皐月の話し声が絶えてすぐ、奈央は既にオフィスを出て、救急外来へ向かった。瞬く間もしなかったうちに、二人は救急外来の入口のところについた。目の前にあったのは、救急外来の医療チームがとにかく大勢に囲まれていた光景だった。微かに聞こえてきたのは、誰かの泣き声だった。「先生、お願いします。どうか主人を助けてください。まだ四十五なんだ!このまま先立たれたら、私どうしようか」「奥さん、いったん落ち着いてください。今、ご主人は身体検査を受けています。容体について、診断結果が出るまでは、お教えることはございません」現場の様子を良い頃合いまで見守り、皐月はDr.霧島の手を取って人混みの中をすり抜けた。「どういてください。お医者様のご到着です」皐月の言葉を耳にして、家族の方たちは一斉に道を退けた。奈央もそのおかげで、無事救急外来に入った。「患者さんの容体は?」余計なことを挟まずに、奈央は単刀直入に聞いた。「車の事故による脳部出血です。出血量はまだ出ていませんが、かなり危険です」救急外来の当番の先生は奈央のことを知らなかったが、彼女の左胸ポケットにぶら下がっていた職員証に脳神経外科副主任が書いてあったから、何も聞かずに患者の容体について話してくれた。「頭部CTスキャンの結果が出ました」この看護師の一言と共に来たのは、検査結果の診断書だった。診断書を手に取り読んですぐ、救急外来の先生は顔を顰めた。「これは大変です。大量失血で、高頭蓋内圧による脳ヘルニアが見られます。一刻も早く手術をすべきです」その診断書に目を通した奈央は、救急外来の意見に頷いた。「早速オペの準備を!」「ですが......」救急外来の先生の顔には、不自然な気まずさがあって、「うちの病院では、このような手術は無理なんです」開頭手術なんて、誰でもできる芸当ではなかった。「この患者さんをもっと大きな病院に転送するべきです」例の救急外来の先生は奈央を納得させようとした。「既にできてしまった脳ヘルニアは、呼吸中枢を圧迫する。オペを受けないと、患者さんは三十分以内に死ぬ。それでももっと大きな病院に転送するって主張するのか」眉間に皺を寄せていた奈央は、改まった口調で問いかけた。「それは仕方ないことでしょう!?うちの病院には、そんな手術が
その場にいた全員の顔色が一変した。驚いたものもいれば、好奇心に誘われ詮索しようとしていたものもいた。けどその中で、多くのものは、信じ難い面持ちをしていた。Dr.霧島の名を知らなかったのはともかく、宇野椿を知らないはずがなかった。眼前にいたこのよくテレビに顔が出る男を免じて、その奥さんは最終的には納得した。こんな大物が保証人だったら、あの女医も相当腕の立つ医者なんだろうと信じようとした。患者さんがオペ室へ移動されていたのを目にして、奈央は椿のほうを見て、お礼の代わりに、軽く会釈して、救急外来の全てを後にしてオペ室に入った。男は何故突然ここに姿を表したか?それに何故自分の肩を持ってくれたのか?この二つのことが気になっていたのにもかかわらず、今はそんなことを聞くタイミングではなかったし、聞ける余裕もなかった。大事なのは患者さんの命だった。オペ室の扉の真上にあったランプが点灯したのを合図に、宇野椿を含めた一同が、扉の外側で待つことにした。三時間後。そのランプの明かりが消え、開けられた扉の向こうから、看護師一名が先に出てきた。家族の方々は、急いでに出て、患者さんの容体について訊ねた。「看護師さん、夫は無事なのか?手術は成功したか?」「手術は無事成功しました。患者さんの命には別条がございません」と答えた。看護師の答えとともに、安心した全員は安堵でホッとしたが、側にいた椿が唯一の例外だった。彼はこの結果が想定内だったかのように淡々としていた。オペ室から出てきた奈央は、その瞬間真っ先に彼のことを一目で見た。そんな彼も、誰よりも先に出てきた奈央に気付いて、大股で彼女の前にでた。「初めまして、Dr.霧島」「こちらこそ、宇野さん」三時間もしたオペをあがったばかりの彼女の声は疲れに染まり、いささか虚弱気味だった。悦子の容体の厳しさで頭いっぱいだった椿は、単刀直入に要点だけを話そうとしていたが、奈央の疲れた声を耳にした後、焦り切った自分の気持ちを抑えて、建前で打ち解けることにした。「Dr.霧島を食事に誘うつもりだが、お時間いただけないでしょうか」額に皺を寄せた奈央は思わず断った。「宇野さん、食事はいいの、要点だけ話してくれて構わないです」結婚していた二年間の間には、一緒に食卓を囲んだことが一度もなかったというのに、離
「宇野さん、『医師法典』について詳しくないのは無理もありません。豆知識を覚える感覚で聞いてください。この法典によりますと、医師免許を取得したものは、該当する医療範囲および医療機関内で医業を営むべきです。私の場合、泉ヶ原市立病院が該当する医療機関なんです。ですから…ご理解いただけますでしょうか」彼女が丁寧に説明するなんて柄にもなかったことをしたのも、患者さんを免じたからだった。「これって、霧島先生はプレイベート病院では、手術をしてはいけませんということですか」というのは彼の素朴な質問だった。「そういうことになります」患者一人の命を救うことで、自分の医学での生涯を絶つほど彼女はお人よしではなかった。椿は沈黙に囚われた。『医師法典』にそんな決まりがあったことを想定していなかったのは明らかだった。彼自身もこのことで迷っていた。「ほかにご用がございませんのなら、これで失礼させてもらいます。また忙しいので。宇野さんには、早いうちに決断をなさることをお勧めします」躊躇っていた椿の様子を目に収まって、奈央は彼が大切な関谷悦子をこの病院に預かりたがらないのを看破した。その理由は、泉ヶ原市立病院の設備や条件を信用できないのにほかならなかった。そんなことなら、彼女としてもノーコメントだった。奈央の姿もそのままキレイさっぱり椿の視界からフェードアウトした。助手の海斗が近つけてきたまで、椿は彼女の行った方向を見つめて、凝り固まっていた。「宇野様、悦子様の手術の件に、Dr.霧島は応じてくれましたか」ひたすら頭を振った男だけがその答えを知っていた。向こうの反応は応じたのも、断ったのも、どっちでもなく、そんなことになったのは自分が決められずにまごついていたからだった。椿の内心での葛藤を知らなかった海斗は、それをノーと認識して、少し驚いた。「名のあるお医者さんの一人ひとりが、気難しい変わったものだというのはただの戯言だと思っていましたが、本当みたいですね」自分ボスが他人の手を借りるのではなく、わざわざ自ら来ても無理だったとは、このDr.霧島はなかなかの人物のようだった。女心はこの世で、一番難しい謎だ。昨日のことを皮切りに、病院での職員の一同が奈央への態度はいささか柔らかくなってきた。彼女が執刀医だと分かっても、患者は昨日のように抵抗
「冗談を言うのは趣味ではありません」彼女は口元を緩めた。相当な自信を持っていた様子だった。これを神々の情けというべきか、関谷悦子はここで死ぬ運命ではなかったのかもしれなかった。もし彼女は椿と離婚していなかったら、悦子を救うところか、Dr.霧島も未だに引退状態になっていただろう。これは恐らく人々のいう定めなのだろう。悦子に適当な身体検査を行った後、彼女は椿と共に病室を出た。顔にあった笑顔をしめて、厳しい表情に変えたのはちょうどその時だった。「もっと早く手術を受けさせるべきでした」「分かっています」男は言いながら頷いた。「ですが、霧島先生の勤め先を聞き出したのはごく最近のことでして」「我が国でこの手術のできる医者なら、私以外にもほかにいますが」男が自分にこの手術をお願いした理由が理解できていなくて、彼女は彼の顔を見つめた。「確かに、これは他の先生にもできた手術ですが......」椿はしばらく無言になり、再び口を開いたと思ったら、その言葉は男の本音だった。「ほんの少しでも、悦子を危険に晒すわけにはいきません」国際的に有名な脳外科医ときたら、Dr.霧島のなを知らないものなどいなかった。国際的なトップクラスの脳外科医の弟子であった彼女を、今どきの脳外科医の世界で君臨している人物だと言っても過言ではなかった。奈央を見つけるまでは、悦子を一切のリスクから遠ざけて、ずっと待ち続けることにしたのも、そのためだった。彼の言葉の中に潜められていた愛情を読み取れた奈央の胸は何だか知らなかったが、妙に騒ついちゃって、なるほどそんなことかという結論に至った。今の奈央の中での宇野椿はさぞ立派なもんで、愛おしい恋人のためだったら、心を砕いてまで全てを尽くした。唯一疑問に思ったのは、その隠しガールフレンドのために万全策を考慮していた彼の頭には、せめて一度だけでも、あの顔すら合わせていなかった妻のことが浮かんだことがあったかどうかだった。もっと正確には、元妻という言葉を使うべきだった。彼女は心底から拗ねていた。椿のことを好きだったからではなく、ただ単純に自分が存在しなかったかのように無視されたことで苛ついていた。奈央は子供の頃から気の強い娘だった。どんな事でも、必ずや一番を取る主義を実践してきた。変に悪戯されて、何も言わずに黙
その夜、瑠璃亭で。脳外科医のメンバーでここで食事会をすることになった。主役というのは、新参者の霧島奈央だ。「さぁ、諸君、Dr.霧島がきてくれたことに乾杯!彼女が我が泉ヶ原市立病院脳外科を輝き未来へ導くことを祈ろう」このことを発したのは脳外科の主任さんだったが、彼が主任になったのは別にオペでの腕が立つだからではなく、時間の重ねにキャリアを積んできたからだ。最初は、奈央の新参者副主任デビューを面白く見ていなかったが、脳外科の前向きな発展は、主任である自分のメンツにも繋がっていることを考えると、彼は心機一転した。そのうえ、奈央は脳外科医の業界の中でも、名の知られていた有能者だった。そう思うと、奈央を接した時に、やけに態度が柔らかかった。「長谷川主任、そんなの買い被りすぎです」奈央は酒グラスのかわりに、お茶の入れられていた湯呑みを手に取った。「私はお酒が弱いので、お茶で勘弁してください」そう言って、彼女は一口で、湯呑みのお茶を飲み干した。他のメンバーたちは、奈央の豪快ぶりに拍手をし、全然お酒の代わりにお茶を飲んだことを気にしてもいなかった。奈央には、明日大変な手術が待っていることを知っていたから。この食事会では和やかな雰囲気が続いていた。全員が気持ちよく満喫していて、奈央も例外なく、そのノリで楽しんでいた。化粧室に行った奈央は、水で顔を洗って、眠気を覚ました。「Dr.霧島」出てきた瞬間に、名を呼ばわれた。振り向いて見ると、視野に入ったのは、同じ脳外科医メンバーの畠山進だった。「畠山先生、どうかしましたか」「これから同僚だし、敬語なんて水臭いじゃん?畠山で呼んでもらって構わないから」畠山は間抜けな笑い方をしていて、酒を飲んだせいだったかわからなかったが、彼の顔が薄く赤色に染られていた。「ほー、そうさせもらうわ」奈央は軽く頭を縦に振った。向こうからの返事はいくらまでもきてなかったので、気まずく空気になってしまった。奈央は疑惑な表情で畠山を見て口を開いた。「話す要件がないのなら、食事会へ戻りましょうか。みんな待たせているよ」「いいえ、その......一つお聞きしたいことが」咄嗟に返事してしまった彼は、おろおろとしていて、まさに狼狽そのものだった。「というと?」吊り眉をしていた奈
翌日、椿の寄付した設備は朝一に病院に届いた。院長先生が自ら椿を出迎えたことは、病院側がどれだけこれらの設備を重視していたのを語った。奈央にはそんなことに構っていられた時間がまるでなかった。彼女は関谷悦子の最新の検査結果を何度も読み直しながら、他の診療科の先生たちとオペ中に発生しかねない緊急事態について話し合っていた。二時間後、設備の設置が無事に終わったの次に、奈央はチームを率いてオペ室へ向かった。椿は既にオペ室の前に待っていた。奈央が来たのに気付いて、彼は即座に立ち上げて彼女の前に出た。「自信はもちろんありますよね?」マスクをきちんとしている奈央は、目線を上にあげて彼を一瞥した。「もしありませんと答えたら、宇野さんは関谷さんを連れ戻すつもりでしょうか」固まってしまった椿は、反論することすらできなかった。この期に及んで、相手に自信があるかどうかに関係なく、悦子にはもう手術を受けるしか選択する余地がなかった。もうはや、止むに止まれぬ情勢に迫られた状況だった。「ご安心ください、宇野さん。できる範囲内のことは尽くしますので」彼女はなんとしても、関谷悦子を死なせないつもりで言った。特に、手術台で死なせることを自分に許していなかった。チーム一同がオペ室に入った。オペ中だと示してくれるランプが点灯したのと共に、肩を凝らせるような空気があの場でみなぎってきた。時間がチックタックと少しつづ過ぎていき、もう六時間が立っていても、オペ中のランプは依然と光を放っていた。「宇野様、少し休憩しましょうか。僕が代わりにここに待っていますから」丸一日水すら一滴も飲んでいなかった男を心配していた海斗が休憩を取ることを勧めた。頭を振って海斗の勧めを却下した男の口調は流石に重かった。「中で手術をしている先生たちが休憩を取ろうともしないのに、俺が休んでどうする?」椿はこの手術がなんとここまで長引いてしまうなんて想定していなかったから、少し心配になった。同時に、あの痩せていて、小柄の女が長時間の手術を耐えられたことに感心していた。「手術が終わったら、全員がいちはやく食事を取れるよう、出前をとっておいてくれ」彼は急に口を開いて、側にいた海斗に言った。海斗は驚いて、少々固まっていた。患者の家族が医者たちに出前の形で、料理を注文するな
海斗はその質問で、猫水になった。返答したのは暫く考えてからだった。「それは.....多分ないかと、Dr.霧島はただ単純に宇野様に会いたくないのかも......」話の続きはまだまだだけど、海斗はぞっとしてきた。なんとなく室温が下がったような気がしたが......再び顔をあげようと思えば、自分のボスが暗い顔で自分のことを見ていた。自分が言葉を間違えたことを察した海斗は、大いに驚いてどうしようかわからなくなって......「そんなの断じてありません!」海斗はいかにもそういうことだという顔で嘯いた。「宇野様はイケメンで魅力的ですし、宇野様が嫌いな女性などいません。Dr.霧島のこれは、焦らし作戦に違いありません」嘯いたと言っても、海斗の話には偽りはなかった。何しろ泉ヶ原では、椿が全ての女性の理想中の彼氏だというのは事実だった。奈央のところでの仕打ちは初めてだったので、椿が相手がわざと特別な方法で、自分の気を引こうとしていたと誤解したのも、無理がなかった。焦らし作戦......そうなのか?*一週間後、関谷悦子は無事ICUを卒業して、一般病室に戻った。奈央が他の医者たちと回診に来た時、彼女は座ったままスマホを弄っていた。前にくれべたら、顔色はかなり良くなってきた。「今日の体調はどうですか。不調はありませんか」奈央はいつも通りの決めセリフを言った。奈央が来たことで気が晴れたのようで、彼女は笑いながら頭を振った。「ううん、全然大丈夫です」その答えに奈央を何の以外もなく、頷いた。「それならよかったです。もう暫くして退院できそうです。後は、家でゆっくりと休めばいいのです」話を終えて、これから出ようとしたところに、悦子は彼女を呼んで引き止めた。「Dr.霧島、少し時間をいただいても大丈夫そうですか」奈央は眉を顰めて、聞き返した。「何かご用?」「大したことはありませんが、ちょっとDr.霧島と話したいだけです」口振りをやんわりとしていた彼女のその仕草には、人を可愛がる気持ちにさせる威力があった。当然、奈央はものはずれだった。奈央にとって、関谷悦子も他の患者と同じ病人であったことは変わらなかった。「すみません。急いでいますので」奈央は遠い回しせずに断った。「少しだけで大丈夫ですから」彼女
椿は奈央の口元にあったその皮肉な笑みな意味が分からなかったが、真面目に彼女に言い聞かせた。「俺とあの人は確かに住む世界の違う人間だった、離婚したのもお互いのためです」住む世界の違う人間だったと?二年間の結婚生活に、一度もあったことがなかったのに、何が住む世界の違う人間だ?と奈央は心の中で冷笑した。そもそもはなから、元妻であった彼女と仲良くしようと思っていなかっただろう。無理もない話だった。椿の中では、田舎者だった元妻の自分は、到底上に立つ天の寵児の彼とは相応しくなかっただろう。目の前にいた二人をちらりと見て、奈央はにやついた。「宇野さんの元妻さんが気の毒です」そう言ったそば、奈央は振り向かずに病室をでた。一秒でも長くこの二人と一緒にいたくなかった。なんてお似合いの二人だった。病室を出てすぐ、誰かが追ってきた。奈央は背丈の高い男に前路を塞がれた。「霧島先生、怒っていますの?俺が結婚していましたことに?」「とんでもない思い過ごしです、宇野さん」奈央は本気で呆れた。「宇野さんが結婚したことがあるかないかは、私とはどんな繋がりがあるというのです?私より、病室の彼女のほうがよっぽど気に病んでいるのでは?」「どうしてここに悦子が出てきましたのよ?悦子とは関係ありません」頭が混乱してしまった椿は、奈央の話の行間を読むことに失敗した。けど、奈央の解釈していた男の言葉の意味は、男は自分が関谷悦子をこの話に巻き込んだことに怒っていたことになった。またそのため、奈央は口を尖らせて、反撃した。「はいはい、おっしゃる通りです。関係のなかった関谷さんを巻き込んで、申し訳ございませんでした」なんて恋人思いだったこと、一言の言い分も許せなかったとは。「話をそらさないで。なんで怒ったのか教えてください」奈央に理由を問い詰めた男は、じっと彼女を見つめていた。まるでこんなことをすれば、彼女のことを見抜けるかのようだった。けど残念だったことに、奈央はいつも自分の感情をうまく隠してきた。「怒ってなどいません。」奈央は自分の怒りを否定して、再び続けた。「ただ、離婚されてもまだ陰で悪口を言われる元妻さんのことが虚しくて、ちょっと物悲しくなりました」というのは建前で、実際のところ彼女は怒っていた。誰であろうと、後ろ