で言った。「お義母さん、今朝は用事があるので、家でごはん