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第8章 とんでもございません。幸薄い呪われた人生ですから

翌日、椿の寄付した設備は朝一に病院に届いた。院長先生が自ら椿を出迎えたことは、病院側がどれだけこれらの設備を重視していたのを語った。

奈央にはそんなことに構っていられた時間がまるでなかった。彼女は関谷悦子の最新の検査結果を何度も読み直しながら、他の診療科の先生たちとオペ中に発生しかねない緊急事態について話し合っていた。

二時間後、設備の設置が無事に終わったの次に、奈央はチームを率いてオペ室へ向かった。

椿は既にオペ室の前に待っていた。奈央が来たのに気付いて、彼は即座に立ち上げて彼女の前に出た。

「自信はもちろんありますよね?」

マスクをきちんとしている奈央は、目線を上にあげて彼を一瞥した。

「もしありませんと答えたら、宇野さんは関谷さんを連れ戻すつもりでしょうか」

固まってしまった椿は、反論することすらできなかった。

この期に及んで、相手に自信があるかどうかに関係なく、悦子にはもう手術を受けるしか選択する余地がなかった。もうはや、止むに止まれぬ情勢に迫られた状況だった。

「ご安心ください、宇野さん。できる範囲内のことは尽くしますので」

彼女はなんとしても、関谷悦子を死なせないつもりで言った。特に、手術台で死なせることを自分に許していなかった。

チーム一同がオペ室に入った。オペ中だと示してくれるランプが点灯したのと共に、肩を凝らせるような空気があの場でみなぎってきた。

時間がチックタックと少しつづ過ぎていき、もう六時間が立っていても、オペ中のランプは依然と光を放っていた。

「宇野様、少し休憩しましょうか。僕が代わりにここに待っていますから」

丸一日水すら一滴も飲んでいなかった男を心配していた海斗が休憩を取ることを勧めた。

頭を振って海斗の勧めを却下した男の口調は流石に重かった。

「中で手術をしている先生たちが休憩を取ろうともしないのに、俺が休んでどうする?」

椿はこの手術がなんとここまで長引いてしまうなんて想定していなかったから、少し心配になった。同時に、あの痩せていて、小柄の女が長時間の手術を耐えられたことに感心していた。

「手術が終わったら、全員がいちはやく食事を取れるよう、出前をとっておいてくれ」

彼は急に口を開いて、側にいた海斗に言った。

海斗は驚いて、少々固まっていた。患者の家族が医者たちに出前の形で、料理を注文するなんて前代未聞だった。自分が仕えていたボスがいつこんなにも親切で他人思いの人になったか?

ふらりとオペ室のほうへ見て、その中での手術台で横になっていた人物のことを思い出すと、海斗もほんの少しだけ理解できるようになった。

これは全部悦子様のためだったんだろう。何せ、宇野様はちゃんと悦子様の面倒を見るとお兄さんに約束したからだ。手術をしてくださったお医者さんたちに、宇野様がお礼をするのも当然なことだった。

さらに三十分が経過した後、ランプはついに消えた。扉が開かれたのと共に、看護師が一人先に出てきた。

「関谷悦子様のご家族の方、いらっしゃいますか」

椿は看護師の声聞いてすぐ立ち上がった。

「手術は成功したのか」

「ええ、無事成功しましたとDr.霧島が。患者さんは今ICUへ搬送されました。手続をする必要がございますので、どうぞこちらへ」

看護師の返答はロボットっぽかった。数時間もした手術で、疲れたようだった。

椿は自分の目線で、海斗について行ってくれと頼んだ。海斗は頷き返して、看護師の案内で、手続をしに行った。

暫くして、奈央は他のチームメンバーと共に出てきた。全員の顔色が真っ青で、相当疲れていた。

「ご苦労様です」

いつの間にか奈央の前に出てきた椿は、彼女を見つめていた。彼の目の中にうねっていた感情はあまりにも複雑だった。

確かに、この女の自分へのあたりは時には強かったが......苦労をして悦子を助けた恩で、椿はそっとしておくことにした。

ただでさえ疲れていた奈央は、自分の目の前に涼しい顔で現れた椿を見て、余計に癪に触られた気分になった。

「とんでもございません。幸薄い呪われた人生ですから」

よりによって、その患者さんはあいにく椿の恋人で、自分が助けざるを得ない立場に立たされた。これを呪われた運命というのだった。

「皆さん、お疲れ様です。お腹をすかしているのと思って、食事を用意させてもらいましたので、どうぞ職員室で寛いでいて、食べてください」

椿は、奈央とそのチームメンバーに向けて言った。

「ご謙遜を。医者としてのやるべきことをしたまでです」

チームの中には、椿のお礼で感激したものもいた。

「そうなんです。宇野様のお役に立てて、光栄です」

相槌を打ったものまでいた。

相手はあの宇野椿なのだった。普段なら、お目にかかることが容易にできない相手が、今こうして自分に助けられていたと思うと、彼れたちはちょっとした舞い上がった。

奈央はお約束のことに、仲間はずれだった。

周りのお世辞を耳にしていた彼女は、とてつもなく呆れていた。光栄だったと?光栄という言葉がこういうことを意味しているのを知っていたら、彼女は最初からこの機会を他の人に譲っていた。

海斗が医者たちを職員室での食事に招待されていた間、悦子はもうICUに搬送された。奈央は側頭部を揉んで、このまま家に帰って休もうと椅子から立ち上がった。

こんな長時間の手術は久々だったので、さすがの彼女も疲れを感じた。

「霧島先生は食事をとりませんか」

彼女が行こうとしていたのを見て、椿は思わず彼女の手を取った。

先洗ったばかりのかも知れぬ、女の柔らかい手は冷たく感じた。その手を握っていた椿は、我が心がその手で掻いたかのように、くすぐったい気持ちになった。

その念が椿の胸をよぎったそば、奈央はがばと後ろへと引いて、警戒しながら彼を見た。

「行動を謹んでください、宇野さん」

言ったあと、奈央は自分の手を力強く拭いた。まるで何か嫌なものでもついていたかのようだった。嫌悪というふたもじは、あからさまに彼女の顔に書いてあった。

椿はあまりの怒りで血を吐き出すところだった。

自分が何をしたと言うの?そこまで警戒する必要は本当にあったか。

椿は胸で騒つく虫を殺して、歯を食いしばって手前に立っていた女を見つめた。

「Dr.霧島!」

男は怒りを込めた口調で彼女の名前を叫んだ。凍りつくような低い声が、背中まできて、ぞっとさせた。

奈央は顔をあげて、椿と見つめあった。その澄んだ瞳の中には、なんの揺らぎもなかった。彼女は一瞬でも避けずに、喧嘩上等とでも言わんばかりの目つきで、じっと彼の目を見た。

「悦子を助けたからと言って調子に乗っては行きません。警告です。俺はこう見えて、かなり気が短いのです」

気が短い?

それはお互い様だと思って、奈央は怒り心頭で笑い出してしまった。

「あら、そうですか」

彼女も自分の胸の虫を押し殺しながら、できるだけ礼儀正しい笑顔で言った。

「お会いするの、これで最後だと心より願っております」

「霧島、君!」

奈央は椿に話を終えるチャンスをも与えずに、身を翻して、振り向かずに出ていった。

そのまま立ち尽くしていた椿は、彼女の後ろ姿が視界から消えるまで見届けた。彼の心頭では、何かに覆われたかのようにもやっとして、何をしても晴れることがなかった。

「宇野様、悦子様のほうはもう準備満タンです」

椿の後ろかか出てきた海斗は、小心翼翼と言った。

実のところ、海斗はずっと前からその場に立ち会っていたが、ボスとDr.霧島の間でのびりびりした空気で、なかなか近つけなかった。

「俺が彼女に嫌われてる気がしない?」

椿は奈央の言った方向を見て、ふと聞き出した。

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