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第7章 私、バツイチなんで

その夜、瑠璃亭で。

脳外科医のメンバーでここで食事会をすることになった。主役というのは、新参者の霧島奈央だ。

「さぁ、諸君、Dr.霧島がきてくれたことに乾杯!彼女が我が泉ヶ原市立病院脳外科を輝き未来へ導くことを祈ろう」

このことを発したのは脳外科の主任さんだったが、彼が主任になったのは別にオペでの腕が立つだからではなく、時間の重ねにキャリアを積んできたからだ。

最初は、奈央の新参者副主任デビューを面白く見ていなかったが、脳外科の前向きな発展は、主任である自分のメンツにも繋がっていることを考えると、彼は心機一転した。そのうえ、奈央は脳外科医の業界の中でも、名の知られていた有能者だった。

そう思うと、奈央を接した時に、やけに態度が柔らかかった。

「長谷川主任、そんなの買い被りすぎです」

奈央は酒グラスのかわりに、お茶の入れられていた湯呑みを手に取った。

「私はお酒が弱いので、お茶で勘弁してください」

そう言って、彼女は一口で、湯呑みのお茶を飲み干した。

他のメンバーたちは、奈央の豪快ぶりに拍手をし、全然お酒の代わりにお茶を飲んだことを気にしてもいなかった。奈央には、明日大変な手術が待っていることを知っていたから。

この食事会では和やかな雰囲気が続いていた。全員が気持ちよく満喫していて、奈央も例外なく、そのノリで楽しんでいた。

化粧室に行った奈央は、水で顔を洗って、眠気を覚ました。

「Dr.霧島」

出てきた瞬間に、名を呼ばわれた。

振り向いて見ると、視野に入ったのは、同じ脳外科医メンバーの畠山進だった。

「畠山先生、どうかしましたか」

「これから同僚だし、敬語なんて水臭いじゃん?畠山で呼んでもらって構わないから」

畠山は間抜けな笑い方をしていて、酒を飲んだせいだったかわからなかったが、彼の顔が薄く赤色に染られていた。

「ほー、そうさせもらうわ」

奈央は軽く頭を縦に振った。

向こうからの返事はいくらまでもきてなかったので、気まずく空気になってしまった。奈央は疑惑な表情で畠山を見て口を開いた。

「話す要件がないのなら、食事会へ戻りましょうか。みんな待たせているよ」

「いいえ、その......一つお聞きしたいことが」

咄嗟に返事してしまった彼は、おろおろとしていて、まさに狼狽そのものだった。

「というと?」

吊り眉をしていた奈央は、もう相手が何を言い出すか分かっていたかのような態勢だった。

「その......」

畠山は口籠もって、肝心なことを聞き出せたまで随分と時間を取らせた。

「彼氏さんっているのかなって」

バツが悪くなった畠山は、先生からの指摘を待っている小学生のように、緊張でこちこちになって、突っ立っていた。

「教えてくれないか」

奈央からの返事を催促した畠山のどきどきは、彼の顔に出ていた。

「彼氏はいないけど」

奈央はあっさりと笑ってしまって、頭を振りながら、畠山に言った。

「本当なの?よかった、僕......」

「私、バツイチなんで」

畠山がまだ話していた最中のにもかかわらず、奈央はそれを断ち切った。

「バ......バツイチ?」

畠山はそれを信じられなくて、自分が幻聴でもしていたかのようだった。

「そうだけど、何か問題でも?」

奈央は頷きながら、聞き返した。

「い......いいえ」

畠山は強く頭を振って、いささか失念したようだった。

相手は女性博士だったけど、まだまだ若いというメリットがあって、自分が動力すれば、可能性がどんに低くてもワンチャンありかもしれなかったというのは、畠山の本来の狙いだった。

けど......バツイチか?

ここはひとまず、もうちょっと考えてさせてもらうことにした畠山は、急にこの前に告白してきた看護師のことが可愛くなってきた。

畠山が挫けて逃げたことに、奈央はなんの意外もなく、むしろ思う壺になったことに気持ちが快調だった。

それについでにいいことが発見できた。それは自分からバツイチだと名乗ることで、面倒が省けることだった。

体をそらしてここを離れようとしたところに、反対側の男子トイレから、ある男が出てきた。

男と目があった瞬間に、奈央は思わず「私はまさか前世で宇野さんにとびきりの悪事でも働きましたか?どうしてどこに行っても出くわすわけ?宇野さん、ひょっとして私のストーカーなのでは?」と三連問するところだった。

「Dr.霧島は特別な断り方をなさりますね」

男はニコニコしながら、皮肉を言った。

奈央は彼に向けて白い目をぶつけ、それも全部あんたのお陰じゃないかと腹非しながら、椿のことをシカトしてそこを通った。医者の白衣を脱いたら、彼女も普通な人間にすぎなかった。普通な人間だったら、椿を構わない権利は彼女にだってあった。

「お酒を飲んだのか。霧島先生?」

椿は額に皺を顰めて、一握で彼女の手首を掴んだ。彼の顔に被っていたのは、不機嫌な顔色だった。

男の手を振り払った奈央の顔にも、怒りが登ってきた。

「余計なお世話です。宇野さん。私がお酒を飲んでいたかどうかは、宇野さんに報告する必要がないと思いますが」

両目を大きくして男を睨んでいた彼女は、いかにも本気で彼に怒らせたようで、頬を赤色に染められた。

怒りで薄赤くなった頬はさらに、彼女の肌の白さを引き立てた。きらめきに満ちたその瞳は、鏡のように澄んでいた。その高くて素敵な鼻の真っ下で、少し尖らせられていた小さくつぼめた口は、一見して巧妙な弁舌の持ち主だった。

ほんの一瞬だったが、椿は見惚れていた。

そういえば、マスクをしていなかい奈央を見たのは、今回が初めてだった。

この前は、マスクをしていても、奈央が美人なのを椿がちゃんと分かっていたが、マスクを外していた彼女は、胸を踊らせるほどの美しい美貌だったとは、思ってもいなかった。

「俺はただ悦子の命を酔っ払いに預かりたくないだけです」

気を取り戻した椿は、暗い顔で声を低くした。

奈央は深く息をして、幼い頃から重ねてきた躾で、人に向けて暴言を吐いてはいけないと何度も自分に言い聞かせた。

奈央は自分の中の怒りを押し殺して、なるべく冷静な口調で言った。

「心配などしなくても、私は酒など飲んでいませんよ、宇野さん。明日のオペへはなんの影響も与えませんから」

彼女の体からお酒の匂いがしたのは、服に染み付いたからだけで、彼女自身にはお酒を飲むという趣味はなかった。

彼女の言い分には半信半疑だったけど、椿の機嫌は明らかによくなってきていた。

「それなら、大変結構です。何にしろ人の命がかかっていますから。Dr.霧島は要領のいい医者だと信じています」

「話したいことはそれだけですか」

一分だけでもこの男とここに長くいたら生き地獄だと思い、彼女は問い文句でこの会話を終わらせようとした。

「俺のことがお嫌いですか」

咄嗟にそれを切り出した男は、彼女の顔から不快と一瞬にして消えた嫌悪を捕獲した。

奈央は男の質問でびっくりした。自分はうまく隠していたつもりだったけど?

気まずさを隠そうとして、奈央は空咳をして、これ以上椿への嫌悪を漏らさないように励んだ。

「宇野さんの思い過ごしです。宇野さんとは知り合ったばかりで、嫌いだなんてご冗談です」

椿も一理あると思っていて、自分と奈央はこの前までは顔見知りですらなかったし、彼女には自分を嫌う理由なんてなかったはず。

彼はこのことを自分の気のせいだとして、気に留めていなかった。

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