Share

第5章 彼女の人生はまだまだこの先だ

「宇野さん、『医師法典』について詳しくないのは無理もありません。豆知識を覚える感覚で聞いてください。この法典によりますと、医師免許を取得したものは、該当する医療範囲および医療機関内で医業を営むべきです。私の場合、泉ヶ原市立病院が該当する医療機関なんです。ですから…ご理解いただけますでしょうか」

彼女が丁寧に説明するなんて柄にもなかったことをしたのも、患者さんを免じたからだった。

「これって、霧島先生はプレイベート病院では、手術をしてはいけませんということですか」

というのは彼の素朴な質問だった。

「そういうことになります」

患者一人の命を救うことで、自分の医学での生涯を絶つほど彼女はお人よしではなかった。

椿は沈黙に囚われた。『医師法典』にそんな決まりがあったことを想定していなかったのは明らかだった。彼自身もこのことで迷っていた。

「ほかにご用がございませんのなら、これで失礼させてもらいます。また忙しいので。宇野さんには、早いうちに決断をなさることをお勧めします」

躊躇っていた椿の様子を目に収まって、奈央は彼が大切な関谷悦子をこの病院に預かりたがらないのを看破した。その理由は、泉ヶ原市立病院の設備や条件を信用できないのにほかならなかった。

そんなことなら、彼女としてもノーコメントだった。

奈央の姿もそのままキレイさっぱり椿の視界からフェードアウトした。助手の海斗が近つけてきたまで、椿は彼女の行った方向を見つめて、凝り固まっていた。

「宇野様、悦子様の手術の件に、Dr.霧島は応じてくれましたか」

ひたすら頭を振った男だけがその答えを知っていた。向こうの反応は応じたのも、断ったのも、どっちでもなく、そんなことになったのは自分が決められずにまごついていたからだった。

椿の内心での葛藤を知らなかった海斗は、それをノーと認識して、少し驚いた。

「名のあるお医者さんの一人ひとりが、気難しい変わったものだというのはただの戯言だと思っていましたが、本当みたいですね」

自分ボスが他人の手を借りるのではなく、わざわざ自ら来ても無理だったとは、このDr.霧島はなかなかの人物のようだった。

女心はこの世で、一番難しい謎だ。

昨日のことを皮切りに、病院での職員の一同が奈央への態度はいささか柔らかくなってきた。彼女が執刀医だと分かっても、患者は昨日のように抵抗しなかった。この一日で、奈央は手術を三つ行った。彼女と組んでいた者たちは、流石に疲れていた。

けど、奈央は手術上がりとは言えないくらい、生き生きしていた。まるで疲れとは何かを知らなかったようだった…

「今日はまた他にオペの予定があるか」

彼女は後ろにいた皐月とスケジュールチェックした。

「ありません」

皐月は言いながら、頭を振った。泉ヶ原市立病院の脳外科はずっと浮いていたから、入院される患者さんの数も限られていた。

でも、この現状はきっとDr.霧島がきてくれたことで変わると、皐月は強く信じていた。

「Dr.霧島、この前の自分の軽率な判断や無理な言動にお詫びをしたくて。Dr.霧島は絶対、自分があってきた脳外科医の中で一番腕の高い医者なんです」

傍にいた先生の一人がそう言い出した。その両目を満ちたのは、奈央のことがエモいという感激だった。

「それはそうだろう。その中でも一番の頑張り屋さんです」

もう一人の先生は、苦笑してしまった。

奈央はただ微かににこりして、他の医者たちを見た。

「これでもうくたばったか。私の最高記録は、一日で手術六つだ。朝から晩まで、休まずにね」

自分の話し声が止んだのと共に、話を聞いてくれたみんなが、親指を出して、感心をあらわした。

脳外科手術が時間をかかるのは公認のことだった。それに加えて、脳部には神経が豊富なだけに、常に頭を冴えている状態に保たないといけなかったから、彼らは手術を一つしただけでもう倒れそうだった。六つなんて、想像もつかなかった。

「ふふ、どうだ?今になってやっとDr.霧島の偉さを痛感したか」

皐月はドヤ顔を見せた。さすが、彼女の憧れな女だけあってのファインプレイだった。

「へいへい、分かった」

「みなさん、今日はお疲れ様です。こんばんは食事会をしましょう。私の奢りで」

奈央が今日一緒に戦ってくれた先生たちに、食事への誘いをした。彼女がここにきてから、もう随分な時間が経ったし、そろそろチームブルディングをもかねて、食事会を開いてもよさそうな頃合いだった。

「奢らせてもらってはいけない。霧島先生の歓迎会をも兼ねて、主任が奢ってくれるって」

そうやって笑いさざめきながら、脳外科医のみんなが主任のオフィスへと出発した。

奈央たち一同の脳外科医の行列は、いきなり背丈の高い誰かに塞がられた。面をあげて、その張本人を特定した医者たちは全員びっくりしてしまった。

なぜならば、その誰かさんは他の誰でもならぬ宇野椿だったからだ。

この大物はどうしてまたきたか。

そうな疑問を抱いて、その場にいた他の医者は一斉に振り向いて、奈央を見ていた。Dr.霧島に手術のお願いがあるから来たのだと聞いた。こんな大物でも、自らDr.霧島を会いに来ていると思うと、彼らからの奈央への感服は更に濃くなった。

「お先にどうぞ、また今晩」

椿を見なかったかのように、彼女はみんなにそんな一言を言った。

その者たちも空気を読んで、迅速にその場を立ち去った。瞬く間に、椿と奈央は廊下で二人きりになった。

奈央は顔をあげて、手前に立っていた男の顔を見つめて、口をきいた。

「宇野さんがここに来たってことは、もうお決まりですよね」

椿は頭を縦に振った。

「悦子をこの病院に転院してもらいました。彼女は今脳外科の病棟にいます。お時間を取らせて、見に行ってあげてください。いついけそうでしょうか」

奈央は頷きながら、ダラダラせずに、もう転院してきたとは宇野椿だけあっての行動力だと感心した。

「早速いきましょう」

心の中で椿の迅速な行動力に頷いた後、奈央はそう答えた。ちょうど時間があいていたし、この機会で関谷悦子の様子を伺うのもプラスになるに違いなかった。いざ手術すると決まったら、準備するのに骨が折れそうな予感がした。

会話を交わした後、二人は一緒に脳外科の病棟へと歩き出した。病棟までの時間は沈黙で埋めた。奈央は一度も椿に声をかけたことはなかった。彼女の目に映っていたこの男は、まさに透明人間だった。

病室に入ると、奈央は初めて生身の関谷悦子を会った。その時の悦子は顔色が白紙の如き蒼白だった。風にでも吹かられたら、容易に飛ばされそうだったかのか弱さだった。容体が重篤だったからかもしれなかった。

物音がしたから、真っ先に顔をあげた悦子の目に焼き付けたのは、この尋常ではなく容姿の美しい女性だった。

「椿さん、この方は?」

「悦子の執刀医のDr.霧島だ」

男はあっさりと奈央のことを紹介した。

悦子は明らかに男のいうことで驚いた。あの有名な脳外科医がそこまで若かったとは予想していなかった。椿の素性でもを知らない限り、彼女はきっとこれを椿の悪ふざけだと勘違いしていたところだった。

「初めまして、Dr.霧島。手術に応じてくれて、ありがとうございます」

本人は奈央に向けて笑っていたつもりだったが、あまりのも病弱だったから、彼女の顔にはまるで血色がなくて、次の瞬間にでも倒れそうな状態だった。

奈央も彼女に向けて頷け返した。

「関谷さんのカルテは読んできました。ご安心ください。さほど心配すくことではありません」

「これは…本当ですか?!」

悦子は簡単に奈央のいうことを信じることはできなかった。なしにろ彼女はプライベート病院にもうすぐ死ぬだと告げられた死人だったからだ。

Related chapters

Latest chapter

DMCA.com Protection Status