幼い頃、森で過ごし、自然との深い結びつきを感じていたリノア。しかし成長と共に、その感覚が薄れていった。ある日、最愛の兄、シオンが不慮の事故で亡くなり、リノアの世界が一変する。遺されたのは一本の木彫りの笛と星空に隠された秘密を読み解く「星詠みの力」だった。リノアはシオンの恋人エレナと共に彼の遺志を継ぐ決意をする。 星空の下、水鏡に映る真実を求め、龍の涙の謎を追う。その過程で自然の多様性に気づくリノアとエレナ。 希望と危険が交錯する中、彼女たちは霧の中で何を見つけ、何を失うのか? 星が導く運命の冒険が今、動き出す。
View Moreクラウディアは記録保管庫へと急いだ。イリアとカムランの謎めいた行動、消えた真実―その解決の鍵が、そこに眠っていると信じて。 霧に呑まれた小道を進んでいる途中、不意に木々の間で小さな光が瞬くのが目に入った。 咄嗟にランタンを地面に置き、クラウディアは木の陰に身を滑らせた。 地面に置かれたランタンが暗闇の奥を照らす。 クラウディアは感覚を研ぎ澄まし、相手の出方を伺った。 敵か、味方か、それとも……。 静寂の中、葉擦れの音が微かに耳に届く。小さな動物が動き回る音だ。だが、この森ではどんな音であっても油断することはできない。 クラウディアは身を屈めて、光の届かない木の陰からそっと覗き込んだ。 星の欠片のような淡い光……。 ふわりと揺らぎながら、小さな動物の形を描いている。「まだ、この森にいたのか……」 森の伝承に語られる、小さな守り手。星リス。 淡く輝く毛皮をまとい、黒曜石のように澄んだ目でクラウディアをじっと見つめている。 戦時中、村人が森で迷わないように導いたという小さな生き物だ。星リスが発する光は、森の鼓動を表しているかのように儚く揺れている。それは、どこか不安を感じさせるものだった。 クラウディアは眉をひそめ、目の前に現れた星リスをじっと見つめた。森の導き手として知られるその存在が、なぜ今、こうして姿を現したのか——その理由を考えずにはいられなかった。「お前は、この森の現状をどう思っている?」 クラウディアは星リスに問いかけた。しかし星リスは答えず、その輝きをただ揺らすだけだった。そして次の瞬間、光はゆっくりと薄れ、暗闇へと消えていった。 じっと息を潜めながら、クラウディアは光の消えゆく先を見つめた。 森は何かを訴えている……。 クラウディアは心の中で星リスの光が何を意味しているのかを考えながら、再び足を踏み出した。 記録保管庫へ向かう足取りが次第に早まる。リノアとエレナに危険が迫っているのではないかという焦りが、クラウディアの足を急がせた。 村はずれに位置する記録保管庫は、時の流れをそのまま抱え込んだような古びた建物だ。木の扉は朽ちかけ、苔むした屋根が年月の重みを思わせる。 鍵を回す音が静寂の中に響き、扉が軋みながら開いた。中に一歩足を踏み入れると、埃っぽい空気と書物の古びた匂いがクラウディアを迎えた。 ランタンの
「ノクティス家が……?」 エダンはゆっくりとランタンを持ち上げ、影が揺れる中でクラウディアの顔を見つめた。「そうだ。この村にとってノクティス家は欠かせない一族だった。彼らの裏切りなど、誰ひとり信じることができなかったよ。それは村にとって、あまりに衝撃的で、現実味を欠いているように思えたからな」 エダンは肩をすくめながら、しわがれた声で続けた。「しかし、その噂は瞬く間に村中に広がっていった。誰もが心の中では否定したかったが、繰り返し語られるうちに、次第にそれが真実のように思えてきたのだ」 クラウディアは沈黙の中でエダンの話を咀嚼した。「エダン、その噂を最初に広めたのは誰だか分かる?」「誰が最初かなんて、分かるわけがないだろう。あの混乱の中で真実は霧のようにぼやけ、誰もが自分の見たいものしか見なかったのだからな」 エダンは目を細めたまま、唸るように応えた。 リノアの両親――イリアとカムラン。 戦乱の最中、戦死したと誰もが信じていた。しかし、彼らの遺体はどこにも見つからなかった。今もどこかで生きていることは十分に考えられるが……。 しかし、本当にあの二人が裏切るなどということがあるのだろうか? しかも当時はシオンとリノアは幼かったのだ。 イリアの穏やかな笑顔とカムランの剣に宿る誇り──あの二人が裏切るなど有りえない。「それにしても、急にどうしたんだ。あんたがそんな昔のことを掘り返すなんて」 エダンの声には探るような鋭さが潜んでいた。ランタンの揺れる光がエダンの顔にちらつく疑念を浮かび上がらせる。 クラウディアは一瞬だけ目を向け、エダンの視線を受け止めた。だが、その挑発には乗らず、冷静に言葉を返した。「ちょっと気になることがあったんでね」 そう言い放つと、クラウディアは背を向けた。霧の帳が揺れる中、クラウディアのシルエットがランタンの淡い光に滲む。エダンの視線が背中に刺さるのを感じたが、クラウディアは振り返ることなく、歩を進めた。「エダンのあの様子では、噂を心の底から信じている。他の村人たちもエダンのように噂を信じているのだろうか。 クラウディアの胸に抑えきれない苛立ちが広がる。 どうして誰も疑わないのか。どうして村を守るために命を賭した人たちを憎むのか。 脳裏にイリアとカムランの最後の言葉がよみがえる。──シオンとリノアを頼む
クラウディアは広場を後にし、杖を突いて小道を急いだ。古老の家は村の外れにある。苔むした石垣に囲まれた小さな家。時間の積み重ねが石垣に刻まれ、歴史の重みが感じられる場所だ。 ランタンの淡い光が地面を照らし、クラウディアの影を長く伸ばしている。光の揺らめきに合わせて、影もまた不安定に踊っているようだった。 クラウディアはその視界の片隅に移る影を無意識に眺めながら、手元に残る紙の感触に意識を向けた。 あの伝言を見て、リノアはどう判断するのだろうか……。 期待と不安が胸中を交錯する。 クラウディアは小さな家の前で立ち止まると、木の戸を軽く叩いた。 やがて戸がゆっくり開き、白髪の古老エダンがランタンを手に姿を現した。皺だらけの顔に鋭い目が光っている。「クラウディア、こんな夜更けに何だ? 国の血を引く者が、こんな時間に村をさまようとはな」 そう言って、エダンは鋭い目でクラウディアを見据えた。その声には疑念と挑発が混じっている。──国の血を引く者── エダンの棘のある言葉がクラウディアの心を現実から過去へと引き戻していく。 かつて国に盲従し、森を焼き払う命令に従おうとしたことがあった。森が失われた時の痛ましい光景、そして村人たちの悲鳴が耳元に鮮明に蘇る。 もしあの時、リノアの母に出会わなかったら、一体、私はどうなっていたのか。あのまま闇に墜ちて行ったのではないか。 クラウディアはエダンの疑うような視線を受け流し、心を落ち着かせた後、静かに言葉を紡いだ。「エダン、こんな時間に押しかけてきて申し訳ない。この村のために、どうしても今すぐ動かなければならないことがあってね」 エダンはクラウディアの言葉に耳を傾けながら、ランタンを少し持ち上げ、顔に一層影を作った。 二人の間に緊張感が漂う。 クラウディアは目を逸らさず、エダンの鋭い目に応えた。「森は私たちの命そのもの。私が信じるべきものは国ではなかった」 クラウディアは杖を握り直し、毅然とした表情でエダンを見つめた。その姿には過去と向き合いながらも未来を守る決意が宿っている。──自然を失えば人は滅びる── リノアの母が私の目を真っすぐに見据えて言った。あのような澄んだ目をした人間を見たことがない。 リノアの母の存在が私の心を国から引き離したのだ。「エダン、戦乱時の話を聞きたい。名家や国の動き
「グレタたちがどこへ向かうにせよ、グレタがこの村を訪れた理由を軽視するわけにはいかない」 ただ買い物に出かけたというわけではないだろう。グレタは何かを企んでいる。「覚悟を決めなければならない時が来たのかもしれない」 クラウディアはそっと呟いた。 リノアを危険な目に晒すわけにはいかないが、グレタが言っていたように、もうそのようなことを言っている場合ではない。 リノアの力を信じなければ、この村の未来は守れないのだ。「トラン、ミラ、お前たちは寒い中、本当によく頑張ってくれている。村のみんなも二人の働きを頼りにしているよ」 クラウディアの声には冷静さと共に温かな励ましが込められており、その言葉は二人の心に安堵をもたらした。 クラウディアは視線をトランへ移すと、穏やかだが確固たる口調で続けた。「トラン、ひとつ頼みたいことがある」「僕に……ですか? 一体、何をすれば……」 トランは困惑した表情を浮かべた。ミラが不安そうな顔でトランを見つめる。「リノアとエレナが森の小屋で作業をしていると思う。二人に伝言を届けて欲しい」 クラウディアは言葉を慎重に選び、トランを見つめた。「トラン、無理しない方が……」 トランは姉の視線を受け流すように顔を上げた。「大丈夫だよ、ミラ。僕だって、それくらいのことはできるよ」 その言葉には、年下ながらも自分の力を証明したいという強い意志が感じられる。「クラウディア様。任せて下さい。シオンが研究していた小屋ですね。すぐに向かいます」「シオンの研究所までは安全だから良いが、それより先は危険が潜んでいるかもしれない。トラン、先に進むんじゃないよ。リノアとエレナが小屋にいなかった時は紙を置いて直ぐに戻っておいで」 そう言ってクラウディアはトランに一枚の紙を手渡した。「分かりました。そうします。クラウディア様」 クラウディアの言葉を胸に刻み込み、トランは顔を引き締めた。 ランタンを手にして広場を出て行くトランの背中は、迷いを振り払うようにまっすぐ伸びている。「ミラ、トランなら大丈夫よ」 クラウディアは不安そうにしているミラの肩に手を置いて、優しく声をかけた。ミラが唇をかみながら、小さく頷く。 広場の空気は冷え込み、鋭い寒気が肌を刺すようだった。薄く立ち込める霞の中で、クラウディアは遠ざかっていくトランの背中を目で
冷たい風が吹き抜ける中、クラウディアは足元の霜を踏みしめながら広場へと進んだ。視線の先には森をじっと見据え、森を見張っているトランとミラの姿がある。 戦乱が終わって以降、村人たちは自然の調和に守られながら穏やかに暮らした。その為、この村では森を見張る習慣はなくなっていた。しかし、それはシオンが亡くなる数週間前までの話だ。 シオンが亡くなる少し前から起こり始めた森の異変……。 村人たちは当初、単なる季節の移り変わりだと思っていた。しかし成熟する前に果実がしぼみ、井戸水の味が変わり始めた頃には、目の前で起きる現実を無視することができなくなった。 森には得体の知れない気配が漂い始め、森の奥深くからは唸り声にも似た不気味な音が聞こえる。その音は森そのものが苦しみを訴えているかのようであり、村人たちの間では「あれは亡霊の叫びだ」という噂が瞬く間に広がった。 村のあちこちで家畜が突然暴れ出すことや、夜空を貫くような雷鳴が響き渡ることに関しては、それまでも時折、起きていたことではあった。しかし、それすらも現実の外側からやってくる何者かの仕業とされた。 それでも誰もそれを確かめに行こうとはしなかった。変化の兆しを感じても、村人たちはただ不安に囚われ、遠巻きに森を見つめるだけ。ただ、シオンを除いては……。 森の奥深くに入ったシオンが何を見たのか、そして何を知ったのか、今となっては誰にも分からない。 危機感を抱いたクラウディアは、村の広場に見張り役を立てるよう指示した。森の異変に村が脅かされている現状に対し、何かが侵入してくる可能性を考慮せざるを得なかったからだ。 思考が過去の出来事を振り返る中、クラウディアは冷たい風に頬を撫でられ、意識を現実に引き戻した。 張り詰めた空気の中でクラウディアは改めて視線を広場に戻し、まるで見えない手が村の中心を押さえつけているような圧迫感を感じ取った。気温は低く、肌を刺す冷たさが身にしみる。 クラウディアは広場の端に立つ見張り役の二人、トランとミラのもとへ歩み寄った。霧がわずかに晴れ、薄光が広場を淡く照らしている。「クラウディア様、グレタさんは村を出る前、少し遠くを見て、何かを考えているようでした。そのまま来た道を戻るのかと思っていたら、別の方向に……」 トランが一歩前に出て、慎重な口調で答えた。「あのグレタって人、目的
一人残されたクラウディアは、部屋の片隅に目を遣った。そこにはシオンとの思い出の品々が並んでいる。今となっては、どれも大切な形見だ。 シオンは人に恨まれるような人間ではなかった。それなのに彼は殺された。シオンは間違いなく誰かに殺されている。 シオンの死がもたらしたものは、想像以上に大きい。クラウディアは改めてその重さを痛感した。 グレタの言葉が頭から離れない。『リノアが未来を握っている』『名家の力を削ごうとする存在』『龍の涙』が絡むなら、この村だけの問題では済まない。このままでは一方的に蹂躙されるだけだ。「私は何をすべきか……」 呟きが静寂の中に消えていく。「星詠みの力……」 クラウディアは心の中でリノアを思い浮かべた。「リノアの力はいずれ必要になる。私が道を指し示すべきか。それとも……」 道を誤れば、リノアの未来も村々の未来も揺らいでしまう。そのことを考えると胸の奥に疼くような痛みが走る。しかし目を背けるわけにはいかない。 クラウディアは目を閉じ、思考を巡らせた。 エレナも立派に育っている。今のエレナならリノアを支えることができるのではないか。しかもシオンが生きていた頃から二人の絆は深い。あの二人なら、きっと大丈夫だ。 薬草の香りが微かに漂う中、ランプの炎が揺らぎ、壁にかかる古い地図に影を落とした。 森が私たちに語りたがっているもの——それを理解しなければならない。迷っている時間はもうない。すでに事態は動き始めている。 この流れを止めることは、もはや誰にもできないのだ。 窓の外で霧が揺れ、森の奥から低く唸るような音が響いた。クラウディアの耳にその音が届き、背筋に冷たいものが走る。 クラウディアは息を深く吸って、気持ちを整えた。窓の外に広がる薄暗い空を見つめながら、ゆっくりと考えを巡らせる。 あの戦乱の最中、私は命からがら追ってから逃げた。仲間を見捨てて……。 リノアの両親がどこへ消えたのか、このまま曖昧にしておくわけにはいかない。きっと、今もどこかで生きているはずだ。名家の血が運命の歯車を動かすというのなら、私も動こう」 クラウディアは拳を軽く握りしめた。 クラウディアは立ち上がると、壁に掛けた厚手のコートに手を伸ばした。しっかりとした作りのそのコートは、冬の冷たい空気を遮る頼もしさを持っている。 クラウディアはコー
クラウディアの言葉は鋭く、まるで刃のようにグレタに突き刺さった。 緊張感が頂点に達しようとしたその時、不意に家の外から女性の声が響いた。「グレタ様、どうかなさいましたか?」 グレタとクラウディアは互いの視線をぶつけ合ったまま黙り込み、その言葉の主に意識を向けた。声の主はレイナだ。家の外で待機していたレイナが部屋の中の不穏を感じ、声を掛けてきたのだ。 革鎧の軋む音が霧に溶け、緊迫した空気が一瞬だけ緩む。「レイナ、心配はいらん。少し下がっておれ」 グレタはレイナの方へ視線を向けずに言った。グレタの声にはまだ怒りの余韻が残っている。 部屋に沈黙が広がり、霧の向こうで風が木々を揺らす音だけが聞こえる。レイナは足音も立てずその場から離れる気配を見せない。 レイナはグレタの命令に従うように見せつつも、ドアからは完全には離れず、何かあれば即座に介入できるよう身構えている。クラウディアはそう感じた。 外で待機するレイナの存在が張り詰めた空気にさらなる重圧を加える。 しばらくして、クラウディアが口を開いた。声は先ほどより落ち着いており、どこか疲れを含んでいる。「グレタ、あなたの言う危機は重々、理解している。私も森の異変を感じているからね。だが、リノアを危険に晒すような決断は、まだ下すことはできない」 裏で動く存在の挑発に乗るのは、まだ早い。相手は私たちを動かそうとしているのだ。「相変わらずじゃな。自分が納得しない限りは、決して動こうとはしない。お前らしいとは思う。わしには問題を先送りにしているようにしか見えんがな。クラウディア、いずれその重さに耐えきれなくなる日がきっと来るぞ。わしはわしで単独で動かせてもらう」 そう言って、グレタは杖を手にして、クラウディアから背を向けた。「勝手にすればいい。私がリノアを守る意志は変わらない。それだけは覚えておくことね」 グレタは振り返ることなく、杖を突きながら歩いて扉を開けた。「行くぞ、レイナ。時間は待ってくれん」 レイナは扉を閉める前にクラウディアを見ると、軽く頭を下げた。その仕草にはクラウディアに対する敬意が込められている。 扉が閉まる音が部屋に小さく響き、霧の気配が再び静寂を満たした。レイナは迷いなくグレタの後ろへ歩を進め、そして周囲に目を走らせた。 血気盛んな戦士にしては珍しいタイプだ。動作一つ一
「名家の者たちは『龍の涙』を巡って争っておるが、一部の賢い者は気づき始めとる。村同士で争えば、互いに疲弊するだけじゃとな。誰かが名家の力を削ごうとしとるのかもしれん」 グレタは眉間にしわを寄せて言葉を紡いだ。 クラウディアはグレタの言葉を聞いて、考えを巡らせた。「争いの混乱に乗じて、誰かが更なる力を得ようとしている。村同士の争いを好む者たちがいるのは確かだ……。グレタ、私はあなたもその一部だと思っている」 クラウディアは拳を握りしめ、冷たい瞳でグレタを見据えた。その声には底知れない冷ややかさが滲んでいる。 グレタは一瞬眉をひそめ、顔を硬くしたが、すぐに冷静さを取り戻して反論した。「わしが争いを望むとでも思っておるのか? 長きにわたってこの目で見てきたのは、争いがいかに村を弱らせるかじゃ。わしはそれを止めるために動いとる」「本当にそうかしら。名家の力を削ぐなどと口にしながら、リノアを巻き込もうとするなんてね」 クラウディアの声が鋭く響き、部屋の空気が張り詰める。「リノアの力を必要としとるのは事実じゃ。しかし、決してリノアを利用するという意味ではない!」 グレタは杖を強く突きながら声を張り上げた。その瞳には真剣さと苛立ちが宿っている。グレタが続ける。「お前もわかっておろう、森の異変にこのまま目を背けておれば、村の全てが危機に瀕することを。なのに、お前は何もしないつもりか!」「何もしないわけではない。私の行動が村全体をどう変えるのか——それを熟考してから動くつもりだ」 シオンを失った今、リノアまで失うわけにはいかない。事は慎重に進めなければ……。「そんな悠長なことを言っとる場合か。時間は刻一刻と迫っておるんじゃ」「村人たちのため。そう言えば聞こえは良いが、結局、権力を持った者たちがこれまでしてきた事と何一つ変わらないわね。あの戦乱で一体、どれだけの人たちの命が奪われ、傷ついたと思っているの。行方不明になった人も多い」 リノアの両親も未だに行方が分からないままだ。「わしは老いぼれた。もう先は長くはない。利益なんぞ欲してはおらん。リノアがこの村だけではなく、わしらの未来を握っていることは紛れもない事実なんじゃ」 グレタは杖を強く握りしめ、クラウディアを真剣なまなざしで見つめた。「未来? その未来を決めるのはリノア自身よ。あなたの言葉を聞
「思い当たることが、ないわけではない……」 その声は沈み、重みを持って部屋に響いた。言葉の端に滲むためらいが、クラウディアの内なる葛藤を露わにしている。 クラウディアは窓の外に視線を移し、揺れる霧をじっと見つめた。その霧の奥には、あの日シオンが命を落とした森が広がっている——血の染みたスカーフが風に揺れ、彼の最期の叫びが木々に吸い込まれたあの場所が。 グレタは杖に体重を預け、じっとクラウディアを見つめた。グレタの姿勢は穏やかだが、そこには次に紡がれる言葉を一言も聞き逃すまいとする執念が漂っている。老いた体に宿るその気配は、まるで猟犬が獲物の匂いを追うような鋭さを持っていた。 クラウディアはゆっくりと手を額から下ろし、深く息を吸い込んだ。彼女の目の奥に宿る迷いは消えてはいない。むしろ霧のように濃さを増している。「シオンの死の裏には……確かに何かが隠されている。だが、それを口にすれば、この村に更なる影が落ちる。深く絡まった闇を解きほぐすことが、この地にどのような影響を及ぼすのか。その危険を想像するだけでも恐ろしい。もう私たちの村は戦えるだけの戦力はないのだ……」 クラウディアの声は、まるで空気そのものを緊張で満たすかのように部屋に染み渡った。 グレタは杖を握る手に力を込め、険しい表情で口を開いた。「お前が恐れとるのはシオンを狙った者の影だったんじゃな。戦力がないのは、わしらの村も同じじゃよ。そして恐らく他の村もな。あの戦乱の後、戦力を削がれたのは、お前の村だけではないのだ」 グレタは杖を握り直し、その目をクラウディアへ鋭く向け、そして続けた。「クラウディアよ。お前の気持ちは良く分かる。だが、目を背けたところで、その影が消えるわけではないじゃろう。 影を恐れるだけでは、森の奥で立ち尽くすだけじゃ。わしらは進むべき道を見定めなければならん、それがどんなに険しくてもな……」 グレタの声は霧を切り裂く刃のようだった。 霧の向こうに浮かぶ森の影が、クラウディアの記憶を抉るように揺れている。 シオンが亡くなったあの日、クラウディアの目に焼きついたのは、シオンの遺体が横たわる静寂の中に漂う、戦いの激しさと無念さだった。 その光景を目にした時、クラウディアはシオンが村を守るために命を落としたのだと直感的に悟った。その確信は、シオンの最期を思い描くたびに鮮明
リノアは幼い頃、初めて自然の声を聞いた。それは母親と一緒に森を訪れた日のことだった。森の奥深く、陽光が木々の隙間から柔らかく差し込む場所で、リノアの母はリノアの手を引きながら歩いていた。「リノア、ここで少し待っていて。お母さんが戻るまで動かないでね」 母の声は優しかったが、どこか切迫した響きを帯びていた。母はリノアを太古から存在するオークの木の根元に座らせ、膝に手を置いて微笑んだ。「お母さん、どこに行くの?」 リノアが尋ねると、母は首を振って答えた。「すぐ戻るから、ここで待っていて。約束だよ」 そう言って、母はリノアに背を向け、木々の間へ消えていった。背中が遠ざかるにつれ、リノアの小さな胸に不安の波が寄せ始めた。 リノアはその言葉を守り、静かに待ち続けた。 太陽が少しずつ傾き、森に長い影が伸び始める。オークの木の根はごつごつしており、苔の柔らかな感触が彼女の手をくすぐった。 鳥のさえずりが遠くに聞こえ、心地よく感じる。しかし母が戻って来ないことで、リノアの心の中に不安の感情が芽生え始めた。「お母さん、どこ?」 リノアが小さな声でつぶやく。 涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえながら、リノアは周囲を見回した。森は静かで、ただ風が木々を揺らす音だけが響いている。母の気配はない。「お母さん!」 我慢しきれず、リノアは立ち上がり、母が消えた方向へ駆け出そうとした。その瞬間、耳元で声が響いた。 「リノア。まだ、ここにいた方がいいよ」 驚いたリノアは足を止め、辺りを見回した。「誰?」 姿が見えない。風の音と川のせせらぎなど、自然の音だけが聞こえる。 聞いたことのない声だ。だけど温かくて、どこか懐かしい響きがする。「もう少しだけ、ここにいて」 声が再び森に響き渡った。姿は見えないが、確かにそこにいる。リノアは目を細めて周囲を見回したが、やはり何も見つけることはできなかった。「どうして? お母さんのところに行きたい」 リノアが訴えると、声は静かに答えた。「ここにいたら安全だから。僕たちが君を守ってあげる。お母さんも心配しなくて良いよ」 その言葉にリノアは不思議な安心感を覚え、彼女は再びオークの根元に座り込んだ。 目の前には小さな川が流れ、水面が陽光を反射してキラキラと輝いている。 リノアは手を伸ばし、水にそっと触れた。ひ...
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