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第6章 黙ってたまるもんか

「冗談を言うのは趣味ではありません」

彼女は口元を緩めた。相当な自信を持っていた様子だった。

これを神々の情けというべきか、関谷悦子はここで死ぬ運命ではなかったのかもしれなかった。もし彼女は椿と離婚していなかったら、悦子を救うところか、Dr.霧島も未だに引退状態になっていただろう。

これは恐らく人々のいう定めなのだろう。

悦子に適当な身体検査を行った後、彼女は椿と共に病室を出た。顔にあった笑顔をしめて、厳しい表情に変えたのはちょうどその時だった。

「もっと早く手術を受けさせるべきでした」

「分かっています」男は言いながら頷いた。「ですが、霧島先生の勤め先を聞き出したのはごく最近のことでして」

「我が国でこの手術のできる医者なら、私以外にもほかにいますが」

男が自分にこの手術をお願いした理由が理解できていなくて、彼女は彼の顔を見つめた。

「確かに、これは他の先生にもできた手術ですが......」

椿はしばらく無言になり、再び口を開いたと思ったら、その言葉は男の本音だった。

「ほんの少しでも、悦子を危険に晒すわけにはいきません」

国際的に有名な脳外科医ときたら、Dr.霧島のなを知らないものなどいなかった。国際的なトップクラスの脳外科医の弟子であった彼女を、今どきの脳外科医の世界で君臨している人物だと言っても過言ではなかった。

奈央を見つけるまでは、悦子を一切のリスクから遠ざけて、ずっと待ち続けることにしたのも、そのためだった。

彼の言葉の中に潜められていた愛情を読み取れた奈央の胸は何だか知らなかったが、妙に騒ついちゃって、なるほどそんなことかという結論に至った。

今の奈央の中での宇野椿はさぞ立派なもんで、愛おしい恋人のためだったら、心を砕いてまで全てを尽くした。

唯一疑問に思ったのは、その隠しガールフレンドのために万全策を考慮していた彼の頭には、せめて一度だけでも、あの顔すら合わせていなかった妻のことが浮かんだことがあったかどうかだった。

もっと正確には、元妻という言葉を使うべきだった。

彼女は心底から拗ねていた。椿のことを好きだったからではなく、ただ単純に自分が存在しなかったかのように無視されたことで苛ついていた。

奈央は子供の頃から気の強い娘だった。どんな事でも、必ずや一番を取る主義を実践してきた。変に悪戯されて、何も言わずに黙っていたことなんて一度もなかったが、椿とのこの結婚だけにおいて、彼女は今までに経験していなかった屈辱を覚えた。

椿が自分のことを好きではなかったのは、平然に受け入れられたが、会う価値のなかった人間だとみなされ、完全相手にされていなかったことが、気強い奈央にとって、何としても納得がいかなかった。

本来ならもう離婚していたわけなので、これからは何の関わりもない他人だった。なのに、椿のほうが尋ねてきたとは、しかも己の恋人を助けるためにやってきた。

彼女が平気でいられるわけがなかった。

でも、病人相手ときたら、黙視するのを忍びないというジレンマにあったので、彼女は実に不愉快だった。

「宇野さん、ここで安心するのは早かったです。関谷さんを助けることを約束しました以上、宇野さんには私の条件を呑んでもらわないと」

彼女は、椿にはそれなりの代償を多めに支払ってもらわないと、自分が必ず損をする覚悟で口を開いた。

「覚悟の上です」

椿が心配していたのは、奈央がなんの条件も出してくれないことだった。むしろ向こうから素直に条件について語ってくれたほうが好都合だった。

少し考えた後、奈央は男にこう言った。

「ちょうど今ラボを建てようと思っていますが、資金と設備に困ったいるところです」

「それならお安いご用です。全ては宇野グループが提供します」

男は何の躊躇もせずに応じてくれた。

「泉ヶ原市立病院では、最新なオペ設備が揃っていませんが」

彼女が更なる条件を追加した。

「これも宇野グループが責任を持って提供します」

このことだったけど、元々条件として奈央に要求されなくても、彼はそうするつもりだった。彼の行動の全ては、悦子を過度な危険にさらさないことが前提だった。

潔く条件を呑んでくれた男に視線を配った奈央の心の中には、言葉ではうまく表現できなかったけど、とりあえずイラッとした気持ちが湧きあがった。

「お優しいですね。宇野さんは関谷さんのためなら、何でもしますね」

「それはもし論です。悦子は俺の大切な人ですから」

男は何の迷いもなく頷いた。命の恩人が死ぬ直前に託した人だったから、大事に思わない訳がなかっただろう?

なるほど、そんなことだったか。この男は噂されたほど薄情ではなく、ただ自分に対しては薄情だったのだ。

奈央は自分のことが馬鹿馬鹿しいと思った。もう離婚していた訳だし、こんなことを気に病んでいても仕方なかった。この手術が終われば、もう二度と混じり合うこともなくなるだろう。

「そんなことでしたら、いっそのこと、我が病院に病棟は建ててくれればもっと助かりますが。いかがでしょうか、宇野さんよ」

泉ヶ原市立病院が設備や医療環境的に貧困していたのは、想像以上だった。今の病棟のキャパシティでは、提供できるベッドの数も限られていたし、入院できない患者さんもそれな入り大勢いた。椿に病棟を一つ建たせたのも、泉ヶ原での病人の福祉を考慮したことだった。

一方で、椿の顔色は、次から次へと要求してきた奈央の図太さで急に曇っていた。歯を食いしばって、ほんの少しだけ怒り気味で皮肉った。

「Dr.霧島こそ、泉ヶ原市立病院の将来について、色々と入念に考えていますね」

一番最初に要求してきた設備や資金で、少なくとも数十億はかかるだろう。今度、病棟を建てるだとは、数百億がいるのに違いなかった。

椿が機嫌を悪くしていたのは分かっていても、奈央は読めていなかったかのように続けた。

「宇野さん、嫌がっているように見えますが、これは別に強制的なわけではありませんが、ただ、関谷さんのことも......」

「そんなことありません」

男は歯がずぶされそうになるまで、強く食いしばって承諾した。このタチの悪い女は、自分が何の条件でも呑むと踏んだから満々とはめやがった。

確かに男の思った通りだった。奈央は彼が条件を受け入れられないことなんて初めから考えてもいなかった。愛おしい彼女の命がかかていたので、椿にとって例えどれだけの金を引き換えにしても、彼は何の迷いもしなかった。

「Dr.霧島、また他にも条件ががございましたら、一気にこの場で話してください」

丁寧な言葉使いのわりに、彼の顔色は一際暗くなって、身体中から噴き出したオーラは凄まじかった。これ以上に何にかを言ったら、ここでその命を断とうとでも言わんばかりの勢いだった。

奈央は過剰の中の無という言葉の意味をいつも心がけていた。それに、別に椿が何も出してくれなくとも、彼女は約束通り、関谷悦子を助けたのだから、今の流れには大いに満足していた。

「いいえ、もうこの辺にしておかないとな」

彼女は頭を振った。

「では、手術のほうは......」

「宇野さんからの設備が届く次第、オペをしますので」

彼女はそうと答えた。

「設備は明日早朝、時刻通りに届きます」

言ったそば、男は改まった顔つきで奈央の目を見た。

「それでは、悦子のことをよろしくお願いします。Dr.霧島」

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