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第0018話

Author: 龍之介
市役所の離婚届け提出窓口

綿は、戸籍謄本と離婚届を手に、じっと待っていた。

輝明が来るのを。

ふと、三年前の婚姻届を提出した日を思い出す。あの日、雲城には大雨が降っていた。

輝明は最初、「仕事が忙しいから遅れる」と連絡してきた。

次に、「雨が強すぎるから、今日はやめて別の日にしよう」と。

それでも、彼女は一人で市役所の前に立ち、雨が降ったりやんだりするのをじっと見つめていた。

――彼が来ると、信じて。

そして、窓口の受付時間が終わる直前になって、ようやく彼が現れた。

そのときと同じように、綿は今、市役所の前で立ち尽くしていた。

周りでは、幸せそうなカップルたちが楽しげに出入りしている。

そんな光景を見ながら、ふと思う。

本当に人を愛しているなら、どんなに大雨が降ろうと、相手に会いに行く。

ましてや、結婚という人生で最も大切な日ならなおさら。

彼はただ、自分を愛していなかったのだ。

退屈しのぎにくるくるとその場を回りながら、時計をちらりと見た。

時間は、午前9時。

だが、輝明の姿はどこにもない。

綿はスマホを取り出し、メッセージを送った。

『高杉さんでも遅刻することってあるの?』

しかし、返事はない。

綿はため息をつきながら、祖父が持たせてくれたお守りを取り出した。

「三年ぶりに帰ったら、おじいちゃん、ますます迷信深くなってるじゃない……」

まじまじとお守りを眺めながら、ぼそっと呟く。

――これ、本当に効くの?

そして、10分後。

輝明は、まだ来ない。

綿はイライラしながら、スマホを取り出した。

今度は直接電話をかけようとした。その時――

着信音が鳴る。

画面に表示された名前を見て、彼女の心臓がぎゅっと縮まる。

――高杉の祖母。

綿の表情が引き締まる。

まさか、離婚のことがバレたの!?

おばあちゃん、心臓があまり強くないのに……私たちの離婚のせいで、ショックを受けたりしないよね?

心の中に不安が広がる。

どうする?出るべき?

迷いながらも、慎重に通話ボタンを押す。

「……もしもし?おばあさん?」

「おーっ!綿ちゃん!」

明るく弾んだ声が、電話の向こうから響いた。

「今、別荘に向かってるのよ!朝早く起きて、和風の朝ごはんを作ったから、輝明と一緒に食べさせようと思って!うふふ、あと十五
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    バーでバッタリ出会うなんて偶然だ。綿が再び席に戻ると、輝明の手元にはもう酒が一滴も残っていなかった。彼はかなり飲んだようだ。綿は上着を手に取って立ち去ろうとしたが、輝明は彼女の腕を掴んだ。バーの中、薄暗い照明の下で、綿は彼の隣に立っていた。立つ彼女、座る彼。一人は眉をひそめ、もう一人は苦笑いを浮かべていた。「ただのナンパしてきた人?友達ですらないって?綿……君のおかげでまた女の冷酷さを思い知らされたよ」輝明は目を上げ、綿の視線と交わった。綿は思わず笑みを漏らした。女の冷酷さ?彼女がそんなに冷酷だとでも言うのか? では、彼に問いたい。もっと冷酷なのは、輝明の方ではないのか? 「あなたが嬌と一緒にいた時、私に少しでも面子を残そうなんて思った?昔、大勢の人の前で嬌の手を握って、私なんて何でもないと言い切ったことを覚えてる?何か問題があれば嬌に聞けって言ったの、覚えてる?その時、あなたは何を考えていたの?少しでも私のことを考えた?」結婚生活の三年間で受けた屈辱は、三日三晩かけても語り尽くせない。それなのに、こんなところで彼女を冷酷だと言うなんて、何を考えているのか。彼が見たいなら、彼女のもっと冷酷な一面を見せてやろうか? 彼女は輝明の手を振り払うと、辛辣な声で言い放った。「輝明、いい元恋人ってのは死んだも同然な奴のことを言うのよ!だから、私が死んだと思えばいいし、私もあなたが死んだと思うことにするわ」それだけ言うと、綿は振り返りもせずその場を立ち去った。だが、彼女が出口に差し掛かったその時、後ろから店員の声が聞こえた。「桜井さん!」「桜井さん、高杉さんが倒れました!」綿の心が一瞬止まったように感じた。振り返ると、確かに輝明はテーブルに突っ伏していた。綿は黙り込み、拳をぎゅっと握り締めた。彼を放っておくか、それとも助けるか、その間で逡巡していた。しばらくして、彼女は扉を押し開けてそのまま外に出た。店員は綿の後ろ姿をじっと見つめていた。その歩みは決して潔いものではなかったが、それでも明らかに助けるつもりはないように見えた。「高杉さん?高杉さん!」店員が輝明の肩を軽く叩き、呼びかけた。輝明は片手で胃を押さえ、首を横に振った。意識はまだはっきりしていたが

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    「綿。俺たちはただのすれ違いだったんだ」輝明の声はかすれ、酒が喉を通るたびに火がついたような痛みを覚えた。「俺の過ちのせいで、こんなにも長い間すれ違ってしまった。もう二度とすれ違いたくない……」人生には分岐点が多すぎる。それでも、今のところ二人は同じ道を歩んでいる。だが、次の分岐点では、彼はその場に留まることになるかもしれない。綿がそこに立ち止まって彼を待つことは、もうないだろう。そして、その瞬間から、二人はどんどん離れていき、もう二度と巡り合うことはないのだ。綿は首を横に振った。彼女の表情はさえず、心の中では何を思っているのか分からない。輝明は綿の手首を掴み、席を立とうとする彼女を引き止めた。「もう二度とすれ違いたくない。俺を許してくれ。二人でいい人生を歩もう、綿。俺は必ず幸せにする」輝明の言葉には一つ一つ真剣さが込められていた。しかし、それでも綿の心には響かなかった。もしこれが結婚生活を送っていたあの三年間のどこかで、彼がこうして言ってくれていたのなら、綿は数日間も、いや何日も幸せに浸っていただろう。だが、今はもう違う。彼女の心はすでに傷だらけで、彼の真摯な言葉を受け止めることができなくなっていた。ただ耳を傾け、その言葉を受け流すしかなかった。「じゃあ、飲んで見せてよ。その誠意を見てみる」綿は微笑んだが、その笑みは明らかに表面的なものだった。輝明は彼女が流しているのを分かっていながら、それでも素直に受け入れた。飲む。彼は彼女と飲むのだ。綿がまだ彼と向き合ってくれるなら、彼のそばに座ってくれるなら、それだけで満足だった。輝明はグラスを手に取り、次々と酒を飲み干していく。その姿を見ていると、綿は何も言えなくなった。彼のような高い地位にいる男が、自分の前でこれほどまでに卑屈になる姿を見ていると、彼女の心はかき乱されるばかりだった。果たしてこれが、自分が求めていた結果なのか? 輝明をその「神の座」から引きずり下ろすことが、彼女の望みだったのか? 傷つけられるべきではない男への思いやりが、またしても湧き上がってしまう。それでも、かつてこれほどまでに彼を愛した過去は消えない。命を賭けて彼を救おうとしたほどなのだから。綿は心の中で問い続ける。どうすれば完全に決別できるのだろうか? 雲城は大き

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0812話

    「俺が言うことは、一言一句、全部本当だ。絶対に嘘なんかつかない。もし嘘をついたら、外に出て車に轢かれても構わない!」綿は目をそらし、手に持ったグラスを弄びながら無言で横を向いた。もう、彼の言葉を信じることなんてできなかった。あの頃のように、彼が適当な言葉を並べただけで「この人以外とは結婚しない」と心に決めてしまう年齢は、もう過ぎてしまったのだ。「俺もちゃんと応えてた。君が気付かなかっただけだ」輝明の「好き」は、綿のように明確で目立つものではなかった。そのため、彼女に気づかれなかったのだ。「言い訳しないで。あの時、私と結婚するって決めたのも、『どうせ誰かと結婚するなら、誰でもいい』って気持ちだったんじゃないの?輝明、結局のところ、自分でついた嘘の辻褄すら合わせられなくなってるじゃない」綿はまたグラスを取り上げ、一気に飲み干した。この店の酒はどれも度数が高い。6、7杯も飲めば喉が焼けるような感覚になる。だが、綿はその感覚が好きだった。一度酔ってしまえば、煩わしいことはすべて忘れられる気がした。「ただ、俺が後になって気づいただけだ」輝明はうつむきながら言った。自分が綿を好きだったことに気づくのが遅すぎた――それだけのことだと。男の恋愛感情が芽生えるのは、女よりも遅いと言われるが、それは本当だった。たとえ彼が綿より2歳年上でも、それは変わらなかった。カウンター席は静まり返り、DJが曲を変えたことで、周囲の雑談が一層はっきり聞こえるようになった。輝明は綿の横顔を見つめ、目の中にはいつもの鋭さや冷たさはなかった。その代わり、今の彼には無力さと罪悪感が滲んでいた。彼は今、自分の立場を忘れ、ただ綿にとって「普通の男」になろうとしていた。彼女が好きになる「輝明」として接したかった。「高杉グループの社長」でも、「雲城の財閥」でもなく、ただの男として。輝明は伏し目がちに息をつき、ゆっくり口を開いた。「綿、実は俺、昔、一度留学する話が出てたんだ」高杉グループはいつか必ず彼が引き継ぐものだった。だがその時、父である俊安は「国外でさらに経験を積んでから戻って来い」と言ってきた。しかし、彼は即座にその提案を断った。その瞬間、彼の頭に浮かんだのは綿だった。もし自分が海外に行けば、綿も一緒に来るだろう。それを分かっていたから

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0811話

    「綿。俺たち、本当にちゃんと話をしないといけない。今がそのいい機会かもしれない、どう思う?」 輝明は、満たされたグラスを綿の前に滑らせながら、真剣な目で彼女を見つめた。 綿は唇を噛み、思わず笑みを浮かべた。何を企んでいるの?彼女を酔わせるつもりなのだろうか? 「高杉さん、病弱な人と一緒にお酒を飲む気はないわよ。もしここであなたが死んだら、説明のしようがないもの」綿は微笑みを浮かべながら言った。彼女は、彼が胃を患っていることを匂わせているのだ。少し辛辣な言い方だったが、輝明には、彼女が気遣いの一環でそう言っていることが伝わっていた。 「安心して。もし死んでも、君のせいにはしない」 輝明はグラスを手に取り、一気に飲み干した。 綿は沈黙した。何も言わずに、ただ横目で彼を見た。 輝明は再びグラスに酒を注ぎ、ウェイターにさらに酒を注文するよう指示した。 綿は、彼が一人で飲み続ける様子をじっと見ていたが、最終的には我慢できず、自分も一杯飲んだ。 彼女は視線を、灯りが乱舞するダンスフロアに向けた。バーの音楽はそれほど大きくなく、会話は十分聞き取れる程度だったが、踊っている人々は皆テンションが高く、まさに羽目を外している。 男と女が互いに密着し、酔いとともに店内の雰囲気はますます曖昧で熱気を帯びていた。 熱気の中にいた綿の耳に、突然、輝明の低く繊細な声が届いた。 「綿。正直に言うけど、高校の頃から君のことが好きだった。信じられる?」 綿は手にしていたグラスを握りしめる力が無意識に強まった。 彼女は視線を輝明に向け、驚いた様子で彼を見つめた。 「でもな、綿、君は俺より年下だろ。俺が高三の時、君はまだ高一の後輩だった。だから俺には、ちょっとからかう以外何もできなかった」 高校一年生の後輩に手を出すなんて、俺はそんなクズじゃないと彼は自嘲気味に笑った。 「何してるの?今さら優しい男を演じるつもり?」綿は堪えきれずに尋ねた。 彼がなぜ突然こんな話を持ち出すのか、彼女には理解できなかった。 彼は分かっていないのだろうか。過去の話を持ち出されれば持ち出されるほど、彼女が自分のことを馬鹿に感じるということを。 彼は高校時代から自分を好きだったと言う。しかし、最終的には嬌

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0810話

    綿の記憶が確かなら、輝明と身体の関係は一度もなかった。「高杉さん、実はこの数年ずっと疑問に思っていることがあるんだけど、聞いていいのか分からないんだよね。失礼にならないかと」綿は少し眉を上げ、興味をそそられたような様子で話し始めた。 輝明は眉をひそめ、なんともいえない嫌な予感がした。まるで彼女が何を言いたいのか分かっているかのようだった。 「綿、俺は……問題ない」彼は先手を取って言い放った。 綿は彼をじっと見つめ、思わず吹き出した。 輝明の顔が少し強張った。笑うとはどういうことだ? 綿は唇を噛み、「私、そんなこと聞きたいって言いましたっけ?」 「君が?」輝明は鼻で冷笑した。彼は綿が何を聞きたいのか、とうに察していた。綿という人間は、心にあることを隠すのが苦手で、考えていることがすべて目に出てしまうのだ。 「その見下したような目つき、ほんと嫌い」綿は彼を指さした。 「俺も、人に指を差されるのは嫌いだ」輝明は冷静に返す。 綿は微笑むと、意地悪そうに彼を指差し続けた。「じゃあどうするの?私に何かできる?」 輝明は沈黙した。ただ彼女を見つめるその目はますます深みを帯びていく。綿は眉をひそめ、完全に挑発している表情だった。 しばらくして、彼は笑った。 「好きに指差せばいいさ。俺が何かするって?たとえばキスでもしたら、すぐに通報するだろ?」彼は冷笑を浮かべながら言った。 綿は薄く笑いながら答えた。「分かってるならそれでいい。だから今後はしっかり分別を持って接してね。そうじゃないと……」 綿は唇を歪ませ、指を首元に当てて切るような仕草を見せた。 輝明は軽く頷きながら、「なるほど、なかなか怖いじゃないか」 「殺したいってか?」輝明は彼女に向かって一歩近づく。 綿は平静を保ったまま彼を見つめ返す。 どうするつもり? 輝明は笑い、直接言った。「やってみろよ。俺が君のために命を捧げるかどうか、試してみたらいい」 彼の目は真剣で、彼女の手を握ると、自分の首元にその手を押し当てた。 綿は彼の眉間を見つめたまま無言を貫いた。 輝明はそれ以上何も言わなかったが、その眼差しと行動は彼女に伝えていた。彼は本気だ。この命は彼女のものであり、彼女のものとして終わるべき

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