戦場ヶ原尭之という男は、きっと人に殴られたことが一度もなかったのだ。そうでもない限り、あんなふうに軽々しく人を挑発するような発言はできないと奈央は思った。深呼吸して、奈央は自分を強制的に仕事に潜らせた。椿が暗いのが苦手な原因に至っては、彼女は探求しないことにした。別に知りたいわけでもなかったし、彼女とは関係のない話なのだ。病院で夜遅くまで働き続けた彼女は、運悪くマンションに戻った時に、椿と鉢合わせた。引っ越すというのは、一刻も早く進めないといけないのだ!エレベーターの中で、奈央は隅っこに身を寄りかかり、椿の存在を完全に無視した。暫くして、我慢できずに、椿は先に口を開いてしまった。「うちのお爺さんが電話したか」「宇野さんは、私に話しかけていたのか」奈央は顔をあげて、わざとそれを聞いた。椿の顔色はなんとなく暗くなったが、彼は怒り出さないように自分の感情を必死に抑えていた。「じゃなかったら、ここに他に誰がいるというんの?」「あ、そう」奈央は心ここに在らずに返事してから、こう言った。「したけど」「じゃ、行くのか」椿はまた質問をした。「お爺様のお誘いなので、行くに決まってる」というのは彼女の答えだった。椿がまだ何も言えなかったうちに、彼女はすぐ言った。「宇野さんがもし私の顔が見たいないというのなら、私はできる限り宇野さんのことを避けて、必ず会わないようにすることを約束する」この宴会の主人として、椿が自分の顔を見たくないのも無理はなかった。誰であって、自分のことをクソミソに罵った人に会うのが嫌だろう?「霧島奈央、俺のことを誤解してるようだ。しかも、かなり深く」椿は不意に奈央にそう言った。自分は一体何をどうしたらこの女にここまで誤解されたのか。本当のことは、彼女のほうが自分を会いたくないだろう?奈央は肩をすくめて、椿の言葉をどうでも良く思った。彼女と椿の間での誤解事はもうやまたくさんだった。一つや二つ増えたところで、痛くも痒くもないのだ。困難や悩み事など、いくら山積みしていても、なんとかなるので、心配することはない。話をしているうちに、エレベーターが二人の住む階層に止まった。奈央は真っ先にエレベーターを降りて、一刻も早く家に帰ろうとした。これ以上椿にここで絡まれてはたまらないのだ。
二人は適当な席に座った。椿のこの場所への嫌という気持ちは隠さずに彼の顔に出ていた。そんな顔をしていた椿を見て、奈央は我慢できずに笑ってしまいそうところだった。「宇野さんのこのような環境には慣れてないようだな。それならどうして名臣レジデンスに住むことにしたの?宇野邸だったら、その周りには決してこのような露店は出来なkったのよね」宇野邸が占めしてるのは別荘がざっと並ぶエリアで、環境に優れている上、住人の数も少ない。確かに椿のような、環境にうるさい人にはピッタリだ。椿は返事をしなかった。結婚する前の彼は確かに、宇野邸に住んでいたが、結婚した後、奈央があそこに住むようになってから、椿は無性に戻りたくなくなり、会社近くのマンションに住むようになったわけだ。そして離婚した彼は、宇野邸に戻ろうと計画していたが、まさかそのタイミングで彼は奈央に出会ってしまった。彼はひょっと名臣レジデンスを出れなくなった。奈央は数秒彼を見つめていて、ふと何かを思いついたように、にやついた。「宇野さんも大変だったなあ。結婚したら逆に我が家に帰れなくなる身になったなんて」奈央の言葉はなんの遠慮もなく尖っていたが、椿は一向に気にせずに、薄い微笑みを浮かべながら言った。「奈央だっていきなり妻ができたって言われたら、同じことをするだろう」「私を一緒にするな」奈央は蔑みの目で椿を見て言った。「私はなるようにしかならないという言葉の意味を知っている。逃避ばかりする誰かさんとは違う」せめて、彼女なら相手と会って、ちゃんと話をするのだ。会いもせず、話しもせずにほったらかしする椿のようにはならなかったのだ。クズ!彼女は心の中でそう叫んだ!椿は何も言い返せなかった。今思えば、彼のやり方には大いに問題があった。けど、あのごろの椿の心は怒りに篭っていた。いきなり自分の妻となった霧島奈央という女性に対して、明白な好き嫌いはなかったが、恨みを抱いていたのは確かだった。これぞ諸行無常ということだ。彼が再び奈央に出会えてしまうことは誰もが予想できなかった。「この前は悪かった」これ以上自分の所業を屁理屈で弁明するのではなく、椿は素直に謝った。「ごめんなさい」椿の口から、「ごめんなさい」という言葉が出てくるなんて、奈央は実に驚いたが、すぐ我を取り戻し
向かいの席に座っていた男はただひたすら酒を飲んでいて、いくら待っても理由を教えてくれなかった。そのまま彼を眺めていた奈央の頭には、急に何らかの予想が入り込んだ。この予想は滑稽だったのにもかからず、この時この場では、椿の全ての行動に噛み合うほど合理的に感じる。「宇野さん、あなたまさか私のことが好きなんじゃない?」奈央は椿のことを見つめて、笑いながら聞いた。彼女は男が仏頂面で否定するのだと思っていたが、いつまで待っても、男は何も言ってくれなかった。奈央は動揺した。そして、彼女自身はしっかりと心の揺らぎを感じた。「宇野椿、頭がいかれてたか」椿は酒グラスをおいて、視線を奈央に向けた。「お前が好きイコール頭がイカれてる?これはどんな理屈だ?」「他の人なら話が別だが、あなたなら絶対そうに違いない」奈央はそうと答えた。状況を分かっているのか?私はあなたの元妻なんだよ!というのは奈央の心の声だった。離婚したら、元妻のことが好きだと?これを頭がいかれてるというのだ!椿はため息を漏らして、悠々と言った。「時には、そう思うのだ。もし結婚していた間に、一度だけでも会いに行けたら、多分......俺たちはいまだに夫婦なんだろうなって」「ってことは、あなたが私に一目惚れしたって言いたいか」奈央はとんでもない戯れが耳に入ったような気がした。椿はそれを認めず、そして否認もせずにいた。この時の奈央の心情は複雑だった。椿の話そうという誘いに乗ってしまったことを些か後悔していた。焼肉の串刺しを噛みながら、彼女は自分の人生を嘆いた。ここで手綱を緩めるつもりはなかったので、椿は彼女に聞いた。「で、一度チャンスはくれないか」そう言われて、奈央は唇をしめた。手に取っていた牛肉の串刺しは、その瞬間でそのうまみを無くしてしまった。「ね、奈央ちゃん......」「やめて」奈央はすぐ椿をやめさせた。「そこまで親しくはないのだから」奈央ちゃんだとは、どこまでも厚かましいのだ!この宇野椿という男は!「戦場ヶ原のやろうなら大丈夫そうだけど、俺ときたらダメだってどうして?」男は少々怒っていた。彼は自分ならどう見ても戦場ヶ原のやろうより奈央とはずっと親しい関係にあったつもりだった。しかし、奈央はそうは思っていなかっ
発行たての離婚届受理証明書を手に取り、霧島奈央は市役所から出てきた。「若......霧島様」と彼女に丁寧に声をかけた執事の渡辺さんは気まずそうな顔をしていた。「霧島様に渡してくれと大旦那様が」話の続きに、彼女の目の前に一枚のキャッシュカードが差し出された。この行動の意味は、いわずもがなだった。この状況に戸惑った奈央は、一瞬うっそりしてやっと返事をした。「受け取りません。渡辺さん、私の代わりに、大旦那様に礼を申し上げてください。この二年間は大変おせわになりましたと」言い終えると、彼女は、真っすぐ道端のほうへ向かい、長く待たされていた黒いマイバッハに乗った。車に乗ってきた奈央は、車内に乗っていた二人の様子を見て、呆れ笑いをしながらこう言った。「翔兄、お兄、バツ一つつけたくらいで、ここまで緊張しちゃってて、大袈裟じゃない?」「奈央、離婚したって本当か」運転係の柊和紀は振り向いて、話のついでに彼女のほうを見た。彼の目には未だに隠しきれない疑いがあった。奈央は頷きながら、笑った声で相槌を打ってあげた。「さっき離婚届受理証明書をもらったばかり、発行たてだよ」そう言った側、彼女はバッグから白い受理証明書を取り出して、二人の目の前で揺らした。「よくぞやった!」と和紀は豪快に笑った。「もっと早く離婚したらいいのによ」「違う!最初からあんな結婚するべきじゃなかった!」前言を撤回した彼の口からこの言葉が出てきた。彼に一瞥して、奈央は何かに急かされたかのように口を利いた。「お兄、運転に集中して、婚姻の墓場から解放されて間もなく、本格的な墓場に眠らされるのはごめんだわ」「それに、離婚ってめでたいことじゃないし、何もそこまでウキウキしなくても......」彼女は遠慮なく胸の内を吐いた。寺を一軒壊しても、人の結婚を壊してはいけないって、みんながいつも言っているでしょうというのは彼女の心の声だった。彼女の感覚では、なんと二人のお兄さんは自分の離婚をずっと前から期待していたようだった。「そりゃ、ウキウキするよ」思い切り頷いた和紀は、後ろの席でずっと無口な男に目線を配った。「だってオレだけじゃなく、兄貴も相当嬉しいようだぜ」奈央からの目線を感じた大賀翔は反論せずに、首を縦に振って、話に入った。「カズの言った通りだ。最初から結婚しなかっ
椿が助手である海斗の表情が異様だったのに気付いたのは、彼の話が終わってからだった。「それはいつのことだ?」「今朝、連絡が入ったばかりです」「調べろ!今すぐだ!今度こそ、向こうがどこに隠れていようか、必ず探し出すんだ!」そう念を押しながら、椿は命令した。「かしこまりました、宇野様」海斗は強く頭を縦に振って、返事した。泉ヶ原市立病院では、早朝から新しい副主任の諸々を巡った討論会が盛り上がっていて、賑やかだった。「新しくきた副主任ってどんな人物かな?男か女か、どっちだと思う?話しやすいといいなぁ」「さあ、新参者がいきなり副主任デビューだって言う流れからすると、相当腕の立つお医者様か、或いは......」女性職員の一人は、別に口にしなくても、私の顔を見れば分かるでしょうという意味深な表情を見せながら、おほほと笑って、会話に参加した。「かなり若いって聞いたの、きっとコネで入ったに違いないと思うよ」「私もそう思う」野次馬に混ざっていた他の職員も、その場の空気に流れて頷いた。医学の道は他の業界とは根本的に違って、経験こそが要だった。数十年が経っても副主任出世を成し遂げていない人は、少なくなかった。けど、この討論会の議題となった人物は、来て早々既にあの位置に登れた。物議を醸したことは、避けられようがなかった。討論会がいい感じに進んでいた最中、一見して経歴の浅い看護師の嬢ちゃんが「来た、来た」と喚きながら走ってきた。「スーパー美人なの」と彼女は言った。彼女がシェアした情報を聞いて、怪訝な顔つきをした全員は、この新しくやって来た副主任の正体を確かめようとして、脳外科のエリアの外に出た。院長先生のオフィスから出てきた奈央は、ヘンテコな注目を浴びながら、彼女専属の副主任役員室に入った。ドアを閉めて、座ってから、彼女は片時も休まずに、立て込んでいた。元々、彼女には泉ヶ原に留まる気なんてなかった。何しろ彼女はずっと海外にいたから、人望の面からしても、習慣の面からしても、海外へ行くのがベストだった。けど......どう言った経由かは知らなかったが、泉ヶ原市立病院は何と自分の連絡先を割り出して、電話までかけてきた。どうか居てくださいとお願いしてくれた。電話の中で、向こうは理性に訴えたり、情に訴えたりして、泉ヶ原での脳外科の
皐月の話し声が絶えてすぐ、奈央は既にオフィスを出て、救急外来へ向かった。瞬く間もしなかったうちに、二人は救急外来の入口のところについた。目の前にあったのは、救急外来の医療チームがとにかく大勢に囲まれていた光景だった。微かに聞こえてきたのは、誰かの泣き声だった。「先生、お願いします。どうか主人を助けてください。まだ四十五なんだ!このまま先立たれたら、私どうしようか」「奥さん、いったん落ち着いてください。今、ご主人は身体検査を受けています。容体について、診断結果が出るまでは、お教えることはございません」現場の様子を良い頃合いまで見守り、皐月はDr.霧島の手を取って人混みの中をすり抜けた。「どういてください。お医者様のご到着です」皐月の言葉を耳にして、家族の方たちは一斉に道を退けた。奈央もそのおかげで、無事救急外来に入った。「患者さんの容体は?」余計なことを挟まずに、奈央は単刀直入に聞いた。「車の事故による脳部出血です。出血量はまだ出ていませんが、かなり危険です」救急外来の当番の先生は奈央のことを知らなかったが、彼女の左胸ポケットにぶら下がっていた職員証に脳神経外科副主任が書いてあったから、何も聞かずに患者の容体について話してくれた。「頭部CTスキャンの結果が出ました」この看護師の一言と共に来たのは、検査結果の診断書だった。診断書を手に取り読んですぐ、救急外来の先生は顔を顰めた。「これは大変です。大量失血で、高頭蓋内圧による脳ヘルニアが見られます。一刻も早く手術をすべきです」その診断書に目を通した奈央は、救急外来の意見に頷いた。「早速オペの準備を!」「ですが......」救急外来の先生の顔には、不自然な気まずさがあって、「うちの病院では、このような手術は無理なんです」開頭手術なんて、誰でもできる芸当ではなかった。「この患者さんをもっと大きな病院に転送するべきです」例の救急外来の先生は奈央を納得させようとした。「既にできてしまった脳ヘルニアは、呼吸中枢を圧迫する。オペを受けないと、患者さんは三十分以内に死ぬ。それでももっと大きな病院に転送するって主張するのか」眉間に皺を寄せていた奈央は、改まった口調で問いかけた。「それは仕方ないことでしょう!?うちの病院には、そんな手術が
その場にいた全員の顔色が一変した。驚いたものもいれば、好奇心に誘われ詮索しようとしていたものもいた。けどその中で、多くのものは、信じ難い面持ちをしていた。Dr.霧島の名を知らなかったのはともかく、宇野椿を知らないはずがなかった。眼前にいたこのよくテレビに顔が出る男を免じて、その奥さんは最終的には納得した。こんな大物が保証人だったら、あの女医も相当腕の立つ医者なんだろうと信じようとした。患者さんがオペ室へ移動されていたのを目にして、奈央は椿のほうを見て、お礼の代わりに、軽く会釈して、救急外来の全てを後にしてオペ室に入った。男は何故突然ここに姿を表したか?それに何故自分の肩を持ってくれたのか?この二つのことが気になっていたのにもかかわらず、今はそんなことを聞くタイミングではなかったし、聞ける余裕もなかった。大事なのは患者さんの命だった。オペ室の扉の真上にあったランプが点灯したのを合図に、宇野椿を含めた一同が、扉の外側で待つことにした。三時間後。そのランプの明かりが消え、開けられた扉の向こうから、看護師一名が先に出てきた。家族の方々は、急いでに出て、患者さんの容体について訊ねた。「看護師さん、夫は無事なのか?手術は成功したか?」「手術は無事成功しました。患者さんの命には別条がございません」と答えた。看護師の答えとともに、安心した全員は安堵でホッとしたが、側にいた椿が唯一の例外だった。彼はこの結果が想定内だったかのように淡々としていた。オペ室から出てきた奈央は、その瞬間真っ先に彼のことを一目で見た。そんな彼も、誰よりも先に出てきた奈央に気付いて、大股で彼女の前にでた。「初めまして、Dr.霧島」「こちらこそ、宇野さん」三時間もしたオペをあがったばかりの彼女の声は疲れに染まり、いささか虚弱気味だった。悦子の容体の厳しさで頭いっぱいだった椿は、単刀直入に要点だけを話そうとしていたが、奈央の疲れた声を耳にした後、焦り切った自分の気持ちを抑えて、建前で打ち解けることにした。「Dr.霧島を食事に誘うつもりだが、お時間いただけないでしょうか」額に皺を寄せた奈央は思わず断った。「宇野さん、食事はいいの、要点だけ話してくれて構わないです」結婚していた二年間の間には、一緒に食卓を囲んだことが一度もなかったというのに、離
「宇野さん、『医師法典』について詳しくないのは無理もありません。豆知識を覚える感覚で聞いてください。この法典によりますと、医師免許を取得したものは、該当する医療範囲および医療機関内で医業を営むべきです。私の場合、泉ヶ原市立病院が該当する医療機関なんです。ですから…ご理解いただけますでしょうか」彼女が丁寧に説明するなんて柄にもなかったことをしたのも、患者さんを免じたからだった。「これって、霧島先生はプレイベート病院では、手術をしてはいけませんということですか」というのは彼の素朴な質問だった。「そういうことになります」患者一人の命を救うことで、自分の医学での生涯を絶つほど彼女はお人よしではなかった。椿は沈黙に囚われた。『医師法典』にそんな決まりがあったことを想定していなかったのは明らかだった。彼自身もこのことで迷っていた。「ほかにご用がございませんのなら、これで失礼させてもらいます。また忙しいので。宇野さんには、早いうちに決断をなさることをお勧めします」躊躇っていた椿の様子を目に収まって、奈央は彼が大切な関谷悦子をこの病院に預かりたがらないのを看破した。その理由は、泉ヶ原市立病院の設備や条件を信用できないのにほかならなかった。そんなことなら、彼女としてもノーコメントだった。奈央の姿もそのままキレイさっぱり椿の視界からフェードアウトした。助手の海斗が近つけてきたまで、椿は彼女の行った方向を見つめて、凝り固まっていた。「宇野様、悦子様の手術の件に、Dr.霧島は応じてくれましたか」ひたすら頭を振った男だけがその答えを知っていた。向こうの反応は応じたのも、断ったのも、どっちでもなく、そんなことになったのは自分が決められずにまごついていたからだった。椿の内心での葛藤を知らなかった海斗は、それをノーと認識して、少し驚いた。「名のあるお医者さんの一人ひとりが、気難しい変わったものだというのはただの戯言だと思っていましたが、本当みたいですね」自分ボスが他人の手を借りるのではなく、わざわざ自ら来ても無理だったとは、このDr.霧島はなかなかの人物のようだった。女心はこの世で、一番難しい謎だ。昨日のことを皮切りに、病院での職員の一同が奈央への態度はいささか柔らかくなってきた。彼女が執刀医だと分かっても、患者は昨日のように抵抗