綿は、美香の腕をそっと支えながら、優しく微笑んだ。「おばあさん、そんな噂、まったくのデタラメよ。変なこと聞いて、気にしないで?」彼女がこの場で、離婚を認めることは絶対にない。もし美香が強く反対すれば、離婚は確実に難航する。そうなれば、輝明は一生、本当に愛する人と結婚できなくなる。彼女への嫌悪感を抱えたまま、形だけの夫婦生活を続けることになる。――そんな人生、こっちから願い下げだ。「ねえ、見てよ。私、今日こんなに綺麗にしてるのよ?」綿は、その場でくるくると回ってみせた。肩のラインがあらわになるドレスが、彼女をより華奢に見せている。「こんな格好で離婚に行くわけないでしょ?」輝明は、その言葉に思わず息をついたが、だが同時に、疑念が浮かぶ。――おばあさんは、最近ずっと誕生日の準備で忙しかったはずだ。なのに、どうして今日に限って、突然ここに来た?それも、ちょうど離婚する日を狙ったように。まさか……綿がわざとおばあさんに知らせた?本当は、離婚したくないとか?そんな考えがよぎり、彼は無意識に眉を寄せた。「信じられない!原因もないのに、こんな噂が出るわけがないでしょう?どうせ、離婚の話をしたんでしょう!」美香の目は鋭く光る。綿は肩をすくめ、少し困ったように笑った。 「おばあさん、今の時代、デマを流すのにコストなんてかからないのよ?ただ適当にしゃべるだけで広まるんだから、そんなの気にするだけ損よ」輝明は、綿がさらっと祖母を丸め込んでいるのを見て、改めて思った。――この女、本当に手が回る。だからこそ、おばあさんにここまで気に入られているんだろう。すると、綿はちらりと輝明を見て、急に恥ずかしそうな表情を浮かべた。「おばあさん、知ってるでしょ?私、彼と結婚するために、どれだけ苦労したか。簡単に手放すわけないじゃない」彼女は、真剣な顔で言い切った。「死ぬ時も、一緒よ!」まるで、誓いの言葉のように。輝明はふっと笑った。――このセリフ、どこかで聞いたことがある。そうだ。昔、彼女が言ったことがあった。どんな状況だったかは思い出せないが、彼女は確かに、同じような言葉を口にしていた。この女、よくもまあ、そんなに自然に嘘がつけるものだ。しかも、全く動揺もなく、息をするように。彼は、あること
輝明は眉を寄せ、冷ややかな目で綿を見つめた。その瞳には、まるで波ひとつない静かな湖のように、何の感情も浮かんでいなかった。――ああ、そうか。私は、輝明の目には「そういう女」に見えているんだ。計算高く、卑怯な女。綿の胸に、怒りとも悲しみともつかない苦々しい感情が広がる。――もう、彼が自分をどう思おうと関係ないはずなのに。それでも、こんなふうに疑われ続けることが、あまりに屈辱的だった。綿は、苦笑しながら静かに言った。「そんなに私が卑怯だと思うなら、おばあさんに離婚のことを話せばいいじゃない?ほら、今すぐにでも」「……お前、それは本気で言ってるのか!」輝明は、鋭く睨みつけながら、一歩踏み出した。綿は微笑んだまま、肩をすくめた。「もちろん本気よ。彼女はあなたの祖母よ。私のじゃない。私はただ、彼女が優しくしてくれたから、気を遣っているだけ」――何を勘違いしているの?私は、ただおばあさんの身体を気にしていただけ。決して、このくだらない結婚に未練があるわけじゃない。綿は、呆れたように冷笑しながら言い放った。「私はもうあなたの妻じゃないよ?それなのに、まだおばあさんの前で『いい妻』を演じてあげてる。感謝こそすれ、疑うとか、バカじゃないの?」綿は、忌々しげに輝明を睨んだ。――好きだった頃は、どんなに酷いことをされても、彼を悪く思うことはなかった。けれど、今はもう何もかもが許せなかった。輝明の目が暗くなる。綿の変化が、彼の中に苛立ちを生み出す。彼女は昔と違いすぎる。まるで別人のように、鋭く、攻撃的で、冷淡だった。輝明は、一歩前へ出ると、綿を鋭く見据えた。「……感謝すべきだと?」綿は顔を上げ、冷ややかに睨み返した。「当然でしょ?私が少しでも自分勝手なら、とっくにおばあちゃんに全部話してる」輝明は深く息をつき、彼女の手首を強く掴んだ。低く、冷ややかな声が響く。「離婚の話は、おばあさんの誕生日が終わるまで待て。それまでの間、もしお前が祖母に離婚のことを話したら――その後のことは、覚悟しろ」綿は呆れたように笑い、腕を振り払った。「頼みごとをするのに、その態度はなんなの?」輝明は、綿の顔をじっと見つめた。その表情は、かつて見たことのないほど冷たく、無感情だった。――まるで、知らない女を
天河は、これまで綿に強い口調で何かを言ったことはなかった。だが、今日の彼は違った。「絶対に行くんだ」その態度からも、彼らがどれほど焦っているのかが伝わってくる。綿が離婚できなかったことで、家族の焦燥感は一気に高まったのだろう。綿は小さく息をつき、少し声を落として懇願するように言った。「パパ……行かなくちゃダメ?誓うよ、絶対離婚するから」天河は、何も言わなかった。その沈黙が、答えだった。「でも、まだ正式に離婚してないよ……」綿はわざと困った顔を作り、ゆっくりと続けた。「相手は、それでも気にしないの?」「気にしない」天河は、即答した。綿は、思わず苦笑する。――その相手、正気?自分がまだ高杉輝明の「妻」だって知ってるのに、それでも平気でお見合いしようって?……どう考えても、ちょっと頭おかしい。「綿、その人、お前も知ってる相手だ。彼は、お前のことを高く評価している。きっと、うまくいく。一度だけ、パパの言うことを聞いてくれないか?」その言葉を聞いた瞬間、綿の心の中で何かが引っかかった。「一度だけ、パパの言うことを聞いてくれないか?」――まるで、懇願のようだった。彼は本当に、彼女のためを思っているのだろう。綿がぐずぐずと過去を引きずることなく、早く前を向いてほしい。その思いが痛いほど伝わってくる。「パパ……」綿はゆっくりと口を開き、真剣な眼差しで言った。「気持ちは分かるよ。でも……今は、誰かと向き合う余裕がないの」輝明との関係の中で、彼女はあまりにも多くを消耗してしまった。疲れ切ってしまったのだ。もう、新しい誰かを受け入れる余裕なんて残っていない。「天河、もういいじゃないか」そばで黙っていた山が、静かに口を開いた。「綿ちゃんが嫌がっているんだから、無理強いはするな」「でも、父さん……!」天河は、何か言いかけた。だが、山の鋭い視線に、口をつぐむ。そのまま深いため息をつき、天河は黙って書斎へと引っ込んでいった。「おじいちゃん、ありがとう」綿は山に向かって、素直にお礼を言った。彼は、優しく微笑む。「人はな、ずっと底に沈んでいてはいけないんだ。どこかで、這い上がらなきゃな」「分かってる」綿は、そう答えた。その時だった。スマートフォンの通知音
翌日の夜。紫苑レストラン。綿は予定通り、お見合いの場に姿を現した。彼女は窓辺に立ち、景色を眺めながら腕を組んでいた。白いオフショルダーのショートドレスを身に纏い、その姿はとてもセクシーだった。「桜井さんですか?」背後から男性の声がした。その声には、どこか聞き覚えがあった。振り返ると、そこに立っていたのは韓井司礼だった。彼女の目には驚きの色が浮かんだ。「韓井さん?」まさか、お見合いの相手が韓井司礼だったとは。どうりで先日、父が「韓井社長を助けた」と聞いた瞬間、あれほど興奮していたわけだ。司礼は柔らかく笑みを浮かべ、気品を感じさせる立ち居振る舞いで椅子を引き、綿に座るよう促した。「驚かれましたか?」司礼は少し照れくさそうに言った。彼は綿より年上で、大人ならではの余裕と落ち着きを備えていた。けれど、間近で見る綿の美しさには、思わず息を呑んでしまった。もともと色白な綿が白のドレスを身にまとっていると、まるで光を纏っているようで――思わず目が離せなくなった。あの日のパーティーでも印象的だったが、今日は比べものにならないくらい、彼の視線を奪っていた。綿は笑みを浮かべながら言った。「びっくりしました。お父様はお元気ですか?」「ええ、おかげさまで。退院して、もうすっかり落ち着いています。本当は直接お礼に伺うつもりだったんですが、最近どうしても時間が取れなくて……申し訳ないです」司礼の口調は終始穏やかで、話しぶりもどこか悠然としていた。一つ一つの所作に品があり、気づけば綿は、自分がなんだか「庶民的」に思えてしまっていた。「いえ、そんな……お元気になられたなら、それで十分です」綿も静かに微笑んだ。「では、そろそろ注文しましょうか」司礼が声をかけた。綿は頷き、差し出されたメニューを受け取った。食事が始まってしばらくして、綿はふと思い出したように口を開いた。「韓井さん、知り合い同士ですし、はっきり言いますね。私、まだ高杉輝明と離婚は成立していません」「……伺ってますよ」司礼は何事もなかったように頷いた。「あなたのような素敵な方に、私なんて釣り合わないと思っています。今今日はあくまで友人としての食事ってことでお願いします。あんまり本気にしないでくださいね」 綿は、知っている人にこれ
輝明の不機嫌そうな顔を見た瞬間、綿の中にふとした悪戯心が芽生えた。すっと立ち上がると、司礼の隣へ歩み寄り、ためらいもなく彼の腕に手を絡める。「韓井さん」綿は顔を上げ、にっこりと微笑む。その瞳にはきらりと光が宿り、どこか挑発的な色を帯びていた。「さっき陸川さんに「お似合い」って言われたことですし、付き合ってみます?」司礼は一瞬だけ目を細めてから、チラリと輝明と嬌を見やった。輝明の顔色は明らかに険しく、眉間には深い皺が刻まれていた。何も言わずに、司礼は綿の腰にそっと腕を回し、軽く引き寄せる。落ち着いた低音が、彼女の耳にすっと入ってくる。「つまり……僕にその気があるって受け取っていいんですね?」綿は微笑んだままうなずき、彼のネクタイを指先でくるくるといじる。仕草は無邪気だけど、どこか艶っぽい。司礼は静かに笑い、綿の耳元に顔を寄せて囁いた。「光栄だよ」そしてゆっくりと視線を輝明の方へ移す。輝明は黙ったまま、司礼の手元を睨み、それから彼の顔を真っ直ぐに見据えた。目の奥にあるものは怒りというより、もっと鋭くて冷たいものだった。司礼はその視線を真正面から受け止めつつ、口元にうっすらと勝ち誇ったような笑みを浮かべる。その様子を見て、嬌が空気を変えようと、無理に明るい声を出す。「韓井さんって、意外と情熱的なんですね。綿ちゃんのこと、本当に気に入ってるのね」もともとは、輝明との関係を綿に見せつけるつもりだった。……完全に逆になってるじゃない。綿はふとした笑みを浮かべながら、何も言わずに二人に目を向ける。どこか余裕のある顔だった。司礼は眼鏡を押し上げ、落ち着いた声で言う。「好きな人の前だと、男は誰だってちょっとは格好つけたくなるものですよ。……僕は、桜井さんのことが好きです。真面目に」その言葉が輝明の胸のどこかを静かに刺激した。特に、綿が自分以外の男に向けている、あの無防備な笑顔を見たとき――あの笑顔は、かつて自分だけのものだった。離婚に同意したかと思えば、すぐに次の男と恋人ごっこをしている。――本当に吹っ切れたのか。それとも、これは「見せつけ」なのか。嬌はもう長居する必要はないと察したのか、にこっと笑って言った。「じゃあ、そろそろ行こうか。明くん、お腹すいちゃった」「……ああ
「韓井家の方が来るってのに、綿ちゃん、その格好で迎えるつもり?」「果物少なすぎるでしょ。もっと用意して!」「綿ちゃん、ジーンズはやめときなさい。スカートに着替えて!」盛晴ははそわそわと家の中を行ったり来たり。綿の白いTシャツとデニム姿にもすかさずツッコミが入った。「ほら、ママの言うとおりにしてきなさい」天河も軽く綿の背を押す。確かに、ちょっとラフすぎる格好だった。鏡の前で自分の姿を見つめながら、綿は小さくため息をつく。――全然悪くないと思うんだけどな。スタイルいいんだから、何着たってそれなりに見えるし。なのに、みんなしてうるさいんだから。さて着替えるか、と階段に足を向けたとき――「奥様、韓井家の方がいらっしゃいました!」玄関の声に、盛晴が慌てて綿の腕を掴む。「もういいわ、そのままで行きましょ。来ちゃったから!」「……うそでしょ」なんか今日、両親のテンションが変だ。いつも来客があってもここまでピリつかないのに。――まさか、昨日私と韓井さんがちょっといい雰囲気だったってだけで、「結婚前提のご挨拶」だとでも思ってるわけ?「ママ、あくまでお礼に来るだけだってば」「そんなの建前に決まってるでしょ!何言ってんの」「……ほんとに、それだけなんだけどなあ……」言っても聞いてくれそうにない。盛晴はすでにテンションMAXでドアを開けた。玄関先には、韓井司礼と父・韓井総一郎が姿勢よく立っていた。その後ろには執事とアシスタントらしき男性がふたり、それぞれ大きな紙袋を持っている。「やあ、韓井さん!」天河はにこやかに近づいて、総一郎とがっちり握手。綿は司礼に軽く会釈する。「こんにちは、韓井さん」その瞬間、司礼の目が少し見開かれた。「今日は…また印象が違いますね」いつも会う綿は、ドレスやスーツ姿でどこかキリッとしていた。でも今日は、白いTシャツにジーンズ。髪もラフにまとめていて、素の魅力がふわっと出ている。まるで大学生みたいな、素朴で透明感のある雰囲気。「ねえママ、司礼さんが今日の私の格好、素敵だって言ってたよ」綿が得意げに笑うと、盛晴は目を細めて彼女を見た。「……あんた、本気で真に受けてんの?社交辞令くらい見抜きなさいよ」 するとすかさず司礼がやんわりと口を挟んだ。「
「いえいえ、今回はどうしても私にご馳走させてくれ!」「だったらさ――せっかくだし、ゴルフでもどう?」天河が思いついたように提案した。「お、いいね!」と総一郎が即答する。「綿さん、ゴルフはやったことある?」総一郎が綿に顔を向けた。綿は小さく首を横に振った。器用な方だとは思うけれど、ゴルフだけはどうも性に合わない。じっくり集中して打ち込むタイプの遊びは苦手だった。――高杉輝明のこと以外は。 「ちょうどいいな。司礼はゴルフが得意なんだ、教えてもらえばいい」総一郎は嬉しそうに笑う。「もしよければ、ですけど」司礼は穏やかに微笑む。天河があんなに楽しそうにしているのを見てしまえば、綿も無下にはできず、軽く頷いた。 *目的地は、郊外にある雲城最大のゴルフ場。運転は司礼が引き受け、車内では天河と総一郎が終始楽しそうに昔話に花を咲かせていた。綿は助手席でお菓子をつまみながら、時おり司礼と軽く言葉を交わす。ゴルフ場に着くと、駐車場には高級車がずらりと並んでいた。週末の晴れ間、社交も兼ねたスポーツ日和。どこを見ても、お坊ちゃまやお嬢様ばかり。天河たちは早速ティーショットを終えて、ゆったりとプレイを始めている。綿も着替えを済ませ、白と淡いピンクのスポーツウェアにポニーテールという装いで現れた。ほとんどノーメイクだったが、全体の雰囲気にぴったりで、かえって彼女らしさが際立っていた。芝生の感触を足に感じながら歩き出した綿だったが、不意に――「明くん……」どこからか、かすかに聞こえたような気がして、立ち止まる。振り返っても、そこには誰の姿もなかった。――気のせい、だよね。気を取り直し、綿はコースの向こうで待っている司礼に手を振った。「韓井さん!」「『韓井さん』はちょっと他人行儀だな。司礼って呼んで」「……じゃあ、司礼さんで」 「よし」そう言って、彼も自然と「綿さん」と呼び方を変えた。「よく来るの? こういうとこ」「うん、仕事の付き合いでね。時々だけど。……綿さんはまったく初めて?」司礼が問いかけると、綿は素直に頷いた。「うん、全然」ロッククライミングとか、射撃とか、スカイダイビングとか――そういうのは得意だけど。 「そのほうが教えがいあるよ」司礼は笑い
グレーのセットアップに身を包んだ輝明は、どこか軽やかな雰囲気をまとっていた。けれど綿を見た瞬間、きりりとした眉がぴくりと動いた。視線はすぐに司礼へと移り、彼が綿の背後で、両手を包み込むように握っている様子を見て、表情がさらに陰る。嬌は、思わず息をのんだ。まさかこんなところで、また桜井綿と韓井司礼に出くわすなんて。今日はただ、輝明と二人きりで過ごしたかっただけなのに!一方で、司礼はふっと手を離し、二歩ほど下がって、綿の隣に並んだ。「偶然だな」口を開いたのは輝明だ。わざとらしく皮肉のにじむ声だった。綿は横目で彼を見やり、その嫌味っぽい言葉をさらりと受け流す。「本当、偶然ですね、高杉さん」そのひとことに、輝明の目がわずかに細くなった。「高杉さん」――その呼び方だけで、妙な苛立ちが胸の奥でじりじりと広がっていく。綿はふと司礼の方を向き、やわらかく微笑んだ。「司礼、続けよっか」……司礼?昨日お見合いしたばかりの相手を、もうそんなふうに呼んでるのか?輝明の眉間がさらに険しくなる。「うん」司礼はやわらかく笑った。「じゃあ、一局やろうか」 「どうせ私が勝てないってわかってるくせに」綿が口をとがらせると、彼はくすっと笑って、目元にいたずらな光をのぞかせた。「だって、勝てなきゃ君にお願いする口実がなくなるから。……もし僕が勝ったらさ――明日、映画つきあって?」小首をかしげながら、笑みを深くする。綿はじっと彼の顔を見つめた。彼が本気で言っているのか、それとも輝明の目の前だから合わせているのか、わからなかった。でもどっちでもよかった。彼はいつだって――輝明の前で、自分が惨めにならないようにしてくれる。その様子を見ていた嬌が、黙っていられず口を開いた。「そういえば、今朝、司礼さんが韓井社長と一緒に桜井家を訪ねたって聞きましたけど?」その言葉に、輝明の眉がぴくりと動く。そんな話、初耳だ。「綿ちゃんが前に社長を助けたお礼ですか?」嬌は3番ホールの前でゴルフクラブを軽く振りながら、何気ないふうに綿を見た。「……そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるかな」司礼は微笑みながら、丁寧な口調で返した。 「どういう意味です?」嬌は笑いを含んだ声で聞き返す。「僕、綿
「お姉ちゃん、私これ欲しいの」恵那は綿の腕に抱きつき、少し甘えるような声を出した。今日の綿は高貴で華やかな装いで、本物の「桜井家のお嬢様」といった雰囲気を醸し出している。一方、恵那はどこか「リトルプリンセス」のような雰囲気を持っており、二人が並ぶと違いは明らかだった。それでも共通点があるとすれば、それは二人とも目を奪われるほどの美しさを持っていることだ。特にその明るく輝く瞳は、一度見たら忘れられない。「お姉ちゃんが買ってあげる。でも、このセットじゃなくて、別のにしない?」綿は恵那に優しく言った。恵那は瞬きをしながら綿を見つめた。二人の間には、まるで突然「仲の良い姉妹」を演じるかのような空気が漂った。お互い少しぎこちなさを感じてはいたが、せっかく始めた以上、最後まで演じ切るしかなかった。「どうせ、私に勝てないからでしょ」陽菜が冷笑しながら口を挟んできた。綿は微笑み、「たかがジュエリー一つで、あなたに勝てないなんてことがある?」と言い返した。「そんなに欲しいなら、譲るわ」「冗談はやめて。最初にこのジュエリーを見つけたのは私よ。何が譲るだって?」陽菜は一歩前に出てきて強気に言った。確かに陽菜も美しいが、その美しさには棘があり、幼さが見え隠れしている。つい最近まで学生だったことが分かるような雰囲気だ。「買うか買わないか、はっきりしてちょうだい」綿は面倒くさそうに言った。「お姉ちゃん……」恵那は少し迷いの表情を浮かべた。陽菜は目を細め、計算している様子だった。会場で一番注目を集めているジュエリーは二つしかない。一つは「バタフライ」の回帰作「雪の涙」。もう一つは、ソウシジュエリーの目玉展示であるキリナの「ジェイドラブ」。「ジェイドラブ」はすでに輝明が購入済みで、「雪の涙」は手に入らないとされている。ソウシジュエリーのこのセットは、いま目立つには最適のアイテムだった。「これ、本当にいらないの?」恵那が躊躇ってる、陽菜も考えている。「このセットはダメよ」綿ははっきりとそう言った。その声には遠慮がなかった。たとえそれがキリナのデザインだとしても、彼女は全く気にしなかった。「恵那には合わない」「ふん」陽菜は鼻で笑った。「確かに、彼女には合わないわね。でも『雪の涙』なら似合うかもね。ただ、買えればの話だけど」陽菜
「バタフライの復帰作は簡単に手に入らないわ。仮に私がバタフライを紹介しても、彼女はあなたに売らないでしょうね」キリナの言葉には、暗に「諦めなさい」と言わんばかりの響きがあった。だが、輝明はその言葉に納得しなかった。「彼女が復帰作を発表したということは、買い手を探している証拠だろう。もし俺が適切な価格を提示すれば、どうして売らない理由がある?」その冷ややかな視線がキリナに向けられたとき、彼の言葉はまさに核心を突いていた。キリナの胸中にわずかな苛立ちが広がった。自分も同じデザイナーで、ここは自分の展示会場だ。それなのに彼が話しているのは、バタフライの話題ばかり。気分が良いはずがない。彼女はふと遠くの綿に目をやり、再び輝明の顔に目を戻した。彼の視線は、ずっと綿を追い続けている。キリナは苦笑した。好きになってはいけない人を好きになってしまうと、こんな感じなのかもしれない。彼女は追いかける途中か、一歩遅れて到着するかのどちらかだ。大学時代、彼女が輝明に惹かれたころ、彼はすでに綿と高校時代からの知り合いだった。彼が結婚したとき、「これで彼は一生綿のものだ」と思った。だが、彼が嬌を愛しているという噂を聞いて動揺した。そして、ようやく離婚だと聞いて、再び彼が綿を愛していると知り、またしても自分の出番はなかったのだと悟った。彼女が「追いかけている」と思っていたのは錯覚で、実際には彼の世界に自分は一度も登場したことがない。ただ一人で走り回り、遅れを取り戻そうとしているだけだった。「遅れを取った」というより、そもそも彼の人生の軌道に自分は存在しなかったのだ――彼女が感じているすべての感動や情熱は、結局、自分自身に向けられたものに過ぎない。彼の世界には彼女の存在など一度もなかった。いや、彼自身、自分がどれほど彼を好きだったのかさえ気づいていないかもしれない。今では結婚すべき年齢にもなったのに、心はまだどうにもならない男に縛られている。キリナはうつむき、自分の愚かさに思わず苦笑した。そのとき、近くで響いた女の子の声が、彼女の考えを中断させた。「これは私が先に気に入ったんだから、ルールを守ってよ!」キリナも綿もその声に反応して視線を向けた。声の主は恵那だった。恵那はジュエリーの展示ケースの前に立ち、険しい表情を浮かべていた。「
自分に贈る?もうわけがわからない。「高杉さん、私はあまり好きじゃないので、無駄なお金を使わないでくださいね」綿は穏やかに微笑みながら、きっぱりと断った。輝明は少し首を傾げ、不思議そうに聞いた。「女はみんな好きだと思ってたけど、君は違うのか?」「普通の女の子じゃありませんから」綿は笑みを浮かべたが、内心では「あなたに届かない雲の上の人だから」と言いたい気持ちをぐっと堪えた。「じゃあ、別のプレゼントを贈るっていうのはどう?」輝明が提案する。綿は困惑した。「暇?なんでそんなにプレゼントばかり私に贈ろうとするの?」以前は、昔はプレゼントひとつねだるのも、まるで天に願うくらい難しかったんだから。それが今では、この安売り感はどういうことだろう。輝明は自信たっぷりに答えた。「今度のプレゼントは、君がきっと気に入るものだよ。今日は持っていないから、夜に会おう」「忙しいの」綿はそっけなく言い放った。輝明のプレゼントなんか、好きじゃないし、会いたくもないし。「ブラックアイの最上階で待ってる。君が来なければ、俺はそこを動かない」輝明はきっぱりと言った。綿は眉をひそめた。彼は本気だった。彼が「動かない」と言えば、本当に動かないのだ。「勝手にどうぞ」綿は手を振りながら彼のそばを通り抜けた。「だから、さっきはやっぱり嫉妬してたんだろう?」輝明は彼女の後を追いながら言った。綿が来るかどうか、彼は気にしていない。どうせ、彼女が来なければ、彼は動かない。綿が彼を気にかけているなら、きっと来るだろう。もし来なければ、彼もそれを理解できる。「自意識過剰ね。ついてこないで。さもなければ警察を呼ぶわよ!」綿は振り返り、彼を指差して言った。その表情には嫌悪感がにじんでいた。だが、輝明は気にする様子もなく、笑みを浮かべたまま彼女についていく。「最近、高杉グループの状況が好転したようね?」綿は少し皮肉っぽく尋ねた。「心配しないで。高杉グループは大丈夫だよ」彼は微笑みながら言った。「約束した株式も、ちゃんと君に渡すつもりだ」綿は一瞬呆れたような顔をして、何も言わずに彼を振り切ろうとした。幸運にも、洗面所を出たところでキリナが輝明を呼び止めた。綿はこれほどキリナに感謝したことはなかった。この瞬間、彼女は本気で感謝していた。
綿は洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめながら、深いため息をついた。先ほど輝明がキリナに投資すると言ったことを思い出し、どこか滑稽に思えてきた。彼がバタフライに投資しない理由は、「バタフライにはたくさんの投資家がついているから、自分は必要ない」というものだった。典型的な「自己満足で投資しない理由」だ。彼女には何も欠けていないから、彼が出る幕ではない――そんな発想なのだろうか。でも彼は分かっていない。彼女が一番欲しいのが、もしかして彼の投資だったら?綿は目を伏せ、ぼんやりと思考にふけっていた。そのとき、入口に人影が現れた。鏡越しにその人物を確認すると、綿は小さく舌打ちした。「高杉さん、ここは女性用のトイレですよ」「だから?」彼は壁にもたれ、腕を組みながら答えた。その態度はまるで「問題があるなら言ってみろ」とでも言いたげだった。周囲に他の人がいないことを確信しているからこその行動だった。不用意にここへ来たわけではない。綿は彼に返事をせず、口紅を手に取り唇に軽く塗った。その何気ない仕草に、輝明は目を奪われた。彼女の微かに開いた唇を見つめ、思わず自分の唇を舐めた。「綿」彼は低い声で彼女の名前を呼んだ。綿は鏡越しに彼を見つめる。「嫉妬してるのか?」彼の声には、どこか真剣さが感じられた。綿は一瞬呆然とし、それから笑い出した。「高杉さん、飲んでますか?」どれだけ飲んだのだろう。おつまみはきゅうりとピーナッツ? それとも何か他のもの? まだ酔いつぶれていないのに、こんな夢物語のような話を始めるなんて。彼が今言っていること、尋ねていること、それ自体がまるで冗談のようだ。嫉妬してるかどうかなんて、どこをどう見てそう思ったんだ?どっちの頭がおかしくなったのか?「もし酔っているなら、森下さんに連絡して迎えに来てもらったらどうですか?」綿は少し優しい声で言った。「どこが酔ってるって?俺は至って冷静だし、むしろ君の気持ちを正確に判断できるくらいだ」彼の声は静かで、疲れが見え隠れしているが、それでも堂々としていた。その整った顔立ちは、どんなに疲れていても鋭い輝きを失わない。「じゃあ言ってみてください。私の気持ちはどんな感じです?」綿は笑いをこらえながら尋ねた。輝明は眉を上げ、淡々と言い放った。「嫉妬してる」「
綿の表情が一瞬で冷たくなった。彼がこちらを見ているのは分かったが、なぜ見るのか理解できなかった。バタフライのジュエリーが発表されることと、自分に何の関係があるというのだろう。キリナはすぐに輝明に目を向け、「高杉さんもバタフライにご興味がおありですよね?」と尋ねた。「ええ」輝明は短く答えた。「でしたら、私のあのジェイドを買わずに、バタフライの新作ジュエリーをそのまま購入すればよかったのでは?」キリナは少し意外そうに言った。綿はその言葉に反応した。なるほど、キリナのジェイドジュエリーを買ったのは輝明だったのか。それでキリナがあっさりと売却を決めたのも納得がいく。展示会が終わるのを待つ必要すらなかったわけだ。輝明は淡々とした声で答えた。「それぞれのジュエリーには異なる意味があり、贈る相手も違う。だから、どちらも必要だったんです」確かにその通りだ。ジェイドは端正で優雅なデザインで、年配の人への贈り物に最適。一方で、バタフライのジュエリーは若者向けで、トレンドを意識した高級品だ。そのとき、キリナが綿に目を向け、「桜井さんはバタフライをご存じですか?」と尋ねた。「バタフライが男性か女性かも知らないんですが」綿は曖昧に返事をした。「女性ですよ。若くてとても才能のある方です」キリナは笑顔で答えた。「友人が一度彼女に会ったことがあるんですが、彼女のことを絶賛していました」「黒崎さんも、バタフライがとても優秀だと思っているんですね?」綿はすぐに問いかけた。キリナは頷きながら、「もちろんです。バタフライが優秀でないはずがありません」綿は微笑みながら心の中で思った。いいわね、キリナも自分を褒めてくれるなんて。それだけで十分満足だ。だが、一瞬考え込み、再び口を開いた。「ところで、黒崎さんはバタフライの作品がとてもお好きなんですね?」「ええ、大好きです。バタフライの作品を嫌いになる人なんていませんよ」キリナは即座に答えた。「じゃあ、もしバタフライが本格的にジュエリーデザインに復帰したら、ソウシジュエリーはどうなるんでしょう?」綿は首を傾げながら言った。その質問に、隣にいた輝明が綿を見つめた。その目には、以前には見られなかった強さと挑戦的な光があった。綿の変化に気づいていた。離婚してからの彼女は、以前とはまるで別人の
綿が振り向くと、そこには輝明とキリナが並んで立っていた。キリナは今日、とても美しく着飾っていた。女性らしさにあふれたその姿に、綿は初めて「キリナと輝明はお似合いだ」と思った。以前はキリナがあまりにも「女らしすぎて」、輝明には釣り合わないと感じていたのだ。一方、輝明は黒のスーツを纏い、堂々とした姿を見せていた。一目でオーダーメイドと分かる仕立ての良いスーツは、彼の洗練された体型を引き立て、気品と優雅さを際立たせていた。綿は二人に微笑みかけ、軽く会釈して挨拶をした。「黒崎さん、高杉さん」キリナも微笑み返し、「お二人はご存知の仲ですから、高杉さんをお連れしてご挨拶をと思いまして」と言った。その瞬間、綿の笑顔は少し引きつった。自分と輝明がただの知り合いどころではないことは、キリナがよく分かっているだろう。わざわざ輝明を連れてきた意図は何だろうか。表面上は何も言わずとも、心の中では「分かる人には分かる話よね」とため息をついていた。一方、輝明の綿を見る目は、どこか熱っぽさを帯びていた。その視線はキリナを嫉妬させるには十分すぎた。どんなときでも、どこにいても、綿がいる場所では彼の目は彼女を追う。他の誰も彼の視界に入らないのだ。大学時代もそうだった……大学時代、みんなは「輝明は綿を愛していない」と噂していた。だが、キリナはそうは思わなかった。人を好きになると、口では隠せても、目には隠せないからだ。彼が綿と結婚したとき、キリナはますます確信した。「やっぱり彼は綿を愛しているのだ」と。しかし、あるとき誰かが「輝明が本当に愛しているのは嬌だ」と言ったとき、彼女は衝撃を受けた。自分の判断が間違っていたのか?でも、彼が綿を見るその目には、確かに愛があったのに……輝明の視線があまりにも熱かったせいか、綿は気まずさを感じ、少し居心地が悪くなった。彼が何も言わないので、仕方なく綿が先に口を開いた。「高杉さん、最近お疲れのようですね。お身体には気を付けてくださいね」綿は柔らかく微笑みながら言った。「桜井さん、ご心配いただきありがとうございます。気を付けます」彼は礼儀正しく答えた。綿は再び笑顔を浮かべ、キリナに目を向けた。「黒崎さん、高杉さんとどうぞごゆっくり。私はこのまま展示を見て回りますね」キリナはすぐに頷き、「それがいいですね」と答えた
綿は近づくまでもなく、このジェイドジュエリーの工芸の良さを一目で見抜いていた。熟練の職人が時間をかけて丁寧に磨き上げたことが、明らかだった。このジュエリーは今回の展示会の目玉であり、主要なプロモーションにも使われるだろう。「こんにちは」綿は近くにいた案内スタッフに声をかけた。スタッフはすぐに彼女の方へ来て、一礼して挨拶をした。「こんにちは、桜井さん。このジェイドジュエリーはすでに予約済みです」「誰が購入したんですか?」綿が尋ねる。「それはお答えできませんが、大手財閥の奥様だとだけ」スタッフは丁寧に答えた。その答えで、綿は察した。このジュエリーはとても気に入ったが、自分の年齢には少し不相応だと感じていた。これは母親の年齢層にこそ似合う品だろう。彼女がどうしても見てみたかった理由は、それが本当に素晴らしいものなら買って母への贈り物にしようと思っていたからだ。もうすぐ新年だが、この一年、母にプレゼントを贈れていなかった。しかし、すでに購入済みだと聞き、綿は少し残念に思った。「桜井さん、このジュエリーが気に入られたのですか?」スタッフが尋ねる。綿は笑顔で答えた。「ええ、気に入りました。でも購入済みなら仕方ないですね。他のものを見てみます」「桜井さん、それならこちらのジュエリーもお勧めです」スタッフは別の展示ケースを指さした。綿は頷き、スタッフについていった。そのとき、会場の入口がざわつき始めた。「高杉社長、お忙しい中お越しいただけるなんて、本当に驚きです」人々の視線が入り口に集まる。そこにはキリナと共に入場してくる輝明の姿があった。輝明は黒いスーツに身を包み、端正な顔立ちと抜群の存在感で、入場するだけで場の雰囲気を変えていた。背筋がピンと伸び、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせているが、その眼差しには疲労の色が隠せなかった。彼が疲れていることは一目瞭然で、それが最初の印象として人々に伝わっていた。「以前お約束しましたからね。どんなに忙しくても顔を出しますよ。逆に、最近の俺のごたごたに気を遣わないでいただければ」輝明はキリナに微笑みながら言った。その声には少ししゃがれた響きがあった。キリナは慌てて首を振った。「高杉社長、私は何もお手伝いできなくて、本当に申し訳ないです」「何を言っているんですか。この問題
南方信は恵那が綿のそばからやってくるのを見て、尋ねた。「あの人、君のお姉さんだよね?」「そうよ」恵那は頷き、さっきまでの苛立ちはどこへやら、声が柔らかくなった。「普段マスコミが撮る写真よりずっと綺麗じゃない?あの人たち、美女の本当の美しさを引き出すのが下手なのよ」「確かに」南方信は笑いながら同意した。恵那はため息をつき、「家族の中では、姉がいつも一番美しいの」と言いながら、再び綿に目を向けた。その視線には羨望が滲んでいた。実際、恵那がこれまで綿に対して辛辣な態度を取り続けてきた理由は、ほとんどが嫉妬心からだった。だが、他人が目の前で綿をいじめるのは、決して許せなかった。綿は何といっても自分の姉だからだ。実を言うと、桜井家に来たばかりの頃、恵那はずっと不安だった。桜井家の人たちが自分を受け入れないのではないか、冷たい目で見られるのではないか、と。だが、そんなことは一度もなかった。特に綿は、最初に親切に接してくれた人だった。「私は恩知らずじゃないからね。その恩はちゃんと覚えてる」恵那は心の中で呟いた。彼女の生意気で強気な態度は、全て自己防衛のための手段だったに過ぎない。「でも、君も結構可愛いよ」南方信が笑いながら言った。恵那はすぐに彼を見つめた。その言葉が本心なのか、それともただのお世辞なのかは分からない。それでも、その一言が心にじんわりと響いた。南方信は、恵那が密かに憧れている男性であり、目標にしている人物でもあった。そんな素晴らしい人が、自分を褒めてくれるなんて――彼女の心の中で小さな花火が上がった。「ありがとう、南方さん」恵那は口元を上げ、甘い笑顔を浮かべた。南方信はその笑顔に少し驚き、もう一度恵那をじっと見つめた。業界内では、恵那に近づかない方がいいと言われている。彼女は毒舌でトラブルを招きやすい厄介者だというのだ。南方信のマネージャーもよく注意していた。しかし、同じ事務所に所属している以上、完全に避けるわけにもいかない。ただ、しばらく接してみて、南方信は彼女について少し違った印象を抱いていた。確かに性格はきついが、仕事に対しては真摯で、独自の美学を持っている。彼女が怒りっぽいのは、問題がある状況に対する正当な苛立ちが原因であり、理不尽なわがままとは違うのだ。例えば、普段雑誌のカバー
「もう十分!」綿は慌てて恵那の腕を引いてその場を離れた。恵那が自分のために声を上げてくれただけで十分だった。ここはキリナの展示会場だ。これ以上騒ぎを起こすのはまずい。陽菜も本気で喧嘩になると相当手強い相手だ。だが、引き離されてもなお、陽菜は食い下がった。「あんたたちどういうつもり?分かったわ、彼女、あんたの妹ね?姉妹で私をからかってるんでしょ!」「覚えておきなさい!」陽菜は恵那に言い返せず、綿を指差して怒りを向ける。その目には明らかな敵意が宿っていた。恵那はこれにカチンときた。自分に言うならまだしも、どうして綿を攻撃するのか?「はあ?何なのこのムカつく女!」と言いながら袖をまくる仕草をしてみせた。実際には袖なんてないドレス姿だが、その動きだけで陽菜をビクッと後退させた。「ちょっと、本気で叩き込まないと、あんた、世の中の怖さが分からないんじゃないの?どんだけ生意気なのよ!」周囲には人だかりができていた。ジュエリーの展示より、今目の前の騒動の方がずっと面白いらしい。「恵那、落ち着いて!あなたは女優なのよ!忘れないで、あなたは女優なの!」綿は急いで恵那をなだめた。女優が人前で喧嘩するなんて絶対にダメだ。ましてや恵那は公の場にいるのだ。「そうよ、私は女優。だからその辺の人間も相手にするわけにはいかないわね」恵那はふんと鼻を鳴らして衣装を整えた。その一言に陽菜は目を丸くし、驚きから怒りへと変わっていった。その辺の人間?ちょっと、彼女のこと言ってるの?恵那はそれを鼻で笑っただけだった。「ふん、また会うことになるわよ。そのときが楽しみね」「上等よ!いつでも待ってる!」陽菜はそう言い返したが、その後すぐに徹がやってきて陽菜を連れ去った。陽菜が去ると、周囲のざわめきも徐々に収まった。「綿、普段からこんな感じなの?いつも人にいじめられてるの?」恵那は溜息をつきながら尋ねた。綿は目を丸くし、「私がいじめられてる?」と聞き返した。自分がいじめられるような状況にあったかどうか、いまいちピンとこない。最近はむしろ、周囲に対して堂々と振る舞っていることが多かった気がする。「こんな見た目も地位もない、誰かのヒモみたいな女にすらいじめられるなんて、どんだけ弱いのよ」恵那は綿をじろじろ見てから、呆れたように眉をひそめた。「さすが嬌に男を奪