大切な存在を失った千尋の前に突然現れた不思議な若者との同居生活。 『彼』は以前から千尋をよく知っている素振りを見せるも、自分には全く心当たりが無い。 子供のように無邪気で純粋な好意を寄せてくる『彼』を、いつしか千尋も意識するようになっていく。 やがて徐々に明かされていく『彼』の秘密。 千尋と『彼』の切ないラブストーリーが始まる——
Lihat lebih banyak風呂から上がると居間でヤマトが既に眠っている。千尋は冷蔵庫から缶チューハイを持ってくるとソファに座り、PCを開いてネット配信ドラマを見ながらお酒を飲んだ。記憶喪失になってしまった恋人を一途に思い続ける女性が主人公の物語である。「う~ん。まさか恋人の昔の彼女が出てくる展開になるとは思わなかったな……。面白い展開になってきたみたい」1話分を見終わると片づけをして自室に戻ってスマホの画面を開いた。「あ、店長と渡辺さんだ」二人からいずれも千尋を心配する内容のメッセージが届いていた。そこで帰りに後を付けられていた気配を感じたとメッセージを送り、部屋の電気を消して千尋は眠りについた——****ピピピピピ……目覚ましの音で千尋は目を覚ました。ベッドの側にはいつの間にかヤマトがうずくまって眠っている。「う~ん……」軽く伸びをすると着替えをし、雨戸を開けて太陽の光を取り込む。朝食とお弁当の準備をしているとヤマトが起きてきた。「おはようヤマト。御飯もう少し待っててね」手早くお弁当を詰め終え、餌と水を与えるとヤマトは夢中になって食べ始める。それを見届けると千尋も朝食を口に運んだ—— 家の戸締りをして玄関を開けた時、門に設置してある郵便受けから白い紙が覗いていた。取り出してみると、それは白い封筒だった。手にした途端、直感的に恐怖を感じてゾワッと身体が総毛立った。辺りをキョロキョロ見回しても人の気配は感じられない。すぐに封筒をカバンにしまい、玄関に鍵をかけるとヤマトを連れて千尋は急いで走り出した。(早く、人通りの多い通りまで出なくちゃ!)ハアハア息を切らしながら走り続け、いつの間にかヤマトに引っ張られて走る形となっていた。ようやく商店街へたどり着いた千尋は辺りを警戒しながら職場へと向かった。幸い、今日は遅番の日だったので中島が先に出勤していた。「どうしたの青山さん。そんなに息を切らしながら出勤してくるなんて。まだ時間に余裕があるのに」「おはようございます……実は今朝家のポストに手紙が入っていたのですが、何だか怖くて中を見ることが出来なくて。でも捨てるのも怖くて持って来てしまったんです」「いいわ、それなら私が手紙を開けてあげる。貸してくれる?」「……どうぞ」中島は手紙に鋏を入れて、中身を取り出した。「……」黙り込んでしまった中島が心配になり、
「や、やっと着いた……」荒い息を吐きながら千尋は玄関のドアアイから外の様子を伺ったが、誰もいない。いつもなら徒歩15分の距離なのに、今日はとても長く感じられた。「怖かった……」そんな千尋をヤマトはじっと見つめている。「はぁ……」千尋は息を吐くと家の中に入った。慎重に外の様子を伺いながら家中の雨戸をぴっちり締め、鍵をかける。いつもよりも念入りに千尋は戸締りをした。全ての部屋に鍵をかけると、千尋の心に少し安心感が芽生えてきた。「手を洗ってこなくちゃ……」洗面台に移動するとヤマトもついてくる。鏡を見ると青ざめた顔の自分が映っていた。「うわ……顔色悪い。今夜は栄養つけなくちゃ。ヤマトもお腹すいたでしょ? 今御飯あげるね」「ワオン!」ヤマトは嬉しそうに尻尾を振った——ドッグフードを容器に移し、水を置いたがヤマトは食べようとしない。じ~っと千尋を見つめている。「アハハ……私が食べるか心配してるの? 大丈夫、ちゃんと食べるからヤマトも食べて」その言葉を聞くと安心したのか、ヤマトは餌を食べ始めた。千尋はヤマトが餌を食べるのを見届けてから、自分の夕食の準備に取り掛かった。「は~本当は今日スーパーで買い物して帰りたかったんだけどな……。でも渡辺さんから肉じゃがもらったから、お味噌汁とサラダでも作ろうかな?」ブロッコリーを茹で、豆腐となめこの味噌汁を作り、冷凍焼きおにぎりを解凍して今夜の食事が完成した。時計を見ると19時を過ぎていた。「いただきます」手を合わせて貰い物の肉じゃがを早速口にしてみた。「美味しい!」渡辺の作った肉じゃがは甘みが少し強い味付けで、ほっこりとしたジャガイモによく味が馴染んでいた。「流石、渡辺さん。今度作り方教えて貰おうかな?」食事を終えると千尋は明日の朝食とお弁当の準備を始めた。お味噌汁用に青菜をざく切りにしてポリ袋に入れ、アスパラをベーコンで巻き、つまようじで差したものを数本用意する。「後はさっきのブロッコリーの残りに卵でも焼けばいいかな? そうだ! 渡辺さんにはしょっちゅうおかずを貰ってるから、たまには私から何か差し入れしてあげたいな。クッキーでも焼いて持っていこう!」千尋の趣味の一つにお菓子作りがある。祖父が健在だった頃はよくケーキを焼き、2人で仲良く食べていた。冷凍庫の中には作り置きしていたクッキー生地
「ええーっ! この青い薔薇、届け先は千尋ちゃんだったの!? 一体、何本あるんですか?」渡部が目を見開く。「それが……365本あるのよ」「「365本!?」」中島の言葉に2人は同時に声をあげた。「送り主は誰なんですか?」千尋は慌てて中島に尋ねる。「永久野 仁という人物なの。注文を受けた時におよその金額を言ったら、すぐに店の口座にお金が全額振り込まれてきたのよ」「うわっ怪しい! それに『とわのひとし?』って千尋ちゃん、知ってる相手?」「いいえ、そんな人知りません」渡辺の問いかけに千尋は否定する。「何か不気味よね……。青山さん、この薔薇どうする?」中島は不安げにしている千尋に声をかけた。「あの……すみませんが、怖くて受け取りたくありません。こちらの店に置いておいていただけますか?」「ええ、うちの店はちっとも構わないわよ」「ねえ、千尋ちゃん。顔が真っ青よ。お店の奥で少し休んでいたら?」 渡辺は千尋の顔が青ざめていることに気付いた。「はい……すみません……」千尋はノロノロと休憩室の椅子に座ると深いため息をついた。(一体誰があんなに大量な薔薇を? 名前だって全然思い当たらないし……気味が悪い……)そこへヤマトがやってきて足元に座り、千尋を見上げた。「ヤマト……」千尋はヤマトの首に腕を回して、しっかりと抱きしめた。「そうだよね、私にはヤマトがついてるもの。ヤマト……私に何かあったら守ってね」目を閉じて千尋はヤマトに囁いた。するとまるで人の言葉が分かってるかのようにヤマトはうなずいた。****—―18時今日は千尋の早番の日である。中島はお客の対応をしているので、切り花を仕分けしている渡辺に声をかけた。「お疲れさまでした。店長によろしく伝えておいてください」「お疲れ様、千尋ちゃん。ねえ、1人で大丈夫?」「大丈夫です。私にはヤマトがいますから」千尋はリードに繋がれたヤマトを見下ろした。「そうならいいけど……? あ、そうだ! ちょっと待ってね」渡辺は小走りで店の奥に戻るとすぐに紙袋を持って戻ってきた。「はい、これ。肉じゃが作ったから、持って行って家で食べて。タッパだけ、持って来てね」「いつもありがとうございます! 今度私も何か持ってきますね」笑顔でお礼を述べる千尋。「いいのいいの、気持ちだけで。それじゃ気をつけ
「あ、何でも無いっす。俺のファンの子かな? 誰かに見つめられてる感じがしたんだけど気のせいだったみたいだな~なんて。ハハハ……」里中は千尋を心配させないようにわざと明るい声で言った。「そうなんですか? でも里中さんなら女の子の1人や2人、ファンがいそうですよね」「いや~。かつて女の子だった人達なら俺のファンがいるんですけどね……。あ、この話ここだけにしておいて下さいよ」里中が何を言わんとしてるか気づいた千尋はくすくす笑いながら頷いた。そんな2人の楽しそうな様子を陰からじっと覗いてた人物がいる。「くそ……あの男。俺の彼女に馴れ馴れしくしやがって……。彼女は俺の物なのに……! 大体、彼女も何なんだ? 俺という者がありながら、あんな軽薄そうな奴と親しくしやがって……!」男の顔は嫉妬で醜く歪み、その声は憎悪にまみれていた。「もっと彼女に俺の存在を自覚させないと……」男は低い声で呟くのだった——****「ただいま戻りましたー」約1時間後、千尋はフロリナに戻ってきた。「お帰りなさい、千尋ちゃん。今日は帰りが遅かったのねえ」パートの渡辺が花の手入れをしていた。「すみません、道路が渋滞だったので遅くなってしまったんです。あれ? 店長はどうしたんですか?」「それがね、今から1時間位前に薔薇の花のオーダーが入って急遽仕入れに行ったのよ」「そうなんですか? お店の薔薇じゃ足りない本数なんですか? 信じられない!」「いえ、そうじゃないのよ。すごく珍しい色の薔薇で、どうしても今日中に届けて欲しいって連絡が入ったの」「珍しいですね……それなら普通は完全に予約ですよね?」あの店長が無謀な注文を受けるのを千尋は信じられなかった。「ほら、先月うちの店から歩いて10分程離れた場所に新しい花屋がオープンしたじゃない? だからのんびり構えてられないって、時にはHPも使って営業していたんだって。そしたら今日突然メールで薔薇のオーダーが入って、もし手に入れる事が出来たら毎月定期的に依頼したいって書いてあったんですって」「それで店長は受けたんですね」「そう! しかもかなり上客らしいのよ。この客一人でもかなり毎月の売り上げがアップするかもって店長喜んでいたから」その時――「ただいま~!」店長の中島が鮮やかな青色の薔薇を大量に抱えて帰ってきた。「うわ! 店長、
「ではいつものように、こちらに名前を記入して下さい」千尋は通用口の守衛を務めている若い男性からボードを受け取ると、「フロリナ」と店名を記入して手渡した。「お願いします」「お花屋さんは土日もお店を開けてるんですよね?」守衛はボードを受け取りながら、千尋に尋ねた。「はい。土日は書き入れ時なので通常は仕事ですね」「定休日と言うのはあるんですか?」「いえ、特に定休日は無いですね。シフト制でお休みを入れてますけど? あの……それが何か?」今迄一度も個人的な話をした事が無かったので戸惑う千尋。「いえ。お花屋さんて結構重労働な仕事だから大変だろうなと少し興味を持っただけなので。どうぞ気になさらないで下さい。はい、こちらが入館証になります」「ありがとうございます」千尋は入館証を受け取ると、お辞儀をしてその場を後にした。****「お待たせ、ヤマト」駐車場のトラックの荷台に乗っていたヤマトの元へ戻り、荷物を降ろそうとした時。「ウオンッ!」ヤマトが一点を見つめて吠えた。「千尋さーん!!」里中が手を振りながら小走りでかけつけてきた。「里中さん? どうして此処に? まさか、私が遅いので迎えに来てくれたのですか?」「それもありますが、主任から千尋さんの荷物を運ぶの手伝って来るように言われたんですよ」「すみません……。私が遅刻したばかりにご迷惑を……」みるみる表情が曇る千尋。「クウーン…」ヤマトは心配そうに千尋を見つめている。「い、いや。そんなんじゃないっすよ! 俺が主任に千尋さんが遅いのをしつこく聞いたから……あ……」(ああ! 何言ってるんだ俺! これじゃ主任に言われて仕方なく迎えに来たと思われるじゃないか!)どんどん千尋がすまなそうに俯くのを見て、ますます里中は焦る。「千尋さん! 荷物全部俺が降ろしますよ! 俺、千尋さんを手伝いたくて来たんですから」照れ隠しをする為、わざと大きな声で言うと里中はテキパキとカートに荷物を降ろしていった。「ありがとうございます、助かります」千尋はにっこり微笑んだ。(うわあ……可愛いなあ……)里中は赤くなった顔を見られないようにくるりと背を向けた。「それじゃ、行きましょうか」「はい」二人と一匹は並んで歩き始めた時、里中は強い視線が自分に向けられているのを感じた。「!」里中は反射的に立ち止
「千尋さん、遅いですね……」里中はリハビリ器具の点検をしながら主任に問いかけた。「うん? 言われてみれば確かにそうだな」野口は本日リハビリを受ける患者のデータをチェックしながら返答する。「連絡は来ていないんですか?」「来てないなあ。珍しいこともあるもんだ」「何かあったんじゃないですかね?」里中はそわそわしながら時計を見ている。「今、こちらから連絡してみるか」「え? 主任! 千尋さんの連絡先知ってるんですか!?」「青山さんがここに初めて来たときにお互いの連絡先は交換しておいたんだ。花屋経由で連絡取り合うのは手間だしな」それがどうしたと言わんばかりの野口の言葉に里中は少しばかりショックを受けて固まってしまった。「里中、勘違いしてるかもしれないが、あくまで彼女と連絡先を交換したのは業務連絡を取り合う為だからな? 大体、俺は結婚だってしてるし子供もいる」「う……俺も業務連絡でも何でもいいから連絡先交換したい……」小声で言ったつもりだが、ばっちり野口の耳に入っている。里中のぼやきを聞かなかったフリをして野口は千尋の携帯に電話をかけたが、一向に出る気配が無いので電話を切った。「どうでしたか?」「駄目だ、電話に出ない」「主任! フロリナにも電話してみましょうよ!」「お前心配し過ぎなんじゃないのか? ひょっとして今日は五十日だし、この病院周辺で道路工事していて片側一車線になっている区域があるから渋滞に巻き込まれてるだけかもしれないじゃないか。今のところ、まだせいぜい30分程度の遅れなんだから、もう少し様子を見よう。ほら、そんなことより仕事仕事!」「はい……」里中は渋々持ち場へ戻って行った――**** 千尋がようやく病院に着いたのは普段よりも30分以上経過していた。駐車場に車を停め、携帯電話を取り出した。「今病院に着いた事、野口さんに連絡入れなくちゃ……え? リハビリステーションから着信がある!」慌てて千尋は電話をかけた。『はい、リハビリステーションです』受話器越しに野口の声が聞こえた。「いつもお世話になっております。青山です、申し訳ございません。渋滞に巻き込まれて連絡を入れるのがすっかり遅くなってしまいました」『ああ、やはり渋滞に巻き込まれていたんですね。いえ、こちらなら大丈夫なので慌てず来てください』「ありがとうござい
今日は水曜日、彼女に会える日だ。そう思うと自然に顔が緩んでしまう。正に一目惚れだった。あの日、初めて会ったその場で恋に落ちてしまった。長い黒髪、ぱっちりと大きな二重瞼に愛らしい口元。強く抱きしめると折れてしまいそうな小柄で華奢な身体は庇護欲をそそられる。笑顔も眩しくて、何もかもが愛おしい。鈴の鳴るような透き通った声で自分の名前を呼んで欲しい……。****「おい、里中。今朝は何だか楽しそうだな」里中はロッカールームで2年先輩に当たる近藤に突然声をかけられた。「え? 急にどうしたんですか? 先輩」里中は驚いて振り向いた。「お前さっき鼻歌、歌ってたぞ」近藤は呆れたように言った。「え? マジすか?」「何だよー無自覚で歌ってたのか? どうせ、あれだろ? 今日は花屋のあの子が来る日だもんな?」「ななな、なに言ってるんですか! 先輩!」「お前な~バレバレなんだよ。分かりやすいったらないぜ」「ま、まさか……鈍い先輩にもバレているんなら、他の人達にも……」「だ・れ・が・鈍いって」近藤は里中の頭をこずいた。「まあ、あのリハビリステーションにいる人間なら皆気付いてるだろうな、患者さんだって気付いてる人も中にはいるし。里中は千尋ちゃんに片思い中だって」「う……で、でも苗字じゃなくて名前で呼ぶまでには進展したんですよ!」先月、里中はようやく千尋の事を名前で呼ばせて貰える仲になれたのである。「俺はとっくに名前で呼んでたけどなあ……。それに肝心の千尋ちゃんはお前の気持ちに全く気が付いてないみたいだけどな」「ぐ……そ、それは……」「お前なあ、千尋ちゃんの事好きなんだろ? あの様子じゃ、今のところ男の影は見えないようだけど、ぐずぐずしてると他の男に取られてしまうぞ? お前、それでもいいのか?」「え? 彼女を狙ってる男が他にも? まさか……先輩が……?」「ば~か、俺にはちゃんと彼女がいるよ。安心しな」「先輩! 彼女いたんすか?!」「何だよ。いちゃ悪いか? それより早く着替えて来いよ。遅刻するぞ!」近藤はロッカールームを出て行った。気付けばロッカールームに居るのは里中ただ1人だけである。「あ、やべっ! 急がないと!」里中は慌てて着替え始めた。****「それじゃ店長。そろそろ病院に行ってきますね」千尋は花の水やりをしている中島に声
「いい子で待っててね」今回ヤマトは聞き分け良く、木の下に寝そべった。「大丈夫そうじゃないですか?」ヤマトの様子を見て里中が声をかけてきた。「はい、ありがとうございます」里中は目の前のガラス張りのドアを開けると荷台を部屋に入れて千尋を招いた。「さ、どうぞ」「お邪魔いたします」 リハビリステーションは大きな掃き出し窓があり、とても広い部屋であった。スタッフは殆どが男性で、女性の姿は数名だったが全員里中より年上に見えた。ここにいる患者の殆どは老人ばかりで、マッサージや歩行訓練を受けている。「実は俺が一番下っ端なんですよね。毎日先輩たちに駄目だし食らってますよ。でも、お年寄りの人達にマッサージをしてお礼を言って貰えると、ああこの仕事をして良かったなって思うんですよ」その時、年老いた女性が声をかけてきた。「まあ。随分可愛らしい女の子ねえ。裕ちゃんの彼女かい?」「え? あの、私は……」「うわ! 山本さん、何てこと言うんですか! この人はお花屋さんですよ!」里中は慌てて否定する。「あらそうなの? ごめんなさいねえ。勘違いしちゃって」「初めまして、青山千尋です。今日からここのお花を生けに来ました」千尋は女性に挨拶をした。「よろしくね。綺麗なお花楽しみにしてるわ」女性が去ると、不意に背後から声をかけられた。「貴女が青山さんですか?」振り向くと30代半ばと思しき男性が立っている。「あ、主任。そうです。この人が『フロリナ』のお店から来た青山さんです」「初めまして、青山千尋と申します。これからどうぞよろしくお願いいたします」里中に紹介されて、千尋は会釈した。「よろしく、私がここの主任をしている野口です。メールでもお伝えしていましたが受付のカウンターに花の飾りつけをして頂きたいのです。花瓶はこちらで用意してありますので、後はお任せします」「はい、大丈夫です」「ほら、里中。いつまで突っ立ってるんだ? 早く仕事に戻れ。患者が待ってるだろう?」野口は未だに側にいる里中に注意した。「あ、すみません! それじゃ青山さん、失礼します!」「いえ、ありがとうございました。里中さんのお陰で助かりました」「それじゃ、また!」里中が去ると、千尋はヤマトのことを思い出した。(そうだ、ヤマトを連れてきている事を改めて言わなくちゃ)「すみません、実
数分後―― 名札を首から下げたポロシャツスタイルの青年が小走りでこちらにやってくるのが見えた。青年はハアハア息をつぎながら千尋の前に来ると声をかけてきた。「あの、『フロリナ』のお店からいらっしゃった青山さんでしょうか?」「はい、そうです。お忙しい所申し訳ございませんでした」「とんでもないです! でもこんなに若い女性だったとは思いませんでした。あ、自己紹介がまだでしたね。俺は里中裕也といいます! ここの病院の理学療法士をしています。23歳、若さと元気だけが取り柄です! よろしくお願いします!」「青山千尋です、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします。まだまだ経験不足ですが、一生懸命頑張ります」元気な里中に、千尋は笑顔で挨拶した。「あ……え~と……それでこの犬ですか? 青山さんについて来たのは」里中は千尋の足元に座っているヤマトを見た。「はい、そうなんです。普段は聞き訳がいいんですけど、どうしても言うことを聞いてくれなくて」「大丈夫! 俺に任せて下さい! 青山さん、実はこの病院のリハビリステーションは中庭に面しているんですよ。リハビリに来られている方々に中庭を楽しんでもらう為に、中庭に出入り口があるんです。そこから入れば病院の中を通らずに行けます。それに青山さんの側を離れないなら、中庭にリードで繋いでおけばいいんじゃないですか? ……と、俺の上司が言ってました」「本当にいいんですか?」「はい、大丈夫ですよ!」歯を見せて笑う里中。「あ……それじゃ私、荷物を取りに行かないと」「俺、荷物持ちますよ。青山さんは犬をお願いします。ところで犬の名前は何て言うんですか?」「ヤマトです」「へえ~ヤマトかあ。何か戦艦ヤマトみたいでカッコいいですね。ちなみにオスですか?」「はい、亡くなった祖父がつけてくれました」千尋はヤマトを連れて里中を自分が運転してきた軽トラックに案内した。「すみません、こちらの荷物になるのですが……。今、台車を出しますね」千尋が選んだ大輪の花や飾り、活性剤等が詰まれている。「あ、俺がやりますよ」里中は注意深く荷物を台車に積みこんだ。「それじゃ、案内しますね」「お願いします」**** 山手総合病院は市内一を誇る大病院で、救急指定病院にもなっている。実は千尋の祖父もこの病院に通院しており、搬送されたときもこの病院で
君の明るい笑顔を見るのが大好きだっただけど、人一倍寂しがりやだったね辛い時、悲しい時は我慢しないで泣いてもいいんだよ君が目覚めるまでは側にいるから――**** 桜の木々に囲まれた葬儀場に参列者達が集まっていた。「家の中で倒れている所をお隣の川合さんが発見されたそうよ」「他にご家族はいないの?」「それが千尋ちゃんがまだ小学生だった頃に両親が交通事故で亡くなったから、幸男さんが娘の子供を引き取ったのよ」「父方のご両親は何故ここに来ていないんだろう?」「千尋ちゃんのご両親の結婚に猛反対だったらしくて絶縁状態だったのよ。でもさすがに自分の息子のお葬式には来たけれど、幸男さんと大喧嘩になって大変だったみたいね」「千尋ちゃんも成人して働いているから先方も幸男さんの葬式に来ないのかもな……」葬儀場で近所の人々が会話をしている。青山千尋は、椅子に座って窓から見える美しく咲いた桜の木々を眺めながらぼんやりと聞いていた。昨夜のお通夜には千尋の友人達も大勢駆けつけてきてくれたが、平日の告別式となると彼等の参加は難しい。結局千尋から告別式には顔を出さなくても大丈夫だからと断ったのである。人が少ない会場での会話は全て千尋に筒抜けとなっていた。(そっか……だから向こうのお爺ちゃんやお祖母ちゃんに一度も会った事が無かったんだ……)千尋の両親が事故で亡くなったのは、彼女が小学生の時。修学旅行に行っていた最中の出来事だった。両親の死で独りぼっちになってしまった千尋を引き取ってくれたのが祖父の幸男である。千尋は突然の両親の死を受け入れることが出来ず、二人の葬式にもショックで参列出来なかった。千尋は祖父の遺影を見つめた。そこには笑顔でカメラに写っている祖父の姿があった。専門学校を卒業したお祝いの席で千尋が撮影したものであった。『上手に撮れたなあ。よし、爺ちゃんの葬式の時はこの写真を使ってくれよ』生前の祖父の言葉が頭をよぎった。あの時は、そんな縁起でもないことを言わないでと祖父に怒って言った。だが、たったの1年で現実の出来事になるとは思ってもいなかった。堪えていた涙が出そうになり、千尋はぐっと両手を握りしめたそのとき。「千尋ちゃん」聞きなれた声で呼びかけられ、千尋は振り向いた。「川合さん」声の主は祖父が家の中で倒れているのを発見し、救急車を呼んでくれた近所の...
Komen