休憩室で綿は少し驚いた。彼が本当に監視カメラを見たなんて――それは、彼女の予想外だった。けれど、今の彼女にとって、それはもうどうでもいいことだった。「終わったよ」淡々と言いながら、彼女はバンドエイドを貼り、医薬箱を閉じた。輝明は眉をひそめる。彼女の無関心な態度に、苛立ちを覚えた。「綿、監視カメラを見たって言ったんだぞ」彼はもう一度、強調するように言った。綿はふと目を上げ、微笑む。「聞こえたわ」――それだけ? 輝明の眉間にしわが寄る。彼女は謝罪や他の何かを期待していないのか?綿は彼の困惑を見抜いたように、立ち上がると医薬箱を元の場所に戻しながら淡々と言った。「昔はあなたを愛していて、あなたの言葉ひとつひとつに傷ついていたわ。でも今は……」彼女は扇子を広げ、優雅にほほ笑んだ。「もうどうでもいいの」――どうでもいい。その言葉が、鋭い刃のように彼の胸を貫いた。輝明は唇を舐め、黒い瞳に微かな光を宿しながら微笑む。「もう、俺を愛していないのか?」「高杉さん、本当に賢いわね」綿はキャビネットにもたれかかりながら、余裕の笑みを浮かべた。その笑顔は美しく、どこか残酷だった。彼を愛することで、自分はすでに半分命を削られていた。それでも、彼はまだ自分に愛を求めるのか?階段から落ちていく自分を、彼がただ静かに見ていたあの瞬間。それすらも、彼を諦める理由にはならないというのだろうか?もしそれでも彼に執着し続けるなら――それこそ愚か者だ。輝明の黒い瞳が一瞬だけ揺れる。そして、ゆっくりと歩み寄った。綿はその動きを静かに見つめる。――何をしても、もう私は揺るがない。彼は彼女の目の前で立ち止まり、長い腕をキャビネットの両側に置いた。「お前は、本当に心変わりが早いな」近くで囁く低い声。しかし、綿は余裕の笑みを浮かべたままだった。「高杉さん、私があなたを七年も愛して、やっと心変わりしたのよ。早いとは言えないでしょう?」彼の目が細められ、無言のまま彼女を見つめる。そして、ふと唇を舐め、喉を鳴らした。「……愛したことを、後悔しているのか?」綿は彼の眉間を見つめた。迷いも、揺らぎもなく――「ええ、後悔しているわ」.輝明の瞳孔が一瞬だけ縮まった。心臓が、痛む。「
レストランを出た瞬間、携帯の向こうで森下の声が響いた。「高杉社長、少しお話が……」「話せ」「先ほど、陸川嬌様が社長の行動予定を尋ねられたので、沁香園にいらっしゃることをお伝えしました。彼女が――」森下の言葉が終わる前に、輝明はレストランの入り口に立つ嬌の姿を見つけた。電話を切る。小柄な体、どこか儚げな佇まい。こんなに華奢な彼女が、どうやって誘拐犯と戦ったのか――想像もつかなかった。そのとき、不意に秋年の言葉が脳裏をよぎる。――陸川嬌と桜井綿、どっちを選ぶんだ?彼は嬌を選ぶと決めた。彼女は素晴らしい女性だ。これ以上、彼女に負担をかけるわけにはいかない。静かに歩み寄る。「嬌ちゃん」嬌は振り向き、すぐに微笑んだ。「明くん」その笑顔は、まるで彼がここに来ることを信じて疑わなかったような、そんな純粋さがあった。輝明は優しく目を細める。「病院で休んでいるべきじゃないのか?こんなところで何をしている?」「明くん……」嬌は彼の袖をそっと掴む。「別荘の件、本当にごめんなさい。一日中気が休まらなくて……」俯きながら、小さな声で続ける。「会社や家にも行ったけど見つからなくて……だから、森下さんに行き先を聞いたの」「明くん……怒らないでね」「あたし、自分の間違いに気づいたの」彼の腕を引く手が、少しだけ震えている。――彼が本当に、自分を選ぶのかどうか、確かめたかったのだろう。「怒っていないよ」そう言いながら、彼は彼女の頬を軽くつまみ、手を握った。「本当?」嬌は不安そうに彼を見上げる。輝明の本心がどこにあるのか、彼女にはわからなかった。彼の優しい視線は、本当に彼女に向けられたものなのか――それともただの演技なのか。いつも、その境界が曖昧だった。「嬌ちゃん、俺を信じてくれ。いいな?」輝明は彼女を見つめ、静かに微笑んだ。嬌は、小さく頷いた。そのとき――嬌がふと後ろを振り返る。ちょうど、綿が店の中から出てきたところだった。「綿ちゃん!」嬌の声が明るく響く。綿は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。嬌は一歩前に出て、柔らかく微笑んだ。「今日は、別荘のこと……本当にごめんなさい。あたしが悪かったの」しかし、綿は何も答えなかっ
市役所の離婚届け提出窓口綿は、戸籍謄本と離婚届を手に、じっと待っていた。輝明が来るのを。ふと、三年前の婚姻届を提出した日を思い出す。あの日、雲城には大雨が降っていた。輝明は最初、「仕事が忙しいから遅れる」と連絡してきた。次に、「雨が強すぎるから、今日はやめて別の日にしよう」と。それでも、彼女は一人で市役所の前に立ち、雨が降ったりやんだりするのをじっと見つめていた。――彼が来ると、信じて。そして、窓口の受付時間が終わる直前になって、ようやく彼が現れた。そのときと同じように、綿は今、市役所の前で立ち尽くしていた。周りでは、幸せそうなカップルたちが楽しげに出入りしている。そんな光景を見ながら、ふと思う。本当に人を愛しているなら、どんなに大雨が降ろうと、相手に会いに行く。ましてや、結婚という人生で最も大切な日ならなおさら。彼はただ、自分を愛していなかったのだ。*退屈しのぎにくるくるとその場を回りながら、時計をちらりと見た。時間は、午前9時。だが、輝明の姿はどこにもない。綿はスマホを取り出し、メッセージを送った。『高杉さんでも遅刻することってあるの?』しかし、返事はない。綿はため息をつきながら、祖父が持たせてくれたお守りを取り出した。「三年ぶりに帰ったら、おじいちゃん、ますます迷信深くなってるじゃない……」まじまじとお守りを眺めながら、ぼそっと呟く。――これ、本当に効くの?そして、10分後。輝明は、まだ来ない。綿はイライラしながら、スマホを取り出した。今度は直接電話をかけようとした。その時――着信音が鳴る。画面に表示された名前を見て、彼女の心臓がぎゅっと縮まる。――高杉の祖母。綿の表情が引き締まる。まさか、離婚のことがバレたの!?おばあちゃん、心臓があまり強くないのに……私たちの離婚のせいで、ショックを受けたりしないよね?心の中に不安が広がる。どうする?出るべき?迷いながらも、慎重に通話ボタンを押す。「……もしもし?おばあさん?」「おーっ!綿ちゃん!」明るく弾んだ声が、電話の向こうから響いた。「今、別荘に向かってるのよ!朝早く起きて、和風の朝ごはんを作ったから、輝明と一緒に食べさせようと思って!うふふ、あと十五
綿は、美香の腕をそっと支えながら、優しく微笑んだ。「おばあさん、そんな噂、まったくのデタラメよ。変なこと聞いて、気にしないで?」彼女がこの場で、離婚を認めることは絶対にない。もし美香が強く反対すれば、離婚は確実に難航する。そうなれば、輝明は一生、本当に愛する人と結婚できなくなる。彼女への嫌悪感を抱えたまま、形だけの夫婦生活を続けることになる。――そんな人生、こっちから願い下げだ。「ねえ、見てよ。私、今日こんなに綺麗にしてるのよ?」綿は、その場でくるくると回ってみせた。肩のラインがあらわになるドレスが、彼女をより華奢に見せている。「こんな格好で離婚に行くわけないでしょ?」輝明は、その言葉に思わず息をついたが、だが同時に、疑念が浮かぶ。――おばあさんは、最近ずっと誕生日の準備で忙しかったはずだ。なのに、どうして今日に限って、突然ここに来た?それも、ちょうど離婚する日を狙ったように。まさか……綿がわざとおばあさんに知らせた?本当は、離婚したくないとか?そんな考えがよぎり、彼は無意識に眉を寄せた。「信じられない!原因もないのに、こんな噂が出るわけがないでしょう?どうせ、離婚の話をしたんでしょう!」美香の目は鋭く光る。綿は肩をすくめ、少し困ったように笑った。 「おばあさん、今の時代、デマを流すのにコストなんてかからないのよ?ただ適当にしゃべるだけで広まるんだから、そんなの気にするだけ損よ」輝明は、綿がさらっと祖母を丸め込んでいるのを見て、改めて思った。――この女、本当に手が回る。だからこそ、おばあさんにここまで気に入られているんだろう。すると、綿はちらりと輝明を見て、急に恥ずかしそうな表情を浮かべた。「おばあさん、知ってるでしょ?私、彼と結婚するために、どれだけ苦労したか。簡単に手放すわけないじゃない」彼女は、真剣な顔で言い切った。「死ぬ時も、一緒よ!」まるで、誓いの言葉のように。輝明はふっと笑った。――このセリフ、どこかで聞いたことがある。そうだ。昔、彼女が言ったことがあった。どんな状況だったかは思い出せないが、彼女は確かに、同じような言葉を口にしていた。この女、よくもまあ、そんなに自然に嘘がつけるものだ。しかも、全く動揺もなく、息をするように。彼は、あること
輝明は眉を寄せ、冷ややかな目で綿を見つめた。その瞳には、まるで波ひとつない静かな湖のように、何の感情も浮かんでいなかった。――ああ、そうか。私は、輝明の目には「そういう女」に見えているんだ。計算高く、卑怯な女。綿の胸に、怒りとも悲しみともつかない苦々しい感情が広がる。――もう、彼が自分をどう思おうと関係ないはずなのに。それでも、こんなふうに疑われ続けることが、あまりに屈辱的だった。綿は、苦笑しながら静かに言った。「そんなに私が卑怯だと思うなら、おばあさんに離婚のことを話せばいいじゃない?ほら、今すぐにでも」「……お前、それは本気で言ってるのか!」輝明は、鋭く睨みつけながら、一歩踏み出した。綿は微笑んだまま、肩をすくめた。「もちろん本気よ。彼女はあなたの祖母よ。私のじゃない。私はただ、彼女が優しくしてくれたから、気を遣っているだけ」――何を勘違いしているの?私は、ただおばあさんの身体を気にしていただけ。決して、このくだらない結婚に未練があるわけじゃない。綿は、呆れたように冷笑しながら言い放った。「私はもうあなたの妻じゃないよ?それなのに、まだおばあさんの前で『いい妻』を演じてあげてる。感謝こそすれ、疑うとか、バカじゃないの?」綿は、忌々しげに輝明を睨んだ。――好きだった頃は、どんなに酷いことをされても、彼を悪く思うことはなかった。けれど、今はもう何もかもが許せなかった。輝明の目が暗くなる。綿の変化が、彼の中に苛立ちを生み出す。彼女は昔と違いすぎる。まるで別人のように、鋭く、攻撃的で、冷淡だった。輝明は、一歩前へ出ると、綿を鋭く見据えた。「……感謝すべきだと?」綿は顔を上げ、冷ややかに睨み返した。「当然でしょ?私が少しでも自分勝手なら、とっくにおばあちゃんに全部話してる」輝明は深く息をつき、彼女の手首を強く掴んだ。低く、冷ややかな声が響く。「離婚の話は、おばあさんの誕生日が終わるまで待て。それまでの間、もしお前が祖母に離婚のことを話したら――その後のことは、覚悟しろ」綿は呆れたように笑い、腕を振り払った。「頼みごとをするのに、その態度はなんなの?」輝明は、綿の顔をじっと見つめた。その表情は、かつて見たことのないほど冷たく、無感情だった。――まるで、知らない女を
天河は、これまで綿に強い口調で何かを言ったことはなかった。だが、今日の彼は違った。「絶対に行くんだ」その態度からも、彼らがどれほど焦っているのかが伝わってくる。綿が離婚できなかったことで、家族の焦燥感は一気に高まったのだろう。綿は小さく息をつき、少し声を落として懇願するように言った。「パパ……行かなくちゃダメ?誓うよ、絶対離婚するから」天河は、何も言わなかった。その沈黙が、答えだった。「でも、まだ正式に離婚してないよ……」綿はわざと困った顔を作り、ゆっくりと続けた。「相手は、それでも気にしないの?」「気にしない」天河は、即答した。綿は、思わず苦笑する。――その相手、正気?自分がまだ高杉輝明の「妻」だって知ってるのに、それでも平気でお見合いしようって?……どう考えても、ちょっと頭おかしい。「綿、その人、お前も知ってる相手だ。彼は、お前のことを高く評価している。きっと、うまくいく。一度だけ、パパの言うことを聞いてくれないか?」その言葉を聞いた瞬間、綿の心の中で何かが引っかかった。「一度だけ、パパの言うことを聞いてくれないか?」――まるで、懇願のようだった。彼は本当に、彼女のためを思っているのだろう。綿がぐずぐずと過去を引きずることなく、早く前を向いてほしい。その思いが痛いほど伝わってくる。「パパ……」綿はゆっくりと口を開き、真剣な眼差しで言った。「気持ちは分かるよ。でも……今は、誰かと向き合う余裕がないの」輝明との関係の中で、彼女はあまりにも多くを消耗してしまった。疲れ切ってしまったのだ。もう、新しい誰かを受け入れる余裕なんて残っていない。「天河、もういいじゃないか」そばで黙っていた山が、静かに口を開いた。「綿ちゃんが嫌がっているんだから、無理強いはするな」「でも、父さん……!」天河は、何か言いかけた。だが、山の鋭い視線に、口をつぐむ。そのまま深いため息をつき、天河は黙って書斎へと引っ込んでいった。「おじいちゃん、ありがとう」綿は山に向かって、素直にお礼を言った。彼は、優しく微笑む。「人はな、ずっと底に沈んでいてはいけないんだ。どこかで、這い上がらなきゃな」「分かってる」綿は、そう答えた。その時だった。スマートフォンの通知音
翌日の夜。紫苑レストラン。綿は予定通り、お見合いの場に姿を現した。彼女は窓辺に立ち、景色を眺めながら腕を組んでいた。白いオフショルダーのショートドレスを身に纏い、その姿はとてもセクシーだった。「桜井さんですか?」背後から男性の声がした。その声には、どこか聞き覚えがあった。振り返ると、そこに立っていたのは韓井司礼だった。彼女の目には驚きの色が浮かんだ。「韓井さん?」まさか、お見合いの相手が韓井司礼だったとは。どうりで先日、父が「韓井社長を助けた」と聞いた瞬間、あれほど興奮していたわけだ。司礼は柔らかく笑みを浮かべ、気品を感じさせる立ち居振る舞いで椅子を引き、綿に座るよう促した。「驚かれましたか?」司礼は少し照れくさそうに言った。彼は綿より年上で、大人ならではの余裕と落ち着きを備えていた。けれど、間近で見る綿の美しさには、思わず息を呑んでしまった。もともと色白な綿が白のドレスを身にまとっていると、まるで光を纏っているようで――思わず目が離せなくなった。あの日のパーティーでも印象的だったが、今日は比べものにならないくらい、彼の視線を奪っていた。綿は笑みを浮かべながら言った。「びっくりしました。お父様はお元気ですか?」「ええ、おかげさまで。退院して、もうすっかり落ち着いています。本当は直接お礼に伺うつもりだったんですが、最近どうしても時間が取れなくて……申し訳ないです」司礼の口調は終始穏やかで、話しぶりもどこか悠然としていた。一つ一つの所作に品があり、気づけば綿は、自分がなんだか「庶民的」に思えてしまっていた。「いえ、そんな……お元気になられたなら、それで十分です」綿も静かに微笑んだ。「では、そろそろ注文しましょうか」司礼が声をかけた。綿は頷き、差し出されたメニューを受け取った。食事が始まってしばらくして、綿はふと思い出したように口を開いた。「韓井さん、知り合い同士ですし、はっきり言いますね。私、まだ高杉輝明と離婚は成立していません」「……伺ってますよ」司礼は何事もなかったように頷いた。「あなたのような素敵な方に、私なんて釣り合わないと思っています。今今日はあくまで友人としての食事ってことでお願いします。あんまり本気にしないでくださいね」 綿は、知っている人にこれ
輝明の不機嫌そうな顔を見た瞬間、綿の中にふとした悪戯心が芽生えた。すっと立ち上がると、司礼の隣へ歩み寄り、ためらいもなく彼の腕に手を絡める。「韓井さん」綿は顔を上げ、にっこりと微笑む。その瞳にはきらりと光が宿り、どこか挑発的な色を帯びていた。「さっき陸川さんに「お似合い」って言われたことですし、付き合ってみます?」司礼は一瞬だけ目を細めてから、チラリと輝明と嬌を見やった。輝明の顔色は明らかに険しく、眉間には深い皺が刻まれていた。何も言わずに、司礼は綿の腰にそっと腕を回し、軽く引き寄せる。落ち着いた低音が、彼女の耳にすっと入ってくる。「つまり……僕にその気があるって受け取っていいんですね?」綿は微笑んだままうなずき、彼のネクタイを指先でくるくるといじる。仕草は無邪気だけど、どこか艶っぽい。司礼は静かに笑い、綿の耳元に顔を寄せて囁いた。「光栄だよ」そしてゆっくりと視線を輝明の方へ移す。輝明は黙ったまま、司礼の手元を睨み、それから彼の顔を真っ直ぐに見据えた。目の奥にあるものは怒りというより、もっと鋭くて冷たいものだった。司礼はその視線を真正面から受け止めつつ、口元にうっすらと勝ち誇ったような笑みを浮かべる。その様子を見て、嬌が空気を変えようと、無理に明るい声を出す。「韓井さんって、意外と情熱的なんですね。綿ちゃんのこと、本当に気に入ってるのね」もともとは、輝明との関係を綿に見せつけるつもりだった。……完全に逆になってるじゃない。綿はふとした笑みを浮かべながら、何も言わずに二人に目を向ける。どこか余裕のある顔だった。司礼は眼鏡を押し上げ、落ち着いた声で言う。「好きな人の前だと、男は誰だってちょっとは格好つけたくなるものですよ。……僕は、桜井さんのことが好きです。真面目に」その言葉が輝明の胸のどこかを静かに刺激した。特に、綿が自分以外の男に向けている、あの無防備な笑顔を見たとき――あの笑顔は、かつて自分だけのものだった。離婚に同意したかと思えば、すぐに次の男と恋人ごっこをしている。――本当に吹っ切れたのか。それとも、これは「見せつけ」なのか。嬌はもう長居する必要はないと察したのか、にこっと笑って言った。「じゃあ、そろそろ行こうか。明くん、お腹すいちゃった」「……ああ
それこそが医者として骨の髄から湧き上がる責任感というものなのだろう。 渡部先生は皮肉めいた笑みを浮かべながら言った。「桜井さんと陸川家のいざこざは、誰もが耳にしています。それでも陸川家の人間のためにここまで尽くすとは、桜井さん、本当に立派な医者ですね」 綿は彼の言葉に含まれる嫌味を無視し、返事をすることもなく、全神経を手術に集中させた。 手術室の外、緊張が高まる中、手術室の中ではさらに大きなプレッシャーが渦巻いていた。 渡部先生は壁際に腰を下ろし、綿の様子を見守っていた。彼女は外で見かける時以上に冷たい表情をしており、その態度はどこか冷徹さを感じさせた。しかし、その動きには無駄がなく、言葉も明確で、初めて顔を合わせる協力者たちとさえ完璧な連携を見せていた。 そのとき、心拍数を示すモニターが水平線を描いた。 ――ピーッ…… 手術室内の誰もがため息をつき、沈黙が広がった。渡部先生はうなだれ、心の中で思った。「彼女が出てきたところで、結局は何も変わらない」 陸川夫人の生きる意志が完全に消え去っているのだから、どんなに綿が奮闘しようとも、結果は変わらないだろう。もし彼女が奇跡的に助かったなら、それこそまさに奇跡のような出来事だとすら感じていた。 だが、綿は諦めなかった。彼女は除細動器を握り続け、声を張り上げた。 「陸川弥生!しっかりして!娘のことを忘れたの?娘がいらないの?」 その言葉に反応するかのように、綿の中でひらめきが生まれた。 ――娘の「日奈」。 これが突破口になるかもしれない。 「日奈を思い出して!あなたの娘、日奈のことを考えて!」 「日奈が生きているなら、今年でもう25歳か26歳になっているはずでしょう?どれだけ長い間、会えていないのか、思い出して!」 「目を覚ませば、日奈に会えるかもしれない!陸川弥生、目を覚まして!」 最後の言葉はほとんど叫ぶような声だった。長時間の救命処置で体力が限界に近づき、彼女の額からは汗が滴り落ちていた。 「日奈を……諦めるのか?」 「日奈が帰ってくる。易が日奈を見つけたんだよ……」 綿の言葉は徐々に力を失い、声量も小さくなっていった。 手術室内の誰もが息を飲みながら彼女を見つめていた。綿の口から語られた「
「彼女は……」育恒は閉ざされた救急室の扉を見つめ、胸の鼓動が速くなるのを感じていた。彼は易の手を握りしめ、不安に駆られていた。綿が中に入った以上、彼女は陸川夫人にどのような態度で接するのだろうか。彼女は他の患者と同じように扱うのか?これが育恒が最も気になっていることだった。 「父さん、心配しないで。ここは病院。彼女がどれほど生意気でも、何か無茶をすることはないでしょう」易は比較的冷静だった。綿が中に入ると聞いたときには確かに緊張したが、藍井が彼女を擁護する様子を見た瞬間、不思議と安心感が湧いたのだった。 救急室内。 「患者の状況はどうですか?」綿は渡部先生のそばに立ち、冷静に尋ねた。 すぐに誰かが答えた。「現在は低血圧状態で、先ほど心停止がありました。大量のアルコールと薬剤を摂取した影響で、胃が腐敗しかかっています……」 綿は一方のモニターに目を向けた。画面に映る状況に眉をひそめる。 「今の状態は?」彼女はさらに問いかけた。 「心拍が非常に弱く、いつ心停止してもおかしくない状態です。患者は意識を失い、深度昏睡状態にあります。投与した薬剤は効果を発揮していません」 綿は陸川夫人の脈拍を指で確認した。極めて弱く、ほとんど感じられない。彼女の目には、陸川夫人が薬を飲んで死のうとしたというより、生きる意志を完全に失ったように映った。医者が救命を行うには、患者自身の生きようとする力が不可欠である。 「除細動器を準備して」綿は短く指示を出した。 渡部先生が口を開く。「先ほども除細動を試めしたが、無駄でした。ずっとこの弱い状態のままです」 「では、もう諦めるんですか?」綿は鋭く問いかけた。 渡部先生は言葉を失い、黙り込んだ。 綿は陸川夫人の瞼を開き、瞳孔を確認した。そこには一切の生気が感じられなかった。 彼女は鼻で笑い、「娘はまだ出所していないのに、母親が先に死ぬのか」 そして続けた。「娘が出所したら母親がいなくなり、その後娘がまた自殺するつもり?」 渡部先生は綿に顔を向け、諌めるように言った。「桜井先生、私たちは医者です。こんな状況で冷やかすようなことを言うべきではありませんよ」 「これは冷やかしではなく、この人が生きる理由を作るためですよ」綿の声は冷たく響いた。
「無理かもしれませんね……」藍井は眉をひそめながら、深くため息をついた。「薬をかなりの量飲んでいます。本気で死ぬ覚悟だったみたいです」 「胃洗浄はもう終わったんじゃないの?」 「薬を飲む前に大量のお酒も飲んでいて、胃がひどい状態なんです……」藍井は言葉を切り、顔をしかめた。 綿は眉間にしわを寄せた。これで陸川家の混乱はますます深まるだろう。 易は父親の育恒をなだめながら、視線の端で綿の姿をとらえた。その鋭い目には怒りが浮かんでいた。 彼女、何のつもりだ? 陸川家の不幸を面白がって見物しにきたのか? 綿は易の怒りに気づいたが、何も言わず、藍井に向き直った。 「藍井、中の状況をもう一度確認して。もし危険な状態なら、担当の先生に伝えて。小林院長の指示で手伝うことになっているから、私が救命に加わる申請をします」 「でも綿さん、あなたは辞めたんじゃ?」 「院長は、いつでも戻れると言ってくれたわ。それに、手術に関わって何か問題があった場合、全責任を負う契約も結んでいる。急いで、時間がないわ!」 綿の声には一切の迷いがなかった。藍井はその気迫に押され、急いで病室へと向かった。 だが、易がドアの前に立ちはだかり、藍井を制止した。「何をしようとしている? 桜井綿の言うことを鵜呑みにするつもりか?」 易の目には明らかな警戒心が宿っていた。それはまるで、綿が陸川夫人に対して何か悪事を企んでいるかのようだった。 綿は冷静に、しかしどこか冷たく微笑んだ。「陸川さん、私は根に持つタイプではないわ。そんな真似はしないで」 「綿さんは何もしていません! 通してください!」藍井は必死に易を押しのけた。 易は一歩後ろに下がり、なおも綿に向けて警戒の視線を向けた。「余計なことをしないほうがいい」 「心配しないで。私は嬌じゃないからね。嬌みたいに、高杉の祖母を狙ったりなんてしないわ。高杉が陸川家を地獄に叩き落したのも当然よ。もし私の祖母を狙われたのなら、陸川家は彼女の遺体すら見つけられなかったでしょうね」 綿の言葉は冷酷だったが、その表情には余裕があった。その一言一言が易の胸に鋭く突き刺さり、彼は一瞬、彼女の姿に圧倒されるような感覚を覚えた。 育恒はそのやり取りを見て、嗄れた声で言った。「桜井さ
易は一瞬、どうすればいいか分からなくなった。 彼は綿と肩が軽く触れ合うようにすれ違ったが、何も言わず足早に緊急室へと向かっていった。 綿の足はその場で止まった。 彼女は緊急室に向かって走る看護師や医者たちの姿を目で追いながら、胸に微かな痛みを感じた。 彼女は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。 その痛みは奇妙な感覚を伴っていた。 それは輝明と離婚した時に感じたような心をえぐられるような痛みでもなく、日常の悲しみがもたらすような小さな痛みでもない。 どこか不思議で、言葉にしにくいが、何か大切なものと繋がっているかのような感覚だった。 綿は緊急室横のオフィスに足を踏み入れると、暗くなりかけた気持ちを切り替えようと、わざと明るて笑って中にいた藍井に声をかけた。 「藍井、祖母の薬を取りに来たの」 「綿さん、奥の棚にありますよ。ご自由にどうぞ」 藍井は棚を指さして答えた。 綿は軽く頷き、棚の方へ向かった。 すると外から誰かが藍井を急かす声が聞こえてきた。 「早く来い!他の人に探させろ!」 藍井は慌てて動き出したが、焦った拍子に資料を床にばら撒いてしまった。 「何を探しているの?手伝うわ」 綿は落ち着いた声で申し出た。 「助かります!陸川夫人の古いカルテを探してるんです」 「どうしてパソコンで探さないの?」 「古い資料はデータ化されていないんです」 藍井はそう言いながら、床に散らばった資料を拾い集めていた。 綿は答えずに素早く陸川夫人のカルテを見つけ、手に取った。 渡そうとしたその瞬間、カルテに記載された内容が目に留まった。 そこには陸川夫人の血液型が自分と同じA型であることが記されていた。 さらに記録を読み進めると、1994年に男児を、1996年にも男児を、そして1997年に女児を出産したと書かれていた。 1997年生まれの女児……これは嬌のことだろうか。 綿も1997年生まれだった。 彼女はカルテを藍井に渡した。 「陸川夫人もいろいろと大変だったみたいね」綿がそう呟くと、藍井はふと話し始めた。 「桜井さん、知ってますか?陸川夫人には病院内で知られた秘密があるんです」 綿は興味をそ
「でも、易くん……お母さん夢を見たの。日奈が外でうまくやっていけていない夢を……ねえ、これは神様が私を責めているのかしら。嬌ちゃんにもっとよくしてあげなかったことを……」 陸川夫人は涙をこぼしながら、易の腕をきつく握りしめた。 易は陸川夫人を横目で睨みながら、胸に重苦しいものを感じていた。 眉をひそめながら、彼女が自分の腕を握る手を見下ろす。陸川夫人の指は血の気がなく、真っ白になっていた。その痛々しさは一目でわかった。 「お母さん、もうそんなことを考えないで」 易の声にはためらいが滲んでいた。 「嬌は永遠に日奈にはなれないし、日奈だって、嬌によくすることで外で幸せになれるわけじゃない……」 易は、母親のこの夢を打ち壊したくはなかった。 だが、これ以上はごまかせない。現実を直視する時が来たのだ。 母も自分も、そろそろ現実を見なければ。 「いや、嬌に私たちが尽くしてきたことを、天が見逃すはずがないわ!」 陸川夫人は深く息を吸い込んで、ますます顔色が悪くなっていった。 日奈が行方不明になった年、陸川夫人は一時呼吸困難に陥り、死にかけた。 その後、彼女は虚ろな状態が続き、何年も立ち直れなかった。 日奈が行方不明になって3年目には、陸川夫人の精神状態はますます悪化していた。 そんな陸川夫人を見かねた育恒は、施設から子供を引き取ることを提案し、「この子に優しくすれば、きっと日奈も見つかる」と陸川夫人に話した。 それから、あっという間に何年も過ぎた。 育恒は陸川夫人を騙し、自分自身も騙し、そして陸川家全体をも騙し続けていた。 「易くん、お願い……嬌ちゃんを何とかして助け出してちょうだい」陸川夫人は今にも崩れそうだった。 易の胸はえぐられるように痛んだ。 彼は陸川夫人を抱き上げ、ソファに座らせた。 「お母さん……困らせないで」 「易くん、嬌ちゃんはあなたの妹なのよ!」陸川夫人は涙を止められなかった。 「お母さん、陸川家はこの何年も嬌ちゃんに十分な愛情を注いできた。でも、嬌ちゃんがこれ以上やり続けるなら、陸川家全体が巻き添えを食らうことになる!俺には手の打ちようがない!」 そう言い切った瞬間、陸川夫人の目が大きく見開かれた。 まるで何か
輝明はふと顔を上げて言った。 「森下、家には帰らない。医学院近くのラーメン屋に行こう」 森下は意外そうな表情で上司を見て、軽く頷いた。「わかりました」 言葉では「手放す」と言いながらも、実際には綿を忘れることなどできないのだろう。 心から愛した人との思い出、自然と追いかけたくなるものだ。 以前は綿が二人の思い出を探し求めていた。 今では、輝明がそれをしている。 車が医学院近くに停まった時、輝明は手をアームレストに置いたまま、ドアを開けることができなかった。 「……あれは桜井さんですか?」 森下はラーメン屋の中にいる綿の姿に気づき、驚いて声を上げた。 ラーメン屋には大きな窓があり、その前の席に座れば街道を向いた席になる。 綿はその窓際に座り、スマホをいじりながら一人でラーメンを食べていた。 大きな窓越しに、彼女の美しい横顔がくっきりと見えた。 輝明の心は一気に沈み、深い闇に飲み込まれるような感覚に襲われた。 綿は、思い出を忘れていなかった…… しかし、彼は車を降りて彼女の隣に座る勇気を持てなかった。 「桜井さんがここにいるなんて、どういうことでしょうか?」 森下には、このラーメン屋にまつわる二人の思い出を知る由もなかった。 「社長、中に入りますか?」 森下が問いかけると、輝明は首を横に振った。 彼はただ車の中から静かに見つめていた。 綿がラーメンを食べる速度は速くなかった。 時折、スマホを操作する姿も見えた。 髪が何度も顔にかかり、それを後ろにまとめようとするが、ヘアゴムがなくて結べないようだった。 苛立ちがその美しい顔に表れていた。 外は真冬の12月、積もった雪はまだ溶けておらず、道路には氷と雪が混じり合っている。 店内は適度に暖かく、穏やかで居心地の良い雰囲気に包まれていた。 輝明は、思わず微笑んだ。 大学時代と同じだ。 髪を下ろしておきながら、ヘアゴムを持ち歩かないのが彼女の癖で。だから、食事のたびに苛立つのだ。 かつて、夜の10時半ごろ、彼女が彼を連れ出してラーメンを食べに行ったことがあった。 彼を労わりたいと言って、特製トッピングで肉と卵を追加したラーメンを奢ってくれた。
忘れるはずがなかった。彼女の姿が見えなくなるまで、森下の車が到着しても綿はすでにその場を離れていた。しかし、たとえ森下の車が先に到着したとしても、今の輝明はもう綿を無理に車に乗せようとはしなかった。 愛すれば愛するほど、相手を尊重するようになるものだ。彼女の視線ひとつ、話すときの口調ひとつが気になり始める。 綿は言った。 「愛するということは、罪悪感を感じることでもあるけど、それだけじゃなく、大切にすることでもあるの」 「社長」森下が彼を呼ぶ。 「うん」輝明は短く応じた。 「また桜井さんと話がこじれましたか?」森下が尋ねた。 輝明は苦笑いを浮かべた。「彼女はもう、一緒にラーメンを食べることすら嫌がるようになった」 「社長、焦らずに少しずつ進めていきましょう」森下が慰めるように言った。 輝明は首を振る。「無力感がひどいよ」 誰にもt理解できない。どう頑張っても報われないこの感覚を。 森下はため息をつきながら言った。「でも社長、桜井さんはあなたを愛するために、7年間もの間ずっと耐え続けてきたんです。一人の女性に愛される7年間なんて、人生でいくつもあるわけじゃないですよ」 もしも自分を7年間も愛し続けてくれる人がいるなら、たとえ神様が現れても、自分の人生は彼女のためだけのものになるだろう、と森下は思った。 「やはり嬌が原因ですね」森下はそう呟くと、つい悪態をつく。 輝明は目を上げ、「彼女はどうしている?」と尋ねた。 「すでに目を覚まし、また留置場に戻されました。陸川家は依然として動きを見せていません。彼女を見捨てたようにも見えます」 輝明は訝しげに眉をひそめる。見捨てた?あんなに嬌を可愛がっていた彼らが? 「陸川家が何を企んでいるのか、調べて」 「分かりました。社長、とりあえず家にお送りしますね」森下は車のドアを開け、輝明に車に乗るよう促した。 そのとき、横を通るスタッフがクリスマスツリーを担いでホールへと運んでいるのが目に入る。 輝明はそれを見て呟いた。「もうすぐクリスマスか」 「ええ、クリスマスですね。前に……」 森下は何かを言いかけたが、考え直したように笑いながら言葉を変えた。「とにかく、帰りましょう、社長」 「何を思い出
綿は眉をひそめた。「高杉さん、食事が足りなかったの?」 輝明は視線を落とし、過去の記憶を思い返していた。大学時代、彼が部活の用事で遅くなる日々が続いていた頃、綿がインスタントラーメンや手作りの麺類を持って訪れてくれた。あの頃は寒い冬だったが、二人の心は今よりもずっと温かかった。 だが、もう四年も心穏やかに一緒に食事をする機会がなかったのだ。 ふと、二人でラーメンを食べたあの日々が懐かしくなった。 けれども、彼女はその記憶をすっかり忘れてしまったのだろうか。 「味の好みが似ていたと思うんだけど」 彼は森下に電話をかけ、車を呼び出すよう指示した。 綿は微笑んだが、目は冷めていた。 「必要ない。用事があるので帰ります」 彼女がその場を立ち去ろうとした瞬間、輝明は彼女の腕をつかんだ。 その動きに、綿は彼の手に目をやり、黙って「放して」という意思を込めた視線を送った。 その視線に気づいた輝明は言った。 「越えたことはしない。ただ一杯のラーメンをご馳走したいだけだ。それを食べたら、すぐに送るよ」 彼の声は低く、静かだった。 綿はため息をつき、苛立ちを隠さずに言い返した。 「高杉さん、これが既に越えているんですよ」 輝明は一歩も引かない。 「研究所に2000億を投資したばかりだ。一緒に食事をするくらいのことも許されないのか?」 綿は皮肉たっぷりに笑った。 「高杉さんはご自分でおっしゃいましたよね。これは私のための投資ではないと。それなら、10000億を投資されても、私は食事の義務を負いませんよ」 輝明は短く息をつき、三秒間黙った。 再び立ち去ろうとする綿の腕を、彼は再びしっかりと握った。 今度はその目がわずかに悲しげで、委ねるような弱々しい光を宿していた。 彼の行動は、「他意はない。ただ食事を共にしたいだけだ」と語っているようだった。 彼がこんな風に誰かに懇願する姿を見たことがあっただろうか? 少なくとも、彼女は少年時代の彼の生意気で堂々とした姿をよく覚えている。あの頃、誰も彼の口から「お願い」を聞いたことがないと言われていた。 「今回だけ」 彼の声はかすれていて、低く、かつ切実だった。 綿は唇を噛み、わずかに動揺し
徹はその場を和らげるように笑みを浮かべた。 「たしかに。世間では高杉さんの資産についていろいろ噂がありますが、一番詳しいのは桜井さんじゃないですか?」 綿の表情は一瞬で冷たくなった。 「それはがっかりさせるでしょうね」 彼女は淡々とした声で言葉を続けた。 「私は高杉さんがどれだけの資産を持っているかなんて知りませんし、知る機会もありませんでした。結婚していた3年間、一円たりとも彼の金を使ったことはありません。それどころか、笑顔すら向けられたことがありませんでした」 この一言は、冷水を浴びせかけたようにその場の空気を一気に冷やした。 徹は慎重に輝明の顔色をうかがった。食事の場に彼も同席しているのだから、綿の発言はあまりにも無遠慮だった。だが、不思議なことに、輝明は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を聞いていた。 しばらくして、彼が口を開く。 「もう一度、桜井さんと結婚してみたらどう?」 言葉を言い切る前に、綿がすかさず声を上げる。 「何のために?一度死んでみて懲りずに、また二度目の死を試したいの?あなた、そんなに簡単に騙されるようには見えないけど?」 輝明はしばし沈黙した。 彼女の反応があまりに鋭かったので、彼は話題を切り替えることにした。 「投資の話に戻りましょう」 だが、綿は冷たい口調で言い返す。 「投資ね?それならまず2000億を出して誠意を見せてよ」 彼女は腕を組み、苛立ちを隠そうともしない。 徹は内心冷や汗をかいていた。もし二人が本格的に言い争い始めたらどうすればいいのか。輝明が我慢しきれず、研究所を潰すような行動に出たらどうなるのか。 この二人の関係はそうだと知ったのなら、輝明を助けるんじゃなかった。彼がそんな懸念を抱いている間に、輝明は口元に笑みを浮かべ、静かに言った。 「2000億では足りないでしょう。では、6000億を投資しましょうか。それで誠意は十分と言えるでしょうか?」 彼はスーツのポケットから小切手を取り出し、さらりとテーブルに置いた。 綿は言葉を失った。 徹がその場を取り繕うように笑いながら言った。「二人とも、そのへんでやめにしましょう。まずは食事を楽しみましょう」 綿は目の前の小切手を手に取って確