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第4章 じゃ、どんな条件なら飲んでくれます?

その場にいた全員の顔色が一変した。驚いたものもいれば、好奇心に誘われ詮索しようとしていたものもいた。けどその中で、多くのものは、信じ難い面持ちをしていた。

Dr.霧島の名を知らなかったのはともかく、宇野椿を知らないはずがなかった。

眼前にいたこのよくテレビに顔が出る男を免じて、その奥さんは最終的には納得した。こんな大物が保証人だったら、あの女医も相当腕の立つ医者なんだろうと信じようとした。

患者さんがオペ室へ移動されていたのを目にして、奈央は椿のほうを見て、お礼の代わりに、軽く会釈して、救急外来の全てを後にしてオペ室に入った。

男は何故突然ここに姿を表したか?それに何故自分の肩を持ってくれたのか?この二つのことが気になっていたのにもかかわらず、今はそんなことを聞くタイミングではなかったし、聞ける余裕もなかった。大事なのは患者さんの命だった。

オペ室の扉の真上にあったランプが点灯したのを合図に、宇野椿を含めた一同が、扉の外側で待つことにした。

三時間後。

そのランプの明かりが消え、開けられた扉の向こうから、看護師一名が先に出てきた。家族の方々は、急いでに出て、患者さんの容体について訊ねた。

「看護師さん、夫は無事なのか?手術は成功したか?」

「手術は無事成功しました。患者さんの命には別条がございません」と答えた。

看護師の答えとともに、安心した全員は安堵でホッとしたが、側にいた椿が唯一の例外だった。彼はこの結果が想定内だったかのように淡々としていた。

オペ室から出てきた奈央は、その瞬間真っ先に彼のことを一目で見た。そんな彼も、誰よりも先に出てきた奈央に気付いて、大股で彼女の前にでた。

「初めまして、Dr.霧島」

「こちらこそ、宇野さん」

三時間もしたオペをあがったばかりの彼女の声は疲れに染まり、いささか虚弱気味だった。

悦子の容体の厳しさで頭いっぱいだった椿は、単刀直入に要点だけを話そうとしていたが、奈央の疲れた声を耳にした後、焦り切った自分の気持ちを抑えて、建前で打ち解けることにした。

「Dr.霧島を食事に誘うつもりだが、お時間いただけないでしょうか」

額に皺を寄せた奈央は思わず断った。

「宇野さん、食事はいいの、要点だけ話してくれて構わないです」

結婚していた二年間の間には、一緒に食卓を囲んだことが一度もなかったというのに、離婚してさっそく食事への誘いだったとは?何の茶番?笑ってしまいそうだった。

椿が自分のことを知らなかったし、ましてや彼の目の前にいたDr.霧島であった自分が、昨日離婚した元妻だったなんて当然把握できるはずがなかったのは理解していた、けど、奈央はやはりもう二度とこの男と関わりたくないくらい、気分が悪かった。

「じゃ、そうさせていただく」

椿も堅苦しい人間ではなかったから、ズバリ切り出した。

「手術のお願いがしたくてきました」

「こちらがカルテです」

男があらかじめ用意しておいた資料を渡せきた。

それを受け取った奈央は、読み始めた。カルテを開けた瞬間に、その笑顔で満ちた写真が彼女の目に焼き付けた。写真に映った人物は小顔で、目が大きかった。

椿がこの二年間の間に、一度も自分を会いにきてくれなかった原因というのは、この女の子だったかな?

随分と愛情深い彼氏さんだったこと。

けど、これは彼女とは関係のないことだった。もう離婚したので、誰を好きになったのも、彼の勝手だった。

真剣顔でこの関谷悦子という女性のカルテを読んでいた奈央の顔色は、ページをめくったたびに、どんどん深刻になっていった。彼女も次第に椿が自分のところまで尋ねてきた理由を理解できた。

気が遠くなるくらい、長い時間が経って、彼女はカルテを椿に返した。

「彼女の容体はズバリ言って重篤です。宇野さんも分かっているはずです」

「そのつもりで来ました」

頷いた男の顔に浮かんでいたのは、滅多になかった暗い表情だった。

「この前は、すでに一度手術を受けたが、まさかのことに再発しました。もうダメだってどの医者もが」

しかし、彼は諦めたくなかったようだった。ここで諦めたら、身を挺して死んでまでして己の命を繋いでくれた関谷剛志が報われないからだった。

脳腫瘍は…

ただでさえ手術するのが難しいのに、関谷悦子の場合は再発したことで、さらに状況が複雑になった。二回目の手術は一回目を上回って、さらに厳しい挑戦だった。

彼女の躊躇いを読んだかのよに、椿は慌てて何かを言い出した。

「どんな要求があっても、遠慮せずに言って構いません。できる限りのことは、何でも応じますから」

さすがの奈央もこの言葉で、動じて男のほうをちらっと見た。世間の噂では冷血で薄情ものだった宇野様が、愛する人のために全てを献げるとは案外だった。

「関谷はどちらに?話は患者さんを見てからです」

そう聞き返した奈央の内心では、これ以上椿と深く関わるつもりはなかったが、医者であった以上、死にかけになっている患者を見捨てるのも彼女の流儀ではなかった。

たとえこの患者が椿の秘密な恋人でさえも同じだった。

「宇野グループ系列のプライベート病院で入院しています。今で悦子を会いに連れて行けますが」

彼女に質問に素直に答えた男は、奈央があっさりと応じてくれたことに驚きを覚えた。てっきり向こうは隙を狙って、ぼったくりするに違いないに思っていた。

でも奈央は彼の答えで、八の字を寄せた。

「泉ヶ原市立病院ではなく?」

「そうです。プライベート病院のほうが色々優れていますし、霧島先生にとってもあっちのほうで、手術の成功確率が上がると思いますが」

プライベート病院での最先端の設備や優れていた条件を置き去りにして、悦子をこんなボロ病院に入院させるなど馬鹿な真似を彼は自ずとするはずがなかった。

なのに、自分のその話に奈央は頷くところか、ひたすら頭を振って、謝意を込めた口調で断ってしまった。

「そうでしたら、宇野さんには悪いですが、関谷さんの手術を執刀することはできません」

「どうしてですか」

先はもう話を飲んでくれたのに、突然断られて、椿はピンと来なくなった。

仕様がなくて、苦笑をもらした奈央は、これから説明しようとしたところを、目の前に椿からの小切手を一枚突き出されたの共に、男の声は耳に入り込んだ。

「金のことなら心配はありません」

人なら誰しも小切手の金額で狂い出したはずだった。それでも、奈央は再び彼の予想外の行動をとって、淡々と笑いながら口を開いた。

「確かに凄まじ金額ですが、お金で解決できないことでも、この世にはありません」

「じゃ、どんな条件なら飲んでくれます?」

自分が出した条件では、話は進まらないと思い込んでしまった椿は、極力で己の怒りを抑えて聞いた。

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